おはようございます。佐々木正悟の精神分析的ラジオをお送りします。 7月16日木曜日7時9分です。
めっちゃ早い。 いろいろございまして、いろいろあるので、あんまり長々とはやりたくないんですが、
まあいろいろあるので、この時間ですと完全に家のことばっかりなんですけども、 まあいろいろあるわけですよ。
で、ここのところ、サブスタッフという方でライブ配信をしてみたり、またこっちに戻してきてみたりしているんですけど、
交互にやっていくということに一応落ち着きました。 やること全く同じなんで、これを交互にやることは全然できるでしょうという感じでやることにしました。
あわせて、まあこれは関係ない話なんですが、 ノートの方ですね。
note.comで日本のやつですね。 あっちでは今のところ有料にしてみたり、メンバーシップにしてるんですよ。月額600円で。
600円のメンバーシップに入っていただければ、私が書くものは基本的には全部読めるようにすると。
で、もしお支払いいただかずとも8、9割は読めるんだけど、残りの1割をどっちかというと1割読むために600円というよりは、余さず読みたいという方は、
あっちでメンバーシップに入っていただけると助かるなっていう感じです。
サブスタックの方で、メールで内部配信始めると飛んじゃうんですけど、そこはもうしょうがないといたしましてですね。
なるべくサブスタックはノートの方に記事じゃなくてね。なぜノートかというと、必要以上にメルマガを飛ばしたくないという気持ちがこちらの方にはございまして、
別に私はメルマガを配信したいと強く思っているわけではないので、お知らせを確実にメルマガ配信するシステムは必要だなと思っているんですよ。イベントとか結構やるし。
でも、メルマガを自力でシステムを構築するなり予約するなりするのは自分は面倒くさいと思ってしまうんで、
サブスタックはすごいその辺が良くて、メルマガにもできるし、ライブ配信もできるし、Xみたいにポストもできるし、
基本的にはサブスタックに集めていきたいというのがありますが、それは僕の側の事情なんで、
このスタンFで聞くっていう人もいらっしゃればノート読むって方もいらっしゃるんで、全部をサブエスタにする、そうするべきだっていう意見の人もいるわけですけど、
昨日言った通り私はフリランスは人の意見を真に受けない方がいいと思ってるんで、別にその意見はよく分かるんですよ。やってるからね。
やってるから分かるんですけど、まあまあ別にそこまで頑張ることもないだろう。こういう性分なんでね。頑張らないで
サブスタックはメルマガとして出すこともしたいし、
通常はノートで出したいし、でもXもやっちゃうしみたいな感じで、あっちもだから交互にしたいなと思っておるわけですね。
だからサブスタックのノートの方はもう本当に何でもありです。テーマはもう私の中では自由。別にロッテの話とかでもいいわけですよ。
そこではしない話ってあるにせよ、まあそのだいたい何でもあり。ノートの方はですね、これもすごい悩んでいるんですけれども、多分精神分析は絶対入ってくると思うんですね。
あとはあれかな、やっぱりその時々ホットなもの。今だったらタスクシドクラウド2とかかな。だからホットなものと精神分析。
ホットなものと精神分析みたいな感じで、これも交互にやれていけたらいいかなというふうに思っております。
そういう感じで、これは全部僕の側の発想なんですけど、メルマガはここに来るとメルマガというか、配信されますよということはお伝えしていきたいかなという感じを持っております。
そうするといいのかどうかは分かりませんが、そうしていくのがやっていきたいことかな、とりあえずというふうに思いました。
はい、では本題というか、今日もあまり何も、今日本当にバタバタしてたんで、朝猛烈にバタバタしてたんで、本題に入れないんですけどね、なかなか。
最近ですね、これは本当に僕は、でもねやっぱりちょっと反省してるんですよ。あまりにもそれはのめり込む、僕の性分なんですよね。
サンチャレライフワークみたいな感じで、全的にサンチャレにのめり込むみたいにしてしまうと、でも私ビジネス著作家でもあるわけだから、やっぱりそっちのお付き合いってないわけじゃないんで、全部とことんやってしまうのはどんなもんなんだろうと思い始めましてですね。
でも、体制的にはオールサンチャレモードと化してきてるんですけど、でも先日ね、実家に帰ってみたりして、肉親や兄弟のことがなくなっても、こんなじいさんばあさんのこともあるし、やっぱりあること一つに全身全霊みたいなのは、そうはいかない。
もう年だよねということに、年買いもなくっていう表現が、この場合適切かどうかわかりませんが、3ヶ月チャレンジに集中するっていうのがあったわけですよ。その集中は何に現れているかというと、僕の場合やっぱりライブハックとかガジェットにその傾向が適弁に現れるんですよね。
これは、そういう人間なんだなということに、わかりきってることですよ。ガジェットなんて目に見えるからね、無意識で買うとかありえないから、わかりきってるんだけど、私この無意識って言葉は定義付けが難しいと思うんですけど、
つまり自分に主体があるということに気づきにくい、ないし気づかない、あるいは自分がそもそも因果律の因になっているということに気づかないというのを無意識というのではなかろうかと、それは僕の勝手な定義であり、そういうんじゃねえんだよって言われると困るんですけどね。
つまり、ナルキストスの話があるじゃないですか。あれ自分が鏡に映ってるって気づいてないって話なんですよね。だから鏡に映った自分の姿に恋をしてしまうっていう、そこまで完全に盲点になってるわけですよ。
鏡像、ラカンなんかは鏡像っていうのをすごい重視するし、コフートもそういうこと言ってますけども、鏡に映ってるのが自分であるっていうのはね、すごい知能を必要としますよね。そして夢見る力を必要としますよね。だって鏡に映ってるのは単なる知覚だから、チンパンジーがかなり悩むらしいんですけどね。
チンパンジー頭いいじゃないですか。犬は全く悩みませんから。完全に相手の犬だと思って吠えまくったりするやついますからね。あれはナルキストスと同じなんですよ。
だからナルキストスというのはうのぼれて頭がおかしいとかじゃん。頭がちょっと微妙だっていうのはあるのかもしれないけど、エコーの話が非常に大事ですよね。前段にエコーはナルキストスに恋をするんだけれども、ひたすらエコーするだけだから、
アイラブユーはアイラブユーだけど、アイヘイチュウになっちゃうから振られるという話なんですが、非常に良いおっぱいと悪いおっぱいを連想させるので、ナルキストスの神話というのはですね、非常にフロイトとかクラインのラインにイーセン迫ってる話であり、だからフロイトがナルキストス賞と名付けるのは無理はないわけですよ。非常に理にかなってるというんですかね。
それを人口に解釈すると藤山直樹とかが残念に思うような事態が進行していくわけ。ナルシズムになり、やたらうのぼれの強い人っていう異常の意味をあまり持たなくなり、人によっては嫌いな奴は全員ナルシストだということにして片付けるみたいな、そういう概念に化していくということは、でもそういうのも世の中にやたらありますよね。
嫌いな奴は全部この病気にして片付けるっていう、そういう発想っていうのかな。でもそれはしょうがないですよね。嫌いな人は悪い病気にかかったことにしてしまうというのは納得のしやすそうという意味ではありじゃないかもしれないが、しょうがないですよねとは思いますね。
私が思ったのはそうじゃなくて、因果律の因に自分がある。だって自分がいるから鏡に映るわけだから。この自分の存在に気づいてないっていうのをナルキストス賞って言ったんだと思うんですよね。赤ちゃんはそうですよね。自分が泣くから親が来るとか、自分がなんとかだからなんとかかんとかって反応を見て、反応しか見てないわけですね。
自分が因になってるっていう第一因になるっていうことについてまだ意識が十分回っていかない。全く何もないってことはないと思うんですよね。だから僕はセルフエフィカシーとかああいう話を読むようですけど、自己効力感とかいうのはですね、あれは非常にこう追求しない方がいいと思うんですよ。
こんなものは自分が因になってる。例えば自分因によって何かがうまくいってることに気づけないから自信がないみたいな理屈を一生懸命こねればこねるほど自信はどんどん失われていくと思うんですよ。
自分が因になってるっていうのはすごい簡単に私たちが直感的に生まれながらにしてそれにすぐ気づくっていうようなもんじゃないんですよ。すごく構成されたものであって、視覚は構成されたものであって、夢を見て初めてできることなのであって、私というものがこの世にいて、私がうなずくと誰それが納得するとか、私が微笑むと誰それが喜ぶとかそういうのをいちいちはっきり意識する。
自意識過剰って言い方しますけど、難しいことなんですよ。この程よく自己認識に一定の位置を収めさせるみたいなことは。
言葉は自己肯定感でもいいんですけど、完全に乱用されていて、元々の意味は良かったかもしれないけれども、私はあんまりそこに頭を持ち始めるとむしろかえって疲れることになるだろうって感じを持つので、やっぱりもう少し真相に迫るみたいな話を考えた方がいいような気がしなくはないですね。
この自己因、自己が原因になってますということの盲目性というのは私たちおなじみで、私はそれを無意識と呼べば相当良いんじゃないかなというふうに思っているわけだけれども、それは僕の恣意的な定義に近いので定義じゃないですし、それは一旦飛ばすとしてもですね。
何て言えばいいんですかね。自己対象みたいなのは対象関係でも割と軽くスルーされてしまいやすいところだとは思いますが、何でこの話を今しているのだろう、モードに入っているわけですが。
つまりノートとか、話が遠いようですが、ノートとかタスクシュートの話なりをしていくという、こういうのを決めるのもですね。
何て言えばいいんですかね。これをね、自己因、そのナルキッソスというか、私が自分自身にある意味盲目になった方が、盲目はちょっと言い過ぎなんですけど、自分は盲点になってしまった方がやりやすいというか、スムーズにことが運ぶことはいっぱいあるじゃないですか。
例えば、昨日もそうだったんだけど、ライブビデオでやるよりは、こうやって喋るだけにした方が楽なんですね。慣れの問題なんですけどね。
喋っている自分の顔をまじまじと画面の中で見つめながら喋るというのは結構ハードルが高くなるんですよね。
だから、ライブ配信の方がハードルが高いなと思うんですよ。しかも、ご丁寧というか、また迷惑というか、何人が見ているかというのを目のマークの横に人数が出ていくんですよね。
つまりリアルタイムで今見られているということを意識しなければならない。このスタイルはそうじゃないですよ。終わってからの配信だから、その差は微妙ですよ、どっちにしたって。
微妙ですが、やっぱりこれがやりにくさを若干生み出すんだなということを、私はZoomなりGoogleMeetなりでセミナーするにあたってもですね、
皆さんの画面が全部見えず、見ている人の数は100人でということでも全く苦にはならなくなったんですけど、だから慣れの問題なんですよ、これは。
ナルスシズムの問題みたいに思えるところもあるんですけど、慣れちゃえばそうでもないから、そんなに深い話じゃないような気もするんですね。
人にもよるかもしれないけど、私はそもそも慣れてはいますからね。最初は慣れなかったってことなんですよ、慣れてはいるっていう言い方をするってことはですね。
うまくやれるかどうかを気にするっていうような話なんですけれども、そもそも。でもうまくやれるかどうかを気にするというよりは、だいたい我々が気にしているのはですね、下手を打つことなんです。
この下手を打つということについて、我々はですね、すごくこういろんな気の回し方をするんですけれども、いろんな本当に気の回し方をする。
誰それさんが嫌な思いをするとか、単純にみんなが笑う。この場のみんなというのも対象関係なんですけどね。
例えば自分の父親だったりするという話でしかないんですけれども、心の中のね。
心の中の父母が笑おうが、怒ろうが、私に影響を与えることは、少なくとも話すのが難しいというレベルにおいて影響を与えることはほとんどなくなりましたし、
今言うエイトみたいなのも消そうみたいなことを考えるほど、私はこれについていろいろな大きな影響を求めなくはなったし、自覚もしなくなっているんですよ。
ただただこういう話をしていきたいと。例えば精神分析というか、ポストをライフハックの世界には広めていきたい。
それ自体が無謀な気もするが、そうは言っても広めていきたいし、3ヶ月チャレンジももちろん広めていきたいと。
で、3ヶ月チャレンジにようやく戻ってくるわけですけど、3ヶ月チャレンジに、私はライフハックとガジェットの投資ですよね。
自己投資と呼ばれるやつ。自己じゃないんだけど、サンチャレ投資なんだけど、リソースが集中するようになっているわけです。
で、それは家計簿を見れば一発でわかる。サンチャレの業金が爆上がりしていくっていう、それも着実に上がっているというね、これが起こるわけですよ。
しかもそれは、起こっていることは家計簿で確認できるから無意識なはずないじゃないですか。
だからさっきの自己因の話に、それを引き起こしているのは私なんだけど、私だという自覚が薄いんでしょうね、きっと。
だから最近ね、いろいろなガジェットを買っているけど、そしてその支出も上がっているし、だからいろいろ快適なんだけど、なんでだろうね。
サンチャレのためと称してどんどん投入しているからだっていう、これがこういう感じなんですよね。
ここに何かおかしな感じがあるんじゃないですか。意識してやっているんだから、気づけよっていうか、気づいているだろうと思われそうなもんなんだけど。
なんかね、事後性なんですよね。それをフロイトが事後性といったことのことなのではないのかもしれませんが、事後になって随分使ってるなみたいな。
例えばあれですよ、TCLの。お前欲しかったんだろって言われると、それはその通りなんで微妙に難しいんだけど、でもやっぱりTCLのガジェットで、
インドの本を読む、そのなんていうのかな。
要するに自然光で反射するレベルに抑えてある新しいタイプの液晶なんですよ。だから反応速度はiPad並みだし、画面が残ったりしない。
そういう意味でE-INKとは違うんですよ。E-INKってリフレッシュを激しく手でかけたりするんですよね。遅いわけですよリフレッシュレートが。
だから残像が残っちゃうわけね。動画とか見てられない。真っ黒になっていくんですよ。これでわかると思われるんですが。
でも液晶って画面でそうは絶対になんないじゃないですか。前に映った顔がなかなか消えないなんてことは起こらないから。
速リフレッシュレートかかるから見てられますよね。かなり速い画面でも。
ゲームガジェットが一番スペックを要求されるのはこういう理由なんですよ。処理速度も必要ですし、リフレッシュレートもいるし、3Dゲームとなってくると本当そうですから大変なんですよ。
でも液晶ですからTCLの。液晶の会社なんだけど、もともとディスプレイっていうかテレビ売ってる液晶ディスプレイの会社なんで、さすがに素晴らしいわけですよね。
手書きで書くとiPadとかだと3時間やると頭痛が取れなくなるんですよ。半日。しかも酔うんですよね。それがないんですよ。
だからいかに光ってものが目に来るかだなと思うんですよね。光だけですから液晶画面であることに違いはないんで。
ただ自然光で見られるというのはどういうことかというと、実は微妙に見られるんだけど真っ暗な部屋だと見づらいんですよ。
暗い部屋とか特に夕日が沈んだ直後ぐらいの空間だとTCLの液晶画面は見づらい。
手書きとかKindleで読むやつはね。ただ普通の液晶でそういうことないでしょ。夕暮れの暗いところでもはっきり見えるじゃないですか。
あれは後ろから光が強く光らせてくれているからなんですけれども、それがないわけ。
違うやり方でやってるわけ。完全自然光とはまた違うんですけどね。
何にそれを使ってるかというと、3ヶ月チャレンジのノートであり、そのノートは後で読み返すためのものではほとんどないんですけどね。
ノートであり、計算用紙なんですよね。まったく計算用紙なんですよ。私にとって。
小学校時代すっごい使ったなあれって。計算用紙捨てるでしょ。計算用紙全部取っておく人っていないと思うんだが。
計算用紙とまったく同じなんですよね。ガーッと書いていく。でもそれは捨てはしないんだけど、基本的には後で読み返すようなものではない。
あれがないと計算はできない、私は。そういう感じなんですね。
あれ取るようになってから、本当、抜群に3ヶ月チャレンジ僕はまともになっているなとは思うんですよね。
昔はやっぱり一生懸命原理主義的にフロイトはノート取らないぞとかって言ってるから頑張って取らなかったし、それもよくわかるんだよ。
それはそれで必要なんですよ。時々やっぱり取らない時ってあります。何でしょうこの暗算するみたいな感じになるんだけど。
いるんですよね。それはフロイトが言ったことは嘘ではない。ないといつもいつも計算用紙を使いまくっていればいいってもんではないって感じなんですよね。
話を聞いていて、参加者さん、利用者さんの話を伺っていて、自分の無意識が反応していきますよね。
要するに転移、逆転移的になっていきますよね。なっていくっていう中で、どこか頭のスペースを開けておかないとわかんなくなってしまうんですよ。
話を聞く、要するに単なる社交になって、社交っていうのはおかしいんですけど、単なる会話になってしまうんですよね。
だから単なる会話にはやっぱりなってはいけないと思うんで、あくまでもどこか無意識はそうなっちゃうに決まっているわけじゃないですか。
無意識なんだから、コントロールできてたらもう無意識じゃないんで。でも意識している水準はやっぱりこれはサンチャレのユーザーさんのためであると。
それが何を意味するにせよですね、ためであるんだということの保持はし続けていかなければならないって感じなんですよね。
だから藤山直樹は間接的っていうのかな、受け身性と言ったりしますよね。
その意味とも似たような受動性とか、事後にならないとわからない、受け身ってことですよね。事前に何の計画も立てられないわけだから。
松木さんはそこは大まじめに逆転医逆転医っていう言い方をされますけど、何であれそういうことを言ってるわけですよね。
間接関与って言ったらいいんですかね。アドバイスをするってのは一番分かりやすいと思うのが道を聞かれたときの感じ。
道を聞かれて道に対して答えるって時に僕はその間接関与をしていると思うんです。
だからある意味道に迷いましたっていう人に道をお伝えします。
しかし行き先についてこれで行けるという保証はできないですみたいな感じが近いと思うんですよ。
何が言いたいかというとそれって別に答えなくてもいいわけですよね。
答えなくたって道聞かれて道に答えなければいけない市民的義務とか別にないわけじゃないですか。
答えますけど普通に親切にした方がいいぐらいな感じがあります。
でもそういうことなんですよね。
ある意味私は精神分析っていうのはある意味精神分析じゃなくても心理カウンセリングは全てこうでありたいみたいなところがあるんですよ。
これで絶対行き着けるとは言い切れないが道聞かれれば道聞いた人が主体になるじゃないですか。
その道に対して答えるというのがその答えている人の関与のあるべきっていうのも変ですが姿じゃないですか。
例えばだから外国人の人に浅草どうやったらいいですかって言った時にね。
いや浅草なんかやめてさとかって言い出すのはなんか変じゃないですか。
でも普通の会話ってそういうところあるじゃないですか。
浅草に行くことが絶対であるっていうこと。
これも変な言い方なんだけど。
一つの浅草に行くっていうことが絶対なんだっていうでも一旦そこに置いて私の事情を一旦捨てるわけじゃないですか。
でも究極的な責任を持てるわけではないですよね。
じゃあこう言ってこう言ってこう行くこれが絶対に正しいのか誰が聞いてもそれがベストなのかわからないわけですよね。
特に知らない年だったりした場合は。
もう一つはだったら他の人を紹介するってことも安易にはできないわけですよ。
だって紹介した人の方が詳しいとは限らないし紹介された人の方が親切とも限らないわけですよ。
これと近いと思うんですよね。
道に迷っている人に道を伝える。
でもそれは100%それで浅草に行き着けるという保障がここにないわけですよ。
でここで様々なことが起きるわけですよ。
お金を頂いているから。
例えば行き着けなくていいと思っているのかみたいな議論が起こるかもしれないわけですよ。
なんかこういう感じなんですよね。
でそういう時になるべく私の事情は捨てるが
でも私の事情はゼロには絶対ならないよねっていう
これを僕は間接関与って感じを持つんですよね。
で無意識がそこに地図の話じゃないんで
でも地図の話だとしても無意識は関与していると思うんですよね。
つまり私のシチュエーションは忘れてはいけないと思うんですよね。
道が分からないと言っている人に浅草までの生き方を伝えているというのがシチュエーションなんですよ。
でも議論がどんどん進展して
例えば今度じゃあせっかく知り合ったから日本でお寿司を食べに行こうみたいな話になったとするじゃないですか。
まあなんないですけど絶対そんなことは。
なったとするじゃないですか。
でも最初は浅草への生き方をこの人は聞いてきたんだっていう
このシチュエーションを見落とさないみたいなそういうニュアンスがあるんですよね。
なんか大した伝わっている気がしないし大したこと言っている気はしないんですけど
やっている側としてはなんか何か僕は何ていうのかな何かを一生懸命お伝えしている気はする。
これはなんかですね同じようなことをする方向けの話であって
利用者さん向けの話にならないんですよねなかなか。
これが難しいところなんです。
利用者さんは行きたいところが浅草とは限らないわけで観光地とも限らないわけで本当にセンサーはバーンベースなんで
そしてそのすべての事情が納得がいくようになってくるんですよね。
納得がいかないとうまくいかないんですよ。
なんで沼津に行きたいんですかみたいになってしまうとダメなんですよね。
それが妙にとか容易じゃないとか関係ないんですよ。
すごい深刻な問題でもう絶対富士山に夜登らないとみたいなことをおっしゃっている人には
やっぱりこれはなかなか大変だなみたいなのはないわけじゃないのかもしれないんだけど
じゃあそれは富士山に夜登ろうとしている人は重症だみたいなことはないわけじゃないですか結局。
だからある種相性みたいなところってどうしても抜けないわけですよね。
自分も夜富士山登るの大好きだったからっていう話だと
一見そのテーマは難易度高そうでもそうではなくなるわけですよ。
それに対して沼津行きたいからに対して全然共感できなかったりすると
そっちの方が難しくなったりするってことは往々にして起こる気がするんですね。
なんで沼津行くかなみたいなせめて伊豆高原にしましょうよみたいな
そういうことをやるのが一番いけないわけですよある意味で。
ただそれはもちろんこれは比喩で
何を言っている時にこういう感じになるのかっていうのは
なんとなく僕の脳内にあるから今のようなことを言うわけだけど
なんかこういう感じになっちゃう時もあるんですよね。
だから伊豆って言ったじゃないですかみたいな
急にそういう話になっていっちゃう時と
それをおかしくないみたいな空気になるんですよね。
確かにおかしいなみたいに思うわけですよ。
それはそれで何かが起きてるわけだけど
そういう道に迷う
それに対して正しい道を熟知しているとは言い切れないが
この辺についてはやや詳しい人っていう非対照性があって
で、やや詳しいからといってどこに行くべきだとかは
伝えてはならない人が間接的に関与するっていう感じ
どこまで直接関与していくかという
代わりに一番最悪なのが私じゃあ代わりに浅草行っときますからね
意味が全くないですよね。
でもこれは私はいわゆる人生相談ではものすごくよく起きてることだと思うんですよ。
いやいやわかった。そんなに浅草行きたいからわかった。
君はそこで寝てていいから。俺が代わりに浅草行くからみたいな。
もう論外みたいな。
でもこれが僕は直接関与の一番まずい形だろうと
そして怒ってないわけでは決してないと思うんですよね。
起きてると思うんですよ。
で、かなりそれに準じて僕がやっぱり絶対回避したいというか
今までそれはしなかったなと思いたいのが
浅草に行くにはもうこれが絶対ですみたいな。
こういうふうにしなさいみたいな感じ。
あなたの地図は取り上げて、私が地図作っておきましたからみたいな
そういう浅草ガイドブック売商号みたいな
そういうやつを手渡して
あるいはもう相手にGPSつけてその通り行ってるかどうかチェックするみたいな
これが代わりに行くのに準じてまずいやり方だとは思うんですよね。
野の医者なりに思うことなんですよ。
とにかく極力ここから離れれば離れるほどいいんだけど
だからといってじゃあ他の人に聞いてくださいみたいなのは良くないと思うんですよね。
そのところの間接性が分からないんだけどね
なんでこんなに間接性の話をしてるんだろう。
私は今ガジェットの話がメインで出てきて
今日は来るんではなかろうかと思ってたんですけどね。