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2023-01-23 31:04

「自分を捨てて 、自分の十字架を背負って」2023年1月22日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2023年1月22日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

マタイ16:20-25 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に复活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

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00:00
今日は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってという対応を持って、メッセージを分かち合いたいと思います。
私たちの信仰生活は、皆さんご存知のように、5つの壁を持っている器と同じです。
この初めは、ただ恵み。次は、ただ聖霊によって。
ただ十字架によって。ただ信仰によって。
ただ見言葉によってという、5つの面を持っているこの器に、その中身が何か。
それが信仰の本質。神を知り、神を愛すること。それをずっと求めることです。
まず、この器ができていなければ、これは新しいぶどうの木、私たちが目指している教会と同じです。
新しいぶどうの木教会は何ですか?といったときに、5つの面を持っているこの器、その信仰がしっかりできていること、それをまず考えることができるでしょう。
その中で、神を知り、神を愛する信仰生活、中身を切に求めていく。これだと理解していただきたいと思います。
今日はこの中で一つである、ただ十字架によってということを、どのように私たちが実践することができるのか、それを一生に考えていきたいと思います。
十字架といったら、これは人が死ぬことですよね。
死んでいるのにどう生きるのか、死んでいるものとしてどう生きるのか、それがいろいろな難しさがありますけど、今日はその部分を考えていきたいと思います。
十字架というのは、皆さん本当に怖い刑罰の中で一つです。
当時の人たちは十字架を背負っていくと言ったら、もう怖くて怖くてたまらない。
ローマは十字架の刑を持って、違法人の世界を支配された。
反乱ができる、できないように、それを強制的、恐怖的な死刑の方法だったんですね。
ですから当時の人は十字架という話は怖くて言えない。
しかしそれがどうしてキリスト教の一番大事な教理であり、それが正しい信仰の道になるのか、これは本当に難しいことです。
実に十字架は神様の知恵でした。
コリント2章に、十字架に書かれたイエス・キリストについて書きながら、8節にこう言います。
この世の支配者たちは誰一人、この知恵を理解しませんでした。
03:01
もし理解していたら、栄光の死を十字架につけはしなかったでしょう。と書いてあります。
十字架を通した救いの御業は、当時の世の中の支配者たちはわかりませんでした。
人を救うために来たメシャが、どうして十字架にかけられて死ぬのか、
自分が死んでしまえば他の人をどう救うのか、これは誰もわかりませんでした。
事実、十字架の死は贖いの死でした。
このためには、罪がない人間の血が流さなければならなかったから、
現在を持っているアダムの子孫ではなく、男なし、聖霊によって、
童貞の少女、マリアによって、御業を持って、そして生まれる女の子孫にならなければいけなかったんです。
このようにイエス様は、現在がない人間として来られて、十字架で死んで、贖いの生贄になってくださいました。
イエス様の十字架のこの過程で、私たちは罪がないイエス様を強いて殺す、
宗教主導者たち、ユダヤ人たち、ローマの兵士たちの残忍さ、また人間の悪行を見ることができました。
ここでイエス様の十字架を通して、また贖いによって人類を救おうとする神の計画と方法を悪魔が知っていたなら、悪魔はそれができないようにそれを止めたでしょう。
しかし、むしろ、すべていろいろな濡れ衣をかぶせて、十字架にかけて殺したこの悪魔の愚かさ、
この悪魔がむしろ、神の救いの見業を達成するのに助けてあげたということ、
本当に十字架を通した救いの見業は、神様の驚くほどの計画でした。
では、神様はイエス様を十字架を通して何を成し遂げられたのでしょうか。
ヘバラエーション9章22節は、こうしてほとんどすべてのものが立法に従って地で清められており、地を流すことなしには罪の許しはありえないのです。
では、まず十字架を通して神様は私たちに与えられた立法を成し遂げられました。
06:02
神様のすべての働きは、まず見言葉、立法に書かれた通り働かれる方です。
神様が立法を犯すことは一切ありません。
だから十字架の見業、これも神の立法通り行われたということです。
では、それを通して罪人を救うのですが、大事なのはイエス様の十字架が自分のための贖いの師であることを信じるすべての人に十字架の贖いの恵みが望んで、その通り食材がなされたということです。
また、これからでも過ちと罪、また悪魔の誘惑に騙されて犯す可能性があるすべての罪も、イエス様の十字架の師匠に委ねて悔い改めすることさえあれば、いくらでも許される道が与えられることによって、
すべての罪、泥い、病、そして地獄の判決から逃れる命の道を備えて下さいました。
そして聖義御所はこう言います。
誰でも主の皆を呼び求める人は救われると言います。
この十字架こそ、罪からの勝利、悪魔からの勝利、泥いからの勝利、地獄からの勝利の道です。
神様が一番願われるその御業が、イエス様の十字架を通してすべて成し遂げられました。
これから人類は、罪、泥い、すべての苦しみから逃れることができるし、地獄に行かないで天国に行く道が開かれました。
メシアであるキリストイエス様がこの道を開いてくださったんですけど、
このイエス様がなさったこの御業は、人類歴史上一番驚くほどの教跡だとして、
そのイエス様が来られる時点を基準として、人類の歴史を二つに分けます。
イエス様が来られる前、これが起源前、イエス様が来られた後は起源後、
そして人類の歴史をすべてを分ける分岐点として、全世界の人々が認め告白する、そのような歴史上大事な御業になりました。
では、これから大事です。十字架によって生きるとはどんな意味でしょうか。
今は十字架経緯ということはありません。なぜなら、残念すぎるからです。
09:03
残念すぎる経緯は全世界どこでもありません。それだとしても、十字架は私が死ぬことです。
死んだ人がどうして生きるのか。パウロはこう言います。カラディア2章20節です。
私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのはもはや私ではありません。
キリストが私のうちに生きておられます。と言います。では、みなさん、これは大事です。
すなわち、私が死ぬとき、私のうちにキリストが生きることができます。
私が死ななければ、私のうちにキリストは生きて働くことはできません。
私が死んだら、私のうちにキリストが私の代わりに働いて
くださるので、キリストが働くならどれほど強くなるでしょうか。どれほど素晴らしくなるでしょうか。
だから、私が死ぬのが私のために有益です。
パウロはこう言ったのですが、私が死ぬのをどのようにすればいいのか。
これをイエス様が教えてくださいました。これがマタイ16章24節に
自分を捨てて、自分の十字架を背負って、これが十字架によって生きる生活です。
じゃあ、自分を捨てて、また自分の十字架を背負う、これは何でしょう。
これがキリストが私のうちに生きて働くことができるので、必ずやらなきゃいけないのですが、
どうすればこれができるのか。じゃあまず自分を捨てること。
自分を捨てるということは簡単に申しますと、自分の考え通りにいかないということです。
自分のやりたい通りにいかないということです。
現在のもとにある人間は、第一ヨハネ2章16節、
肉の欲、目の欲、この世の奢り、この欲を満たすために生きます。
この欲を満たそうとする、そして生きることをやめるということです。
欲望を満たそうとする生活をしないということです。
だったらどうすればいいのか。神の身実通り生きるということです。
自分の思い通り、自分の考え通りじゃなくて、神の身実通り生きることです。
自分を捨てる生活はイエス様が模範を見せてくださいました。
イエス様が自分をどう捨てられたのか。フィリップ2章5節から11節までです。
キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることを拘束しようと思わず、
12:06
かえって自分を無にして、下辺の身分になり、人間と同じものになられました。
人間の姿で現れ、減り下って死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く挙げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。
こうして天上の者、地上の者、地下の者すべてイエスの皆にひちゃまずき、
すべての下がイエス・キリストは主であると公に述べて、父である神を讃えるのですと言います。
じゃあご覧ください。自分を捨てることは難しいんですけど、神様に従うために自分を捨てることには驚くほどの思考があります。
では私たちはどのように自分を捨てる生活ができますか。
これは私たちは十字架の福音という学びで、自己中心的に生かないで、神中心的に生きることだと学びました。
自己中心的に生きることは何ですか。自分の目的のため、自分の方法で、自分の力で生きることです。
自分の目的、これを信仰的にはゴリヤク信仰という。自分の方法で生きる、これは神本主義信仰です。
自分の力で、これは立法主義信仰です。皆さんこのように自己中心的に生きるのは、
イザヤ53章6節には、神様これは罪だと言われました。
このように生きる人は神様が絶対祝福されません。
ですから私たちは徹底的に神様の目的のため、神の方法で、神の資源で生きることを学ばなければなりません。
どう生きるんですか。これが私たちが学んだ神様との親しい関係の中で、神様の見声を聞いて従う生活です。
こうするとき、精霊様が私たちに働かれます。
皆さん、ただ恵みによって、ただ精霊によってということは、先週、先々週一緒に学びました。
それをぜひ参考にしてください。このように自分を捨てるなら、神様がイエス様を高くあげられたように、私たちにも高くあげられ、すべての祝福を与えてくださいます。
ぜひとも皆さん、自分の考え通り、自分勝手にいかないで、ぜひとも神中心的に生きる私たちになりましょう。
15:01
これが自分を捨てるという意味です。では、自分の十字架って何でしょう。
十字架は死ぬごと、苦労、犠牲、代価の支払いを意味します。
イエス様が私たちを救うために、私たちの罪の代価として十字架で血を流して死んでくださって、そして血の代価を支払いました。
同じように私たちの信仰生活も神様の前で支払うべき代価があるということです。
神の御言葉通り生きるのは優しい子はありません。この世のすべての人々は自分の勝手に生きます。自分の考え通り生きます。
世の中の人々は神の御言葉に従って生きようとする人はいません。
皆さん、世の中の人たちは神の御言葉に行かないのに、自分だけ神の御言葉に従って生きるということはどれほど難しいでしょう。
一番難しいのは孤独ということです。寂しいということです。また、誰も行かない道に自分が行くといったら怖いですね。
恐ろしいということです。自分の十字架を背負う人にはこのような代価の支払いがあります。
ここに自分の十字架があるのです。
例えば家庭で、キリストシャーとして家庭生活するのには代価の支払いが必要です。
誰も信じない家庭で自分だけが信じる。
その家族の中で日曜日の朝、教会に来るといろいろな妨げ、文句があると思います。
それにも関わらず、神様に礼拝を最優先にする。そこに自分の十字架があるのです。
職場はもっと難しいです。みんな信仰を持っていません。
しかしその信仰を持っていないこの人の中で信仰者として生きる、キリストシャーとして生きるのに難しい代価の支払いがあります。
これが自分の十字架です。
教会で信じる人として担うべきいろいろなことがあります。そこに難しさがあります。
それが自分の十字架です。また特に使命がある人、使命者として示された人にはもっと大きな代価の支払いがあります。
これが自分の十字架です。
これは難しいのですが、神様はその道が命の道だ。
神様を喜ばれる道を聖霊が働く道だと言います。
18:01
今日、教会学校のメッセージを皆さん聞かれたでしょう。
そこでエステル、またモロデカイの生活。
皆さん、捕虜になって今、異邦人の世界に行って、そこで信仰によって生きる。
だからエステルは死ねば死にますというそのような覚悟。
これが異邦人の世界でユダヤ人として生きるための十字架だったのです。
その十字架を背負うときに、そこに驚くほどの奇跡があるのです。
聖書は自分を捨てて自分の十字架を背負う生活を、
聖書でマタイ7章13節14節にこう言います。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、
その道は広々として、そこから入る者は多い。
しかし、命に通じる門は何と狭く、その道は細いことか、
それを見出す者は少ないと言います。
広い門、広い道は、しかし滅亡に至る道だと言います。
狭い門、細い道は、命に至る道だと言います。
ですから私たちは難しいかもしれないけど、
狭い門、細い道に行かなければなりません。
これを命の道だというのはどんな意味でしょうか。
命の霊、聖霊様が強く働いてくださる道だということです。
ですから私たちは狭い門から細い道に歩むとき、
そこで聖霊の強い働きを私たちは受けることができると言います。
ところが今の大勢の救われた人たちを考えてみてください。
イエス様を信じて、救われたから、もう救われたから、もう私はこれ、信仰成長はこれでいい。
これからどう生きても天国に行く。
神は愛だ、恵み、祝福だ。
そうしながら、これから信仰生活は、神の御声を聞いて従う生活はなかなかしません。
自分を捨てて自分の十字架を背負う、嫌だと思います。
このような信仰生活は、聖書が言われる信仰生活ではありません。
ここに悪魔の働きがあります。
皆さん、悪魔は決定的な瞬間に現れるんですけど、
また四章でイエス様があれらの試練を受けられるとき、
一番空腹を覚える時間、一番お腹が空いているときに悪魔が現れます。
なんて言うんですか。
神の子なら、これらの石をパンになるように命じたらどうだ。
21:06
また世のすべての国々の繁栄ぶりを見せて、
もし私に触れして拝むなら、そのすべてをあなたにあげようと言います。
どんな意味ですか。
これは、なぜ十字架を背負うのか。
十字架がない楽な、本当に楽な信仰生活をやりなさい。
なぜ難しいことをやるのということです。
イエス様を試みた悪魔が、私たちは現れないと思いますか。
悪魔のやり方があります。
はじめはイエス様を信じないようにします。
悔いを改めることができないように、
精霊を受けることができないように妨げます。
それでも信じるなら、
見言葉が悟れないように、悟ることができないようにします。
そして、見言葉を読んでも従わないようにします。
そのようにして、実行中心的に生きるように、
広い道に生きるように、世のすべてをもって誘惑します。
だから信じるから、天国に行くから、
もう私はこれからいいんじゃないかと思っちゃったら、
これは騙されたことになります。
イエス様に私を拝みなさい。
世の中のすべての栄光を与えるから。
その時イエス様は何て言うんですか。
あなたの神である主を試してはならない。
そして尻除けられました。
イエス様を誘惑した悪魔。
また、バラム予言者、イスカレーデユーダーも誘惑して滅ぼしました。
皆さん、予言者と人を優しく騙して誘惑したとするなら、
私たちにはなおさらのことでしょう。
このような悪魔の誘惑に勝ち抜く方法は何か。
これをイエス様は教えてくださるんですけど、
これが自分を捨てなさい。
また、自分の十字架を背負いなさい。
ここに命の力がある。
この世の誘惑に陥らないで、
正しい信仰、使命を担って天国に行く秘訣が、
自分を捨てて自分の十字架を背負うことですけど、
これはどなたが担うことができるのか。
これが我をも救いし、くしきめぐみ。
救いの御業に対して神様の大きな恵みをいただいた、
それを正しく悟った人、
その人だけが自分を捨てて、
自分の十字架を背負って信仰生活するようになります。
曖昧な救い、曖昧な信仰、
それはこれを乗り越えることができないでしょう。
24:01
イエス様は十字架によって、
私たちに聖霊様が来てくださったんですけど、
聖霊様は自分を捨てて、自分の十字架を背負うことができるように、
私たちを徹底的に助けてくださると思います。
私は初めにイエス様を信じるとき、
私の家の中で、この戦場をうまく拝む、
だから私は韓国の言葉で、
立派な家、ヤンバンという、このような言葉があります。
だから私の家門の中で、
戦場をうまく思うから私たちはヤンバンだという、
このような特別な家門だという誇りがあった、
傲慢がありました。
ところが私がイエス様を信じて、
私を教えてくださった先生が、
宣伝を受けてどうすればいいんですかと言ったら、
あなたの家でやっているこの戦場を拝むことをやめなさいと言いました。
だから私は従うために、これから私はできませんと言いました。
今私の家門で、私が一番上の末子ですかね、長男、
長男が家の伝統を守ることはしないと言ったら、
私の父が怒って怒って、大変だった。
だから私は家から追い出されました。
皆さん、この追い出された時に、私に一言を見言葉が与えられました。
これがマルコ、チュッショー29節、30節です。
イエスは言われた、はっきり言っておく。
私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、
畑を捨てた者は誰でも、今この世で迫害は受けるが、
家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も100倍受け、
どっちの世では永遠の命を受ける。
これは聖霊様が私の心に刻んでくださいました。
私は初心者だったのに、どうしてその見言葉を全部覚えているのかわかりません。
聖霊様は私の心に入れてくださいました。
その見言葉が、私の十字架を背負って生きるのに大きな力になりました。
またその見言葉に、聖霊様が驚くほど働いて、
家から追い出されて一人暮らしなどに必要なすべてを満たしてくださりました。
学費、家塾費、生活費、また大学院まで勉強できる、
すべてのことを奨学金として豊かに与えてくださいました。
驚くほどの経験でした。
まさにマタイの六章33節、
まず神の国と神の義を求めなさい。
27:02
そうすれば、これらのことをすべて満たして与えられる。
この難しかったんですけど、その過程を通して私の家族の救いが成し遂げられました。
家族みんなが救われました。
これから私に残されているのは、
教会を建てること、また日本宣教の十字架は残っています。
私はこの十字架を絶対諦めません。
そのために私は、私の力ではできないので、
聖霊様の助けを切に切に祈っているところであります。
ここで皆さん、死のうとする人は生きるという意味は、
自分を捨て、自分の十字架を背負うとするなら、
神様が、神様の命の聖霊が強く働いて、
神の御胸が成し遂げられることを見るようになり、
またたくさんの実りが与えられるという意味です。
しかし、生きようとするという意味は、
自分は自分を捨てること、自分の十字架は嫌だと思って、
私はそこから逃れたいと思う人は、聖書は死ぬと言います。
その意味は、実りが全くない、
神様が受けられない人生ではない、
救いも報いも天国も難しいということです。
ですから、ただ十字架によって生きる、
その方法は自分を捨て、自分の十字架を背負うことですけど、
私たちはそれをうまく担うことができるように、
皆さんを祝福したいと思います。
この時、信仰の本当の味を味わうことができます。
最後に、第一ペトロ2章21節には、
イエス様が十字架で死んでくださった理由は、
私たちの模範として、私たちもイエス様のように、
自分を捨てて、自分の十字架を正しく背負う生活にしなさい、
という意味だということを教えてください。
このようにイエス様に従う時、
全世界は愛と恵みと精霊が強く働く美しい天国になりますけど、
これはこの世の神、悪魔は真似もできない、
真似もできない素晴らしい働きです。
自分を捨て、自分の十字架を背負うことは、
戦わないで平和を導く道であり、
この世を天国にする道であります。
このような信仰生活をする人たちは、
精霊様が強く働きます、力があります。
神様のすべての祝福が共にあります。
30:01
私たちに自分を捨て、自分の十字架を背負うことができるように、
恵みを与えてくださいますように。
その恵みが満ちあうれる過程、教会になりますように。
お祈り出します。
主よ、今日、十字架によって生きる生活を学びながら、
今まで私たちは広い門、広い道について、
信仰生活してきたのではないか、悔いを改めます。
この世に生きるなら、滅亡に至るんだと言われたんですけど、
神様、これから私たちは自分を捨て、
自分の十字架を正しく背負っていきたいと思います。
是非とも、精霊様、私たちに恵みを与えてください。
皆にそれをうまく担うことができるように助けてください。
イエス様の皆を通してお祈り出します。
アーメン、アーメン。
31:04

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