まずさっき冒頭でまた触れたんですけど、 主観とは何か、客観とは何かっていう話になるんですけど、
主観っていうのは基本的には 私は何とかかんとかだと思いますっていう形式を取るのが原則なんですよね。
何とかかんとかの中に入る情報は漏れなく主観的な情報です。
これは別に何かカッチリとしたものでもなくて、
私は良いと思いますとか、私は悪いと思います、 私は賛成です、私は反対です、私はこのやり方で良いと思います。
もしくはもっとカッチリした話でもいいんですけど、
何か言うときに、私は何とかかんとかだと思います。
○○に入る場所、何とかかんとかに入る情報ってのは漏れなく主観的なんですよね。
言い換えるとそこに入れることができない情報は主観的な情報になりません。
例えば、水は酸素と水素からなると思いますとか、 1たす1は2だと思いますって言い出したら何か変ですよね。
何で変かって言うと、客観の情報、事実の情報、主観の情報のようにミスカテゴライズ、ミスカテゴライズって言うのかな?
カテゴリーミステイクか、カテゴリーミステイクしてしまってるんですよね。
それが1たす1は2だと思いますって言葉の違和感の正体で、これは変ですよね。
これは主観的な情報にはなり得ません。
誰にとっても1たす1は2ですし、今も昔も将来も水は酸素と水素からなりますよね。
そういう普遍の事実は主観の情報として原則的に扱うことはできません。
とすると、これが主観の情報ではない情報ってのはわかりますよね。
客観的な情報っていうのは、このように資産や水量は〇〇だと思いますとか、〇〇であることを示唆していますとか、
もしくは〇〇であるはずですとか、〇〇であるに違いありませんとか、
そういう個人の水量に応わせる助動詞が入ってこないんですよね。
常に〇〇ですっていう〇〇ですます言葉ですよね。
英語で言ったらB動詞とかで使うやつ、This is a penもこれ事実の情報ですよね。
そのペンっていうのは誰から見ても、私はペンだと思うけどあなたはペンだと思いませんという状況はあり得ないじゃないですか。
世界中の誰が見てもペンはペンですよねっていうのはThis is a penじゃないですか。これ事実の情報ですよね。
こういうので助動詞とかを使って水量に応わせることはできないんですよね、事実の情報は。
これは例外はないと思います。
例えばだれだれさんが、さっきの主観の情報と絡めて説明すると、
例えばですけど私は〇〇がいいと思っていますっていうのは、〇〇がいいと思うっていうのは主観の情報ですけど、
それを言い換えてだれだれさんが〇〇がいいと思っているという事実は事実の情報ですよね。
こういう隅分けができます。
基本的に事実の情報っていうのは感覚とか気持ちとか気分とかを抜きにして、言うなれば無機質に淡々と伸びるっていうのがついているんですよね。
とにかく事実である情報は事実だと説明する。
This is a penも余計な情報を加えたら変ですよね。
This is a penで変な助動詞や副詞が入ったら変じゃないですか。
余計な情報を加えると推論が混じりますから、This is a penでおしまいです。
でもこれって結構現実の問題というか、大人も子供も大人もみんな事実の情報を意見のように言ったり、意見の情報を事実のように言ったりしてしまうというのは大々にしてあるんですよね。
それは当然良くないんですけど、そこを分けないとこの人はよく分からないけど、
状況を説明しているのか感情を爆発しているのか分からないという状況ってよくありますよね。
基本的には何かを説明する時ってまず事実を説明してから意見を載せるってことをよくやるんですけど、
ここの速やきができないとこの人は感情だけを撒き散らして事実というか客観の情報がどうなっているのかよく分からないなっていうのはよくあると思うんですよね。
基本的に事実の情報と意見の情報、客観の情報、主観の情報を混ぜるっていうのは基本的に推奨というか褒められた話ではないというのは分かりますよね。
ここまでが客観と主観、事実と意見の速やきに関する話になります。
次なんですけどここからちょっと角度を変えて、冒頭一番最初に言った客観がなんかチヤホヤされる風潮が世の中あるけどそれは良くないよねっていうのが僕の言いたいところなんですけど、
この時にさっき場面場面って言いましたよね。場面場面、要するに状況に応じて客観を出すか主観を出すかを適宜分けるっていう話なんですけど、
こうやって要するにさっき言った主観を出すべきシーンを判断するっていうのがありますよね。
ここは主観で物を言った方がいいし、それを相手も期待しているっていう状況もあって、逆にここは事実の報告を期待されてるから、
自分の感想や感情を一切混ぜないっていう状況判断が必要そうじゃないですか。
それについての話をしたいと思います。
さっき言ったのは相手の要求ですよね。情報を出すってことは情報を受ける側がいるわけですよ。
1対1のシーンもありますし、不特定多数に情報を出すシーンもあるわけですよね。
まさに今ポッドキャスト、これはポッドキャストのエピソードですけど、これ1対多ですよね。
僕自身も今誰に話しかけているのか全く分からないじゃないですか。
このエピソードがいつどこで誰に再生されているか分からないわけですよ。
それは1対多の情報になりますよね。これをケアする必要があるんです。
今誰に話をしているのか、そしてその話を聞いている側は何を期待してこの話を聞いているのかっていうのをまず判断する必要があるんですよね。
これって本当に場面で変わりますよね。
例えばですけど、報告書とかレポート、こういうのって大学とかでやりますよね。
こういうことをやりましたって事実を報告する日報とかもそうですよね。
それがありますよね。それはどっちですかね。客観を求められているのか、実感を求められているのかというと客観に近いですよね。
報告書って事実の報告ですから、基本的には誰が書いても文体は変わるかもしれないですけど、
正味の情報は絶対にユニークなはずですよね。何があったかという事実を報告するときに個性があったら困りますよね。
当然書く人によって、下手な人が書くとか上手な人が書くとかで微妙に変わりますけど、
理想的には事実を可能な限り正確に記述する能力が求められるわけで、
それは要するに正解不正解の枠組みに乗っかるんですよね。事実を説明するときっていうのは。
だから客観には正解があって、そこに近づくような努力をするというのが事実の説明に関する報告になりますよね。
それってパッと思いつくというか、頭に浮かぶシーンがあると思うんですけど、それで学校のテストって感じしませんかね。
学校のテストとか宿題も期待されてますよね。先生が、例えば国語の先生、数学の先生がいるじゃないですか。
当然定期的にテストを受けますよね、学校で。そのときに何をもらいますか。
何をもらいますかっていうのは、まず問題用紙と回答用紙をもらいますよね。
回答用紙には空白が書いてあって、対問1の第1問はこれこれ、それに対応する白い空白が書いてありますよね。
何かを期待されてますよね、明らかに。そこには何を期待されているかというと、理想的な正解を書くことを期待されているわけじゃないですか。
これも全く報告書を書くとかレポート書くとかと原理的には同じで、ここに正解を得て欲しい、書いて欲しいっていうそのもらう側の期待があるわけですよね。
それをなるべくですよ、なるべく。当然みんながみんなそのテストで100点満点を取るわけじゃないので、当然そこでうまくいかないほうが多いんですけど、
目指す方向は決まっているというのが客観の情報を提出するときの原則なんですよね。
これをすると褒められる、このように書くと褒められるという状況が決まっていて、その褒められる状況というのは正解を出すことなんですよね。
これは客観の情報を出すときの原則になります。
主観的な情報ってどうですかね、これと対比するんですけど、主観的な情報ってどうですかね、正解はありますかね、ないですよね。
感想とかですよね、まさにこのポッドキャストは別に正解はないですよね。
ポッドキャストを作る人も別に正解を出すためにポッドキャストのエピソードを作っているわけではないはずですよね。
何をしているかというと、主観を全面に出しまくっているわけですよね。
感想文とかブログとかSNSとかって基本的に、さっき言ったところの私は〇〇だと思います、私は〇〇だと考えていますという情報を自分で作って表に出すことをメインの目的にしますよね。
これって主観的なんですよ、極めて。
何かさっきの回答用詞の白い空白って言いましたけど、そういうのはないんですよ、枠組みがないわけですよね。
自由、完全に自由で、それこそ文量も形式も順番も何を話すかも全部自由で、情報を出す側、ポッドキャストで言ったらポッドキャストを作る側が定めて決めて並べるっていう要素がすごく強いんですよね。
エディターシップって言ってもいいのかな、エディターシップをこっちが発揮する、こっちっていうのは情報を出す側が発揮するっていうのはすごく強いですよね。
期待に応えるっていう要素がないんですよ。
こちらが選んで並べて提出するっていうわけで、相手は何かを期待しているというよりも、あの意見を聞く、あの人の意見は何だろうなっていうのを確認するっていうわけなんですよね。
それが全く違うってことなんですよね。
ここには客観的にことを発揮するっていう要素はなくはないんですけど、基本的には薄いんですよ。
自分の意見というのはユニークですよね。
さっき誰々さんが○○だと思っていますっていうのは、2つの情報があって、その思っている内容は主観であるけど、そのことを思っているっていう事実は客観なんですよね。
主観の情報を出す人がやるのは、私は○○だと思っていますという主観の情報を提出して、それを事実として扱ってもらうということをやろうとしているわけです。
それが情報発信の全てというか、情報発信の最も共通する部分ですよね。
意見を表明して、意見を持っているという事実を公にすること、これが情報発信になっていますよね。
今2つの話をしたんですけど、どっちが楽層ですかね。
楽層というのは、例えばレポートとか報告書とか学校のテストとかって、客観の情報の提出、正解の情報の提出を期待される順番通り、期待される順番で期待されるフォーマットで期待されるように提出することを求められる。
言い方を変えると要件が厳しい、要求が厳しい形式か、もしくはブログとか感想文とかもしくはポッドキャストとか、そういう発信側が勝手に決めて、あれこれ良いことができる情報の発信形態のどっちが楽層ですかね。
一見すると、前者、つまり向こうから期待される部分が厳しい要件を突きつけられる場合の方が何か辛そうだと思うかもしれませんが、実際は逆なんですよね。
なぜかというと、言われた通りにすればいいという状況の方が楽なんですよね。要件が厳しいということは要するにそれを満たせば満足してくれるという、答えが見つかっている状態で勝負というか、答えが見つかっている状態で何かをするという場面でゲームのルールになってますからそれは楽なんですよ。
逆に、主観的にやっていく主体的にやっていく方がきついんですよね。なぜかというと誰も何も教えてくれないんですよね。誰も何も教えてくれないというのは、このようにするといいですよというのを全く教えてくれないんですよね。
だから多くの人は悩んだり、もしくは主観的で大いに主観的であるべきなのにもかかわらず、よくわからない他人に救済を求めちゃうというよくわからない動きをしちゃうんですよね。
僕がよく言っている英語学習も主体的でやっていくべきことであると言ってるんですけど、それと全く同じですよね。英語学習は主体主観であるもので、別に何か正解がどこかに枠組みがあってそこになぞっていけばよろしいというそういうのはないんですよね。
それと全く同じことを言っています。これって基本的には言われた通りにする方が楽ってなんとなくわかると思うんですけど、ルールがあればあるほど嬉しい人は結構いるはずなんですよね。
このようにしなさい、このようにしなさい、あるいはこれをしていけませんというのをバンバン言われるほど嬉しくなるという人は多分いると思うんですよね。
いると思うんですが、そっちの方が多数派であるはずなんですよね。逆にどうぞご自由にやってくださいと言われる方がきついと思うんですよね、多くの人は。
なぜかというと正解がないから、多数派の動きを真似ることができないから、基本的にみんなと同じことをするというのは楽なんですよね。
それをできないときに感想を求められるとか意見を求められるとか、あなたは何を思っていますかという提出を期待されるときは基本的には自分で定める部分がめちゃくちゃ増えますから苦手な人は苦手になると思いますよね。
ここなんですよね。また一番最初に言った客観の方が主観よりも良いと思っている人が結構いるって話をしたんですけど、それと何かぴったり合流する感じがしませんかね。
良いと思っているというか、そっちに行きたがるっていう人が多いと思うんですよね。
事実の表明、事実の説明というのはそれなりに誰がやっても同じになるというか、当然程度差はあるけど誰がやっても同じような説明になるんですよね。
それって正解を出すっていうところの部分に関して言うとそんなに差は出ないゆえに、そんなに期待外れや大失敗を出すっていう感じでもないんですよね。
だからみんなそこそこできちゃうんですよね。客観の説明っていうのは。
そこは別になんかそれはそれでいいんですけど、それを全てだと思って自分の意見を言うことをまるでやってはいけないことにより考えるのはまずいわけですよ。
これってすごくミスリーディングというか、隠れた意図みたいなのもあるはずで、さっき言った主観的に物を言わない方がいいっていうのが建前なんですけど、建前というかみんなが思っている建前であるはずなんですけど、
それはちょっと違くて何が言いたいかというと、主観的にそもそも言うっていう経験や勇気がないっていうのが結構ほとんどの場合の真理なんじゃないのかなというふうに僕は考えています。
客観的にするのがいいというよりも客観的にすると安心するっていう感じですよね。多分それを考えてるんですよね。
だから求められていることを言う、求められていることを動きをするっていうのは、安全な方向、安全サイドに動きを寄せるっていう感覚だと思うんですよね。
それって期待に応えますっていう感じよりも、そっちの方が安心、安全だからそっちに移動しますっていう感覚でやってる人が多分多いんですよね。
だから自分の意見を表に出して表明して何か公開するっていう、その一連の動きに関して怖いと思ってる人がいると思うんですよね。
なんでそう思うかっていうと、最近note記事とかで生成AIだけ、もしくは限りなく生成AIで作られたような匂いを感じる記事をめちゃくちゃ聞きますよね。
それって結構強気な言葉というか過激な言葉を多用して、こうであるべきこうしなさい、これが一番重要ですが、そういうことをバンバン言ってるような生成AIチックな記事がたくさんあるんですけど、
それも一見ですよ、一見べきとかであるとかだとか断定口調で強い言葉を言ってるんですけど、それもさっき言った自分の考えていることを素直に言うことの恐怖に関しての裏返しな気がしませんかね。
自分の言いたいことはあるけど、もしくはこのように表明したいことはあるけど、それを素直に言うのが怖いから、生成AIというそれっぽいすごそうな機械に頼って、
権威主義に頼って、生成AIが強そうな言葉を自分の代わりに言ってくれると思ってしまう人がいるのかなというのを読んでいます。
それは僕の推測なので分からないんですけど、事実として、生成AIっぽい強気なnote記事というのはもううじゃうじゃ今あるわけですよね。
これは実際にこのポッドキャストを聞いている人もそういうのを見たことがあるというのを感じると思います。
これがあれなんですよ、主観を廃したがる人というのがいるのではないかというインディケーションの一つになります。
さっきテストとか報告書の要求の厳しい相手から期待される部分が大きい文章というのは、やればいい時にやればいいんですよ。
それをした方がいい役割立場状況の時だけにやればよくて、そうではない場合というのは、基本的には原則自分の言いたいことを言えばいいわけですよ。
自分が本当に良いと思ったことを言うというのは言論の自由で保障されていますし、人と違うことを言ったらいけないというルールはないわけですよね。
それは主観を大いに発揮すべきですし、エビデンスなのか客観なのかという脳が気が入らないわけですよ。
私がこのように思いますというのは、それを言った瞬間その話が延々と確定するというわけではないですよね。
例えば、昔はこのように思ってたけど今はそう思わなくなったとか別に全然あるじゃないですか。
それって別にとがめられるようなことじゃないですよね。
こういった無視を大事にして、昔思ってたことを思わなくなったというその経緯も情報として価値がありますよね。
そのように思わせる経緯がどこかにあったわけで、それは大いに自分の主観で発揮すべきですよね。
発揮すべきというか表明すべきですよね。
そこなんですよね。主観的に物を言うというのは、むしろもともとみんながやってきたはずなんですよね。
なぜかというと、子供とか小学生は別に自分が思ったことを素直に言いまくるじゃないですか。
だから、これって技術の問題、技能の問題というよりも、昔やっていたことがだんだんできなくなったという逆行なんですよね。
だから、昔やってたことをまたやるという感覚に近いと思いますよね。
思ったことを言う、考えたことを言う、誰かに遠慮することなく言うというのがすごく大事になるような気がします。
当然というか、それで対立が生まれたりするかもしれないですけど、それは思ったことを言わないという状況がまずいんですよね。
なぜかというと、思ったことを言わないというのは要するに、思ったことを表明した結果に圧力が生じるかもしれないわけですけど、
それを圧力を後回しにするわけじゃないですか。圧力の発生を。そういったのがまずいですよね。
だから、思ったことを言った結果、何かがトラブルになってもそれは良いわけですよね。
トラブルは早期に出して早期に処理した方が良さそうじゃないですかというのがあります。
最後に主観と客観の扱い方についても触れたいと思うんですけど、主観というのは基本的には表に出すべきであると言ったんですけど、
これはさっき状況状況、場面場面で使い分けましょうと何度も言いましたよね。これの話は最後に触れたいと思います。
ポイントは順番なんですよ。主観を出すかつ客観を出すというのはできないんですけど、
主観を出してから客観を出すとか、逆に客観を言ってから主観を出すという前後関係を作ることができるんですよね。
最もこの関係が出てくるのは学術論文の結果と考察のセクションだと思います。
これは英語で言うとresult and discussionですよね。
要するに結果を出してから、結果を出しました、事実を習いましたというのをしてから、
じゃあ次に著者の考えが来ますよという考察ですよね。
これが順番ですよね。結果は客観で、著者の考察は主観ですよね。
この順番ってすごくストリクトに守られるんですよね。
結果と考察をごちゃ真似にするというのは基本的に省略されないわけですよ。
これはさっき言った順番の問題が顕著に出ている一例であるというふうに僕は考えています。
出し入れする順番というのはすごく大事なんですよね。主観と客観の情報を使うときは。
最初にこの人は感情的になるばかりで何について説明しているのかよくわからない人がいるってよくある。
そういうのよくあるよねって言ったんですけど、
客観の話をするときは客観の話をしっかりしてから、その後に主観の話を述べるというのは原則として続いた方がいいはずなんですよね。
例えばSNSとかでちょっとした短文投稿に対して即座に怒り出して感情的になると言いますよね。
これって主観と客観の積み分けができていないですよね。
他人の意見があったという事実に対してすぐに怒り出すってやっぱ混ぜ事になってないですか。
まず事実の整理をしてから、自分の客観じゃなくて主観の立場に戻るっていうことをすると、
なんかいろんなことを言ってる人がいるんだなんて終わるじゃないですか。
別に怒ったりしないですよね。
だからそういうところなんですよね。
言い換えると事実っていうのは基本的にフラットに眺めて、
主観を全部廃してフラットに眺めてから、その後に自分の意見を言うっていうのは順番にした方がいいと思うんですよね。
でもネットってキャッチーな情報、人の目を惹きつけるような過意気な情報がバンバン出てきますけど、
それがバンバン出てくるが故に客観と主観を積み分けるっていう仕事はやりにくいんですけど、
それでもやっぱりそこは自分の力で大事にした方がいいはずなんですよね。
事実を整理するときはまずしっかり自分の意見を混ぜずに事実を整理してから、
その後に全体像をしっかり把握した上で意見を言ったら、これも型として身に付けた方がいいと思っています。