学食。
食べる前に学ぶことがある、学食。 生徒会長の松倉です。
今回は実習ということで、僕一人でやっていきます。
そうですね、やっぱり今日先生いないので、実習とか自学、調べてきたことを話す、みたいな回にしようかなと思っています。
今回何をまず勉強していきたいのかというと、この方ですね。
宮沢賢治さんのですね、農業芸術概論綱要という論文なのか詩なのか、その中間みたいな文章がありまして、それが非常に良かったんですよね。
僕はかなり感銘を受けた論文、評論ですね。
それを皆さんと学んできたのでシェアしたいなと思うんですけど。
なんで宮沢賢治なのかっていうと、ほぼ農民なんですよ、この人。
ほぼ農民で、僕も初めて知ったんですけど。
そもそも宮沢賢治をこんなにちゃんと読んだのは初めてで、お恥ずかしながら。
かなり初めてで、でも読めば読むだけ深みにハマっていく彼の文章、すごいですね。びっくりしました。
そんで、宮沢賢治さんのこの論文は農民芸術概論っていう綱要っていうものなんですけど、農民芸術について語られてるんですよね。
農民芸術ってなんだよみたいな話はあるじゃないですか。
農民芸術ってのは何かっていうことを、つらつらと語っていこうかなみたいな回ですね、今回は。
で、宮沢賢治さんは意外とほぼ農民って言ったのは、高校を花巻農学校を卒業してるんですよ、まさかの。
で、結構農民出身で花巻東農業高校に行ってるのかなと思ったら全然違くて、裕福な家庭にいたのに花巻農学校に行ってるんですよ。
で、最終的にですよ、2年間農民やるんですよ、この人。
びっくり、僕も読んでてびっくりしたんですけど、2年も農民やったのみたいな。
なんでそんな農民やったのかみたいなことも含めて話していければ面白いなと思います。
やっぱり宮沢賢治さんといえば銀河鉄道の夜とかね、セロヒキのゴージュとか、グスコブドリの電気とかね、やっぱ童話有名ですけど、この論文もなかなか奥が深いし、ファンキーだし、グルービーですね。
というのもやっぱり宮沢賢治さんがかなり仏教、主に法華経ですね。
法華経、隣の山田くんみたいな。だから宮沢賢治ってほぼ山田くんみたいなものなんですけど、法華経かなりハマってて。
めちゃくちゃ信仰にガッて法華経にハマって、友達に嫌われるぐらい法華経にハマってたらしくて。
家族とかね、そういうバックボーンもあるんで、書いてる文章がかなりぶっ飛んでるんですよ、宇宙まで。
やっぱり銀河とか宇宙とか出てくるのがめちゃくちゃいいところですね。
という感じでですね、宮沢賢治さんの人生も含めて、僕の実態というかも含めて、解説していければいいかなと思うんですけど。
じゃあ実際ですね、どういう論文なのか、読みながら進めていきたいと思います。かなり時間がかかるので、皆さん覚悟してください。
農民芸術概論、紅葉。ちょっと読み上げていきますね。
まず序論ですね。
我らは一緒にこれから何を論ずるか。
俺たちは皆農民である。ずいぶん忙しく仕事もつらい。
もっと明るく生き生きと生活する道を見つけたい。
我らの古い私父たちの中には、そういう人も往々あった。
近代科学の実証と、旧道者たちの実験と、我らの直感の一致において論じたい。
世界全体幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない。
自我の意識は、個人から集団、社会、宇宙へと次第に進化する。
この方向は古い聖者の踏み、また教えた道ではないか。
新たな時代は、世界が一つの意識になり、生物となる方向にある。
正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識して、これに応じて行くことである。
我らは世界の誠の幸福を尋ねよう。旧道すでに道である。
最初からぶっ飛ばしますよね。
宇宙出てきましたね、やっぱり。宮沢賢治といえば。
かなりね、今風に言うとスピッテル、そしてロマンチックであるみたいな印象を受けると思うんですけど、
ちょっと一つずつ解説していきたいなと思います。
俺たちは一緒にこれから何を論ずるか。今一緒なんで、俺らと一緒なんですよ。
これは農民に向けて言ってるんで、我々に向けて言ってる文でもあるので、
だから宮沢賢治と俺らの一緒にやっていこうぜ、みたいなことなんですよね。
俺たちはみんな農民である。ずいぶん忙しく仕事もつらい。そりゃそうですよ。
そりゃそうなんだ。
当時、宮沢賢治は出身が伊波東部なんですよね。
伊波東部でいました、みたいな。東北の岩手県なんですけど、
この時代っていうのは1920年代かな?
宮沢賢治が生まれたのが1910年代に生まれて20年代とか過ごしてるんですけど、
その時代やっぱり農民たちが非常に貧しかった。
結構寒さ、冷害が結構強くて、お米があんま取れないみたいなことがあったみたいですね。冷害。
あとは資本主義とか西洋の文化が入ってきて、やっぱり貧富の差がすごくついたらしいんですよ。
農民がすっげえ貧しかったと。そういう時代ですね。
だからずいぶん忙しく仕事もつらいんですよ。
今も若干その節はあるけどね、みたいな。
もっと明るく生き生きと生活する道を見つけたい。そりゃそうだ。
希望をね、希望を見つけたいですよね。
我らの古い私婦たちの中にはそういう人も多々あったと書いてありますけど、
私婦っていうのが、信仰とか思想を教えるような人。
だから忙しく仕事もつらいんだけど、明るく生き生きと生活をしていた。
そういう人たちですよね。地域の指導者とか宗教者だと思うんですよ。
だから農民であるんだけど、自分の思想を持って信仰とか芸術とかをやりながら、生き生き暮らしていた。
そういう人たちのことを指してるんじゃないかな、私婦たち。
そういう人もいたよね、みたいな。
近代科学の実証と旧道者たちの実験と我らの直感の一致において論じたい。
これですよ。
近代科学の実証ですよね。
宮沢賢治さん、実は科学めちゃくちゃ好きなんですよ。
この農業高校に入って、超いい指導者と出会って、当時、物理学とか熱力学みたいなものが流行ってきた。
で、なんていう本だっけな。
科学論、科学本論みたいな本をすごい大事にいつも持ってたそうですね。
その本、科学の本、物理学、最新の教科書だったらしいんですけど。
原子分子論、熱力学みたいなものの本と、あと、法華経ですね。
本をめちゃくちゃ大事に持ってたらしいです。
科学と宗教の2枚使い。
近代科学の実証、理論的に検証したような科学ですよね。
と、旧道者たちの実験。
旧道者っていうのは、やっぱり宗教的、精神的な実験をしてきた人。
つまり、仏教とか釈迦とかそっち系ですね。
仏教ヒーローたち。
釈迦とか、あとは隆寿菩薩さんとか、すごいじゃん、空とか。
そういう旧道者たちの実験、探求してきたことと、
科学と宗教と、あと、我らの直感の位置において論じたいって言ってるんで。
この直感ですね。
農民の感覚的なものとか直感とかあるじゃないですか。
長年の感とか経験。
農業してると、僕も少なからずあるんですけど、天気とか結構読めてきたりするじゃないですか。
あそこに雲があるからこの天気になるなみたいな。
農家の直感とかそういうインスピレーションを、この一致で、三つで論じたいと言ってるんですよね。
だから一つじゃないんですよ。合理的な考え方とか。
めちゃくちゃスピッタ方向じゃなくて、科学、宗教、そして直感で論じていきたい。
だからかなりクレバーな感じですよね。
頭の中が。
結構熱はあるんだけど、結構冷静な感じがするっていうか。
で、次の文が、宮沢賢治ムック本。
急いで読んだんですけど、この表紙になってる。
世界全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。
これはまさに法華経というか大乗仏教的な。
大乗仏教って感じですよね。
みんなで幸せになろうよって言って。
僕パトレーバーっていう漫画好きなんですけど、アニメとか映画とかメディアミックスの作品ですけど、
あれで後藤さんっていうすごい魅力的な上司が出てくるんですけど、
その後藤さんの名言で、みんなで幸せになろうよっていう名言があるんですけど、それですよね。
世界全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないということですね。
自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化する。
この方向は古い聖者の踏み得た、教えた道ではないか。
大乗仏教のヒーローたちが言ってたことじゃないかって僕は捉えたんですけど。
だから大乗仏教的に言うと、みんなを幸せにするってことなんですけど、
自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化する。
この集団、コミュニティ、村とか社会、県とか日本とかから地球すっ飛ばして宇宙行くんで、
どっちかっていうと仏教的な縁起みたいな概念。
世界はネットワークで繋がってるよみたいな概念へと進化するのではないか。
つまり、最近流行ってる仏教の本で、自分なんてないからみたいな本がありますけど、
自分が次第に亡くなっていって、自我が亡くなっていって、宇宙と溶け合っていく。
縁起っていうのは、この社会はネットワークだよみたいなことだと思うんですけど、
農家の種を詳しく聞いてください。縁起の概念あるんで。
そういう中に自分が入っていくみたいな感覚なんじゃないかなと思うんですよね。
宇宙みたいなものを説明するときに、陰謀論的にはアカシックレコードみたいなことだと思うんですよね。
僕、ファンクっていう音楽が好きなんですけど、ファンクみたいなことを説明するときに、
ワンネスっていう概念があったり、仏教的に縁起って概念があったり、
そういう集合体無意識みたいなもんだと思うんですね。集合無意識。
僕、こういう集合無意識みたいなのを語るときに、ちょっとずれるかもしれないんですけど、
コペル君の話。君たちはどう生きるかって本のコペル君の話がすごく好きで、
君たちはどう生きるかってコペル君がお金持ちからいろいろ教えてもらう生き方みたいなもの。
そういう本だったと思うんですけど、そのコペル君の粉ミルクの話がすごい好きなんですよ。
それはコペル君が屋上から人々を見てて、あれ?みたいな。あれ?僕気づいちゃった?みたいな。悟っちゃった?みたいな。
コペル君は確か粉ミルクの缶を見てるんですよね。自分が飲んでた子供の時に。
これオーストラリア産だって言って。この粉ミルクが自分のところまで届く中で、様々な人が関わってるなって気づくんですよ、コペル君が。
まずオーストラリアで牛を育ててる人。缶を作ってる人。お父を粉ミルクに加工する人。
それを日本まで運んでくれる人。日本で販売する人みたいな。
繋がっていくんですよね、粉ミルクが。網の目のように繋がっていくんですけど。
これコペル君たちをどう生きるかで網目の法則って言ってるんですけど、これはつまり縁起みたいなことですよね、仏教の。
だからそういう世界との繋がり。
自我の意識は個人から集団社会、宇宙へとどんどんネットワークが広がっていって。
この世界はもう全部繋がってるみたいな、宇宙みたいなことなんじゃないかなと思いますね。
僕もこれすごい好きで、結構中学とか授業行くときにこういう話をよくしますね。
でも僕実際それを感覚的にはまだ理解してないかなと自分の中では結構思いますね。
頭では理解してるけど感覚的には理解できない。なかなか難しいですよね。
だからこの網目の法則でそこに全て人が関わってて、その人も先祖がいて、先祖をたどっていくとビッグバンみたいな。
宇宙。こういうの僕大好きです。
この方向は古い聖者の踏み得た、教えた道ではないか。
こういうのを仏教で唱えて、自分を無くしてきなさいとか、苦しみから解放されなさいとか、あとは人に尽くしなさいとか。
その有意識とかだったらアーラー屋敷とかね。そういうふうな言い方をしますね、宇宙。
新たな時代は世界が一つの意識になり、生物となる方向になる。
これはもう宇宙に溶け込めって言ってますから。
僕はなんかこれをこの文読んで、エヴァの人類保管計画をちょっとね、やっぱり想像してしまいましたけど。
世界が一つの意識になり生物となる。
でも人類保管計画ってなんかちょっと冷たい感じするじゃないですか。
自分の意識なくなっちゃうのかなっていう方向なんで、どっちかっていうと睡眠っぽいなって思ったですね、この文は。
一人一人がこうある程度意識を持ちながら全体として、全体の中で自分の役割っていうのをちゃんと全うしながら、正しい方向に行くみたいなことだと思うんですよね。
その次の文で、正しく強く生きることは銀河系を自らの中に意識して、これに応じて行くことにある。
銀河系を、宇宙ですよ、自らの中に意識。
なんで常に網目の法則じゃないけど、宇宙の中の一人だよってことを意識しながら、正しく強く生きる。
正しく強く生きるっていうのがすごい大事だと思うんですよね。正しく。
正しく強く。
強くはもう農民としては強いんで、正しくっていうのがその、自我。
自我を優先するとか、例えば自分だけ儲けたいとか、集団はどうでもいいから自分だけ生きたいみたいなのは正しくないんでしょうね。
でもそれは今っぽいじゃないですか、ファイヤーしたいとか、投資して自分だけ儲けていきたいみたいなことは、今は当たり前で、
僕もネオリベの犠牲者なんでね、おなじみの。
自己啓発文とか読んでると、やっぱ自分、自分、自分でやってきたんですよ、僕も。
自分が何者かになりたいみたいなことやってきたけど、
それはあんま最近は正しくないなと思ってて、やっぱりこの全体を意識したときに、
じゃあ自分の役割って何なんだっていうのを感じて、それに応じて自分の才能とかも加味しながらやっていくみたいなことがやっぱり正しい道なのかなとか最近思いまして、
これはすごい、なんかいいなって思いますね。
だから睡眠的、僕は睡眠的な感じで、みんなでこう一つ一人一人の役割を持ちながらみんなで行くんだって。
世界全体が幸福にならないうちに個人の幸福ありないって。
だいじょぶきゅー、だいじょぶきゅーって行くっていう感じですよね。
我らは世界のまことの幸福を尋ねよう、求道すでに道である。
だからそれを探求していくことが、どうやって正しく強く生きて幸福になっていこうっていうことを考え続けることが道であるっていうことですよね。
このね、幸福論ですよもうこれは、ほぼ。
これ僕もすごいやっぱり、あーって思いましたね。
だからさっきも言ったけど、僕は農家に生まれてお米をずっと作ってきたんですけど、
やっぱり農家嫌だなみたいな感じはずっとしてて、農作業がすごい嫌いだったんですよね、ぶっちゃけ。
つまんないし、同じことを繰り返してるし。
って本当に思ってたんだけど、発信とかして喋りとか、エンタメの方で何者かになりたいみたいな意識がすごくあったんですよ。
だけど、僕が農家の息子に生まれたっていうのは演技なんで、語演っていうかね、語音なんで自分の。
それをやっぱり受け入れて、正しく生きる。
受け入れて、じゃあ自分の才能と照らし合わせた時に、自分は喋るのが大好きだし、
人の前に、結構大勢の人の前に立っても普通に今のような感じで喋れるっていう得意体質があるので、
その自分の才能みたいなのを活かせる方向は、やっぱり自分の語と照らし合わせた時に農業の発信をするみたいなことなのかなと思って。
農業をやりながらね。もちろん農業やってないと発信に重みとか全くないんで、農家の人ってやっぱり自分でやってない人に対してやっぱり嫌悪感があるっていうかね。
僕もそうなんですけど、地域おこし協力体的なノリっていうのは、お前がじゃあ自分で田んぼ作ればいいじゃんみたいなことを思ったりするから、
自分でやりながら発信していくとか、農業のことを喋るとか、今JAの講師とかでコラムを書いてるんですけど、農業のコラムを書いたりとか、
あと絵とか音楽とか、そういうふうなことを農業をやりながらやっていく。農業をメインとしてやっていくみたいなことを受け入れた時にすごく楽になって、
農業自体もすごく楽しくなったっていう経験があるので、それが自分が以前仏教を勉強したときに演技って概念であって、
そういうことかと思って、自分が演技的な、睡眠的な役割を果たすんだったら、どういう全体の歯車じゃないけどギアになれるのかなって考えた時に、
こういう発信をしていくっていうのが、いいギアなんじゃないかな、自分の。
おこがましいですけど、農業界隈みたいなものの、一ついい方向にいく、自分が一部になったらいいなっていうのをすごく思ってるんですけど。
それはすごく繋がり?繋がりを意識できることだと思うんですよね。
宇宙を意識するっていうことは、網目の法則みたいなものを意識するっていうのは、これと繋がってるんだ、先祖と繋がってるんだとか。
繋がりを意識できるっていうところで、自分の中では、かなり仏教を勉強したっていうのは転換期だった気がします。ちょっとずれたんですけど。
そういうことを考えながら、自分は何をしていけばいいかとかを考え続けてやっていくことが、その求道すでに道だと。
探求し続けることが幸福なんだって。個人個人がそうやって考えることが、世界全体の幸福なんだみたいなことだと思うんですね。
だって、もっと明るく生き生き生活したいからって話ですよね。
ずいぶん忙しくて仕事もつらいって最初に言ってるから、もっと明るく生き生き生活したいんだ。
じゃあそのためには正しく強く生きるんだよって。
そういうことを言ってますね。
なかなかこれは、僕は仏教を勉強したからすんなりわかったんですけど、なかなかわからないですよね。
ちょっと、スピッテンの?みたいな感じに囚われるけど、こういう文が宮沢賢治の魅力だと思うんですね。仏教もあり、科学もありっていう。
今だったらね、仏教と科学はかなり接近してるじゃないですか。YouTubeとか見ると、量子力学なんじゃないかみたいなことも仏教に言われたりするし、そういうことを最初にわかってたんじゃないかなと思うんですよね。
次ですね、農民芸術の交流という文章になっていきます。
これが9個あるんだよ、皆さん。どんどんいきましょう。
なぜ我々の芸術が今起こらねばならないか。かつて我々の私父たちは乏しいながらかなり楽しく生きていた。そこには芸術も宗教もあった。
今、我らにはただ労働が存在があるばかりである。宗教は疲れて近代科学に痴漢され、しかも科学は冷たく暗い。
芸術は今我らを離れ、しかも侘しく堕落した。今、宗教か芸術かとは、真・善もしくは美を独占し売るものである。
我らにあがらうべき力もなく、去るものを必要とせぬ。今、我らは新たに正しき道を行き、我らの美を作らねばならぬ。
芸術をもて、あの灰色の労働を燃やせ。ここには我らの普段の潔く楽しい創造がある。
都人よ、来たって我らに交われ。世界よ、絶えなき我らを入れよ。
ということですね。なぜ今、農民の芸術が必要なのかということをですね、語っております。
熱いですね、この。もう煉獄さんかなっていう。
芸術をもて、あの灰色の労働を燃やせ!みたいな。かっけー!みたいな。
痺れましたね、ここは。
かつて我らの私父たちは、乏しいながらもかなり楽しく生きていた。
我ら、かつての農民たちの指導者とか、ある程度思想がしっかりしている農民たち。
普通の農民たちもそうですけど、乏しいながらかなり楽しく生きていた。
そこには、芸術も宗教もあった。
信仰と芸術があった、表現があった、みたいな意味だと思うんですけど。
晴れ時計じゃないですけど、民俗学でいう晴れ時計じゃないですけど、年中行事とかっていろいろあったじゃないですか。
正月あって、田遊びあってとか、田植えの時はみんなで一緒に大田植えみたいなのがあって、太鼓叩きながら植えたりだとか。
お盆あって、収穫の祭りあったりとか、祭りとかね、行事ですよね。年中行事とか祭りがあって。
普段の生活は乏しいかもしれないけど、祭りの時はみんなで盛り上がる、みたいなことが農民の生活には組み込まれていて。
それは民間信仰であったり、あとは神道とかだったり、仏教の行事だったりするわけで。
そこには信仰がしっかりあって、それを楽しみにしてた、みたいなことは民俗学で結構よく書かれていて。
柳田邦夫さんとかすごいそういうのを詳しく調べていて。
でも先祖に、先祖って言って、先祖って言ってやったりとか、神様を楽しませるために芸能をしたりとか、師姉妹とか、そういうことをやったりとか。
稀人って言って、稀人みんなって言って。
そういう日々のサイクルの中に、貧しくて辛い労働をやっている中に、ちゃんと楽しみがあって、それを毎年毎年回していくっていう。
しっかりと肩みたいなのがあって、日本の祭り。肩みたいなのがあって、それを回していくことでグルーヴ、生活がグルーヴしていったみたいなこともあると思うんだよね。
そういうものがしっかりあったよと。
だけど、そういうものが廃れていったよねって。今、我らには労働が生存があるばかりじゃないか。
確かにそうです。今もそうです。100年後、これ出たのが1926年ぐらいかな。
ケンジ30歳の時に書いてるんで、1926年に書かれたもの。今100年経ってますよね、2026年。100年経って、もうそうなんです。
我らには労働が生存があるばかりなんですよ。そりゃそうだ。
農業やってても収穫祭とかそのままのものはあんまないし、地元の祭りとかも結構うちはもうなくなってきて。
そういう子供の時の楽しみみたいなのは薄れてますよね、行事的なもの。
子供の時とか田植えとか、すごい親戚の人とかいっぱい来て楽しかった記憶がありますもん、僕も。
3日間毎日飲むみたいな。
昔はさらに地域の人たちが一緒に来て、大田植えつってね。山の上を谷下ろして、みんなでサオトメさんたちが一列になって売れるみたいな。
広島の花田植えっていうのが有名ですよね。植えて太鼓の人たちが叩いて、あれ楽しそうだぜ、なんか蘇らせたいなみたいなことはあるんですけど。
そういう楽しみがあったけど、まあ信仰もあったけど、今はもう金を稼ぐために労働するばかりだと。
めちゃくちゃ貧しくて、余裕がないんだと思います、東北の農民たちが多分この時は。
宗教は疲れて近代化学に痴漢され、しかも科学は冷たく暗い。
そうですね。科学、合理的、数字。そっちの方が信じるよね、普通に。
目に見えるものだし、しっかりと結論も出る。答えが出るものだし、合理的だし、コスパタイパーいいし。
でも、その科学は冷たく、ちょっと暗いんですよね。でも、宮沢賢治さんはものすごく科学も好きなので、ちょっと冷たさは思ってたのかな。
今だったらちょっと合理主義で、合理的ウェイみたいな、冷床気味な感じ。
冷床するやつめちゃくちゃいるよな、ほんとに。
芸術は今我らを離れ、しかも和美しく脱落した。農民たちから芸術が離れていって、和美しく脱落していったよってこと。
次の文に書いてあるんですけど、今、宗教か芸術家とは、真、善、もしくは美を独占して売るものである。
真、善、美って確か仏教用語だったと思うんだけど。真実とか善。
本来はみんなの、本来は農民も含めたたくさんの人のための芸術なんだけど、それが芸術家とかのものになってしまって、売るものとか、その人たちの地位を高めるものになってしまったよってことだったと思うんですけど。
それを我らにあがらうべき力もなく、去るものを必要とせぬ。買う力もない。芸術を買う力もないし、そんなのいらないよって言ってますね。
今でもクリエイター、デザインとかクリエイターのものみたいなイメージはあるけど、本来はみんながやっていいよ、農民ももちろんそうだよって。
昔は信仰とか芸術とか、そういうのはしっかりあったよみたいなことですよね。
今、我らは新たに正しき道を行き、我らの美を作らねばならぬ。
農民、我らって農民ですよね。農民は正しき道、さっき言った睡眠的なものから来る自分の道を行き、自分たちの美、芸術を作っていかなきゃいけないっていうことですよね。
自分たちの美って何なんだろうなみたいな。我らの美を作らねばならない。これはなみなみならぬ決意というか、けんじさんの決意なんですけど。
なぜかっていうと、さっきの文で言った忙しくて辛いからなんですよね。作らないと楽しみないじゃんみたいな。
当時、農民たち貧しすぎて娘とか売ってたらしいんですよね。東北の農民たち貧しすぎて娘売るみたいな話はあって。もちろん新潟でもそういう話はあります。
新潟は例外も、さらに例外プラス川ですよね。阿賀の川と品の川が新潟市の河口付近にあって、その河口付近のことを亀田号って言ってたんですけど、沼地だったんですよ。
新潟の亀田号って土地、新潟市は海より低い土地だったので、ひとたび洪水が起きることもなかなか水が抜けない土地だったんですよね。
それで、米が3年1作みたいな言葉があるように、3年に1回しか取れないみたいなことが結構あって、洪水もめちゃくちゃあったと。
新潟は阿賀の川という暴れ川が2つあって、日本1位と2位の川があるわけですから、それはめっちゃ洪水が起きますよね。
それでめちゃくちゃ貧しくて、結構川が氾濫してたんですって。それをなんとか岐れって言うんですけど、1回横田岐れってのがあって、新潟市全体が水没したのがあったんですよ。横田岐れっていう、確か昔ね。
それでだいぶ農民貧困になっちゃって、娘売ってたみたいな、学校の半分の子供がいなくなったみたいな話がありますね。
そういうことがあって、本当につらいんで、美を作ってなんとか生活を豊かに、貧しいながらも、美しいクリエイティブな芸術のマインドを持っていかねばならぬということですよね。
次の章で我らの美みたいなことをちゃんと話すんですけど、
芸術をもってあの灰色の労働を燃やせ。これですよ。灰色の労働を燃やせです。灰色の労働っていうのは、もちろんつらい労働、そしてただ労働が存在があるばかりであるっていう労働ですよね。
芸術をもってあの灰色の労働を燃やせ。芸術って何なのかっていうのを後で詳しく話しますね。ここには我らの普段の潔く楽しい想像がある。潔くっていう。潔くっていうのも多分睡眠的なものだと思います。
あと日々の営みそのものが楽しい想像みたいなことだとも捉えられる。この日々の営みそのものっていうのが農民にとっては多分農作業だったりするわけですよね。
僕のイメージだと、染み付いた動きとか、ずっと反復して農家の人って反復するじゃないですか、同じ動きを。その染み付いた動き、養ってきた思想とか、畑の中でぐるぐる考えてきたこととか、
あと自然を読む感覚とかね、さっき話した自然を読む感覚とか、こういう場合はこうだよっていう農家の感覚ってものすごいものがあるじゃないですか。うちの父とか見てるとすごいんですけど、そういうものの営み自体がもう想像であるみたいなことだと思うんですね。
これがもう農民芸術そのもののことですよね。
で、「都人よ、来たって我らに交われ、世界を絶えなき我らを入れよ。」ということで、東京の初期なせやと。これ新潟弁出ちゃいますけど、東京の人とか都の人来てくださいよと。
俺らと関わってくれよと。俺らの美しさをわかってくれよと。俺らの生活、自然とか、自然の中で生きることとか、農民として生きることの美しさをわかって、わかってっていうか、ちゃんと見なさいよと。
農民の、都会の人たちはと。世界を絶えなき我らを入れよと。何だろうね、絶えなき我らを受け入れてよってことですよね。
なぜ我らの芸術が起こられなければならないか。なかなか厚くてロマンチックなんですよね。なかなか難しいことを言ってます、これは。本当に労働になりがちだけど、もうちょっと芸術的に、そして自分たちがすでに芸術であるということに気づけ、みたいなことだと思います。
美の誤差へ滅するまでに、それは果てなく広がるだろう。
それは美しいとか、そういうのがなくなるまで広がる。
だからこれね、僕、実はなんですけど、ショート動画をね、最近上げてたと思うんですけど、この学食のチャンネルで。
あとSNSとかでショート動画上げてるんですけど、母の袋詰めのショート動画を上げたんですよ。
母がただ袋詰めしてるだけなんですけど、なんか昔からお米の袋詰めですね、こういうのを結んだりする作業。
30キロのお米を袋詰めする作業は母がすごい得意だと僕は思ってて、とっても美しいなって思ってたんですよ、ずっと収納した時から。
で、真似しようとしてもなかなかできなくて、母のシワのない袋詰めで言うか、綺麗な袋詰め、丁寧で綺麗な感じ。
ずっと、なんか美しいなって思ってたんで、試しに上げてみたんですね、パッと。
そしたら、めっちゃバズって。なんかツイッターとかでも100万再生みたいに行きましたみたいな。
あとスレッズとかでもバズって、インスタでもYouTubeショート37万回行ってるんで是非見てほしいんですけど。
これを母に見せたら、母に言ったんですよ、バズりましたよと。
お母さんはバズりましたってLINEで言ったら、えーなんでなんで、あんなの普通じゃんみたいな。
いつもやってることでしょ、みんなやってるでしょみたいなこと言ってて、これが農民芸術かと。これが農民芸術だって。
本人は普通に今まで通りやってきてるだけなんだけど、パッと捉え直すというか、パッと映像にして他の人にパッと出した時に、美しいみたいなすごいコメントがいっぱい来て。
これが日本人の美だとか、丁寧なお米ですね、美味しそうですねみたいなコメントがいっぱい来たんですけど、僕はなんかそれはなんとなくわかってたんですよ。
母のはちょっと美しいなみたいな。だけど母的には全く気づいてない。なぜなら当たり前のようにやってきたから。でもそれが農民芸術だということも言ってますね。
あとそうですね、自分が生きてきた中で結構思ってたのが、父の手の形とかね、見た時にすげーなみたいな。
僕の父のお父さんの手はゴツゴツしてて、すごい太いんですよ。僕なんか手より全然太くて、めちゃくちゃ働いてきたな、この人みたいな。
爪とかも結構割れてたりして、すっげー働いてるわって。彼の人生を容易に想像できるっていうか、ものすごい反復の努力っていうんですか。
ものすごい農作業を毎日毎日繰り返してきたんだなっていうものが、その手を見ただけで一発でわかるみたいなことは、まさに農民芸術であるなと思うんですけど。
そういう本人が美しいと思ってないこと、農民の当たり前本人がずっと当たり前のように、母の場合だったら丁寧に丁寧に包んできたお米の袋とかが農民芸術であるみたいな。
あと自然ですよね。自然、土地、思想。そういうのが、営みそのもの、生活そのものが芸術的であることを捉え直すみたいなことだと思うんですよね。
キロとジャロと我らは忌ましめではならぬ。キロとジャロ、さっき言った美を独占するみたいなこととか、見栄えや評価のためのものではないよと。
それはちょっと忌ましめて、気をつけてって言ってますね。農民芸術とは、宇宙環状の知・人個性と通ずる具体的な表現である。
知は土地、人は他社とか社会も含めた人ですよね。あと個性、個人の個性と通ずる宇宙環状の宇宙と繋がっているってことですよね。
これは難しいわね。すぐ宇宙って言うんだもん。これは集団的無意識みたいなものなのかな?ネットワーク的なものと繋がっている知・人個人。その具体的な表現。個人、個性とか直感とかもあると思うんですけど、具体的な表現。難しいですよね。
これ次の文で結構説明してるんですけど、それは直感と情緒等の無い経験を素材としたる。無意識あるいは優位の想像である。無意識って、無い経験ってなんすよね。何か無い経験って、自分の中の経験。
よく言うじゃないですか、アカシックレコードとか、集団的無意識とか荒屋敷とかには、地球が始まってから終わるまでの記憶が全部ありますみたいな。
その無い経験の自分バージョンは、自分の生まれてから生きてきた記憶っていうのが全部あって、全部溜まっててさ。そこから、それを素材として無意識からグンって、グンってくるみたいな。
グンってくる。グンなのかファーなのかわかんないですけど、僕は結構アイディアとかは降ってくるイメージなんですよね。アンパンマンの顔みたいなイメージです、僕はいつも。
で、アイディアがいきなりバーン!みたいな。アンパンマンの顔、バコーン!学職やろう!みたいな。学職やるかー!ってなったりするんですけど、それは今まで自分がやってきたことの経験からなるアイディア。
リック・ルーヴィンっていうね、レッチーとかのプロデューサーの本。リック・ルーヴィンの創造術だったかな。そういう本にはチューンインって書いてあったんですけど、繋がる感じ。自分の直感無意識とか集団的無意識の中と自分がパッと繋がる瞬間がある。
それはリラックスした状態とか、例えばシャワーを浴びてるときにアイディアが降りてくるとか、そういうことだと思うんですよね。そういう創造、内から湧いてくるもの、降ってくるもの、それは農民たちが今までやってきた繰り返しの中の営みの中から無意識的に出るもんだよって言ってます。
無意識って。ケンジ、無意識。
そうは常に、実生活を肯定し、これを一層進化し、多角線とする。実生活を肯定し、一層深くしたくする。生活を肯定しますよっていうことですよね。一層進化し、多角線とする。
人生と自然とを普段の芸術写真とし、作ることなき詩歌とし、巨大な演劇舞踊として鑑賞・教授する。人生と自然。人生は演劇だし、ミュージカルだし、自然は写真だし、農民として自然と生きることを巨大な演劇ですよ。
演劇なんだと。何回も言ってるんですけど、人生は芸術だと。お前の人生は芸術なんだぞと。農民たちよと言ってくれてるわけです、ケンジが。嬉しいよね。めちゃくちゃ嬉しい。ありがとう、ケンジ。
そうは人々の精神を交通せしめ、その感情を社会化し、ついに一切を空極地まで導かんとする。
空極地まで導かんとする。これまた難しいこと言ってんだよな。人々の精神を交通せしめ、関わるってことですよね。集団・共同体で共有して、空極地ってのは仏教用語でいう空境っていうのがあって、修行とか求道の果てにたどり着く極地みたいなものなんで。
悟り?悟りまで言っちゃうよみたいなことなのかな?わかんないけど。ここはちょっとわかんないですね。でも、結構言っちゃいますよと。言っちゃいますよっていうことですね。
かくして、我らの芸術は信仰文化の基礎である。これは新しい文化の基礎だと言ってますね。なんかこう、100年経ってコロナを経て、今、資本主義が、最近もう資本主義ダメなんじゃね?みたいな空気感もある中での、やっぱ農業いいよねみたいな空気感。
ローラとか東出さんとかの空気感の中の、新しい芸術の、新しい文化の基礎になるよ。この農民の生活とかが、スタイルがねっていうことかもしれないよって、100年後の僕は受け取りました。なぜなら僕もロマンチックなんで。
やっぱ熱いですよね。これもうすげー好き。でもコロナ以降って多分そういう感じかなと思うんですよね。次の文化へ行きますよと。
次の文化へ行くためにはやっぱり一時産業的な、自然と共に生きるとか、自分優位じゃなくて、全体から自分を考えるとかね。個人から考えるんじゃなくて、演技的な概念から自分を考えていくみたいなことが、
そしてその農民のそういうふうに考えながら生活することが芸術だよ。それそのものが芸術なんだよっていうことが、基礎だと。新しい文化の基礎なんだってことを言ってますね。
でもケンジはちゃんと、最初にですね、それは芸術と宗教とって言ってるんで、ちゃんと科学も入れてるっていうのが僕は好きですね。かなり冷静な感じというか、熱いんだけど冷静な感じ。
はい、前半はこんな感じにしましょうかね。かなりね、まだこれあれですよ。まだね、1、2、3、これ3章しか進んでない。いや4章まで行ったか。あと5章ありますんでね。これ後半に行きたいと思います。
この論文、論文なのか詩なのかわからないですけど、これはさっと3分ぐらいで読めるんで、概要欄に載っけておくので、聞きながら読んでも全然いいと思います。
で、宮沢賢治の法華経、宮沢賢治の信仰の本質となる法華経みたいなのをちょっとYouTubeとかで調べるとだいたいわかるんじゃないかな。大乗仏教とは何か、法華経とは何かっていうのを調べるとわかります。
世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえないんだっていうこと。本当に農民が貧しくて助けたかったってことですよね、賢治は。
で、その助け方も実際に行動してたみたいなことがあります。それも次回話していきますね。
もうちょっと賢治さん、宮沢賢治さんの生き方、人生を深掘りしながら次回は後半戦やっていきたいと思います。
こんな感じですね。ちょっと僕、話がごちゃごちゃしちゃって申し訳ないんですけど。
お知らせ。ここからもう聞かなくていいんだって言ったら聞かないでください。お知らせあります。お米ですね。僕が作っているお米、学食米として販売することになりました。ベースで販売しています。ネット販売ですね。
これが5キロ、4千円くらいだったかな。30キロもあります。
で、このお米は一応有機栽培でやっていて、化学肥料は不使用ですね。でも蛇酢は摂ってないんで。
蛇酢は摂ってないから個人の満足でやってるって感じなんですけど、化学肥料は使ってなくて農薬もほぼ使ってないんですけど、
一回、イボクサみたいなのが地面にバーって生えちゃって、酢を撒いたんですよね。酢って特定農薬だから。僕、農家の種で初めて知ったんですけど、
現代農技を読んでて、酢使っても無農薬でいけるみたいな。無農薬じゃん!やった酢使おうぜ!って言って使ったんですけど、農家の種を見たら、農薬です!って書いてあって、
無農薬、もう言えないみたいな。栽培期間中、農薬不使用って言えないと思って。だから原農薬って感じですね。原農薬、括弧、酢を一回撒きましたよ、みたいな。
アイガモロボとかを使って除草したり、除草器を使って除草したりしたんですけど、冷えは結構抑えられたんだけど、やっぱりイボクサはすごい生えて、結果大失敗というね。
全体的に地面にバーッと生えちゃったんで、養分とか全部そっちに取られて、5票ぐらいしか取れなかったんですよ、10アルあたり。
だから、なるべく売っていきたい。リスナーの皆さんに買っていただきたいなと思います。
僕は取材とかで県外とか行くので、その交通費とかも結構かかるんですよね。だからそれをしっかり取り戻していきたいので、皆さんぜひお願いします。
お米買ってください。概要欄のほうに貼っておきますので、リンク。めちゃくちゃうまいですよ。新潟甲子光なんで。
学食のお米という名前ですね。よろしくお願いしますということで。
次回も宮沢健次の農業芸術概論後編になりますので、よろしくお願いします。
それでは、ありがとうございました。