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#321 多くの実を結ぶ 26/4/12
2026-04-12 28:23

#321 多くの実を結ぶ 26/4/12

ヨハネ15:1-8からの礼拝メッセージ。2026年4月12日録音。

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サマリー

このメッセージは、ヨハネ15章1-8節の「まことのぶどうの木」のたとえ話に基づいています。イエス様はご自身を真のぶどうの木、信じる者を枝に例え、枝が実に結ぶためには木にとどまる必要があると説いています。実を結ばない枝は刈り込まれ、実を結ぶ枝はさらに多く実を結ぶように手入れされます。これは、罪から清めるための神の訓練であり、イエス様の言葉にとどまることによって、私たちの品性や祈りが神の御心に沿うように変えられ、多くの実を結び、神の栄光を現すことができると語っています。

はじめに:ぶどうの木のたとえ話
読みます。ヨハネの福音書15章1節から8節です。
私は誠のブドウの木、私の父は農夫です。私の枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように
刈り込みをなさいます。あなた方は私があなた方に話した言葉によってすでに清いのです。私にとどまりなさい。私もあなた方の中にとどまります。
枝がブドウの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、
あなた方も私にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
私はブドウの木、あなた方は枝です。人が私にとどまり、私もその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。
私を離れては、あなた方は何もすることができないのです。
私にとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
あなた方が私にとどまり、私の言葉があなた方にとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすればそれは叶えられます。
あなた方が多くの実を結び、私の弟子となることによって、私の父は栄光をお受けになります。
以上です。今日はこのところから、「多くの実を結ぶ」と題して2言目からお話しします。
皆さん、改めておはようございます。先週はイースター礼拝で、本当に幸いな時を祝会も含めて過ごしましたね。
第一の学び:まことのぶどうの木
今日は少し落ち着いた感じですね。まとめ言葉から見ていきたいとおもいます。
さて、皆さん、果物が好きかと思いますけれども、
シャインマスカット、これはブドウのゲームチェンジャーと言われているんですね。
なぜか、いちごは今、アマリンでしたっけ?すごい人気ですよね。
私は食べたいんですけど、なかなか価格で手が出ないんですけど、ブドウは私の子供の頃はデラウェアとか良くて巨峰でしたね。
巨峰も種があって、ペーッとやったりしてましたけど、これは皆さんご存知のように、皮ごと食べられるし、高い。
スーパーに行くと、目玉商品、野菜が売ってますけどね。
300円とか、シャインマスカット。安いなぁと思ったら100グラム300円とかですね。
やっぱり実際、1000円くだらないみたいなのがありましたけども、このシャインマスカットが代表されるようなブドウの話、
ヨハネの福音書にしかない、やはりこれも独特な例え話です。そこから3つのことを学んでいきます。
まず最初はですね、誠のブドウの木という言葉ですね。
誠のブドウの木。少し短いですが大事な言葉にできましょう。
私は誠のブドウの木。私の父は農夫です。
ここでね、ありますけれども、この意味がどういう意味か。
旧約聖書ではですね、実はこの神の民がブドウの木に例えられています。
このイエス様とおそらくここも話している、あえて何人って言いませんけども、この神の民が旧約聖書にいました。
しかし残念ながら、あえて彼らと言いますけども、ご存知のように神との契約を破って、神から離れてしまったということがよく起こっています。
実は旧約聖書に神の民はですね、ブドウやブドウ畑に例えられています。
そのほとんどがいわゆる否定的な意味で使われています。すべてが。それは神から離れ、神の契約を守らなかった。
そして神の裁きの手が入るという、そういう文脈でこのブドウの例えというのが旧約聖書で語られています。
その時に、その時ブドウの木というのは神の民を指していました。
その神の裁きに関わる悪いブドウの木ということをですね、いくつか旧約にあるんですけど代表的なものの一つとしてエレミアンの2章21節から引用していますね。
私、神様はあなた、神の民をですね、私はあなたを御名、遵守の良いブドウとして植えたのに、どうしてあなたは私にとって質の悪い雑種のブドウに変わってしまったのかという嘆きが語られています。
このように旧約聖書では神の民をですね、良いブドウの実りあるブドウと例えていたんですけれども、
実を結ばない悪いブドウになってしまったという嘆きの代表として語られています。
しかし、この本来なら旧約の神の民が果たすべきですね、神様との生き生きした関わり、神の契約に従って生きていく理想の神の民の姿を実はイエス様が表している。
それが私は誠のブドウの木という、本来神の民があれべき姿なんですよと言っているんですね。
で、ご存知のように実は、私はの私、これはですね、いつも言っている私こそはと訳されるエイミーというね、イエス様の自身のことを真正性を表す強い言葉なんてなんですね。
私こそ神の民が本来あるべき姿として、神との誠の関係と契約に生きる、私こそ誠のブドウの木であるとイエス様はここで宣言しています。
そしてそこに留まるイエス様の弟子や、新しい神の民となるべき今の私たちのことも、そしてそういう意味で
みんなが今誠のブドウの木になっていくんですよという、招きの言葉とも捉えられるわけなんですね。
そして、実はですね、ここのブドウの木の例えはですね、しばらく前に見た難しいイエス様の教えを分かりやすく例えている教えなんです。
それは、イエス様と私たち信じる者のいのちの有機的な関わりです。
その前回見た、しばらく前に見た御言葉はこれですね。
ヨハネ14章の19から20の罰水ですけれども、イエス様が復活した後にこういうことを予告しています。
あなた方弟子たちは私を見ます。私が生き、あなた方も生きることになるからです。
ちょっとそこから告白でみましょうか。
その日には私が父のうちに、あなた方が私のうちに、そして私があなた方のうちにいることが、あなた方にわかります。
このあなた方にわかりますと言いながら、なかなかわかりにくい言葉ですけれども、前回お伝えしたイエス様と私たちがお互いにいのちを共有して生きているという話です。
そのことをわかりやすく言っているのが、今日のブドウの幹と枝である私たちでした人の例えだということなんですね。
もう皆さんお察しの通り、あちこちに兄さんもブドウ園がありますよね。
そこでわかってみればわかるように、ブドウの枝は幹につながっていなければ身を結ぶことができない、当然ですね。
それはお互いがつながりながら、この枝の中で養分が行き来している、水が行き来しているという、そういうつながったいのちの関わりが幹と枝にあるわけですよね。
と同時に、このブドウの幹、本木と言いますかね、元のブドウの本木、幹もですね、枝がなければ身を結ぶことができないんですね。
わかりますよね。それも大事なんですね。
よくね、私たちはこの教会生活が長いと聞いてですね、私たちがイエス様に留まっていないと身を結びませんって聞きますよね。
でも今日もう一つ、私も新たな発見だったんですが、皆様に覚えて帰ってほしいことはですね、私たちも留まっていないと身を結べないけれども、
実はイエス様としても、私たちが留まっていなければ、この地でイエス様が天に帰られた後、身を結ぶことができないんだ。
幹が、枝がないと身を結べないように、実はイエス様も枝である私たちを通してこそ、この地において身を結ぶことができるんだ。
そういう尊い教え、イエス様が世で身を結ぶためには、イエス様を信じる私たちの存在がなくてはならないという、そういう厳粛なと言いますかね、尊い約束と言いますか、ことも心に留めておいていただきたいと思います。
ごめんなさい、今話した言葉はこのままです。レジュビーも書いてあります。
そして2番目ですね。道しによる借り込みというのですね。15章の2節でこう書いてありますね。読んでみましょうか。
私の枝で身を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、身を結ぶものはすべて、もっと多くを結ぶように借り込みをなさいます。
道しによる借り込みということを見ていきたいと思います。
この今日のところではですね、2節を見ると、身を結ばない枝を、農夫である父が取り除くと書いてありますね。
また6節を見るとですね、つながっていない枝、読んでいますでしょうか、聖書にあるね。
聞いてくださってもいいんですけど、6節には、私に留まっていなければその人は枝のように投げ捨てられて枯れます。
第二の学び:刈り込みによる実り
人々がそれを集めて火に投げ込むので燃えてしまいます。
留まっていない枝は投げ捨てられて枯れちゃうよ。そして火に投げ込んで燃えるよと言っているんですね。
これらはですね、おそらく先ほどちょっと言及しました、旧約聖書の時代に神様に背いた神の民のことを言及している。
そしてイエス様の時代においては、イエス様をメシアとして迎え入れるべきだった約束の神の民がそのイエス様を拒んでいる。
そのあり様とその行く末を指していると考えられるわけなんですね。
さらに弟子たちにとってはおそらくユダのことがあったのでしょうか。イエス様から離れないようにという警告でもあったと考えられるわけです。
しかしその上でさらに大事なことを見ていきたいと思うんですね。
大事なこと。それはですね、皆さんよくテレビなんかでね、おいしい果汁園に行くと、ブドウも叱り、リンゴも叱り、あるいは柑橘系。
今最近柑橘系にハマってないんですけど好きですよね。ポンカンとかそれよりもっと新しくね、シラヌイとデコポン。
シラヌイとデコポンの違いって分かります?分かる?今ね、私AIに聞いたんですけど。
そしたらね、シラヌイもデコポンも同じなんです。で、その農協が何かが認めた甘さと品質がある良いものがデコポンって言うんです。
皆さんムーンって言ってますよね。だからデコポンの方が同じシラヌイでも質が良くて甘い。
いっぱいね、カンペーなんて言われます。話たまらなくなっちゃいますけど。私柑橘系の甘いのがね、お値打ちで好きなんですけども。
何が一応言いたいかというと、そういうブドウにしてもリンゴにしても、また柑橘系にしても、本当に甘くて良い実を収穫するために、本当に剪定しますよね。
いらない実を捨てたり、残念ながら。そういうの安いの買って食べるの私なんですけど。
そういう剪定をして、さらに良い実を収穫を得よう、あるいはもっと多くの良い実を得ようという剪定という作業があるわけです。
同じように神様が、私たち神様を信じる、あるいはイエス様の弟子たちが、良い実をより多く結ぶために剪定をなさるということか、ここで刈り込みということで教えられているんですね。
皆さんそれをお察しかと思います。
それは、罪から私たちを清めるために神様が訓練するよ。
あえて聖書で書いてありますから言いますけど、良い父親のように愛する神様は訓練するんだよということが、聖書にありますね。
代表的な2言葉が、これですね。
ちょっと読んでみますね。ヘブル書の12章7節、10節、11節、パス2。
その試練というものは、罪から私たちを清めるために神の訓練だということをヘブル書で言っています。
訓練として耐え忍びなさい。神はあなた方を子として扱っておられるのです。
肉の父、この世の父は、わずかの間、自分が良いと思うことに従って私たちを訓練しましたが、霊の父は、神様は、私たちの益のために私たちをご自分の清さに預からせようとして訓練されるのです。
この全てを読めるか読んでみましょうか。
全ての訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、利という平安の実を結ばせます。
ヘブル12の7と10から11のパス2ですね。
この剪定という神の作業が、私たちの身においても起こるということです。
皆さんご経験あると思いますけれども、仕事とかですね、あるいは運動において、今はね、趣味においても、お仕方なんて言いますけど、訓練と言いますかね、鍛錬と言いますか、厳しいところを通る必要がある。
そして良い成果を得られるということがあるかもしれません。
まして、私たちの品声も、この試練を通して練り上げられると、このヘブル人の手紙だけじゃなくて、パウロも教えていますね。今、引用しません。ローマ書の5章の2節以降なんかにもありますけど。
そしてそれだけじゃなくて、実はもう私たちに与えられているイエス様の御言葉自身が、私たちの清めの希望となっている、そういう約束も今日語られているんですね。
失礼しました。こっちにはありませんけども、15章の3節でイエス様はこのように言っておられますね。
15章の3節。
私たちの清さの希望はイエス様の御言葉だ。
イエス様の御言葉はですね、自分を映す鏡と言えるかもしれませんね。あるいは、私たちはこの後でも言いますが、イエス様の御言葉に触れていくときに、清められていく、品声が練られていくということも起こっていくわけですね。
最後、品声と祈りの実ということですね。
15章の7節、8節。読んでみます。
ここから読んでみましょうか。
イエス様によって私たちが結ぶ実とは何ですか。それは色々なですね、私たちクリスチャンが探ろうとしていることですし、学者や牧師が解いていることです。解き証していることです。
そして色々ありますが、お察しのようにその一つは品声の実ですね。私たちの英語でキャラクターって言いますけども。
パウロンの有名なこんな言葉がありますね。
ガラテアビトの手紙の5章の22節から23節。読んでみましょうか。
このようなものに反対する律法はありません。
このような品声の実。これらがですね、全体的にバランスよく私たちに身についていく。その中で選定されたりもしていくということですね。
相反するような品声に見えるかもしれませんけども、バランスだと。
私たちはですね、喜んでいるけれどもはしゃぎすぎない。自省心があるけれども窮屈ではないんだと。
そして愛があるけれども甘えているわけではないんだ。
そのようなですね、本当にまさにイエス様のような恵みと誠においてですね、愛と正しさにおいて正しくと言いますかね、バランスよく成長していく。
それがですね、イエス様につながっていく、神によって選定されていく私たちが目指すべき道というか、整えられていく姿のではないでしょうか。
さらにここで3番目にですね、15章7から8で引用しましたが、実りとはですね、祈りの実りなんだということですね。
しかもですね、祈りの実はイエス様の御言葉と関わっているということが15章7節でわかるわけですね。
ちょっと余談になりますけど、実は今日の箇所でイエス様に留まるという言葉がたくさん書いてありましたよね。
で、前も先ほど言いました14章のイエス様と私たちの有機的な結びつきということ、あとよく言う永遠のいのちを味わうということの中で、繰り返し私たちは祈りと御言葉を通して永遠のいのちというものを知ることができますし、ある面神のいのちを知ることができますし、
ここで言えばイエス様に留まっていく、実りなんですけども同時にイエス様に留まっていくありようの一つとして御言葉と祈りに生きるということもこういう文脈からわかってくるんですね。
で、その中で祈りの実を結ぶということがイエス様が言うとこの多くの実の一つに入るのではないかと考えられるわけです。
そしてそれが繰り返しますが御言葉に留まるということが条件のようだと、私の言葉があなた方に留まっているならという書き方があるわけですね。
さっき繰り返しますがあなた方は私の言葉によって清いのですと言って、ここでもイエス様の御言葉が私たちの品性の実りとも関係しているようなことも考えられないとも言えないわけですよね。
ある学者が私たちの思いや心にイエス様の言葉が留まるということについてこんな言い方をしているんですね。
面白いんですけどね。学者が学者を引用しながら言ってるんですけども、ちょっと難しいかもしれませんが読んでみますね。
私たちが福音書に蓄えられている主の言葉を常に目想しているならば、主イエスは私たちの中に生き、御自身を表すことができるのである。
深い経験とイエスの言葉の学びとは手を携えて進むのである。
もう一回だけ読んでみますね。
私たちが福音書に蓄えられている主の言葉を常に目想しているならば、主イエスは私たちの中に生き、御自身を表すことができるのである。
深い経験とイエスの言葉の学びとは手を携えて進むのである。
目想という、ここは実は今の15章の7節に関して引用されてたんですけども、
第三の学び:品性と祈りの実り
祈りのうちに御言葉が留まって祈るということの文脈でも、こういう目想、おそらく祈りが語られているわけです。
ちょっと長くなりましたけども。
このように私たちがイエス様の言葉に留まる。
そして私たちの思いと心の中にイエス様の御言葉が留まるときに、私たちがイエス様のように変えられていくというですね。
なんて表現だったかちょっと忘れてしまいましたけど、英語で何か特徴的な言葉だったんですね。
とにかく私たちが御言葉によってイエス様のように変えられていく。
そして何が起こるかというと、実はその中で私たちの祈りや願いも変えられていく。
つまり神の御心に沿った祈りや願いに変えられていくんですね。
私も思うんですけど、クリスチャン生活の中のバランスの中の一つにね、何でも私祈っていいと思うんですよ。
あれがにしてほしい、こうしてほしい。
それもやっぱり幼い頃のように素直に神様にぶつけていく。
辛い気持ちとかね、苦々しい思いとかね。
と同時にやはり御言葉を通して私たちが変えられていって祈って、御言葉をもとに祈っていく。
皆さんディボーションの本なんか読んだことある人いると思うんですけど、
大体多くのディボーションの本は最初に御言葉がありますよね。
そしてその御言葉に沿って解説があって、こう祈りましょうということがあって、
自然に私たちは神様イエス様の御言葉を通して祈るということを学んでいたり実践しているんですね。
ちょっと情緒になってしまいましたけれども、このように私たちがイエス様の御言葉に留まっていく。
私たちの心と思いにイエス様の御言葉が留まるときに、
私たちの思いも変えられ、祈りも変えられて、願いも変えられていくということが起こるわけです。
そして祈りの実を結ぶという結果になるわけですね。
イエス様はとても大事な言葉、素晴らしいことを言っておられますよね。
読んでみましょうか、15章8つ。
あなた方が多くの実を結び、私の弟子となることによって、私の父は栄光をお受けになります。
ここにもですね、ミチチとミコと私たちの3種の関係が描かれているんですよね。
よく言ってますが、イエス様がこの地に来られたのはミチチの栄光を表すためだとよくおっしゃってましたよね。
その究極のものが重要力。
そして今度はイエス様が天に変えられた、ミチチのもとに変えられた後、先ほども言いましたが、
誰がどうやって栄光を表すかというと、
イエス様に代わって私たち弟子たちが祈りの実を結ぶことによって、
イエス様が願っていた父の栄光を私たちがこの地でイエス様に代わって表していくんだ、
そういうことがここからわかるわけですね。
このようにイエス様がミチチのもとに帰った後、私たちはここでは祈りですけれども、
さまざまな歩みを通して、実りを通して、イエス様がなそうとしていた父なる神の栄光を私たちが表していく。
枝として実を結んでいく。
それが私たちに委ねられた素晴らしい使いのちであり役割であり特権である。
そんなことを思いしと思いながら歩んでいくお互いであり教会でありましょう。お祈りします。
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様の有名なブドウの木と枝のたとえから学びました。
誠のブドウの木であるイエス様に私たちが連なり、あなたのいのちを得ることができるその幸いを感謝いたします。
御言葉や祈りの生活を通してあなたのいのちをいただき、
そしてその生活を通して私たちがあなたに会って豊かな実を結んでいくことができますように。
そのプロセスの中で試練やまた私たちが捨てなきゃいけないものがあって痛みを覚える時もあるかもしれません。
しかしそのようなことを通してさえ私たちを成長させ、
あなたの実を結ぶもの、神様の栄光を表すものへとあなたが変えていってくださること、その幸いを感謝いたします。
この新しい年度、どうぞ私たちがあなたに留まりながら、あなたのいのちを得ながら、あなたの実を結び、死に栄光を生きしていく。
そのようなお互いとなり、教会となっていくことができますように、どうぞ我々、我々に導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど黙祷し、御言葉に応える時間をとりましょう。
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