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「自分を捨て、自分の十字架を背負って」2026年9月20日のメッセージ
2026-09-20 35:22

「自分を捨て、自分の十字架を背負って」2026年9月20日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2026年9月20日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

▼メッセージをスライドで: https://x.gd/0dA0T
▼公式Instagram: https://www.instagram.com/tokyovinechurch
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▼メッセージの自動文字起こしはこちら: https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書)マタイ16章24,25節 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

メッセージ題 : 自分を捨て、自分の十字架を背負って (マタイ16章24,25節)
*度々教会の子供たちを考えると?可哀そうと思われます。この世で良いことばかりあれば良いのに、けがして病気になり受験勉強も?ただただ祝福ばかりであるなら・・・なぜ難しさがあるのか?!従って
ただ祝福を言うよりは、しっかりしなさい。親の話をよく聞いて従いなさいと。 ➡私たちの信仰生活も
マタイ16:16信仰告白だけですべてができればいいのに・・その後、この世で難しいことが?ヨハネ15:18,19、またヨハネ10:10?そうしてみると、救われていいと言ってたのに、葛藤が・・・イエス様は、マタイ16:24私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って?=自分が死ななければ?

1.なぜ、自分を捨て、自分の十字架を背負って?
1)自分を捨て、自分の十字架を背負わなければ?救われたというが、相変わらず昔の人!自己中心、わがまま、それは罪です。イザヤ53:6イエス様の十字架の血潮で罪が赦されたのに?再び罪の中で生きること!Ⅱペトロ2:22犬が、豚が・・・では、相変わらず、悪魔の奴隷、餌食!昔はそうだったが、そこから救われたのに?
2)自分を捨て、自分の十字架を背負わなければ?自分の観点、自分の価値観で生きるようになるので、イエス様に従うこと、弟子の生活はできない。神様に用いられることはできない。その人には神の御声、目的、道が示されない。考えが違う人と一緒に暮らすことができますか?Ⅱコリント6:5人生の道のり・・・一緒にできない
3)自分を捨て、自分の十字架を背負わなければ?自分を下ろしたくない?結局、マタイ16:25命を失う者に

2.信仰を理解するのに、役に立たこと。 それは、信じる前と信じた後の霊的な生活の変化比較!
*信じる前は、自分が自分の人生の主人でした。自分の意のまま?しかし、信じた後、人生は変わりましたイエス様が主人に。以前は行きたいなら、行きたくないなら、しかし今は主人であるイエス様に聞く
→これが霊的にどれほど大事でしょう!これから5分後、何が起こるか知らない私が主人?事故、様々な問題・・・子供に車の運転を?今は、全知全能絶対善の、また過去現在将来をご存じのお方が車の運転を!私たちの人生、一番安全、一番正しい、最善の人生可能!また、ヘブライ9:27裁きの準備
*聖書は自己中心性を罪だと!イザヤ53:6、そしたら悪魔の奴隷!Ⅰヨハネ3:8,結果ヨハネ10:10
*大勢の信者が信じると言いながら、自分を捨て自分の十字架を背負わないで自己中心的に行きます
そうであるなら、私たちの背後には、相変わらず悪魔が働きます。それを考えながら・・・
1)救われる前の私たちは?悪魔の奴隷でした。Ⅰヨハネ3:8、エペソ2:1-3,霊的な問題、精神的な問題、体の問題に患います。苦労しながら死ぬと地獄です。また、同じ呪いを親譲りして子々孫々・・・
2)イエス様を信じて救われた後の私たちは?ヨハネ1:12神の子供になりました。聖霊様が共におられます。Ⅰコリント3:16、祈りの応答の約束、イエス様の御名によって悪魔を追い出す権勢、この世を去ると天国。神の子供たちはこの世の祝福の通路。この世のすべてに祝福を与える祭司長の役割を!
*信じる人と信じない人の違い?地獄と天国の違い。信じる人の死は?信じない人の死は? #では、なぜイエス様を信じているのにそれが現れないのか? 使徒パウロの人生、ガラテア2:20その結果?

3.自分を捨て自分の十字架を背負う人生は、どのように? 私たちの教会が「ぶどうの木の教会」である理由
*教会の名前、ぶどうの木教会?ヨハネ15:5 枝が木に繋がっているなら?枝が木から離れているのは? 枝が木に繋がっているように、神様と親しい関係性+御声を聞き従う生活で・・・豊かな実を結ぶ
1コリント2:9聖霊様が伝えて下さるのに、離れているなら? @イエス様も自分を捨て自分の十字架を

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サマリー

このメッセージでは、マタイ16章24~25節の「自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい」というイエスの言葉を中心に、救われた後の信仰生活には困難や敵の攻撃もあると語られます。信仰告白だけで終わらず、自分勝手な価値観を手放さなければ、昔の罪の生活に戻り、イエスに従う弟子として神に用いられないと説きます。牧師は、教会で共に働くには考え方や価値観の一致が必要だという自身の経験にも触れ、イエスの考えを自分の考えとして受け入れることを勧めます。 信じる前は自分が人生の主人だったが、信じた後はイエスを主人として、進む道を尋ねて委ねる生活に変わると説明されます。車の運転席を全知全能のイエスに任せる比喩を通して、将来を知らない自分よりもイエスに導かれる方が安全で最善だと語ります。また、信じる前は悪魔の奴隷であったが、信じた後は神の子となり、聖霊と共に歩み、祈り、他者を祝福する者になるという対比が示されます。 さらに、パウロの「私はキリストと共に十字架につけられています」という告白を例に、自分を捨てる生き方の結果を示します。「ぶどうの木教会」という名前は、ヨハネ15章5節の、イエスにつながる枝が豊かな実を結ぶという教えに由来すると説明されます。神と親しく交わり、御声を聞いて従うことが実を結ぶ条件であり、スティーブ・ジョブズの治療をめぐる逸話も、自分の考えに固執せず医師や神の声を聞くべきだという例として語られます。最後に、イエスのように自分を捨てて十字架を背負い、神との親しみの中で信仰生活を続けようと祈ります。

救われた後も続く困難と弟子の道
今日は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」という対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
私はたびたび、私たちの教会の愛する
サクちゃん、アンディちゃん、アユミちゃんを考えるなら、
かわいそうだという気持ちにあります。 この世で生まれて、祝福的なことばかりあればいいんですけど、
怪我したり、病気になったり、また、
受験準備もしなきゃいけない。 子どもたちどれほど苦しいでしょう。
また、これからの人生の数々の難しいことを考えたら、気の毒だと思います。
私たちの子どもたちは、ただただ、祝福ばっかりあればいいんですけど、
なぜ難しさがあるのか、苦しみがあるのか。
ですから、私たちが、ただただ祝福、祝福ばっかりじゃなく、
しっかりしなさい。 親の話を聞いて、必ず従いなさい。
わかったと言われるのではないかと思います。
私たちの親子生活も同じです。 初心者の勉強会が終わって、それで最後に分かち合うものは、
信仰告白です。 マタイ16章16ペトロがこう言います。
あなたはメシア、生きる神の子です。と言います。 これは自分から出たのではなく、
精霊様が教えてくださったので、その精霊様の照らしによって、自分が告白したものです。
神様からできました。よくやりました。 これによって、罪によって地獄へ行く私たちが、
罪が許され、天国に行く人になりました。
これから永遠に祝福の中で過ごしてください、ということで、初心者の勉強会が終わればいいんですけど、
これからの人生は、ここであなたはよくやりました。これから祝福の中で生きてください、ということで終わるものではないんですね。
私たちの人生は、救われてすぐ天国に行けばいいんですけど、
救われてからまたこの世に残して、ここで過ごさなければなりません。
この世で難しいこと、苦しいこと、たくさんあるいろいろなことを、自分がこれを
担っていかなければなりません。 またこの世では、
救われた私たちには、敵が攻撃をするそうです。 皆さん、ヨハネ、中五書、中八説、中九説、
世があなた方を憎むなら、あなた方を憎むのではなく、私を憎んでいるんだと覚えなさい。
あなたたちが世に直していたなら、世はあなたたちを愛していたはずだ。
しかし、あなたたちは世に直していないで、世から私が選び出したので、世はあなたたちを憎んでいるんだ、と言います。
だから私たちは今、この世は悪魔を意味するんですが、悪魔が私たちを攻撃したり憎んだりするなら、
私はこの世に直していないで、神様に直しているんだと思ってください、ということです。
ところが、悪魔は私たちを攻撃する時に、ヨハネ、中五書、中八説で言いますと、
盗人が来るのは盗んだり、ほほったり、滅ぼしたりするための方がならない、と言います。
ですから、救われた人には敵の攻撃があります。
祝福ばかり、神様信じるなら祝福ばかりあると思っていたのに、敵の攻撃もあります。
この世は難しいです。
それで、それから見てますと、私たちは救われた、ただただいい、ああいい、いうことだけでは、これは済まないことがわかります。
この後の信仰生活が非常に難しく見えます。
この世に難しい信仰生活をしなきゃいけないのか、葛藤する方がおられるかもしれません。
イエス様は信仰告白をうまくやったペテルを褒めながら、この後一言加えてくださいます。
弟子の生活です。
また中六書、二十四説、それから弟子たちに言われた、私についてきたいものは、
私に弟子になるためには、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。
みなさん、この自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい。
これは弟子になるためには、これは当たり前のことですけど、
この意味が何かと言いますと、これは一言で、あなた自身を下ろしなさい。
言葉を変えれば、あなた自身は、私についてきたいと思ったら、
自分自身が十字架にかけられて、死んだ状態にならなきゃいけないよ、ということを意味します。
では、まず一番です。
自分を捨てる理由と価値観の転換
なぜ私たちは自分を捨て、自分の十字架を背負わなければいけないんですか?
自分を捨て、自分の十字架を背負わなければ、
救われたと言いながら、相変わらず、昔の人と変わりがありません。
昔の人は、自分勝手に過ごしました。自分のわがままに過ごしてきました。
では、みなさん、自分のわがままに過ごす、これはイザヤ五十三章六節には、
聖書は罪だと言います。
私たちはイエス様の十字架によって、罪から許されて、
これから神の子供になったんですけど、
また、罪に支配する生活の中に戻るということなんです。
第二ペトロ二章二十二節で、このような言葉があります。
ことわざに、犬が自分が生えたもののところに戻ってくる。
また、豚が体を洗って、また泥の中で転がる。
というような状態で、私たちは救われてから清くなったのに、
また、豚のように汚いところに戻っていって、
この底で転がるというような生活。
もし、そのような生活になれば、
私たちは悪魔の餌食になり、悪魔の奴隷になります。
イエス様は信じて、悪魔の奴隷から自由になったのに、
また再び悪魔の奴隷になって、
この汚い豚のように泥の中に転がる。
このような生活をする。
これはありえないのではないかと言って、
自分の十字架を背負って、私に従いなさいと言われる。
また、自分の十字架を捨てて、
自分の十字架を背負わなければ、
いつも自分の考え、自分の観点で行くようになります。
そうするなら、私たちはイエス様について行こうとはできません。
私たちがイエス様について行こうとするなら、
イエス様と同じ考えを持たなければなりません。
だったら弟子の生活は難しいです。
また、自分の生活、自分の考え通りに生きるなら、
神様に用いられることはできません。
最近、金曜、鳥梨祈り会で神を体験する。
そこで、神様の見こえを聞いたら、葛藤が生じる。
そうです。神のサイズの話をされるから、
私は無理ですという気持ちになりますね。
でも、その中で自分を修正して、葛藤を乗り越えて神様に従うなら、
そこから神様が、神の目的と神の道を教えてくださる。
だから、神の御業に用いられ、神を体験することができるんです。
しかし、私は自分を捨て、自分の授業を背わなければ、
それでイエス様について行かなければ、
神様は、いくら私たちが聞きたいと思っても、
見こえを聞かせてくださいませ。
ついてこないものに、なぜ神の道を示しますか?
ついてくる考えもないのに、神の目的をなぜ教えますか?
教えてくださいませ。
だったら、神様に用いられることも、ついていくこともできません。
また、皆さん、人生の価値観、考え方、観点が違う人と、
一緒に暮らすことができますか?
また、一緒に働くことができますか?
私は、今、僕会が2001年、2001年度から今までですから、
約25年くらい、僕会が短いんですけど、
この中で一番難しいのは、
私と一緒に働く人をどうするか、ということでした。
結局、私自身、一人で全部できるわけではありませんから。
だから、私と一緒に働く人、どなたか。
皆さん、僕会に対する考え方が同じ人じゃなければ、
一緒に僕会ができません。
ここが難しかったですね。
考えが全く違ったら、働きながら、
私はこう思う、私はこう思います。
これで、喧嘩とか、また争いとか、
それで別れるしかないじゃないですか。
僕会をする私が一番考えているのは、
私と同じような考えを持っている。
正直に、私は僕会が神様が示された道だと思いました。
でも、正直に私の妻は、
会社で続けて仕事をするべきだったと、
今も思っています。
ああ、私を理解してくれればいいのに、と思います。
だから、あなたは会社で続けて仕事をするべきだったと思っているのに、
私は僕会をしている。
ここで葛藤があるんですね。
なぜ皆さん、なぜ奥さんが来ないのか。
僕、主婦人がいない。
僕会、おかしい。
おかしいです、正直。
でも、考え、僕会に対する価値観が一致しない状態で、
ああ、難しい。
まあ、ご理解いただければと思います。
とにかく皆さん、同じ道をずっと生きる人は、
同じ考え、同じ価値観、同じ観点、
そうするなら、一生に力を合わせて、いくらでも働きができる。
しかし、価値観が違った、この観点が違う、
考えが違うなら、一生に歩むことは難しい。
だから、自分を捨て、自分の十字架を背負って、
私についてきなさいという意味は、
イエス様の考えが私の考え、
イエス様の観点が私の観点、
イエス様の価値観が私の価値観になるとき、
あなたと一緒に私は、
もうこれから永遠の命の道を歩むことができるよ。
しかし、私と価値観、考え、あなたの観点が違うなら、
結局、私が行く道に、
あなたはもう他の道にそれって行くしかないんだということを、
イエス様が教えてくださる。
そうするなら、
自分を捨てることはできない。
自分の十字架を背負いたくない。
だったら、
マッタイの16章25節、
自分の命を救いたい。
変えたくない。
死にたくない。
だったら、
自分の命を救いたいという人になるので、
そうすれば、
あなたは全てを失うようになるんだ、
という言葉が当てはまります。
本当に、イエス様と一致した考え方、
イエス様と一致したこの価値観、
これを持ってイエス様についていくことが、
人生で一番素晴らしい道ですけど、
それがうまくできなくて、
ああ、葛藤、葛藤、葛藤ばかりするなら、
人生は短いですよ。
この短い時間の中で、
葛藤ばっかりしながら人生終わるか、
すべてを下ろして、
イエス様の価値観を受け入れていって、
それでイエス様をついていって、
人生を立派に持ち入れられるか、
どちらか、
これなんです。
信じる人は、
イエス様に同じ考えを持つために、
自分の考えを下ろすこと、
これが一番大事だということです。
しかし、
ある人は、
イエス様を信じることはいいんだけど、
これから自分を捨て、
自分の十字架を背負ってついてきなさい。
これは嫌だなぁと思って、
葛藤する方が、
本当に本当に、
教会の中で大勢いらっしゃいます。
もし、
私はこの葛藤の中にいると言われるなら、
私のこの考え、
私がこれを乗り越えるのに、
すごく役に立ったことを、
皆さんに申し上げますので、
参考にしていただければと思います。
イエスを人生の主人として生きる
これは、
信じる前の私と、
信じた後の私が、
どのように変わったのか、
違うのか、
これを考えたら、
私は変わった後の私が幸せ、
本当に素晴らしい、
だから私はこの道に行きたい、
思われるようになるでしょう。
皆さん、信じる前は、
私が主人でした。
私の人生、
行きたいなら行きます。
行きたくないなら行かない。
もう私が決めるんです。
もう全て良いものは、
私が決めます。
それで自由があります。
しかし、信じた後は、
主人が変わりました。
私が主人ではありません。
イエス様が主人です。
だから、
行きたいと思った時に、
主人に聞いてみなければ、
自分が主人じゃないから、
だから、
イエス様、
私はここに行きたいんだけど、
いいですか?
この道が、
イエス様が見られるのに良い道ですか?
と、イエス様に一度聞いてみる。
これがイエス様を主人として、
認めることになります。
イエス様を主人として認めないで、
自分が全部決めて、
自分が全部やってしまえば、
結局自分が主人です。
皆さん、
私が主人になっていいですか?
正直に今、5分後、
何が起こるか、
分かりません。
私は弱いんです。
だから、
将来のことは分からない。
また、私が将来の何かが起こったら、
それを対応する能力もない。
それが、
その私が、
もう自分が偉そうに、
私は家庭の中で、
旦那だから、
私に従え、とか、
子供たちに無理やり、
これやれ、これやれ、と言うなら、
この何か問題が、
トラブルとか起こった時に、
それを対応する能力があるのか?
能力がない私が、
人生の主人になって、
家族の主人になって、
導こうとするのは、
これは、
問題だらけの人生になるしかない。
しかし、
イエス様が私たちの主人になって、
私が従うなら、
イエス様は、
全知、
全能、
絶対全。
イエス様は私の過去も知っているし、
現在も知っているし、
将来のことを全部知っています。
だから、このイエス様に、
人生のヘンダルを、
運転席を任せるなら、
私は人生を楽に座ってから、
車運転はイエス様がされる。
だったらもう、
問題ないでしょう。
事故起こるか、
心配する必要もないでしょう。
また、一番いい道、
素晴らしい道に、
導いてくださるんじゃありませんか。
ですから、
私はイエス様に全てを任せて生きること、
私が自由に、
何でも何でも決めることができなくても、
イエス様に任せて生きる人生、
これがどれほど素晴らしいのか、
ということを考える必要があります。
また、人生は100年、
これから裁きがあり、
これから天国地獄があるんだとしたら、
私がこれで、
導く私の人生、
これでいいんでしょうか。
天国に行くためには、
イエス様が私を導いていかれる、
このような人生にならなければいけないのではないかと思います。
大勢の人々が、
イエス様を信じると言います。
しかし、実際よく見てますと、
イエス様を信じるんだとしても、
イエス様を主人として認めることではなく、
自分が主人として生きています。
ですから、
信仰の素晴らしいことを、
味わうことができていないのではないかと思います。
では、皆さん、
救われる前と後の霊的な違い
私たちが救われる前の状態、
救われた後の状態、
どのように変わったのか、
皆さん覚えていますか。
これは、覚えていかなければなりません。
救われる前は、
私たちは、
罪を犯す者は、悪魔に直しますと。
同じように、
昔、
イエス様を信じる前は、
私は悪魔の奴隷でした。
これを一番わかりやすく教えてくださる聖書が、
エペソの2章1節から3節です。
少し長いんですけど、私たち読んでみましょう。
さて、あなた方は以前は、
自分の過ちと罪のために死んでいた。
この世の支配する者、
かの空中の勢力を持つ者、
すなわち不従順の者たちのうちに、
今も働く悪霊に従い、
罪と過ちを犯して歩んできました。
私たちは、みんなこういう者の中で、
以前は、肉の欲望の赴くままに生活し、
肉の心の欲するままに行動していたので、
他の人々と同じように、
生まれながら、神の怒りを受けるべき存在でした。
じゃあ、悪魔の奴隷だけじゃなくて、
神の怒りを受けるべき存在。
本当怖いですね。
じゃあ、神の怒りを受ける理由があります。
悪魔の奴隷は、空城を拝まなきゃいけません。
空城を拝みたくなくても、
空城を拝まなきゃいけないものが、
以前の私たちでした。
じゃあ、空城を拝む私たちには、
礼的な問題、精神的な問題、
体の問題で患います。
それで苦しながら、この世を過ごして、
死んだら、地獄に行きます。
また、その呪いを、
親譲りとして子どもたちに伝えます。
子どもたちは、自然に行きます。
なぜなら、子どもたちが一生涯見たのは、
親の後ろ姿です。
親が何をしているのか、よく覚えています。
だけど、子どもたちは、親がいなくても、
親がやった道をずっと歩んでいきます。
親譲りということです。
皆さん、これが昔の私たちの姿でした。
悪魔の奴隷として、
礼的な問題、精神的な問題、体の問題、
そして、苦しんでこの世で過ごしながら、
死んだら、地獄、そして同じことを、
子どもたちに親譲りにしてあげる。
これは誰でも、みんな同じです。
未死者の生活の姿を、私たちが知っているなら、
その方たちを救いたくてはたまらない、
心になると思います。
しかし、イエス様を信じてから、
私たちはどうなりました?
ヨガネ一書十二節
言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人には、
神の子となる資格を与えた。
そうです。イエス様を受け入れる人は、
神の子供になりました。
神の子供には、第一コリント三章十六節、
精霊様が共におられます。
この精霊様の働きが素晴らしいんですけど、
私たちの祈りに神様が応えてくださいます。
また、イエス・キリストの皆によって、
悪魔を追い出すことができます。
昔は悪魔を怖がりました。
しかし、今は悪魔を追い出す力が与えられています。
そして、私たちは死んだら天国に行きます。
また、生きているこの世では、
この世に向かって祝福の通路、
祝福の源と祝福の通路の働きができます。
この言葉を変えれば、世の中の人々は、
神の子供であるキリスト者を通して、
祝福を受けるようになるんだということです。
私たちには、全ての人を祝福する祝福権があります。
これが最主張の役割。
皆さん、神徒はみんな最主張です。
世の中に向かって祝福を祈ってあげる、
このような力が神徒たちにはみんな持っている。
だから、万人最主張という言葉を使うでしょう。
以前は、私たちは罪の奴隷、悪魔の奴隷として呪われるしかなかったんですけど、
今は、全世界に向かって、信じていない人々に向かって、
祝福の祈りをしてあげる最主張の役割をする者に変わりました。
これは全て、イエス様の忠実化と復活、
また、私たちの家におられる聖霊様のおかげです。
この信者と未信者の比較、
皆さん、これを考えたら、霊的なことを考えたら、
未信者がいくら立派に、いくら上手く、いくら幸せに過ごしたとしても、
100年後、この人がどうなるか、見えてくるんじゃありませんか。
羨ましく思うことはやめましょう。
未信者は羨ましい方ではありません。
かわいそうな方です。
ですから、信者が死ぬのは、
これは天国に行く道です。
永遠の命の道です。
祝福の道です。
だけど、韓国のイジェチュル牧師という方は、
ある方が亡くなる寸前に、牧先生が向こうに行って、祈ってあげるんだけど、
神様があなたを生かしてくださいます、こんな祈りをしない。
あなたは今、後ほど天国に行くんだよ。
幸せに行く道。
死ぬのは、私たちはもう不幸ではないですよ。
天国に行く道だから、喜んでください。
こんな祈りをしたそうです。
私たちがもし、こんな祈りをしたら、
もう叱られるかもしれませんけど、
偉い先生が、この祈りから、みんな韓国に話題になって、
やっぱり素晴らしい先生と言われましたね。
信者のこの世を去るのは、
天国に行く道、永遠の命の道です。
未信者がこの世を去るのは、
これはもう地獄に行く道、
永遠な罰を受ける道です。
だから、世の中の人々は、
死にたくない、死にたくないと思うんです。
分かっているから。
今、後ほど自分はどこに行くか分かっているからです。
しかし、私たちは違います。
死んだら天国、生きているなら祝福の源、
祝福の通路の働きができるから、
私たちは祝福そのものなんです。
では、なぜ、私はイエス様を信じているし、
教会何十年通っているのに、
この祝福の源としての働きが現れないのか。
だからイエス様が、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。
自分の十字架を背負って、
自分を捨て、自分を背負うなら、
神の御声が聞こえるし、神様に従うことができるので、
その道が命の道であり祝福の道なので、
自分を捨てないで、自分の十字架を背負わないで、
昔のままのことをちょくちょくと固執しながら、
私はこれで生きたいと思っているなら、
あなたは神の御声を聞けないし、神様にもちられない。
あなたはもう昔のままの人生だということです。
パウロの告白と十字架につく人生
シト・パウルは世の中で一番、イエス様以外に、
一番たくさん神の御業にもちられました。
神様への祝福を一番たくさんもらった人です。
このシト・パウルは人生の告白をしました。
これがカラディアン2章20節です。
私はキリストと共に十字架につけられています。
私は死んだということです。
生きているのは、もはや私ではありません。
キリストが私のうちに生きておられる。
私が今、肉に置いて生きているのは、
私を愛し、私のために身を捧げられた、
神の御に対する信仰によるものです。
シト・パウルは確かに自分を捨てて、
自分の十字架をしっかり背負いました。
その結果、神様から大きくもちられて、
聖書13冊を書きました。
また、初めに世界選挙を行う人として、
立派な働きができました。
では、私たちはどのように自分を捨て、
自分の十字架を背負う生活ができるか。
ぶどうの木につながり豊かな実を結ぶ
私が主人ではなく、
イエス様を主人になる生活ができるか。
ですから、私たちの教会の名前が、
プドノキ教会です。
プドノキ教会といわれた、
この聖書には意味があります。
ヨワネ中号書5節です。
私はプドノキ、あなた方はその枝である。
人が私につながっており、
私もその人につながっていれば、
その人は豊かな身を結ぶ。
私は離れては、
あなたたちは何にもできないからであろうと言います。
皆さん、私たちがプドノキである、
イエス様につながっていったら、
もう、枝は豊かな身を結びます。
このプドノミドリです。
プドノの意味が喜びですから、
喜び満ち溢れる人生になります。
また、木につながっていったら、
枝はどこにまで、
チュッチュッチュッチュッ伸びていきます。
だから、もう、
枝は何にもしないのに、
木につながっているだけで、
身を結び、
もう伸びていき、
豊かになります。
これがプドノキの生活です。
もし、枝が木につながっていなければ、
もうすでにこの枝は死んだものです。
死んだものには命が流れません。
実りがありません。
臭くなります。
死んだイノには虫がいっぱい付いていきます。
木につながっている枝ということは、
私たちは今まで学んできた、
神様との親しい関係性。
その中で、神の御声を聞き従うことなんです。
そうするなら、
私たちが何かやったからではなく、
枝が頑張ってやったからではなく、
枝はつながっているなら、
木が枝に身を与えてください。
繁栄できるようにしてください。
命を豊かに与えてください。
私たちがやることは、
つながっていることだけです。
つながっていること。
この生活をこれから、
私たちが豊かにやっていきましょう。
ところが、イエス様を受け入れ、
信仰告白をうまくやったんですけど、
イエス様を信じていますと言いながらも、
つながっていない人がいます。
自分が主人になって、
欲によって、
まだ人生を過ごすなら、
悲しいことです。
今日、太陽祈りで、
このような話をよくやってくださいましたね。
神様は、私たち救われた人のために、
たくさんのことを用意しておられます。
これは、第一コリント2章9節、
みんな覚えてますか?
自分の考えに固執せず神の声を聞く
しかし、このことは、
目が見もせず、耳が聞きもせず、
人の心に思い浮かびもしなかったものを、
神様がご自分を愛する者たちのために、
準備されたと書いてある。
神様は、私たちが救われる時に、
私たちのために、
私たちが聞いたことも、
見たことも、
考えたこともない、
素晴らしいことを準備されたということです。
これを誰が教えてくださるのか?
2章10節、精霊様が教えてくださる。
精霊様は、どなたに教えてくださるのか?
自分を捨て、
自分の考えを下ろしておいた人に教えてくださる。
自分は頑固に、
私はこの道が、
私はこれしかない、
これでやるんだと。
もう拘束するなら、
精霊様はいくら言いたいと思っても、
教えることはできません。
私が、
最近、
まあ、皆さん、
怖い話ですけど、
水蒸管ということは、
蒸気の中で、
後ろに隠されていて、
なかなか見えないから、
お医者さんも手術するの難しいそうです。
皆さん、
えっと、
アップル社の、
えっと、なんて言うの?
スティーブ・ジャプス。
スティーブ・ジャプスが、
なぜ死んだか知ってますか?
彼は56歳で、
若い時に死にました。
彼が今、生きていったら、
アップル社がもっと素晴らしい、
もう、
なんか素晴らしい製品を出したんじゃないかと。
56歳で死にました。
なぜ死んだのか。
水蒸管ですけど、
お医者さんが言っても、
自分は、
自分、
何か自分のやり方。
なんか、
食事?
療法とか、なんとか。
お医者さんがこうしなきゃいけないと言っても、
自分は、食事療法として、
食療法として、
生きたい。
もう、自分の何か考えがすごい。
もう、これを固執し続けたから、
お医者さんの話を聞いてないから、
早く死んだということにありますけど。
私たちは、この、
いじばるんじゃなくて、
お医者さんの話をよく聞きましょう。
神様の見声もよく聞きましょう。
神の見声をよく聞けばいいのに、
ああ、私はこれしかないんだと。
この道は、この道しかないんだと。
固執するなら、
もう、これは、
スティーブ・チャプスと同じような道に行く可能性があります。
神様、私たちに言われます。
自分の十字架を、
自分を捨て、
自分の十字架を背負って、
私に従いなさい。
これが、神、
イエス様、私たちに一番いい道、
絶対善であるイエス様、
一番いい道として与えてくださることです。
私は、いくら素晴らしい考えを持っているとしても、
神様の見声を聞きましょう。
精霊様の見声を聞きましょう。
ですから、私たち教会は、ただただ、
信仰告白で終わるんじゃなくて、この後、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、
普通の機能生活をするように、
教会は、皆さんに強調しています。
イエスにならい十字架を背負う
気につながっている、
私たちとして、
これからのPLO、神様と親しみの中で、
PLOの生活をするなら、
神様が、私たちを考えもなかった、
素晴らしいものとして、
私たちに満たしてくださるでしょう。
今、教会がやっている、
神様と親しみ交わる中で、
PLOの生活、
私、これからもうまくやっていきたいと思います。
イエス様も、自分を捨て、
自分の十字架を背負っていきましょう。
イエス様は、一生懸命なさったことは、
神様との親しみ。
また、神の見こえを聞こうとする。
そして、従うする。
これだけだったんです。
イエス様の働きは。
そして、神様は、イエス様を通して、
陳留の救いの見業を成し遂げ、
イエス様の十字架の復活を通して、
神様が与えられた祝福は、どれほどなのか。
天上のもの、地上のもの、地下のもの、
すべてが、イエス様を主として、
拝むようにしました。
それで、イエス様、最後の時の裁きは、
神様は行いません。
イエス様にすべてを任されました。
イエス様は、万王の、万主の主として、
今、世界を統治されます。
私たちも、イエス様と同じような、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、
生きるなら、
私たちも、イエス様と同じような、
報い、素晴らしい、神様の祝福の中で、
生きるようになると信じます。
私たちも、自分を背負って、
自分の十字架を背負って、
これからも、信仰生活をやっていきましょう。
お祈りいたします。
主よ、私たちがイエス様を信じて救われ、
神の子供になったのに、
私たちは、なぜ、自分を捨てて、
自分の十字架を背負って、
生かなきゃいけないのか、
その理由を分かりました。
その時、神様と親しみが可能であり、
神の御声を聞くことができるし、
それで、従って、
祝福されることができるからです。
神様は、私たちにくださるすべての御言葉は、
絶対全、私たちのために与えてくださることを、
信じて感謝します。
信仰を力も与えてください。
イエス様の皆を通して、お祈りいたします。
アーメン。
35:22

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