で、今日話したいなと思ってるのは何かというと、以前に4月の頃でしたっけ?
平和教育をやらなければいけないと思ってるという話をしましたけど、あの話がその後どうなったかということについて報告してみようかなと思ってます。
まあ結論から言うと済んでます。ということで、それでは今週のデジタル時代の国語教育を語ろうを始めていきましょう。
さてこの配信の頃はちょうどお盆の時期になりますね。そろそろ8月15日がやってきますね。
この時期になるとやっぱり日本の平和ということは色々と考えてしまいます。
だから今年こそはちゃんと平和学習をやらなければいけないと思ってるんですが、結論から言えばやっぱり方法がわからない状況です。
授業準備としては完全に積みの状態です。材料がないわけではないんですよ。
例えば朝日新聞が今年シルシリーズというようなかなりいい資料を出してくれてるんです。
概要欄にリンクを貼っておきますので興味ある方は見てください。
だから何かできそうな気はするんですよ。気はするんですけどそこから単元にならないんですね。
このシリーズがいいなと思うのは知るというようなたてつけになっていることですね。
教えるとか伝えるとかではなくて、まずは客観的なデータから知りましょうみたいなそういう書き方にもなってるんですね。
なのでこういう構成であれば自分も生徒と同じ側に立てるなって思ってはいるんです。
で後で話しますけれども、まあ自分は平和学習だとかに関しては少し教えるという言葉には色々思うところはあるわけなんです。
だから何でしょうね、方法がわからないというのが具体的に言うと単元の出口を決められないっていう感じなんです。
生徒に読ませるような材料というのはいくらでも集められます。
集めるのは今の時代なのでかなりハードル下がってますからね。
でも最後に生徒が何をするのか、何を考えるのかどうするのかというのが全然決まらないんです。
感想を書かせて終わりみたいなことは絶対にあり得ないですし、調べてまとめてスライドにしましたみたいなことをやるのも絶対違うじゃないですか。
かといって平和について自分の意見を論じなさいと投げたら、
多分生徒はどこかで見たことのある言葉を並べるでしょうし、そもそも平和はいらないっていうような生徒はいないですよ。
で、そういうような言葉の空想な空回りしているところに対して自分は何も言えなくなっちゃうわけですよ。
そんな空想な言葉を並べるような授業を作っちゃダメだろうって思うわけです。
だから出口が決まらないんですよね。
だから知識として持っているものがないわけではないです。
でも結局単発の事実の羅列なんですよ。
この作品にはこういう読みどころがあるという引き出しだとかはあります。
教材として扱ったものもあったりもしますね。
でもその一つ一つが自分の中でちゃんと意味付けとしてつながってないんです。
引き出しがたくさん並んでいるだけで、それを貫く軸がないんです。
戦争そのものについても、以前にどこかで話しましたけど、自分の祖祖父が陸軍でそれなりの立場だったんですね。
南方戦線の方で戦争しているので威骨もないんですよ。
だから色々と話だとかは聞いたことはあるんですけどね。
まあこの聞いているというのがなかなかやっぱりクセモノで、聞いた話として持っているだけなんですよ。
自分が引き受けた話になってない、威骨がないということの意味を、
例えば腰を据えてしっかりと考えたことがあるかというと、
まあ全くないですね。
話として知っていて、実際にお墓を回収する時に、その骨壺の中に石しか入ってないのを見ているんですけど、
いやー、その時にやっぱり何も考えてないんだなって、今になって思います。
だから自分にとっての戦争の知識って、もう生成AIと全く一緒なんですよ。
聞かれたら一通り答える。通り一遍等のことであれば、まあまあ答えられる。
でもそれだけなんですよ。
そこから先の自分の問いかけだとか、自分で何を目指すのか、
何を問題意識にするのかということが全く出てこないんです。
沖縄は好きで、個人的に定期的に行ったりするんですね。
で、その度に姫百合だとかは見学に行って、色々その都度考えたりはするんです。
でもそれでも自分が本当に問いたいことって何だろうというのが分からないでいるんですね。
ちゃんとやっぱり行くたびに胸は重くなるし、感情は動くんですよ。
でも帰ってきて何日か経つと日常の方の生活に戻ってしまうわけです。
動いて感情が問いに変わっていかないんです。
そのあたりがやっぱり自分の浅はかさとでも言うのかな?難しいところですね。
生成AIと同じだということをもう少し掘り下げて考えてみると、
生成AIって聞かれないと答えないじゃないですか。
自分から問いを立てて勝手に考え始めたりはしないわけです。
で、手元にあるデータをそれらしく並べて返しているだけです。
自分の戦争についての語りがまさにそれなんですよ。
聞かれたら知識はあるからそれっぽいことは答えられます。
生徒に説明だって聞かれればできます。
でも誰にも聞かれてないときに自分の中で戦争について、平和について考え続けているかというと、
やっぱりそうじゃないんだなってつくづく思いますね。
問いを持ってるというのは、たぶん聞かれてもいないのに考えてしまうような状態になっていることだと思うんです。
国語の授業のことや探求のことについては、
自分は聞かれてもいないのにもう年がら年中勝手に考えてますし、
頼まれてもいないのにこうやってポッドキャストの配信までやってるわけなんですよ。
でも平和についてはそうはならないんです。
だからたぶん授業もできないしかたれないんだなって思いますね。
だからまあ、自分はつくづく教員に向いてないなと思うのがこういうときなんですよね。
いや本気でそう思ってるんですよ。
自分の中に伝えたいことが全くないわけです。
むしろ人に何かを教えられると考えること自体が思い上がりなんじゃないかとすら思ってるんですよ。
そのせいでメッセージを伝えるということを授業でやるのに、
非常にやっぱり自分の中で抵抗があって苦手だなって思ってるんです。
何かを伝えるのであれば授業みたいな逃れる場所のない、逃げ場のない場所じゃなくて、
こういうポッドキャストだとかノートだとか自分のメディアでやればいいし、
そっちの方が筋だろうと思っている自分もいるわけです。
授業という生徒にとって逃げられない場所で自分の価値観を話していくということに抵抗があるんです。
メディアなら聞きたくない人は聞かなくてもいいわけです。
このポッドキャストだって途中で嫌になったら止められるし、そもそもアクセスしないわけじゃないですか。
でも授業は違いますよね。
生徒はそこに居続けなきゃいけないわけだし、その生徒に成績をつけるのも自分なんです。
その非対称性な関係の中に自分の価値観を押し付けるみたいな形で話していくというのは、
どう考えてもやっぱり暴力的な面があって、
そのことに関してキャンセルすることはできないけど積極的に振り回したいかというと、
そうでもないし、じゃあ平和教育みたいな話はどうしたらいいんだろうっていう形で堂々巡りになってしまうんですよ。
何も言わなければいいのかというと、平和というテーマに関してはそれも違うだろうとやっぱり思うんです。
何も言わないということ自体が一つの態度表明になってしまうと思ってます。
前回の放送でも少し触れましたが、基本的な自分の価値観というのは、生徒が自分で決められるようになってほしいということなんです。
ただ、そういうふうに思っている人間が平和というテーマの前だけには伝えなきゃいけないというふうに思っていて、
ここがやっぱり矛盾してるんだよな、ねじててるんだよなっていうふうに思うわけです。
だから多分、平和学習の単元がいつまでたってもうまく立てられないんだろうなというふうに見通すのくらいなって思ってるところなんです。