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#322 消えない証しの実 25/4/19
2026-04-19 27:40

#322 消えない証しの実 25/4/19

ヨハネ15:9-16からの礼拝メッセージ。2026年4月19日録音。

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サマリー

このメッセージは、ヨハネ15章9節から16節に基づき、「消えない証しの実」と題して語られています。イエス様は、弟子たちがご自身の愛にとどまること、それはイエス様の戒め、すなわち互いに愛し合うことを守ることだと教えます。この愛の模範は、イエス様が十字架でご自身の命を捨てられた自己犠牲の愛にあります。また、イエス様は弟子たちを選び、世に遣わしたのは、彼らが「残る実を結ぶ」ためであり、それはイエス様を信じて弟子として残り続ける人々を意味します。最後に、イエス様が私たちを選ばれたのは、神の一方的な選びであり、良い行いをするために神の作品として造られたことを強調し、その恵みに感謝して歩むことを促しています。

はじめに:聖書を読む喜びとメッセージのテーマ
ではお読みします。ヨハネン15章9節から16節。
父が私を愛されたように私もあなた方を愛しました。私の愛にとどまりなさい。
私が私の父の戒めを守って父の愛にとどまっているのと同じように、あなた方も私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっているのです。
私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方が喜びで満ちあふれるようになるために、私はこれらのことをあなた方に話しました。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。
私がいのちじることを行うなら、あなた方は私の友です。
私はもうあなた方をしもべとは呼びません。
しもべなら、主人が何をするのか知らないからです。
私はあなた方を友と呼びました。
父から聞いたことをすべて、あなた方はあなた方に知らせたからです。
あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選び、あなた方を任いのちしました。
それは、あなた方が言って身を結び、その身が残るようになるため、
また、あなた方が私の名によって、父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
以上です。
今日はこのところから、消えない証の実と題して、寝言葉からお話いたします。
皆さん、おはようございます。
4月の第3日曜日ですけれどもね、晴れやかな日となりました。
そして、例年よりもですね、暑い春となってまして、
今日も初夏のようなんですね、陽気ですけれども、
まだ晴れやかで、エアコンなど入れずにですね、快適に過ごせますことを感謝しています。
さて、今日の箇所はですね、先週から続くブドウの木といいますか、
とどまることと身を結ぶということの話です。
実はイエス様は、今日の箇所ではですね、
とどまることについて、新たな、そして具体的なことを教えてくださっているんですね。
そしてそれと同時にですね、
イエス様は、今日の言葉をずっと読んでいくと、
とどまるということについても、新たな意味を語ってくださっています。
実はですね、こうやって聖書を読み進めていくうちに、
今まで書かれていたことの意味がはっきりする、そういうことがあったり、
また今まで書かれていたことに、もう一つこういう意味があったということを発見したりする。
実はですね、これが聖書を読む楽しさでもあるんですね。
ですから皆さん、聖書を読むときに、少しわからないなーってことがあっても、
続けて読み進めていって、こういう意味だったっていうことをですね、
見つける、発見する、そんな体験や喜びを味わっていただければ、
おうちでですね、そんなことを願っております。
さて、そんな中で今日は三つのこと、とどまること、実りについて見ていきます。
消えない証のみということで。
第一のポイント:とどまることの新しい意味
まず最初はですね、とどまるの新しい意味ということを見ていきましょう。
イエス様が15の9、10でこのように言っておられます。
父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しました。
私の愛にとどまりなさい。
ここから読んでみましょうか。
私が私の父のいましめを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、
あなた方も私のいましめを守るなら、私の愛にとどまっているのです。
少し解説しますけれども、ここでですね、イエス様は、
イエス様にとどまりなさい、ということで先週から言っていますが、
その意味はですね、イエス様の愛にとどまることだと言い換えていますね。
そしてさらに、イエス様の愛にとどまるとは、
イエス様のいましめを守ることだとさらに言い換えています。
実は、イエス様はですね、これまで話してきたように、
ご自分と父なる神様との親密な関係、
そしてこの地上においてイエス様は、父の御心を行う、従う人生を全うした、
そういう関係になぞらえて、今度はイエス様と弟子たちの関係を解説しています。
繰り返しますが、イエス様にとどまるとは、
イエス様が父を愛したように、イエス様の愛にとどまることです。
そしてイエス様の愛にとどまるとはどういうことですかというのは、
イエス様のいましめを守ることだ。
さらに進んで、こう言ったんですね。
読んでみましょうか。15章12、13、3。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これが私のいましめです。
このように見ると、私たちがとどまるべくイエス様のいましめは何かというと、
互いに愛し合うことです、ということに行き着くわけですね。
過去の13章の34節、5節などのメッセージなども照らし合わせてみていただくとわかるんですけれども、
その34、35節、13章34、35では、私はあなた方に新しいいましめを与えます。
互いに愛し合いなさいということを言いましたよね。
何が新しいか今割愛しますけど、その時のレジュメみたいな音源を聞いてください。
そのことを繰り返して、互いに愛し合うことがイエス様のいましめであって、
それを守ることがイエス様にとどまることだという。
先週の御言葉や祈りによってイエス様とどまるという話をしましたけれども、このようにわかるわけです。
そしてさらに大事なことは、その模範として、私があなた方を愛したようにとあるように、
この互いへのキリスト者同士弟子同士の新しい愛ということについての模範として、
イエス様の愛があるということが大事なことですね。
前も言ったこれでも新しさでもあったわけです。
そしてイエス様はその模範としてどんなことを言っておられたかというと、
この後の続きの13節から15節を抜きがきしますとこう言ってますよね。
どんな愛か、人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。
私がいのちじることを行うなら、あなた方は私の友です。
私はあなた方を友と呼びました。
ここで簡単に言いますと、最大の友情は自分のいのちを捧げることですよって言ってます。
そしてその最大の模範として、イエス様が十字架の上で自分のいのちを投げ出して捨ててくださった。
ヨハネの手紙ではここに愛があるのですって言いますけれども、
このイエス様の十字架の自らを捧げる愛が、
キリスト者が自らを特に兄弟姉妹のために捧げる愛の模範だということなんですね。
実はその愛については、今イエス様が語っておられる国別説教の13章の冒頭のところで宣言されていましたよね。
先続のところがありましたよね。
そこでイエスはこの世を去って、父の身元に行くご自分の時が来たことを知っておられた。
そして世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは彼らを最後まで愛された。
この国別説教の13章1節、おそらく最後の晩餐の席で語られたこの国別説教の冒頭でですね、
こういう言葉が宣言され、イエス様は弟子たちの足を洗ってここに至っているということもわかるわけです。
ちょっとすみません、今日空気が乾燥してましたね。
そしてこのようにですね、イエス様は愛する弟子たち、そしてまた世の人々のために十字架の上でいのちを捧げた。
これが模範であるというですね。
でもやはり大事なことはですね、これ私たちが従う模範ですけれども、
この自己犠牲の愛ということですがね、この間ちょっと話題になりましたが、
ハラスメントとか虐待を受けている場合、それを自己犠牲として受け入れる必要がないということですね。
そういう場合もそうですが、ましてやですね、最近話題になっていますある教団がこういう自己犠牲を盾にとって信者に高額な献金を要求したり、
ただ働きをさせる、そういうことが宗教としてあってはならないわけです。
そういう不健全な自己犠牲というものを、教会はですね、見抜くことができますから、相談していただければそれは違うということもできますし、
もちろん教会を介してもそうですけれども、そういう不健全なハラスメントや虐待ということがあればですね、
福祉や医療や、そして法律の専門家に相談するということも必要かと思います。
それは大前提として言っておきますけれども、一方で、それは大前提とした上で、成熟した人は、クリスチャンであってもそうでなくても、
自分を脇に置いて、自分の権利をちょっと脇に置いて、人のために捧げる、差し出すことができる、それが成熟した人の資質ということもできるわけですよね。
時に存続暗示をすることがあったりとか、あるいは今よくね、テレビよくあるのはお得情報ですよね。
安売りなんかするとね、スーパーで行列が回転セールなんていうことね、教会の周りにはありましたけど、そういう情報に敏感になることも大事ですけれども、
それだけじゃなくてですね、私たちはですね、イエス様の弟子はですね、イエス様に習って他の人の足を洗う、あるいはいのちを捨てるまで大げさなことはできないとしてもですね、自分の権利を他人のために譲る、健全に譲るということも必要かと思います。
それをどの程度まですることが自分の許容範囲かって知ったりですね、そしてどこまですべきかということを知っていくのもですね、人間あるいはクリスチャンの成熟だと思います。
まあそういう迷う中で相談を受けたりもしますけどもね、基本はイエス様ほど行業縮できなかったとしても、誰かのために自分の権利を譲って控えていくということ、互いに愛し合うということがキリスト者の中で求められていく質であるかということなんですね。
そしてただですね、こう聞くと窮屈に感じちゃう。歯を食いしばって嫌々ながら何かを捧げるんじゃないかと思うかもしれませんが、イエス様はこのように言っておられましたよね。
15章11節を読んでみましょう。
私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方が喜びで満ち溢れるようになるために、私はこれらのことをあなた方に話しました。
このイエス様に従うライフスタイル、あるいは時にそのように他人のために自分を譲るということは、喜びをもたらす、それが満ち溢れる経験だとイエス様は言っておられるんですね。
もう一つですね、イエス様は15節でこう言ってますよね。
15の15、私はもうあなた方を下辺、文字通り訳すと奴隷とは呼びません。もし奴隷なら主人が何をするのか知らないからです。私はあなた方を友と呼びました。
父から聞いたことをすべてあなた方には知らせたからです。奴隷というのは主人に言われたことを右から左にするだけですよね。
でも、しもべじゃなくて友はなぜそれをするのか、それをするとどんな良いことがあるのか、なすべきことの深い意味や素晴らしい約束まで教えてもらえる。
それが友の証であって、それがイエス様が私たちに、弟子たちにした奴隷ではない友であるあなた方にしてきたことだということも聞くべき言葉じゃないかと思うわけです。
第二のポイント:身を結ぶことの新しい意味
一番最初は、とどまるの新しい意味ということを見ていきました。
2番目、身を結ぶの新しい意味を見ていきたいと思います。
15章16節でイエス様はこのように言っていますね。
あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選び、あなた方を任いのちしました。
それは、あなた方が言って身を結び、その身が残るようになるため、
また、あなた方が私の名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
ここの部分で、新しい身についての教えが語られています。
実は、とどまる人の結ぶ身のりについて、ここでは、残る身と言っています。
残る身というのは、新しくイエス様を信じて救われる弟子のことを意味しています。
消えない身という、今日のタイトルはそれとも関連して言っているのですが、なぜそうやって理解できるかということを簡単に説明しますね。
この16節の前半部分で、選んで任いのちした、そして言って身を結びという言い方をしています。
これを簡単な言葉に言い換えると、弟子たちの選抜と任いのち、そして派遣が言及されています。
そして、それは後の弟子たちによる選挙活動を意味しているのです。
ある人は、これはヨハネの大選挙いのち令だという人もいるのです。
そして、その派遣によって結ばれた身のりが、残ると言っているじゃないですか。
その身が残るようになるためと書いてあります。
そこから理解する。
実は、この残るという言葉は、今まで話してきました、とどまるという、元のギリシャ語のとどまると同じ、メノウという言葉が使われているのです。
ですから、残る身とは何ですかと言ったら、この十二弟子と同じように、イエス様にとどまり続ける人たち。
それを意味しているのです。
ですから、イエス様の弟子。
イエス様を信じ、信じてさよならじゃなくて、弟子として残り続ける人のことを、このとどまるという言葉で意味しているわけですね。
繰り返しますが、新しい意味の身のりとは、ここではイエス様を信じて、救われて、弟子となる人たちを意味しているわけです。
そして、私たちが証しの働きを通して、残る身が与えられるように祈るときに、それが与えられる。
前にちょっとお話ししましたが、名古屋で学生向けに4年ほど、係数教の伝道団体で働いたことがあります。
この間も言いましたが、非常に先祖との結びつきが強くて、イエス様を信じてもやめてしまう人がいるんですね。
もう本当に今、豊臣兄弟なんかやってますけど、あそこに出てくる地名がキオスとか残ってて、信号の交差点名でその辺の大型とかのびどめがありますけど、オゲハサマっていう信号名が残っててびっくりしたことがあるんですね。
その中で、イエス様を信じても大学卒業したら信仰も卒業する人がいっぱいいたので、その時にこの御言葉から、残る身が与えられますようにって祈ってたんですね。
そしたらある方がイエスを信じました。その方は家に帰ったら、親に相当強く反対されたんですね。
ただその方は幸いなことに近所の教会につながっていて、そのことを牧師に相談したんです。
牧師よ、さすがだな、イエス様を信じて家族の反対があるのは当たり前、来週見てきますけど、迫害があるのは当然なんですよって言ったら、その方は若干、19くらいの人ですけど、受け入れたんですね。
それで、一応家族が理解があったかもしれませんけど、教会に行き続けて結婚もされて、今も教会に残っておられます。そういうことが起こります。
私たちがイエス様を証ししていく中で、残る身というものが必ず与えられていく。そのことを信じていきたいと思います。
前後しますけれども、私たちがイエス様を信じる人々が残る身になるということはハードルが高いですけれども、このイエス様の約束を信じて、残る身が与えられますようにとやはり祈っていくということも大事なんじゃないかな。
その時に私たちの思いを超えて、神様がこの御言葉通りに、時にはうちの教会かもしれませんし、よその教会でずっと残っていく。その身が与えられていく。そのことを信じて、祈り証ししていくお互いであり、教会でありたいと思います。
第三のポイント:名誉ある選抜と任命
3番目、名誉ある選抜と任いのちということですね。繰り返しますが、この自由保障の16節前半読んでみましょうか。
あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選び、あなた方を任いのちしました。
最近、国の内外を問わずブソなニュースが多いですけれども、明るくはないですけれども、ちょっと話題のあるニュースが昨日ありましたね。
リクルーペアが引退したと。速報で朝ニュースでやってましたけれども、今年はですね、ミラのプルティナオリンピック、パラリンピックがあったり、あるいは野球でWPCがありました。この先にはですね、サッカーワールドカップがあるわけですね。
代表選手に選ばれるというのは非常に名誉なことですよね。実績とその実力がある人が国を代表する選手に選ばれて、そして大会に派遣されていくわけですよね。
で、そのような名誉のある代表選手に選抜されることですけれども、同じように実はイエス様は主の弟子たちを、私たちを選んでくださっている。そして、使わすと約束しておられるんですね。特別な使いのちを委ねられて、選び派遣すると言っている。
で、それは名誉あることなんですけれども、と同時にですね、私たちは、ある外国人の解説者によると、ブラッグアバウトと言うんですけど、傲慢になってはいけませんと言うんです。私たちはクリスチャンに選ばれた。
で、その理由はですね、キリスト教両語で言うと、選ばれたのは神の一方的な選びです。イエス様の一方的な選びで私たちではないんですよ。実はそのことを旧約聖書の神の民を選ぶ、選んだということに関わる御言葉からですね、神の一方的な選びについて書かれていますので、参考になるので読んでいますね。
まあ、先民イスラエルを選んだ理由を神様はこう言っています。主があなた方を主体、あなた方を選ばれたのは、あなた方がどの民よりも数が多かったからではない。ちょっと長いんですけど、読んでみましょう。
主があなた方を愛されたから、またあなた方の人たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手を持ってあなた方を導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなた方を贖い出されたのである。
ここでカギはですね、この数が多かったからではない、つまりあなた方の資質じゃないんですよと。それは主が一方的にあなた方を愛したから、そしてその契約に誠実であったからですよと。繰り返しますが、神の一方的な選び。今で言えばイエス様の一方的な選びだということですよね。
イエス様の弟子をイエス様が選んだのは、彼らが他の人よりも優位だったからではないですよね。ご存知のようにイエス様のことを知らない、三度も言ったペトローはしっかりそうでしたよね。
それは皆さんがお察しの通りですね、弟子が選ばれたのは他の人よりも優位な立場になって支配したり、我が者側で振る舞うために、ましてや他の人や他の国民を強いてあげるために先民というのがいるわけではないわけですよね。むしろイエス様がこれまで教えてこられたように、互いに使い合いなさい。一番偉い人は下辺のように使える人ですよと。
そしてイエス様同士が互いに愛し合って、イエス様に留まっていく。そうやってイエス様の愛が明かされて多くの実を結ぶということが選ばれた者の特権であり使いのちだということを忘れてはならないんですね。
さりとって私たちは選ばれていることを誇りに思っていく。ああ、この私もイエス様に選ばれているんだ。そういう誇りに思って感謝して受け入れていきます。
先ほどの俺らのスポーツ選手は国を代表する選手でした。私たちは神の国を代表する選手のようにして、神の国を代表する者として選ばれて、今ここに生かされている。それが幸いですよね。
そのイエス様の一方的な選びと使いのちに対する感謝や応答の祈りをですね、ある牧師・信学者がこういう祈りとして紹介しているんですね。レジュメにも書いてありますから後で読んでみてください。
神よ、あなたが私を選ばれたのは、同時に私のために何らかの目的を持っておられるからだと知っています。あなたが心に抱いておられること、勤め、祝福、愛の行い、それらを私に示してください。イエスの名によって祈ります。アーメンという祈りです。
お祈り大事ですね。ちょっと言いたかったのは、いわゆる証を通して人が救われることも大事ですけど、それだけじゃなくて、何らかの勤めや祝福や愛の行いがあるんですよということを知っていただきたいと、この祈りを私たちの祈りにしたいということもあって紹介いたしました。
神の一方的な選び、イエス様の一方的な選びと、神様によって私たちが良い身を結ぶことができる、その約束をですね、使徒パウロが伝えています。その2言葉を最後に紹介して終わりにしたいと思います。エペソの2章の10節ですね。ちょっと長いんですけど、最後頑張って読んでみましょうか。
実に私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリストイエスにあって作られたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えて下さいました。
この約束を信じてですね、祈りまた歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
祈り
天の神様、あなたがイエス様を通してあなたの御心を示して下さいました。どうぞ私たちがイエス様に習って、イエス様の愛にとどまることができますように、互いに愛し合う者となることができるように導いて下さい。
あなたに会って自らを捧げるという、そのことをあなたに喜ばれることとして、健全な行為として私たちが学ぶことができますように、またどうぞあなたに従う喜びをもあなたが教えて下さい。
またどうぞ私たちの愛みを通し、証を通し願うくは、あなたを信じ残る方々が起こされますように、あるいはどうぞあなたが私たちのために用意しておられる良い行いに生きる良い身を結んでいくお互いであり、教会でありますようどうか導いて下さい。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど御言葉に応えて、祈る時間を持ちましょう。
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