先週は富永先生をお招きして幸いなお証を聞く機会をいただきました。
本当に幸いな時でした。
特に私自身が心に残ったことは、富永先生とお母様との関係でした。
先生が祈りながら福音を伝えて、お母様が洗礼を受けられたんですね。ニュースレターでも見てました。嬉しいことでした。
しかしお母様は、ちょっとずつ、徐々に徐々に、最初は家庭礼拝を守っていたんだけども、聖書を読むところからだんだん離れていってしまう。
焦る中で先生は、お母様に厳しく当たってしまったと告白されていました。
聖書を読まなあかんやんということを言ってたというんですね。
それは、お母さんが神様から離れてほしくないという純粋な動機から、そういう言葉が出ているんでしょう。
しかし、そう責めてしまう自分を見るときに、厳しい戒めから人々を解放したイエス様の姿と、今の私はどれほどかけ離れているだろうかということを示されて。
そこで、反省したということをおわかしなさっていたと思います。
お伺いしながら、私自身も思い出したのは、数年前に参加させていただいた、YLGという若いクリスチャン向けの全国的な大会があったんですけども、
その中である選挙団体の代表が、アピール自白間が大体15分くらいあったんですけども、その15分丸々使って、今朝のヨハネの十五章の箇所ですね。
このブドウの木の例えから、ずっとこのことを言っていたんです。
私たちに今一番必要なことは、キリストにとどまることです。
私たちに今一番必要なことは、キリストにとどまることですということを、コンコンと15分間話されたんですね。
何が起きているんだろうと思いながら、私も聞いていて、最後にその先生がこう言われました。
私は多くのミッションに取り組んできました。
けれども、イエス様のためにとたくさん労し、成果をあげてきた人物が必ずしも、イエス様に似ているとは限らないという現実を私たちは目にすることがあります。
むしろ、イエス様ご自身の姿とかけ離れていく姿を私たちは見てしまう。
しかし本当に大切な身は、イエス様にとどまり続ける中にしか結ばれません。
だから、若い皆さん、今一番必要なことは、イエス様にとどまることですと、何度も何度も話されました。
富永先生のお証の結論もそこだったと思います。
イエス様にとどまらなければ、身は結ばれない。
そして今朝の歌詞を見るならば、それは厳しい戒めではないんですね。
むしろこれは愛情にあふれたお父さんが、子供を危険から守るために注意を促すような言葉です。
私から離れたらダメだよと、私から離れたらダメだよと。
この温かな、とどまりなさいという語りかけを今朝はご一緒に聞きながら、
それが何を言っているのかなということを一緒に覚えていきたいと思うのです。
二つのポイントで今朝はこの歌詞の見言葉を取り継がせていただきますが、
第一に、それはイエス・キリストの愛にとどまるということです。
イエス・キリストの愛にとどまるということです。
今朝は15章を読んでいただきました。
ただ、これは前から言っていますけれども、13章から始まる国別説教の一部です。
ですから実は流れが大事ですから、少し流れだけ確認をさらっとさせていただきますと、
この13章の3節に聖書が語るのは、
イエスは父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、
またご自分が神から出て神に帰ろうとしていることを知っておられたと語られます。
これがこれまでと、そしてこれからイエス様に起こる道筋を説明しているとお話をいたしましたけれども、
まさにその通り、
ヨハネの福音書は、イエス様は天から下ってきたメシアである。
そして下ってきたイエス様の手元に、神は万物を委ねてくださった。
そしてその委ねてくださった万物を握って、イエス様は天へと帰っていく。
それはイエス様は天へ帰るんだけども、いわば神の支配へと人々を連れて行こうとする。
あたかもそれは、かつての出エジプトのようであるとお話をいたしました。
しかし今回違うのは、出エジプト記では神様がアレのお供に歩んでくださったけれども、
今回の新しい出エジプトは、イエス様はお供に歩んではくれない。
イエスキリストは死んでしまう。
ですからそこに別れがあるわけです。
しかし先週見ました14章にはイエス様は、
いや私はあなた方を決して孤児にはしないと言われた。
あなた方を放ってはおかない。
それは十字架の使徒復活を経て、天に帰られるイエス様は地上にもう一人の助け主を使わすと、
14章の16節で言われます。
もう一人のというのはその時もお話しましたが、
このギリシャ語は別の存在でありながらイエス様と同室であるという意味の言葉です。
別の存在でありながら同室であるという意味です。
もう一人のというのは。
ですからそのようなイエス様とは別なんだけれども、
同じ愛と力を持たれているお方が地上に送られてきて、
いやそれだけではなくて、そのお方が私たちの内に住んでくださると、
14章の17節では語られる。
そして14章を通して見るならば、
父なる神とイエスは一つ、
そして精霊様とイエスは同室、一つですね。
そしてその精霊様が私たちの内に住んでくださる。
これらを通して神様はキリスト社一人一人を、
あの三に一体の神の愛の交わりの中に加えてくださった。
このような神様との従然な愛の関係の内に
憩うている状態のことを聖書は平安と語るということを言いました。
エイレーネーですね。
平安というのは神様との従然な関係の中にあるから、
外でどんな嵐が起きようとも大丈夫ですよということを語っているんです。
平安というのは何も問題が起きないことが平安ではない。
問題があったとしても、
私は今神の愛の交わりの中に確かにあるんだというからこそ、
私たちは平安を握る。
ここまでが前回見てきたものですけれども、
この三に一体の神様の愛の交わりに留まっている状態のことを
例えて今朝はブドウの木と枝の例えになっているんです。
如実にそのことを語っているのは、
第一ヨハネの四章の十六節から二十一節です。
同じヨハネ文学で言われますが、
ヨハネの第一の手紙。
ちょっとだけお読みしますね。
ヨハネの第一の手紙の四章の十六節から二十一節。
なんか今日声が枯れますね、すいません。
お読みいたします。
ヨハネの第一の手紙の四章の十六節。
私たちは自分に対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。
愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、
神もその人のうちにとどまっておられます。
こうして愛が私たちにあって全うされました。
ですから私たちは裁きの日に確信を持つことができます。
この世において私たちもキリストと同じようであるからです。
愛には恐れがありません。
全く愛は恐れを占め出します。
恐れには罰が伴い、恐れる者は愛において全く者となっていないのです。
私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は兄弟も愛すべきです。
私たちはこの命令を神から受けています。
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
先ほどのヨハネの福音書の言葉と実は結びついている言葉ですね。
これは聞く限り厳しい大変な言葉だなと思いますが、
でもやはり互いに時代に響かせたい言葉だなと思います。
最初に申し上げましたけれども、これは私も本当に自戒を込めて言いますが、
イエス様のためにと浪すること、もしくは私たちの教団の文脈で言うならば、
本当に清められたいと熱心に聖書を読み、学ぶ人々、
しかしそういう良い動機で始まったはずの人が、
ともすれば目の前の人や兄弟姉妹を裁いて孤立してしまうということがあります。
なぜなのか、どこかで目の前に見える兄弟姉妹を愛することと
神を愛することは同じなんだというバランスをどこかでなくしてしまうんです。
むしろこれは私自身にあることなので言いますが、
目の前の兄弟姉妹や家族を愛することへの困難を、
いいえ、私はイエス様を愛しているから、私は真理を知っているからという言葉を
隠れ身にしてしまうということが私たちはあります。私自身もあります。
そういう信仰はつらいんですよ。これはつらい信仰です。
バランスが悪い。それはどこかで気づいているんですよ。
私たちに今一番必要なことは、キリストにとどまることですという言葉は胸に刺さりますね。
そうだなと思います。
ただその言葉が私たちに言うことは、
あなた方は主の愛の交わりの中に既にいるんですよ。既にいるし、
神様はそこから簡単に切り離そうとは思っていない。いつでも手を差し伸ばしてくれる。
しかしその手を引き払って平安を崩すのは、いつでも私たちの中にあるその人を許せない。
愛することができないという痛みです。
それが私たちを神にある平安から引き離す。
これは互いに主に取り扱われつつですね。
どうか一時も早く憎しみを手放せるようにということは、つくづく願わされることです。
そして神様の願うことは、愛されている者として憩いなさいということです。
とどまるためにもっと何か合わせ、こうせ、頑張れではなくて、
あなたを絶大な愛で十字架で愛している神のもとに憩いなさい。
そのためには、あなたの中でこんがらがっている隣人との関係を、
ちょっと落ち着いて、死と共に取り扱いなさいということではないでしょうか。
そして二つ目のポイントです。
それはイエス様によって身が結ばれていくということです。身が結ばれていく。
聖書を見ていくならば、この愛にとどまるならば、その人はどうなっていくのでしょうか。
その人のうちに、そしてその人を通して、神様の祝福と恵みがあふれていく。
いわゆるこのことを通して、多くの身が結ばれるという表現をしているんです。
多くの身が結ばれていく。
葡萄の木に結ばれていれば、その命の力によって、おのずと身が結ばれていく。
その具体的な様子ですね。
簡単に言うならば、木から枝が身を結んでいくときに、
じゃあ栄養素はどうやって送られるのみたいな話ですが、
それを書いているのが七節八節です。
十五章の七節八節を読みしますとこういう言葉です。
あなた方が私にとどまり、私の言葉があなた方にとどまっているなら、
何でも欲しいものを求めなさい。
そうすれば、それは叶えられます。
あなた方が多くの身を結び、私の弟子となることによって、私の父は栄光をお受けになります。
ここにはいくつかのことが書いていますが、順に見ますと、
第一にイエス様が言われたのは、私にとどまり、私の言葉があなた方にとどまるならと言います。
三味一体の神様の愛の交わりの中で、
見言葉ですね、これはね。
聖書の見言葉が私の内にとどまるならばということです。
私たちが聖書を読むというのは、
単にこれは聖書に詳しくなる知識を蓄えるためのものではありません。
聖書を通じて、いける神様の語りかけを聞くために私たちは聖書を読む。
神様が語ってくださるんですね。
主は生きておられるのです。
そして聖書が神を知るというのは別に、知的に神について知りましたということを言っているわけではない。
神様というお方が、聖書を通してご自身を人格的に表してくださるから、
人格的に神様を知るということです。
神というお方を知るんです、私たちは。
そして第二に、その愛にとどまりながら、見言葉にとどまって、
神様のことをよく知っていくならば、
何でも欲しいものを求めなさいと七節に書いています。
何でも欲しいものを求めなさい。
そうすればそれは叶えられます。
これも私の願いが何でも叶うということを言っているわけではないでしょう。
むしろこのニュアンスは、
私にとどまり、私の言葉にとどまるならばという前提条件がありますから、
いわばそのように、神様のことを知りながら、
神様を愛していく交わりの中で、
少しずつ少しずつ私たちの願いもまた、
主と共に一つになっていくでしょうということです。
主の願いに一つになっていくでしょうということです。
このように主と思いを一つにして祈るその言葉を、
主は必ず聞いてくださるということを言うわけですね。
それは地上においては、
神様があなたと共に見心をなすために働いてくださるということです。
何でもお願いなさい。
神があなたと共にこの世界で働いてくださるんですよということを言っている。
誤解がないように申し上げますが、
だからといって祈りに正解不正解があるわけではありません。
何でも祈ればいいのです。
何を祈ってもいい。
しかし私たちの祈りはそうじて、
父なる神様との対話であり、
それは神への思いに近づいていくんですね。
祈りというのはそういう方向性を持って進んでいきます。
そしてそのように見言葉に聞き、
祈るその営みの中に、
父なる神様は多くの身を結ばせてくださると書きます。
身を結ぶというのは一体何を意味するのでしょうか。
一つそれは私の弟子となるということでしょう。
イエス様の弟子となる。
この身というのは私たちの内に結ばれる身と、
私たちを通じて外に結ばれる身の二通りの意味があると思います。
私たちの内に結ばれる身は、
まさにキリストの愛と喜びが私の内に満たされていくということでしょう。
15章の11節にもありますが、
私の喜びがあなた方の内にあり、
あなた方が喜びで満ち溢れるようになるために、
私はこれらのことをあなた方に話しました。
喜びが満ち溢れ、
そしてガラテア書は有名な御霊の身について語っていますけれども、
このイエス様に留まるならば、
愛、喜び、平和といった私たちの内に
イエス様の人格が形作られていく。
ガラテア書の御霊の身というのは、
先日見れば神を愛し隣人を愛するということに関する特目が書いてあります。
それはまさにイエス様のように私たちは生きるものになっていくということですね。
そして2つ目は、
私たちを通じて結ばれる宣教による救いの実が起きてくるんだということです。
16節にもありますが、
あなた方が私を選んだのではなく、
私があなた方を選び、あなた方を任命しました。
それはあなた方が一手身を結び、
その身が残るようになるためです。
ということが書いてあります。
イエス様はこの箇所で天に変えられるのです。
イエス様は天に変えられます。
しかし、ヨカネの福音書が語るのは、
精霊様を内に宿し、
神の愛の交わりの中に生きる私たちは、
この世界でイエス様の代理人として生きていくんですよ。
イエス様の代理人なのです。
イエス様が人々を愛し、
使え、
足を洗って、
人々の汚れを取り除いていったように、
私たちもまた、
それと同じ法師へと招かれている。
私たちはこの世界でイエス様のように生きるんです。
それは中だけではない。
教会から出てからもそうですね。
そのような法師にすでに立っているのです。
そして、そういう交わりを通した結果、
父なる神様が栄光を受けられるわけです。
十五章の八節に書いてあります。
それらの結果、
父なる神様が栄光を受けられる。
要は人々が、
神様は素晴らしいとみんながあがめるということです。
主は素晴らしいとあがめるということです。
このように見ますと、
実は身を結ぶ秘訣というのは、
目新しいことは何一つありません。
私たちが日頃から心がけている地道な歩みです。
神様の愛のうちに憩いながらです。
憩いながら、
御言葉に聞き、
祈り、
そして互いに愛し合っていくことです。
特別なことなんか何一つないです。
しかし、私たちは特別でない、
この基本的なことがみんな難しいんです。
でも、このことが大事なんですね。
時に互いに愛し合うということを考えるときに、
人を愛することが困難になるというのは、
人間にとって当然のことです。
しかし、その嫌悪感や憎しみから目をそらすのではなく、
向き合っていくときに、
実は私たちは自らの内面が問われ、
足りなさがあるんだなということに気づかされます。
主を憐れんでくださいと私たちは互いに出ていかがるを負えない。
しかし、主をどうか私に寛容さを与えてください。
あなたの誠実さを与えてください。
あなたの愛を与えてください。
そう祈りながら、
自分の中にある傷や根底にある問題に主が触れてくださるようにと、
導きを求めていきながら、
自分自身を許し、
人を許すことができるように。
そのようなある種華やかさのない、
足元の地道な信仰生活の結果として、
多くの身が結ばれていくんです。
その派手ではない日々の中に、
しかし主の栄光が輝く。