ヨハネ-22からの礼拝メッセージ。2026年8月2日録音。(聖書朗読は()まで。導入は()からです)人間の悪意を突き抜けて実現する神の救いの計画が実現する。今回の箇所はその実例です。本来無罪なはずのイエス様は、ユダヤ人の指導者の理不尽な訴えとそれに押し切られたピラトの決断によって十字架に架けられることになったのです。しかしこの不当で悲惨な出来事を通して、著者ヨハネはイエス様の王としての正式な就任式の場面を描いているのです。その中身を知り信仰生活の支えとなることを願い次の三つの点を取り上げます。(1.正式に王と宣言されるイエス()、2.十字架を背負い道を進むイエス()、3.真ん中の十字架に架けられたイエス())
原稿を読む(文字起こしが正確ではないのでこちらをご覧ください)十字架と王位:ヨハネの福音書19:13-22|Kishio
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サマリー
本メッセージは、ヨハネ19章13-22節に基づき、イエス・キリストが十字架につけられる場面を描いています。本来無罪であるはずのイエスが、ユダヤの指導者たちの訴えとピラトの妥協により十字架刑に処されることになります。しかし、この出来事は人間の悪意を超えた神の計画であり、イエスがユダヤ人の王として、そして世界の王として就任する瞬間でもありました。イエスは自ら十字架を背負い、最も栄誉ある中央の十字架にかかることで、私たちの罪を贖い、救いの道を開かれました。この十字架の出来事を通して、人間の悪意や悲惨な状況の奥に存在する神の支配と救いを信頼することが強調されています。
朗読と導入
朗読します。ヨハネノ福音書19章13節から22節。
ピラトはこれらの言葉を聞いてイエスを外に連れ出し、指揮し、ヘブル語でガパタと呼ばれる場所で裁判の席に着いた。
その日は過越の備えの日で、時はおよそ第六の時であった。
ピラトはユダヤ人たちに言った。
「見よ、お前たちの王だ。」
彼らは叫んだ。
「覗け、覗け、十字架につけろ。」
ピラトは言った。
「お前たちの王を私が十字架につけるのか。」
祭司長たちは答えた。
「カエサルのほかには私たちに王はありません。」
ピラトはイエスを十字架につけるため、彼らに引き渡した。
彼らはイエスを引き取った。
イエスは自分で十字架を追って、ドクロの場所と呼ばれるところに出て行かれた。
そこはヘブル語ではゴルゴダと呼ばれている。
彼らはその場所でイエスを十字架につけた。
またイエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に他の二人のものを一緒に十字架につけた。
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。
それには、ユダヤ人の王、マザレジンイエスと書かれていた。
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。
それはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。
そこでユダヤ人の妻子長たちはピラトに、
ユダヤ人の王と書かないで、このものはユダヤ人の王と自称したと書いてくださいと言った。
ピラトは答えた。
私が書いたものは書いたままにしておけ。
以上です。
十字架と王位:イエスが正式に王とされる
今日はこのところから、十字架と王を意図題していう言葉からお話をいたします。
皆さんおはようございます。
今日も暑い日が続いておりますが、
共に礼拝を守れることを感謝しています。
ご存知のように先月末に、熊本で震度7を超える大震災が起こりました。
ちょうど10年前の4月にも同じ地域で震災が起こり、
その頃、礼拝に集っていたある方が、
実家がそのマスキ町にあって、家族が往復して本当に大変だった。
おそらくそのことを聞いて、
行き来した方は亡くなったことも伺いました。
本当に地震の被害で亡くなった方も心痛いのですが、
いつも地震よりも関連して亡くなる方が何倍も多いので、
これからふさわしい支援がなされるように祈っていけたら、
まだ教会でもできることをさせていただければと思います。
8月最初の礼拝で、先週からピラトとユダヤ人と指導者とイエス様をめぐる裁判の出来事を見てきました。
今日の歌唱では、イエス様がいよいよ十字架にかけられる場面が描かれています。
本来無罪のはずのイエス様は、ユダヤ人の指導者たちの理不尽な訴えによって、
それに押し切られたピラトがやむなく十字架にかけることになりました。
しかし、この著者を書いたヨハネとされる人は、
この不当な裁判を通して、イエス様が十字架にかけられる様子を通して、
イエス様がユダヤ人の王として就任していく、そういうありさまを描いているのです。
王は普通は就任すると王座につきますが、イエス様の就任の場所は十字架だった。
そのことが今日の歌唱から分かりますので、それらのことを中心に三つのことを見ていきましょう。
まず一番最初、正式に王とされるイエスというところを見ていきます。
19章の19から20節、ピラトは在場書きも書いて十字架の上に掲げた。
それには、ユダヤ人の王、ナザレ人イエスと書かれていた。
ここから読めるか読んでみましょうか。
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの在場書きを読んだ。
それはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。
実はピラトがしている一連の行動には苦々しい思いがあった。
自分たちの都合でイエスを死刑にしたいというユダヤ人やその指導者への復讐が彼の言動に込められていた。
この訴えた人々には、もう一つイエス様に対する敵意があった。
そういう苦々しいものが蠢いていった結果の十字架でした。
しかし皆さんご存知のように、イエス様の十字架は神様の計画において必然的な出来事だった。
ここから分かることは、人間の悪意を突き抜けて示されていく神様の御心。
それがここから読み取れるわけです。
そして繰り返しますが、今日の箇所ではイエス様が正式に王に就任するという様子が実は描かれているんですね。
まずピラトがガバダ、イーストユダに就いた。
これは簡単に言うと裁判長の席です。
そしてその後、ミオ、お前たちの王だと、ユダヤ人の王だと、長州に対して宣言した。
これは繰り返しますが、押し切られたとはゆえ、正式な裁判をピラトが開いて、そして判決ですよね。
判決としてローマの権威の下、イエスを犯罪人にした。
その罪状は何かというと、ユダヤ人の王だという罪状だったわけですね。
繰り返しますが、このユダヤ人の王とやむなくしたんですけども、彼は自分の意に反して、
たとえイエスがユダヤ人の王だと主張しても、死罪に値する罪はないと言いましたよね。
なぜ彼は自分の意志をひり返したかというと、ユダヤ人の指導者たちに、
このユダヤ人の王と自称するイエスを十字架につけなければ、あなたはローマの総督でありながら、
ローマの皇帝のカエサルに背くことになる。カエサルの友ではないと言って脅されたんですね。
当時のローマの皇帝は非常に妬み深くて、そういうことが耳に入ったら、
地位はおろか、いのちさえも危ない状況だったんですね。
そういうこともあって、ピラトはやむなく、自分を守るためにユダヤ人の要求を呑んで、
イエスを十字架につけることにした判決を下したわけですよね。
これはどういうことか。
皆さんも自分の意に反して何か支えられるということがあるかもしれませんが、
ピラトからしては、自分が軽蔑している支配民に自分の意思を翻された。屈辱だったんですね。
だから、石返しとして、詳しくは言いませんが、彼らが嫌がっているイエス様を、
ユダヤ人の王だと言って、これ見ようがしいんですね。
こんな惨めな男がお前たちの王なんだぞ、お前たちはその王に従うのか、ざまあみろと思い、
正式にユダヤ人の王だと宣言して、ある目、お披露目したわけですよね。
皆さんご存知のように、どれだけそれが最秘長たち、ユダヤ人の指導者たちが嫌ったかというのがわかりますよね。
彼らは、特に最秘長、ユダヤ人の指導者たちは、ユダヤ人の王と書かないで、
その罪状書を見て、このものはユダヤ人の王と自称したに過ぎないんだと書いてください。
私たちはそんな認めていないから、こいつが勝手に言ったんだという、そういう罪にしてくれと言ったんですけども、
ピラトがこの有名な言葉ですよね、19章22節でこう答えました。
ちょっと読んでみましょうか。
私が書いたものは、書いたままにしておけ。
これは違約なんですけども、私が書いたことは、私が書いたんだと言っています。
What I have written, I have written.
ちょっとわかりにくいんですけども、
俺が書いたって言ったら書いたんだよ、そういう狂弁なんです。
これまでユダヤ人に何回も意思をひるがえされてきたピラトですけども、
最後にようやくここだけ自分の意思を通すことができたわけですよね。
そんなことで何をピラトが書いたかというと、皆さんご存知のように今週から更新始まりますよね。
プラカードがあるように、この材料書きの木のプラカードを書いたわけです。
そしてそこにはユダヤ人の王ナザレ人イエスと書いてあるわけですよね。
繰り返しますが、このユダヤ人の敵意とピラトの復讐心、意地悪が渦巻く中で、
ピラトは正式にイエス様をユダヤ人の王と宣言した。
そして皆さんどうですか?イエス様が救い主になるユダヤ人の王というのは真理ですよね。
それがローマの後ろ盾があったとせよ、正式に公にお披露目された、就任したということです。
3つの言葉、ヘブライ語とギリシャ語とラテン語。
ヘブライ語はイエス様の地域のユダヤ人たちの言葉。
ギリシャ語はローマの公用語です。
ラテン語はローマの言葉ですが、軍人が話したそうです。
皆さんこういうのを見たことあるじゃないですか。
インリって書いてあるでしょ。
インリは何かというと、実はこのラテン語を略した言葉なんですね。
わからないからカタカナ書いておきます。
それの略でインリって書いてあるんです。
これ知っておくと言えますから。
インリってどういう意味かわかるって言うと人に話せるし、ちょっと自慢できますし、証にもなるかもしれません。
とにかくこの3つの言葉でユダヤ人の王イエスということが宣言された。
しかもそこはすごく都の近くで大事な街道沿いだったので、文字通り多くの人が見た。
こうやってこのピラトの宣言を通して、イエス様はユダヤ人の王だけじゃなくて、世界の王だということが宣言されたんだよとヨハネは書いているわけですね。
イエス様は王として、ここで本来なら王座につくはずだったんですけども、屈辱の十字架の上に挙げられました。
しかし大事なことは、こういう人の悪意を通してさえ神様の救いの御心が成し遂げられていく。
そこを私たちの信仰の糧にもできればと思います。
それを第一番目。
十字架を背負い道を進むイエス
二番目、十字架を背負い道を進むイエス様の姿を見てみましょう。
十七節読めるかと読んでみましょうか。
イエスは自分で十字架を追って、どくろの場所と呼ばれるところに出て行かれた。そこはヘブル語ではゴルゴダと呼ばれている。
ゴルゴダはヘブル語で、骸骨のような形しているからといろんな説がありますけども、その場所。
ゴルゴダって言葉から由来になった有名な漫画知ってるでしょ。
ゴルゴサーディンはこのゴルゴダからです。
カルバリーというのも英語で言うんですよね。
カルバリーというのは、このゴルゴダの骸骨というのをラテン語で表現したものを英語読みしたのがカルバリーという意味です。
ここで大事なことは、イエス様が自分で十字架を追ってという言葉なんです。
いつも言ってますけど、ヨハネの副しるし象は他の三つの副しるし象と違う特徴があるって言ってますよね。
何か気づきました?
大事な人は出てこないでしょ。
十字架の横棒を背負った時。
誰出てきます?
クレネジンのシモンという人が出てくるじゃないですか。横棒をイエス様が授けなかった。
でも、おそらくいたんですけども、ヨハネはあえて書かなかったんです。
その代わりにイエス様が自分で十字架を追ってって書いてるんです。
なぜヨハネがわざわざこういう書き方をしたか。
それはですね、やはりこの十字架はまず人間の悪意の結果ではないし、イエス様は被害者ではないんですよ。
そうじゃない。やむなく十字架にかけられたんではないということが強調されてるんです。
つまり、自分でイエス様は十字架を背負ってって書くことによって、
イエス様はこういう姿で不本意かもしれませんけども、神様としてそして本物の王としてこの場を支配している。
自らこの十字架の横棒を背負っているんだという、この神としての意思。
被害者でないということが自分で十字架を追ってという言葉で強調されているわけなんですよね。
十字架刑というのはローマ市民には執行が禁止されていたなぜかというと、残酷だから。
これほど残酷な刑はない。犯罪人を苦しめる刑はないと言われているんですね。
犯罪人は十字架にかかる場合横棒を担ぐんですけども、一説によると形状に穴が掘ってあって十字架の縦棒が立てられている。
そこに向かって横棒を担いでいくんですが、その時に縄でも既に横棒にくくりつけられている。
あるいはもっとひどいのが、釘付けにされて横棒を担いだという説もあるんですね。
そしてどうするかというと、その形状まで横棒を縛り付けられて、釘付けにされて担いでいった死刑囚は立っている横棒、縦棒にそのままこの木と一緒に吊り上げられているわけです。
そうするととても痛いじゃないですか。
手も痛いでしょうし、おそらくもう服を着ていなかったですから、鞭で打たれた背中がこの十字架の縦棒にすれて、一説によると皮が破れ肉が破れ、そしてもしかしたら骨も出ている。
このあいだ言ったように、無中打ち三段階あるって言ってたじゃないですか。
最初の無中打ちは一番おそらく軽い。
おそらくこの時は本当に死刑を早めるための三番目の一番重い無中打ちにあったんじゃないかと言われているんですよね。
これは絵ですから見えませんけれども、痛しい背中を擦りながら、そしてこの棒に吊り付けられながら、縦棒へとイエス様は吊り上げられていくわけです。
そして、まあ詳しくは言いませんが、なかなか死ねない、息も苦しい、そして筋肉も痙攣する、そういう悲惨な死に方を多くの聴衆の前に晒さなきゃいけないほど、十字架というのは悲惨な死刑方法だったんですよね。
しかし何度もヨハネの福音書の中で語られたように、イエス様はこの十字架を何と言っていましたか。
ここで私の栄光が現れる場所と言っていたでしょう。
この苦しみの十字架こそイエス様が救い主としての栄光が現れる場所、王として栄光が現れる場所だとイエス様はおっしゃっていました。
その十字架がその栄光の場として定められていましたけれども、イエス様はその苦しみの中から逃れなかった。
父の御心を行うことが私がこの地に来た衆生いのち題だとずっと言ってきたように、最後の最後になってこの苦しみを知って逃げ出すようなことはしなかったわけですよね。
そして繰り返しますが、当然被害者として哀れな姿で十字架に向かわれたわけではないんですね。
ご自分に課せられた深い神様の定めを受け入れて、しかし王である主として、神として、自らの意思でご自分の支配権を行使しながらあるいは隠しながら、
一人十字架の道へと黙々と向かわれたのですね。
13章の21節、22節でですね、ユダが裏切って外出てきました。
その時に、私は栄光を受ける時が来ましたって言いました。
その栄光の道のりがいよいよ最後の十字架へ向かう道のりとなったわけですね。
そこに黙々と進んで行かれた神なる王なるイエス様の姿をもう一度思い起こしましょう。
真ん中の十字架にかけられたイエス
最後3番目、真ん中の十字架にかけられたイエスということですね。
19章18節読んでみましょうか。
彼らはその場所でイエスを十字架につけた。
またイエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に他の二人のものを一緒に十字架につけた。
おそらくこの両脇の囚人はバラバのようにですね、人殺しの家族、
そして今でいうとテロリストですよね。
イスラエルを解放する、そういう暴力と死によって解放する、
自分たちこそ解放者だ、救い主だとまさに嘘吹いて文字通り犯罪者として二人は十字架にかけられたわけです。
しかしそんな囚人の真ん中にいたイエス様ですけれども、
実はここに王の囚人としてとても大切なメッセージが込められているんですね。
実はですね、ユダヤ人の間ではですね、三人いた場合に一番栄誉ある人は真ん中に置かれたんです。
宴会なんかは一番奥行くじゃないですか、レストランとか行ったらどうぞどうぞと日本人に譲り合いますけど、
そういう一番栄誉ある真ん中にイエス様がいるっていうことが実は大事なのですね。
そして両脇の犯罪者は革いのち家としてですね、
俺たちが王として救い主としてユダヤを解放するんだって嘘吹いたんですけれども、
イエス様は誠の王として救い主、解放者として十字架に着いた。
そして最も栄誉ある方として真ん中の十字架にかかったわけなんですね。
そしてなぜかというと、この栄光の場所でイエス様はイエス様に敵対する人たちの罪や、
この両脇の犯罪者の罪、そして私たちの罪をあがなうために十字架にかかられたわけですよね。
この悲惨な状況とかですね、人の悪意をやはり突き抜けて、
その奥にこの大なるイエス様がやはりこの真ん中の最も尊い場所で
救いの道を開いてくださっている。
そのことがこの十字架の場所からもわかるわけなんですよね。
このようにですね、なかなかないかもしれませんけれども、
私たちの身の回りで人の悪意がうごめくようなことがあったとしてもですね、
また先週も申しましたけれども、
耐えられないようなもしかしたら辛いことが起こるかもしれませんけれども、
実はそういうものを突き抜けて、大なるイエス様がいてくださって、
私たちを救い、またその場を実は支配しておられる。
そこに私たちの信仰の拠り所があるのではないか。
そういう人の悪意や悲惨な状況の奥に突き抜けて、
存在しておられる大なるイエス様、
実は支配しておられるイエス様のことを信頼して歩んでいく教会であり、
お互いでありたいと思います。
このようなですね、人の悪意や不都合を突き抜けるような神様の御業について、
信仰の拠り所と祈り
触れた詩編の言葉を最後に引用して終わりたいと思います。
読んでみましょう。詩編76編の10節3文。
読んでみましょう。
いろんな状況の背後にあるイエス様のご支配を信頼してですね、
歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。
お祈りしましょう。
十字架にかけられたのではなく、神なる救い主、王なるメシアとして、
自ら進んで十字架の道へと歩まれたことをもう一度覚えることができました。
そのあなたの神としての決意また御業があるからこそ、
私たちがあなたを信じ、また人生の王として支配者として
信じ歩んでいくことができますことを感謝いたします。
辛い状況は願わくは起こらないでほしいと私たちは願いますが、
どうかそのような死霊の中にたとえ私たちがあるならば、
その奥におられる、人の思いのそのさらに奥に存在する
王なるイエス様のご支配、また導き、救いを信じて
あなたに信頼し歩んでいく教会であり、お互いでありますようどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主シューイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは一分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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