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#45 ノリや雰囲気が尊重され、不都合な真実が嫌われる風潮について
2026-07-28 15:04

#45 ノリや雰囲気が尊重され、不都合な真実が嫌われる風潮について

正解がない世の中なんて最近ではよく言われますが、正解がある問題については当然普遍の真理としての正解があります。ただ、世の中の流れとして、雰囲気や協調性のような「ノリ」を重視して、正解を軽視する、あるいは、「心地よい嘘や間違い」が歓迎されることがあります。この動画では、心地よい嘘や誤情報に流されることはあまり褒められた話ではないという僕の意見を、ざっくばらんに紹介しています。


【プロフィール】

そっちゃそ(⁠⁠⁠⁠@trans_souta⁠⁠⁠⁠)。フリーランス産業翻訳者。東京工業大学(現:東京科学大学)大学院修了。2019年よりフリーランス産業翻訳者として開業し、現在に至る。専門は技術、IT全般。副業として語学指導や発音指導も手掛ける。ご意見・ご感想は⁠⁠⁠⁠公式HP⁠⁠⁠⁠のお問い合わせフォームからお気軽にどうぞ。ライオン君との共同ホストPodcast番組、『⁠⁠⁠⁠円卓上のイエティ⁠⁠⁠⁠』にもレギュラー出演中。


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サマリー

そっちゃそ氏が、正解が存在する状況でも「ノリ」や「雰囲気」が尊重され、不都合な真実が嫌われる現代の風潮について考察します。心地よい誤情報が歓迎され、客観的な正解が軽視される現象は、語学学習やインフルエンサーの影響にも見られると指摘。多数派の意見が必ずしも真実ではないことを歴史や科学の例を挙げて説明し、規範文法と規律文法の対比を用いて、状況に応じた「正解」と「ノリ」の使い分けの重要性を強調しています。特にYouTubeなどの解説動画において、分かりやすさが重視されるあまり、正確性が犠牲になる現状に警鐘を鳴らしています。

はじめに:今回のテーマ「正解と不正解」
こんにちは、そっちゃそです。 この番組、そっちゃその語学ラジオでは、
語学学習というテーマを軸に、その本質やあり方について、 哲学的に考えていきます。
ここで扱うエピソードは、もともとYouTubeに公開した内容をもとに、 音声コンテンツとして再編成したものです。
映像がなくても理解できるように設計していますので、 通勤中や作業中など長な時間にもぜひお楽しみください。
それでは今回のテーマに入っていきましょう。
今回は動画のネタは、多分英語学習とか語学学習によったものじゃなくて、 もうちょっと一般的、普遍的な内容になると思います。
たぶん、哲学チックな話になるかもしれません。
今回は間違いとか正解とか、そういう言葉で形容される話について、
我々が正解と言ったり不正解と言ったりしますよね。 日常の中でこれは間違っている、これは合っていると言いますけど、
そういう真偽に関する話、真偽に関することをテーマにして、 ザック・バランに話をしたいと思います。
普遍の真理としての正解の重要性
正解がある、正解がないっていうのはよくありますよね。 正解がある問題、正解がない問題ってよく言いますけど、
もし正解がある問題で正解を出せる場合って、 当然正解を出した方がいいじゃないですか。
富士山の標高は3700何とかメートルですって正解ですよね。
主観は入ってこないですし、誰の主観も入ってこないですし、 誰の主義的な要素も入ってこないです。
それは普遍の真理、普遍の事実ですよね。
例えば誰々さんは富士山の標高を2000メートルだと思ってますよって言ったら、 これおかしいじゃないですか。
普遍の事実が増えて、それは意見は人それぞれ、正解は人それぞれ、 みたいなぬるい文言は入ってこないですよね。
これが正解が出せる場合に正解を出すことっていう話なんですけど、
もしこれが正解ですっていうふうにビシッと言えるような状況である場合には、 正解を当てた方が当然いいですよね。
意図的に不正解を出すことはあまり推奨されないというか、 それで何かいいことがあるようには思えないじゃないですか。
不都合な真実と心地よい誤情報
ただ、正解と不正解をきっちり白黒分けることができるという状況においても、
ネットとかで見ると、僕が感じる限りですけど、 不正解を喜んで正解をけげんそうな顔で見つめるという景色を感じるんですよね。
今回はこういう話です。
だから言い換えると、多数派の意見とか、 心地よい意見とか、自分に共感する意見、
意見って言ったら変だな。自分に共感するご情報って言ってもいいかな。
自分の心にぐっさり刺さって共感できるご情報を喜んでもとめて、
不都合な真実から目を背けたり、バッシングしたりする人が結構いるのではないかっていう僕の考えを説明したいと思います。
これはいわゆる、さっき冒頭で語学学習にもちょっと絡みますよって言ったんですけど、 語学学習でもこういう景色ってあるんですよね。
カリスマ的な人、インフルエンサー的な人、すごそうな人が言って、 ご情報をありがたがって頂戴するっていうのは結構よく見そうじゃないですか。
そういうのにも関連していきます。
共感と仲間意識の役割
やっぱりキーワードは、大衆とかみんなが考えている情報、 みんなが信じていることっていうのが、
このみんなっていうのがキーワードだと思います。
共感っていうのは、誰かと同じことを考えることを共感ですよね。
みんなが思っていることと同じことを考える人は、 やっぱり仲間意識、連帯感が芽生えますよね。
それってすごく楽しいじゃないですか。
もちろんそういうのってもちろんよくて、
さっき正解がある情報と正解を定めることができない情報がありますよって言ったんですけど、
正解を定めることができない情報、言い換えると、
いわゆる諸説がありますとか、意見は人それぞれですから、 考え方、思想は人それぞれです。
そういうことを言える余地がある場合って、 それってもちろん当然考え方が確かになりますよね。
そういう状況の中で、似たような思想を持っている人が共感して集まるって、
ものすごく自然じゃないですか。
何かのファンとか、何かの作品があって、何かのファンになっている人って、
似たような考え方思っているから、より集まって、わいわい身内で楽しんでいるわけですよね。
この何か作品のファンですとか、このユーチューバーのファンですとか、
同じ仲間意識、連帯意識を持って、同じような作品に共感して似たようなことを考えているから、
嬉しいわけですよね。楽しいわけですよね。これが共感ですよね。
これは正解がない問題に関しては当然じゃないですか。
例えば、とある作品が好きな人もいれば嫌いな人も当然いますよね。
好きな人がより集まって、嫌いな人はそれを特に関心を示さないわけですけど、
これって別にいいじゃないですか。正解は一つずつですからね。
だから、これは何か合っている間違っているというよさは一切鑑賞できませんよね。
これがまず一つ確認したいことの一つで、
喜ぶというか、みんなとか大衆とか仲間というのはまずキーワードの一つになりそうだなというのがあります。
「みんなの意見」と「正解」の切り分け
ここからが本数なんですけど、そのキーワード、さっき言った仲間、みんながどう考えているかというのと、
正解は何かというのは基本的に切り分けないといけないんですよね。
だから正解を出すべき状況で正解を出すのを当然大事になっているのは、
そういうところで仲間とかみんなという感情的要素が先に来ちゃって、
正解を欠限そうな目で見つめて、不正解をありがたがって崇拝するというのがやっぱりありますよね。
それが変だなというのは、僕の今回の話の言いたかったことですよね。
歴史と科学から見る多数派の誤謬
当然なんですけど、これは歴史の出来事を振り返ればわかりますけど、
最多数派、大衆、みんなが考えていることをイコール正しいことというのは当然ありえないというか、そうでないほうがいいですよね。
科学とかもそうですけど、科学って仮説を出して、仮説を支持する人、諸説ありますという状態から、
この説が最も有力そうですねというのがどんどん勢力を拡大していって、
最終的に多分こうなっているんだろうなという、一番拡大した勢力が最も確かだしい説として支持されて、
いわゆる正解の地位を得るわけですよね。
ただ、科学の歴史、科学ではなくてもいいんですけど、歴史を振り返ると、
そういうふうに諸説ありますという状態から何か最有力候補が拡大していって、
それが最も確かだしい説として正解として認められた後に、その正解がひっくり返るというのは結構よくあるんですよね。
よくあるというか、本当にそういうのがめちゃくちゃあるんですよ。
ユークリッド科学とかも、ユークリッド科学ってよくある中学、中学の高校数学でやる、いわゆる科学なんですけど、
これってずっと正しいと考えられてきたんですけど、
その非ユークリッド科学というユークリッド科学を中に含みつつ、
ただユークリッド科学が当然正しいと認められてきた後裏を跳ね返す、否定するという、
そういう科学が新たに登場したというのはよくある話ですよね。
それってさっきまさに言った、これぞ正しい正解である、これぞ真理であるというのが跳ね返されて新しい真理が出てきたという感じですよね。
これでさっき言った、大衆の考えていること、みんなが考えていることイコール正解ではないというのはよくあることなんですよ。
本当によくあることで、これをいつも、いつもというか常に意識する必要があるのではないかというふうに考えています。
「ノリ」と「正解」の使い分けの必要性
とにかく、さっき何かファン、何か作品とかユーチューバーとか何でもいいんですけど、
何かファンになって、ファンの仲間たちと全体意識を持って楽しむ、ワイワイ楽しむというのは全然OKだとは思うんですけど、
正解を出さないというコンテクストにおいては、そのファンを作るということを分けて考える必要があるのではないかと考えています。
とにかく正解を、この状況では正解を出した方がいいのか出さない方がいいのかというのをケアしつつ、
言い換えると正解を気にするべきか気にしないべきかというのを考慮しつつ、ワイワイ楽しむときはワイワイ楽しめばいいという感じですよね。
規範文法と規律文法の対比
これって文法でいうところの規範文法と規律文法の対立に出て、
規範文法というのはいわゆるカッチリした文法のことで、こんな風にしなさい、こんな風に文を作りなさい、こんな風に項順で並べなさいというのがきっちり、
いわゆる学校文法に通じるやつで、これは偉い人がこんな風にしなさいという風にカッチリ決めた文法が規範文法といいます。
対して規律文法というのは、実際に世の中自然にどうなっているかというのを観察して規律して、
規律というのは書いて、皆さんこんな風に喋ってますよと一般化したのが規律文法ですよね。
こうしなさい、ああしなさいという偉い人が鑑賞する要素がゼロで、結果的にそうなってましたという事実の報告でしかないというのが規律文法です。
これってさっきまでの話とアナロジーがあって、正解を出すのが規範文法ですよね。
正解を出すのが規範文法で、事実としてそうなっているのが規律文法ですよね。
これどっちが悪いかってないんですけど、正解を、カッチリした文章をカッチリした英語を作る時には規範文法に従わないといけないですし、
雰囲気やノリで雰囲気やノリを重視してはいけないですよね。
規律文法というのはまさに雰囲気やノリですよね。
みんながなんとなく使っている雰囲気やノリで英語を使っているのが規律文法なんですよ。
これはさっき言ったみんなでワイワイガヤガヤしているというアナロジーがあるように感じませんか。
ここなんですよね。どっちを重視するか、カッチリを重視するか、ノリを重視するかというのが正解を重視するか重視しないかというのとうまく噛み合っているんですよね。
場面に応じた重視すべき点の選択
ここは場面場面、シーン、状況状況に応じて使い分けるべきだなというふうに僕は感じています。
とにかくいずれにせよどっちを重視すべきかというのが誤ると変な感じになったんですよね。
うちはのノリで英語の話をしますよね。うちは仲間うちで。仲間うちで英語の話をするときにどこかから変な人がやってきて文法的に間違っているとか、その発音がおかしいとか言い出したら変な雰囲気になりますし。
逆にカッチリした場面で国際学会発表とかすごくカッチリしたシーンでうちはのノリのように話したら逆に変ですよね。
そういうことなんですよ。シーンごとにカッチリを重視するか、正解を重視するかノリを重視するかって完全にシーンごとに分かれますよね。そこなんですよね。
世の中の「ノリ」重視へのドリフト
これを取り違えると良くないよねって話です。正解を、本筋に戻りますけど、世の中やっぱ正解を出すべきところで、正解を出すべきところっていうのはさっき何か繰り返したんですけど、正解を出すべきところで悪ノリとかそういう雰囲気を重視する方向にドリフトしてるんじゃないのかなって僕は考えています。
例えばYouTubeとか解説動画とかで分かりやすさが具体的で分かりやすい解説動画が歓迎されますよね。教科書とか参考にすれば分かりやすくてシンプルで二次解説名の分かりやすい動画が参考、分かりやすいコンテンツが歓迎されるじゃないですか。
ただ解説動画の解説ってもちろん正解を重視しますよね。変なノリで誤った解説をしても意味ないじゃないですか。そこは正解不正解を重視すべきシーンですから、ノリとかを重視しない方が良いなって分かりますよね。
これって世の中の流れと似てて、簡単な情報が世の中あるはず、分かりやすい情報があるはずっていう視聴者とかユーザーのそういう平らな心理がまずあって、それに応えようとするためにノリを重視した解説とか雰囲気を重視した解説が出てきてしまって、
結果的に正解を出すべきシーン、正解を重視すべきシーンで正解がないがしろにされてよく分からない状況になるっていうのが僕の考察というか意見なんですよね。まとめなんですけど、やっぱ正解は出した方が良い場面と出さなくても良い場面ってあるんですけど、そこで噛み合わなくなると変な感じになって、
さっき言ったように、間違っている情報、かっちりして正しい情報が欠限そうな目で見つめられて、分かりやすくて快適で間違っている情報が喜ばれるっていうのは変なことになってしまうのではないかなっていうふうに僕は読んでいます。
まとめと今後の展望
今回の話は以上になります。哲学的になったんですけど、ご学学者にも通ずるものがあると思います。次回の動画もぜひご視聴よろしくお願いします。
最後までお聞きいただきありがとうございました。ノートやKindleでもこのラジオで扱っている内容及び体系的に整理したコンテンツを発信しています。
さらに深く学びたい方は概要欄からぜひチェックしてみてください。それではまた次回お会いしましょう。
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