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おはようございます。佐々木正悟の自由連想をお送りします。
はい、9月2日ですね。2日水曜日、8時1分です。
いやー、あのー、 このまま涼しくなるのかどうか、大変
興味津々なわけだけど、えーと、まあ、 恒例の収録もですね、夏休み。
夏休みっていうものを撮るべきなのかなと、まあ、 撮ってる場所から考えても撮るべきなんではないかと、思うようになりましたね。
あの、この収録。長々と1ヶ月も休んでると、 読者さん多分激減しそうな、でももともと相変わらず、
スタンドFMでは3桁になかなか届かないという現状があるわけですけれどもね。 まあ、気を取り直してというか、気はずっとこのままなんですけど、
あのー、やっていきたいと思いますが、 あのーですね、
あ、そうそう、戦略的無計画がなかなか上位に高止まりしておりまして、 まあ、今まだ予約段階ですから、電子書籍の方も出ておりませんし、
あのー、まあ、この種のものは本が出てから出るまでっていうのも非常に重要だし、 発売前に10判がかかってしまえば最高なわけなんですけれども、
とはいえですね、えーと、なかなかそういうことを簡単に見込めるご時世ではありませんし、 まあ、いけるといいなというふうに思っておりますが、
あのー、こればっかりはね、えーと、 まあ、書店に並んだ時が勝負っていうのは確かにありますんで、
まあ、あのー、 今月24日によろしくお願いしたいと思います。
あわせまして、あわせましてではないんですが、 その2日後の26日にこの山崎隆さんとのセミナーも開催させていただきます。
まあ、これは本の宣伝に直結するイベントではないんですけれども、 あのー、
まあ、精神分析的な話を、精神分析的な話っていう言い方がそもそも、 このイベントの性格を物語ってるんですが、精神分析的な話をですね、
私は精神分析的なものというものを、こう、まあそうですね、 それを精神分析家の人たちが広げようとしていて、
なかなか広まらないのに、私なんかが広げようとしたところで、 役に立つのかどうかわからないんですけれども、
まあ、これをやるしかないなというふうに思っておりまして、 これがないから、
我々は、私もそうでしたけど、自覚なく苦しんでると僕は思うんですよね。
これさえあれば、ある種の人たちは間違いなく、 ある種の苦しみはなくなりはしないんですけれども、
こんなに大変な思いをしなくていい。
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それは、ある種の引きこもっている方とか、 恋愛をしまくる人、ないしはできない人。
例えば、もちろん彼女彼氏ができないというのはわかりやすいんですけど、 できても全くそこで恋愛感情は湧かないとかね。
先日の、ずっとこの話をしばらく続ける流れになるかなと、 ずっと続けないと思うんですけど、
今日はね、精神分析は楽しいという雑誌、 昨日はそれをもじって精神分析は苦しいというタイトルで、
この番組の番組タイトルにしてみたわけですが、 苦しいも楽しいも同じ意味なんですよ。
非常にこの辺ね、変なんですけれども、 さっきネガティブ・ケイパビリティという本を読んでおりまして、
これもずっと読んでるんですけれどもね、 松木さんのネガティブ・ネガティブ・ケイパビリティという、
非常に意味不明なタイトルで、 これはビジネス書会でやっぱり許されざる本なんです。
売れないからね、そんなタイトルをつけた日には。 時々そういう本が爆発的に売れて、
それは大変めでたいことなんだけど、 なかなかそういうわけにはいきませんから、
常識的に考えますと。
ビジネス書会とは全く違う展開を見せる場所なわけですが、
ネガティブ・ネガティブ・ケイパビリティに ビヨーンの一説があるわけですよ。
精神分析家もクライアントももちろん苦しみを減らすために 努力をしていると。
お医者と患者なんだから2人揃って、
病気なのか苦しみなのか分かりませんが、
これを取り除こう減らそうと頑張るんだけど、
実際に起こることは苦しみに耐える力を増やすんだと。
この話がまた微妙で、苦しみを増やすわけではないんですが、
苦しみに耐える力を増やすというのは、 潜在的には苦しみの量は減るのか増えるのか、
結局よく分からないですよね。
ただ相対的にその人の心の中の苦しみが減りますよね。
だって耐える力が増えるんで。
これは結局、端的に言って荷物が重いと。
それを手伝う人も空港の職員さんなのか知りませんけど、
荷物を減らそうと努力をする。
しかし実際に起きることは筋力が増すということですよね。
荷物は減るかもしれないけど、もしかして増えるかもしれない。
ただ筋力が2倍になれば、持てる荷物の量も2倍になるから、
増えなかったら減った感じがするよね。
こういう話を微妙はしているんだと思うんですね。
これが私は苦しみも楽しみも同じであるっていう。
つまり苦しみに耐える力が増すということは楽しいことかどうかは分からないけれども、
06:02
でも希望を持つじゃないですか。
でもそれは苦しみが楽しさに変わるという話とは違う。
楽って言葉がありますけど、
それはだって私が必死になって30キロの荷物を持とうとするよりは、
ラグビーの選手が持つと楽なわけですよ。
これは重さが減るわけでもなければ、
そもそも重いものが軽くなるわけでもないわけですが、
でも楽にはなるわけですよね。
筋力があった方がというのが、
つまりネガティブケイパビリティというような話になってくるんではないかと。
心の筋力を増すみたいな話でもいいと思うんです。
ここでね、すでに本題に入ってますが、
ここで心の筋力が増すというのは意欲だけの話では絶対無理なんですよ。
私がユジやるぞって思って、
この荷物を持ち上げるのだと思って、
ものすごく意識的に頑張ったとしても、
これは無意識じゃないですよね。
明らかに意識的に頑張る。
だから少しは重いものこれによって持てますよ。
瓶の蓋をグーってやっても開かない時に、
ものすごいグーってやると開くことがありますからね。
意志の力は関係ある。
ただし、だからといって私が超頑張ったからといって顔真っ赤にしたからといって、
長間よりも力が出せるってことは起こらないわけですよ。
つまりこれがネガティブケーパビリティに向ける非常に重要な側面だと思うわけですね。
無意識の心の力というものがネガティブケーパビリティのメインを占めてるわけですよ。
持ちこたえようとすることは非常に大事だが、
持ちこたえることができる力そのものは、
自意識だけにはよらない。
やっぱり無意識というべきなのか、
筋力が無意識なのかどうかは、
でも無意識に出る部分はやっぱりありますからね。
本来その人が持っている筋力みたいなものの全てを意識することはできないわけだから、
やっぱりこの持ちこたえる力というものが
高まってくるということ自体は望ましいというか必要なわけだと思うんですね。
これを精神分析という、
だからあれは一種の、
この比喩も誤解を招きそうだし完全に比喩なんですけど、
筋トレなんですよね。心の筋トレみたいな。
これは非常に僕は誤解を招くなと思うんですよね。
心の筋トレというと異常にマッスラーな感じがするし、
非常に意識的なものに思えるんだけど、
実際はそういうことをどうすれば起こせるのかということは、
分からないというのがこのネガティブ・ケイパビリティのネガティブって言葉の中の大半を占めている。
つまり未知との遭遇なんですよ。
昨日の話をするなら。
09:00
この未知がしかも単なる未知ならいいんだけど、
大変感じの悪い未知なんですよね。
未知の上にこのままではダメな気がする未知みたいな。
このままではダメな気がする時、
人はそこでじっと何もせずにいるってことがとても困難になる生き物なんですよね。
たぶんこれはですね、
蛇とかは割とそういう時にも何もしないでじっとしてたりするんですよね。
たぶん。
人ってすごい対策を打ちたがる生物なんですよ。
そういう話どっかで読んだことがあるんだよな。
これは生物だからじゃないんですよね。
人は都画層なんですよ。
今の時代はさらにそうなんですよ。
人のその部分が勝利を収めた感があるんですよ。
だからこのネガティブ・ケイバビリティっていうのは本当に、
あの本はまさにそれを強調するための本だからすげえ強調されてるわけですけど、
本当に強調したくなる部分なんですよね。
一歩間違えるとすぐ手を打ち出すのが我々人なんです。
しかもそれは成功に導かれてきてるんで、ここまでのところ。
絶対そうするべきだっていう信念のようなものが出来上がっちゃってるんで、
難しいんですよ、この力を発揮すると。
育てるとなるとまして、ほぼ使わずに過ごすっていうケースが多い。
だからちょっとでも増すとすごく楽になる可能性があるんだが、
そもそもちょっとでも増すという発想が最初からないという、
排除されているみたいな感じなんですよね。
ネガティブ・ケイバビリティというのは、
要するに今にも嫌なことが起きそうだが、なんだかよく分からない。
その時何もせずにいられるかっていうようなのに近いんですよね。
で、これは何もせずにいられるかどうかっていうのは、
ほとんど無理みたいなところがあって、
しかもそれを何もしないっていうのが非常に、
それ自体がネガティブな感じなんですよね。
すごい独特の雰囲気を帯びがちなんです。
精神分析は楽しいという本に、
この種のことは当然ゴロゴロ書いてあるわけなんですけれども、
遠畑海人さんが登場しているんですね。
山崎隆一さん編ですけど、
遠畑海人さんも、あの二人は非常に協調的な方々なので、
遠畑海人さん出てきて、
精神分析ってここでもちょっとしたディスカッションが起こるんですけど、
精神分析というのは、
特殊なことを引き起こすものではなくて、
普通に起こっていることなんだけれども、
それを体験するためには、
精神分析の力を要するという、
遠畑さんは人がいるんだっていうふうにさらっと言うんだけど、
僕はそこは実は厳密に言うと、
時があるんだなんですよね。やっぱりね。
だって同じ人間がそうできる時とそうできない時って、
12:00
普通にありますもん。
例えば、私だって基本食欲旺盛な人間なんだけど、
食欲が湧かない時ってありますからね。
そうそう、こういう時の使い方っていうのを僕はものすごく、
昔から割と意識している。
だって、私すぐ寝られる方だったけど、
寝られない時ってあるじゃないですか。
そして苦しいじゃないですか。
この、私は寝られない人っていないと思うんですよ。
ここで人を使うのが、私はどうしても避けたくなるのは、
単により差別的でなくありたい。
それはそうは思いますけど、そういうこともそうですが、
やっぱりしっくりこないんですよね。
なんとかな人っていう言い方は。
でも、その人だって寝られることはあるに決まってるし、
食べられることもあるに決まってるわけだから、
そうじゃなくて寝られない時がある。
そういう言い方しますでしょ。
私は寝られない人なんですとは、
あんまり相当踏みに苦しんでる人でも、
なかなか言わないと思うんですよね。
寝られない時があるんです。
食べられない時があるんです。
で、そりゃあるじゃないですか。
私ぐらい食べるのが好きな人間でもあるんですよ。
例えば、私お風呂大好きですけど、
風呂に入りたくない時はありますよね。
まあ、私は大好きだから、
温泉に朝早くから通うような人間だから、
そういうことは滅多には起きないけど、
お風呂に入れない人はいないじゃないですか。
お風呂に入れない人なんですって、
そんなことはないでしょ。
入ったことあるでしょっていう、
嫌いかもしれないけど。
だから時があるんですよ。
で、この感覚が、
僕は精神分析の感覚にめちゃくちゃマッチすると、
どこかで思ってるんですね。
で、これはタスクシュート以来、
私が年々と考えてきたことなんですよ。
本を書ける時があります。
なんですよ。
だって書ける時はありますもん。
どんなに書く気がしない本でも、
書ける時はあるんですよ。
もちろん書けない時はありますよ、たくさん。
書けない人はいないと思うし、
私は書ける人だとされてるんだけど、
書ける人だっていませんよ。
私全然書けないで困るってことは多々あります。
書ける人なわけじゃないですよ。
書ける時があるんだっていうことを、
タスクシュートでは、
私はこれも昨日もそうだったけど、
繰り返し喋っては、
何言ってんだこいつはみたいな、
なんでそこがそうなるのかが、
わからんわけですよ。
だってみんな知ってることだと思うんですよ。
眠れない時があります。
起きられない時があります。
そうでしょ。
起きられない人はいないじゃないですか。
どう考えたって、
起きることはできたことはあるはずです。
夢が見られない時があります。
夢を覚えてる時があります。
夢が夢だと気づく時があります。
私は明石を毎日見られますっていう人は、
僕は信用しないですね。
やっぱりね、
僕は明石部については相当こだわって生きてきて、
明石部を見るために、
アメリカ留学をしたほどこだわってますが、
明石部毎日見られるっていう人の言うことは、
僕は信じません。
でも明石部を見られる時はあるんですよ。
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多分どんな人でも。
これは夢の中で気づく時はあります。
でもこれは夢だと気づく人はいないと、
僕は思うんですよ。
で、この人と時を分けるというか、
僕はそれは自明であると思っているんですが、
だって寝られる時もあれば寝られない時もあるし、
起きられない時もあれば起きられる時もあるじゃないですか。
だから、
それを人で、
ジョギバーナード・ショーという
イギリスの皮肉屋の劇作家が書いてましたよね。
人は犯罪者を最低の行いによって判断し、
芸術家をその最高の行いによって判断する。
そう、そうなんですよ。
だから私はその判断の仕方はダメだと思うんですよ。
サルバドール・ダリーってそうじゃないですか。
奴は犯罪チックなことをする偉大な芸術家じゃないですか。
そういうことは多々あるじゃないですか。
その時々でその人の振る舞いが
非常に社会の利にかなったこともあれば、
非常に反社会的になることもあるはずなんですよ。
私なんかがそういう触れの大きい人間なんで、
ということを自分ではよく知ってるんで、
私だって非常に社会に称賛されていい時もあれば、
これを丸出しにするとかなりバッシングされるであろう時もあるんですよ。
みんなそうだって私は思うんですけれどもね。
まあもちろんその振れ幅が小さい人と大きい人、
当然大きい人は生きにくいってことになりますが、
だからもう犯罪ってやっぱりそこを切り取りますから、
そりゃそこを切り取ったらね、
そりゃあれですよっていう大手の塾の人が、
児童の死体をずっと盗撮していたっていう。
となった話をニュースで見ると、
あいつはもうそういう人なんだ。
ああいうやつなんだってなっちゃうじゃないですか。
擁護したいわけではないんだけど、
そういう時があるからといって、
その人が名門の学校に子供を入れる時に
めちゃくちゃ頑張る時もあるんですよ。
そういう時はないんだみたいになるっていうのは、
私はめちゃくちゃ不自然な発想だなと思うんですよね。
これは私は人に優しい発想を取りたいとかではないんですよ。
そうは思えないって感じがするんですよね。
ある人が特定の人間であるっていう、
ある特定のパーソナリティ、特定の対象、
たった一つの対象で生きているような人っていうのは、
いない、いるはずがない。
フロイトの第1だったっけ、第2だったっけ、
第1極書論なのかな。
これがちゃんと区別ができないあたりが、
私が精神分析家じゃないなと思うんですけど、
いずれにしても長自画、自画、異度っていう、
少なくとも彼は三対象を人間の中に見たわけですよね。
長自画は規範というものに従っていきたいんだと。
で、異度は私がしたいことがしたいんだと。
で、自画はその調整をすると。
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三者はいるわけですよ。
で、長自画なんです。他を全部圧倒すると、
規範で生きるだけの人になっちゃうし、
そんな人いないじゃないですか。
で、異度が他を圧倒すると、
ほぼ人間だとはみなされがたいですよね、
残念ながら社会ではね。
で、自画だけではそもそも何もすることがなくなるわけですよ。
だって自画調整したいわけですからね。
そういう意味でこの三者という、
三対象だと思うんですけど、
その主導権はどれが握るとかはなくて、
常に攻めき合ってる部分があるわけ。
実際三どころではないので、
でもフロイトがまず大きく三つの対象を示したわけです。
だから自己実現というものは精神分析にはないわけです。
なぜならば長自画は自己じゃない。
自画も自己じゃない。異度も自己じゃない。
で、さっき言ったように長自画が実現してしまうと、
その人はただ規範に従うだけの人になってしまうんで、
それ困ったことになりますね。
異度が自己実現するってことは、
多分社会的には何も実現していないと見なされてしまいますし、
そういう言い方は普通にはできないわけですよ。
だから自己実現、
自己実現って言ったときは自己が一体であることを指してますから、
そうじゃないんだという大前提が精神分析にはあって、
私はこの観点がすごい納得がいくわけです。
だから戸畑海人さんが言ったように、
恋愛中に恋愛していない人がいるんだと。
そういう人が恋愛するために精神分析をやるわけじゃないんだけど、
ある種の感情が精神分析ルームでは体験できて、
こういうことだったんだということがわかるみたいな、
そういう話なんですよね。
一方で論者、ディスカッションしている相手は、
そうじゃないんだ、精神分析では精神分析の中だけで起きる、
他では得がたいものがあるんだ、
っていう議論になっているんですけど、
私はこれ、実はね、どっちも正しいと思うんですよ。
僕はただ戸畑海人の言うほうが納得感は高いんですね。
どっちも正しいとは思います。
現実には、つまりだってですね、
人を愛するということがそれまでないまま生きてきたという人が、
精神分析ルームで人に対する愛というものを知ったっていうのは、
非常に他では得がたいと感じるに決まってると思うんですよね。
つまりありふれているわけじゃないんですよ。
ありふれているように見えるからといって。
なので、恋愛感情であれ、親愛の情であれ、親子の情であれ、
友情であれ、それらはありふれて見えますけれども、
見える人にはですね、
それらに遭遇することがそれまでなかった人にしてみると、
それは神秘体験に限りなく近いか、ほとんど同じものになるんだけれども、
ただそれが精神分析の外では絶対にないことかというと、
それはないんだと思うんですよ。
ただ、それまでなかったような人が得るということになってくると、
精神分析外では非常に難しい。
だから戸畑海人さんが言っていることと、
21:02
論者が言っていることは実は一致しているんじゃないかなと、
私は思わなくはないんですけれども、
違う話なのかもしれないですけど、
僕はそんなふうに思うわけですよ。
で、この時に絶対どうしてもネガティブ経営マビリティっているんですよ。
なぜなら恋愛感情をそれまで持つことができなかった人がそれを持つときには、
絶対にものすごいネガティブなものは、
そこで意識しないはずないからだと思うんです。
それは恋愛だとすごく不思議に思われるかもしれないんだけれども、
食べたことのないすごいおいしいものを最初に口に入れるときに、
それは多分食べることに大変抵抗があるからに決まってると思うんですよ。
ここでちょっと我慢して食べる、口に入れてみるって時に、
ネガティブ経営マビリティって話になってくると思うんですよね。
これ抜きにはそういうことは起きない。
で、それがたまたまパンとかだった場合、
いやなんかそれだってただのパンだよって他の人が言っても無駄で、
それを口に入れるってことがその人にとってどんなに大変なことかっていうのが、
一般的には理解されないので、
これを実現するために精神分析ルームみたいなものが設置されるという話なわけですよね。
だから、いやパン食べればいいじゃんって言っては全然ダメなんですよね。
で、信じましょうっていうのも、他の人が食べてるんだから大丈夫だって信じましょうっていうのも、
理屈としてはそんなようなところなのかもしれないんだけど、
そんなこと言われたって多分口に入れられないと思うんですよね。
なので、このネガティブ経営マビリティっていうのはですね、
ある意味神秘体験みたいな話がここに付随してきちゃうんですよ、どうしたって。
普通に考えてそのようなことは不可能だと。
だってその人にとっては人生において不可能なことだったわけですから、
起こり得ないことだったわけですから、
ダイムスが泣くような話ですから、そんなことはあり得ないんですよ。
あり得ないことがあり得るためには、やっぱりそれが結果としてどんなにいいことだとしても、
常にいいことであるとはそもそも限らないわけですからね。
だって恋愛って必ずしもいいことが起きるとは言い難いじゃないですか。
ここにも私は苦しみと楽しさというのは基本的には一致するって思う。
恋愛ってめちゃくちゃ苦しくなるじゃないですか。
それは恋愛そのものが苦しみに満ちているものだからだっていうわけではないじゃないですか、しかしながら。
恋愛には私はネガティブ経営マビリティっていると思うんですよね、どう考えても。
全くないままひたすらハネムーンが続く恋愛っていうのは、空想としてはよくわかるんですけども、
現実としてはそんなことは起こり得ないと思うんですよ。
極端に言うと、それこそパートナーに大恋愛中で、
一刻たりとも間を開けたくないほど好きなパートナーにLINE送って、
24:01
1分返ってこなかったってなったらネガティブ経営マビリティが発動されないとまずいってことが起こり得るじゃないですか。
既読になって1分ダメですよね。未読のまま1分ダメですよね。
ダメだと思うんですよね。
それが1日だったらどうなるのか、めっちゃネガティブ経営マビリティいると思うんですよね。
これ発動し損ねて修羅場を迎えるってことはただ起こると思うんですよ、普通に。
その修羅場に耐えないと結局関係が破綻するじゃないですか。
この修羅場に耐えるのはネガティブ経営マビリティですよね。
だからすごく楽しいことはすごく苦しいんですよ。
このことを精神分析が楽しいというタイトルに込められているんだと思うんですよね。
中に楽しげな話って出てこないんですもん、やっぱり。
で、私が今回、精神分析的心理療法ケース、いやあれは絶対精神分析ケースだと思うなって思うんだけど、
頻度の問題だけだよねっていう。
週4以上じゃないから精神分析的なんでしょ。
敵がつくわけですよね。
そんな問題なって思う一方で、上田克久さんというですね、
私はこの方の本は結構積極的に読むようにしている方なんですが、
やっぱり出すケースがですね、ひとひねりあるんですよね。
要するにこの上田さんのケースでは、いかにもこの方らしいんですけれども、
何一つ上手くいっている感じがしないんです。
全くネガティブケーパビリティなわけですよ。
で、要は不動意性向があったんだと。
で、冒頭から非常に精神分析的だなと思うのが、
この女性が不動意性向があったんだけど、精神分析的心理療法というものをやってみたいと。
で、上田さんが一つすぐに疑義を呈するのが、
被害者なのにお金を払って、それも高いのに手間もかけて、時間もお金もかけて、
心理療法をやるということには疑問が残るっていうふうに言うんですよね。
両親的だなとも言えるんだけど、そしたら女性が言うんですよ。
私は被害者なんでしょうかと。
これはすごいやっぱり、いきなり難しくなってるなって感じがするんですよね。
つまり被害者だとは思わないと。
でも被害に遭っていると社会では見なされるということは分かると。
で、心理療法を受けたいと。
分かんないじゃないですか。
分かったように説明することはできますよ。
例えば被害者であるという気持ちが否認されているとか、
それこそね、男尊女卑の世界で自分の被害というものに気づけないようにされているんだ。
分かったような説明はできますよ。
でも上田さんはそうは感じなかったと思うんですよね。
この人の言うことは分からないって感じた。
読んでてツクツクそういう感じがするんですよ。
27:00
だからそこがうまく書かれてるなとも思うし、本当にそうだったのかなとも思うんだけども、
大々にしてそうだと思うんですよ。
私は被害者なんでしょうかっていうこれは答えられないと僕は思うんですよね。
下手には答えられない。
しかし答えないのもおかしいっていう問いなんですよ。
こういう時にどうすればいいんだかが全然分からなくなるということが起きるんですよね。
で、この女性は一貫してこうなんですよ。
要するに何もなかったんだと。
こう言うんですよ。
いや不動輸成功あったんじゃないのって話なんだけど、
何も私は感じなかったし、実際何もなかったんだと言い換えたと。
ここもと否認したとは上田さんが書いてないところがやっぱり僕は感銘を受けますよね。
つまり精神分析には用語があるわけですよ。
これを否認と言っていいはずだと。
否認って書く人はいっぱいいると思うし、僕だってすぐ書きたくなっちゃうと思うんですよね。
だけども彼は否認したとは書いてないんですよ。
この言い換えに自分は心を打たれたかな。
だからギョッとするよねっていう。
ベータ要素だよねでもいいんですけれども。
でも最初に感じることは否認しているではないかな。
それは解釈ですよね。
で、否認していますよねって言ったっていけなくはないと思うんですよ。
でも何もなかったんだとこの人は言う。
で、上田さんは結局それに対してはただ持ちこたえるっていうのかな。
だからネガティブ・ケイパビリティっていえばそうなんでしょう。
とにかく本当はどうか知りませんよ。
でも雑誌の中では否認したとは一言も書いてないわけですよね。
このまま行くわけですよ。
そしてその女性が何にもないっていうことを強調する。
それはつまり太い性格があったからではないんだと。
子供の時からそうなんだと。
母親がここら辺に何かあると思うんだけど
普通に育てようとしたしすごく厳格だったと。
自分は普通に育っていてだから何もないんだと。
特徴が全くないという言い方にも聞こえますし
自分の願望が何もないという言い方にも聞こえますけど
とにかく何もないと。
全くそのように上田さんの心理療法も進行してしまうわけですよね。
何にも起きていないような感じがずっと続いていくという。
上田さんがだんだん耐えられなくなっていくんですよ。
これはつまり太い性格をさせた男性がその女性を搾取したように
30:05
自分もただこの女性からお金を搾取しているだけ。
これが精神分析的な考えなんですよね。
だからそういう解釈もしてみたけど
自分でもこういうふうに信じている気がしない。
全くそういうふうになっていくわけですよね。
自分でもそんなことを信じている気はしない。
女性は首をかしげてそうなんでしょうかと言う。
つまり私はここに来て無駄な時間を過ごして
あなたに搾取されているとあなたは言うけど
本当にそうなんだろうかと答える。
上田さんは上田さんで
そんなふうには自分でも思っていないんだけど
だけどここでは実際価値があることが起きている気はしないし
というチューブラリンなわけですよ。
そしてまた年月が経っていく。
このやり取りが続いていく。
またいつものように女性が
夢の報告をするとか
いかにもそれっぽいことをするって話ですよね。
夢の報告をするとか
起きたことをしゃべるとか
そういう話をした時に
上田さんが耐えられなくなって
という形なんですよね。
ちょっと待ってくださいと言う。
しばらくやり取りした後に女性が
さっきちょっと待てと言ったけど
何を待って欲しかったんですかと。
こういうやり取りなんですよね。
つまり別に何も待って欲しかったわけでも
何かを待たせたわけですらないわけで
ただこの何かよくわからない進行に
ストップをかけたかった。
でもこの何も起きていない進行に
ストップをかけてみたところで
何も起きないじゃないですか。
一体何にもないところの
ストップをかけるということは
何をしようとしたのかと。
上田さんが多分この辺が
話の一つのピークなのかなと思うんですけど
何を待って欲しかったのかと。
何かしゃべりかけるのを
待たせたかったわけではないな
ということになって
待たせたいことなんか何もなかったんだ
ということになって
これはだから考え
重いって言うんでしょうかね。
とにかく考えているうちに
要するにここで何も起きていない
という事態を何とかしたかったんだと。
そうするとでも変な話になっちゃうんですよね。
何も起きていないものを待たせて
何も起きないっていうことになるということは
つまり待ってもらっているわけでも
何かをストップさせたわけですらないわけですよ。
最初からストップしてるわけですから。
女性がまた
33:01
不思議なことを
この辺がピークだと思うんですよね。
先生は私がここにいると思いますか?
って聞くわけですよ。
これもまた大変ですよね。
どっちかというとこの問いは
小枝さんもそう書いてたかな。
逆だよなっていう感じがするんですよね。
でもどっちが言っても
同じことなんですよね。結局ね。
だから自分
例えば不動意成功したときに
もう何もなかったというぐらいなんだから
そこには誰もいないんですよ。
だから上司の男は
搾取したと社会的には認定されるのかもしれないが
女性の心的現実としては
搾取ということは起きてないわけですよ。
男性はまだ何もしてないわけですよ。
もちろんそれは成功らしきことはしたんでしょうけど
それはあくまでも成功らしきことであって
何もしてないんですよ。
何かしたことにはならない。
で、問題なのは心理療法も同じで
そこでお金は払う、話はする、話は聞く
精神分析的な物思いにふけたりもする。
でも何も起きてないんだから
搾取も起きてないんですよ。
こういう話をしてるんだと思うんですよね。
でも女性はこれを問いで
多分どうにもならなかったんで
もう一歩踏み込む。
ここで何かが起きてはいるんですよね。
もう一歩踏み込んで
私は乖離なんでしょうかって聞くんですよね。
この辺で思って私は
上野さんのこの話は終わってるっていう感じがする。
実際に終わるんですよ。
このまま。
これやっぱり僕はすごいなと思うんですよね。
これ書けるように雑誌の中でですからね
なりたいとは思いませんけど
別にならないでしょうけど
でもこれを書ける人は
何て言えばいいのかな
別にいいですよね。
偉いなと思いますね。
僕が言うのも変ですけど。
つまりなんだろうな
何て言えばいいのかは分かりませんが
腹を立てる人もいっぱいいると思うんですけど
もちろんそれはそれでいいと思うんですけれども
上野さんから見れば
これは本当のところだっただろうっていう感じが
やっぱりすごく伝わってくる。
偽装は変わってると思うんですけど
いろんな精神分析的
精神分析のケースになるものを
雑誌読めばもちろんたくさん読むことができて
全部すごいなと思うし本当だろうと思うんだけど
どれもこれも必ずある一つのパターンがあるわけですよ。
例えば何事もないように進展する。
しかしなんかこう
情緒的なやりとりが激しくなってきて
破綻気味になってくる。
そこを持ちこたえているうちに
36:01
それぞれのエピソードはあるし
それぞれの葛藤とか苦踏も感じられるし
なるほど松木さんが書いてるような話でもあるんだけど
なんかこう
いやそれは本当だと思うんですよ。
嘘だというわけじゃないですよ。
それらの人たちの方が上田さんよりも
仕事をしているということもあると思うし
逆もあるとは思うんですけど
いずれにしてもそのようなことは
重大な話ではないし
どれもちゃんとした仕事だって感じは
どれもするんですよ。
ただこの上田さんの話というのは
なんていうのかな
それが一番いいやり方だという話ではない
と僕も思うんです。
それは他の誰かがやれば
もっといい事態になるのかもしれないけど
ただですね
難しいですね。
ただその
なんて言えばいいんですかね
リアルっていうものが
楽しいにせよ苦しいにせよですよね
リアルっていうものが
リアルであって
そして私たちは結局それを
否定するって無理があるなと思うんですよね。
リアルだと思っているものまで否定する
これは夢だとか
これは空想だとか
それは妄想に過ぎないとか
はできると思うんですけど
これはリアルだと思ってしまった
ものまで
それを否定してみたところで
結局
なんか僕がよく思うことがあって
生きるってことが
信長じゃないですけど
下天は夢だみたいなことを言ってみたところで
そういう風に考えることによって
彼のように超ラディカルなことをやってのける
みたいなことはできるかもしれないんだけど
でも結局
だって夢だって言ってるけど
あんた死にそうになると逃げ出したり
憎くなると殺そうとしたり
それは夢だと思ってないからするわけじゃないですか
だからリアルっていうものは結局
どっか尊重しておくしかないようなところがあって
生きている以上はですね
死んだら分かんないですけど
生きている以上は
これが幻だろうと夢だろうとなんだろうと
それに巻き込まれちゃっている
ものなんだよねっていう感じ
だから相手の人が
私はここにいないんだとか
何事もなかったんだと
でも心理療法はしたいんだと
そしてやってることは心理療法になってないんだと
そもそも私はここになんかいないんだとか
言ったって巻き込まれちゃってる以上は
もうそれを
やっぱりでき得るレベルで最大限受け止めるより
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他にしようがないんじゃないっていうか
それを少しでも増やそうと思って
時間を過ごすしかないじゃないですか
って感じなのかなと思うわけです
その
乖離だって言うならば
その線に沿って最大限考えていくみたいな
そういうことしか
できなかったりするじゃないですか
この人は辞めた後で
結婚もするわけですよ
またまさにそういうことを言うわけです
あの人が
私だと思う私と一緒に過ごしていければいい
まさにそうですよね
その人にとっては
本体とかは意味がないわけですよ別に
そうであるほうがもともと何もない
普通に育てられようとした空っぽな私なんだから
そうであるほうがまだマシなんだ
このまだマシって言葉が後半ずっと続くわけです
最後に上田さんがこの事例ケースを紹介するにあたって
最後に書いてくるのが
彼女が書いて起こすのが
あなたが知ってくれていたからそれでいいんですと
紹介しようと何を出そうと構いませんと
結局それは上田さんの知っている私でしかないからですよね
上田さんが知ってくれていたからそれでいいんです
っていうそういう書き方なんです
だからこれを性被害に遭ったんだから
こういうふうにするべきだとか
そういう支援の在り方って普通に今では
むしろ普通かもしれないですよね
この状態は一種のアパシーだから
精神科的な治療をして
社会福祉支援的な方向から支援するのが正しいんだ
っていう人も当然いるでしょう
という書き方を上田さんは知っているわけですよ
でもそう信じて
究極的には信じていらっしゃらないんだろうと
私は思って読んでいるわけですけれども
でもつまり
いないということを言っている人に
究極性を感じましょうとか
怒りを怒れるようになるとか
悲しみを悲しめるようになるとか
それはどこか中立ではないわけじゃないですか
もちろんその方がいいっていう前提を持っているところは
精神分析という意味でもあると思うんですよ
そう感じられたらいいのにとか
それはひどい体験だったとか
でも本人の尊重をすればいいってことにもならないんだけど
他にできなかったというあれは事例なんですよね
だから失敗という言い方をするならば
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これは失敗なんだろうと
搾取という言い方をするならば
これは搾取なんだろうと
非社会的だという言い方をされるなら
これは非社会的なんだろうと
でも相手はそれでいいと言ったし
自分はそういうふうにやったんだという事例なんですよね
でもそういう話ですよね
精神分析にせよ
心理臨床にせよっていうことだったと思うんですよ
私はとにかく
何て言えばいいんですかね
偽装もあり実例に基づいたものでもあり
上田さんの臨床なんだろうな
そうそう結局でも
この上田さんはこうやっているんだなっていう
私がこうやってるわけではないんだっていうことが
同時に読んでいる間中ずっと伝わってくるっていうのが
いわゆる臨床ビネットというのか
心理ビネットって臨床ビネットかな
まあいいやそういうことです
そういうふうに思えるのがいいものだと
いい症例論文だなというふうに思った次第ですね