1. 佐々木正悟の自由連想
  2. 精神分析は苦しい
精神分析は苦しい
2026-09-01 35:41

精神分析は苦しい

楽しんで野球をやっている野球選手が、やがて野球をやることを苦しく感じるようになる。そういうこともあります。

でも、苦しんで野球をやっている人が、それが楽しくなってくる。そういうこともあります。

野球の話はしていませんが。
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00:05
おはようございます。佐々木正悟の自由連想をお送りします。 9月になってしまいましたね。9月1日火曜日。朝の7時57分です。
いやー本当おはようございますというところですし、 今日からは
新学期と、私にとっても同じですが、夏休みが終わってしまいました。 これ一つとってはね、ああ
って感じがしちゃうんですけど、まぁまぁね 言ってる人に比べればまだ
ここでこう収録していられる立場は 開くなもんだと思うので、厳しいんですけどね。
50代になるとですね、この時間に起きて収録するだけでも結構 こんなことに体ってなるんだなっていうのはね、あまり考えなかったですよね。
やっぱり若い頃になるんだなぁと思います。 昔なんか4時代に起きて本とか書いてたんだけど、
とても信じられないですね。 この時間に起きるというのも難しいが、まぁ今でもでも5時代に起きてるわけですが、
本は書けないですね。 あんな脳の
こう ある意味沈没している状態ではですね。
まぁ今私あれは対抗だって思うんですけれども、まぁ同じですよね。 そんな幼い脳でものは書けないと思いますね。
はい、改めまして今月9月に入りましたので、いろいろお知らせさせていただいたりしてますが、9月の26日に
山崎隆明さんとのセミナーがありますので、人望帳で
リアルではやりますが、メインはオンラインというふうに、前と全く形式は同じでして、前の続編ということにさせていただいております。
でまぁ、また野の医者があるいは野良カウンセラーが正規の臨床課に話を聞くみたいな、そういう話です。
今回たまたま、たまたまではありませんが、8月末に精神分析は楽しいという臨床心理学誌の増刊号が出まして、
私はそれを楽しく読ませていただいているわけですが、私は後ほど述べますが、精神分析はどう考えても苦しいが、
しかしこの苦しいと楽しいって結構密接に関わっていると思うんですよ。この話も後ほどしますけどね。
いずれにしても、ああいうところに僕がノコノコ出ていくこともシャシャリ出ていくことも呼ばれることも決してないので、
さらに、これは僕の官邸な位置づけで、その番外編、あそこには正規の人しか行かれませんが、
03:07
ああいう話を非正規の人間もしてみたいぞというか、まあしてみたいわけですよ。
さらにそれに興味を持ってくださるという方がいらっしゃったら、ぜひご参加いただければと思います。
参加した方は、私と基本的に、正義の方もいらっしゃるかもしれないけど、基本的にはどなたでも参加できますし、
議論にも加われるという意味でですね。なんなら雑誌にしたっていうわけだからね、別に。
臨床心理学士っていうわけには絶対行きませんけれども、勝手に雑誌作るのは構わないわけですから、
そういう意味でもご参加いただいて、大いに参戦していただけると、すごい嬉しいと私は思います。
で、その前に9月の24日直前ですね、日にち的には、私と松崎さんの協調、
戦略的無計画という本が出ます。これも書籍非常に好調なようなので、
ぜひ、ちょっと一言言っておきますと、この戦略的無計画っていうのは僕にとってはですね、
普通にやってることとも言えなくはないわけですよね。私ほとんど計画って立てないので、
タスクシュートやってるだろうって言われるかもしれませんが、タスクシュートにあるあれは計画でもなんでもないので、
あれは勝手にリストがアップされてくるだけのものなんですね。
だから、でもタスクシュートに乗っかっているということは、計画らしきものが、まあ無計画にですけど乗っかっているということは、
戦略的ではあるわけじゃないですか。結局タスクシュートを使うという一大方針を持っているわけですから。
というわけで、ある意味ではそれはまさにそういうふうに私も日々過ごしていますということです。
なので、タイトル的にはですね、私が日頃普通にやっていることでもあると。
お手に取っていただければ、主にというかほとんどJ松崎さんが書いてくださったので、非常にタッチとしては読みやすくなっています。
私が書くとですね、どうしても理屈っぽくなりますから、この番組聴いている方は皆さんご存知の通りです。
私が変にシャシャリ出ない方がこれもいいだろうというところもありますが、
とにかく私がシャシャリ出ていくと、どうしても理屈っぽく、小難しくって皆さんおっしゃるんです。
私はこれが難しいとはとても思ってないんですけれども、それは皆さんの方が、これを聴いている皆様の方が僕より頭いいと思うんですよ。
だから私の言うことなんかが難しいはずがないみたいに僕は思うんですけれども、
一方で僕は難しいことを難しく言うのは簡単なんだっていうやつで、
難しいことを優しく言うっていうのは非常に無理があるなって僕なんかは思うんで、
06:00
努力はしますけど、限度があるなっていうか、違うことを話すことになってしまう。
静止分析も優しく話せるならとっくに頑張ってるっていうか、自分はそんなに難しく話してるつもりはないんですが、タスクシュートもですね。
難しく聞こえてしまうというのはやっぱり基本的に見るポイントが違うとか、
こだわってるところにこだわっているとかその逆とかいないとかね、そういうことが関係あるんだと思うんですよ。
例えば私タスクシュートというのは、説明するとなるとですね、一番シンプルに言うと、
例えばこのポッドキャストはさっき7時57分に始めました。
8時半ぐらいに終わるとちょうどいいかなぐらいに思ってるけど突破するかもしれませんが、
いずれにしても8時半に終わりました。
で、ポッドキャスト収録7時57分スタート、8時半終了と。
これを言うならばタスク形式でスタートし、ログ形式で終了するのをひたすらに繰り返す。
で、嘘のないようにするだけなんですよ。
こう言うと、この話それ自体を理解できないって人はあんまりいらっしゃらないと思う。かなりいない。
ほとんどいないと思う。
でも、それが何になるんですかと直ちに問われることによって、結局よくわかりませんと言われることになるわけですよ。
で、私はそれはその人のこだわりがこれの理解を妨げることになるんだろうと思うんですよ。
こう言うと失礼かもしれませんが、しかしこれが何になるかを先に知りたいというこだわりというのか欲求というのか、
当然の願望かもしれませんが、皆さんお持ちのこれをするとどうなるのっていう。
で、私はその話してないじゃないですか。
なぜならタスク主導とは何かというときにタスク主導とはこういうものですと言っただけなんですよね。
だからここをまず理解していただかないとこうやるものなんだなっていうところを、
そしてそこには追記して言うならば20年間それをやってきましたという背景があり、
時間のことで私は今まあ困ってませんということもあり、
人並みには忙しい50代ですということもあるわけですね。
これらの事実を合体させていった先に、合体させていったというところをまず踏まえてほしいということなんですよ。
一見したところ、これをやるとどうなるのかというのを上手いこと記述してもらえると良いことがあるように思うじゃないですか。
ところが私はそれは全くそんなことはありえないと思うんですよ。
これをするとどうなるのかを言葉で記述されたからといって、
それをして同じ人が同じようになるという保証にはなってないと思うんですよ。
言葉というものは現実そのものでは絶対にないわけですから、
現実に届いていない部分があるわけですよ。
09:02
この辺から話が難しいと言われるのかもしれないけど、
それはですね、早く良いものを得たいという欲求が何かを妨げている可能性は否定できないと思うんですね。
私の話それ自体はただ受け止めていただくだけならば、
そこまで理解に苦しむというほどの話はしてないんですよ。
私が言っていないことを言ってほしいと思われるときに、
私の話が難しいと聞こえるということが起こるんですね、多分。
それはタスク管理とは絶対にこういうものであるべきだとかあるはずだという、
これをすることによって時間が空くとか、
記録を組まなく取ることによって無駄な時間を減らすことができなければいけないという前提をお持ちだから、
私の話がそのままは受け取れない、すなわち難しいものであると。
要するに佐々木はタワゴトを喋っているように聞こえるわけですよ。
僕はそれは失礼なことでは実はないと思うんですね。
本来言葉とはこういう行き違いを生み出すものであると思うんですよ。
この行き違いを生まないんだったら、
あんまり言葉のやり取りをする意味って得にくいんじゃないかと思うんですね。
この辺から本題に入ってます。
なんとなく入っちゃうんですよ、本題にね。
つまり、アルファ機能という本題ですね。
母親機能は、例えば外の景色を見て、
1歳児がアーって言う。
そしたらお母さんがアメダネと言う。
これはね、そこでほほえましいやり取りがされたという風にのみ記述されることが多いんですけど、
いやいやいやいや、まだ子供の方はそれに同意してない。
さっきの私の話と実は同じなんですよ、ここにあるのはね。
アメダネは難しくないじゃないですか。
実に簡単じゃないですか、私たちにとっては。
しかし、アメダネと自分で言えない子供にとっては、
実に難しいことですよね。
そして、これはこの後どうなるのかとか、
お母さん言ってないですよね。
雨はしばらくしたら止むよとか、天気予報士じゃないからね。
そういう言う構えもあるかもしれないけど、言わないかもしれないですよね。
すごい降ってきたね、ということになるのかもしれないし、
もうすぐ止むのかもしれないですけれども、
とにかくまだ言われてないことがあるわけですよ。
子供はね、例えば雨がザーッと降ってきた。
これは楽しそうだから遊びに出たいと思ってるのかもしれない。
でも、お母さんは次にこう言うわけですよ。
雨だからお家に入ろうね、と。
いやいやいやいや、それは全然難しすぎてわかんないですよ。
なぜ雨だからお家に入らなければいけないのか。
そんなことは一切時にはわからないじゃないですか。
12:02
これこそが私がよく思うところの言葉の位置違いに含まれているものだし、
こういうことは私は全言語、全コミュニケーションに
常に存在していることであるとしか思えないわけですね。
だって雨と一言言ってみたところでですね、
私が今思い描く、今ですよ、まさに。
後で思い描く雨はまた違うんですよ、きっと。
今思い描く雨と今その大変なことになっていますよね。
その福井県の方々などが思い描く雨とは全く違うはずですよね。
共通言語、共通認識、共通理解とよく言いますけど、
あるいは認識の共有とか言いますが、
そんなことはできないことなんですよ。
で、できる部分とできない部分とあって、
おそらくできてない部分の方が大きいわけですよね。
このできてない部分のことを私はベータ要素と呼ぶんだと思うんですね。
現実の一部をアルファ要素に変える。
で、これはもう私たち無意識にやってるから気づいてないんですよ。
無意識にやってることには気づきようがないですよね。
無意識にアルファ要素に変えていく。
これをふんだんにやってるうちに、いわゆるアルファ思考というものに進む。
このアルファ思考までは全部無意識に起こるんですよ。
昔々お母さんがその片鱗を手伝ってくれたんですよ。
これを見たら雨だと言っている。
これは雨だというものなんだみたいな。
雨だですよ。雨じゃないですよ。
抽象言語じゃないんで。
話し言葉なんで。
雨だねとか、雨だからお家に入ろうねとかなんですよ。
濡れないようにしなくちゃねと。
子供は濡れるとまずいのかな。
そうは思わないんですけど、濡れるとまずいのか。
雨だと家に入らなきゃいけないのか。
でも雨だということによって、なんかお店とか飛び出していく人もいるわけですよね。
子供はそういうのを見ますから。見てますからね。
いや、雨だと家飛び出すんじゃないの?みたいに思う人もいるわけですよ。
これを相互と言ったり、誤解と言ったりするんですけど、
それはですね、まるであたかも理解と誤解があるみたいな話なんですよ。
そうじゃないと思うんですよ。
常に我々は誤解していなければおかしいと思うんですよね。
共通理解というのは本当に一部分だと思う。
でもこの一部分を使って我々は思考のベースを作る。
つまり夢思考というもの。何か夢かな。夢を見る。
ここまでは無意識にあるんですね。
お母さんがやってくれたのはそのほんの一部です。
人間はこれを誰かが、母親だけではなくいろんな人がやっているのを見ては、
こうやるのか、こうやるのかって、これをやる能力を持ってますから。
だからこうやるのかと。
でもそれをこうやるのかって言っているのは自意識じゃないですよ。
いちいちそんなのはやってないじゃないですか。
こうやるんだ、こうやるんだみたいに。
そうじゃなくて、どんどんどんどんこれを無意識に蓄積して、
自分の中でアルファファンクションを作っているわけですよね。
15:01
そうして思考の土台を作るんですよ。
だからここが何らかの理由でストップしましたっていう事態に対して、
人は悩む。
この悩みを、この思考がストップしてしまいました。
ベータ要素がなぜかアルファ要素に、この種の、どの種のだっていうのは難しいんですよここはね。
この種の事態に対しては、ベータ要素はアルファ要素に変えることが、
なぜか私の心ではできないみたいです。
悩みというのは、このことを全部を指すと思うんですよね。
ごく、蜂の鼻ここに小さいとか大きいって意味ないですね。
このことに際しては不可能になりますっていうのは、
人によって全然違うんです。
で、それに対して他人は、いやそんなのは悩むには対してない。
それはあなたがその事態に際して、アルファ要素に変えることが無意識にできてるからそう言えるのであって、
何であったとしてもできない可能性はあるのであって、
できないことではみんな悩んでる。
あらゆることをアルファ要素に変えることのできる人は、
私はそれをお釈迦様と言ってるんじゃないかと思うんですよね。
基本無理です、基本。
だからみんな悩んでるわけです、そういう意味では。
ベータ要素、この点については、ただそのことも忘れてますから。
というかそれを無意識にやってることなんで、
できないことがあるということ自体になかなか気づかないんですよ。
できないことにすごく悩まされていて、
日常を往々にしてそれによって自分が止まってしまうっていうことを経験している方でないと、
自分がある種のベータ要素、
例えばそういう場所には近寄らなければいいとかっていう人もいるわけですよ。
例えばめっちゃ高所が、高所に入ると途端にそれが起きるって人はいっぱいいる。
だから高所恐怖症という、高いところ行かなきゃいいじゃん。
高いところだったらそれですむよね、と思います。
しかし、でも勤めてる会社が今度ビルの30階になりましたみたいなことって起きるわけじゃないですか。
これが悩みですよね。
思考というのは、よく精神分析で思考できるようになる、考えられるようになるというのは、
一生懸命意識して考えるって話をしているわけではないんですよ。
本人の責任ではないんですね。
アルファ要素に変えるというこの無意識の思考が、
我々がよく言っているところの思考のベースを最初から用意してくれるようにしましょう。
っていうのが精神分析なんですよ。
どうやるのっていうと、さっきのお母さんの雨だねと同じなんですよ。
ある状況に対して、
アルファ思考、これは無意識ですね。
無意識に、分析家がやるんですよね。
無意識にアルファ要素を化し、無意識に夢を紡ぎ、
その夢思考から現れてきた言葉に直る部分を、
共通理解言語として吐くんですよ。
喋る。
これを聞くと、だいたいダメですよね。
18:03
それをやられるということ自体がダメですよね。
だけれども、これを何とかダメじゃない形でやる。
それを繰り返しているうちに、ある事態に対して、
ベータ要素からアルファ要素に変えられない事態に対しても、
部分的に変えられるようになっていくのではないだろうか、
という多分仮説が精神分析にあると思う。
これが全てではないけど、あると思うんですね。
これってどういうことかと言いますと、
最初に二人は精神分析なり心理カウンセリングなりで
遭遇するのはベータ要素なんですよ。
分からないことってよく書かれているのはそれなんですよね。
二人にとってこれを無意識の夢思考に変えることもできない。
したがってそれについて意識的に考えることは当然できない。
何も思い浮かんでいないから。
さらにそれについてコメントするなんてことはましてできない。
何かコメントすればおそらくトンチンカンなことを言ってしまうか、
関係ないことを言ってしまうことになるわけですから、
つまりこの分からないものを二人が前にしてみたときに、
大いにただひたすら思い悩むことになる。
これを多分私はネガティブケイパビリティというんだと思うんですね。
だから最初に発揮するところはそこからになっちゃうんですよ。
ネガティブケイパビリティを発揮する。
これはちなみにキーツとかいう詩人の言葉だったと思います。
ビジネス界に登場してきた言葉ではないです。
それをさらに精神分析家のビヨンが着目して引っ張ってきたんです。
それを心理カウンセリング一般で使うようになり、
ビジネス書の世界にも割と登場するようになったという流れなんですよ。
多分ね。
この分からないものを前にするという恐怖がそもそもあるので、
これはほとんどホラーなので、分からないって言っても何もないわけじゃないので、
非常に不愉快であったり、
そうですよね、だって自然には言葉に直んないんで、
ザーッと雨が降っていますっていうような情景ではないんですよ。
なんかこれから大変、
私の手に負えない事態が紛糾しそうな予感がするみたいな、
せいぜい良くてこのレベルだし、
ものすごく嫌な感じがするっていうことが起きる。
ベータ要素っていうのは何でも大々そうです。
高所恐怖症者にとっては高所に連れて行かれるようなものなので、
非常にだからそもそもその事自体が起きるっていうことに問題があるわけですよ。
問題があるというか、非常に恐ろしいのであるわけですよ。
手に負えないというのがまさに手に負うっていう、
手に負うのが母親なんだと思う。
ホールディングってそういうことだと思うんだけど、
手に負えないんですよ。
だから自分の心の中の母親が放棄してしまいそうだっていう事柄なんですよ、これは。
21:02
こういう事態に際した時にそれを言語化するとかってナンセンスじゃないですか。
一番我々にとってまずネックになっているのは、
あとこれはもう僕の持論で、ここだけに近いぐらいな、
これは下手なところで書いたりすると炎上する案件なんで、
どっかで炎上覚悟でやるべきなのかでも、
そういう万有を振ると大体ろくなことが起きないんでですね、
私はやっぱり慎重に行きたいと思うわけですが、
多くの我々の時代にとってこのネガティブケイパビリティのベータ要素の遭遇なので、
まず一番何が引っかかっているかというと、
これはもう我々の生きている時代と、
我々側に施された徹底的な学校で習ったという意味ではない、
学校ではもちろん習うんだが、
大きな力として答えが先にあるんだという考え方があるんですよね。
これはスピリチュアル界まで覆っているんで、
本当にこれにだから逆らうというのは灯籠の斧、いいところなんですよ。
灯籠の斧ってカバキでね。
本当にですね、先進分析というのはもはや無謀な挑戦になってきたなと。
答えは決まってなきゃいけないんですよ。
医療におけるインフォームドコンセントですよね。
だってインフォームドコンセントはやらなきゃダメでしょ。
違法に近いですよね、それを求められているのにしないって。
どうなるか分からないけど手術しますとかダメじゃないですか。
でも分からないものを前にしているのにどうなるか分かりますっていうのは疑問じゃないですか。
分からないものを前にしないんだったら悩まないんですよ、結局。
本当の意味で分かってるんだったらおそらく我々はそれについて悩まないんですよ。
悩むっていうことは、一番分かりやすいのが食べ物、しかも好きな食べ物ですよね。
これ何だろう、口に入れてみようっていう人はかなりまずいじゃないですか。
やっぱりこれはおにぎりだ。だから絶対大丈夫だ。
ほとんど何もそんなこと考えずに口に入れますよね。
それが悩まないってことであり、それは分かってるってことなんですよ。
なんかこのエタイの知れない虫だか生物だか爬虫類だかの死骸で半分腐ってるような
でも何だか全然分かんないけどとりあえず口に入れてみよう。
しないじゃないですか、絶対にそういうことは。
我々はβ要素というものを前にした時の衝撃ってそういうもんだと思うべきなんですよ。
食卓にこいつが降ってきました。どうすんだこれみたいな。
手に負えないでしょ。だからこの手に負えなされの遭遇という問題について分かりませんと。
ここからスタートなんですよ。
でも一切地は雨を見ても分かんないわけですよ。
なんかすごいことが起きている。
そんなにβ要素じゃないかも。でもβ要素だと思いますね。
24:01
恐怖の対象ではないかもしれないが、やっぱり未知との遭遇なわけですよね。
少なくとも何であるからどうするっていうことが分かってるわけじゃない。
分かってるのは親ですよね。
ここに大きなポイントがあるわけですよ。
分かっている親はどういうことをしてくれるのか、どういうことを言い出すのかっていう。
これが内在化された母親。私たちが母親として内在化する。
だから未知との遭遇が起きてしまったときには母親機能が要するに停滞するんだけど、
だからここで二人が、もう一人の人間。
つまり願わくば全く同じ事態に陥らずに済む人が登場しないと困るわけですね。
だからカウンセラーとクライアントさんが二人して高所恐怖症で
サンシャインのてっぺんでカウンセリングしたらアウトなんですよ。
それはダメですよねやっぱりね。
二人ともただただ怯えてしまって、いや大丈夫ですよとか言ったって、
全くどうしようもないじゃないですか。
大丈夫でもなんでもないじゃないですか。
そのようなことにならないように多分精神分析というのは余れているというか、
セッティングされている。
ただよっぽどのことがない限り、
持ち込まれているものと全く同じことでパニックに陥るようなことはないわけですよ。
そしてある程度カウンセラーの方は、
自分が何に脆弱性を強く持っているのか知っておく必要があるわけですね。
もし持っているならば。
それが訓練分析と呼ばれるもので、
結局だからやることは精神分析か精神分析に受けなきゃいけない。
そういうことなんだと思うんですよね。
それによって高所恐怖症を克服するというのはないですよ。
自分には何が降り注いできてはアウトなのかを事前に知っておくということですよね。
ここでも事前に汁が出てきますよね。
こうして私たちはですね、精神分析の世界ですら同じなんですが、
あらゆることにインフォームドコンセントが効くかのように思い込んじゃっているところがあるんですよ。
これが僕は、だから私は精神分析的ビジネスコンサルなどというものをやっているわけですが、
いやいや、仕事の世界だろうとビジネスの世界だろうと夫婦関係だろうと、
ベータ要素はそこら中に溢れているんだよと僕は言いたいわけですよ。
何かさも近代的オフィスでピカピカしている大学の建物みたいなところに行けば、
あらゆる問題は最初からアルファ化される直前の状態になっていて、
遭遇したものは自動思考がどんどん働き、
それについて意識的に明快で知的な思考を働かせれば、
仕事はスマートにさばかれていくという、そういう幻想があって、
この幻想が強力すぎて、必ずと言っていいぐらい私は、
ビジネス界の物知れやかさみたいな扱いを受けて、
佐々木さんこういう場合どうしたらいいのか、
またあたかも答えは最初から存在していて、
私がそれに対して答えればいいみたいに、
それをコンサルタントって言っているんだっていう、
そういうのはあると思いますよ、もちろんコンサルティングの中には。
27:02
でも私のスタンスは真逆なんですよ。
大概分からないんですよっていう。
そして仮に私が分かってたとしても、
あなたに分かっていないということに、
あなたが遭遇したときにはインパクトがあり、
思考が停止するようになっているから、
答えだけ私がそこにポンと投げたところで、
大概は意思疎通の停止が起こって、無駄に終わる。
これがだからアドバイスというものが
消去される理由になっていると思うんですね。
さっきのまさにタスクシュートがそれなんですよ。
時間に困っているのでしたら、
時間に困っているという事態に遭遇して、
しかも解けないわけですよね。
それはベータ要素になっているわけですよね。
だから私に相談されると。
それだったら7時57分スタート、
8時30分終了というのをつけてください。
これが私の知っている答えなんです。
これを返すとどうなるんですか?
って必ずなるわけですよ。
分かられないわけですよ。
分かっていることを返しただけでは。
それでは何も分からない。
もっと分かるように説明してくれ
ってことになるわけですよ。
しかしその方が遭遇しているのは
ベータ要素であって、
だから結局これを繰り返していくことになるんですけれども、
それについて答えなるもの、
こうすればうまくいくんですなるものを
言ってみたところで、
うまくいくとは決して思われないわけだから、
そのようなことは決して実行されないわけだから、
そのようにしてうまくいかないわけですよ。
で、こういうことが普通にそこら中に
夫婦喧嘩の時には必ずあります。
あるはずです。
ないんだったら喧嘩する理由ないからね。
だからあるはずなんですよ。
ベータ要素に遭遇してしまうわけです。
その時に私たちは
思考の土台となるはずのナラティブを
得るということそれ自体に失敗しているというか、
そのようなものは得られていない。
得られていないものについて考えることは不可能。
そこには空白があるはずなんですよ。
空白があればマシなんですけど、
得体の知れないものがあったりするんで。
この得体の知れないものを前にして私たちが
思考を停止するってよく言うんだけど、
そうじゃないんですよ本当はきっと。
そもそも思考はじまって、
だから停止しているとも言えるのか、
我々が知っている思考は、
その前段階を無意識が埋めてくんないとできないんです。
だってそうじゃないですか。
例えば目の前の何でもいいんですけれども、
この目の前の橋について、
橋の設計図について考えてみましょうとか、
なんか今無理矢理考えたからそんな言葉になっちゃいました。
いやしかし私は今ちょっと乱死で、
はっきり見えませんみたいな、
この状態なんですよね、
見えないものを見える前提で考えようとしているわけだから、
30:01
じゃあ見えるように眼鏡をかけましょうってことになる。
この眼鏡をかけるってことが、
アルファファンクションを起動させるってことなんですよ。
眼鏡をかければ見えるようになるけど、
それは頭を働かせて見えるようになるとかじゃないじゃないですか。
意識をいくら働かせたってできないものはできないんですよ。
でもアルファファンクションが起動するようになる、
妨げているもの、例えば恐怖とか、
そういったものを徐々に解除していけば、
もしかすると急に見えるようになるかもしれない、
という仮説なんですよ、きっと。
そろそろまとめに入りますけど、
30分過ぎたから唐突ですが、
なぜ楽しいが苦しいなのかって話してなかったと思うんですが、
この状況苦しいですよ。
だって得体の知れないものを前に2人がしてですね、
いや分からん、いや分からんって言ってる、苦しいじゃないですか。
しかも私の立場からすると分かれよっていう立場なんです。
分からないものを分かりました。
だからこれこそがまさにインフォームのコンセント的世界だと思うんですね。
分かったことにする、それによって前に進むって話もそれはあるでしょう。
しかし現代の世界はあまりにも全てのことが分かってなければ、
進められないんだっていう前提に立ちすぎてるということなんですよ。
ゲームやってるんじゃないんですよ。
ゲームは作った人がいるから答えが分かってるけれども、
分かってないんですよ。
私たちは現実についてあらゆることを知ってるなんてわけじゃない。
だから分かんない前提で動かなきゃならない、
というか考えていかなきゃならない、
というか考えるというのはそもそも分かんないからすることなんだけど、
その営みは苦しいと思うんですよね。
これがことがトラウマだの、PTSDだの、C-PTSDだのって話になって、
いい話が入ってくるはずないですよね。
例えばうちの母がよく言ってたんですよ。
昔は夜県が恐ろしかったんだと。
私はお尻を噛まれたんだ。ガブッと。
恐ろしいですよね。でも今は笑い話になっちゃうんじゃないですか。
彼女の本当の恐ろしさはなかなか伝わってこない。
話自体はシンプルに聞こえますよね、一見。
外を歩いていると、4歳とか5歳の女の子が外を歩いていると、
夜県がやってきて、しかもそれは半分オオカミみたいなものでしょう。
一歩間違えたら食い殺されるっていう、そういう恐怖は分かんない。
この恐怖の分かんなさがあるゆえに、
あたかも夜県のように噛みついてくる上司がいて、
会社に行けなくなったっていう話だって、
たったこれだけだって、ここに精神分析なんていらないんじゃないかと
思えるような話だって、どうするってなったら、
まず分かんなきゃいけないっていう精神分析で
そういうスタンスを取るわけですよね。
33:02
でも治療というスタンスを取るならば、
例えば古い記憶を、今そういうのはありますね。
分かりませんから僕は適当にしゃべりますが、
手の甲を7回ほどタップすると、
そういう記憶と今の上司との連想が紐づかなくなっていきます。
これが解決策ですよね。
我々はみんなもうこれに慣れきってるんですよね。
そうですよね、喉が痛い、意味が分かりません。
お医者さんに行ってこうしてこうして診断してもらったと、
ちょっと見てもらったと、
そして何度か寝ざっくみたいなのを治る。
何も分かんないじゃないですか。
自分何も分かんなかったですよね。でも治る。
こういう世界に生きている我々は、
この精神分析なり、私がさっき言ったタスクシュートなりのアプローチが
アホみたいにしか思えないんですよ。
それはあたかもですね、
どこでもド派で沖縄に行けばいいのに、
わざわざ歩いていきましょうって言ってるようなアホさ加減なんですよ。
そういう風に私は思われていますよね。
でも歩いていくことによって、
どうやったらいけるのかまで含めて分かるんですよ。
ただ行き着かない恐れがあるんだよねっていう問題もあるんですけれども、
でもとにかく歩いていくことにしてるんだよっていうことなんですよね。
もうこれはただですね、
それはどこでもド派があるんだったらどこでもド派で行けばいいじゃんっていう話なんですよ。
それはそうなんです。
どこでもド派ではなぜか行けない場所があるんですよっていうことなんですよ、
この話の最後のオチはきっと。
どこでもド派では行けない場所がなぜかある。
それは気付かないじゃないですか、どこでもド派を持っちゃったら。
でもどこでもド派は絶対作れないけど、
どこでもドアで行けるということは
その場所を知っているということですよね
そういうことが問題だと思うんですよ
知らない場所にはどこでもドア使ってもいけませんよね
だって知らないんだから
こういう場所が人間の自分というものについては
確かに間違いなくありまして
なんで自分はああいうことを言っちゃったんだろう
なんで自分はああいうことをやっちゃうんだろう
言うじゃないですか
つまりそれは知らない自分がいるんですよ
知らない場所があるんですよ
それは歩いているうちに辿り着けるかもしれない
少なくとも歩くということによって
歩くことによって行ける場所はたかが知れてますが
しかし歩くことによって知らない場所に行くことはできるんですよ
35:41

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