今日は、「わたしの後に従いなさい」という対応をもって、先週に引き続きメッセージを分かち合いたいと思います。
先週、皆さんは、総理長7周年記念礼拝のために、本当に素晴らしい奉仕をしてくださいました。ありがとうございます。
また、神様がメッセンジャーとして送ってくださった杉本先生にも感謝いたします。
7周年記念礼拝を、私たちが礼拝を捧げながら、大事なのは、神様が杉本先生を通して、私たちの教会に何かメッセージをくださったんです。
私は1週間、それが何なのか、それを知りたくて、ずっと工夫しました。
そして、先生のメッセージを思い出しながら、私たちが適応しやすいように、私なりに、もう一度、説教を整理してみました。
今日は、それを分かち合いたいと思います。
イエス様は、この世に初めに来られた時、交渉会が始められた時に、人々に向かって、「私について来なさい。」
マルコ1章16節からのことです。
ペテロ、アンデレラに、「私について来なさい。」
ペテロとアンデレラは、ついて来ました。
また、ヤコブとヨハネに、「私について来なさい。」と言ったら、船と父を全部捨てて、イエス様について来た。
皆さん、考えてみてください。
皆さんは、他の人に、「私について来なさい。」と言うことができますか?
私はできません。
ついて来たらどうするの?
私は、その人の人生の責任を取らなきゃいけないでしょう?
私も、あまりうまくやっていないし、あまり幸せでもないのに、
私について来てどうするの?という気持ちになるのではありませんか?
しかし、イエス様は、「私について来なさい。」と言われました。
なぜでしょう?
これは、ヨハネ14章6節です。
イエスは言われた、「私は道であり、真理であり、命であり。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」
神から離れて、みんな苦労しているので、
神に出会って、神様から豊かな恵みをいただかなければ幸せにならないのに、
みんなが神を求めるのに、神に出会うことができない。
だから、幸せになっていない。
神に出会う道が何でしょう?
この唯一の道がイエス様です。
神様を知らせてくださる唯一の真理がイエス様です。
また、イエス様には誠の命があります。
ですから、イエス様は私について来なさい。
だから、私を通して神に出会おうし、真理を知るし、これからあなたたちは永遠の命を得ることができると言うから、
だから、イエス様は誰でも私について来なさい、ついて来なさいと言われました。
私は福岡にいる時に、新学校の時、日本語もできないくせに、私が勉強会をしましょう。
出会う人、誰でも勉強会をしましょうと言いました。
日本語もうまくできないくせに、ついて来てくれる人がいました。
その方たちは、私と一緒に聖書勉強会をしながら、何とか私も不思議な体験を知ったし、その方たちも不思議な体験をされたでしょう。
ついて来なさいということは、私は良かったなと思います。
ところが、今日のマタイの中六書の長教は少し違います。
イエス様は信じますということで信仰告白をして、イエス様はついて行くという人たちに、何と言われるのか、
私について来たいものは誰でも自分を捨てなさい、また自分の中六書を背負いなさいと言う。
今は中六書を背負いなさいと言うなら意味は分からないんですけど、
当時は中六書を背負って何かどこか行く人がいたら、この人は死刑囚だと。
この中六書に書かれて後ほど彼は死ぬんだということの意味が、中六書を背負って行きなさいということです。
私はイエス様を信じて、イエス様をついて行きたいと言っているのに、イエス様は何と言うのか、お前は後ほど死ぬよ、お前は死ねということです。
これはあまりひどい話ではないでしょうか。
私はイエス様について行くと言ったのに、あなたは私に死になさいということだったら、これは意味が違うように聞こえるでしょう。
じゃあここで今日の大事なことがあります。
イエス様を信じて救われた人たちがやるべき一番大事なことは、自分を捨てることです。
また自分の中六書を背負ってイエス様について行くことです。
じゃあまず自分を捨てるということはどんな意味でしょうか。
聖書にはこんな見言葉があります。
イザヤ55章8節9節。
私の思いはあなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているように、私の道はあなたたちの道を、私の思いはあなたたちの思いを高く超えている。
私の思い、私の道は、神様の思いと神の道と、天と地の違いのように違うということです。
私の道、私の考え通りずっと行ったら、これはとんでもないところに行く。
ですから私の考えを捨てて、神の道、神の考えに従っていかなければ、神様に出会うこと、幸せになることはできない。
だからあなたの考え、あなたが今生きている道は捨てなさいということです。
これは納得できます。捨てなければ、イエス様についていけないし、神に出会えないからです。
もう一つは、自分の十字架を背負うということです。
十字架はもうこれは主にです。
また自分が死ぬことを意味することなので、なぜそれをしなければ、そこまでしなきゃいけないんですか?
皆さん、イエス様に信じてついていく道には、敵がいます。攻撃があります。
ヨハネ中五書八節、中八節、中九節。
ヨがあなた達を憎むなら、あなた方を憎む前に、私を憎んでいたと覚えなさい。
あなた方は世に直していたなら、ヨはあなた達を身内として愛したはずです。
だが、あなた達は世に直していない。私があなた達をヨから選び出した。だから、ヨはあなた達を憎むのである。
このヨということは、この空中の勢力を持っている悪魔、サタンを意味します。
悪魔、サタンは私達を憎むんです。嫌だから、だから攻撃するんです。
この攻撃から私達はどうすればいいのか、覚悟しなければいけない。
攻撃があって、いろいろな規制があったとしても、私はイエス様についていくんだよ、その覚悟をしていくことが大事です。
もう一つは、悪魔は誘惑します。お金を通して、また男性には女性を通して、女性には男性を通して、いろいろな誘惑があります。
この誘惑から私自身を守るためには、誘惑に対して無感覚になればいいんです。
例えば、お金によってイスカレ・ニューダーがためになりました。
お金によって旧約聖書のバラム預言者がためになりました。
お金の誘惑はものすごい大きいんです。
じゃあ、お金の誘惑に勝ち抜くためには、お金に価値を置かなければいい。
どうするんですか、お金に対する無感覚、死ぬ。
お金に対して、何か私自身がいろいろな誘惑に陥るよりは、神様が満たしてくださることを信じる。
このような考え方、価値観を信仰の価値観に変えなきゃいけない。
じゃあ、誘惑に私はどうすれば乗り越えることができるか。
誘惑に対して死ねばいい。死ねばいい。死ぬということは感覚はない。
以前、私たちは死んだ犬の訓練、死んだ犬は蹴ってもゲゲンとしません。
なぜなら、死んだから。死なない犬だったら、何か触ったらガーッと言うんでしょう。
私たちの信仰、大事なのは、何か他の世に対して、この世と他人に対して、無感覚になる。
神様に対しては敏感になる。これは信仰のいい道です。
だから、その意味で私たちは死んだという言葉を使ったことを考えてください。
ペテロは事実、信仰告白をしましたけど、このような覚悟はなかった。
皆さん、信仰を持ってイエス様を継いでいこうとするなら、覚悟が必要なんですけど、
ペテロは曖昧な考えで、イエス様、もうとにかく群れの中で、自分が一番目立てたい。
自分が一番だと認めてもらいたいから、もう何でも何でも早く早く信仰を告白してしまいました。
しかし、信仰ということが何なのか、よくわからないままイエス様に継いでいた時、どんなことがあったのか。
ペテロはイエス様を分け、イエス様はキリストの道、これから苦難を受けて十字架にかかり、死ななきゃいけない。
そして3日目に復活するということを話をしたら、ペテロはとんでもないです。
そうしてはいけません。やめてくださいと言います。
ペテロは悪い人ですか。いいえ、ペテロはすごくいい意味で、イエス様のためにそんな話をしたのに、
実はその裏にはサタンが払った。
サタンは人間的な忍状ということを利用して、イエス様が十字架にかかるキリストの御業を妨げようとした。
だからイエス様は、サタン引き下がれ。ペテロがサタンですか。いいえ、ペテロの裏に今サタンが働いていることを見た。
あなたは私を邪魔するものだ。
皆さん、私たちは神様を喜ばせるものになりたいと思っているのに、イエス様を邪魔する者が業界にいた。大変でしょう。
どうしてですか。神のことを思わず人間のことを思っている。人間的なことばかり考えているんだと。
ですからペテロはイエス様に叱られ、そして自分を捨てて、自分の十字架を背負って私について来なさいと言われる話を聞きました。
では皆さん、これは中六書25節がこれから大事です。
自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、私のため命を失う者はそれを得る。
自分の命を救いたいということは何ですか。
この世でイエス様を認めたら人々から嫌がれる。
それは皆さん、今はどうですかね。
昔私が会社に行った時には、日曜日会社に来るのか来ないのか。
昔サムソン、ひどかったです。
日曜日に会社に行かなければ、月曜日に行ったら大変になります。
調子から叱られ、大変な毟滅感を受けるようになりますけど、
その時、主の日はまぶらだけや、日曜日は私は礼拝のために会社に行けませんと言ったら会社が嫌がります。
信者だということ、キリスト者だということ、イエス様を信じるんだということだけで世の中から嫌がります。
だったら人々を何とかうまく付き合っていくために、自分の信仰を隠す。
これは誘惑に何とか乗り越えようとして、自分の頭を使って何とか言うなら、
聖書は何というんですか。自分の命を救いたいということだ。
だったら失うと言いました。なぜ失うんですか。
自分の命を救おうとして人間的なやり方を使ったなら、神様は助けてくださいません。
神様が助けてくださらなければ、この人は結局はダメになります。
しかし、主のために福音のために自分の命を捨ててもいいと覚悟してついていくなら、神様が助けてくださいます。
必ずそれを乗り越えるだけじゃなくて、その場で神の証ができます。
証ができる場面ができるのに、何とか自分がこのことを、雰囲気を乗り越えてして、
人間的なやり方をするなら、会社からダメになります。
皆さんの同じですけど、昔、私の会社では1ヶ月1回、会社のメンバーたちの会食ということがあります。
向こうにいたら必ずお酒を飲ませます。
私はコラということでいいんですけど、キリスト教徒なのにお酒をバンバン飲む人がいます。
その人は言い訳として、教会に行ってもお酒を飲んでもいいんじゃないかと言いながらやります。
皆さん、これがあってその雰囲気を乗り越えたんですけど、後に人々はみんな、
彼は教会に行くんだ、これは偽りだ、偽り者だと。
みんなから嫌がれるだけじゃなくて、何とか恥かしみを受けるようになります。
ですから、自分の信仰をしっかり出して、私は信仰通りに行くと言ったら、神様が必ず助けてください。
皆さん、これが信仰生活をする時、私たちが心に留めていかなきゃいけない大事な要素です。
ですから、この25節、死のうとするなら生きろ。
生きようと何とか頑張るなら、おなたたちは命を失うようになる。
ダビデは世の中で聖書の中で一番祝福された人です。
ダビデほど神様を喜ばれた人はいないほど、
ダビデは素晴らしい人でした。
しかしダビデはどんな人ですか。
現実的に難しさがたくさんある人でした。
人生の苦しみがたくさんある人でした。
事実、ダビデはエッサウの息子ですけど、
エッサウの本当の妻から生まれた子ではなく、
別の女から生まれた人ではないかという話があります。
なぜなら詩編の51編の5節。
私は戸賀の家に産み落とされ、
母が私を見守った時も私は罪の家にあったのです。
ダビデはなんとなく知っています。
皆さんダビデの人生よくよく考えてみてください。
ダビデは上7人の兄貴がいました。
それから8番目がダビデです。
上の兄貴はかっこいい立派な人でした。
ダビデは体も小さく、なんとなく難しい人です。
大預言者サムエルが神様から命じられて、
エッサウの家で油を持って王をするために、
油注ぎにエッサウの家に来ました。
エッサウは自分の7人の息子は全部家で待たせておいて、
ダビデはどうしたんですか。
大腹で羊を飼うように追い出してしまいました。
いつもダビデはつまらないことに任せて、
偉いことは兄たちが全部やりました。
私が戦死を見ておかしいと思っているのは、
皆さんダビデの妻たちをちょっと見てください。
ダビデの妻たちはほぼ他の人の妻たちが多いです。
なぜ結婚生活を彼がすごくするんだろう。
なぜこのような人生をこのように生きるんだろうと思ったんですけど、
それは何とか自分の出生の背景と関係があるのではないかと思います。
ダビデは事実、家でも見捨てられ、本当に苦しみが多く、また孤独な人でした。
いつも大腹で羊を飼う、それを任せられて、
良いことは兄たちが全部やってしまった。
だからダビデの人生は大腹で羊を飼いながら、
年を取ってそれで死んでしまうような人生でした。
彼は人生の希望があまりなかった。
ビジョンがあまりなかった。
ダビデほど貧しい人、悲しむ人、孤独な人だった。
その孤独の中でダビデの唯一のお友達は羊でした。
彼は羊を飼いながら、羊を自分のお友達、自分の家族のように思いました。
羊たちがあってから慰められ、羊を守ること、保護することで人生の生きがいを感じたかもしれません。
だから野獣たちが来たときに命がけて戦って守ったでしょう。
またこの孤独の中で、寂しさの中でダビデが委ねる一番大事なところは神様でした。
彼は神様の前で悲しむ、また貧しい、木に植えがわく人でした。
何にもないところで、彼は神様だけを求めたとき、
神様はダビデの全てになってくださいました。
彼が神様にどのように自分の心を打ち明けたのか、
これが詩演の中でよく現れているんですけど、
詩演の150編まであるんですけど、150の中で73編がダビデの詩です。
彼はずっとハープを、音楽は良かったですね、
ハープを鳴らしながら神様に祈りを捧げたということです。
彼が神様にどんな祈りをしたのか、詩演の18章1節です。
神様は私の羊飼いだから、私は何にも足りないことはない。
神様は貧しい、悲しむ、寂しい、孤独なダビデの全てだったので、
神様は全てを尽くしてダビデを守ってくださいました。
彼が神様に自分の全てを任せて、ただ神様だけを求めたとき、
神様はダビデに全てを与えてくださったんですけど、
牧者である神様が、羊であるダビデに全てをやってくださったと思っていいでしょう。
特に、四度行伝中三章22節。
私はエッサイの子で、私の心にかなうもの、ダビデを見出した。
彼は私の思うところを全て行う。
神様はダビデを通して、人類を救う名車を、彼を通して贈ろうと思われたんです。
だから、ダビデの子孫としてイエス様は来られました。
皆さん、世の中の人生の中で、これほど素晴らしい人生がいるのでしょうか。
神様が私を見て、いやあなたは素晴らしい。
あなたを通して私が一番願っていることを成し遂げたいと思われる人間がいたら、
その日と夜ほど素晴らしい人がいるでしょうか。
ダビデの姉貴たちはみんな偉い雰囲気の中で生まれ育てられ、いい条件の中で過ごしました。
しかし、その中で神様を求めた人は誰もいなかった。
だから、その人たちはもう、世の中で自分なりにうまくいったかもしれないけど、
神様には何の意味もない存在。
しかし、ダビデは難しく悲しい立場によって、この世から見たら不幸な人生だったんですけど、
それがきっかけになって、むしろ神様に出会い、神様から一番祝福されるものになりました。
これが神様をたじね求めることができる人の条件です。
世の中でみなさん、生まれ育てる環境があまり良くなかったですか。
それがむしろ悪いことではありません。
それがきっかけになって、神様に対してもっといいチャンスになる可能性もあります。
ですから、世の中は全部公平だということが理解できます。
また、自分の中心化を背負うことは、他の意味で信仰生活には苦難があり、訓練があるんだとお話です。
未信者たちにも苦難があります。
苦難を通して非常に苦労されますけど、信者たちにある苦難は、信仰の成長と祝福の道なんです。
皆さん、私たちの間に苦難がある人を見たら、彼はかわいそうだなと思うかもしれません。
しかし、苦難がどんな役割をするのか。
はじめに、苦難に担う人は罪を犯さないということです。
第一ペトロ四書一節、肉に苦しみを受けた者は、罪との関わりを断ったのです。
苦難がある人は、罪を犯しにくいということがあります。
ただ、その意味から見たら、神様には苦難があった方がいいですね。
二番目、苦難があるときに、この世の中がつまらなくなって、苦難を乗り越える、苦難から私たちを助けてくださる神様だけが唯一だと思って、神を求めるようになります。
苦難を通して、この世より神様をますます求めることができるからいいでしょう。
また、苦難を通して訓練ができて、成長、成熟するようになります。
ですから、聖書の神の人たちは、いくと遠んで、苦難は私に対して、唯一だったと言います。
四元の百十九の二節だけを読みましょう。六十七節です。
苦しみに遭う前には、私は迷い出ていました。しかし今は、あなたの御言葉を守ります。
苦しみに遭ったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの御き手を学びました。
信仰の人たちは、神様からの苦しみ、何とか苦しみによって、神をもっと求めることになって、それで私にはいいことでしたと言います。
パウルが偉大な人になった理由は、パウルが一番苦難をたくさん受けたからです。
この苦難が、パウルを偉大な人に支え下さいました。
今、現実的に、この世的に、不幸に見えるいろんな条件があるのですが、
これがむしろ、神を求めるきっかけになって、それを通して、皆さんはもっともっと幸せになるかもしれません。
私が一番心配しているのはこれなんです。
最近はみんな一人息子供ですか?みんな一人子供でしょう。
だから子供が大切で大切でたまりません。子供のために何でもしてあげます。
その子供が苦難を通して訓練ができて、神に出会うチャンスがあるかと思ったら、
親が全部やってしまうから、やってあげてしまうから、
子供が苦難を受けたり訓練がされたり、成熟成長の何かチャンスが、親が全部奪ってしまうことではないかと思った時に、
子供が訓練ができなかったら、これからその子供たちはどうなるんだろうと思います。
ですから、昔々からのお話がありますね。子供は他の人の手に任せなさい。
他の人が育てる時、訓練してくれる時、それでもっといい子供になるんだという、
いろいろ昔からの話がありますけど、私たちにも私の一人の子供に対して、
これから神様の目線でこれを考えていかなきゃいけないことではないかと思います。
神様に任せるなら、神様がしっかり訓練をさせてくださいます。
その意味で、神様の訓練を、私たちが感謝しなければならないと思います。
最後に、私たちの人生の模範があります。イエス様です。
イエス様も自分を捨て、自分の十字架を背負って、神様についていきました。
ヘブナイショー5章8節9節、こう言います。
キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって忠順を学ばれました。
そして、完全なものとなられたので、
ご自分に忠順である全ての人々に対して、永遠の救いの源になります。
イエス様は、自分を捨て、自分の十字架をよく担っておられた。
それを一番よく表現してくださった聖書は、フィリップ2章です。
フィリップ2章から6節から8節です。
キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることを固執しようと思わず、
かえって自分を無にして、下部の身分になり、人間と同じものになられました。
人間の姿で現れ、減り下って死に至るまで、それも十字架の死に至るまで忠順でした。
イエス様は自分を捨てるだけじゃなくて、自分の十字架をしっかり背負ったということです。
特にイエス様は神様の御前で自分を徹底的に捨てました。
ヨワネ5章19節、そこでイエスは彼らに言われた。
はっきり言っておく、子は父のなさることを見なければ自分からは何事もできない。
父がなさることは何でも子もその通りにする。
神様の御前でイエス様は自分を徹底的に捨てて、神様がなさることを自分がこれを見て従う。
このようなことを言われました。
またイエス様に対して一番難しかったのは、家族でした。
ご自分の家族。
イエス様は後生涯が始まった時に、もう長男ですから。
父がいないから。
だからイエス様はついてきながら家族を見ながら、
兄貴、兄貴、私たちはどうする?
マリアは、息子よ息子よ、家に帰ってこい。
家に帰って、あなたが長男で、あなたがいなければ私たちはどう生きるの?
そしてイエス様は行くところどころをついていて、
それでイエス様を何とか働きを妨げた人が、事実家族でした。
だからイエス様が生きている間は、イエス様の家族、ヤコブ。
またユダ書を書いたユダ。
これはイエス様の家族でしょ?
その人たちは事実イエス様を信じませんでした。
認めませんでした。
イエス様が復活された後、やっとヤコブの目が開かれ、ユダの目が開かれて、
兄弟が人たちと共に働くことができたんですけど、
事実生きている間は兄弟たちがイエス様を応援してくれませんでした。
じゃあその時イエス様が何と言われるのか、
はっきり言っておく。
私のため、まだ福音のために、
家、兄弟、姉妹、母、父、子供、裸を捨てた人は誰でもこの世で迫害を受ける。
また100倍を受け、永遠の命を得ると言われました。
事実、神様について行くのに家族が邪魔になったらどうするかという。
皆さんこれがみんなの心配じゃありませんか。
私にも心配でした。
しかし、愛する母、愛する兄弟をしばらく捨てたように
寂しい思いをさせたかもしれないけど、
まず福音を、まず主を、福音を大事に思いました。
それでイエス様はその働きを担っていかれたということです。
最後にコルゴルダと十字架でキリストの御業を完全に成し遂げられた。
ということはイエス様がこの世で自分を捨て、
自分の十字架を背負ってキリストとして贈られたこの世での働きを成し遂げられたということです。
その時神様はどれほど喜んだのか。
フィリップ2章9節から
このため神はキリストを高くあげ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。
こうして天上の者、地上の者、地下の者すべてイエスの皆に従き、
すべての下がイエス・キリストは主であると公に述べて
父である神を讃えるのですと言います。
これから見てますと自分を捨て、自分の十字架を背負うことは
キリストシャーの道を、キリストシャーの完成の道であり、
使命を成し遂げる道であり、聖火と栄火に入る祝福の道でもあります。
今度杉本先生がこのメッセージを前に私に教えてくれた。
テーマは何ですか。私の後をついてきなさいということです。
これを通して私たちへどんなメッセージをくださるかなと私は思ったんですけど、
私は今度の講師のメッセージを聞きながら、
今まで私たちは言葉では神様、神様、信仰生活は神との親しい交わりであり、
神の御声を聞き従うPLOの生活です。
口では喋ってきたんですけど、
私たち実際神様についていく、親しんでいく、
このような生活ができたのか、
特に自分を捨て、自分の十字架を背負う、
この働きができたのかということを反省しながら、
これからはリバイバルが近づいているし、世の終わりが近づいているので、
もっと大事な時期、本当にイエス様をうまくついていく教会になりなさいという、
この意味で私は先生からのメッセージをいただきました。
お話しされた通り、私たちはこれからもっと積極的にイエス様についていく教会になりたいと思います。
今度、創立記念礼拝のために、いろいろ働いてくださった皆さん、
また杉本先生、また何より神様に感謝したいと思います。
私はこれで創立記念礼拝のメッセージを受け入れた書簡を皆さんに申し上げました。
ぜひ参考にしてくださり、これから教会形成のために力を合わせていきましょう。