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おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、 そして英語の謎に答える初めての英語史の著者の堀田隆一です。
英語の語源が身につくラジオheldio。英語史をお茶の間に思っとうに、英語の歴史の面白さを伝え、 裾野を広げるべく、毎朝6時に配信しています。
本日は7月2日日曜日です。いかがお過ごしでしょうか。 本日の話題は、
アメリカ文学経由会の懇親会での1000本ノックです。 こちら、背景を説明したいと思います。
このアメリカ文学経由会、経由会っていうのはですね、 慶応大学の慶に友の会ということで、主に慶応大学通信教育部のですね、
在籍している学生、あるいは関係者であるとか、卒業生などが、 様々な経由会をですね、作ってるんですね。
例えば、ジャンル別に今回のようなアメリカ文学というテーマで集まっている、 いわばサークルみたいなものもあれば、地域ベースで、
例えば、千葉経由会とか大阪経由会とかいう形でですね、 地域ベースのサークルのようなものもあります。
このような慶応大学ベースのサークルというのがたくさんあるわけなんですけれども、 その一つ、アメリカ文学経由会から講演のお誘いをいただきまして、
2週間ほど前になりますけれども、6月17日に講演させていただきました。
Zoomを用いたオンラインでの会だったんですけれども、 タイトルは文字と文学の英語詞、Lettersの系譜という、
2時間にわたってお話しいたしました。 その後、質疑応答の時間などもありまして、
一旦オフィシャルセッションは終わりということになったんですが、 懇親会というのがオンラインではあるんですが、設けていただきました。
関連のスタッフの皆さんには、本当に事前の準備から当日、 そして懇親会までお世話になったんですが、ここがポイントでですね、
懇親会のお知らせを事前にいただいておりまして、そこにですね、 私のビール好きというかお酒好きを知っていらっしゃいですね、
会長さんがこのヘルディをお聞きになっていただいているんですが、日々、 そこでですね、
ビールを手配していただきまして、送っていただいたんです、事前にね。 そちらで乾杯としながらですね、その懇親会で一つ企画を私の方からの提案させていただいてたんです。
何かというと、これから皆さんお聞きになる千本ノックですね。 その場で懇親会オンラインではありますけれども、
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自由に英語に関する素朴な疑問を投げていただき、私が答えるという、いつもの千本ノックをですね、 このアメリカ文学経由会懇親会バージョンということでですね、
収録させていただきました。こちらも許可をいただきまして、 その後ですね、少し編集等も加えまして、
今日ですね、これからお届けするという、そんな運びになっているんですね。 50分ほどの長丁場ですので、ゆっくり聞いていただければということで、
今日、日曜日の配信とした次第です。 質問はですね、本当に多岐に渡っているんですけれども、ざっと全体像がわかった方がリスナーの皆さんも聞きやすいかなと思いまして、
概要欄に本当にキーワード程度の形ですが、質問の内容を箇条書きにしてあります。 こんな話題を50分の中で話していますということですね。
ぜひ聞いていただければと思います。 どうぞ。
はい、それでは今、収録開始といたしましたので、何かあれば、
じゃあ、手を挙げている方、お願いいたします。
先生、初めまして。2011年春、たときゼミ卒業の先生といたします。
はい、初めまして。
今日、先生の講義を受けさせていただくのは初めてだったんですけれども、
ありがとうございます。
翻訳の仕事なんかもしているもので、大変色々と興味深かったです。
ありがとうございました。
こちらこそ。
非常に最近なんですが、このアメリカ文学経由会の方で、みんなでこの竹村和子先生の愛についてっていうのを読んでいこうっていう文化会がありまして、私はちょっとまだ参加はできてないんですけれども、これを読んでいく中で、
フェミニズムとかジェンダー論とかそういったことを議論されている方なんですね。
その中で非常に気になったのが、当然、いろんな方の専攻研究を挙げられているんですけれども、
一生、スティーブンスがこう言ったとかっていうので、その次の時に彼とか彼女とかっていう受け方をしているんですね。
フェミニズムとかジェンダー論の方が、いちいち彼とか彼女っていう表現を使われるのがちょっと気になりまして、
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ヨーロッパの言語、多くがそうだと思うんですけれども、フランス語であっても、フランス語ちょっと私詳しくないんですけども、ドイツ語とかスペイン語とかっていうのは、
やはり男性名詞、女性名詞、すごくはっきりしていたりとかしますよね。
私、本当にかじってるだけなんですけど、スペイン語ちょっと学んでいたりとかして、スペイン語だと一人称でも複数形は男性女性形が違っていたりとか、
二人称も男性女性形が違っていたりとか、それで混合の場合にはどうなってくるか、ミックスの場合は男性形を使うとか、すごく厳密だったりするんですね。
ところが英語っていうのはやはり性別っていうのがかなりほとんど消えていると思うんですね。
ところが、ひとしだけどういうわけか残っていると。
例えば、私が夫と一緒にいて、誰かに会ったときに、この人、私のハーズバンドなんですって言うときに、大抵は英語だったら、He is my husbandって言うと思うんですね。
This is my husbandでもいいと思うんですけれども、なんでいちいちHeとかSheとかって言うんだと。
そこだけやけに男性女性が残っているなっていう印象を受けまして、
日本語でも古い時代に、彼とか彼女とかって言い方を果たしてしたのかどうなのか。
英語っていうものが入ってきたからこそ、彼とか彼女とかっていちいち言うっていうのが出てきてしまったんじゃないのかなっていうような気もちょっとしたりとかして、
ひとしっていうものの語源っていうのがどうなのかっていうのがちょっと気になりまして、教えていただけたらなと思いました。
非常に大きな本質的な話題で、現代ジェンダーの観点からですね、この代名詞の問題も色々と指摘されたり研究されたりしてきていると思うんですよね。
この代名詞でHe、Sheっていうのを分けるというのは、世界の言語の中でも珍しくはなく、
一方でこれを一緒にしてですね、男性だろうが女性だろうが、あるいは他であろうが一つの代名詞で呼ぶというような言語もやっぱりあると。
日本語の場合、一番いいのは言わないことっていう手が使えるので、省略っていうのがあるので、色々な方法が備わっているのに対して英語であるとか、いわゆるインドヨーロッパ系の言語ですよね。
インドヨーロッパ系の言語って、主語を明示しなければいけない機会っていうのが多いので、省略できる言語ももちろんありますが、それでもやはり何が主語なのかっていうことは常に問われるので、そこで男女が分かれている代名詞だと、どっちかを使わなければいけないっていう文法的制約っていうのがあるんですよね。
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そうしますと、濁したい時であるとか、あるいは今のようにジェンダーの問題で敏感になっている場合には、あまり都合の良い言語群ではないっていう、色々と問題が多い言語になってしまっているっていうのは事実だと思うんですね。
語源的に言いますと、基本的にはCの語源というのも途中から入れ替わってCになっているんですね。もともと小英語では、ヘイオという形で、彼がヘイなんですよ。
HEとそのまま書くんで、そのままヘイと呼んでたんですが、それに語尾にちょっと音を加えてヘイオとやると、女性、彼女だったんですね。それが、おそらく北欧語の影響と言われているんですが、バイキングに襲われた時にCというのが、よそから入ってきたと。
このような大事な単語がよそから入ってきたっていうのはちょっとびっくりなんですけれども、そこで一度、語源の流れっていうのは一度止まって、新しく始まったっていうところで、今考えている語源はずっと奥の、もっと古い時代の話題なんですが、そこではやはり多くのものが、これは言語文化でそうなんですが、
まず世の中のものをですね、一切合切ですね、名詞、名前がついているものとか呼びたいものを大きく二つに分かれると、大体のケースが、生きているもの、生きていないものっていうふうに分かれるんですよ。
これ言語って人間が使うものなので、まず生き物であるか、自分の、広い意味で仲間なのか、そうじゃない無機質なものなのかで分けることが多いですね。
次に生き物の中で分けるんであれば、これは男女に分けるっていうのが、極めて動物としてと言いますか、生物学的に極めて関心が人間深いところなので、動物として、
生きているものを二つに分けるときには男女で分けるという、これは引用総合ならずとも、かなりの程度ユニバーサルにあるんですよね。
男女の差っていうのはコード化された形で代名詞でも、しかも名詞にもそれを応用するような形で、男性名詞、女性名詞とか、どっちにもはまらないものを中性名詞とか、いくつか分け方があるんですが、
割とユニバーサルで典型的な分け方、つまり男女で分けるというものは、極めて古くからある言語上の発想なんですね。
それがどこまで残っているかという程度の問題だったりしているんですね。
そこそこ残った状態で現代まできて、社会問題としてのジェンダーが生まれた、さてどうするかという今段階だと思うんですよね。
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なので男女で分かれていること自体は、やはり極めて自然なと言いますか、これまでの言語観、人類の言語観としては、極めてありふれたものだと思うんですよね。
ここにきて、急にジェンダーの問題というのが浮上してきた時に、それで言語をずっと使ってきた慣習というのが一夜にして変わるかというと、
やはり非常に強い抵抗感とか、言葉も割と変わりやすい一方で保守的な部分というのも残しているので、
急速に変わるというのはなかなか難しいかもしれませんが、西洋の言語をかなり模索していると思うんですよね。
日本は先ほどのようにいろいろ濁せるので、まだ良いのかなと思いますね。
ただ、おっしゃった通り、明治時代には彼という言い方で、両側に彼女のこと、恋人の女性のことを彼と言っているような使い方が一般的だったのが、
西洋の言語では非・非を分ける伝統みたいなので、日本語の側でも訳語を作る必要があって、彼女というような造語ですよね。
いわば造語して、そこがここの明治以降定着してきたという流れはその通りになったのではないかと思いますね。
ありがとうございます。私も翻訳なんかをしていて、やはり英語では主語を明確にしなければならないということがありますから、
いっぱいもう非・非が毎々出てくるんですよね。
それを毎回毎回非・非、彼・彼女・彼・彼女とやっていたら、これ到底読める文章にならなくて、
やはりいかに省略するかとか、別の言い方をするかとか、明らかに分かる場合には言わないかとか、名前にしちゃうかとか、
その辺の工夫はやっぱり非常に必要だったりとか、あるいは、かつてニュース関係の翻訳とかもしていたんですけれども、
当然そのCEOの誰々が何とか言ったっていうのがあって、その後にもう一度その人のことを言及する場合には、
どうしっていう言い方で、それが男性であろうと女性であろうと、どう同じに富士、氏名の氏でどうしとしなさいというような文字があって、
そこでどう女子とはしないというような決まり事っていうのかなっていう形でニュース翻訳なんかもしていたもんですから、
やはり彼とか彼女とかって、ジェンダーとかフェミニズムを論じている方がいちいち出てきたときにフッってちょっと思ってしまって、
彼彼女っていう表現が果たして日本でどのぐらい昔からあったのかなっていうようなこともちょっと疑問に思って、
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この機会に先生にお尋ねしたいなと思いました。ありがとうございます。
関連して思い出したんですけれども、シンギュラー勢っていうね、単数の勢っていうのが今流行ってきていて、
複数形にすると男女を濁せるっていうのが英語なんですよね。彼らでもあり彼女らでもあり婚後もありっていうことで、
ただ単数形では絶対にひーかしーか性別を埋め込んだ表現しかできないと。
これは不便なので思い切って勢を単数で使ってしまおうというような動きが起こっていて、シンギュラー勢ということなんですけれども、
これは徐々に実際社会的には認められてゆっくりですけれども認められてきていて、
ただこの場合単数なのか複数なのかわからない問題っていうのは今度発生する。
これは優でも一緒ですよね。優も文脈がないとあなたなのかあなた方なのかと。それでまあいわば何とかはなっているので、
英語も優のケースで是非でも何とかなるんじゃないかぐらいの発想で、むしろ社会の圧力の方が文法の正しさよりも勝ち勝っているっていうか、
そんなような時代になりつつあるのかなということは感じたりしますね。
ありがとうございます。
他に何か関連するコメントと言いますか、それでもよろしいですかね。
中学生からの質問なんですけど、植物を植えるっていう時に、プラントとか絵を描くっていう時に、ペイントっていう言い方ってしないんですかって言われたんですけど。
どうなんでしょうかね。
一般的な使い方としてペインティング、ダメではないですよね。言えますよね。
一般的にコロッケーションとしてよく言うかは別として、それで文法間違いであるとか何かの間違いということにはならないのでOKかと思います。
むしろフレーズ化してよく使うものっていうのは、よく同族目的語なんて言って、
dream a dream とか、全く同じでなくても語源的に関連する言葉ですが、
leave a life とか、leave a happy life みたいな言い方っていうのもあったりして、
むしろダブらせることで効果を上げるというような、
ダブらせることでぎこちなくなるのか、むしろ効果を上げるのかっていうのはリズム感であるとか、
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あるいはどれくらい慣らされてきたかっていうところにもよるので、一概には言えないと思うんですけれども、
そういう表現はありますよね。
そんなに聞きはしないかもしれないですね、plant a plant っていうのも、
具体的な植物の名前が入ったりとか後ろには、ということが多かったりするんですが、
言えなくはないんじゃないでしょうかね、paint a painting っていうのも。
ありがとうございます。
なんか私は馬から落馬すると一緒かなと思って、なんかおかしいなと思って言わないんじゃないのかなって思いました。
どうなんですかね、ネイティブの方に聞いてみたいと思いますけれども、
やはり上語っていうかね、冗慢な冗長な表現というようなものも、
かえってレトリックとして許容されるものと、馬から落ちるみたいに間違いだよっていうところの線引きって意外と難しくて、
ある程度慣用がなされていたり、著名な文人が使ったりしていると許されるとかですね、
割と緩いルールなんではないかっていうところもあると思うんですけどね。
皆さんも英語アメリカ文学経由界ということですと、
アメリカ文学とか広くですね、その辺りを中心にアメリカ文化とかアメリカ社会っていう、
広くアメリカンスタディーズっていう、辰巳先生なんかもそうですけどね、やられていると思うんですが、
アメリカの話題とか勘弁するアメリカ語法とかですね、いろいろ関心あられるのではないかと思いますが。
話し言葉と書く言葉でまた言葉の変わり方、変遷って違うと思うんですけど、
今もインターネットとかキーボードで打つような感じになって、
またそれで言葉の変わり方っていうのが変わるような気がするんですけど、
これについて何か、辰巳先生の見解とかあれば教えていただければと思います。
そうですね、この現代のコンピューター周りの技術革新によって、
今おっしゃったようなコミュニケーション、新たなコミュニケーションが携帯が可能になっているということで、
これ二つ相反する考え方がありまして、
現代は言葉の変化がものすごくスピードアップしているっていうか、
早まって回転率が高まってきているっていうのと、
いやむしろ変化は遅くなってきているという考え方があるんですね。
これは両側面あってですね、
何を見るか、何をもって変化が多いとか少ない、量が回転している回転していないと見るかによるんですけれども、
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例えばですね、語彙であるとか新表現みたいなものは本当にたくさん頻発していて、
広がり方もある意味数時間で世界中駆け巡るっていうこともあり得るわけですよね。
その意味では確かに極めて著しい何かが変わったと言わざるを得ないわけなんですが、
それが定着するかどうかという点でいうと、
つまり1日で使い切り、流行語ってせめて1年この年で流行ったけれども、
次の年はもう消えていったぐらいのスピード感だったらまだですね、昭和からあったと思うんですけれども、
今はもう1年もたないですよね。
1ヶ月1週間、場合によっては本当に1日2日で賞味期限が切れるというような、
確かにこの意味での頻度変化は一時許しんですけれども、
ある意味それって一過性のもので定着して新しい語彙に加わるかというか、
落ち着いた段階まで見据えて変化と呼ぶのであれば、
意外と定着しているものは少ないので、
結果として一時許し変化にはつながっていないという見方が、
むしろ言語変化がスローダウンしているのではないかと。
すごくごちゃごちゃといろいろ起こっているんだけれども、
最終的に落ち着いた形で変化に結びつくようなことっていうのは少ないのではないかということなので、
どっちの側面を見るかによって、
現代社会は言葉の変化がやたらと激しい時代だというのも確かにその通りですし、
一方で言うほど、目に見えるほど言葉の変化というのは進んでいないという見方もあって、
よく議論にはなるんですけれども、皆さんどうお考えですかね。
これは何をもって変化というか、その時その時の回転率ということで言えば確かに早いんですけれども、
落ち着いて定着するかまでを見据えると、
意外とそんな大きいことはかえって起こっていないのではないかという言い方もあるという、そういうことなんですけれどもね。
大変、その2つの見方を勉強になりました。ありがとうございました。
スピードというのも何で測るかもよくわからないところがありますし、
例えば、単語で変化は多いけれども、文法的な変化というのはほとんどないであるとか、
英語の歴史でも文法の変化というのはある時代にものすごくたくさん起こったんですが、
小英語から中英語ぐらいの時代ですね。
その次の近代英語からは、本当にゆっくりとしかこの数百年変わってないので、
一気に変わる時とゆっくりと比較的落ち着いている時代というのがあって、
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文法の観点ではそれでも、語彙の観点から見るとまた別の波というか、グラフみたいなのを表現するとそうですし、
発音というと、先ほどの大母音推理のようにある時に突如大きな変化が起こって、
あとはゆっくりみたいに、どこに注目するかによっても変化が多いとか少ない、
あるいは変化速度が速い遅いというのは、見るポイントによってだいぶ違うので、
そうして何か平均的にというのがなかなか見えないんですよね。
現代はどうなのかといった時に、社会の変化はもう明らかにいろんなものが速いので、
言葉の変化もきっと連動しているだろうという考えやすい考え立ちなんですけれども、
今のように先ほどのような見方とか、あるいは文法を語彙だけじゃなくて、
文法とか発音とかいろんなところに限って見てみるとやっぱりそれぞれなので、
全体としてどうなんだろうというのは像が見えてこないというところはあるんですよね。
そこで両極端な異論が出たりということで、見るポイントによってやっぱりだいぶ違うんではないかなと思いますね。
単語、表現というレベルではやはり回転率は速いだろうというのは思いますね。
一世代違うと、もう話している語彙が、ボキャブラリーが違うっていうのは、
世代差みたいなものはおそらくこれまでの時代以上に、
世代間ギャップみたいなもので語彙レベルでは進んでいるかなと。
ただ日本語で話していても、文法で大きく変わるっていうことはせいぜい乱抜きがあったりさせていただくとか、
ピンポイントでいくつかあるにせよ、そこまで大きい変化は事実上起こっていないわけで、
どれを見るかにもよると思うんですよね。
今日の講義の冒頭で、言語というのはだいたい10万年ぐらい前に言語が生まれてきたと。
そして文字そのもので書かれたのは、たかたか数千年の歴史だった。
言語というのはこういう人が獲得して、それこそグレートジャーニーじゃないですか、ずっと出ていった時に、
例えば今言語としては、先生の教科書なんかでもインドヨーロッパ語俗として、
元々になる言語があって、それがこんな風に分かれてきたよという風な形で分類されていますけれども、
元々の言語がどういう形で、例えばインドヨーロッパ語俗、
そうでない、例えばウラウケイとか、なんとかケイとか、
その一番の分けている根拠というのは、どの辺のところで分類されているんですか。
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語俗であると、系統関係ですね。
これは非常に難しくて、比較言語学という分野で系統図を作成したりするというのが、
その分野の仕事なんですけれども、経験的に分かっていることは、
この比較言語学の手法だと、せいぜい頑張って遡れて今から1万年、
多分1万年も厳しいだろうというレベルが限界で、
それ以前に遡るということは、まず科学的には、
現代の技術とか方法論では無理だろうということを言われているんですね。
なので、それ以前の系統図みたいなものをもし書いている学者がいたりするんですが、
基本的には、これは学術的というよりは、
ちょっとロマンが入っている一種の物語と考えた方がいいというぐらいに、
せいぜい1万年ぐらいなんですね。
まず時間幅ですよね。
そうしますと、10万年前ぐらいに、フリカで言語が誕生したとしても、
そこから今から1万年前ぐらいまで、9万年とかものすごく長い時間があって、
その間に何が起こったかということは、言語については、はっきり言っても何もわからないと言っていいんですね。
わかっているのは、人類学とかの成果で、
グレート・ジャンにおっしゃいましたけれども、
こういう道筋でアフリカから出ていって、
人が展開してアメリカ大陸まで渡ったっていう、
そこと引っ掛けてというか、カッコつけて言葉もついていったはずなんで、
このように展開していっただろうというところが関の山で、
言語学が主導で何かできるってことはないんですよね。
1万年よりさらに遡ると。
むしろ人類学の成果などと引っ掛ける形で、
言葉について想像する以上のことはできないので、
今から1万年前の段階でも、すでに世界には言語がおそらく散っていて、
無数の語族、おそらく何十何百っていう語族が、
レベルが展開していたと想像されるんですね。
そのうちの、たまたまおそらくはロシア南部あたりに、
本拠地を置いていた一つの語族が、
後に極めて詳しく研究されるようになって、
後付けでインオ語族、インドヨーロッパ語族と名付けられたわけなんですが、
現代でも100以上の語族があると言われていて、
さらに数万年遡ったレベルでは、もっと多かったのか、
もっと語族の数少なかったのかもわからないくらいなんですけれども、
何らかの形で言語学が発現できる、
最も古いのが今から1万年前。
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そこからの系統図は、描きようがあるんですけれども、
その前は言語学が言えることはないという、
グレイト・ジャーニーの人の動きと、
引っ掛けて何かそれらしいことを言うとか、
ぐらいしかできないんですよね。
もどかしいところではあります。
それでもう一つついてにいったら、
例えばゲルマンの、一応先生おっしゃっているような、
もともとのこういう集団があっただろうというのが、
例えば4世紀にいろいろゲルマンのマイグレーションがありました。
そうすると、例えばこういう、
要するにフランスなんかだってフランク族が行って、
それからいろいろゲルマンの移動が、
ずっと東から西へ押されていきましたよね。
それでそれぞれが行って、
例えばケルトなんか、さっき先生もおっしゃったように、
もともとアルチの方にいたのがやられて、
そして結局ブリテンとアルチまで行きましたよとか、
そういった形で押されていって、
それでもじゃあフランスというのは、
ゲルマンのそういう形なのかといったら、
どっちかというとロマンス系統の方に入るわけなんですよね。
それは結局、後からそういうラテン系の影響が、
フランスには強くなったからそっちに変わったということなんですか。
そうですね。もともとフランク族は、
フランクは、いわば英語の仲間で、
ゲルマンの中でもさらに西ゲルマンの一派なので、
非常に近い関係にあった言語がフランクなんですね。
フランク語をずっと喋っていたんですが、
ガリア地方ですね、今のフランスですが、
ここがカエサルのガリア戦記なんかもありますが、
ローマ人が征服して、植民地化して、
ゆっくりとラテン語が入り込んでいって、
もともとケルト人もいた。そこにフランク族が入ってきた。
さらに一応最後にローマ人がやってきて、植民地化したっていう、
そもそも3層ぐらいは少なくとも言語の層があった中で、
結局ベースと言えば一番色濃くなったのが、
後からやってきたラテン語系。
それがケルトあるいはゲルマン系のフランク語と
混ざる形でややゲルマン語化した
ラテン語と言ってもいいわけですけどね。
語彙なんかにはケルト語的なものが多少入ってますし、
そして文法なんかには実はゲルマン的な要素は
かなりフランス語が入ってるんですね。
なので派閥は英語はゲルマン語、
フランス語はイタリック語というラテン語側の派閥なんですが、
意外と文法的に似てる部分があると感じた場合は、
それはフランスの大元にあるフランク語が
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英語と同じゲルマン語だからっていうところが割と多いんですよね。
こういう複雑ないくつかの層が組み合わさって
フランス語ってできているので、
純粋なラテン語からの派生というよりは、
そこにゲルマン、ケルトあたりが
そこそこ色濃く反映しているような
そんなミックス言語ではあるんですけどね。
わかりました。ありがとうございます。
先生、主語の問題なんですけれど、
英語の主語の問題なんですが、
実は個人的なことなんですけど、
船会社に勤めていた時に
毎日のコレポンで主語を入れないんですね、みんな。
ですから、チンとかアイとかウイとかっていう文章はなくて、
全ての人たちがメールやり取りするとき、
主語がない状態なんですね、外国人も含めて。
でも英語は主語がなきゃいけないということは
学校では習ってますけれど、
実務の中では全くない状態だったんですが、
実際にはどういう風な、主語という日付ですね。
どんな感じなのかというと、
学問上と実務という点でお話しいただけたと思います。
はい。英語は主語が絶対になければいけないということは
本当に我々は習うわけですよね。
ダミーであってもいいからとにかく
ITみたいなダミーであってもいいから
置かなきゃいけないというところで
すごく厳しく言われるわけなんですが、
そこの意識とか印象が強いあまり、
今のように主語が省略されると
ちょっと変な感じになるということですが、
業務とか業界などにもよってですね、
例えば日記なんかも自分一人で書く場合は
主語省略。
愛なんていうのは自名ですし、
他に例えば雨の日だったら
レーニングとかレインドっていう言い方で
当たり前に使ったりはするので、
状況とDPOに応じて
主語っていうのは割と省略されることは
口語では多いですよね。
口語とか、あるいはおっしゃったような業務。
むしろ業務の例というのは
集めてみると面白そうで、
船の業務ではそうなんですね。
面白いです、むしろ。
集めてみたいっていうか、
おそらく定型的な業務だったり、
定型文句が行き交うっていうか、
少なくともパターンは定型であるっていうような場合には
当然合理的経済的なので
しばしば使われるだろうと思われますよね。
特定の業種から特定の、
広くレジスターと言うんですけれども、
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日記みたいなところであるとか、
口語ですね。
口語会話っていう場合には
省略されることがありますが、
省略される場合のパターンと言いますか、
どういう省略のされ方をするかっていうのは
言語学的、統合的にある程度パターンが出揃っていて、
あまりそれを外れるような
主語の省略っていうのはやっぱりほとんどないであるとか、
英語の主語の省略現象みたいのは
割と研究はされていますね。
英語の歴史的観点から言いますと、
後英語、中英語ぐらいまでは
ざらに主語は省略されておりまして、
今よりももっと広くですね。
それがガチガチの
絶対に主語がなければいけないっていう言語に
舵を切ったのは中英語後半から今なので、
せいぜいこの700年ぐらい。
英語の歴史の半分ぐらいは
もっと緩かったとか主語なくてもいいかったと。
後半になってから
かなりガチガチの言語になったんですが、
と言っても100%ではなくて、
おっしゃったような特別な文脈、特定の文脈では
割と使われるっていう実態もありますよっていうところですよね。
なので、英語教育では絶対に
何があっても何が何でもってことは強く言われるので、
かやってたまに例外があると不思議に思えてくるほどなわけですけれども、
そんな実態がありますよね。
ありがとうございます。
あとすみません、もう一つ船で言えば、
船ってCとかHじゃないですか、
そういうのもジェンダーで関わってくると今後どういう風に?
そうですね。
船とか乗り物のCというのはそこそこ伝統はあるんですけれども、
船って調べたことはないんですが、
国もCで受けることが多いんですね。
例えばスポーツの試合なんかでも
フランスが勝ちましたなんて時にCで代表させたりとか
っていうことがあったんですが、
これジェンダーの問題っていうのが先ほどもありまして、
国を受けるCについては20世紀中に
特に予想されるとおり後半ですが激減してるんですね。
新聞雑誌等で見ても、
ジェンダー問題が高まってきて、
なぜCなのかという問題ですね。
なぜこれが芽生えたのかっていうのは諸説はあるんですけれども、
一つよく言われるのは、船なり国なり運転するといいますか、
支配する、主導的な立場に立つのは伝統的に男性で、
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非支配的な女性とか、
あるいはそれを恋人になぞらえたりとかいうような形で
女性として見られるっていうのが一つあり得るっていうことと、
あと英語では文法制というのがなくなったんですが、
フランス語とかラテン語などで、
国っていうのが伝統的に女性語尾をつけることが多かったと。
例えばオーストリアとか、
アがつくものはだいたいそうなんですけれども、
そのあおぎ見るべきラテン語で女性扱い、
女性名刺扱いをしていたっていうことを横目に見ながら、
英語でCというのを対応するようになったんじゃないかとか、
説はあるんですが、
ただこの伝統的なCの国を表す使い方というのは、
20世紀のイギリスの雑誌で調べた研究がありまして、
それによると激減して、
今はほとんど使われないか、
特定の文脈とか、
そういう言い方を好む方とかに限られていて、
面白いのが一時期だけ、
ちょっと20世紀後半に復活した時期があって、
それはサッチャー政権の時なんですよね。
サッチャーが使ったっていう話を、
これは面白い話で、
時代を逆行するような使い方、
一時期だけ保守政権のサッチャーが使って、
サッチャー以外にはあまり使わなかったんですが、
ですから新聞雑誌での現れる率が、
サッチャー効果によってちょっと増えたっていう、
面白い事件がありましたが、
それ以降も20世紀、そして21世紀は下火になって、
ほぼ過去の言い方というか、
我々の世代は文法書とかで勉強したりするんですよね。
だけどこれも割と古い言い方とか、
過去の言い方になっていくのかなというのが21世紀ですね。
面白い問題。
船はもしかしたら、
国というのは色々微妙な問題が、
政治的な問題が関わるので早いのかもしれませんが、
船についてどうなのかっていうのは調べてないんですが、
どうなんでしょうかね。
やっぱり一般的ですか、まだ業界としては。
ですから命名式等も女性がやらなきゃいけないですから。
そうなんですか。
人間としてはものすごくありますね。
面白いです。
面白いというか、そういう伝統あるんですか。
あります。
ですからそういう点で考えると、
船は必ずCとかHって言ってますので、
そう考えてこれジェンダーの問題でどうなんだろうと思ってます。
一種の業界語法みたいなところもあるんですけれどもね。
それは知りませんが、面白いというか関心を寄せてみたい。
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知らなかったです。
お願いします。
ありがとうございます。
こちらこそ。
手を挙げられている方お願いします。
すみません。
今日参加させていただくのが初めてなので、
ちょっと検討違いな質問をしてしまったら申し訳ないんですけれども、
名前の語源とか、あとは名前っていうものがすごく、
語源にとってすごく大事なものだと思うんですけれども、
その時々の政治的な状況とか、
そういったことによってはやっぱり名前を隠した方がいいシチュエーションが続いてくると思うんですね。
具体的な例で言うと、
例えばJ.D.サリンジャーがいわゆるユダヤ人っぽいジェロームとかっていう名前を隠して作家活動、
Jはユダヤ人っぽすぎるからJに省略したほうがいいっていうのを、
確か自分でも思ってたし、編集者にもそういう風にアドバイスをさせてされたか何かっていうのを見て、
例えば、ユダヤ人の方々ってすごく歴史的に差別をされてきたっていうのがすごくあると思うんですけれども、
そういった自分にとって大事なパフォーマンス、
名前っていうものを隠さず、ユダヤ人が歴史的に隠さざるをえない状況っていうのは、
結構あったことなのかどうなのかっていうのが自分の自分としてあったんですけど、どうなんでしょうか。
名前隠しですよね。隠したりあるいは解明したりいう形というのは、
日本でも朝鮮系の方々が解明したりとか、
要は解明のネガティブな部分は本来の名前、名前という自分個性に密着しているはずのものを隠さざるをえないというネガティブな方向と、
ポジティブと言えるのか分かりませんが、新しい社会に同化していく一つの方法としてっていう側面、ある意味でポジティブ、前向きな面っていうのがあって、
これも含めてもちろん背後には大きな社会問題があるとともに、
名前にかかる選択は個人にありっていうような考え方もあったりして、
一概には言えないですけれども、英語の歴史で見るとどうでしょうかね。解明したり、名前を。
むしろ最初に名乗っていいよと言われたときに、特にファミリーネームとかラストネームですよね。
日本でも明治になってようやく一般庶民が性を名乗れるっていうようなことになったときに、演技がいいものがいいとかいう形で、むしろ名乗っていいよと言われたときにどう行動するかっていうものも含めて、
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広く名付けとか、自分を何て呼ぶか問題というのは、固有名詞論みたいなところで、きっと社会的な観点も含めて議論されているかなとは思うんですけどね。
私自身専門ではないんですけれども、歴史的には何らかの理由で解明したり、偽名を使ったりということも含めて、古今東西、多くあったんじゃないかと思いますよね。
ユダヤですとまたスタンスが違うと言いますか、そうせざるを得ない状況であるとか、プレッシャーみたいなものってあるのかもしれませんよね。
民族を表したり、出自を表す名前っていうのはやはり非常に多いんですけれども、一方で憧れであの名前をつけちゃおうっていうことで自分に持ってきたりすると、出自は逆にご破産になって、それまでの流れはご破産になっていくっていう。
アメリカなんかでも非常にそれは移民の時に多かったりしたので、半分ぐらい出自を表すという名前の効果はあるんですが、一方で特に出自を表さないっていう側面もありますよね。
どういう出自なのかによって、こだわりとかプライドとかを背負ってきたものがきっと民族的にもあると思うので、ユダヤ人とかイディッシュ系ですよね。イディッシュ系なんかは強そうなイメージですね。私も調べたことはありませんけれどもね。
ありがとうございました。
今日は本当知らないことをたくさん教えていただいてとても楽しかったです。ありがとうございました。
会長さんがラジオのリンクを貼ってくれて、学生さんたちの素朴な質問とか聞かせてもらったので、私も本当に素朴な質問なんですけれども、単数と複数が同じ単語ってあるじゃないですか。
フィッシュとかシーフとか。フィッシュとか頑固なくらいに単数と複数が一緒っていうか、ワンフィッシュ、ワンフィッシュ、ツーフィッシュとか言わないのは何か理由があるのかなっていう。
リアーとかだったらなんとなく数えられるし、リアー、ツーディアーズとか言ってもいいんじゃないかなとか。
言ってもいいですよね。全然言ってもいいと思うんですけど、ダメってことになっているのはですね、これも簡単ではないんですけれども、
そもそもが、古英語の時代、一番古い時代からリアーとかシーフに関しては単複同型というか同じ形なんですね。
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ただ、その前の時代って言いますか、比較言語学という手法で、ある程度前の段階っていうのを予想できるんですけれども、それによると違う形だったんですね。
単数と複数。やはり区別があったんです。Sではなかったんですけれども、いくつか複数形の作り方がありまして、
このディアーとかシープに関する限り、具体的に言いますとユーの文字がついて、シェープとかデオルみたいな形で母音をつけることで複数形を表したんですね。
それが、音の都合でこの語末のウッという音が弱くなって消えてしまうという段階を経て、消えた状態がもう古英語なんです。
あとはずっと引きずって今まで来ているということで、他にもたくさんこのタイプの単語はあったんです。
例えばハウスなんかもそれでフースと言ったんですが、フースーと言うと複数形になったりというのが、何十個もこのタイプがディアー、シープタイプがあったんですね。
ところがハウスは普通に後にSをつけるという方に一般的な複数形の作り方に乗り換えしてしまったんですが、
どういうわけかディアーとシープに関しては今の今まで古い状態の単複動形をここまで生きながらえてきて、Sに乗り換えてないんですね。
で、これはSに乗り換えない固くなな単語っていうのは他にも、例えばマン、メンとかフット、フィートとか、あれもですね、ああいうタイプは今7語しかないんですよ。
上がりますかね、みなさん。母音を変えて複数形、マン、メンとウーマン、ウェミン、これはいいですよね。
それからフット、フィート、あとトゥーフ、ティーフってのがありますよね。
それからマウス、マイス、母音を変えるっていう。
それからですね、グース、ギース、ガチョウですね。
最後はLで、ラウス、ライスっていうの、これシラミのことなんですけど、これはイレギュラーでSを拒んできたんですね。
このタイプに当たるものはやっぱり他にも、もっとあったんです、英語では。
だけども、その他のものはさすがにSに乗り換えてたんですが、この7語だけは頑固に残ってるんですね。
さっきのシープとかも同じなんですが、Sに流れていくっていう一般的な傾向に抗って千数百年来てるのが今残ってイレギュラーと呼ばれているものなんですが、
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他の単語もですね、ゆっくりとどこかまでは抗っていたんだけど最後に折れたっていうのが多いので、
あとですね、千年くらい置くと多分ディアもですね、折れてついにディアズになるんじゃないかと思うんですけども、これぐらいゆっくりなんですよ。
変化っていうか、S一変とになっていくっていう動きがかなりゆっくりなので、見方としては何で単数複数一緒なんだろうというよりは、
S化に何で抗っているんだろうということで、2023年でもまだ抗っているタイプなんだというのが一つ答えで、数百年後はわからない。
シルドレもチャイルズになるかもしれませんし、ただ非常に頻度の高いものであればあるほど抗うっていう一般傾向はあるんですね。
まんめんもフットフィートも。ただそれでいうと、ラウスライスっていうのは幸運なことに清潔な社会になって比較的見かけることが少なくなってきたので、
昔は本当に身近だったので頻度が高く抵抗してきたんだと思うんですが、これもいつかとは言えませんが、数十年か数百年かでラウスシーズとなっていったりですね。
マウスもマウスシーズとなっていったりっていう可能性は常にある。ただいつこの頑固なものが折れるかっていうのは、これは予想することはできないっていうことですね。
実際のコンピューターのマウスは複数系マウスシーズが多いんですよね。ミッキーマウスのぬいぐるみが2つあったときもミッキーマウスシーズであって、
マイスって言うと生々しいですよね。本当の家に来てるみたいで。ゆっくりと一角から崩されていって、マイスがマウスシーズにある一角から少しずつ来てるんですよね。
こんな形で本当にゆっくりなので、いつどこで折れるかわからないっていう、わからないけど今の今まで折れなかったのがリアでありシープでありっていう、そんな説明の仕方にはなりますかね。
ありがとうございます。おむろい。生き残ってたっていうこと?
生き残ってたっていうことなんですよね。
ずっとずっと昔の発音もすごい可愛くて。
レオルとかね。
ありがとうございました。
エンディングです。
今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
6月17日のアメリカ文学経由会での公演の後の懇親会ですね。
この懇親会の場で繰り広げられた1000本ノックの模様をお届けしました。いかがでしたでしょうか。
様々な角度からの質問が飛んできました。
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普段私ですね、大学の授業などの場で大学生相手に1000本ノックをしたりっていうことが多くて。
だいたいですね、こういう角度から飛んでくるっていうことが予想できるんですね。
もう長年の経験で。
ですが今回、アメリカ文学経由会の皆さんっていうのは本当に様々なバックグラウンドを持っているということもありまして。
しかもアメリカ文学経由会ということでですね、文学の方面からの関心、文化の方面からの関心というのも強いということでですね。
実は私が構えていなかった方向からの角度からの質問っていうのが多く飛んできて、あたふたしたという次第なんですけれども。
私この1000本ノックの面白いのは、自分があたふたしてこれ答えられる答えられないみたいなこのハラハラ感みたいのも好きだったりしてですね。
いろんな場所でやるようにやりたいなというふうに思っておりまして。
今回ですね、アメリカ文学経由会の運営スタッフの皆さんからもですね、この懇親会の場で1000本ノックやりたいんですがというふうに事前にですね。
お話ししたところを心よくお受けいただきまして、こうしてですね、公開も前提で収録させていただくということになりました。ありがとうございました。
本当に事前準備からですね、いろいろとお世話になりまして感謝しております。
このような機会って、私も先ほど述べたように好きですので、こうやっていきたいなというふうに思っているんですね。
もし関連のですね、講演会であるとかそういうものにお招きいただくという機会もですね、少なくないんですけれども。
その時にですね、プラスアルファのこの懇親会的と言いますかね、余興的な1000本ノックみたいなものにもしご関心があればですね、私是非やりたいと思っていますし。
できればですね、こうしてVoicyでの公開収録みたいなことも前提にですね、こんな機会増やしていければなというふうに思っております。
皆さんからの今日のですね、1000本ノックをいろいろ聞いていただいて、コメントですね、皆さんからのフィードバックも期待しております。
リスナーの皆さん、ぜひコメントをお寄せください。
ということで、本日7月2日、日曜日ですね。
良い休日をお過ごしください。
ほったりうちがお届けしました。
また明日。