今日は、「救いの確信」という体をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
今まで何ヶ月間、中島家とともに、 初心者用の求道者、また初心者用の福音伝道のために、ショットメッセージを発信してきました。
その最後が、信仰告白行だったんですね。 そして、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるようにという、そのような段階があって、その後は、信じる人々、信じる人になったから、これから信じる人々は、このような生き方をしなければいけないですよ、と言いしながら、停止の生活を申し上げました。
そこで終わろうかと思ったんですけど、そこで終わりじゃなくて、もう一回ということで、私にすごく役に立った、福音を理解するのに役に立ったものがありまして、これは信じる前の私と、信じた後の私がどのように変わったのか、イエス・キリストにどのように変わったのか、
それが私にすごく力になったものですから、それを企画して、それでまた発信しました。
この世は百年、天国地獄は永遠、これは皆さんもご存知ですね。
その中で、信じない人のこの百年のこの人生、その人生はどうなんでしょう。
信じない方、まあ申し訳ないんですけど、信じない方はいくら立派に過ごすとしても、六つの問題から逃れることはできません。
まず大事なのは、信じない方は、自分がいくら正しくうまく生きたとしても、聖書はこの悪魔のしもべ、悪魔の奴隷と言います。
悪魔の奴隷の特徴は、空上崇拝するようになるんだということです。
空上崇拝を背負って、霊的な問題を抱えている。
また精神的な問題、体の問題を患います。
そのような苦しみの中、問題の中で過ごしながら、最後この世を去るときは、
裁きを受けて、そして地獄に行くようになります。
それで終わりではなきません。
一人の方がもう亡くなったことは終わりではなく、
その子孫たちが親がやっていることをその通り受け入れて、親譲りということがありますので、
呪いを親譲りするような、この運命の鎖から逃れることはできません。
ですから、未死者は、よく霊的な目で見ていますと、悪魔の奴隷であり、
霊的な問題を持っているし、精神的、体の問題、そして苦しみながら生きながら、
最後に死んだら裁きを受けて、そして地獄に行く。
そして自分の子孫たちには、親がやっていることをその通り、
遺伝を通して、どんな方法を通して、子供たちは親がやっていることをその通り行うようになるということでしょうか、親譲り。
そのような鎖の中で、未死者たちは過ごしています。
しかし、信じている私たちは、イエス・キリストによって、その呪いの鎖が破られて、
そこから救われて、神の子供としての祝福と特権をいただくものになりました。
神の子供としての祝福と特権、これは何で表現できるかと言いますと、
私たちには5つの核心を持っています。
まずはじめに、救いの核心。
今日一緒に分かち合いますけど、救いの核心。
二番目は、祈りは必ず応えられる祈りの応答の核心。
また、導きの核心。
神様、私の人生を導いてくださる。
人が計画を立てても、その道を導く方は神様だ。
この導きの核心。
また、許しの核心です。
どんな罪を犯しても、どんな悪いことをしたとしても、
悔い改めるなら神様から許されるということで。
また、勝利の核心です。
サタンがいくら私たちを攻撃して地獄に連れて行こうとしても、
地獄に連れて行くことができない。
私たちはこの勝利が与えられている。
これを悟って、シト・パウルはローマ書8章37節にこう言っています。
しかし、これらすべてのことにおいて、
私たちは、私たちを愛してくださる方によって、
輝かし勝利を収めていますと言います。
パウルはこの5つの核心を持って、勝利を確信をしているんです。
皆さん、信じている人たちはどれほど素晴らしいことでしょう。
ですから、今度は秋。
秋はこれを一つ一つ皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。
皆さん、スティーブ・ジャブス、皆さん全部ご存知ですね。
Appleの会社の創始作。
iPhoneの神話を作り上げた彼が、
56歳の若さで水族館で亡くなりました。
私たちが羨ましく思うすべてを持っている人が、
スティーブ・ジャブスとか、このような人ではないでしょうか。
彼は短い人生を過ごしたんですけど、
ところが、現代になって、救いの確信、または裁き、天国、地獄、この部分に対して疑いを持っている人がたくさんいます。
なぜなら、若者たちは大抵こう言いますね。聖書を読んでいますと、終わりが来る、終わりが来る。
初代国家の初めの時から終わりが来る、終わりが来る。
でも、2000年になってもまだ終わりが来る。見込みも見えていない。
だから、聖書を信じられるか、信じられないという人たちがたくさん現れています。
ある人たちは、死んで神の裁きの座の前に立つまでは、自分が天国に行くか地獄に行くか、よくわからないものではないのと言います。
救いの確信があると言ったら、この人傲慢だな。これは神の領域で、あなたがわかるはずがない。
そして、死んでみなければわからない。
以前、私の母がカソリックだったので、母がいつも救いの確信と話をしたら、母がいつもこう言いました。
それは死んでみなきゃわからないじゃないの、と言いました。
死んでみなければ、私が天国に行くか地獄に行くか、よくわからない。
このような曖昧な、でもそれが信仰が悪いのか、悪いことばかりしているのか、そんなことでもないのに、
そう言うのは傲慢じゃないの。
神の領域の話、神様が決めるものを、あなたが自分はわかっているという確信を持っていると言ったら、これは間違いじゃないの、ということもたくさんありました。
だから、救いの確信を持つのは、これは駄目なのかと思われるかもしれません。
しかし、そうではありません。
救いの確信は本当に可能です。
信じる人の特権は、永遠の命を持っていることを自分が確信することです。
使徒ヨワネ、今日読んでくださった第一ヨワネ古書13節。
あなた方にこれらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
すでに永遠の命を持っていること、あなたたちはわかっていないので、
でも、わかっていなくても、あなたは持っているよということを悟らせるために、使徒パウルはヨワネの手紙を書かれたということを教えてください。
ですから、信じる人が救いの確信を持つだと思ったら、これは傲慢だというのは、誠意とは違うということを理解していただき、
救いの確信は可能であり、それは確かなものだということです。
事実、イエス・キリストを自分の救い主と主人と受け入れた人が信仰を失うとか、救いを失うのは、これはありえないことです。
ヨワネ1書12節。しかし言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神のことなる資格、また神科学では徳権を与えたと言われています。
神様からいただいた神の子供の資格、徳権である救いを失うことができるのか、これが今の時代、進学的な最高の難題です。
しかし、聖書はそう言っていないということです。
ローマ説3章4節には、
人は全て偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
またヘブラリー書6章17節、
神は約束されたものを受け継ぐ人々に、
ご自分の計画が変わらないものであることを一層はっきり示したいと考えて、
それを誓いによって保証されました。
民数記23章19節、
神は人ではないから偽ることはない。
人の子ではないから侮ることもない。
言われたことをなさらないことがあろうか。
告げられたことを成就されないことがあろうか。
神様が言われたら必ず成就するということです。
ですから、神様が私たちに与えてくださった救いの確信が弱くなるのは、
失ったことではなく、弱くなっていることです。
ですから信仰成長、見事ばと精霊の助けによって信仰が強くなるなら、
弱くなったものが強くなったら、
私は見捨てられたんじゃないかと思われることを、
そうではないんだということを私たちは理解することができます。
また、救いの確信が弱くなったり、失ったんじゃないかと思われるのは、
神様に告白していない隠された罪があるからです。
罪は、普通の人は罪を公に言い表しません。
でも罪は私たちの中にあって、悪魔はこれをもって私たちを苦しめます。
特に一番の問題は、神様と私たちの関係を罪をもって妨げるんです。
空には太陽が光るんですけど、地上には暗くなって雨が降る理由は、
雲によって空は明るいんですけど、下は暗い。
雲と罪は同じような役割をします。
神様はいつも私たちに信仰を下さるんですけど、
私たちは神様から逃げていきます。
なぜなら、罪によって、
貝のように自分自身の心が隠されているからです。
ですから、イジャヤ59章1節2節に、
主の手が短くて救えないというのか、
主の耳が鈍くて聞こえないというのか、
むしろお前たちの悪が、神様と私たちの間を下手で、
お前たちの罪が神の御下を隠させ、
お前たちに耳を固めくれることを妨げるのだ、と言います。
罪は核心の一番大きな邪魔者です。
キリスト者が罪を犯すなら、
聖なる神様が悲しませ、また悩ませます。
また、罪を犯した信者は、
救いの核心と喜びを失ってしまいます。
ダビデがウリアワの妻を犯した後に、
自分が書かれた詩編の51編、11節、12節には、
ダビデは泣きながら、
救いの喜びを取り戻してください、と言います。
救いの喜びがなくなったということです。
救いの核心がなくなった。
何によって?
バッド・セバットの間の罪によって、
ウリアワを殺した罪によって、
自分が大きな罪を犯したから、
神様が自分を見捨てられたと自分自身が思って、
自分自身が神様から、
この悲しむような状態に落ち込んでしまったということです。
しかし、自分の罪を深く悔い改めて、
取り戻すことさえできれば、
私たちは失われた救いの核心を取り戻すことになります。
聖書は約束しています。
第一話の1章9節、
自分の罪を公に言い表すなら、
神は信じて正しい方ですから、
罪を許しあらゆる不義から、
私たちを清めてくださろうと言います。
まず信仰が弱くなったら、
自分自身が神様に忠実にならないから、
その部分で自分自身が、
私は神様から見捨てられた、
神様から何か救われないんじゃないかと、
また大きな罪を犯したなら、
自分自身が自ら神様から逃げていきます。
だから自分の救いの核心はだんだん薄まって、
それで私は救われてないんじゃないかという、
またその中で病気にかかったりするなら、
すべて病気とか事故とかいうことが、
私の罪のせいだと思って、
神様からもともと逃げるような状態になります。
また3番目、
神様との交わりをおろそかにするから、
私たちの救いの核心が弱くなります。
祈りは霊的な呼吸と言います。
呼吸しなければ私たちは死ぬようになります。
同じようにどんなキリスト者だといっても、
霊的な呼吸である祈りの生活をうまくやっていなければ、
だんだん霊的に死んでいくし、
その時、救いの核心を失うようになります。
ですから私たちは信仰が弱くなったり、
罪を犯したり、
神様との交わり関係性がだんだん悪くなったりするなら、
そこに従って自分の救いの核心も弱くなったり、
失ったり、いろいろな疑いが生じたりすることがたくさんあります。
しかし、その心の中で聖霊様がおられるなら、
その聖霊様が私たちを助けてください。
聖霊様は様々な方法を通して私たちの心を覚ましてください。
あなたは神の子供の代わりがないよということを確信させてください。
また悔いを改めるように、いろいろなことを通して悟らせて導いてください。
また、私たちがいただいた救いの喜びがどれほど素晴らしいのかということを知らせてくださって、
救いの核心を取り戻すことができるようにしてください。
このような全ての過程の中で、私たちの側面からは、
私が神の前に罪を犯して信仰性がうまくやっていなくて、
信仰が弱くなって、今私がやっていることを考えてみますと、
私は神の前に立つ資格がない。
救いを失った。
私はもう神様から終わったと、いろいろ考えるかもしれないけど、
信じて代わりがない。
神様の側面からは全然問題がないと言われるかもしれません。
ですから私たちは、自分自身を信じることではなく、
自分の感情に委ねることではなく、
代わりがない神様を信じなければなりません。
私はこのような時に、いつも考えたら、私は力になる部分があります。
これは皆さん、サタン、今サタン、昔は天主教だった。
サタンが今力を持っています。
全人類を惑わす力を持っています。
また、全人類を地獄に連れていくような、
このようなすごく大きな力を持っているように見えます。
このサタンが持っている力は、どこから来たんですか。
これはもともと、神様から天主教の時代に与えられたことです。
だったら、天主教の時代から堕落して、
神に逆らうサタンになったら、人々を騙す悪魔になったら、
神様はこの力を奪えばいいんじゃないか。
だったら、サタンの力がなくなるんじゃないかと思います。
しかし、神様はサタンから力を奪うことなさいませんでした。
ここで皆さん大事なのは、
神様は心変わりが激しい方ではないということです。
私たちは朝晩、心が行ったり来たり変わります。
神様が一体決めたと言ったら、
神様が定められた時期まではそのまま置いておきます。
サタンが堕落したとしても、いつサタンを滅ぼすのか、
最後の裁きの時にサタンを地獄に投げ入れます。
その時にまで、神様はサタンの力をそのまま置いておくんです。
私だったらすぐ奪ってしまって、サタンが何もできないようにしてしまうけど、
神様は待っておられる。すぐ力を奪わない。
心変わりが激しい方ではありません。
神様は動く影さえない。
神様はいつまで同じお方です。
神様は変わりがありません。
サタンの力も奪わない神様。
私たちに神の子供になる資格を与えたと言ったのに、
私の信仰生活は最近良くない。
お前ダメだ。取り戻せ。
罪を犯しました。
お前の力を取り戻せ。
神様と関係があまりうまくない。
神様が言っても従わない。
お前やめ。これから今まで全部キャンセル。
お前の力を取り戻せ。
心変わりが激しい方ではない。
神様はこんなお方だということです。
私たちは変わります。
しかし神様は変わらない。
だから私が信仰の救いの確信が失った。
私は救われないかもしれない。
私は地獄に行くかもしれない。
ある意味から見てますと、
心変わりが激しい。
私たちの考えの中に問題があるかもしれないけど、
神様はずっと昔から今に至るまで
あなたは私の愛する子。
私はあなたを愛しています。
このようにずっと神様は待っておられる。
悔い改めることを待っておられる。
1000年後1日のように待っておられる神様。
だから神様は今私たちが悪いことを
罪を犯したり教会に来なかったり
神様を逆らったり
いろいろなことをするんだとしても、
神様の心は変わりがない。
だから救いは私の心、私の考え、
私の信仰から出発するのではなく、
変わりがない神様から出発しなければいけない。
ぜひとも皆さんこれを理解していただければと思います。