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おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、 そして英語のなぜに答える初めての英語史の著者の堀田隆一です。
英語の語源が身につくラジオheldio。英語史をお茶の間におもっとうに、英語の歴史の面白さを伝え、裾野を広げるべく、毎朝6時に配信しています。
本日は7月14日金曜日です。いかがお過ごしでしょうか。
本日お届けする話題は、 イギリス哲学者の英語、秋元先生との対談ということで、先日に引き続き、
青山学院大学名誉教授の秋元実先生と緊張をめぐって対談いたします。 対談というよりも、私がわからないところを質問させていただくという程の回となっております。
前回はですね、769回、近代英語における文法的・公文的変化、秋元実先生との対談と題してお届けしたんですが、
こちらとはまた別の本なんです。それをですね、同じ開拓者からなんですけれども、 今日ご紹介するイギリス哲学者の英語、こちらは5月に出ており、
先ほどの近代英語における文法的・公文的変化は、 6月に出版ということになっているんですね。
本当に著しい語活躍ぶりということがわかるかと思います。 今回のイギリス哲学者の英語は単調ですので、秋元先生ご自身お一人で書かれた本ということで、
サブタイトル、通時的研究とあります通り、 時代としては近代英語記なんですが、その長い近代英語記に活躍した各その中の時代にですね、
活躍した6名の哲学者の英語を縦に比べてみるという非常にユニークな試みです。
今回も対談している私が一番勉強になりました。 秋元先生ありがとうございました。ではその対談の様子です。どうぞお聞きください。
おはようございます。本日も対談ということでですね、 前回近代英語における文法的・公文的変化の変著としてご紹介いたしました秋元先生に改めておいでいただきまして、
今度はですね、同じ開拓者より、そして同じ今年出版されました、 イギリス哲学者の英語通時的研究という本も書かれていますので、こちらについて今日はお話を伺いたいと思います。
秋元先生改めましてよろしくお願いいたします。 これは立て続けに、前の本は変著者という形でしたが、今回のイギリス哲学者の英語は秋元先生お一人で書かれたということで、
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これはどういう本なんでしょうか。 実はこれは3冊目で共通しているのは、
だいたい近代英語の記述というか、それを具体的なテキストに基づいて、
述べて合わせて、また対極的に変化を数字的にまとめてみるという、そういう共通項があります。
開拓者の言語文化戦書の中で、改めましてこれまでの秋元先生のこのシリーズの中での出された本なんですけれども、
まずシャーロック・ホームズの英語というのが65弾、第65弾、このシリーズの。これが2017年ということですか。
それから第86弾として、探偵小説の英語を書かれています。こちらが2020年。
そして3年おきに本当に書かれるということで、今回イギリス哲学者の英語ということなんですけれども、
扱われた哲学者、イギリス経験哲学者ということなんですけれども、これが名前を挙げますと、フランシス・ベイコンですね。それからトマス・ホップス、
ジョン・ロック、デイビッド・ヒューム、ジョン・スティワット・ミル、
バーチャル・ランド・ラッソという名だたる経験哲学者たちなんですが、改めて彼らの生きた時代を見ますと、
およそですけれども、今6名ですが、最初から16世紀、
そして17世紀、17世紀、18世紀、19世紀、20世紀と、ざっくりとですけれども、やはり世紀別ということを意識されたのは、
先日ご紹介した、近代語における文法的・構文的変化なんかと、うまい具合にパラレルになっているなというふうに思ったんですけれども。
そうですね。もともと哲学には興味があったんですね。本を読むこと自身は。
だからまとめてみたいというわけでもあったんですよね。ただ、やはり読んでいくうちに、やはりどういう文体なのかという。
ただ、哲学者というのは何となく独特な感じがするんですけれども、漢字も英語史の中で見るとそんなに変わっているわけでもなくて、そういうことを伝えたかったです。
じゃあ、その当時の一般的な三文ですかね。哲学者に限らず書いた三文の全体的なスタイルから逸脱しているわけでもないと。
大きくはね。個性はそれぞれあるんだと思いますが。
そうなんですね。印象は、最初に先生がおっしゃった通りで、哲学者って小難しい文体を使って、苦闘典の使い方も使って、みたいな印象があったんですけれども、
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これはその時代に準ずるという感じなんですかね。
この本のキーセンテンスのようなことを各哲学者にあげて、私の好きなというか、重要かなと思うものをあげたんですね。
それは全く僕の個人的な読書の後の言葉なんですけどね。
それぞれのチャプターで各哲学者の書いた英語というのが使われているんですけれども、代表作品に基づいてご研究されているんですけれども、
秋本先生の語学的関心を反映して、仮定法の話題であるとか、合成述語構文であるとか、やはり補文の話題であるとか、前回ご紹介した本ですね、近代語における文法的構文的変化と重なる部分もありますので、
これを合わせて読むととてもよくわかるという印象だったんですが、比較としてはどちらの本が先と言いますか。
最初は哲学者の英語が先だったんですね。
それでまとめながら、もうちょっと近代英語に関して、もうちょっと多角的にというか、もうちょっといろんな面から勉強して調べてみたいという気持ちもあったので、
これはあくまで哲学者の範囲なんですけれども、これをもうちょっと枠を広げて、できたら、それこそ皆さんと知っている仲間と別の角度からやってみたいというのが、2番目の文法変化の本なんですけれどもね。
なるほど。とりわけ、ジョン・ロックに注目してということを前書きにもあったと思うんですけれども、ここの議論、とても私もご勉強になったんですけれども、いわゆる先行研究ですか、イヤースピッカーの研究なんかですと、
このロックのスタイルの特徴として、エピスティミックフレーズという、I thinkとかそのような言い方ですけれども、これが非常に多くて特徴的で、これというのがその時代、ロックの生きた時代であるとか、あるいはロック自身の文体の特徴として非常に目立っていると。
これはいわば、自我の芽生えというか、これはアングロサクソン的なある芽生えの瞬間だったみたいな言い方を、ざっくり言いますと、イヤースピッカーが言っているところ、必ずしもそうではないんじゃないかというふうにご議論されているんですが、
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これはそのイヤースピッカーの先行研究で言っていることも含めまして、ご説明いただけるとありがたいんですけれども。
やっぱりロックの文体って、確かにイヤースピッカーが言っていることもあるんですけれども、確かに例えば、I thinkとか、いわゆるエピスティミックフレーズ、いわゆるクワークや何かというコメントクローズに近いんですけれども、そういったものが増えてきたというか、それ以後ですね、というふうに100%言えるデータはないんですね。
例えばヒュームとか見ても別に関心もですね、特徴というかあっと増えているわけではないんでという。それからもう一つは思いっかけたら、通りのデカルトのですね、考え方の反映ということをたまたまロックが意識して使ったということもあるわけなんで。
だから僕の反論ということもないんですけれども、それもあるけれども、それから別にロックが全ての影響を与えているような。
ちょっと強めなんですかね。
それがね、もうちょっと割り引いてもいいんじゃないかというね。
やっぱり経験主義という、例えば出てくるのはエクスペリエンスというの、オビザベーションとかね、そういう言葉なんですね、また出てくるのは。
だからやっぱり経験によってとか、それからよく観察してとかですね、そういうこともまたよく出てくるんですね、言い方としては。
ですからそういったエピソメックフレーズだけがロックの全てではなくて、やっぱり経験論ですね、いわゆる哲学者の中で。
そういう特徴というのはやっぱりそういった、英語で言うとエクスペリエンスとかオビザベーションとか、そういう語が多く出ているところが特徴でもあるんですね。
ですからやっぱり他の表現というか哲学者のですね、そういったものももうちょっと考慮した結果の相対性について、ロックの影響がこうというふうに言う方がね、公平じゃないかというのはたまたまのところですね。
そのビアス・ウィッカはI thinkをはじめとする、列挙されていますがI suppose、Iguess、I gather、I presume、I believeのような、この使い方が特徴的だという点で議論を進めているわけなんですが、必ずしもそうではないかもしれない。
I think、こういう言い方はそれ以前からも普通にあったんでしょうかね。ロック以前にも芽生えて。
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たぶん頻度的にはね、たとえばそんなに多くないのが、それが一般的にもあれですよね、その頃にだっていわゆる主観的というか、あるいは主観化の強まりというか、そういったものが出てきたと言えるかもしれないですね。
その結果、I thinkとか一人称とか現在動詞を使うような形で。
なるほど。先生は最後の第9章で通じ的考察ということで全体をまとめられているわけなんですけれども、そこでその始めにのところで全体として英語の歴史では多動性が強まってきたと。
これが今回の考察6人の文章の考察ということで、大体見えてくるんではないかということをおっしゃってまして、多動性が強まってくるっていうのは、いろんな側面があると思うんですけれども、非常に束ねたような一方抽象度の高い表現ですよね、多動性が。
具体的に言うとどういう変化があって、それを多動性が強まったというふうに考えられているんでしょうか。
多動性という概念はあれですよね、いわゆるより直接的になるという、そういうようなことで、つまり対象物に対してより直接的な表現になるというわけですね。
その一つの例というのは、例えば多動詞プラス目的語というのが普通ですけれども、その間に例えば自動詞があって前置詞が入ってなると、それは今度は多動性が弱まるわけですよね。
ワンクッションを置いている感じですかね。
そういう例が多いとすると、それから例えば前置詞がなくなった多動詞的な言い方の目的語を直接取るような場合、そういった多動性が一応強まったというふうなことが言えると思うんですよね。
今回の例で言いますと、ダウト・オブという言い方だったのが、ダウト・サムフィングみたいな言い方になるとか、例えば前置詞を介在させずに言えるように多動詞化したというようなことですかね。
そうなんですね、一つはね。
もう一つ、同じような流れで多動性が強まってきた現象の一つに、仮定法から直接法に多くが移行していったとあるんですが、これは多動性とどういう関係にあるんでしょうか。
仮定法というのは実際のことではないことを述べるということがあるわけですから、そういう点では直接的には実際あったこととか目の前の見つけるわけですから、あるこういう述べるわけですから、そういう点では直接法の方が直接的なあれですね。
今回の場合はどちらかというと移民に観点を移しての多動性ということですかね。
ただ形態的にもですね、例えばザッと取っていたというようなものっていうのは多動性が弱いんですね。
ザッとがなくなっちゃって、ステージを取って、さらにトゥーステージがなくなっちゃって、裸の動詞が来るというと、その分だけ多動性が高まっているというふうに感じるわけですね、つまり直接的になるわけですから。
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そういう現象がやっぱりですね、英語詞の中では働いているんじゃないかということを考えたんですね。
前回の話の中でも、ザッと説を取っていたものが不定詞になり、不定詞だったものがさらに動名詞になるといったような、あの大きな大補分推移と言われているような流れを多動性の観点からも言えるんではないかと、説明できるんじゃないかということなんですね。
なるほど、それから他には、非認証構文から認証構文というのも英語詞ではよく言われる、非認証構文がなくなったと言われるんですが、これと多動性というのはどういう感じですか。
それは例えば非認証の場合、つまり人が主語じゃないわけですから、人が主語になることによって、より直接的にものに働きかける、それが強まるわけですよね。
ですからそういう点では、非認証構文なんかも、やはり認証に変わったというのも多動性の方向に移っている例だろうというふうに思うんですね、私としてはね。
大きな多動性が強まる方向への変化が英語に見られるということが事実とするのであれば、それというのはやっぱりなんでと言いますか、認知的な問題だったりするのか、わりと形式的な話題だったりするのか、なかなか難しいですけれども。
やっぱり多少主観化というか、文法化で言うね、そういうことと関係しているんだろうと思うんですね。主観的に自分をより強く開剤させるというか、その結果より直接的に表現するという、自分を強く出すためにですね、そういうようなことがあるとすればですね、それはやっぱり多動性の方向にいっているというふうになると思うんですよね。
言わば、我が強くなったと言いますか、自分を押し出すというような、人を押し出すというような、これはよく英語史、以前の引用語史とかなんかでも非常に非認証的な表現が多かったと。
もしかしたらそれから始まったのかもしれないというようなところからだんだんと認証化していったという流れが、大きな流れがドリフトみたいなものであるとすると、英語だけではないという可能性もあるんでしょうかね。少なくともインドヨーロッパ語族みたいな、ちょっと大きい話にはなりますか。
でもですね、それも結構難しくてですね、例えばちょっと違います。例えば、Doの発達なんか考えるとですね、これが英語特有なんですよね。他の言語にはないんですよね。そうすると、やっぱり英語特有の変化というのはですね、やっぱりあるんですよね。
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だからそういう点は今の、ただ多動性というのは僕はより一般的に広くね、今の例よりも言えるんじゃないかなという、例えばDoの例よりはね、もうちょっと一般化してね。
例えば日本語なんかもそうなわけですね。2とOという時に、2を触れるというか、Oの方が肩に触れる、肩を触れるという時は、Oの方がより直接言うわけですよね。
ですからそういう現象があるから、日本語にもしあるとすれば、他の言語にもあるということは当然考えられると思うんですよね。
そうすると、多動詞が多くなってきたというのは単純な話だけではなくて、もうちょっと抽象度の高い多動性みたいなもので捉えるということですね。
そうですね。だから心理的とかあるいは認知的に、やはりより直接的に把握するというか、そういう仕方が多動性ということとね、やっぱり結びつくと思うんですよね。
先生がまとめの部分で、確か多動詞が多くなるということだけじゃなくて、むしろ逆もあるくらいなんでということをおっしゃって、つまり自動詞化みたいな動きもあったりするというんですが、これもどう考えればいいんでしょうかね。難しいですね。
やっぱり言語の変化は一つだけじゃないということですね。必ずそれに対抗する現象が存在するという。
だから例えば、多動性の自動性、再起代名詞がやっぱりそうなっているというのがよく言われる例なんで、それは自動詞化する例で、あれは確かにbehave oneselfというときに、one selfのあれをなくなっちゃうというのは自動詞化しているわけで、もし多動性が強まったら再起代名詞はないといけないはずだと思うんですけれども、それがなくなっているということは、ある程度自動詞化の方向もあるという。
ただ全体的に見たときにどっちが多いかということになりますけれどもね。それはもちろん詳しく見ないとわからないんですけれども、多動性の方向かなという、そういう一つの考え方ですね。
はい。駆動詞の話も前回の本と今回のイギリス哲学者の英語なんかでも出ると思うんですが、駆動詞と多動性って何か結びつくことってありますかね。ちょっと今ふと思ったんですけど。
そうですね。
もともとは多動詞が多いっていうことでもないんですか、駆動詞というフレーズアルバム。今回よく扱われたのはPUTとかGETとか典型的な多動詞だと思うんですけれども、そこにプラスアルファの意味を載せたり、アスペクチャルな意味を載せたりっていう、この辺りっていうのは多動性みたいなものとどう結びつくのかつかないのかっていうのを不当疑問に思ったんですけどね。
そうですね。フレーズアルバムの場合っていうのは多分アスペクチャルな意味合いがあるということ、それからもう一つはイディアマティックな意味を持つという、それが特徴だと思うんですよね。そうするとその種のことが多動性とどう関わりがあるかっていうのはちょっと今はわからないですね。
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あと一般に多動性というような議論をするときにどういう話題が出てくるんですかね。今いくつか挙げていただきましたけれども。
多少アスペクチャルと関係がある。例えばクライムなんてあったように、クライム・ザ・マウンテンっていうのはクライム・アップ・ザ・マウンテンとかね。ああいうときに例えば何もないと上り切った感じがするけどもという。ところがアップ・ゼンチがついて全部行かないで途中までとかね。そういう意味合いがあるとかね。そういう外位の違いっていうのは。
どこかで繋がってはくるのかもしれませんね。
ですからアスペクチャルの問題地で捉えて、それの官僚・未官僚というか。官僚した方が多動性が強いと。
未官僚的なものは多動性が弱いと。例えばですね。そういうふうなことが言えるかもしれないですね。
あとはまあ非認証公文ですかね。今はほとんど残っていないぐらいになってしまって、ミーティンクスの話もありましたけども、
It seems to me よりもやっぱり I think と言いたいというような流れが。
ミーティンクスがなくなるのはやっぱり I think が増えた結果だろう。
やっぱり連動はしているということですね。
そういう気がしますけどね。
最後にイディオム化っていう話を先生にお伺いしたいんですが、先生の専門というところなんですが、
イディオム化っていうのはどういう現象なんでしょうかね。
そうですね。イディオム化は文字通りの意味が、その文字通りの意味じゃない別の意味を持つという。
イディオマティックな意味を持つということなんですけども。
監修的な意味ということですね。
そのプロセスというのはなかなか難しいんですけども、
ただちょっと垣間見ることもできて、
例えば具体名詞が抽象名詞になるとかですね。
そういうのが一番顕著なんですね。
それが抽象名詞とそれが全体が一つのイディオマティックな意味を持ち合わせるとかね。
そういう場合で、
だから最初のベーコンとかホブゼなんかの場合っていうのは、
例えば不定関詞なんかが割合ついたような表現、
例えばルーズサイト部なんてあるんですけど、
それはルーズ、アっていう不定関詞があったんですけど、
それがなくなってルーズサイトってなって、
サイトが抽象的になって、
全体で見失うっていう意味になるというね。
そういうふうな不定関詞が多いんですけども、
そういうものが取ることによってだんだん抽象化して、
その名詞が、そしてさらに全体が一つのイディオも構成する過程ですね。
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そうなっていく、抽象化するという、
そういうプロセスがあるんですね。
それはいわゆる監修科なんですけれども、
頻度の問題みたいなものもやっぱり関係はしてくるんでしょうかね。
監視が関わる問題がやっぱり多いですか、今のような。
分かりやすいんですね。
それからもう一つは複数形だったものが、
単数にしか使われなくなっちゃう。
例えば、Take advantage ofなんていうのは、
Advantagesというのは、複数形は単独では可能なはずですけども、
Take advantage ofってなっちゃうと、
それは複数形は使えないわけですから、
そういうふうな形が決まってくるわけですよね。
そうすると、自由な、アドバンテージの立場から言うと、
自由な活動、本来の名詞としての活動が許されなくなるというか、
制限が出てくるという話にもなるんですかね。
そうですね。
このリディオム化の議論を聞くと、
常に頭にもう一個出てくるのが、
文法化という問題とか、あるいは語彙化といったり、
あの辺の用語何々かというものの関係って、
ものすごく複雑で、いろいろと先生もお考えかと思うんですが、
この辺り、今のところの先生の中では、
どういうような関係、例えば文法化なんですけれども。
普通は文法化が進んだ段階が語彙化というような説明なんですね。
だからある程度、文法化のプロセスが進んで、
究極に固まった形というか、
それを例えばTodayとかね、
そういったようなものって語彙化になったというふうな説明をするんですね。
そうすると、その中でイデウム化がどういう位置に当たるかって、
実は人によっては全く違っていろいろなんですね。
僕は別にその後がイデウム化が出てくるというふうに考えることもできますが、
同時期語彙化の、つまり、
一文言というか、ワンセクションというか、
そういう形でね、つまりそこにプラスアルファの特徴、
例えば、意味が変わったと。
つまり、もういろいろな意味から、
イデウマティックな意味が変わったという、
そういう時点ではイデウム化になっているので、
それがある意味では語彙化の一つの活動の一部というふうに考えられなくはないんですね。
だから文法化の場合はまだイデウム化というのは発生していなくて、
それがだんだん進んで語彙化になった時に、
語彙化の一つの働きとして、
イデウム化というのがそこで働いていると。
その際、その特徴としては、語彙化だったものがさらに進んでいて、
その意味が、文字通りの意味から全く別の意味に変わっていった、
その時点でイデウム化したというふうに考えているんですね、僕なんかはね。
なるほど。
この辺は本当にいろいろな考え方とか位置付けの仕方みたいのがあって、
文献を読むたびに混乱するんですよね。
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そうなんですね。
はっきり言った決定版みたいなのが、なかなかない模索中というような雰囲気なんですけどもね。
今回のイギリス哲学者の英語の中で、今回お話しいただいたような内容が、
各哲学者の文章を通じて、各チャプターで述べられており、
全体としてはやはり近代英語全体の通じ的俯瞰となっているというふうに読ませていただきました。
まさに前回ご紹介した近代英語における文法的、文的変化と、
射程はかなり似ているというか近い感じで、アプローチが少し高発が異なるということなんで、
関心がある方は合わせて読んでいただければと思います。
2回にわたりまして非常に長時間でしたが、木本先生に大変貴重なお話を伺いました。
木本先生ありがとうございました。
ありがとうございました。