言語現象を言語外で説明することの是非
この番組は、世界の様々な言語、日本語含め、様々な言語の現象とかね、構造とかの話をしております。
では、なんでそういう仕組みになっているのか、そういうYの部分については、もしかしたらあんまり話してないかもしれません。
話すこともあると思うんですけど、どっちかというと、こういうものがありますみたいな話の方が多いと思うんですよね。
なんでそういうことになっているかという説明もしようと思えばできるかもしれないし、実際にそういう理由付けのね、動機付けの試みっていうのもあるわけですが、
ちょっとフワッとした話になってますので、例えば、日本語には敬語があります。
なんで敬語があるか、そういうシステムがあるかというと、上下関係を大切にする文化があるからです。
そういう説明の仕方もできるかもしれないし、やってる人もいるかもしれないし、皆さんもそういうふうに考えたことがあるかもしれません。
あるいは上下関係があるような、そういう階層のある階級社会があるために敬語というのが発達しました。
そういう説明もありだとは思うんですけど、ただ僕の個人的な思いというか考えとしては、
言語というのはそれ自体で完結したシステムで、その言語以外のものであまり説明はしたくないというのがあるんですよね。
言語の中のものは言語の中で説明できるはずじゃないかなというふうに考えております。
BGMです。
始まりました。4月15日のツボ。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
6番目の最後です。
言語外要因による説明の具体例と危険性
もちろんある言語の現状が言語以外のことで説明できるっていうこともたくさんあります。
なぜオーストラリアで英語が話されているかというと、英語を話すその話し手がオーストラリアにやってきたからっていうそういう事実で当然説明できますし、
あるいは日本語で漢字を使っているのは昔大陸、中国から文字を輸入したからであるとそういうふうに説明することができます。
ただ何でもかんでもそういう言語以外のことで説明しようとするのはちょっと危険だなというふうに思うんですよね。
この番組でも過去に多分お話ししたことがあると思うんですけど、
例えば日本語は主語を表さないことがあります。
日本語において主語は必須ではありません。
皆さんもそういうのは聞いたことあると思うんですけど、
それが事実としてあって、その理由付けとして言語以外のものを持ってきて、
日本人というのは空気を読む文化だから、
主語っていうのが出てこなくてもそういうのを推測することができるから、
日本語には主語は必須ではない。
こういうのは僕はちょっと危険だと思います。
まず空気を読むというそういう文化みたいなのが日本以外にないのかというとそういうわけではないと思いますし、
そういう文化だからという説明の仕方をしてしまうと、
それで塗りつぶされてしまうというかね、
それで全部解決したみたいになっちゃうので、
そういった意味で危険じゃないかなと思うんですよね。
言語内での説明の可能性:主語と述語の関係
そうではなくて、やっぱり言語は言語の中で解決できるんだったらした方が良くて、
日本語の場合主語が出てこなくていいのはもちろんいろんな要因があると思います。
文化的なものももしかしたらあるかもしれませんが、
一つの説明の仕方として、
日本語は述語、文の最後、文末を見れば、
主語っていうのがある程度わかる仕組みになってるっていうふうな説明の仕方もできるはずです。
例えば敬語。
敬語を申し上げると言ったら、
主語は私、つまり一人称、あるいはその周辺、
身内とかですね、
そういう人が主語であるということがわかるし、
逆に尊敬語を使っておっしゃるといった場合は、
主語は一人称以外であるということがわかります。
こういうふうに敬語っていうのは一種の主語との一致みたいに働いているので、
主語っていうのが出てこなくても、
ある程度述語の形で推測できるということです。
他にも、水を飲みたいといった場合は、
一人称主語として解釈されて、
水を飲みたがっている、
このがるみたいなのがつくと、
主語は一人称以外だっていうふうに解釈されるみたいに、
主語によって動詞というか述語の形を変えなきゃいけないものもあるし、
あとはくれるとかもらうとかね、
こういったものも主語が何かっていうのを指定しています。
これは裏を返せば、
なぜ英語で主語が必須かということへの説明にもつながって、
英語の動詞っていうのは主語の認証によってほとんど変化しません。
唯一変化するのが、いわゆる三単元のSで、
時制が現在で主語が三人称単数の時だけ動詞の形が変わるんですよね。
それ以外、例えば過去形とか、あるいは助動詞が出てくるときは、
主語が何であっても動詞の形が変わることはありません。
つまり動詞が主語によって形を変えないからこそ、
英語は主語が必須であるというふうに言えます。
そういうふうに考えずに単に文化だという説明だけで、
例えば英語ははっきり物を言う文化だから、
主語をはっきりさせる必要があるとか言うと、
大事なことを見落としてしまう危険があるんではないかと思います。
さらに言語以外のもので説明しようとしてしまうと、
ちょっと循環論になってしまうんじゃないかなとか思うんですよね。
日本語は空気を読むから主語を表さないのか、
あるいは主語を表さないという言語の特徴のせいで、
空気を読むという文化が生まれたという説明も可能なので、
そうなってくるとやっぱり、
言語については言語の中で説明してしまうのがいいんじゃないかと思います。
しかし繰り返しですが、
現実世界が言語に影響を与える場合
言語以外の現実世界が言語に影響しているとしか言えないような場合ももちろんあります。
人間はコミュニティの中で生活していて、
そのコミュニティの置かれている環境というか地理的な状況とか、
気候とか、そういったものが言語に反映されているというのは当然あり得て、
日本語において、
氷と水とお湯というのを単語が区別するのは、
日本語が水が豊富で、さらに温泉とかがたくさんあるからというふうに説明できると思います。
あるいは雪の降らない地域では雪を表す単語がないっていうのは、
当然といえば当然ですよね。
そういった例で面白いのが、
山がちな地域では、
指示詞が目線の上下まで含めたシステムになっていることがあるというものです。
例えば、高架差す地方とか、
タイの北の方とか、
そういった地域の指示詞ですね。
指示詞っていうのは、
コソアドですね。日本語で言うところのね。
ドは疑問詞なのでコソアですけど、
日本語だと場所を表す場合は、ここそこあそことなっています。
ここっていうのは和社がいるところ。
そこっていうのは聞き手がいるところ。
あそこっていうのは聞き手からも話してからも離れているところっていうふうに、
そういう対立になっているわけです。
山がちな地域の場合だと、
イメージとしてはあそこっていうのに何種類かあって、
上方向のあそこと自分と同じ目線のあそこと、
下方向のあそこっていうのが別個の単語であるというようなことです。
これがダダッピロイ草原とかね、
砂漠とかの言語だったら、
そういった区別はおそらく発達しなかったでしょう。
日本も結構山がちとは言われてますけど、
日本語はその辺の目線による指示詞の区別っていうのはないですよね。
こういうふうに地理とか環境とかっていうのが、
言語の根幹に関わるような仕組みに影響するっていうのは、
あり得るかなと思います。
言語現象の説明における注意点
ただ、ある言語の仕組みとか構造とか現象を、
何でもかんでも言語以外のもので説明しようとするのは、
ちょっと危険じゃないかなというね、
そういったお話でございました。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローも忘れずよろしくお願いいたします。
お相手はシガ15でした。
またねー。