2024-12-29 23:29

#244 ブレず揺さぶられない人~キリストの模範と支え 24/12/29

ヨハネ-25からの礼拝メッセージ。2024年12月29日録音。〈本題は()から〉ぶれることも揺さぶられることもなかったイエス様について知り、私たちもそうなれるようにこの箇所を学びます。まず人に隠された7つのものと旧約聖書の言葉をもとにイエス様の神性について考えます:1.人の心を知るイエス様()。次に浅い信仰の問題を取り上げ:2.浅い信仰から成熟した信仰へ()、最後に3.私たちにとって良いこと()、について考えます。

メッセージ原稿はこちらです。https://note.com/nsbc/n/n1c7a32cb67f5

サマリー

このエピソードでは、イエスが人の心を理解する神であることや信仰の成熟について考察されています。また、イエスがエルサレムで行った奇跡と、その結果としての表面的な信仰についての洞察が示されています。さらに、イエスの十字架の受難に対する予告と、父なる神との密接な関係が強調されています。信者はイエスの歩みを見て、様々な誘惑に影響されることなく信仰を貫くことができると教えられています。

イエスの神性の証
新約聖書、ヨハネの福音書、2章23節から25節をお読みします。
過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられた時、多くの人々がイエスの行われた印を見て、その名を信じた。
しかし、イエス御自身は彼らに自分をお任せにならなかった。 すべての人を知っていたので、人について誰の証言も必要とされなかったからである。
イエスは人のうちに何があるかを知っておられたのである。 今日はこのところから、人の心を知るイエス様と題して、
揺れず揺さぶられない人と題してお届けします。
皆さんおはようございます。今日は12月最後の日曜日礼拝となりました。
先週はクリスマス礼拝でしたが、また元に戻って、ヨハネの続きのところから見ていきます。
3つの点を話すんですけれども、人の心を知るイエス様ということ、
そしてそのが神様である証拠がそこにあるということと、2番目は浅い信仰から成熟した信仰へ、イエス様が当時のエルサレムの人たちの信仰を見て信じなかったという背景にあることと、私たちとの関わりを見ていきます。
そして最後に、これらの中で私たちにとってどんな良いことというか、イエス様の福音や恩恵があるのかということを最後に見ていきます。
まず最初ですね、人の心を知るイエス様ということですが、前後しますが最後の2節をもう一回読みます。
しかしイエスご自身は彼らに自分をお任せにならなかった。 全ての人を知っていたので、人について誰の証言も必要とされなかったからである。
イエスは人のうちに何があるかを知っておられたのである。
エルサレムに過越の祭りにイエス様が行かれた。当時、成人男性はなるべくエルサレムに過越の祭りに行くときにもう出るようにという習慣がありましたので、おそらくイエス様も行っていたのではないか。
その中で、イエス様はたくさんの印を記録していませんがなさった。 その中でこういう文言が出てくるんですけれども、何が言いたいか。
イエス様が全ての人の心を知っておられる。 そこからイエス様が神様だということが証言されている。
さらっとヨハネがするように、それとない証言がここにも見られるわけなんです。 その背景を説明しますけれども、これは当時知られていたラビ。
わかりますか、ラビ。 ユダヤ教の教師たちが教えていた文言と関係しているんですね。
簡単に申しますと、シュツエジプト記を解説するときに、 神にはわかっているが人にはわからない7つのことという、そういう教えがあったそうなんですけれども、
その7つのものは何か。 人に隠されている7つのもの。
死の日、慰めの日、裁きの深み。 神の裁きということですね。
報い ダビデ王国の復興の時
罪深い王国、つまりこの時であればローマが滅びる時。 そして他人の心の中にあるもの。
この7つ目の他人の心の中にあるものということが、 今の25節のイエスは人のうちに何があるかを知っておられたのであるという言葉に反映されている。
ここから当時このことを知っている主にユダヤ人は、 イエス様が神だということをそれとなく知る。
そのようにして書かれているわけなんですね。 そしてこれまで
ヨハネの福音書の中で見てきたように、 やはりヨハネは旧約聖書の言葉にも反映させてイエス様が神である。
つまり 全知全能の神の見識
それを持っておられたのもイエス様が神であるという証なんだということを明らかにしているんですね。
そのうちの一つ代表的なのがエレミアの17章の10節です。 神様が預言者を通して語った言葉です。
読めるかで読んでみましょうか。この私から3回。 私主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により行いのみ従って報いる。
ここに神の報いということもありますから、先ほどの7つの 神のみが知る人には知られないということもここに含まれていると思います。
さらっとですけどもこのように私たちはさらっと見ただけではわからない このヨハネが隠しているというかですね、それとなく知らせている
イエス様は神であるよ。ここの部分では全知全能の神の見識 そういうものをイエス様が持っておられるということをそれとなく明かししていることがわかるわけです。
そういうのもねこういう解説知らないと。私もですねよく調べて初めてわかった7つの この秘められたものってもあるんですけども、そういうこともこの聖書でも面白さであるわけです。
それが最初の点。 このところから人の心を知るイエス様はやはり神であられたということが明かされている。
信仰の成熟
2番目ですね、それと関係してくるんですけども、じゃあ人の心を知る神様イエス様
浅い信仰から成熟した信仰へ。2番目は浅い信仰から成熟した信仰へという点を見ていきましょう。
今日の最初の読んだ部分ですけれども、2章23節でこうありましたね。 過越の祭りの祝いの間イエスがエルサレムにおられた時、多くの人々がイエスの行われた
印を見てその名を信じた。 これの何が問題であったか。
それはですね、 イエス様は人々が浅はかな信仰から成熟した信仰へ進むことを願っておられたということがわかるんです。
なぜならこの前に見た最初のポイント、イエス様が人の心を知っておられた。 何を見抜いたかというと、この群衆の浅はかな信仰を見抜かれたということなんですね。
そして彼らを信用しなかったとまで断言されているんですね。 なぜそれがわかるかというと、この23節24節をギリシャ語の原文で見ると興味深いことがわかるんですね。
実は24節、イエスご自身は彼らに自分をお任せにならなかったという日本語訳なんですけれども、これを元のギリシャ語で見てみると
こういう直訳になるんですね。 イエスはご自分のことを彼らに任せなかったというのはですね、イエスはご自分についてとかですね、
まあちょっと自分ってことを抜けますけども、直訳するとイエスは彼らを信じなかったという断言になっているんです。
どういうことかというと、信じるということを意味する、よく新約聖書でギリシャ語で出てくるピステウオーという言葉が、この2つの節に同時に用いられているんですね。
詳しく言うと同じ時制で用いられています。 何かこのちょっとここで解説しますが、
彼らに自分をお任せにならなかったというところは直訳すると、イエスは彼らに自分自身について、彼らのことを信頼しなかった、信じなかったってこんな文です。
その上で、多くの人がイエスの行われた印を見て、その名を信じたって書いてあるんです。
こうやって信じる、信仰ってことが、ギリシャ語を見ると強調されている。
しかも、人々の浅はかな信仰と、イエス様が彼らを信じなかったということが、対比されているというか、それがよくわかるんですね。
ヨハネのこだわりが。そうやって信じることが強調され、群衆の浅い信仰も浮き彫りになっているというのが、この点の特徴なんです。
じゃあ、ここで取り上げられている浅い信仰とは一体どんなものかということなんですね。
それはですね、多くの人がイエスの行われた印を見て信じた。
印を見て信じる信仰だけだと浅はかなということなんです。印ということについては、前2章の一節で、
水が葡萄酒に変わったところで解説しましたけれども、イエス様が神になるメシアである証拠としての奇跡を印って言うんですよね。
いわゆるその奇跡を見ただけで、それでしか信じないという、それを浅はかな信仰と言っています。
印を見たので信じたりすぎないと言い換えることもできましょう。
それが何が問題か。その信じる理由が短絡的だって言うんですね。
なぜかそれは、自分たちの目を引く奇跡を行ったから信じた。
そしてもうちょっと言うと、自分たちの願いを叶えてくれたから、イエスのことを信じたという理由だけなんですね。
有理かどうかだけでイエス様を信じたり、興味深いことをしてくれたエンターテイナー的な方だから信じたという意味での浅はかさなんです。
これはすぐになくなってしまうような信仰で、皆さんもご存知の種まきのたとえでは、
石地の上に落ちた信仰、信仰の上に困難があると根がないから枯れてしまうという、そういう類のものだそうですね。
このようなすぐになくなってしまう、
受難のメシャーであるということを信じられない、彼らの信仰について、
この後ですね、ヨハネの福音書で私たちはいくつか実例を見ることにもなります。その時にそれだって気がつくと幸いなんですけどもね。
実はこの人ね、誰か知ってます?これ学校で習いました?これは誰か。
これは宗教改革者のルターです。ルターがそのような信仰を、ミルクの信仰、
まあ幼子じゃなくてですね、ちょっと幼稚な信仰ということでこう呼び方をしてるんですね。ここを定義しています。
熱心に同意し受け入れ信じるが何か不愉快なことや予期せぬことを聞くと素早く退いてしまうような若い信仰であると言っているんですね。
イエス様はそのようなものを見抜いて、そういう人たちを信頼しなかったとあります。
しかし私たちはそうではなってならないというかですね、やはり信仰ですね、深めていきたい。イエス様を困難の中でも信じていきたいと。
少なくとも私は自分の弱さを知っているだけに願うわけです。皆さんどうでしょうか。
まあそのようなことをですね、励ます聖書のことはいくつかありますけれども、一つだけ紹介しましょう。
ヘブルビートの手紙の6章の1節ですね。 ちょっと難しいかもしれませんけど、これ見て読んでみましょうか。
ですから私たちはキリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。
まあそれがどういうことかということを話すだけでも時間がだいぶかかりますけれども、成熟した信仰、イエス様の受難の道の足跡に従う、
まあ難しい時でも信じるということかもしれませんね。それを目指して歩もうではありませんか。
イエスの模範
最後、しかしですね、私たちにとって良いことも今日の御言葉から知ることができますよということを紹介したいと思います。
実は今日見たこのイエス様のありようは私たちにとっても良いことがあります。
私たちがこのイエス様を正しく知って、そしてその模範に従って歩むなら、
人の評判とかですね、人気とか他人の成功物語などに左右されたり揺さぶられずにいることができる、そういうことがまず一つあるんですね。
どんな模範かというと、イエス様は実はなぜぶれなかったか。
父なる神様の道を知っていたので、人の評判とか自分の人気とかですね、
例えば他人の成功物語などにイエス様は左右されずに済んだということなんです。
それをもうちょっと詳しく見ますけれども、実はこの当時のエルサレムの人たちは、
あることを熱望していましたよね。何を願っていました?
ダビデの子孫であるメシアが来たら、ローマから自分たちを解放してもらえる。
この間シリアが、アサドが亡命したこともあって、
多分いいと思うんですけども、自由になりましたよね、独裁国家が。
それに似たローマの独裁の中で苦しめられていた人たちにとって、
ローマから解放してくれる約束の救い主が来たと思ったんです。
イエス様の受難と信仰
そしてイエス様を王様に祀り上げて、イエス様どうか王として君臨して、
ローマを倒してくださいと多くの人が願い出たというか、申してたかもしれません。
よく言われるのは、弱いのであれば、そういうものに乗っかってですね。
そんなことはなかったんですけども、イエス様が十字架の上で死ぬという、
逮捕されて死ぬという、そういう道は歩まなかったかもしれない。
そういう誘惑があったわけですね。
でもイエス様は苦しい受難の道を歩んだ。
そういう自分をもてはやす行為を知りづけて、
そして人々の心の中にある浅はかな信仰や間違ったメッシア観を見抜いてですね、
そういうものを知りづけた。なぜかそれは、父なる神様と密接な関係を持っていたから。
前後しますがそのことをですね、ずっとヨハネは一書一節から、
イエス様と父なる神様の密接な関係を豊かな表現で、
教えてきましたけれども、このようにイエス様は、ここでもわかりますけれども、
自分の十字架を予告して、そういうものを知りづけるかのごとく、
イエス様はあるとき群衆にこのようにお話ししているんですね。
失礼しました。ごめんなさい。皆さんのレジュメのですね、
8章28節ですね。ここに書き、ありました。ごめんなさい。前にありました。
イエス様はそういう群衆に対して、自分が受難のメシアであり十字架にかかるということを予告した上で、
それとなく言及した上でこう言ったんですね。あなた方が人の子、イエス様ご自身を挙げたとき、
十字架につけたときですね。私が自分からは何もせず、父なる神が私に教えられたとおりに、
これらのことを話していたことを、あなた方は知るようになります。
イエス様が父なる神様の見心の通り歩んだこと、見心の通り教えたということを、
イエス様が十字架の上にかかったときにようやくあなた方は知りますよと伝えた。
これは受難の予告と同時にですね、どれだけイエス様が父なる神様の心を知っていたか、
深い関係を持っていたかということが明かされています。
だからこそイエス様は群衆のそのような声に翻弄されることなく、
ぶれたり揺さぶられることなく、父なる神様の道をまっすぐ進んで十字架へと向かっていくことができたんですね。
ですから私たちもそのようなイエス様のありようを知っているならば、
様々な評判とか、他人の成功とか、いろんなものが渦巻く世の中ですけれども、
その中でイエス様のこのような歩みを見て、ぶれたり揺さぶられることなく進んでいくことができる、そのように言えたわけなんですね。
イエス様との関係
次に、このことをちょっと見ていきたいんですけども、
最近はですね、いろんな点でカスタムメイドというのが流行っていますね。
自分専用のスマホケースを作ってくれる、そういう会社があるそうです。
あとですね、あの辺に家具の有名な会社がありますよね。
ニトリもお店ではあれなんですけど、ネットで自分の好みのですね、部屋にあったオーダーメイドの商品をですね、作ってくれたりする。
そういうオーダーメイド、カスタムメイドというのが流行っています。
私たちご利益信仰は良くないんですけれども、このイエス様はですね、マニュアル通り人を
門切り型の方法で助けるというのは、そんな方じゃないんですね。
それぞれの人の心を知って、私たちそれぞれの状況を知った上で、それにふさわしい手の差し伸べ方をする。
そういう救い方をするのがイエス様なんです。
その実例がこれから出てきますよね。ニコデモという人との会話ですとか、サマリアの女性との会話とか、会員の場で捕らえられた女性とのやり取りなんかもあります。
そのようなイエス様は、私たち一人一人の心をご存知であり、問題を知った上で、私たちを救ってくださる神様なんですね。
だからそんなことは皆さんないと思いますけれども、誰かの証を聞いて、自分もこうであったらよかったな、どうしてこの世の同じことが自分に起こらないのかなと、
嘆き悲しむことがあるかもしれませんけれども、失望する必要はないんですね。私たちの心を知ってくださっているから。
そして、そういう私の心を知っておられる、状況を知っておられるイエス様。
だから私たちはイエス様に信頼して、正直に自分の胸の内を打ち明ける、問題を打ち明ける、率直に祈ることができるんですね。
具体的にイエス様このことを助けてください。 私たちは成熟した信仰を目指して、
イエス様の十字架を背負って歩んでいくということがあるかと思います。 そしてその時に苦しいことが起こる。
でもその時に信仰を捨てずに、困難な時こそ神様に信頼する。
そういうことを呼びかけていく、この聖書の言葉があるんですね。 その中の一つ、
ヘブル人の手紙の十七章六節を最後、皆さんにご覧いただいて終わりにしたいと思います。
信仰はなければ、神に喜ばれることはできません。
国連でみましょうか。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には、報いてくださる方であることを信じなければならないのです。
このように、神様がおられて、そして私たちに報いてくださるということを、困難の中でも信じながら歩んでいくお互いであり、
教会でありたい、そのような新しい年を迎えるお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。イエス様は、人の心をご存知であり、また私たちにその信仰が深まっていく、成熟し、
あなたの道を歩むことを願っておられると知ることができました。 私たちは日々の生活の中で、
喜びもあり、また苦しみもありますけれども、どうかそれぞれ時に応じて、あなたの御前に、あなたを信頼して、正直に胸の内を打ち明けることができますように、
あなたの救いを期待して、祈り、そしてあなたが手を差し伸べてくださった時に、その救いの御業を悟ることができるように、どうか導いてください。
そして揺さぶられず揺るがない、そのような歩みを、あなたと共にすることができるよう、新しい一年も導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
それでは1分ほど、イエス様にお祈りするそのような時間を、黙祷の時間を持ちましょう。
23:29

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