1. 牧師のバイブルメッセージ
  2. ♯312 究極の愛として 26/2/8
2026-02-08 33:15

♯312 究極の愛として 26/2/8

ヨハネ13:1-11からの礼拝メッセージ。

サマリー

このエピソードでは、イエスが弟子たちに究極の愛を示すために最後の晩餐を共にし、彼らの足を洗う姿が描かれています。特に、イエスが十字架に向かうことが栄光への道であることが強調され、日常生活における罪の許しの重要性にも触れられています。また、イエスの究極の愛が強調され、弟子たちへの愛の行為としての足を洗うことが表現されています。さらに、十字架の死を通じてその愛がどのように表現されるかが論じられています。イエスの愛と私たちの罪について考え、罪を告白することの重要性が強調されています。神に気付かされる時、祈りを通じて許しと清めを確認し、イエスの弟子としての歩みを深めることが語られています。

イエスの十字架の決意
よはねのふくいんしょう、十三章一節から十一節、新改訳聖書でお読みします。
さて、過越の祭りの前のこと、イエスはこの世を去って、父のもとに行く御自分の時が来たことを知っておられた。
そして、世にいる御自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
夕食の間のこと、悪魔はすでに、シモンの子、イス仮庵テのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
イエスは父が万物を御自分の手に委ねて下さったこと、また御自分が神から出て、神に還ろうとしていることを知っておられた。
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。
それからたらいに水を入れて、弟子の足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいで拭き始められた。
こうしてイエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。
「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか。」
イエスは彼に答えられた。
「私がしていることは、今はわからなくても、あとでわかるようになります。」
ペテロはイエスに言った。
「決して私の足を洗わないで下さい。」
イエスは答えられた。
「私があなたを洗わなければ、あなたは私と関係ないことになります。」
シモン・ペテロは言った。
「主よ、足だけではなく、手も頭も洗って下さい。」
イエスは彼に言われた。
水浴した者は足以外は洗う必要がありません。
全身が清いのです。
あなた方は清いのですが、御名が清いわけではありません。
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。
それで御名が清いわけではないと言われたのである。
以上です。
究極の愛の実践
今日はこのところから、
究極の愛としてと題して聖書からお話をいたします。
皆さん改めておはようございます。
埼玉県新座市に私たちおりますけどね、
予報通り雪が降り、積雪も見られましたけど、
道路も車走れましたし、電車もそんなに遅れることなく、
礼拝に来れる方、皆さん集っておられる、そんな中で感謝です。
また、国政選挙が行われていろいろ言われてますけども、
そんな寒い中ですけども、守られましてですね、
礼拝できることに感謝しております。
さて、今日からヨハネ13章に入ります。
そして先週もお話ししましたように、
ここからイエス様の話す相手は弟子たちだけに限られます。
それはつまりですね、
今、私たちの教会に勤っている方々は皆さん、
バプテスマも受けてですね、クリスチャンになられますから、
今の私たちに向けて語られている、
そんなように受け取れると思うんですね。
これを記したとされるヨハネもですね、
そういう意図を持ってこの部分を書き記しているようです。
ですから専門的なことでいうと時勢とかですね、
いつどんな時かってことが曖昧に語られていて、
触れた人が今自分の言葉として、
イエス様の言葉を聞けるようにという配慮がなされています。
そんな中ですからですね、
今日は3つの点を学びますが、
一番最初はですね、
イエス様がですね、
これから向かう十字架というのが
敗北ではないということを知っておられたということですね。
最初は自分の時を知り十字架へ向かうイエス様のことを考えていきます。
そして二番目はですね、冒頭にもありますが、
弟子たちへの究極の愛を示す行為が、
今日のいわゆる先続のところに現れておりますし、
十字架にそれは至るんですけども、
その究極の愛ということを示されたイエス様のことを考えていきます。
そして最後はですね、
ペトローがですね、
手も足も頭も洗ってくださいという、
その答えに対してイエス様が
衰弱したものは足以外は洗わなくてよいよと言ったところからですね、
生涯続く罪の許しということで、
私たちの日常生活と少し関わりになることに触れていきたいと思います。
では最初ですね、
自分の時を知り十字架へ向かうということを考えていきましょう。
3節をちょっと読めるかで読んでみましょうか。
イエスは父が万物を御自分の手に委ねてくださったこと、
また御自分が神から出て神に変えろうとしていることを知っておられた。
知っておられたということが一つ鍵になるかと思います。
で、ヨハネナ福音書の特徴いくつかあるの皆さん覚えています?
私が最近よく引用する1章の1節から18節の部分、
あれはどういう部分かというと、
ヨハネナ全体のテーマをまとめた導入部分でしたよね。
そこに大切な要素が導入として詰まっている。
で、実は今日のこの13章の1節から3節も同じようにですね、
大切な要素がギュッと詰まっている。
何のことに関わるかというと、
13章から17章まで続くイエス様の弟子たちへのメッセージ。
あるいはそこで起こる出来事に関わる大事なことが3節にギュッと詰まっているわけなんですね。
そこからいくつかのことも取り上げていきます。
で、その中の先ほど申し上げましたが、
最後の晩餐は私たちにも語られたメッセージということなんですけれども、
この主題の中からまず最初に見たいのはですね、
例えばですね、ここの13章3節の後半、
ご自分が神から出て神に帰ろうとしていることを知っておられたというところが一つ言えると思うんですね。
これはですね、簡単に言うと、これからイエス様が十字架にかかってしまう。
それはイエス様がですね、敵の陰謀にはまった犠牲者ではないということを表しています。
十字架イコール敗北ではなくて、栄光だとこれまで繰り返されてきたことがわかります。
なぜか、それはですね、イエス様はご自分の時が来たことを知っておられたと言ってるんですね。
ヨハネの福音書をこれまで学んできて知っている方はですね、
イエス様を捕らえようとしたという場面が何回か出てきます。
神殿で教えるイエス様。でも捕らえることができなかった。
時が来てなかったからだって。最低2回は出てましたよね。
その時というのはまさに十字架にかかる時です。
イエス様はそれがまさにご自分の時が今来たということを知っておられたということなので繰り返しますが、
これからイエス様が直面する弟子の裏切り、
そして敵の思惑通りに十字架にかけられるということは、
敗北でもなければ犠牲者でもなくて、まさに神の御心であった。
そして自分がその子に進んでいくんだというイエス様の意思もここで読み取れるわけなんですね。
犠牲者だ、いやいや行くんだじゃなくて、
時、神の御心を知って自ら進んで受難の道を歩んだというイエス様の決意がここからわかるわけですね。
さらにはこのご自分が神から出て神に帰ろうとしていることを知っておられたというところですね。
ここでは十字架が終わりではないんだと。
先週も言いましたが神から使わされてきたというところが大事だったわけですよね。
その神から出てきたイエス様が今度は神のもとにこれから帰る。
つまり十字架復活を経て天に昇られていよいよ神としてその御座に着座される。
これは神としての栄光を受ける時が来るとイエス様は知っていたわけです。
ここで大事なことはですね、言い換えると何回も言いますが、
イエス様は十字架で犠牲で、罪の贖いとしては死んだんですけども、
敵の陰謀に負けた犠牲者ではない。
そしてその十字架は神として最高の天での栄光を受ける前に、
十字架という恥ずかしみを通してその十字架の栄光も経ていかなければならないということがここでもわかるわけです。
誠の神としての栄光を得る前に、
癒やしい十字架というそのような恥ずかしみとも見えるそのような栄光を経ていかなければいけないということがここでわかるわけですね。
そして自ら進んでいった。
ちょっとあの褒め、あの発車休めで。
これねわかるでしょ。青西喜劇。
2回連続で優勝した。
なるほどと思ったんですけども、
この人気の大相撲なんですが、昨年の1月から1年6場所ありますよね。
今年の1月まで7場所、7場所中5場所がですね、全部優勝決定戦になったんです。
どの優勝力士もその本割での勝率は12勝3敗だったんですね。
何が言いたいかというと、優勝した力士の取り組みを、時に再生して全部の取り組みを初日から見るわけじゃないですか。
3回も負けてるんですよ。3回も。
それをね、いわゆる今流行りの言葉で言うと、推しの不安が、自分の推しの力士が負けたところを再生画像とはいえ見るとですね、悲しかったりがっかりするわけです。
でも、もう終わっているわけですから、勝つわけですね。優勝は決まっているから、がっかりしながらも落ち着いて見ていられる。優勝したと見ていられる。
ちょっとそれと似ている、無理な例えかもしれませんが、それと似ているように、イエス様は十字架というところで敵の敗北になるんじゃないか。
わかんない人がいるような時にですね、弟子にこれから裏切られるってことも書いてありますから、イエス様が負けてしまうんではないか。
十字架は負けなんじゃないかと思いますけど、最初から、これから始まる受難劇というのは、天の栄光につながっている。優勝が決まっているビデオを見るようなもんだ。
そういう、なんて言うでしょうかね、革新をもここの箇所から与えるような導入となっているわけですね。
今日いつも通り冒頭の部分では、見ている聖書箇所の聖書的な解説になりましたけど、そんなことを覚えておいてください。
2番目はそれと関係してくるんですが、2番目は究極の愛を示すためにということを見ていきましょう。
戻りますが、13章冒頭の1節にこのようなことが書いてあるんですね。私読んでみますね。
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って地の庭に行くご自分の時が来たことを知っておられた。
そしてから読んでみましょうか。
そして世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
この最後まで愛されたという言葉に注目していきたいんですね。
13章の1節から3節の冒頭で出てくる大事な要素、17章までに出てくる大事なテーマは愛なんです。
アガペエルの愛。
その愛という言葉がどれくらいこの17章までの4章で大事かということは、言葉の頻度によってわかるんですね。
実は直前の1章から12章までは、大事な言葉として覚えていると思いますけど、
いのちとか光って言葉がたくさん出てきたんです。
大体合計80回くらい出てるんですね。
これからはあんまりこの言葉が出てこなくて、愛という言葉が頻度が多い言葉がとって変わるんですね。
大体4章の中に17回くらいかな。
とにかく愛という言葉がたくさん出てきて、これからのテーマ、イエス様がなさること、おっしゃることは、
罪の許しの日常への影響
烈士への愛が根本にあったということがここで見て取れるんです。
イエスの愛の意味
その証拠に冒頭の1節の中だけでも2回もですね、愛という言葉、イエスが愛したという言葉が出てくるわけですね。
その上で大事な言葉はですね、最後まで愛されたという言葉です。
13章1節の最後にある、最後まで愛された。
この最後まで愛されたという言葉はですね、2つの意味があるとされています。
ちょっと脱線しますが、ヨハネのもう一つの特徴はですね、
一つの言葉や出来事に2つ以上の意味が込められているということがあるんです。
ここの最後という言葉、最後という言葉にはですね、2つの意味があって、
一つ目はですね、時間の、ここに前にもあります。
時間の経過を表すという最後の時まで弟子たちを愛した。
これは言い換えると、十字架に至っていのちを、この世のいのちを終える時まで、最後の時まで、
イエス様は弟子たちを愛したんだということが、これが分かります。
そしてもう一つの最後までという言葉の意味にはですね、程度を表す、極限までという意味なんですね。
多分皆さんの神科学聖書の脚注にも、そうですね、
1節の脚注のアスタリックスク星しるしのところにもですね、極みまでって書いてあるじゃないですか。
13章1節の下の脚注のところに、極みまで、本文では最後までですけど、脚注には極みまでという言い方をしていますので、
時間の経過だけではなくて、程度として、極限まで、極みまで、
これ以上ないほどイエス様は弟子たちを愛したっていう。
地上の生涯でもそうだけども、こっから先、13章以降ですね。
十段に至るまで、十字架に至るまで、最後まで、そして極限まで愛した。
まさに死ぬほど愛する。私ちょっと不謹慎ですけどね。骨まで愛してなんでね、疑いましたけど。
死ぬほど愛するって言葉がある通り、イエス様の十字架の死、それは弟子に対する、そして私たちに対する、まさに究極の愛の現れですね。
当たり前のように私たちは思いますけども、今日の歌詞からそれが伝わってきます。
実はそのことを表すイエス様自身の言葉がこの後出てきます。
同じ国別説教の中の15章の13節に出てくるんですね。
ちょっと読めるか読んでみましょうか。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。
No greater love than…というのが出てくるんですけどもね。
このようにイエス様の十字架の死というのは弟子たちへの究極の愛の現れであったということがこの御言葉からもわかるわけです。
そして実はイエス様のこの究極の愛はですね、弟子たちの足を洗ったという実際の行為にも現れているんですね。
主よ、あなたが私の足を洗うんですかとペトロがびっくりして言った、ちょっと前後しますけどね。
これギリシャ語の原文で見るとキュリエというのは主、キリエレイソンのキリエというのは主よという意味なんですね。
キュリエ、主よ、スムーというのはあなたは私のというそういう意味なんです。
主よ、そのまま日本語の訳であっているんですけど、主よ、あなたが私の足を洗うんですかって驚いてるんです。
なんで驚いたかというと、実は足を洗うというのは奴隷の仕事です。
しかもおそらくなんですが当時ユダヤ人の奴隷さえしなかった癒やしい行為が主人の足を洗うということなんですね。
一説によるとだから足を洗うという行為は違法人の奴隷にしかさせなかったという説もあります。
それからちょっと今の時代では本当はあってはいけないんですけど、当時の文化として成人男性の奴隷には足を洗わせなかった。
ごめんなさいね、女性とか子供の奴隷だったら足を洗わせてもいいけど、
当時の文化として成人男性がそんな癒やしいことはしていけないという、そういうしきたりがあったわけです。
ですからこの主である、後で出てきますが教師であるイエス様が足を洗ったということにフェテルはびっくりしたんですね。
しかも今日のところで出てきますけれども、イエス様の一教授一等足が細かく書いてありますね。
4節から5節まで夕食の席から立ち上がって、当時は利き腕じゃない左手を下にして横になってですね、
低いアイロン台ぐらいの高さのテーブルに食事を並べて、それで横たわってみんなご飯食べたんですね。
そこからまず立ち上がった。上着を脱いで手ぬぐいをとって腰にまとったというのはまさに奴隷の装いなんです。
上着を脱いで腰に手ぬぐいを巻く。長い手ぬぐいでですね、そこから余った部分で水を浸して足を洗ったそうなんですね。
しかもですね、普通食事の前に、食事中に足なんか洗わないじゃないですか。
だいたいゲストが来たらそこで洗うんです。当時サンドルだったから。
だから食事中にわざわざ足を洗うっていうのはありえないことなんですね。
しかもそれがイエス様が奴隷の装いをして繰り返しますが、最も癒やしい行為である弟子の足を洗うという行為をされたわけです。
そしてもう一つですね、私たち注意深く見ると見えてくる大秘があるんですね。
先ほど見ましたが、イエス様は十字架の後、天に帰るって言ってたじゃないですか。
それは神として最高の栄光をこれから受けるってことじゃないですか。
一方この奴隷として足を洗うっていうのは奴隷の中でも最も癒やしい行為なんです。
ですから最も高いところから最も低い、人間であっても最も低いところにイエス様が降りてこられたっていうことがコントラスト、対比されてるんですね。
そこからですね、イエス様がそのような人間的に癒やしい行為姿をとることによって弟子たちへの究極な愛をですね、態度を持って示されたわけなんですね。
そして簡単に触れますが、実はそういう最も癒やしい姿で弟子たちに仕えたというのは、最も癒やしい死に方をする十字架の死をも記さしていたんですね。
そういう二重三重の要素がこのイエス様の先続の行為に現れている。
その最も大事な要素が究極、究極、究極の愛をですね、実際の行為をもって弟子たちに触れて示されたっていうことが伝わってきます。
このようなまあ難しい言葉で言うとキリストの顕微って言うんですけどね。
足を洗う行為
使徒パウロがこのような美しい死を引用、あるいは彼が撮影して言われたんですね。
ピリピリの6から8、キリストは神の見姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、
ご自分をもなしくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
最後、人としてから読んでみましょうか。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
十字架の死がみじめな死で私たちの究極の愛ということは私たちは知っているつもりかもしれません。
しかし、この奴隷の最も癒やしい行為をしたという姿から、
もう一度、イエス様の愛、究極の愛の姿、十字架の尊さ、そこに現れている愛の深さということを再確認できればと思います。
この行為において、私たちもその行為に預かれるものなので、日々の生活の中で、
このイエス様、私たちに仕えてくださるイエス様に信頼して、イエス様の愛を、救いを素直に受けたい、素直に助けてくださいと言い合えるお互いでありたいと思います。
3番目、そこから続きますが、生涯続く罪の許しということですね。
そしてペトロがですね、足を洗わなければあなたと私に何の関わりもないと言われて、こう答えたんですね。
私の頭も足も手も、足だけじゃなくて洗ってください。それに対して、こう答えました。
読んでみましょうか。イエスは彼に言われた。
3、水浴した者は足以外は洗う必要がありません。全身が清いのです。あなた方は清いのですが、御名が清いわけではありません。
アメリカにちょっと行ったことがあるんですね。知り合いを訪ねて。大谷翔平がいるロサンゼルスの辺り。西海岸ですから海が近いんですよ。
友人の家に泊まっててですね、人の家に夕食に呼ばれると。アメリカ人の人はオシャレだからシャワー浴びていくんですよ。
なぜか髪の毛乾かさないで、濡れたままで櫛で溶かしていくんですけどね。アメリカだからカジュアルにビーチサンダルで行くわけですね。
浜辺ですから、歩いて行くと足に砂がつくじゃないですか。
すると人の家に着いて、日本の文化に馴染んでいるかどうか、中国系のアメリカ人なんかを見てですね、わりと普通のアメリカ人と違って玄関で靴を脱ぐわけです。
その時もビーチサンダルを脱いで家に上がろうとするわけです。足に砂がつくじゃないですか。
どうします?
じゃあ、もう一回シャワー入れてください。シャワーに行かないじゃないですか。玄関で雑巾だけもらって拭くみたいな。
そんなことをイエス様はここで言ってるんですけども、当時の習慣でゲストは家に来たら足だけ洗う。清めとして足だけ清めるということがあったんですね。
それはそういうとしまして、実はイエス様が足を洗ったこの行為は十字架による罪の許しを示しているんです。
先ほども言いましたけども、ヨハネの福音書の特徴の一つに、目に見えない神様の祝福や恵みを私たちに馴染む深いものができることに例えるということがあるんですね。
いろんなヨハネの福音書のもう一つの特徴がここにあります。
例えばどんなことも言うか言いますか。生産意識の由来のパンを食べた。パンを与えることによって私の肉を食べ、私の血を飲むのは永遠のいのちを持つと言って、
この永遠のいのちを持つということをイエス様を信じて、永遠のいのちを持つということをパンを食べることに例えて教えていますね。
あるいはサマリアの女性との会話の中で、あの時のテーマは何ですか。
水ですよね。喉の渇きと霊の渇きをこの生ける水を例えて話しています。
注意深くイエス様の奇跡を見ると全部そういう目に見えない真理を私たちが分かる出来事やものを通して教えるというのがあるんです。
実はここでもイエス様が足を洗ったという行為は十字架による罪の許しを指し示しているわけなんですね。
その中で私があなたの足を洗わなければ、あなたは私と関係がないことになりますとペテロが拒否した時に言った言葉。
それにこんな意味があるんですね。十字架による贖いを受け入れなければ、罪の許しにも永遠のいのちにも預かれませんよということを言っています。
これは実はペテロの傲慢でもあるんですね。ある解説者が言うには、私は十分だからということと、イエス様に洗わないでくださいといのち令しているんです。
そして二回目は頭も手も洗ってくださいといのち令しているんです。そういう意味でペテロの傲慢さの罪ということがこの出来事に見え隠れしています。
でもこのイエス様の先続の行為を受け入れるということは、何回も言いますが十字架による贖いを受け入れる。それによって罪の許しと永遠のいのちを受け入れることになるんだということを示唆しているわけなんです。
罪と許しの関係
そしてそのことが全身が清い、追慮したものは全身が清いということが、イエス様を信じれば罪の許しと贖いを受けて、永遠のいのちを受けることができるということと関係しているわけです。
皆さんお探しになったと思いますけれども、私たちはイエス様を救いの人質で信じますと一回だけの本来は決断をすれば罪を許される、永遠のいのちを得る、そういう立場に置かれているわけなんですね。
しかし、よくパウロが憎と言っていますが、罪の性質がそれでも天国に行くまでというかミクリに行くまで残ってしまうので、神に喜ばれないことを考えたり、そういう行為に及んだりしてしまう。広く言うと罪を犯してしまうことがあるわけですよね。
その時にイエス様が言うところの足を洗っていく。別に悪い世界から足を洗うのではなくて、足を洗うということが日々の罪に神様によって気づかされた時に足を洗いなさいという、そういう意味があるんです。
それは、たとえ私たちがイエス様の弟子となった後、罪を犯したとしても、永遠のいのちは失われないし、神の前で立場としては清いものであり、神のことをされているという立場的なものと約束的に完全であるということが、水浴したもの全身の清い。
日々の罪に気がついた時にどうするか。それは、サンダルで外出した時に汚れた足を洗うようにすればいいわけですね。
それは、その罪をイエス様に告白して、願う許しを確認するということなんですね。
ここに書いてありましたね。
水浴した者の足以外は洗う必要がありません。全身を清いのですの意味は、イエス様の十字架を受け入れ、罪が許され永遠のいのちを得た人、そして一度だけ罪主のイエスを受け入れたと決断すれば、永遠のいのちを得るイエスの弟子となるということですね。
そして、その葦の汚れに気がついたら、日々の生活の中で神様に聖書を通して罪を示されたらどうするか。
実はそのことを同じヨハネが教会に宛てた手紙の中で言っています。
よく知られた約束の言葉ですね。第一ヨハネの手紙、一章九節です。
じゃあ読んでみましょうか。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を許し、私たちをすべての不義から清めてくださいます。
これは別の言い方をすれば、私たちの感情とか、良心の咎めを解消する感情の問題や、良心の清めといった感覚的な問題とも言えるかもしれません。
またこのように、祈りの中でしょうけども、イエス様に罪を告白して、神に罪を告白して、イエス様の十字架によって、贖いによって許されているということを確認する。
それはその都度、神様の愛を確認したり実感する、そのような機会とも言えるかもしれません。
私たちは、そのような責感や罪悪感から解放されて、そっと良い行いに歩むようにされていくわけですね。
そのように祈りの中で罪を告白しながら、イエス様の十字架を見上げて、イエス様の弟子として歩んでいく、そのようなお互いであり、教会でありたいと思うわけです。
神の愛の確認
お祈りしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様、あなたが弟子たちに対して、私たちに対して究極の愛を示して下さいました。
どうぞ、ご聖霊の導きによって、そのイエス様の愛の極みを私たちが知ることができるように、どうか導いて下さい。
また、私たちが自分の罪に、あなたによって気付かされる時、どうぞ、あなたの御前に、祈りにおいて、その罪を言い表し、あなたの許しと清めを確認して歩むことができるように、どうか導いて下さい。
そのようなことを通して、あなたの聖なる光の中を、また、あなたの愛の地を歩んでいくお互いであり、教会でありますように、どうか導いて下さい。
この、あなたが示して下さった愛と許しの導きを感謝して、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは、御言葉イエス様にお答えして、一分ほど黙祷する時間を持ちましょう。
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