おしゃべりな理科
おしゃべりな理科。この番組は、本来、小学校理科の授業役の方についておしゃべりしているラジオなんですけれども、
今回は、休み時間という、休み的な回になります。
休み時間では、理科や授業をちょっと離れて、学校や教員生活についてあれこれおしゃべりしていきます。
今日のテーマは?
今日のテーマは、前にあれですよね。
木月先生、学校、若い先生に
バレた話?
バレた話。
初めてバレたらしいんですよ。
このポッドキャストが宣伝してなくて、初めてバレた。
校内で?
校内で。一緒に組んでる先生に。
あれって?
学校では言ってなくて、私。教科書も違うから、会社が。
わざわざ言わなくてもいいんじゃない?だから言ってないんだけど。
うち5クラスあって、理科の講師の先生もいる。
私は自分が理科やりたいから、いわゆるT1って主指導。主で指導、理科を教えるのと、T2ってサブで。
2人先生いるんだけど、講師の先生と自分で。T1、T2に分かれるじゃん。
そうなんですか。
そうなんです。で、私は自分がやりたいからT1をやってます。
で、他の先生たちはどうしますかってなった時に、講師の先生がT1をやってるんです、メインでは。
で、一緒に組んだ若手の先生が、で、あなたはどうする?ってなった時に、自分はT1でやってみますって。
素晴らしいと思わない?
今まで講学年初めてで、理科やったことないから、教わりながらやりますって言って。
っていうこの子にバレたんだけど。
どうして?
うち9月に長い宿泊があるから、なるべく2学期の探検も入れるところまでは入ろうみたいなところがあって、
今5年生だから、花の作りのところ、花粉を観察するところまでやれるといいねって言っていて。
で、なるべく授業始まる前に導入とかこうやって進めていくよみたいなのは、話したりするんだけど、
その時、彼が授業をやる前にその話をあまりできなかった。
彼は入りましたかって言われて、入った入ったって言って。
こんな風に最初朝顔とか観察する前に、知ってるよねって言って絵で描かせるといいよみたいな話をしたら、
僕も実はやったんですって言って、ごめんねって言ってもっと早く言えばよかったねって言ったら、
いやでも木月先生に助けられたんですって言うから、
え、どういうことって言ったら、その花の作りのところのポッドキャストを見つけて聞いてた。
嬉しいっすね、よくぞ。
よくぞ見つけたなと思って。
どうやって見つけたんすか?
でもだから、教材研究をしようと思って多分その単元化なんかを調べたんじゃない?
そういうので結構教育技術の記事とか見つかったりすることあるけど、
まさかのポッドキャストが見つかると、おしゃべりなりかが引っかかったんだと思う。
結構すごい見つけ方ですよね。
そう。
びっくりしないですかね。
なんかこれゼロから見つけた人初めて出会ったなと思って。
何これみたいな。
そうそうそう。
木月先生じゃん。
そう、って思ったんだろうね。
コイッと。
何これって面白い。
だから今日こっそり言っといた。
めっちゃびっくり。
今日収録行ってくるんですよ。
すっげえびっくりするよね。
そうだよね、きっとね。
隣の先生がネットから飛び出してる。
すっごいよね。
内緒でしたかって言われて、いや別に内緒にしてるわけじゃないんだけど。
それぐらいの感じになるね。
そうそうそう。
すげえ。
初めて見つけられた。
おもろい。嬉しいっすね。
嬉しいし。
しかも役に立ったんだったら。
男ですよね。木月さんがやらなくても木月さんがやったって。
そうそう。私が教える前に同じことやってた、ちゃんと。
素晴らしい。
それはそうでしょうね。
それはそうだろう。
そのうちアレンジしてくるんだよね。
そうだね、きっとね。
辻先生のやってみたんですけど。
あのにさ、教えなくてよくなったってこと。
あ、そうなんだ。それ見てって。
もうこれから先。
意外とそれやってるっていう。
講師で。
ああ、そうそう。相手にね。お別れの時にね、聞いてくださいってお願いするように。
もうバレちゃったから。
話、なんかその場ではもう説明しきれないものいっぱいあるもんね。
だから。
ちょうどいいよね。こうやって。
いや、そうっすよね。
何回も聞いてますって先生とかいますもんね。
あんまり聞かれるとね。
あんまり聞かれるとね。
あらが。
あれ、なんか矛盾してんなみたいな。
この2回聞き分けたんだけどちょっと違うように言ってることがね。
いや、そうですよね。はい。
水井 いやなんかね、そうやって考えてみたんだけど、スイッチは僕が入れるんじゃないような気がして。
子供が入れるんじゃないかと思って。
だから子供、だから相手に応じて自分が変わるって感じ。
だからスイッチ入れるっていうよりは、子供がいたらそのモードになるし、いなかったらそのモードは消えるし。
職員室に行ったら入ってないみたいなね。
だからオートスイッチ、相手によってスイッチが入る。
相手がいないとスイッチは消える。
結構複雑でさ、そのスイッチは。
担任の子供は普段から接してることが多いから。
時間長いですよね。
長いじゃん。
そうすると浅いスイッチっていうか、自分に近い。
自分に近い。
当然長くなる。
ところが低学年で、例えば1回だけ層欠に入ってくださいっていう時は、相手から遠いというか近くないから、スイッチが逆に入りやすいっていうか、深いスイッチが入りやすい。
で、一緒にふざけちゃったりして。
一緒にワーワー言って、今日は楽しかったねバイバイつくって、またどっかで会えるかもねとか言って。
普段会わないクラスに補欠で入ったりする時とかは、そうすると廊下とかでその子たちが稀に会うよね。
その時のモードマンが来るから、俺こういうスイッチ入れてたらなって、我に返るっていうか。
返すぎなんちゃった。
相手によって返すぎたのね。
でもあれですよね。だから、普段日常的に接してる相手に対してはそんなに深いスイッチじゃ。
オートとはいえ深いスイッチじゃなくてっていうのは、なんかそれってすごい当然のことなんだなっていうふうに今ちょっと話聞いてて思って。
それはやっぱり演じるというには過ごす時間が長すぎません?
そうそうそう。だから他人の場合はその分近い。自分に近い。
もしかしたら子供を少しこっち側に引き寄せてる可能性がある。
引き寄せてる。
引き寄せてる。要するに僕はモードをそんなに変えない分だけ、向こうが少しだけこっちに他の子たちよりは寄ってる。
ああ、そっかそっか。
だから折り合いをつけるけど、距離としてはお互い近づいていて、僕の方が近寄ってない。他の子と比べれば。
でも専科の場合はそのモードに入っても普段合わない。週に3時間しか合わない子たちだからそのモードを状況を作ってもいいけど、なんかね不思議なんだよね。
向こうの調子がそんなに良くなければこっちのスイッチも良くない。だから交換系があって。
子供が今日どんな状況かに合わせてこっちもそのスイッチが変わるっていうかエンジンが変わるっていうか、そこは絶対そうだなと思って。
今日の授業調子良かったよなと思うときは大体子供の方が調子が良い。
なるほどね。
あくまで向こう主体だね。
向こう主体だね。だからそれはもう本当に僕は先生になる前と全く想像してなかった。僕はその
どっちかというとプレーする側ですね。
ずっと僕がプレーをして面白いことを考えて面白いことをやって
僕がスイッチを入れる。
そう面白い気持ちを向こうに提供するっていう。テレビ番組のようなつもりでいたんだけど自分が。
逆だなと思って向こうの方に合わせなきゃいけないっていうか、合わせなきゃいけないというか合わせざるを得ない。
まあでもそうですよね。子供の、なんかよく子供のスイッチを入れるみたいな。やる気スイッチとかそういうのもあって。
まあそういうのもちょっと微妙に今それに似てるような似てないような話なんだけど。でもそうですよね。
こっち側がだからスイッチをこっち側があえて導入とかは自分がスイッチを持っていくので思いっきりかって。
そうすると向こうがそれによってグッて入ってくれたりするともうそこからは最強の状況ができる。
だからスイッチをこっち側が入れに行くときも当然ある。導入とか、ここ短髪とか、話題を大きく変えなきゃいけないとか、そういう時は。
だからそこは、6年生ぐらいだと、専科が6年生ぐらいだと、どこでスーって入っていくかが美しく入りたいと思ってて。
なんか普通のモードで来たのに、いつの間にかモードが理科のモードになってて、なんかこう渦のようなうねりがクラスにできて、
そのうねりができたクラスの状況がそのまま広がっていくっていうのを、いかに美しくというか段差なく見せるかみたいなのは、なんかちょっと楽しんでるかも。
あんまり過剰にそれで言うと演じるってことはしないってことでしょうね。
でも最初の1分目と45分授業としては45分目は全く違う。だから自然と入ってるから。
45分のがむしろ。
深く入ってる。最初は何か入ってるのに気づかない。それがくだらないけど、教育実習生が見てるときはそれを見せてやりたいっていつも思ってて。
ちょっとじゃあむしろ大げさに。
大げさにだから、騙される。だから教育実習生も。なんかいつの間にかその世界になってたって言わせてあげたいなと思って。
それがなんか、僕は教育実習生に見せなきゃいけないものは何かって言われたらそっちかなと思って。
はい行くよ!
っていう入り方だと、まあ別に。
まあでも結構そういうイメージ、印象はありますけどね。
そうなるかなって思うけど、でも実際はそういうことじゃないんじゃないかなって気もやっぱりするけど、どうですか?
でも自分も多分若手のときは頑張ってたと思う。頑張って演じてたんだと思う。
なっていうのは引き込もうとしてたりとか必死だったと思うから。
まあでもだんだんそういうのは少なくなってきたかな。
まあ素でいられるような感じにはなってきたし、なんかその方が子どもとの関係も、
なんかなんだろうな、ずっとスイッチが入ってると疲れちゃうじゃないですか。
お互いにね。
お互いにね。だからそこはなんか自然と。
そうですよね。距離はやっぱり、それは授業を受ける側としては、そっちの方がいいなというふうに思いますけど。
だから最初、クラス外して最初の1ヶ月ぐらいは、やっぱりだいぶ演じてるかもしれない。
関係ができるまではね。
演じるっていうことは、自分を守ることでもあるみたいなのもあるんですよね。そういう考え方もあって、
あんまり素でいきすぎると、結構それは仕事の文脈とかでもよく言われることではあるんですけど、
あんまり自分を出しすぎると、それうまくいかなかった時に自分のせいっていうふうに思っちゃったりとか、
多少そのロールプレイじゃないですけど、演じるっていう引きがあった方がストレス耐性的な面ではいいみたいなことを言われたりもすることはありますけど、
いろんな考え方だなとは思うんですけど。
なんか、状況、僕は教育実習生にそれを見せたい理由は、なんか子どもがこれを引き込んだみたいな状況を見せたいんだよね。
ああ、なるほど。
あえて。だから、これこうじゃない、ああじゃないとかって言って、みんなこれって前、あれ?分かんなくなっちゃったとかって言ったら、
なあ、先生これじゃん?とか言って、あ、そうそうそうそう。え、え?とかって言って、ちょっと僕が引っ張り出されたみたいに、あえて僕が引っかけたのに。
引っかけたんだよね、僕はね。あれ?分かんなくなっちゃったって、僕ら引っかけてるじゃん。
そうすると、向こうが、いや先生これじゃん?って言ってくるじゃん。そうすると、僕が言って打ったことになるから、
ああ、ああ、ていうか、もう一回大温度上げると、僕が向こうに引っ張られた状況になるよね。
そうすると引っ張られたから、次子供がもう一個引きにくるよね。そうすると、あとは向こう先手になるから。
どんどんどんどん先手が向こうだから、どんどんどんどん子供主体型の授業に見えるんだよね。
ていう風なものをちゃんと見せてあげないと、先生が状況を作って、その状況に子供を入れて、そして子供のその中で楽しんだとて、
あの先生はそういうのが上手いんだよ、で終わっちゃうから、なんかそれって実習に来ても、本当の姿として見せてもしょうがない。
テレビ番組を見せてるのと一緒だから。
同じことできないなってなっちゃうよね。
だから子供側が引っ張っていくような授業を、だから演じてる、さっき最初と全く同じこと言うのは、
相手によって引っ張られる状況の方が面白いし、逆に言うとその交換系で授業を作った方が面白いから。
引っ張られてるように演じてるんでしょうだから。
そういうことを思いました。むしろ最初の方が演じてるのかなっていう感じが。
だから二次元に演じてる。
自然派の演じ。
演じを二回入れてる。
乗ってきちゃえば別にそれに応えてればいいだけだから、みたいな風にも聞こえたけど。
それはそっちの方が僕はいいなと思ってて。
二回演じてるのかな。
そうだね。
それは確かに状況に応じてですよね。過剰にやった方がいい時もきっとある。
あと子供の側も、どうなんすかね。分かってる子もいそうな気がするし。
それってある種一つの舞台を演じてるっていうか。
ステージに乗っちゃうやつもいれば客席の中でチレッと。
演じてるんだな、じゃあこれはこういうあれだから乗ってくかとかみたいなこともありそうな気はしますけど。
教室という空間においてはなんとなく。
状況を作るっていうことなんだよね。だから状況を作るっていうことを共にやってるから。
もちろん僕は作る側にも行くけど向こうも作る側にいるっていうから一緒のものがそこにあるっていう。
演じるそういうことだね。
環境とかね雰囲気を作ってるっていうのは確かにあるかなって。
子供が言いやすいようにとか気づきやすいようにとか。
その工夫の一つかもしれないけどね。
つまり学級も演じてるもんね。つまり子供たちだって。
学級にいる子供たちと家にいる子たちが違うって。
そりゃそうなんすよね。
そのロールプレイというかその中に入って役割を果たそうとしてる時点で演じるっていうか役目を果たす。
そうなんですよ。だからこれは結構もう何年くらい前かな。
20年くらい前の本になるんですけど、小説家の平野圭一郎さんという人が
個人とは何かっていう本を結構有名な、これは新書なんですけど、という本の中で
ちょっと書名もしかするとちょっと違うかもしれないんですけど
文人っていう考え方を提案していて
それ結構知られるようになった考え方なんですけど
個人というのが今それまではすごく一番最小の単位だと思ったじゃないですか。
だけど平野さんが言ったのは本当に個人って最小単位なのかと。
つまり先生だったら学校にいる時の自分と家にいる時の自分。
これって学校の時にいる自分は演じているから嘘の自分っていう風につい考えちゃうけど
でもどっちも本当の自分なんじゃないのっていうこと。
だからそれは学校にいる。
文人の分で分けると。
分ける。インディビジュアルをさらに分けるっていう意味で
だからどっちの自分だって本当の自分だから、だからそれが学校の文人。
家にいる文人。
面白い面白い。
確かにそれはそうですよね。友達といる時の自分と会社の同僚といる時の自分と
それは違うけどどっちも本当の自分だぜっていう感覚はやっぱりあるから
そういうことなんじゃないかっていう話なんだろうなっていうのを。
めっちゃ勉強したよ大学の時とか。
何を?文人を?
文人じゃない。その言葉はきっと文人っていうのはカルチャー側の言葉。
心理学とかでは僕ら教える時に構成主義っていうのの中に社会的構成主義っていうのがあって
そこはその感主観って言ってその主観はそのそれぞれの中に主観があると思いきや
感主観、間にしか知識がないみたいなちょっと極端に言ったけどね。
間にしか知識がないから多分その関係性の中でその地は成り立ってる。
だから学級という関係性の中でその地は成り立ってるけど
家庭という環境下においてはこの違う地が成り立つみたいな
その子自身は同じ地を運んでるわけではない。地っていうのはブラッドじゃなくて
知識の地を運んでるわけじゃなくて間の中で形作ってる地があるから
これと多分ね僕はその一緒に勉強した状況論
状況によって子供や学習者はその学ぶっていうところと全く一緒で
だから多分状況を作ってるんだよね。僕らはね。
だからその状況の中で子供が学ぶっていうことを通して
だからややこしいのはその状況から出てもその知識が運ばれないことがあるっていう
転移が難しいってことでしょ。
いやそうですね。
でも違う状況の中でもそれが運べる状況にすることも僕らの仕事だから
あまりその状況を作りすぎることは良くないという言い方もできなくはないけどね。
なんか多分すごく演じる本当に過剰に演じる人とかも多分いて
そういう人ってなんだろう社会的な
例えば先生だったら先生っていうのはこういうものとか
こういうことなんだっていうので演じてる人もいると思うんですよ。
もちろん。
でもそれって要はそっちにその社会的なイメージの方に合わせにいってるから
なんかやっぱどこまで行っても
多分ちょっとこう子供からしたら取り付く暇がなかったりとか
この人ってどういう人なんだろうっていうのが最後まで分からなかったりするみたいなことが
もしかしたらあるかもしれないなとか
なんかそういうことなんだろうなっていう気はしますけどね
まあでも会社とかにもねそういうのは感じることは
そういう瞬間とかはあったりして
でももうちょっと知りたいなとか思うことはあったりするとか
中身ちら見せしてね
それはだからどこまで出すかっていうことなんでしょうけど
でもその人に言わせるとそれが本当の自分なんだっていう風にも言われちゃうかもしれないけど
だけどそうですね
コミュニケーションはどっちと取れるかっていうとちょっとね
出してくれた方がっていう風に思ったりはするけど
逆に子供はさっきはおのずとできちゃう状況