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2025-11-09 32:43

「真のぶどうの木、イエス様に繋がっていましょう」2025年11月9日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年11月9日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書))ヨハネ15:1-8「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 

メッセージ題 : 真のぶどうの木、イエス様に繋がっていましょう(ヨハネ15:1-8)
 *先週、私の過ちでメッセージを最後まで伝えることが出来なく、本当に申し訳ございませんでした。 これから同じような事故が起こらないように…気をつけていきたいと思います。おゆるしをお願いします

1.先週のメッセージの要約。「主の内にとどまりましょう」という題で…

*先ず、救い論と救われた後の信仰生活について。*救いは恵みで、信仰で。私たちの行いは無意味

*救われた後の信仰生活も恵みで、信仰で、しかし私たちの自由意思を捧げ積極的に主の内に留まらなければ !→聖書で父の家を離れた事例が。ルカ15章の放蕩息子のたとえ。私たちが学ぶべきこと

*どうすれば、持続的に父の家でとどまることができる?

1)救いの恵みをいつも覚える。

2)助け主聖霊様に委ねる。信仰生活は霊的戦いなので特に!

3)神様と親しい関係に、礼拝、お祈り… 検証方法?応答

#何週間、似たようなメッセージを。私についてきなさい、主の内にとどまりなさい… そして、今日は

2.真のぶどうの木であるイエス様に繋がっていましょうという題で…

*私たちの教会の名前が?ぶどうの木教会 !ぶどうの木と枝のような… ヨハネ15章では、神様を農夫として、イエス様をぶどうの木として、私たちをその枝として描写。 →農夫はどんな希望を持って農業を?美味しい実り、沢山の収穫 !大事なのは、実りは枝に !従って農夫も、ぶどうの木も枝を大切に

#農夫とぶどうの木が願う、良いぶどうの実を結ぶ為にだいじなこと? 15:1節、イエス様は真のぶどうの木 !

神様が願われる命の実りを結ぶ、唯一で、完全なぶどうの木であるから !従って、繋がらなければ !

*しかし2、6節には、繋がっていながら実を結べない枝があると?関係性の問題、病に、不純物によって

→農夫はそのような枝を切り捨てる、燃やしてしまうと。他の枝も汚染したらいけないから。イスカリオテのユダと当時のユダヤ人…

*しかし、実を結ぶ枝は?農夫は特別に管理される !それは、小枝を切ってあげること。ぶどうの木は小枝が多い。小枝を残すなら栄養分を奪われ良い実はできない。従って取り除く作業を。痛みが伴いますが、必ず。霊的に、私たちの信仰に邪魔になるこの世的な考え、貪り、心配悩みなど捨てなければ。純粋な信仰、神の国に対する真の希望の為に。

*どのように清くできるか?15:3御言葉によって !イエス様は、福音書で信仰が浅い弟子たちを3年間、御言葉で…そして使徒言行録での使徒たちは霊的に成熟した信仰と祈りの人になりました。それは3年間、教えられたイエス様のお陰!

*また、持続的に清くなる為には、15:4,私に繋がっていなさい !キリストとの霊的連合 !いつもイエス様に委ね、イエス様を思い出し、イエス様中心的な生活を。そうするなら神様が実りを

3.ぶどう農業で実りが大事です。実りがなければ、農夫の一年の働きは無駄 !

*どのように霊的に実を結ぶことができるのか?15:7御言葉をもって祈ることで。確かな祈りの応答は

#私たちが沢山の実を結ぶなら?15:8

1)神様が栄光を受けられます。子供によって親が?私たちによって神様が !人間の第一の目的?主の栄光の為 !

2)イエス様の弟子と認められます。イエス様の知識とご品性と能力を備えた弟子として

…ヨハネ14:12=使徒11章でアンチオキア教会でキリスト者と@イエス様の内で実られる二つ !

1)内的な実り、ガラテア5:22,23美しい神の人になる。

2)外的な実り。良い土に蒔かれた種のように、福音宣教によって30,60,100倍の実りを収穫する !今年、どんな実を

サマリー

このメッセージでは、真のぶどうの木であるイエス・キリストに繋がり、救いの恵みを心に留めることの重要性が強調されます。また、信仰を深めるにあたり、父なる神様との良い関係を築くことや日々の祈りが必須であることが述べられます。このエピソードでは、心の中の貪欲や誘惑、そしてそれらを切り捨てて清くなる方法について学びます。また、イエス様にとどまり、御言葉によって力を受けることが、豊かに実を結ぶ秘訣として探求されます。このメッセージでは、イエス様を真のぶどうの木とし、弟子として実を結ぶ重要性が強調されています。内的な実りや快適な実りを通じて、教会が神様に喜ばれる存在になることが目指されています。

救いの恵みの重要性
今日は、「真のぶどうの木、イエス様に繋がっていましょう」という対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
先週、メッセージを最後まで伝えることができなく、本当に申し訳ございませんでした。 これから同じ事故は起こらないように気をつけていきたいと思います。
私は先週、本当に私なりに大事に思ってメッセージを準備してたんですけど、 最後までうまく伝えることができなかったので、
先週のことを簡単に要約して皆さんに伝えてから、今日のメッセージを行いたいと思います。 先週のテーマは、「死のうちにとどまりましょう」というメッセージでした。
その初めに、私は救い論について皆さんに申し上げました。 救い論、救われた後の生活、これは非常に大事なんです。
救いは恵みによって、信仰によっていただきます。 救いに対しては、私たちの行いが入ったら絶対にいけません。
救いは、ただただイエス・キリストの十字架の功労によって救われます。 ところが、救われた後の生活は、それももちろん恵みによって、信仰によっていきます。
しかし、そこに私たちの自由意志を下ろして、積極的に死のうちにつながって、死のうちにとどまる生活が大事。
死のうちに行って、死から離れてはいけない。 救われたとするなら、死のうちにいることが大変。
死のうちから離れるなら、大変になります。悲惨になります。 ですから私たちは、死から離れてはいけないということが聖書のポイントです。
聖書の中で、父の家から離れた人がいました。 それはフォート・ムスク、ルカの中古書にあるんです。
家に二人の息子がいたんですけど、二人ともフォート・ムスクだったんです。 フォート・ムスクの意味は何ですか。父である神様の御心がよくわからない。
父である神様は何を願っているのか、そこを合わせて喜ばせるべきなんですけど、父なる神様と全く違う考えで自分勝手に生きる者はフォート・ムスクです。
二番目の息子がフォート・ムスク。彼は身体が父の家から離れ、心も父の家から離れたからフォート・ムスク。
しかし上の息子は身体は父と一緒にいたんです。 しかし心は父の心を全くわかっていない。
だから二人とも心から父親を苦しめたと言いましょうか。痛みを与えたと言いましょうか。
ですからその人はフォート・ムスクと呼ばれるようになるでしょう。 皆さん人間の存在意味、目的は何ですか。
主の栄光のために生きる、主を喜ばせるために生きる、これは人間の第一の存在理由です。
それから見てますと、二人息子全て神を喜ばせるものができなかったので、その人生は謝った人生、間違えた人生になるでしょう。
しかし二番目の息子は戻ってきました。 なぜ戻ってきたんですか。
世の中が悲惨で父の家はいいところだったってことを思い出したからです。
ですから戻ってきました。だから父親は彼に息子としての全てを回復してあげました。
それで良くなって良かったです。しかし上の息子はもう心が離れているのに分からない、体が離れていないから、
だから彼は後に続けてフォート・ムスクのままに生きていったんじゃないかと思います。
どっちが良いのか。外に出たとしても、心と体が家に戻ってきた二番目の息子がもっと望ましいでしょう。
今私たちはそうです。 心が父の神様から離れたり、戻ってきたり、離れたり、戻ってきたりする状態です。
皆さん、これから私たちは神様から離れることがないように、いつも心と体が主と共にいるように気をつけていきましょう。
それで、持続的に主と共にいるために私たちはどうするべきか、3つを考えます。これがメッセージできなかった。
父なる神との関係
では、はじめは何でしょう。救いの恵みを切に悟るべき。
地獄に行くべき私たち全員人を救われて天国に行くものになったことに対する感謝と感動と喜びが、
はじめはあるんです。だんだん薄くなって、あとはなくなってしまう。 薄くなってもダメ、なくなってもダメです。
いつもいつも覚える。ですから、この賛美。
われおもすくいし、くしきめぐみまよいし、みもいまたちかえりぬ。
この賛美を覚えて、ずっと歌うこと。
いつも覚える。この神の恵みをいつも覚えることが、神から離れられないようになる秘訣です。
もう一つは、なぜ私たちは神から離れるのか。攻撃があるからです。誘惑があるからです。悪魔があるからです。
悪魔の存在から私たちを守るために、聖霊様が来ておられます。
だから、聖霊によって私たちが守られるように、助け主聖霊様に委ねる。
いつも祈る。3番目、父なる神様と良い関係を結ばなきゃ。
良い関係の中にいたら、いつも良いでしょう。 父なる神様との関係がダメになったら問題。
ですから、いつも良い関係のために、礼拝、賛美、祈り、この生活を豊かにする。
神様と私の関係が良いのか、良くないのかを、自分なりに早くチェックする方法があります。
これが何かと言いますと、お祈りです。お祈りの応答。
祈りの答え。いつか祈った時、祈ったらすぐすぐ答えが来る。
何か祈ったことが実現できる。これがあったら喜びがあるでしょう。
しかし、ある時からは祈っても何にも答えがない。
祈っても真っ暗で何にもないと言ったら、危ないと思って、皆さんこれをチェックしてみてください。
祈りの応答がチェックポイントです。また、ご臨在があるのかがチェックポイントです。
これを通して、私が主の家にいるのかいないのかを、いつもチェックしながら取り戻す作業。
イエスに繋がる意味
悔い改めです。
宝刀息子のように、父の家に戻っていく。心と体は戻っていく。
このことをしっかりやっていく。これが私たちの幸せのポイントです。ぜひやっていきましょう。
杉本先生が来られてから、私は同じテーマでメッセージをしています。
杉本先生が、私について来なさい。自分を捨て、自分の十字架を背負って。
先週が、私は主の家に留まりましょう。
今日も同じです。今日は、真っ事の葡萄の木であるイエス様に繋がっていましょうというお題です。
ほぼ同じようなメッセージですけど、聖書であちこちでいろいろな表現で教えてくださるので、今日もこれを一緒に考えていきたいと思います。
皆さん、私たちの教会は、葡萄の木教会です。葡萄の木教会の意味は何でしょう。
パコットの葡萄の木であるイエス様と、枝である私たちは、繋がっているなら、枝が実を結ぶんじゃなくて、木が枝に実を与えてくださるんです。
このような生き方を学びましょうということで、葡萄の木教会というテーマをつけたんです。
今日読んでくださったイワネ中古書には、神様は農夫、葡萄園の農夫、イエス様は真っ事の葡萄の木、私たちはその枝です。
この関係性を私たちはしっかり覚える必要がある。皆さん、農夫はどんな希望を持って、葡萄園を、また葡萄の木、また枝をいろいろ管理してくれるんですか。
農夫が考えているのは、実だ、実。
おいしい葡萄の実が結ばれるようにということを願いながら、1年間苦労しながら農業をしています。
これは、葡萄の木であるイエス様も同じです。大事なのは、葡萄はどこに結ぶんですか。
これ、枝に実を結ぶ。神様もイエス様も、私たち枝である私たちがいなければ、葡萄の実を結ぶことはできない。
だから、神様もイエス様も、枝である私たちを大切にしていかれるんです。
そこで、神様も農夫であり、某農夫も葡萄の木も、よい葡萄の実を結ぶために、大事なことは何か。
イエス様が、まことの葡萄の木ということです。
中古書1節、私はまことの葡萄の木、私の父は農夫であろうと言います。
イエス様は、まことの葡萄の木という意味は、神様が願われる、永遠の命を結ぶ唯一の木、完全な木、その木はイエスキリストという葡萄の木だということです。
ですから、他の木ではなく、私たちはイエスキリストのまことの葡萄の木であるイエス様に繋がっていなければいけない。
ところが、今日の聖書で、繋がっているのに、実を結ばないものがあっております。
実を結ばない枝。 木に繋がっているのに、実を結ばない枝がいるんですか。
いえ、あります。病気にかかった枝。 不純物によって関係性がダメになった枝。
関係性に問題がある枝は、この枝に実を結ぶことができません。
じゃあ、その枝にはどうするのか。2節に書かれてあります。
私に繋がっていながら、実を結ばない枝は皆、父が取り除かれる。
6節には、私に繋がっていない人はいれば、枝のように外に投げ捨てられ、枯れる。
そして集められ、火に投げ込まれて焼かれてしまおう。
木に繋がっていながら、実を結ばないか。繋がっていなければ、いない枝、すべてを、神様はこれを集めて、全部燃やしてしまおう。
なぜでしょう。 汚染されるからです。
枝が病気にかかったら汚染されます。
これが不純物に繋がっていたら、ここに怪獣、病気、いろいろな虫が繋がっていたら、すぐ他のものに繋がっていく。
私は最近、たまものを冷蔵庫の中に長く置いていた。
たまものを何個集めてビニール袋に入れていたら、1個は臭くなって、隣がすぐ臭くなりましたね。
ああ、これを生物は早く食べなきゃいけないかな、と思いながら。
そうです。枝が病気になったら、隣の枝もすぐ病気になります。
ですから、神様はそれを切り捨てて、焼かしてしまう。
例えばと言って、イスカリってユーダ、イエスさんとの関係があまり良くなかった。
自分の貪欲、お金に対する貪りがあったんですね。
イスカリユーダがそのまま存在していたとしたら、初代業界にどんな影響が与えられたでしょう。
初代業界でイスカリユーダが続けて活動していた、人として活動していたとしたら、
彼が行くところどころ腐敗が蔓延されてしまったかもしれません。
だから、早めに神様がそれを取り除かれるんじゃないかと思います。
ユダヤ人、偽りの信仰、自分の目的、自分の方法、自分の熱心、立法主義、人権主義、ゴリアク、
この人たちは初代業界の活動に、神様がいくらバリサイビと立法者としても使ってくださりませんでした。
なぜなら、その偽りの信仰が初代業界につながってはいけないからです。
だから神様がそれを早めに取り除かれてしまうということは、私たちが気をつけなければいけない部分だと思います。
つながっているのに身を結ばないものもあるんだということ、しかしそれを神様は必ず切り捨ててしまうんだということです。
ところが、つながって身を結ぶものはどうするか、それは大切なものだから、これから管理をしっかりしてくださいます。
管理をどうするのか、葡萄の木は小枝と言いますか、さえだと言いますか、いろいろ小さい枝がたくさんあるという、
この小枝を切ってあげなければ栄養分が分散されるから、この良い枝が良い栄養分をたくさん吸収できなくて良い実を結ばないと言うんですね。
ですから良い枝だけ残して他の枝は全部切ってくれると言います。
これは礼的な意味で何なのか、皆さん私たちの信仰に邪魔になることがあります。
心の中の清め
これが何かと言いますと、むさぼり、貪欲、それは心から切り捨てなければなりません。
この妖的な考え方、それも切り捨てなければいけない。
また私たちの心配、悩み、これを切り捨てなければいけない。
皆さん、四つの畑は、これはどんな例にも全部当てはまるものですけど、
道端があるし、石だらけがあるし、茨の地があるし、良い地がある。
石だらけ、これは仕方がないとしても、一番私たちと似ているものが茨の地です。
茨はどんな意味なのか、茨はむさぼり、心配、世の中のいろいろな誘惑、それが茨なんです。
この地にいるなら、これは身が出るんだけど、身を結ぶことができない。
だから私たちはそれを必ず切り捨てなければいけません。
私たちは本当にこれを切り捨てるのに、痛みが伴うとしても、
神様がそれを必ず切り捨てるように、私たちは訓練されるんだということをぜひ考えて、
これを切り捨てるときに私たちは信仰が純粋になり、
神の国に対する誠の希望を持つことができるので、
それをやって神様がなさるんだということを覚えていきましょう。
イエス様とのつながり
皆さん、私たちの中でむさぼり、また誘惑、心配、ここに関係するいろいろな要素があるんです。
皆さん、心配があれば礼拝はどうなるんですか?
心配を持って礼拝するなら、
牧師のメッセージが私の心配を解決してくれるのか、くれないのか、こればっかり考えます。
だったら、神様からのメッセージが自分に受け入れられません。
だから、自分にある問題をすべてメッセージを妨げるものになるので、
私たちはそれを自分なりに祈りながら、
主との関係の中で、これをよくよく管理しなければなりません。
私たちはどのように清くなるのか、
それは三節に言いますと、
私の話した言葉によって、あなた方は既に清くなっているということです。
神の御言葉です。
神の御言葉が私たちを清くしてくださいます。
これをぜひ覚えてください。
福音書で現れた弟子たち、住み人、長寿人、両子、
本当に世の中であまり有名ではない、ミツボらしい存在でした。
しかし、彼らが使徒行事に入ったら、すっきり変わります。
意味的な成熟した信仰、また祈りの人に変わっていきます。
彼らがそのように変わった理由は何でしょう。
イエス様が3年半教えたこともあるし、
イエス様の模範を見て学んだからでしょう。
御言葉を3年間繰り返し繰り返し、
イエス様が人が集まったら教えたということ、
教えることの御言葉の意味、これが非常に大事です。
御言葉がなければ、私たちの内面性、心は清くなりません。
いくら努力するんだとしても、なりません。
しかし、御言葉によって力を受け、御言葉によって清くなります。
私が新学校に行った時に、会社辞めて40歳の時に新学校に行ったのに、
新学校に入ってみれば、私みたいな人間を日本の中で、
どこで使ってくれるかと心配が入ってきました。
日本語ができない。人脈全くない。
しかし、一緒に勉強している新学生たちは、
みんな日本の有名な教会の先生の息子たち。
もう日本人で、日本語ベラベラ。
私はその中で、私自身が考えました。
私みたいな人間を、日本のどんな教会が、
私みたいな人間を使ってくれるはずがないと。
私自身が思ったのです。はずがない。
だったら皆さん、40代に入って、新学校に行って、それで辞めて、
また昔のように会社に入ることはできますか?
これはできないのです。
新学校の経歴は、就職と全く関係ない経歴でしたね。
だから、私も心配が生じました。
どうしよう、どうしよう。家族も繋がっているし。
今、どうすればいいのか。
祈り、見言葉の中で、ずっと何か神様に求めたのですが、
神様、一言、メッセージをください。見言葉をください。
マタイ六書三十三節。
まず、神の国と神の気を求めなさい。
そうすれば、これらのことは全て加えて与えられる。
これを、私は信じました。この約束。
確かでしょう。
まず、神の国と神の気を求める。心配するな。
まず、神の国と神の気を求めるなら、
あなたが心配していることを、私が解決してくれるから。
だから、私は3年間、
まず、神の国と神の気を求めることは何なのか、何なのか、
それで、私は、マンツーマン勉強会をしよう。
それで、出会う人に、いつも、
人と出会ったら、私と勉強会をしませんか。
私と勉強会をしませんか。
これは挨拶だった。
日本語もできないくせに、
日本語も全然分かっていないくせに、
聖書もよく分からないくせに、
私はその話をして回りました。
不思議に、人が来ました。
神様がつけてくださったんです。
それで、私が出会って、また出会いました。
不思議に出会いました。
皆さん、それによって、
私が聖書の知識がますます増えただけじゃなくて、
その勉強会によって、日本語ができるようになりました。
神学的な言葉、聖書的な言葉が使うようになりました。
3年間苦労したんですけど、苦労する分、
うまくできました。
皆さん、ぜひぜひ、
私が生かされたのは、
マタイ6章33節。
今もそれを適用して生きています。
ぜひともやってください。
皆さん、見言葉によって清くなり、
見言葉によって強くなり、
見言葉によって、
すべてが得られるんだということを
豊かに実を結ぶ
覚えていただきたいと思います。
また、持続的に身を結ぶためには、
イエス様が、私のうちにとどまりなさいと言います。
4節から8節まで見ますと、
私のうちにとどまりなさいということは、
8回も出てきます。
私のうちにとどまりなさい、私のうちにとどまりなさい。
聖書で同じ言葉が繰り返し出てくるのは、
それがものすごい大事だということです。
イエス様のうちにとどまりなさいという意味は何ですか。
イエス様とつながる連合という意味。
連合は難しい言葉ですが、つながるという意味。
夫婦が一体になるように、
イエス様と一体になるようにやりなさい。
じゃあ、そうどうすればいいですか。
すべてに対してイエス様に委ねる。
すべてに対してイエス様の観点で考える。
すべてに対してイエス様だったらどうされるかなと思う。
すべてに対してイエス様中心的な生活を行う。
これがイエス様とつながるという意味なんです。
そうするなら、イエス様が私が祈っていること、
願っていること、どうすればいいんですかと思っていること、
イエス様だったらどうされるかなと思っていることを
教えてくださるだけじゃなくて、
それが実現できるようにイエス様が助けてください。
ですから、これが大事だから、
私につながりなさい、つながっていなさい、つながっていなさい
ということを継続けて教えてくださる。
そうするなら、身を結ぶことができるからです。
ですから、礼儀的に私たちがどのように身を結ぶことができるのか、
7節になります。
あなた方は私につながっており、
私の言葉があなたたちのうちにいつもあるならば、
望むものは何でも願いなさい。そうすれば叶えられる。
そうです。イエス様とつながっているし、
その中で身言葉を持って祈るなら、
身を結ぼうことができるんだということです。
皆さん、これが私たちがブドウの木の中で身を結ぶ秘訣がここにあるんです。
身言葉がなしで祈るなら、
皆さんすべて自分の必要ばかり考えながら祈るようになります。
しかし身言葉があるなら、身言葉を持って祈るでしょう。
まず神の国と神の機を求めなさい。
そうすればすべてが加えられる。
その時私は祈っているのは、
主よ、神の国と神の機を求めることは何の意味ですか?ということで、
毎朝祈りました。
その間に私にぱっと思い出されているのは、
当時私は生きるために聖書を掴んで、
万数万の勉強を私が私にやりました。
問題書はあるから、
私にやっていることをこれを持って、
他の方たちに一緒に分かち合うことはどうかなと思っている。
思いがぱっとできて、
それで勉強会を一緒にしませんかとお願いしたんです。
皆さんこれを私が偉いからもう私に学んでください。
これ意味じゃありませんでした。
私が生きるためにぜひとも一緒にやってください。
一緒になってください。
切磋なる心で願ったら受け入れた方がおられたので、
その方と一週間一回集まって、
いつも一週間一回は必ず出会って、
お友達になってそれで分かち合うこと、
それで見言葉をその間に一緒にやりました。
それが日本の牧会の秘訣であり、
それが私の能力、私の聖書の知識、
日本語が発明できる秘訣だったんです。
それがここに全部ありました。
ですから私たちは見言葉を持って祈ることが大事です。
私たちが見言葉を持って祈るときに、
神様は必ず見言葉通り全てを叶えてくださいます。
そのとき私たちに内的な実りだけじゃなくて、
快適な実りもあります。
私たちがたくさんの実を結ぶならどうなるのか、
八節にあります。
あなた方が豊かに実を結び、私の弟子になるなら、
それによって私の父は栄光を受けられる。
実を結ぶなら、まず父が私たちをよって栄光を受けられる。
皆さんこれは大事ですよ。
子どもがうまくやるなら、親が大勢の人々から褒められます。
同じように私たちがうまくやるなら、
私たちの父である神様が大勢の人々から褒めたたえられます。
人間の第一の目的はそれであります。
ですから私たちが神を栄光を与える、
神を褒めたたえる、みんなが褒めたたえるようにする、
この肌だらけに私たちが用いられているものですから、
これができれば私たちの人生の目的、
これが達成できるような一番幸せの存在の秘訣がここにあります。
またもう一つは、私たちがイエス様の弟子になります。
弟子の特徴は何か。
弟子はイエス様と同じではないんですけど、
イエス様から見習ったでしょう。
何を見習うんですか。
知識だけじゃなくて、個品性、能力、
イエス様と弟子としての実り
知識と個品性と能力の調和あるイエス様の弟子になります。
そうなるなら何ができるのか、
弱音中4章21節、はっきり言っておこう。
私を信じる者は、私が行う技を行い、
またもっと大きな技を行うようになり、
それによって主が栄光を受けられる。
イエス様を行ったことも行うし、
それよりもっと大きなことも行われる、
そのような弟子になります。
また、首都教伝中1章では、
アンティオキア教会でやっと彼らが
キリストシャーに呼ばれるようになったと。
同じです。
私たちがイエス様の弟子になるなら、
日本でイエス様の弟子だと言われるような、
この人々からの話を聞くようになるでしょう。
ここで実りは2つがあります。
1つは内的な実りです。
心の中で実る実り。
これは何ですか?
聖霊の9つの実り。
カラデア古書22節、23節には、
霊の結びは愛であり、
喜び、平和、寛容、
親切、善意、誠実、乳和、節制です。
これらのものは禁じる掟はありません。
霊的な豊かな心の実りがある人が、
美しい人になる。
キリストシャーは美しくならなければいけません。
その人と一緒になれば、
なんとか幸せ、なんとか美しい。
その人と一緒になれば、力強くなる。
ひどいことを聞いても、
落ち込んでいる人が力を受ける。
皆さん、お父さんお母さんがこうするなら、
子どもたちがどれほど素晴らしい人になるでしょう。
それがぜひとも、
9つの聖霊の実り、
持つ内面性を持たなきゃいけない。
また界面的に、
良い土にまかれた種は、
30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。
そうです。快適な実り、
主のための奉仕、また福音を伝導して、
それを通して実られる実りが、
OOJの人々が救われ、
すべての人が豊かになり、
信仰が強くなり、
癒され、
いろいろな良いことが行われます。
それがイエス様の弟子として、
ふさわしい実りではないでしょうか。
これから見てみますと、
2025年度、
私はどんな実りがあるでしょう。
内的な実りはどうですか。
また、快適な実りはどうですか。
個人的などんな実りがあり、
また、教会的にはどんな実りがあるのか、
数えて見てみたいと思います。
いろいろ結論を申し上げます。
杉本先生が、
イエス様についてきなさい。
私についてきなさい。
自分を捨てて、
自分の十字架を背負って。
また、私、先週は、
イエス様の家に留まりましょう。
今日は、まごとの武道である、
イエス様につながっていきましょう。
ということです。
それで、たくさんの実を結んで、
それによって、
父が栄光を受けられ、
私たちは、
アンティオキア教会に、
まごとのキリスト者、
まごとのイエスの弟子たちがそこにいる、
この言われる教会になりたいと思います。
教会の成長と実り
そうするなら、神様が、
私たちの教会を見て、
どれほど喜ばれるでしょう。
今年、それがうまくできたでしょうか。
うまくできなかったら、
何が、なぜできなかったのか、
それを深く考える時間が、
11月、12月です。
今年、これを深く考えて、
まず、僕から、私から、
なぜ、これがうまくできなかった部分が、
こんなに多いのか、
考えながら、
反省し、来年度は、
しっかり直して、
これで、豊かな実を結ぶ教会になりたいと思います。
一緒に協力して、
この美しい、
ブドウの木教会になるように、
教会を建てていきましょう。
お祈り出します。
主よ、
父なる神様は、
ブドウ園の農夫であり、
イエス様は、
まことのブドウの木。
ですが、
ブドウの枝として、
私たちは、
今年、どんな実があったのか、
私たちは、
本当に、
たくさんの実を結んで、
神様を喜ばせ、
また、
確かなイエス様の弟子になりたいと思います。
主よ、
私たちを助けてください。
もっともっと、
恵みを与えてください。
ブドウの木教会の名前にふさわしい、
ブドウの実が豊かに結ぶ、
私たちにならせてください。
イエス様の皆を通して、
お祈り出します。
アーメン。
アーメン。
32:43

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