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2026-10-04 38:56

「救いの確信があるとしても」2026年10月4日のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2026年10月4日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

▼メッセージをスライドで: https://x.gd/0dA0T

▼公式Instagram: https://www.instagram.com/tokyovinechurch

▼ポッドキャストへのご感想はこちらへ!: https://forms.gle/fHcRBqaFSat8EQfE9

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▼メッセージの自動文字起こしはこちら: https://listen.style/p/tokyovinechurch


(聖書)マタイ-51 36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。・・・40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。・・・45 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。 46 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。47 はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。48 しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、49 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。50 もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

メッセージ題 : 救いの確信があるとしても(マタイ24章:36-51節)
*先週、救いの確信についてメッセージを分かち合いました。そのようなメッセージをするようになったのは神様は絶対善、心変わりが全くないお方、永遠に変わりがないお方、未信者たちも愛しておられ救われるお方を考えると。詩編118:1→それにも聖書を読みながらもっと強調するべきことがあって
*先週のメッセージで、救いは神の恵みで信仰で聖霊によって!私たちの行いではない!エペソ2:8
救われない信仰は?一時的現在的信仰、これはご利益の信仰。知識的な信仰は人本主義、律法主義、そのような信仰は悪霊ともも持っていると。しかし救われる信仰は御言葉と聖霊の照らしで悟った信仰。そのような信仰があるとしても、いつも罪を犯すのは・・・神様と親しかったダビデ、罪によって?
*私たちの実際的救いは私たちが死ぬとき、イエス様の再臨のとき、現在、救いの確信があるとしても

1.マタイ24章は、終末と関連して・・・最後はどんなことが起こるかを。
*いつ、終わりが来るのか?マタイ24:36父だけがご存じ!しかも、あらわれるしるしを通して・・・終わりのとき
ノアの時期のようですが・・・当時の生活の姿?この世の働きで忙しい!その中で、マタイ24:40,41一緒に働いた二人の中で一人は連れて行かれ、一人は残される?その意味は?どれほど救いの確信があるとしても油断しないように。マタイ24:44 →準備が良くできた人と準備ができなかった人の比較?45-47節→準備ができなかった人の姿?また、その報いは? 48-51節。実際、イエス様は昇天されながら一つ頼まれました。マタイ28:19 ここで、イエス様から頼まれた使命を担うのに大事なことがあります。なぜ、マタイ24:49
仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしたのでしょう?愛です!愛がある人は言われた通り準備ができましたが、愛がなくただ命令に従った人は愛がない故に、任された使命を担うのにその中身が!

2.ですから、使徒ヨハネは、1ヨハネの手紙で救いの確信をお話ししながら、互いに愛するように強調しました。
*Ⅰヨハネ5:13救いの確信を・・・Ⅰヨハネ4:10,11互いに愛し合うべき!=Ⅰヨハネの手紙の中で救いの確信と互いの愛について・・・どのように理解するべきでしょう? **ここで大事なのは信仰の両面性!
恵みと真理、慈しみと厳しさ、愛と正義、バランスが大事です。一つの面だけ強調するなら誤る可能性
→矛盾のように見える聖書を通して、神様は私たちの心を見ておられる!#聖書は二人の人を比較
1)カインとアベル 二人とも初めの人アダムの子孫、異なる二人、アベルは?カインは?創世記4:4-6←神様に対する良い心が無かった。でも礼拝を捧げた。結果? 
2)アブラハムとロト 二人は一緒に御声に従い故郷を離れてカナンへ。アブラハムは?ロトは?←その心と願いは違った。結局、自分たちと家族の将来は? 
3)イサクとイシュマエル 忍耐と従順の人、内面性深いイサク?自分の立場が危なくなるとき弟をからかう、イシュマエル?結局、憎しみと妬みによって大きいな二つの宗教が!
4)エサウとヤコブ 二人の内面性、性格と求める目標は全く違う、霊的なことを?この世的なものを?聖書はエサウのことを厳しく。ヘブライ12:16 エサウは神様のどんなことも遺産でもらうことができなかった
5)ダビデとサウル 神様に油注がれ王になった二人。ダビデは使徒13:22、反面サウルは歴代上10:14

3.聖書で一番大事に思われることは、愛です。 申命記6:5,Ⅰヨハネ3:21-23
*根本的に、神様に対する良い心、愛する心があるのか?→ある人の信仰生活?使命を担う姿勢
→主人はすべてを管理させる!その心に救いの確信がもっと!また使命を上手く担う。マタイ24:47
@救いの確信があるという前、神様に対する良い心、持ってますか?ローマ10:10子供たちに良い心

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サマリー

先週の「救いの確信」は神の恵みと信仰によるもので、人間の行いによるのではないと確認したうえで、今回は確信があっても罪と油断に注意すべきだと語る。マタイ24章から、終末の時は父だけが知り、日常の仕事や結婚に追われる中で突然主が来るため、信徒は忠実に備える必要があると説明する。忠実で賢い僕と悪い僕の違いは、任された人々を愛して仕えるかどうかにあり、イエスの弟子をつくる使命にも愛が不可欠だと述べる。第一ヨハネの救いの確信と相互の愛を結び、恵みと真理、愛と正義を一面だけでなくバランスよく受け止めるよう促す。 聖書のカインとアベル、アブラハムとロト、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、ダビデとサウル、さらにペテロとイスカリオテのユダを比較し、神は外形的な礼拝や告白だけでなく、神に対する心を見ておられると強調する。救いの確信を語る前に、神とイエスに対する良い心と愛があるかを自ら問うべきだとし、教会の家族や子どもたちにもその心が与えられるよう祈る。最後に、ダビデの「清い心を造り、揺るがない霊を新しくしてください」という祈りを、子どもたちのためにも続けようと呼びかける。

救いの確信があっても罪に注意する
今日は、「救いの確信があるとしても」という対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
先週、私たちは、「救いの確信」という部分を 一緒に分かち合いました。
ところが、その内容を皆さん聞かれて びっくりしたんじゃないですか。
今まで私の説教とは少し違うような この部分があったでしょう。
なぜ私がそのような説教をしたのか。
これは最近神様の絶対善という神様が照らされたからです。
心変わりが全くない神様の観点から 私たちの救いを見たと言いましょうか。
私たちはいつもいろいろな教理,信学,また聖書の中で 私たちが読んで私の観点から救いを見るんですけど
神様の観点から私たちの救いを見たらどうなるのか ということを今度深く考えたんです。
神様は私たちを救われたんですけど 恵みによって私たちの行いではない
恵みによって救われました。
また神様は永遠に変わりがないお方です。
だから聖書の中では心変わりが全くないということです。
ですから詩編118
詩編の後ろの側は全部同じ言葉です。
恵み深い神に感謝せよ。慈しみは常しえに。
神様の恵みと慈しみは私たちが想像できないほど
深く広く長く全てを含まれるこのような大事な大事な
この恵みを感じた先輩たちが
それを詩編にいろいろ書かれたことですね。
この先輩たちは神様の深い恵みと預かりながら
世の中で神様の愛と恵みによって預からないものは誰もいない。
神様は救われていない人も哀れに思って救おうとしています。
神様はデッキさえも愛してデッキを救おうとされるんだということ。
だから神様はもう既に信仰告白をして
神を信じますと言っている人はもうなおさらのことではないか。
どれほど愛しておられるか
その観点で私はメッセージをしました。
それで一週間ずっと聖書を読みながら
いろいろ考える中で
少し加える部分が必要じゃないかと思って
今日のメッセージを続けて準備しました。
今日のメッセージの内容を
もう同じような救いの確信に
私たちはここまで少し考えていただきたいと思っている部分を
加えましたので考えていただければと思います。
先週のメッセージで
私たちの救いは神の恵みです。
私たちの行い、私たちの努力、熱心
全くありません。神の恵みです。
また信仰によって
聖霊様によって、照らしによって
救われました。
でも救われない信仰があると言いました。
これは一時的、厳正的な信仰。
これは結局ゴリアック信仰ですね。
知恵を中心的な信仰で、一割の信仰だ。
この信仰を持って救われることは
少し難しいなと思います。
また、知識的な信仰。
勉強、熱心にして
何か頭で理解して信じようとする。
これは結局、賃本主義、立法主義信仰なんですけど
それはアクレイトモンも持っていると
役部省はこう言いました。
だからそのような信仰は
正しい信仰ではない。
救われる信仰ではない。
これを気をつけなきゃいけないと申し上げます。
救われる正しい信仰は
聖書の約束に基づいて
聖霊様の照らしによって悟られた信仰です。
その信仰を目指すんですけど
教会初めに来て
まだ聖書も全く読んでいない方に
恵み、また信仰、また聖霊とかいう
このような根拠として
あなたは信仰を告白したのか
それを聞くことも難しいことですね。
ですから、自分は分からないけど
とにかく私は信仰を持って
イエスを信じますと
教会に行きたい、神様を信じますと
言われたことを
私たちはその中身を本当に尊重して
詳しく考える必要がある。
自分は理解できない
言葉で表現できないけど
すでに聖霊様が働いたということを
私たちは認めなければいけないということ。
そのような信仰の確信、救いの確信があるとしても
私たちが注意しなきゃいけないことは
罪ということです。
皆さん、聖書の中で
神様が一番愛された人
神様と一番親しい関係性を持っていた人は
ダビデです。
これは神様が
ダビデを愛していると言われたんですから。
ところが、ダビデは
罪を犯しました。
ウリアを殺し
ウリアの妻を自分が取ったと言いましょうか
下院の罪を犯しました。
ウリアの家庭を破壊しました。
そのような大きな罪
これによって
ダビデが後になって悔いを改めて
神様に許しを求め
神様は彼の罪を許してあげたんですけど
結局その事件によって
ダビデの王国
本当に真実な神様の
この愛によって誕生したダビデの王国は
結局没落の道に流れるようになったということです。
本当に私たちが救いの確信があるとしても
気をつけなきゃいけない部分が
罪ということです。
早く悔いを洗って
早く線を切ること
これが大事です。
皆さん、私たちの実際的な救いは
今私たちがやっていることは
全部実際ではないんです。
これはもう
後にあるものを予定して
予測して救いということで
実際の救いは
私が死んだ時
楽園に入る、天国に入る
その瞬間が実際です。
また、イエス様が私が生きて
再臨なさったら
私たちが天国に入ることはできます。
その時が本当に
完全な救いが
成し遂げられるんですけど
その前は
私たちが救いの確信があるとしても
気をつけなきゃいけない部分があるし
確かめなきゃいけない
また、しっかりしなきゃいけない部分が
あるんだということを
申し上げたいと思います。
マタイ24章の終末と備え
今日読んでくださった
マタイ24章は
終末、終わりに関連する
御言葉です。
今は終わりの時期ですから
本当に大事な聖書です。
終末はいつ来るのか
マタイ24章36節には
その日、その時は
誰も知らない。
天使たちも子も知らない。
ただ、父だけが
ご存知である。
父だけが
終わりの時を知っておられる。
私たちが知ることは
できませんか?あります。
印によって。
一軸の葉っぱが茂るなら
夏が近づいた
ということは分かるように
終わりが近づいたら
いろんな印が伴って
その印を見れば
終わりの時がすぐ来るのではないか
ということを
それを私たちは予測できるように
教えてください。
終わりの時は
ロッドの時代と同じ
ノアの時代と同じ
ノアの時代で
人々が生きる姿
これは聖書に書かれてありますけど
みんなが忙しかった
みんな忙しかったので
捌きとか
週末とか終わりが来た
ということを
誰も認識しない
気をつけない
という時期だと
みなさん、人間の一番大事な行事は
何ですか?
これは結婚なんです
結婚
ノアの時代、人々はみんな
結婚したりもしました
また、みなさんの大事なビジネス
お仕事
この仕事をすることによって
今、私たちが
生きているのではありませんか?
ですから、この
結婚式とかお仕事
それが忙しくて忙しくて
終わりに行けば
行くほど、それがもっともっと
忙しくなって
人々が終わりについて
考える暇もないということです
世の中の人々の
仕事、働きの中で
マタイの24章40節
説明しますと
二人の人が裸で働きます
その中で
一人が引き受けられた
一人は
残された
女性たちは当時
このようなことを
今はミクサーがあって
シャーッとやるんですけど
当時、それが大事な仕事だった
二人の女性が
薄を引いている中で
一人は引き上げられて
一人は残された
引き上げられ
残され
これはどんな意味なのか
これが救いと関連あることです
そうメッセージをしながら
聖書は
24章44節
だから、あなた方も用意していなさい
人の子は
思いかけない時に来るからである
人の子が思いかけない時
たいてい印があって
終わりが近づいたんじゃないかと思って
ずっと祈りなら
イエス様いつ来られるんじゃないかと
思うんだと
予測できると
私はみんな考えるんですけど
でもその中でも
予測できないところに
イエス様は来られる
だから、私たちは
我慢してはいけない
油断してはいけない
準備しなさいと言うんですけど
準備を
何をすればいいのか
聖書は具体的に教えてくださる
これを
準備がうまくできた人
または準備ができなかった人
準備ができた人は
これは本当に神様から
大きな報いとともに
救いが与えられるんですけど
聖書をよく読んでみますと
準備がうまくできなかった人は
神様から厳しい罰もあるし
たぶんこの聖書では
彼は天国に入れなかったんじゃないかと
思います
皆さん一生に薄を引いたり
一生に働いたり
これは同じようなイスラエル人で
同じような信仰を持っている
と思っている人の中でも
引き上げられる人もいるし
残される人もいるんだと言った時に
私は救いの確信があるんだけど
信仰告白してますよ
と言うけど
気をつけなきゃいけない部分が
あるんだということです
忠実な僕と愛の使命
うまく準備した人は
どうしてうまくできたのか
45節から47節です
主人がその家の
使用人たちの上に立てて
時間通り彼らに
食事を与えるようにした
忠実で賢い
下人は一体誰であろうか
主人が帰ってきた時
言われた通りにしている人を見たら
幸いだと
この忠実で賢さが
救いの確信に
必要だと
救いの確信があるんだとしても
忠実さ
賢い下人のことを
聖書が褒めることを見てますと
ああ
この部分が必要かなと
思うんだということです
その報いは何でしょう
主人が彼に全財産を
任せるのに違いがない
しかし準備ができなかった人は
49節から
51節までありますけど
仲間を殴り始め
酒飲み友と
一緒に食べたり飲んだりする
結局
時間を無駄遣いして
支部に預かってくださった
この神様
この人たちをうまく助けなさい
と言われたのに
うまく助けることができなく
それを
責任を
軽んじったと言いましょうか
支部の役目がうまくできなかった
ということを言いたい
でも戻ってきたのは
何かと言いますと
彼を厳しく罰し
既然者と同じような目に遭う
既然者は天国に入れませんよ
救いが与えられないもんですから
そしてそこで
泣き喚いて
剥ぎしりするであろう
結局まとめてみますと
考えもしてない時
予測しない時に
思いかけない時に
再び来られるイエス様
そのイエス様を
準備するために
私たちに頼まれたことを
忠実に
行う人が
賢い人だということを
聖書は言っています
実際イエス様は
焦点なさいながら一つ頼みました
あなたたちは行って
全ての民を私の弟子にしなさい
と言われました
ここで皆さん
イエス様が私たちに
委ねられた
弟子にする大選挙命令と
言いますけど
その使命をうまく担うために
必ず必要なことが
何か
必ず必要なことがあるんですけど
それが何かと言いますと
それは愛することなんです
先ほど
準備をうまくできた人と
準備ができなかった人の
決定的な違いが
何だと思いますか
なぜある人は
自分に預かった人たちに
日曜の家庭を
食事を
うまくうまく与えた
という人がいるんですけど
ある人は自分に預かった人に
自分がやるべきことをしないで
殴りつけそして酒飲みと
共に酒を飲みながら
時間を無駄遣いして
自分に預かった人たちに
うまくもてなしができなかった
ということを聖書は言っています
だったらある人は
どうして自分に預かった人を
忠実に賢く
このようにうまくうまく
面倒を見てもてなすことができたのに
どうしてこの人は
うまく助けることができなかったのか
酒を飲んだり
殴ったりしてたのか
結局自分に預かった人を
愛する人は
そのことができたのに
この預かった人を
愛してない人は
殴ったり酒飲みながら
食事がうまくできなかったらごめん
終わってしまったということです
結局
預かった人に対する
愛があるのか
それを命じられた方に対する
愛があったのか
この愛の関係
これが大事なんです
救いの確信と互いの愛
ですから今日私が
申し上げたいのは
第一ヨハネの手紙で
首都ヨハネは
救いの確信を
話しながら
また互いに
愛し合いなさいということを強調した
同じ手紙ですよ
同じ
配られた手紙で
前と後を見ていますと
救いの確信と愛し合いなさい
ということは当時に書かれてあります
第一ヨハネ古書13節
神の子の名を信じている
あなた方にこれらのことを書き送るのは
永遠の命を得ていることを
悟らせるためだと
救いの確信を言われた
首都ヨハネは
第一ヨハネ4章では
愛する人たち
神がこのように私たちを愛されたのですから
私たちも互いに
愛し合うべきですと
言います
同じ手紙で
救いの確信と愛し合うことを
首都ヨハネは
強調した
たとえば皆さんこう思うかもしれません
救いは
恵みによって信仰に与えられるのですが
互いに
愛することは
これは恵みじゃなくて
私たちの行いですから
結局
行いによる救いを言っていることですか
と言います
皆さんこれは違います
ここから私たちが考えるべきことは
私たちの信仰の
両面性ということです
神様は
愛だと
神は愛だ愛だ愛だと
しかし同じ聖書が
神様は
正義のお方と
神は愛だけじゃない
正義のお方と
神は恵みと真理
恵み
真理は少し厳しくなりますね
神は
慈しみの神
しかし厳しい神も
愛と正義
愛と正義は
また違うんです
正反対のニュアンスがあります
ですから私たちの信仰は
この救いの
確信の部分だとしても
私たちには
バランスが必要だということです
信仰によって
恵みによって救われたから
救いは行いのことではないから
と言いながら
聖書は神の喜ばれるように
身むね通り行わなければ
神を愛するものではない
と言われるものですから
これをどのように解釈するか
ということで
ここで皆さん
聖書の中で矛盾のように見える
聖書を
神様がわざわざ書きながら
私たちに
何を願っておれるのか
神様は
私たちの心の中で
何か大事な大事な
自分が考えていることを
何か剥ぎ出すこと
これを全部
玉ねぎを
皮を
剥ぎ出して
中に本当にお前が信じていること
お前が考えていることは
何かを
この矛盾のように見える
聖書を通して
これを私の心の中を
見てみたいと思っている
ここで
神様が本当に見てみたいということは
何なのか
皆さん
聖書が比較する二人の信仰
聖書の中では
同じ時期に過ごした
信仰の人物たちの
記録がちょっと書かれてあるんですけど
不思議に聖書は
二人を挙げて
比較する場面が出てくるんです
これを通して
何を
登場人物の何を見てみなさいと言うのか
まずはじめ
カインとアベル
二人ともアダムの息子でした
アダムの二人の息子だったんですけど
二人が何か違ったんです
アベルは純粋で
この従順する心があって
神様に素直で
礼拝する心があったんです
しかしカインは
アベルと一緒に
礼拝は捧げますけど
カインの心の中には
神様に対する愛
神様に喜んで
従順しようとする心が
なかった
ただただ
礼拝したんです
神様は心の中心を
願っておられるんですけど
ですからアベルの礼拝は
神様は受け取られたんですけど
創世紀4章4節から
カインとその捧げ者には
目を止めなかった
カインは激しく怒って
顔を伏せた
カインはアベル男に
言葉をかけ
二人は野原に着いた時
カインは弟アベルを
襲って殺した
カインの心は
私たちは理解するのに難しいです
アベルは多分
私たちと同じような心を持っていたんじゃないでしょう
ああ礼拝の時間
日曜日神様に礼拝したい
礼拝したい
カインはアベルとは
違う心を持っていたということではないかと
カインは
神様に対して
良い心がなかったように
見えます
また弟に対しても
何か非核と言いましょうか
何か良い心がなかった
とにかく彼には
反発感と言いましょうか
エデンから
いろいろ聞いたでしょうアダムから
エデンの園があった何か神様が
エデンの園から追い出されて
今私たちは
この世の中で彷徨っている
いろいろなことがあって
カインの考えでは
神様に対して
邪悪な知識の絆を食べて
そこで私たちを
エデンから追い出す
こんな悪い神様
なんとかそのような神様に対する
少し
アベルとは違う心が
あったんじゃないかと思います
皆さん大事なのは
神様に対して
良い心があるのか
神様に対して
何か
悪感情と言いませんけど
少し神様に
逆らおうとする
何か
そのような心が
あるのではないか
何かこれを
礼拝を受け取るのか受け取らないのか
そこでカインの心が
パッと剥ぎ出された
剥ぎ出されたと
言っていいでしょう
神様は心がない
礼拝
心がない救いの確信
これ事実で
それを喜ばれるのでしょうか
受け取ってくださるのでしょうか
私は今日申し上げたいのは
この部分
アブラムルトロット
同じ時期に
神様の御言葉に従って
波乱から出て
彼ではウルから出て
波乱に向かっていきます
アブラムルは行くところどころ
物足りない部分はいろいろありますけど
忠順して
神を礼拝し忠順して
神に従った
またアブラムルは
その過程を見ていますと
その過程はしっかり信仰によって
うまく導いていったということです
しかしロットは
神様に忠順するよりは
自分の利益をいつも考えたように
神様が
この羊
この動物が
たくさんあって
お互いの羊飼いたちが
戦っています
草を
得らなければいけない
動物がたくさんあるから
戦う時にアブラムルが
あなたが右に行ったら私が左に行く
あなたがもう東に行ったら
私が西に行く
戦うにはやめよう
他の人が見ているんじゃないか
兄弟家族なんで
私たちは分かるよと
その時ロットは
目に見えるのは
ソドム
ソドムの地域がもう
麗しいエデンのそのように見えたので
そこでシャシャッと行った
ロットの心をよく見ていますと
この世の
豊かさ
また信仰は信仰なりに
二股かける信仰ではなかった
アブラムは
二股かける信仰ではなかった
じゅっと読んでみますと
神様を下さる祝福じゃなければ受け取りたくない
アブラムは神様に
全てをかけているような人
結局
ロットの家族は
みんなロットと同じように
この世と神様に二股かける信仰を
持ちながら最後に
悲惨になってしまった
イサクとイスマイルも同じです
イサク
イスマイルは同じ
アブラムの子供です
しかしイサクは
本当に忍耐強い
従順な人
イサクは内面性が
すごいですね
長く我慢する人
しかしイスマイルはそうではなかった
アブラムの子供なんですけど
イサクを
妬んでそして
からかった人
もう
人が見えなければイサクは
どこか行って殴りつけて
何かいじめられた
そのようなイメージがあります
結局イスマイルの心には
何があったのか
イサクの心には何があったのか
結局
二人は憎しみと
妬みによって
各々別れて
他の宗教を作り始め
それによってイスラム圏と
キリスト教が分かれるような
この大きな
きっかけになった
また
ヤクブとエサウ
ヤクブとエサウは
その本性とか
求めること
信仰に対する態度が
根本的に違った
同じようなイサクとレベカから生まれた
エサウとヤクブですけど
どうして
それの心が全く違うんでしょう
ヤクブは
人間的にはあまり良い人ではなかった
ママボイで
しかし彼は
霊力にはものすごい霊力の
祝福を求める人だった
エサウは
男らしい
世の中の人々が見たら本当に
かっこいいと言われる
しかし彼には神様に対する
また信仰に対する
関心が全くない
そのようなことが
現れたんですけど
ヘブナイシュ12章16節には
エサウをこう言います
エサウのように
乱なものや
邪悪なものとならないように
気をつけなさい
結局聖書は
エサウは乱なもの
邪悪なものとされ
ヤクブは神様の
祝福を求める人
だからヤクブには
神様が信仰の先祖として
建てられヤクブを通して
十二部族を
展開される
本当に
信仰の先祖の素晴らしい
偉業はありますけど
エサウには全くなかった
またダビデとサウル
同じような
イスラエルの初代王と
二番目の王ですけど神様から
油を注がれて王とされた
二人です
ダビデは神様が一番
愛する人
ダビデには
私の思うところを
全て行う
ダビデを見出した
私はダビデを通して全てを行うんだ
言われるほど神様は
ダビデを愛して
しかしサウルは
神様に尋ねることなく
関係性を全く持っていなかったので
神様は
彼を鼓動し王位をエサエの子
ダビデに渡された
神様の前で
サウル王と
ダビデ王
その心の中に何が入っているのか
神様はそれを見ておられる
その記録が聖書全体です
全体にも
全部二人ずつ
神様が願っておられる人と
神様が憎まれる人を
書かれてあります
新約聖書では
ペテロとイスカリとユダ
二人とも
イエス様を裏切ります
ペテロも裏切り
イスカリユダも裏切ります
しかしペテロの心の中には
イエス様に対する
良い心があったんです
イエス様は裏切る
裏切りまでは言っていないでしょう
自分の身の危険を感じて
私イエス様知らないと
いうことを三度も繰り返していたんですけど
この心の中には
なんとか
イエス様に対して
良い心があったんです
だから否定はしたんだけど
この次にすぐ
悔いを改めることがあったでしょう
イスカリユダは
イエスキリストを裏切ったんです
そして裏切ったのに
自分の心の良心の
色々な責められることが
あった時に自殺した
彼は悔いを改めようと
していなかった
神に対する良い心と救い
これは全体的に
考えてみていただきたいと
私たち
各々持っているこの古今性
内面性
信仰の人格
全部含めて
私たちが救いに至る
正しい信仰として進み
出ることができるのは
結局
神様に対する良い心
また
神様に対する愛する心が
その人の心に
ある人たちは
神様から
救われることが
できた
ですから私は
救いの確信を言う前に
その前に
私の心の中で
イエス様に対する良い心があるのか
神様に対する
良い心があるのか
それを聞きたいということです
皆さん
神様に対する良い心を持っている人は
神様が厳しく責められるでしょう
イエス様が厳しく
責められるなら
その厳しい話を聞いても
感謝します
またその厳しい話が
自分を悔い改めを通して
またイエス様ともっともっと
親しくなります
もちろん
愛する言葉をくださればもちろん
もともと感謝でしょう
その人には
神様がどんな話をするんだとしても
その人との親しみが
もともと強くなり
この良い心
良い関係性の中で
救いの確信は
ますます強くなります
そのような人に
最後の時
私の羊を飼いなさい
私の弟子にしなさい
そうするなら
その人は神様の命令に従って
愛する家族を
みんな
よく
使えることになるでしょう
マタイの25章45節の言葉が
この意味です
主人がその家の主人の上に立てて
時間どおり彼らに
食事を与えさせることにした
忠実で賢い
下人は一体誰なんでしょう
主人が帰ってきた時
言われた通りにしているものを見られる
下人は幸いである
はっきり言っておく
主人は彼に全財産を管理させるのに
違いがない
主人に対して
良い心を持っている人は
主人がどれほど
重い仕事をお前やりなさい
私が戻ってくるまでやりなさいと言ったら
この人はやるんです
しかし主人に対して
良くない心を持っている人は
主人があんまり
ひどい働きを任せて
なくても
多分文句をついたり
いろいろ悪いことをする
これがゴダラント
イチダラントの人の違い
ゴダラントを与えた人は
それをもってビジネスをやって
商売をやってまたゴダラントを
残しました
二ダラントも同じでした
しかしイチダラントを預けた人は
もう主人は悪い人だから
このお金そのまま
もう私は絶対手を出したくない
そのまま返してあげよう
そして何もしてなくて
そのまま置いていた
主人に対して
気持ちが悪い
主人に対して心がよくない
その人の後は
結局難しくなることに
あるんですね
神様に対する
良い心があるのか
神様が愛する教会の家族に対する
良い心があるのか
その人たちに
神様は教会を預けて
私の教会
私の羊たちを
牧しなさい
飼いなさいと
言われた時に
その人たちは
この人たちを愛する心で
最後まで見守ることができるでしょう
その時イエス様が来られて
彼に
財産を管理させるのに違いがない
と言われます
私は
救いの確信があります
今日死んだら天国に行く自信があります
私は救われたもんですから
と言っても
私の心の中で
本当に神様に対する
良い心 愛する心が
あるのか
私は救いの確信を
言う前に
あなたの心にこのような心がありますか
と聞いていたい
ですからローマ書中書中節
実に人は心で信じて
嫉妬され口で
公にエロはして救われる
なぜ心で信じて
と言うのか
良い心があるのか
今日は
救いの確信があると言う前に
神様に対して
良い心があるのか
それが前提になって
私はイエス様を信じて
救いの確信があります
と言ったら
その信仰告白は
強制的ではなく
立法的協理的ではなく
形式ではなく
本当に信仰の本質に
基づいた正しい
信仰告白になると思います
子どもたちのための祈り
私は昔から
こう言いました
私は神様に対して悪い思いを
したことがあります
私は昔々から
信仰する前から
神様に対して
良い考えばかり持っていました
それで私は
時が来てある時
しっかり信仰告白して
信じてそれから
牧師になりました
皆さんも同じでしょう
同じです
願わくは
私たちの子供たちも
神様に対して
良い心を
そして良い心で
信仰告白し
また信仰生活ができるように
親が
しっかり子供たちのために
取りなしのようにしてあげなければ
なりません
私たちの前で信仰告白
あなた天国行きたいでしょ
信仰告白しなさい
イエス様信じなきゃ天国行けないよ
わかったわかった
信仰告白するから
もううるさいよ
信仰告白
イエス様信じます
子供たちは私たちこう言うかもしれません
しかしその子供の心の中に
神様に対して
良い心があるのか
これが
私の勝手にはできません
自分の勝手にもできないと思います
私たちの子供たちに
どうすれば
神様に対して
イエス様に対して
良い心を持たせることが
できるか
これが
親の一番の
祈りの課題にならなきゃいけないんじゃないか
と思う
だせなら皆さん私は地獄に行ってもいい
しかし私の子供だけは
天国に行かせてください
これが親の心ではないですか
みのりちゃんそうでしょ
そうでしょ
そうですよ
どうすれば子供たちが神様に対して
良い心を持つことができるか
私は聖書一箇所を発見しました
ダビデが祈ることです
詩編の51編の10節です
神よ
私に
清い心を作り
揺るがない霊を
私の内に
新しくしてください
ダビデが
私の心の中に
清い心を
神様は作ってください
創造の時から
始めにあったその
清い心を私の心に作ってください
揺るがない霊を
私の中で
与えて
私の心を確かにしてください
ダビデが
祈ったように
私たちも詩編の51編の
10節のように
子供たちのために
ずっと祈っていく
私たちになっていきたいと思います
そして
私だけじゃなくて
子供たちもみんな救われ
みんな天国で
これから永遠に
天国で幸せになる
私たちになりますように
お祈りいたします
主よ
私たちがどのように信仰を持つことができたのか
私たちも分かりません
しかし
神様の恵みによって
信仰によって
私たちにこの本当に素晴らしい
救いの確信が与えられたことを
感謝します
考えてみてますと
他の宗教でもなく
他の神々でもなく
3名一体の神様を信じることになったのか
感謝しかありません
私たち教会のみ
全ての家族
私たちの子供たちが
神様に対する
良い心を持って
信仰告白ができ
信仰生活ができるように
聖霊様
恵みを与えてください
イエス様の皆を通して
お祈りいたします
アーメン
アーメンありがとうございます
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