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始まりました、志賀十五の壺。みなさんいかがお過ごしでしょうか。ジャビットくんです。
ラジオトーク宛にギフトをいただいております。
ゆこんこんさんから、おいしい棒のギフトを大量にいただきました。ありがとうございます。
壺の絵文字と骨壺の絵文字と一緒にいただきました。ありがとうございます。
この番組では、ラジオトーク宛に送ることのできるギフト、お便りを大募集しておりますので、よろしくお願いします。
ラジオトークでいうと、毎朝7時からライブ配信をしているんですよね。
ただそれを、今度の4月2日だったかな。で、ちょっと一旦終わらせようと思ってまして。
もともと、朝の習慣をつけるためにね、始めてたんですよね。
朝起きるためというか、朝何かしら活動するために、ラジオトークの朝ライブっていうのをやってて。
で、今もう3年以上やってるんですよね。毎朝ね。
我ながらよく続いたなぁと思うんですが、朝早く起きるっていう習慣はもうついたし、別の習慣も始めたんですよね。
朝走るとかね、そういったことをもろもろの習慣ができましたので、無理にライブ配信に頼らなくても、朝きちんと有効に時間を使えてるっていうのがあるので。
まあいいかなっていう感じなんですけど、完全に終わらせてしまうのももったいないなという気もするので。
今んとこ考えているのは、4月からは土日限定で朝7時からライブ配信とかね、いうのをちょっと考えております。
まあ特にね、朝ライブが盛り上がるようなこともなく、誰に惜しまれるわけでもなく、ひっそりと終わっていくわけですけど、
土日どうしてもね、朝のんびりしちゃうというか、まあそれはそれでいいと思うんですけど、
休日でもしっかり朝目覚めたいという方がいらっしゃいましたらね、4月から、今もやってますけど、7時からラジオトークで朝ライブ配信やっておりますので、
ぜひ覗いてみてください。テーマとかまだ決まってないですけど、今までは何かしら学ぼうとね、世界各国のウィキペディア読んだりとか、都道府県のウィキペディア読んだりとか、
なんだかんだやってまいりましたので、似たようなことをやるんじゃないかなと思うんですけどね。
そんなことで、朝ライブはおそらく4月から土日でやっていくことになると思いますので、よろしくお願いします。
さて、今日のエピソードタイトルが、
いかなる言語も同様に複雑らしいか?パート2ということになっております。パート1があります。
シャープ573に、まさに、いかなる言語も同様に複雑らしいか?っていうエピソードを撮ってるんですね。
関連エピソードとして概要欄にURLを貼っておりますので、そっちも合わせて聞いていただきたいんですけど、どんな言語も同様に複雑らしいっていうのは、
よく言われてるんですよね。言語を平等に扱おうとするあまりというか、
その姿勢は間違ってはないんですけど、ただ、
その言語のある側面に注目すると、
単純になりやすい言語と複雑になりやすい言語とちょっと傾向みたいなのがあるっていうのが、
そのシャープ573で話していることで、もうちょっと具体的に言うと、
言語の情報量
話者の数が少ないほど単純な共同体、社会で話されている言語ほど、一単語における情報量が多くって、
例えば、動詞だったら主語を表す標識もあれば目的語を表す標識もあったりとか、
ひょっとすると間接目的語を表す標識も一つの動詞の中に組み込まれているかもしれないですが、
もっと社会が大きく複雑なものになっていくと、
一単語内の情報量というのは少なくなるというようなね、そういった傾向があるっていう話をしております。
これはある意味、我々のステレオタイプ的な考えに違反するようなとこがあって、
いわゆる未開な人々とかね、ジャングルの人々を漫画とかでね、表現するときに、
俺、お前、好き、みたいなね、なんかこういう片言っぽい言い方で書かれたりするわけですよね。
今あんまりないかもしれないですけど、かつてそういう表現があったりしたと思うんですよね。
そういう文明が進んでいないようなところの人々の言語っていうのは、
俺、お前、好き、みたいに、女子もなければただ単純に単語を並べただけみたいに表現されることがあるんですが、
それとは逆に、一単語における情報の数が多い、もうちょっと別の言い方をすると、
形態層の数が多いっていうふうなことが言われております。
その理由については関連エピソードで詳しく話しておりますので、ぜひ聞いていただけたらと思います。
ここで複雑って言ってるのは、どういった意味で複雑と言ってるかというと、繰り返しですけど、
一単語における形態層の数っていう側面で言ってるんですね。
ポリシンセティックな言語とか言われたりするんですけど、
そういう一単語、主に動詞だと思うんですけど、一単語におけるパーツの数が多いのが複雑だっていうふうにここでは言ってるんですが、
また別の面で言語っていうのは複雑ということができます。
それは埋め込み文とか言われるもので、文の中に文が入っているみたいなものですね。
文の埋め込み
例えば、彼が来た。これが一つの単純な文となってるわけですけど、
彼が来たのを見た。こうすると、彼が来たっていうのが、見たという動詞の目的語になってるというか、埋め込まれてるんですよね。
文がある文の成分になってるということです。
こういうのは埋め込みと言われることもあれば、従属説と言われることもあります。
さらに、こういう埋め込みっていうのはどんどんどんどん、マトリオシカみたいに繰り返すことができて、
彼が来た。彼が来たのを見た。彼が来たのを見たと言った。
まだいけます。彼が来たのを見たと言ったと聞いた。
やろうと思えば、いくらでも埋め込んで、文を拡張していくことができるんですよね。
こういう生産的に文を埋め込むことができるっていうのが、言語の一つ特徴だと言われることもあります。
が、このような文の埋め込み、あるいは従属説の使用っていうのは、
複雑な社会で見られる傾向があるという説もあるんですね。
なので、彼が来たのを見たと言ったみたいな複雑な構造っていうのは、複雑な社会で見られるということです。
さっきの場合とちょっと逆ですよね。
で、今回参考にしているのは、その関連エピソードの時と同じなんですけど、
言語が違えば世界も違って見えるわけっていう本を参考にしております。
ぜひこちらもね読んでいただけたらと思うんですけど、
そういうふうに、彼が来たのを見たと言ったみたいに、
こういう従属説の使用がなぜ複雑な社会に見られるかというと、
複雑な社会っていうのは、
身内だけじゃなくて多くの見知らぬ人、他人と接触することになります。
そういった場合は、そういった社会では、
共通の背景とか知識に頼らずに情報を伝える必要があると。
そういった場合は、従属説に頼った、
彼が来たのを見たと言った、みたいな。
こういった表現が、見知らぬ者が多く集まるような社会では向いてると言うんですね。
この点についてはまだ調査が必要だそうですけど、
そういった傾向があるということなんですね。
これもなかなか面白いですよね。
言語の複雑性と社会
日本語の場合は、今言ったように、
埋め込み文というのがどんどん繰り返すことができるし、
英語の場合も、ザッと説の中にザッと説というのは当然できます。
そういった構造が単純な社会、
身内同士の共同体の言語では見られないという説があるんですね。
ですので、言語を平等に扱うという姿勢は大事ですけど、
その平等に扱おうとしすぎるあまりに、
あらゆる面で言語というのは同様に複雑だというのは、
ある意味ちょっと危険なところはあるというお話でございます。
ぜひ関連エピソードも合わせて聞いていただけたらと思います。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローも忘れずよろしくお願いします。
お会いしてはシガ15でした。
またねー。