【文化人類学】出社回帰はなぜ進むのか|会社に行きたくない理由も考えた
2026-11-03 36:12

【文化人類学】出社回帰はなぜ進むのか|会社に行きたくない理由も考えた

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「家でも仕事はできるのに、なぜ会社に行かなきゃいけないのか」

出社回帰が進むいま、文化人類学研究者の室越龍之介さんと、「仲間」と「儀礼」を手がかりに考えます。

仕事はできる。でも、チームの熱量は同じようにつくれるのか。
挨拶や朝礼、飲み会や合宿は、ただ非効率なだけなのか。
そもそも人は、どうやって「同じ仲間だ」と感じるようになるのでしょうか。

効率や合理性だけでは見えてこない、「人が同じ場所に集まる意味」を文化人類学から掘り下げます。

この番組は、知っているつもりの「当たり前」を毎回ひとつ取り上げ、専門家と一緒にほどきながら、最後は「〇〇とは?」という問いに、自分たちなりの答えを出していく番組です。

▼この回で出てくる話

・テキストやビデオ通話では伝わりにくい「言葉以外の情報」
・仕事にも「これは仕事だ」という共通のルールがある?
・リモートでは、なぜチームの熱量が生まれにくいのか
・「精霊を信じますか?」が、現地ではまったく違う意味に聞こえた話
・挨拶や朝礼も、仲間をつくる「儀礼」なのか
・嫌がられる飲み会と、続けるうちに文化になる合宿の違い
・「心理的安全性が大事」と言うほど、逆に言いにくくなる?
・どこまでを「仲間」と思えるかで、働く人の幸せは変わる?

▼目次

オープニング
なぜ、出社回帰が進んでいるのか
人は、どうやって仲間になるのか
飲み会や合宿に、意味はあるのか
出社は、働く人を幸せにするのか
出社回帰とは、何なのか

▼出演

ゲスト:室越 龍之介(文化人類学研究者)
大分県出身。大学院で文化人類学を学び、キューバや日本の地域をフィールドに調査を続けてきた。行政機関や民間企業での調査・研究を経て、現在は企業向けに文化人類学や人文学の知見を届けている。

ホスト:木下 寛大(株式会社Wellnize 代表取締役CEO)

▼室越さんの回(全4回・毎週火曜18:00UP)

① 【文化人類学】なぜ会社に行かなきゃいけない?|出社回帰を「仲間」と「儀礼」から考える ← この回
② 職場に馴染めないのは、自分のせい?|馴染める人と馴染めない人の差(11/10 公開)
③ 【文化人類学】いい人と一緒にいると、なぜ疲れるのか|お土産やお返しが重い理由(11/17 公開)
④ 仕事がしんどいのは自分が弱いから?|研究者が仕事をゲームと呼ぶ理由(11/24 公開)

※この番組でお話ししている内容は、出演者個人の見解です。

▼Wellnizeについて

Wellnizeは、株式会社明治とベンチャー2社(Co-Lift、ゲキジョウ)による合弁会社で、ウェルネステックベンチャーです。
「LifeをもっとWellに」をミッションに、食と健康の領域で新しい商品・サービスづくりに取り組んでいます。

自分の腸内環境のタイプがわかる腸内フローラ検査と、ココア飲料がセットになったサービス「インナーガーデン」を提供しています。

こうした食と健康の新しい体験を、一緒につくる仲間も募集しています。

#出社回帰 #文化人類学 #イカドウカ

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サマリー

文化人類学研究者の室越龍之介さんと、出社回帰が進む理由を「仲間」と「儀礼」から考える。対面では表情や声色、体調などの非言語情報が伝わり、同じ時間・空間を過ごすことでチームの共通認識や熱量が生まれやすいと語られる。仕事はルールを共有して参加するゲームのようなもので、出社や挨拶、朝礼などの儀礼が仕事のモードへの切り替えを支えるという。精霊をめぐる異文化理解の行き違いや、桃太郎の劇を例に、儀礼や物語が集団の世界観と仲間意識を形づくる仕組みも説明される。 飲み会や社員旅行は全員を巻き込もうとすると嫌がられやすい一方、年2回の合宿や月1回の対面全社会を続けることで、参加者が「合宿をする人々」という自己認識を持つ例が紹介される。心理的安全性も、言葉で掲げるだけではなく、自己開示や反論せず受け止める経験を重ねることで身体的に理解される。出社が働く人を幸せにするかは、会社や部署の人をどこまで仲間と思えるかに左右され、仲間の範囲が広いほど幸福につながる可能性がある。最後に、出社回帰とは「仲間づくりである」とまとめられる。

出社回帰を文化人類学から考える
家でも仕事はできるようになった。それでも出社に戻す会社がある。 なぜ、出社回帰が進んでいるのか?
人はどうやって仲間になるのか? 飲み会や合宿に意味はあるのか?
そして、出社は働く人を幸せにするのか? 出社回帰の正体を文化人類学の目で考える。
本日のテーマは、なぜ出社回帰をしているのか?
もともとコロナ禍ぐらいから多くの企業でリモートワークを推進してリモートワークの環境を整ってきていたのですが、
ここ数年、特にアメリカのテック企業を中心に出社回帰の流れがあるということを、
普段のビジネス的な観点ではなくて、文化人類学という観点からいろいろと考えてみたいなということで、
本日は文化人類学研究者の室越隆之助さんにお越しいただきまして、よろしくお願いします。
ということで、出社回帰みたいな話をしたときに、
どうしてもビジネスの文脈だと、もともとリモートのほうが効率的なのではないか、ライフスタイルの多様性にあっているのではないか、みたいなことで、
もともとアメリカの大手テック企業が2010年前後ぐらいだったと思うんですけど、どんどん流行り始めて、
コロナ禍で一気になかなか出社できないという状況の中でいろんな企業を対応してみたいな流れの中で、
最近、出社回帰だよなとなっているというのを、ビジネスの文脈でいくと、結局オフィス代はどうなんだとか、
そのほうがチームワークっていうか、チームワークみたいな、そういうスピリチュアルなものをみんななんでそんなこと言ってるんだみたいな話も結構あるかなと思うんですけど、
非言語情報とチームの共通認識
人類学という目から見たときに、出社回帰がどう見えているのかみたいなことって、どういうふうに見えるものなんですか?
そうですね、僕自身は出社回帰してくれって言われたら嫌だなって思う気持ちはあるんですけれども、
でも同時に出社回帰してほしいって思う気持ちもわかるなと思っていて、というのは僕たちのコミュニケーションって、例えば言語とかがあると思うんですよね、
リモートワークのときってテキストベースでコミュニケーションしたりとか、オンラインのウェブ会議みたいなビデオ通話でコミュニケーションするみたいなことになるかなって思うんですけど、
コミュニケーションのバランスがすごく言語によるっていう感じかなって思っていて、でも人間ってよくよく考えると言語以外にいろいろな情報を発信しているわけですよね、
表情もそうだし、どういうふうな声を使うかとか、どういうスピードで話すかとか、どういうふうなバイブスを出しているかみたいな雰囲気を出しているかみたいな、その日どういう服を着ているかもそうだし、顔色とかも
そうですよ、体調とかも、
対面だとなんとなくわかるみたいな、今日機嫌悪そうだなとか、今日機嫌良さそうだなみたいな、そういうふうな非言語的な情報っていうのが、
多分テキストベースのコミュニケーションだとごぞっとなくなるんだと思うんですよね、これが機嫌良さそうにこれやっといてっていうのと、機嫌悪そうにこれやっといてっていうのではかなり違うのに、
テキストベースではそれを判別できないみたいなことが多分あって、そういうふうなちょっと普段のコミュニケーションとは一個メタレベルのコミュニケーションみたいなものが対面の方がわかりやすいみたいなのがやっぱ
あるんだろうなと思いますよね。
リモートワークが流行り始めた時に、逆の視点でリモートワークでうまく仕事できない人ってたくさんいるなって思った記憶があって、
その一つがやっぱり言語で自分の状態を相手に伝えるとか、あとオフィスにいたら見ればわかるけどリモートだと姿が見えないから、
自分で言葉で伝えないといるかいないかすらわからないみたいなことに対する感覚とか感度がすごい低い人多いなって思ったんですけど、
結局、裏を返せばそういういるかいないかって見ればわかるよねみたいなものが何かしら機能を果たしてたっていうことにみんな気づき始めてるみたいなそういうことなんですかね。
じゃないですかね。もっと言うとそれが一対一の関係っていうより集団内で共通の認識基盤みたいなのを持つのにやっぱり集団が同時にそこにいるみたいなのが大事なんじゃないかなと思っていて、
そうなってくるとオフィスに一斉に人間がいるみたいな方が、いちいちいろんな人とコミュニケーションを取るよりももしかしたら簡単なのかなと思うんですけど。
それって何なんですか。例えばお仕事を効率的に進めようと思ったときには、そんなにいらないんじゃないっていう。普通に仕事すればいいじゃんみたいな感覚も同時にあったりするんですけど、そういうのってどう
いうふうに考えるのがいいんですかね。
仕事をゲームにする儀礼
そうですね。文化人類学の中で時々言われることの一つですけど、人間の行為ってある種ゲームみたいな、遊戯的な、遊びに近いものがあると。
遊びっていうのはルールがあるわけですよね。そのルールの中で特定の振る舞いをするっていうことが決まっている。
例えば鬼ごっこになったときに、あなたが鬼ですって言うと、その鬼が他の子供たちは追いかけるっていうふうな、そういうふうなゲームであるっていうことの了解があるわけですよね。
あなたが鬼ですっていうのは、本当にその人が鬼に突然角が生えてきてトランスフォームするわけでもないし、その鬼に追いかけられるっていうのは本当に食い殺されるから一生懸命逃げるわけではないわけですよね。
そういうふうなゲームをするっていう、そういうふうなメタレベルのコミュニケーションがあるんだ。これは遊びであるっていうふうな。
たぶん仕事も、例えばオフィスに行くということが、これは仕事をするのであるっていう、一個のメタレベルの共通のルール、共通のモードみたいなものに人間をチューンするんだと思うんですよね。
このチューンみたいなのが案外難しいっていうことなんだと思うんですよ。
それってだから例えば、家だとなかなか仕事がうまく進められないみたいな人っていうのがなぜできないのかっていうのが、言ったらオフィスに行くみたいな儀式を挟まないと、そこでログインしないとうまくゲームに入
ってプレイできないみたいな感覚ってことなんですか?
そうだと思います。おそらく人間はそれを意識的にやるのはちょっと下手なんだと思うんですよね。
だから博打とかのことを考えてもらったらいいと思うんですけど、博打って一種の遊びじゃないですか。
みんな自分の生活にとってどうでもいいような量のお金っていうのを掛け張ってるところから始まるわけですよね。
勝っても負けても面白い掛け事っていうゲーム自体が面白いのであるっていうところが始まるんだけれども、それがだんだん負けが重ねてくるとみんな白熱してくるわけですよね。
勝ちが重ねてきてももっと勝てるかもしれないと思ってどんどんシリアスになっていく、真剣になっていくわけで、
ここからここまでは遊びで、ここからここまでは本気なんだみたいなことっていうのを意識的にスイッチングするわけじゃなくて、シームレスに突入していくんだと思うんですよ。
なので僕たちってそのモードみたいな、今これがどういう場なのかみたいなモードっていうのをあんまり意識的に制御できなくて、
それを制御する技術みたいなものが人間社会にはあると。それがさっきカンタさんがおっしゃったような儀礼とか儀式とか呼ばれるものっていうのはそうなのかなっていうことですよね。
なるほどね。確かにリモートワークが主体になって、すごく感情的な表現にいくと熱量みたいなものがすごく高めにくくなったみたいな感覚は実感値としてはあるんですよね。
やってる仕事とかやってる授業は変わらないのに、全然乗ってこないなという感じですね。
それは自分がというよりはチームがみたいな感覚が結構あって、個人でも仕事がリモートでやれる人ってやれない人っているよねっていう話と、個人としてはやれる人たちが集まっても結局チームとしての機能ってオフ
ラインのときとオンラインのときと本当に一緒なのかっていうとちょっと違うなみたいな感じがあって、
今のはどちらかと言うと校舎の話ってことですよね。
はい、そうかなと思いますね。
なんかやっぱそのチームの熱量みたいなものを上げなければいけないときっていうのはやっぱり替え面の方がいいのかなと思っていて、
っていうのはその仕事がある種定まっていて構造化できてそれを切り分けられてそれを統括できる人がいるとかなら多分できると思うんですよ。
実際僕たちが使ってるスマホとかって事実上そのように作られていると思うんですよね。
ネジ作る人がいてパネル作る人がいてみたいなそれをアッセンブルする人がいてみたいな感じでやるのと同じで、
どのような仕事もその分業していくことで進めること自体はできるんだけれども、
それでじゃあ実際にそのシンセンの工場の人とペトラマの工場の人がワンチームだと思ってやってるかっていうのはやってはないと思うんですよね。
それは別法人だからみたいな考え方もあるかもしれないけど、
例えば同一の法人でハワマツの工場の人と川崎の工場の人が本当に仲間だと思っているかみたいなことってあるかと思っていて、
そうすると一緒の時間を過ごしているとか同じような身体の使い方をしているっていうのが人間にとっては結構重要なシグナルになってるんじゃないかなっていう。
今の話って仕事業務みたいなものの完遂っていうことだけにフォーカスすれば分業はできるけど、
チームとしてそれをやっているんだみたいな感覚みたいなものは分業だとなかなか養われにくいって話だと思うんですけど、
人類学的にチームとか味方みたいなものを人がどのように形成していくのかみたいなことって分析されてたりするんですか?
精霊と物語がつくる仲間意識
そうですね。ちょっと例えを出すと、世の中には縦の島々とかだと精霊というものが存在するよねっていう社会があるわけですよね。
僕の先生が例えばフィリピンで調査した事例だと、調査者である先生が現地の人にあなたは精霊を信じますかって聞いたわけですよね。
これが日本に住んでいる僕たちの感覚だと、妖精がいると思っていますかっていう質問だと理解しますよね。
でもその現地の人はそれをどういう質問か分からなくて、それって精霊の言うことを信じますかっていう質問ですかって聞き返したんですよ。
つまりその人にとっては精霊がいるっていうのはあまりにも当然だから、精霊のことを信じますかって言った時にその精霊が喋ることが本当か嘘かっていうことを
聞かれていると思ったっていうことなんですよね。
これってかなり根本的なレベルっていうか根源的なレベルで世界をどのように認識しているかっていうことが違うわけですよね。
これを簡単に言うと文化差みたいに僕たちは言うわけですけど。
今のって精霊という存在を信じるかという質問なのかと思ったら、精霊というのは存在するのは当たり前で、
それはなんかいるいないの話じゃなくて、精霊が言ってることをちゃんと信じますかっていう、なんかもう一個先のいる前提の話だったっていうところにジャップがあったっていう話ですね。
僕らが例えば宇宙人っていると思うみたいな、宇宙人って信じるって言われた時には宇宙人がいるかいないかの話してると思うんだけど、
宇宙人がいるのが当たり前の人にとっては宇宙人が言ってることを信じてるのかっていうふうに一個先の質問だったみたいな。
で、それっていうのはどういうふうな、僕たちが今いる世界っていうのはどのような世界と認識するかっていうのが人間にはあるわけで、
それっていうのは結構多様、だから先天的に決まっているわけじゃないんですよね。
そのいろいろな地域とか場所とかによってどういうふうな世界を持っているのかっていうことが違うんだっていうことかなと思っていて、
で、それがどういうふうなメカニズムでなっているかっていうと、
その一個の説明っていうのがやっぱり儀礼を通してやってるんじゃないかと。
同じ儀礼をやると同じような世界観を持つんじゃないかっていう話ですよね。
例えば日本だったら子供の時にみんなで桃太郎の劇をやるみたいな。
桃太郎という本があり、桃太郎という物語があって、その物語をみんなで演じると。
その演じた結果、例えば物語の些細な部分ですよね。
きびだんごをもらったら一緒に戦わなければいけないみたいな。
そのようにして仲間って作るのがあるとか、何かをもらったりすることによって、
その貸し借りの関係によって仲間っていうのは作られるのであるとか、
それを奪う鬼みたいな悪い存在がいた時に力を合わせて戦わなければいけないのであるとか、
悪い存在といい存在がいた時に基本的にいい存在が勝つのであるみたいな、
その根本的な世界認識みたいなものを、演劇とか物語をこうして僕たちは学んでいくっていうことかなと思うんですよね。
なんかその、例えば桃太郎みたいなのとか、童話とかってストーリーの中に道徳とかが埋め込まれているみたいなこととか、
結構学びだったりみたいなものが埋め込まれているなっていう中で、
そのストーリーの中に埋め込まれている道徳学びとか、
やっている人一つ一つの些細な行為とかが、
ある種その文化、その集団の文化のパッケージされたものだみたいなそういう考え方っていうことですね。
そういう考え方ですね。
挨拶・朝礼・身体を共に動かすこと
その儀礼っていうのは、例えばお祭りみたいなのとか演劇みたいな大きいものだけじゃなくて、
例えば挨拶とかもそうですよね。
例えばある会社でチョリースチョリースっていう挨拶をする会社と、
ウッスウッス挨拶をする会社では多分そのカルチャーが結構違うと思うんですよ。
そもそも挨拶しない会社もそうですからね。
あるあるあるし。
とかその朝礼の時に、例えば安全確認みたいなする会社と、
朝礼の時にその営業目標みたいなのを設定して、
それをしないといけないって考える会社では、
結構その仕事をする上で一番大事にしなければいけないことっていうのが、
また全然別のこととして観念されてるんじゃないかなと思っていて、
そういうものを通して僕たちの文化差っていうか、
その何ていうか違いみたいなものが出てくるんじゃないかなという感じですね。
このなんか儀礼を通して仲間を認識するみたいな話って、
さっきのオフィスの挨拶とかでいくと、
チョリースっていう挨拶をするという儀礼をみんながすることで、
チョリースの仲間ができるし、
ウッスというのを通してウッスの仲間ができて、
ウッスっていうところにチョリースの人がいると、
こいつは違うなって思われるみたいな形で、
内と外っていうものを同じ儀礼を踏襲しているかっていうことで判別してるみたいな、
そういう意味合いなんですかね。
そういう部分もあると思いますね。
それさっきのリモートからの出社回帰みたいな文脈に戻すと、
結局リモートワークでは、
なかなかそういう儀式、儀礼みたいなものが起きにくくなるみたいなことなんですかね。
そうだろうなって思うんですよね。
儀式や儀礼にすごく大事なのは、
身体の動機みたいなものだと思うんですよ。
例えば、僕たち音踊りをやるとか、
一緒に踊るとか、
みんなで行進をするとか、
みんなでサッカーをする、ダンスをするみたいなことを通して、
みんなで似たような動きをするとか、
みんなで一緒に動くみたいなことが多分大事で、
挨拶もそうですよね。
ラジオ体操とかもそうだし、
それをテレワークだと実現しづらいってことだと思うんですよね。
確かに。
朝、例えば毎日リモートで朝礼しますっていう会社も結構あると思うんですけど、
確かに体感としてオフラインで集まって朝礼するのと、
リモートで朝礼するのは確かに違うな感はあるんですけど、
それって同じ時間に集まって言葉を交わすということよりも、
同じ場を共有するみたいなことが結構大事ってことなんですか?
じゃないかなって思いますね。
オンラインでウェブ上で定期的にミーティングをするみたいなのは、
それはそれで一個の儀礼になり得ると思うんですよね。
それをすることによって伝えられるものっていうのと、
実際に対面で集まることによって伝えられることみたいなのは、
やっぱり多分違うんだと思うんですね。
それはさっきのチョリースの人たちとウスの人たちが違うように、
毎朝オンラインで朝礼をする人たちと、
毎朝オフラインで朝礼をする人たちのカルチャーが違うっていうことだと思っていて、
それが例えば職種とか仕事をやる上で、
どちらが適しているかみたいなことはあるのかなと思うんですけど。
合宿が文化になるまで
例えばじゃあみんなの結束を高めようみたいな感じで、
レクリエーションとかすると大体嫌がられるじゃないですか。
大体滑るじゃないですか。
飲み会とかね。
飲み会とか。
最近みんな疲れてるから飲みに行こうとかって言うと、「え?」ってなるじゃないですか。
あと今どき社員旅行行こうとかって言っても嫌ってなるじゃないですか。
だからそういう機能する儀礼と機能しない儀礼みたいなのっていうのは体感としてあるなって思うんですけど、
何で分かれるんですかね。
そうですね。
いくつか考え方あるかなと思うんですけど、
一つは今いる人全員を放説しようとするとすごく難しいと思うんですよ。
僕今一緒に仕事をしている会社さんだと、完全にリモートワークの仕事なんですが、
それでも年に2回合宿があって、月に1回は全社会、それ対面の全社会っていうのがあるんですよ。
それを導入当初っていうのは結構嫌がられて、
合宿も止まらずに帰る人とかそもそも来ない人とかはいたんだけれども、
本当に馴染めない人っていうのはやっぱ辞めていかれたし、
嫌だった人もそれが4,5年続くとだんだん慣れてくるというか、
これはこれでみたいな話になってくる。
それが多分カルチャーを作るっていうことだと思うんですよね。
で、合宿をすることで何があるかっていうと、
自分たちは合宿をする人々であるっていう自己認識も生まれるし、
それに基づいた共通の世界観みたいなのが出てくると思うんですよ。
どういうことですか?
つまり僕たち、さっきもお話ししたと思うんですけど、
僕たちのコミュニケーションに大事なのは、
一個メタ的な情報っていうことだと思うんですよね。
もう一つはコンテキストが大事だと思うんですよ。
今ここで何かを喋る。
これをメタの対義語としてオブジェクトレベルという言い方をしたとして、
心理的安全性と共有される文脈
今ここで何かオブジェクトレベルの発言をすると。
で、そのオブジェクトレベルの発言をしたときに、
それがどういうふうなメタレベルの情報を伴っているか、
どういうふうな文脈にコンテキストにのっとって発言されているかっていうことがないと、
そのオブジェクトレベルで何を喋っているかっていうのは実は読み解けない。
で、それが対面で特に合宿とかをしているとだんだん揃ってくるんですよね。
これがどういうふうなメタレベルのコミュニケーションなのかっていうことがみんなが分かってくる。
これをオブジェクトレベルの言葉を使いながらメタレベルを揃えるのがすごく難しいんですよ。
たとえばその心理的安全性とかがそうだと思うんですよね。
心理的安全性、僕たち大事ですよねってみんながいくら言い合っても全然心理的安全性高まっていかないと思うんですよね。
むしろ言えば言うほど低くなっていく。
低くなっていく。怖くなっていくんだけど。
たとえばその心理的安全性を高める施策として、もうちょっと自己開示をしてみましょうとか、
嫌だった話をしてみましょうとか、嫌だった話をして聞いた人反論せずにそれを受け入れましょうみたいなことをしたら、
なんとなく心理的距離が近寄ってきて、ここってそれを言ってもいい場なんだっていうことが体でわかってくるじゃないですか。
ってなってくると、そういう集団では心理的安全性がちょっとずつ高まっていきますよね。
コンテクストもそうで、何かみんなのために言ったこと、それが正しいにも関わらず情緒からすごくこっぴどく痛みつけられたみたいな経験があるとだんだん言えなくなってくるんですよね。
そのような文脈が重なっていると、ここは心理的安全性がない場所なんだっていうモードになるわけで、
そうするとさっきおっしゃったように心理的安全性大事だよねっていうオブジェクトレベルの発言があっても、
みんなはそれを逆の意味だと解釈するようになっていくコンテクストを踏まえてっていうことになるわけですよね。
これが意見無駄に見えるような飲み会とか合宿とかをすると揃ってくるっていう話かなと思うんですね。
そのコンテクストとメタの情報みたいなものをまた言語的に扱うということもできるんじゃないかと思うんですよね。
例えばそのコンテクスト自体はさっきの出来事レベルの話って言語で捉えられるし、
メタ的な話も結局コンテクストに依存して何を意味しているのかみたいな話って付与できるような気はするんですけど、
結局それが具体的なオブジェクト、言動みたいなものからどのようなメタ的なものが付与されているとか、
どのようなコンテクストから発してられているのかみたいなことを解釈する側が、
同じ、発している側と同じメタの認識、コンテクストみたいなものを想起しないといけないというところが今の話のポイントだったのかなと思っていて、
そこを合わせるみたいなことが結構オフラインでのコミュニケーションじゃないと人間にとってまだ難しいんじゃないかということなんですかね。
多分そのコミュニケーションの密度みたいなのもあると思うんですよね。
というのは、このメタレベルが揃っているよということがお互いに分かるためにはオブジェクトレベルのコミュニケーションでメタレベルが合っているなという感覚をお互いに得る必要があるんですよ。
それをすると僕のアクションに対してリアクションがあり、それに対してリアクションをして、リアクションをしてっていうのがすごく高密度にあるとメタ合っているなという感じが多分体感として得られると思うんです
けど、
それをテキストベースでやろうと思うと膨大なテキストが必要になるっていうことだと思うんですよね。
それがプロジェクトが過境に入ってから全然揃っていないことがある日分かるみたいなこと多分な。
車運転してて助手席に乗ってて、助手席の人が飲み物の蓋を開けたときに自分で飲むために開けているのか、自分に飲ましてくれたために開けているのかみたいなのが仲良いとすごいフインって分かるじゃないですか。
そこで仲良いと開けてくれたんだなと思って手伸ばして飲むんだけど、あんまりそこがうまく揃ってないと自分で飲むために開けたら運転席が手伸ばされて、何お前みたいになるみたいなそういうことが起きるみたいなのが
揃ってない。
この阿吽の呼吸とかツーカーな感じみたいなものを形成するのが結構オフラインでの日々時間を一緒に過ごすみたいな経験が結構重要なんじゃないかということなんですかね。
そうですね。実際の何か課題をこなすみたいなこととかも大事なんだと思うんですよね。
なんか炎上プロジェクトを一緒に乗り越えた人ってすごい仲間だなって思いますね。
で、次やるときにそのときの高密度なコミュニケーションから始められるじゃないですか。
そういうのが多分大事なんだと思うんですよね。
あと何て言うんですかね。ピンチの時にこの人はどうするのかみたいなことを一回一緒に経験しておくと、普段のコミュニケーションの癖とかも結構見えやすいんですが、
ここの人はこう言ったらこう捉えるだろうなとか、こう言ったらこう返すだろうなみたいなことの予測精度がすごい上がる感覚はあるじゃないですか。
で、炎上プロジェクトみたいなものは多分結構オンラインでやってても、その仲間になる感が作れるなと思うんですけど、
やっぱりその炎上をしたくないから、炎上させずにそういう感覚を形成しようと思うと、
割と高密度なコミュニケーションをデイリーの中で、業務だったり日々の生活の中で行われている方がいいのかなっていう意味で、
結局出社して一緒の空間で時間を過ごすっていうのがそういう役割になっている、そういう機能を果たしているみたいな側面があるんじゃないかみたいなことなんですよね。
そうですね。で、やっぱりそれが面白いなと思うのが、例えばチームビルディングとかを提供している人たちの参与観察してみると、
ゲームとかでもいいわけですよね。
紙を、A4の紙を20枚ぐらい渡して、4チームぐらいに分けて、一番高くまで積み上げられたチームが勝ちですみたいな。
ありますね。研修とかでいう感じですよね。
で、そうやると案外出るわけですよね、みんなが。
ボードゲームとかもそうですよね。
ゲームって案外人間性を隠せないというか、こいつゴスイって出してくるなとか、こいつは本当に物を2手先を考えないやつなんだなみたいなのが隠せないじゃないですか。
それをすることによってお互い分かってくるというか、こういう感じなんだなみたいな。
で、それってやっぱり仕事に持ち込まれている。
で、それがその研修とかチームビルディングみたいなもののほうが分かりやすいっていうのは、やっぱルーティンの業務っていうのはみんなある程度やり慣れてるから、隠せるっていうか僕たちのオブジェクトレベルの言語
でもそうなんですよね。
こうやったら闇になっちゃうかもとか、こうやったらちょっと攻撃的かもっていうのは隠せるんですけど、いざむき出しな状態になると隠すのは難しいみたいなのがあって、
で、それを炎上プロジェクトとかだとやっぱ隠せないからみんな余裕がなくて。
またパツパツになるから。
隠せなくなると。
思いのほかのところまでやっぱ共有しているんで、同期できている状態になるかなと思うんですよね。
仲間の範囲と働く幸福
組織というかチームビルディングみたいな経営の視点から見たときに、確かにメタレベルで同期していくみたいなことがなかなかリモートワークだと難しいんだなみたいなことは思った一方で、
個人レベルで見たときに、会社の都合はそうかもしれないけど、俺出社したくないしみたいな。
そういうメタレベルに同期するみたいなことって、僕らにとってどれくらい、自分のウェルネスというかウェルビングみたいな文脈でどれくらい重要なんだろうみたいな話とかって、人類学の観点が何かあったりしますか?
人類学の観点ではないんですけど、前に様々な社会における善について調べてみたことがあって。
グッドネス、多くの社会で共通してグッドネスだとされていることはあるかとか、例えばその儒教における良さとキリスト教における良さというのはやっぱりちょっと違うわけですよね。
例えばアメリカ的な良さって論理的に相手に合理的にしっかりちゃんと伝えることだったりするのが、日本人的にはストレートに言うのってちょっと良くないよねみたいな差があるよねみたいな話ですよね。
そうですね。例えば仕事を優先した方がいいのか、家庭を優先した方がいいのかでも文化差あると思いますし、じゃあ共通する善みたいなものっていうのはあるのかっていう話をしたときに、ちょっと僕の知見では見当たら
なかったんですよね。
ただそれを一個抽象的なレベルにするとみんな似たようなことを言っているなとも考えられて。
それは我々の仲間に対して我々が良いとされていることをやるっていうのは良いことであるっていうちょっとトートロジーなんですけれども、それがその仲間に対して何か貢献するっていうことは良いことだっていうのは結
構共通しているんじゃないかなと思っている。
出社が幸福がどうかっていうのはやっぱ会社の人たちを仲間だと思っているのかどうかみたいなことかなと思っていて、その帰属感覚みたいなのが例えば会社じゃない仕事じゃないってなるとそれはやっぱ幸福じゃないだ
ろうし、
例えば仕事が楽しくて一緒にやってる人たちといい感じでプロジェクトを進められるみたいなのがあると、やっぱそれは健康にもつながってくるのかなとは思いますね。
いいこと、善をなすみたいなことっていうのは人間的には精神的にも良いことなんですかね。
じゃないかなと思いますね。だって多くの文化でそれを目指してますからね。
だからやっぱり良いことをするときに良いっていうのは善という意味では良い仕事でもいいと思うんですけど、
お仕事を持ったときには普遍的な善みたいな、例えばこういう人はいい人ですっていうことはあんまりないんだけど、仲間が喜ぶこととか仲間にとって良いことっていうのを自分がそれをするっていうことは割と普遍性が
あると。
そのための前提としてお互いがお互いの仲間だと思っているみたいなことは結構重要で、そのチームの中で何が良いと思っているかみたいなのが共有されているのはその次であって、それを自分がするみたいなことが次のス
テップであると思うんですけど、
それを全部リモートワークだけでできるんだったらそれはそれでいいと思うんですけど、割と今までのリモートワークでお仕事をする中でうまくいかない事例だったりとか、いろんな会社が出社回帰している背景にはやっぱ
り一緒に場と空間と時間を一緒に共にして自分たちが仲間であり何を良しとしているかみたいなことに対して、
非言語的にお互いに了解しているみたいな状態を作るっていうのが割と何だかの一番最短距離だったりするんじゃないかみたいな話。
出社回帰とは仲間づくり
そうですね。それもう一つやっぱりポイントは何を仲間と考えるのかが結構違うわけですね。
例えば、古代ギリシャにおける徳みたいなことを考えていくと、やっぱり自分のポリス、都市国家の市民っていうのがやっぱり仲間なんですよね。
別の都市国家の市民は、ギリシャ人という意味では大きな意味では仲間なんだが違うとか、奴隷は仲間でみんな人間とかあるわけで、
それは例えばキリスト教みたいな話になると、人類みたいな話になっていくわけです。
人間っていうのはみんな仲間なんだよねっていう前提に立っていったりとか、それがアマゾンの狩猟祭周辺とかだと、この森に住まう同植物すべてみたいな話になっていったりとかして、
これは組織にも言えると思うんですよ。
この会社全体を仲間だと思っているのか、業界全体を仲間だと思っているのか、それともこの部署のメンバーだけを仲間だと思っているのか、
会社に行きたくないっていう人は多分、あまり仲間がいないんじゃないかなと思っていて、だからやっぱり辛いのかなと思うんですよね。
僕も出社したくないんですけどね。
おっしゃる問いだったと思うんですよね。
だからやっぱり、そうですよね。
部署が違ったら別の会社ぐらい距離がある会社ってたくさんあるじゃないですか。
だからやっぱり仲間だと思える範囲が、多分広ければ広いほど、自分にとっても幸福だと思うんですよね。
そうなんですよね。
そこが広いほど、だからその仲間が喜んでいたら嬉しいわけです。
隣の部署が目標達成して喜んでいるときに、仲間だったらと思っていたら嬉しいけど、仲間だと思っていなかったらうるせえなってなるみたいな、そういうことだと思います。
おっしゃるとおりですね。
その範囲をどう拡張していくのかみたいなときの、一つの有効なハウとして、一緒の空間、時間を共にするみたいなことが、この出社会期っていうことに表れているんじゃないかなと思うんですよね。
それを決めた人たちがこういうことを考えてやっているとは思わないんですけど、人間の一般的な振る舞いとしては、そういうところもあるのかなって感じですね。
合理性を追求し続けるUSのテック企業みたいな人たちが出社会期しているみたいなところに、結局人間がプレイするゲームの合理的な回として、何らかの対面があるんだろうなみたいなところは思っていたので、
そういうふうに分解して考えてみると、出社はしたくないけど、一理あるかもなって思ってきました。
今日ありがとうございました。
この番組ですね、最後にその話したテーマについて〇〇とは〇〇なりと一言にまとめたいなって。
今のテーマは出社会期ということで、人類学研究者がまとめる出社会期とは〇〇だと。
分かりました。
お願いします。
出社会期とは仲間づくりである。
トンピシャじゃないですか。
綺麗に収まりつきましたね。
すいません、ありがとうございます。
というわけで本日は文化人類学研究者の室越龍之介さんにお話を伺いました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
私たちの会社の仲間も募集しています。興味を持っていただいた方はぜひ概要欄から私たちの会社のことも見てみてください。
36:12

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