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おはようございます。 働くメンタルを取り戻す精神分析的ポッドキャスト1079回をお送りします。
実は、1リテイクしました。 回がわからなかった。
もうなんか、どうでもいいような数字じゃないですか。 1078とか1079とか、すぐわからなくなる。
さっき見たはずなのにわからなくなる。 これちょっとヤバいんじゃないかってドキドキ思うんですけどね。
そういうことがございまして、 今日は10月29日火曜日、朝7時23分です。
お知らせはもうなくて、 3カ月チャレンジというものについて改めてお話したいと思うんですね。
というのは、このスタFになってから、スタンドFMですね。
毎日の数が出るんですけど、これが大体10いくつなんですよ。
本当10何名の方が聞いていらっしゃるっていうのが、 実感に近いスタFでもね。
Spotifyなら多分100はさすがに言ってると思うんですけど、 100名様には聞いていただいている。
何らかの形で再生はされていると思うんですけどね。
スタンドFMでは十数名。
で、これが渡して増えた方がいいのか問題っていうのが時々あるんですよ。
一応チャンネルアナリティクスを、 今のこれを始める直前だけチラッと見るんですね。
そんなに興味ないんですよ。
なぜならば1000回やってほとんど頭打ちなんで。
視聴者数が増えるといいのかっていうことなんだけど、
これ事実上3ヶ月チャレンジのCMにほぼなってるわけですが、 他にはほぼなってないわけじゃないですか。
他も時々やって来てくださる方、 聞いてくださる方の中にいらっしゃるから、
何の意味もないわけじゃないんだけど、
でも3ヶ月チャレンジがCMしてる中では一番高額商品で、
しかも私のライフワークと私が考えてるから、 ここで見るべきだと思うんですね。
そうすると、ここが全く視聴者数が増えてないけど、 3ヶ月チャレンジはおかげさまで顕著なんですよ。
そろそろ限界なんだと僕は思ってですね。
仮に視聴者数が今の2倍になったとして、 そして3ヶ月チャレンジの参加者さんが2倍にできるかというと、
2倍は絶対無理なんですよ。
2倍ということになってしまうと、 というか逆に考えてですね、
どこまでいけるのかと。
物理的限界は絶対あるわけですよ。
あれは1on1セッションを取り除くことは不可能なサービスなので、
1on1セッションの上限値、すなわち上限値なわけですね。
ということは僕が1対1でお話が聞ける時間には限りがあるに決まってるじゃないですか。
最大で24時間かける7ですよね。
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最大で27時間かける7。
でもこれは寝職一切せずに話を聞くというので論外なので、
僕の実感ではなんですけど、
四人の方、ここが限界ですよ。
限界なんですね、僕にはね。
四人の方のお話を伺うと、僕はヘロヘロで他のことはほとんど全くできなくなるんですよ。
不思議なんですけどね、これもね。
四人の方のお話を伺うと最大でも4、5時間。
まあ5時間ってところですよね。
1日5時間くらいだったらなんてことなさそうなんですけど、
しかも僕ある意味話聞いてるだけなんで、
これでどうしてこんなになるんだろうっていうくらい、
つまり四人はあるんですよ、経験が。
5人というのはないけど、4人プラスミーティング1つっていうのがあって、
もう本当にね、頭痛はするし、めまいはするし、レベルに入ってくるんですよ。
ちょっとパソコン見すぎてるってこともあるのかもしれないですけどね。
とにかく大変なんですよ。
もう布団に入ったら速攻、
あの子供みたいなんですよね、バラッとなって。
で、次の瞬間に朝が来てるみたいになるんですよ、本当に。
夢もね、濃いのをがっつり見てるんだけど、
何の夢見たか全く思い出せないんですよね。
あれは何なんでしょうね。
というわけで4名が限度。
本当は毎日4名は無理だと思うんだけど、
ここに上限値を設けて、1週間休みなく4名様の話を伺ったとすると、
28枠、こんなもんなんですよ。
28枠をもって限界とする。
で、週2枠って方もいらっしゃるわけだから、
28名は不可能なんで、
24名ってところですね。
多分23名ぐらいですね。
これがもう最大マックス上限値。
ということはですね、もう倍にはできないんですね。
3ヶ月チャレンジの参加者さんは。
倍数は無理。
なのに、この視聴者数さんだけ倍になったところでっていうのは申し訳ない言い方なんで、
でも倍の方に聞いていただいても、
だからと言って意味がそんなにあるかって。
倍はあり得るじゃないですか。
っていうのは、今視聴者散数はだいたいスタンドFMで15名、
Spotifyでだいたい100名。
倍普通でしょっていうか、
スタンドFM30っていうのはむしろもっと増やさないとダメでしょっていう風になると思うんですね。
だから、これ視聴者散数を増やしていくことの意味って、
別にそんなになくないかと思うんですね。
でも増えたほうがいいと巷では言われているし、
増えたほうがいいのかもしれない。
ということは何が言いたいかというと、迷う方ですね。
ここに正解はないと僕は思うんですよ。
これがね、面白いことに世の中では正解ってものをここに持ってきたがるんですよね。
多くの方が。
僕は若い頃からそれは疑問だと思ったんだけど、
40過ぎたあたりからナンセンスの極みだって思ったんですよね。
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もう本当にね、商売だから分かるんですけど、
分かんないな正直。分かんなくなってきました。
昨日もJさんと本の企画の出版社の方とお話したんだけど、
正解がいっぱいあるんですよね、そこにはね。
正解だらけって感じ。
で、それが正解でないことはみんな知ってるんだけど、
それよりもなんでここに正解を僕ら持ってき…
とりあえず正解じゃない正解じゃないですか。
みんな正解じゃないこと知ってるわけですよ。
僕なんかもう痛いほど知ってるわけですよ。
だって3年くらい前には真逆のこと平気で言われてるんで、
5年くらい前はさらにその真逆だから元に戻ってるんだけど、
そういうことも山ほど聞いてきてるわけですね、
僕は幸いにもなのか残念なことになのか知りませんが。
もう少なくとも200名の編集者さんと会って、
がっつり話した人だけを数えても
150名の方とはお話しさせてもらってると思うんですね。
で、それらの人たちの正解が、
しかもその人たちの正解の中にも180度逆のことが出てくるんですよ、割と。
状況がちょっと違ったり違う本出すときになると、
ほぼ正反対のことを一人の方がおっしゃる。
しかもその人はヒット作いっぱい出してたりもするんですよ。
全部正解なんですよ、その人にとってはね。
これ×150ぐらいあるわけでしょ。
なんか何の意味もないじゃん、それっていう話なんですよね。
ただ喋ってるだけみたいな。
それでいいんですよ、それでいいんです。
ただ喋っときゃいいんですよ。
ただどうしてこれを僕ら正解だと見出したいのかなっていうのは、
実に不思議な現象だと思うんですよね。
もうほんといっぱい聞いてきたんで、
なんか喋んないようにいかないから、
それは大間違いであっちゃいけないから、
やっぱり結局正解喋るしかないっていう、
消去法的に正解を喋るしかないから、
正解喋ってる合戦みたいになっちゃうっていう感じなんですけど、
これ一体どういう場を繋ぐみたいな意味。
場を繋ぐってこと、ああいうときは割と大事なんですよね。
だから場を繋ぐってことかなっていうね、
あのときやっぱり美味しいおせんべいの話とかをしてる場合じゃないじゃないですか。
話してるべきなんじゃないかと思うときもあるんですけどね。
最近私の中で掘ったのが坂田ベイカーさんのオランダせんべいですって、
何のCMしてるんだか分かんないですけど、あれ美味しいんですよね。
こういう話ししとけば企画はいけるんじゃないかってたまに思うんですけれども、
つまりそれくらい話してる内容の意味ってないんですよ。
本の企画の打ち合わせっていうのは、
私の感覚では全くないんですよね。
そこで話してることが企画になるとも限らない、
下から売れるのも限らないし、
そもそもそれを本当に書けるかどうかすら怪しい。
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それが企画会議で、企画会議なのか打ち合わせで話されていることなんですよ。
無駄かって言うとでもそれがないと企画って作り上がらないから無駄ではないんですよね。
どういう意味があるのかは分からない。
僕今何の話をしてるかというと、
我々は迷いの真っ只中にいるっていう話なんです。
多分人間はそうなのにこれが嫌なんですよ。
だから私もさっきも言いましたけど、
多分ポッドキャストの視聴者数はもちろん増えたほうがいいっていう、
これ一つの正解ですね。
あなたのその状況なら増えないほうがいいぐらいだって、
これも一つの正解ですよね。
僕にはどっちも同じぐらいの納得感と、
ある意味どっちも同じ程度の納得感しかないと言えるんだけど、
そういうことなんです。
つまりこれは迷いだってこと。
昨日決められないっていう話をしたんですけれども、
全部同じなんですよ。
人と会う会わない。
人とどっかに行く行かない。
全部同じなんですね。
これが僕は今精神分析というものの本を読む中で、
一番手に入れているものなんですよ。
3ヶ月チャレンジで非常にいいこれは感想だって思ったのがあったんですね。
いただいてるんですよ。
私はなんで精神分析のような小難しい話をしてんのかと。
僕といえば小難しい話をする人間で、
タスクシュートの時もよくこういう、
僕これは一つのアイデンティティだと思って、
小難しい話僕がしとけば人生間違いないかもしれないなって思うようになったんですよね。
人がこいつ小難しい話しやがって、
もういいよみたいに思われている時が一番いいんじゃないかって思われる。
こういうのって正解がないのに正解を求めちゃダメなんですよね。
難しいと思われてるから優しい話しようとかって、
私もしょっちゅう言われたから、
しょっちゅうビジネスショーでやってて、
あるんですよそういう企画ってやっぱり。
本当にこのなんとかさんの手にかかると、
須崎さんのよくわかんないような話がこんなにわかるようになって、
これは須崎さんだけの力じゃないよねみたいな話されて、
なんか褒められてるのかけなされてるのかわかんないですけど、
問題なのはそうじゃなくて、その本売れなかったってことなんですよ。
ここが面白いところ。
確かにわかりやすくなってる。確かに読みやすくなってる。
確かに昔私だけで作ってる本なんかないけど、
昔の私の小難しい本より全然わかりやすくなってる。
そして売れなくなってる。
こういうことが起こるってことなんですよね。
でもそれはわかりやすくなったから、読みやすくなったから売れなかったわけじゃないと思うんですよ。
でも売れるとは限らないってことなんですよね。
優しくしたりわかりやすくすれば。
それはつまり優しくわかりやすく読みやすくなってるのに読まれなかったってことですからね。
いいんですよそれはそれで。
ただそこに正解求めちゃダメだってことですね。
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私たちがやってることはカオスなんだってことなんですよ。
この感覚が耐えられないっていうのが変ちゃ変なんだけども、しょうがないのかもしれないんだけども、
カオス感ってのが今は私の中ではすごい大テーマになっています。
このモヤモヤこそが宝だみたいな、宝だっていうことでもないんだけど、
このモヤモヤを何とか保持しておかなければっていう、
このモヤモヤ以上に価値あるものはないかもしれないなっていうような感じなんですよ。
スッキリするってことはダメだってことなんですよ。
別に意味はない。スッキリしてもいいんだろうけど、
スッキリすることが答えじゃないっていうか、答えなのかもしれないけど価値ではないとは思いますね。
ただスッキリするだけだって感じがするんですよ最近は。
ついでに言うと空っぽになっちゃうっていうね。
これはですね、精神分析のアレゴリーがいいなと思うんですけど、赤ちゃんは空腹で泣きますわね。
空腹で泣くわけ。面白いなと思ったのが、松木さんが書いてたのかな、藤山さんだったか、
美音なのかもしれないですけど、こういう感じなんですけどね。
とにかく赤ちゃんは泣くと、悪いおっぱいがお腹の中にあるよって言って泣くんですよ。
わけわかんないですよね。妄想なんで。知らないんだからしょうがないですよね、赤ちゃんは。
お腹知らない。いっぱい知らない。言葉がないんだから。
とにかく苦痛だ苦痛だって言ってお腹が空腹でね。
人が見れば空腹なんだけどね。泣くわけ。泣きますよ。見てるとめちゃくちゃ泣くんで。
虫の子も泣かないほうだったけど、やっぱり相当頑張って泣いてた。
で、これがすでに変じゃないですか。お腹空いてんのにエネルギー使ってどうするんだって感じなんですよ。
でも、うわーって泣いて、例えばうんち出しますよね。空っぽになるじゃないですか。
で、すっきりして泣きあんじゃうんですよ。これおかしいですよね。
お前空腹だったのに中のものを出してすっきりして満足してどうするんだって。
これは赤ちゃんの要するに間違いなんですけど。
こういうの放っておくのが昔は自家中毒ってことになったんだらしいんだけど。
そういうことは起こるわけです。つまりやった。
この悪いおっぱい出したぜってことですっきりしてニコニコしちゃったりするっていうね、こういうことだと思うんですけど。
これはもちろん盛大な誤解ですよ。
僕らも同じことやってる恐れがあるわけですよ。
売れる本が作りたいなら売れる本作んなきゃダメなのにすっきりしてる場合じゃないんですよね。
答え見つかりました。やったみたいなことやって、わかりやすい本作って売れない結果を招く。
そしてすっきりしているわけですよ。
で、何にも赤ちゃんと変わらないじゃないですか。
自体を正確には少しも把握できない。
つまり妄想で頭をいっぱいにしてるのと何も変わらないわけですよ。
ここが大事ってことですね。
すっきりすりゃいいってもんじゃない。
もちろんすっきりしたいっていうこともあるからね。
売れたいんだけど売れない本作って、
で、儲けたいんだけど貧乏になって、
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でもすっきりしてやったーって言って酒を飲みに行く。
これもいいと思うんです。
人間の生き方ってこういうもんなんですよ、結構ね。
だけど、これがクリアカットにアンサーですっていうのはそりゃおかしいと思うんですよね。
悪いおっぱいを出した、そんなものはないんでね。
出すこともできないんで、出たのはおしっこなんで。
そしておしっこ出しちゃダメなシチュエーションなんで。
でもそういう生き方はなかちゃんには無理。
僕らに無理なんじゃないかなというのが最近僕がホットにしているテーマなんですね。
本当に。
これはめちゃくちゃ思いますね。
昨日もすごい思った。
打ち合わせで。
本当にこう嵐のように正解がある。
もう正解正解正解正解正解って感じ。
正解が飛び交ってるよって感じなんだけど。
その中に正解はたぶん一個もないんですよ。
という世界なんですよ。
これがいいんだと僕は思うんですよね。
もうこれ嫌だってなってしまうとポンって出なくなるんで。
カオスなんですよね。
カオスじゃないですかこんなもの。
100%カオスだと僕は思うんだな。
これがでも大事な何かなんだと思うんですよ。
本当に。
このなんかしょうもない感じがするんだけど。
これをしょうもないって言うならしょうもあるものが出せるかって言うとそんなことは絶対ないんですよ。
僕本当の正解を喋ってる人の話をまだ聞いたことがない。
だからこれこそやるべきことだと現段階ではね。
私たちにできるレベルでやることだと思うんですよね。
正解がない中で妄想の正解を飛び交わせて。
そうすると何かが生まれることがあると。
で、何の話をしてるかというと精神分析の話をしてるんですもんね。
そうそう。
だから精神分析の小難しい話を私が知っとけばいいだけで3ヶ月チャレンジの中でみんなで共有することはないんじゃないんだろうかってこの問いはですね。
めちゃくちゃ大事なんですよ。
だからあるんですよ。
なぜならば私が知っとけばいいならばこれは正解なんですよ。
でも私は正解を知らないから私が知っとけばいいことには全くなってないんですよね。
正解こそが知識じゃないですか。
知識とは正解じゃないですか。
だからそれならば私が知っとけばいい。
これは確かなんですよ。
小難しからおうか小優しからおうか関係ない。
でも正解じゃないということはご承知が大事に僕が集めているのは全部ガラクタなんで。
ここめっちゃ大事ですよ。
ここのポッドキャスト喋ってるのも全部ガラクタなんですよ。
これを持ち合うということによって何かが解決されていくんですよ。
これはもう僕の考えです。
しかもこれは正解じゃないです。
ひどいでしょ。
このひどさがでも僕らの置かれている状況なんですよ。
たぶん私はそう信じてます。
そうそうたやすく僕はこの考えを変えるほどすぐこれに正解を言ってくるっていう方も、
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面白い方もいらっしゃるんですけど、
まさにそれこそが僕らのやるべきことなんですよ。
お互いがガラクタを交換し合う。
すごい大事なんです。
これをしたいということ。
これをしたいと思わなければ3ヶ月チャレンジなんて意味ないなって思うんですね。
だから僕は個人セッションとグループセッションと週に1回絶対やってるという。
ほぼ絶対やってますよね。ほぼ絶対やってます。
だけど不意にいきなり休んじゃうんですよ。
なぜならばあれば情報じゃないからなんですよ。
休みたきゃ休んだっていいんです。
やる価値があるとは言い切れない。
でもやる価値はあるんです。
それは情報が手に入るからじゃないんです。
本当僕情報発信ってものはこの世にないなと思うんですよね。
ガラクタ交換なんですよ。
バザーみたいなもんだな。
ツイッティックX、もうあれもう。
だって選挙に関する正解なんて今回もう本当数えきれないほど飛んだけど、
正解なんかどれが本当に正解だったのか実に怪しいもんじゃないですか。
でもああやってたいわけじゃないですか、人間は。
あれをやめろって言われるとものすごく巨大なフラストレーションになっちゃうだけだと思うんですよね。
あそこでああやってることに意味がある。
でもあそこで取り交わされている情報にそれほどの意味っていうか全然ないですよね、はっきり言って。
全然ないんですよ、情報そのものの価値なんてものは。
多分正解じゃないんで。
しかもあれ、原理的に正解が出せませんよね。
なぜならばそれが正解だったとして、
それが飛びかかってしまったことによりそれが正解ではなくなるってことが選挙などというものでは起こるんで。
正しい人を選べるわけではないんで。
入れる人に入れるだけなんで。
投票行動が変わることに意味があるのかもしれないけど、
それだってその投票行動が変わることによって何か悪いことが起きるかもしれない。
悪いっていうのは結局のところそれぞれの人にとって違う意味を持つんで、
何にもそこに正しさという意味では意味がないと思うんだけど、
その上にみんな正しさについて喋ってるじゃないですか。
こういうことなんだと思うんですよね。
今のところまだ僕は何の意味もないことを喋ってる気がするんですけど、
でもこういうことなんですよね。
投影というものをしますわね。
しますよ。
投影というものをするというときに、
今まで僕はずっとわりと信用してきたわけです。
精神分析というのは、
形式でなければいけないとか、
訓練された人でなければいけないとか、
分析家じゃなきゃいけないとか、
それは本当にそうだなって思うんですよ。
一方で僕は平気でこれをやるんですよね。
ここにカオスがありますよね。
でもこのカオスを僕は、
全然自分で否定的じゃなくなっていることにいきなり気づいたんですよ。
それもこの3ヶ月チャレンジからの投稿でいきなり気づいたんですよ。
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そっか、小難しい話を私が持っていて、
私がそれを使ってやればいいような感じはする。
でもそうするとどうなるか。
それは正しい治療になってしまう。
それはしてはいけないということに一応なっている。
法で決まってるじゃないから、
強引に突っ切ることはできますが、
でも私はそれをしたくないと思う。
どうしてなんだろうと思うと、
それは私が正しいことを知らないからなんですよ。
本当に知らないんですよ。
話を相談されても悩んじゃうんですよ。
でも松木さんが書いてるんですよ。
そこで悩もう、みたいな感じなんですよ。
言ってしまうとそういうことが書いてあるんですよ。
そこで悩むことがまず大切ですね、みたいなことが書いてある。
悩むって書いてないんだけど、物思いにふけるって書いてある。
でもそれ他人から見ると悩んでるようにしか見えないんです。
物思いに。
失礼しました。
時々ね、こう不意に、なんていうのかな。
なぜ止まるかというと、今止まったかというと電話がかかってくるんですよ。
もちろんほぼ迷惑電話的なスパムなんですけど、
止まるんですよね、この録音ってやつは。
電話が入ると。
非常に良くないと思うんだけど、まあしゃあないですね。
何の話してたんだっけ。
だから迷うということですよね。
迷うはずなんですよ。
で、さっきも言いましたけど、打ち合わせとかの時でも迷ってるわけ。
で、迷いに決まってるじゃないですか。
正解というのは迷いがなくなるかのように見える何かなんだけど、
そんなことあるわけがないんですよ。
これが、あの、例えば初回インテークとかいう本があったりするのですよね。
心理カウンセリング、心理臨床の。
会ではこういうことを聞きましょうとかって、
何を読んでも虚しい感じしかしないですよね。
そこに書いてあるのは多分、正式でちゃんとしていて、
精神分析の本であることもあるし、
なるほどなって思うんだけど、なるほどじゃないんですよね。
だってそれを聞くことがいいことかどうかがわからないじゃないですか。
わからないんですよ。
一通り型通りに聞くってことあるにしても、
それは型なんですよね。
で、型を使うことが、私の場合いいことか、
必要なことか、正しいことか、
全部はてなはてなはてなです。
だって私正式じゃないんだから。
だけど、じゃあ正式の人だったらそれは、
型通りにやるのはいいことなんだろうか。
いいことだってことになってるからいいことなんでしょうけど、
そうじゃないんじゃないのかなと思うわけですよね。
本当に僕は型っていうのは不明瞭な何かだって思うんですよね。
すごい思うんですよ。
これは私のパーソナリティもあると思うんだけど、
型に沿うっていうのはあるわけですけれども、
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まあやんないですよね、はっきり言って。
やんないですよね。
いかに型を壊すかのことしか考えてないような気がするんですよ、
ある意味では。
セミナーとかでも毎回そうで、
自己紹介から入りましょうねって言われると
自己紹介するもんか、どっかで思ってますからね。
これもう非常に思春期の人みたいなんで、
じゃあ自己紹介やっておくかみたいに思うんだけど、
本当に自己紹介って、
自分聞いてて面白いと思ったことないなって思うんですよね。
面白くないことを、
お金取って話を聞いてくれる人にできるかっていうと、
お金がただなら自己紹介から入ってもいいんだけど、
お金取っちゃってるもんなみたいに、
どっかで思う自分がいるんですよね。
ちょっと変ですよね。
お笑い芸人を全く目指してない芸人みたいな感じなんですよ、僕は。
僕はお笑いって苦手なんですよね。
ほとんど見たことがないんですよ、実は。
なんでなのかがわからないんですよね。
お笑いが嫌いなわけじゃないんですね。
芸人が嫌いなわけでもない。
ただ、見ることは全然ないなと。
チャンネルでお笑いやってたら買えますもんね、速攻。
なぜなのかはわからないんですよね。
笑わないのかっていうと笑うんですよ、見てればね。
でも、見ないんですよね。
なんでなんだろうなぁ。
なんかこのことと関係があるような気が少ししますけれども、
とにかくこう、
人が聞かないかもしれないと思うことをわざわざやるという方って、
本当に無理だって思うんですよね。
そのことと僕が今3ヶ月チャレンジやってることは、
深く関係があるように思ってます。
思ってるけど、
型破りがいいとは思わないし、
型が正解だとも思わないんですよね。
型ってつまり、それをやるとうまくいくよとみんなが信じている何かですよね。
信じて言うってことですよね。
正しいってことじゃないですよね。
いろいろあるじゃないですか。
多分絶対に意味がある。
絶対に意味があるんだけど、
正しいってことではない気がするんですよ。
正しいんですけどね。
娘がバイオリンやってるのを見ると、型ってめちゃくちゃ大事だと思うんだけど、
だから型のある世界に行きたくないっていうのが、
こういう生き方をする人間なんだな、自分と思うんですよね。
こういう生き方をする人間ってのが、
世の中には必要なんだなと思うんですよ。
寿司職人っているじゃないですか。
あれが型の世界じゃないですか。
絶対寿司職人になれない人間っていっぱいいるわけですが、
私は多分そのかなり極端な一人なんだろうと思うんですよ。
この辺に僕が精神分析ができない、
だからこの精神分析的ポッドキャストみたいな名前っていうのは、
間買い物ですよっていうことを強調するために的をつけてるわけ。
精神分析っていうのはまさに寿司職人的だって、
これは藤山直樹さんの話ですけど、
これだから寿司的な何かなんですよ。
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寿司であったらダメなんです。
ここに僕はこの仕事の大事な力点を置いてるんですよね。
だからそのうち言い出すと思うんですけど、
あちらこちらで、精神分析的なんですよ。
この意味は精神分析的心理療法とかの話とは違うんですよ。
ポツとみたいな話じゃないんですよ。
嘘っぱちだよっていうことなんですよ。
ここに僕は力点を置いてるんですよ。
謙遜して言ってるんじゃないですよってことです。
謙遜もないわけじゃないけど、謙遜じゃないんで。
事実なんで。事実としてデタラメなんで。
このことを強く言いたい。
だから昔ね、面白いことが起きたんですよ。
なんかね、今日は脱線してるんだけど、
全部関係はかなり絡んでるんですよ。
そしてこれ誰かの話をしてるわけではなくて、
僕の話してるんですよ、これは全部。
さっきからもサンチャレのポストがあって言ってるんだけど、
実際には自分の話しかしてないんですね、今日はね、特に。
いつもそうなんだけど。
本の書き方を僕に聞いても無駄ですよって書いたことがあるんですよ。
なぜなら無駄だから。
本の書き方とか本の出し方とか、
僕知らないんで、何にも知らないんで。
だって企画会議って出たことないんですからね、出版社の。
本って企画会議を通すことによって出るものなんで。
そして印刷所がすって、
鳥月さんが廃本して本って出るんです。
僕関係ないですもん。書いてるだけですもん。
書くことしかできません。
書くことだけだったら誰でもできるんですよ。
そしてそれは本にはならないです。
ここは本当に大事なポイントなんですよ。
本も文章だろうと思っていらっしゃる方が多いんだけど、
そしてそれは事実そうなんですけれども、
でも本は文章を書くだけでは絶対作り出せないんですよ。
今Kindle Publishingがあるんで、
セルフパブリッシングがあるんで、
あれはいわゆる商業の紙の本とは違う気がするんですよね。
異なるものだと。
あれなら書くだけで作り出せる日がきんきんやってくると思います。
その方法ならまだ、
でも僕セルフパブリッシングは自分だけでは一回も出したことないですからね。
その作り方もやっぱり知らないんですよ。
本当に知らないんですよ。
出せないってことはそういうことなんでね。
知らないってことはすごく大事だと思うんですけどね。
知らないから僕は著者なんだと思うんですけどね。
知っててはいけないとまでは言わないけど、
知らないほうがいいことってありますよ。
僕多分企画会議に一回でも出たら、
書けなくなる本が出ると思うんですよ。
知らないってことはすごく大事なことなんですよね。
みんなすごく知りたがるんで、
その気持ちも現代だからよくわかるんだけど、
知ってしまうとできなくなることってありますからね、間違いなく。
知らないってことは大事なことですよ。
無知もうまいっていいじゃないですか。
僕あれは今ではいいことなんじゃないかって思うんですよね。
30:01
何を言いたいかというとですね、
僕は正式の精神分析家ではないから、
まがいものをしゃべれるんですよ。
精神分析家になってしまったら、
今どのぐらいの人が本当に精神分析家なのかわかりませんが、
多分言えなくなることがいっぱいあると思います。
こういう場面では。
精神分析的ポッドキャストなんてできないんですよ。
だから精神分析的ポッドキャストができる幸せってものがここにあって、
これを捨てるつもりでいないと精神分析家にはなれないんですよ。
そういうことをよく藤山直樹さんは書いていらっしゃると僕は思ってるんですね。
僕は本当に自分はこれをやれて幸せだと時々思うんで、
絶対精神分析家にはなりたくないなって思ってるんですよ。
それは負け惜しみ的にも聞こえると思うし、
でも負け惜しみっていうにはなれそうな面がないんで、
なれそうだったら負け惜しみかもしれないんだけど、
なれそうにはないから、これは単なる事実だと思うんですよ。
だけれども、だからできることが、精神分析というものができないからできることがあるんですね。
精神分析的心理療法だったら精神分析家でもできるんだけど、
精神分析的ポッドキャストは難しいですよ、きっと。相当難しくなると思う。
言っちゃいけないことを僕はいっぱい言ってると思う。
それができるのは知らないから、そのものではないから、本物でないから。
だから嘘がいい。
嘘だというのは、精神分析家になってしまうとこれは嘘だなと思って嘘を言わなきゃならない。
僕は知らないから、嘘だか本当だかも分からずに言えるから、
これを間買い物と言うんじゃないですか。
そしてこれが効くと思ってるわけですよ。
精神分析が常に有効とは限らないっていう話はこの表裏にあるわけ。
あれが正しい知識で絶対に有効で、それのみが有効ならば、
僕のこれは絶対有効でないから完全に意味を失うんだけど、そうではないんだと思うんですよね。
だから藤山さんが認知行動療法のことを書いていて決して良くは書かない。
でも認知行動療法で良くなる人は必ず確実にいる。
で、私は藤山さんのおっしゃることは最もだと思うんだけれども、
でもということはあそこに全てはないということだと思うんですよね。
そういうことは私が言ってることが聞いてもおかしいわけじゃないとも思うんですよね。
ただそれは私が正しいことを知っていて有効成分の薬が出せるっていうわけじゃないわけだから、
私がこの難しいことを知って、それを私だけが知って困っている人に処方すればいいっていうことには全然なってない。
ということを僕は知らずに実はやってたんです。
33:00
すごく変な話ですよね。
でもこの変な話が変であり続けないと多分この仕事の意味はものすごくダメになっていくんじゃないかなとは思うんですよね。
これを私は知らないからできるにも関わらず知り続けていきたいと思ってるんですよ。
本当に近いことへ本当に近いことへと迫っていきたいんですよ。
でも本物には決してなれないんですよね。
何と言えばいいんでしょうね。
漁師とただの趣味で釣りをしている人の違いなんですよ。
漁師には決してならないんだけど、でも釣れないわけじゃないでしょ、釣り人は。
結構釣ったりするでしょ。日によっては漁師よりも魚取るでしょ。
でも漁師とは違うでしょ。
これを私は多分これが一番言ってることの意味感覚的には近いかな近いかなと思います。
迷いがあるのは精神分析化になってあるのはもう確実だと思うんですよ。
松木さんが書いている通りこの物思いに吹けるってだってさっきここでそう途切れたんでしたね。
迷ってるからですよね。
でこの物思いに吹けてる時だってそれ自体が誤解される姿なんですよ。
先生は一体何考えてるんだろう。
よっぽど自分まずいこと言っちゃったかなって思うんですよ。
これはある意味では猛烈に誤解なんだけどこういうことがそこで起きてるってことがいいことだ。
特にその辺は藤山さんの方が言うんですよね。
松木さんとの違いみたいな話でこの対談もめちゃくちゃ面白いんだけど
多分めちゃくちゃ面白いと思う人間は少しずれてるんだろうなと思うんだけど。
松木さんは要するに物思いに吹けりましょう。
そうすると見えてくるものがありますみたいな。
その通りだと思うんですけれども、
藤山さんだってそういうことはいっぱい経験してるんだと思うんですけど、
藤山さんはそれを非常に好意的に言いながらメタに批判しているんですよね。
つまりそういうもんではないでしょうみたいな感じなんですよ。
そうやってプロセスを踏めばそういう結果が出る。
先継リミアってよく言って、藤山さんはそれを言ってるときは大体いい意味では使ってないんですけれども、
そうじゃないでしょうって言ってるわけですよ。
AをやればBが来て、BをやればCが来てっていう風にならないでしょうと精神分析は。
それはそうだと思うんですよ。
だからすごく微妙なこと言うんですけど、
松木さんは解釈をすることの意味とか、解釈をするということによって患者さんと問題を扱えていく。
そのプロセス、先継的というのかな。
正しさにある意味向かってるわけですよね、それはね。
解釈というものが大事です。
でも藤山さんがおっしゃってるのは、解釈をする精神分析家で、
そう書いてあったな、解釈しかしない精神分析家がそこにいるってことの方が大事なんだっていう。
36:01
多分ですね、究極的には藤山さんの言うことの方が僕は正しいっていうのも変ですけど、この場合は。
でもそうなんだろうなって思うんですよね。
つまり、寿司を握ることしかしない寿司職人がそこにいることが大事だみたいな話なんですよ。
握り方は大事じゃないみたいな。
握り方は大事なんだけど、でも一番大事なのは握り方なんじゃないんだっていう。
寿司職人しかやんない寿司職人がそこに生きてることが大事なんだみたいな、そういう話ですよ。
で、よく藤山さんはそういうのを出すときに落語化の話とかをするんですよね。
落語化は師匠についてても習うことがすぐに習えるわけじゃないっていうか、落語なんて何も教えてくれなくて、
服の畳み方とかばっかりやらされて、師匠がバーに入っていったらそのバーの前でずっと何時間であろうと待ってなきゃならないと。
それが落語化になるっていうことなんだ。
僕、絶対やりたくない世界なんですけどね。
僕、絶対こういうことできないんですよ、きっと。
でもそれは何かを捨てるから落語化にはなれるんでしょってことなんですよ。
そして大事なのは落語化になるってことでしょってことなんですよね。
ただの人がうまーく落語を喋ることじゃないでしょって言ってるわけですよ。
精神分析もそれと同じなんだと。
僕はそれはある意味、なんかね、ちょっと違うんじゃないかって思うときもあるんですよね。
精神分析化ってそうなのかって思うんですよ。
でも藤山さんの世界ではそうなんですよね。
精神分析化になるってことが大事なんだって話なんですよね。
落語化になるみたいに。
落語ができるってことじゃないんだ、それはってことなんですよ。
こうやってこうやってこうやってれば落語はできるようになる。
でもそれでは落語化にはなれないんだっていうような話なんですよね、これはきっと。
そうなのかもなーと思いますけど、僕は松木さんの本じゃないと。
つまり精神分析化になることは僕はできないから、松木さんの本を読むと。
そうすると間買い物になることになりますよね。
で、間買い物でも聞くっていう話をしたいわけ。
で、間買い物で聞くってのはでも精神分析が聞く要素とどこか共通要素があるはずだ。
そこで一つ出てくるのが僕は迷うってことなんですよ。
これがもう本当に迷うっていうことをしてどうするんだっていう話になるんだけど、
正解を持ってくると迷えなくなるでしょう。
で、言いたいわけですよね。
迷えよって言う、それはそんなことは言いませんけど。
でも迷いますよってこと。
幽霊みたいですね、こんなこと言ってると。
でも迷うじゃないですか。
例えば恋愛すると迷うと思うんですよ。
ここでキスした方がいいのかしない方がいいのか。
告白するのがいいのか言わない方がいいのか。
手繋いだ方がいいのか繋がない方がいいのか。
セックスした方がいいのかしない方がいいのか。
全て迷う。そこに正解があったら変じゃないですか。
正解なんか絶対ないと思うんですよね。
39:00
騙されてるのかもしれないし、一歩間違うと金を取られるだけなのかもしれないんだけど、
でももしかするとめちゃくちゃ幸せになれるのかもしれないし、
結婚するのかもしれないし、しないのかもしれないし、
一歩間違うと逮捕されるのかもしれないし、少なくとも訴えられるのかもしれないし、
そういうことじゃないですか。
それを迷うわけでしょ。
恋愛の達人とか恋愛のプロとかになるってのはおかしいじゃないですか。
でも恋人になるわけじゃないですか。
なる場合にはね。
もしかすると、ただ詐欺に遭うだけなのかもしれない。
その答えが事前に完璧にわかるってことはありえないと思うんですよ。
もしかするとそこでキスしたから別れることになるのかもしれないし、
そこでキスしなかったから別れることになるのかもしれないじゃないですか。
どんな達人だってわかんないけどね。
達人はいるのかもしれない。
絶対相手の心が好かせるようにわかるんだみたいな人がいるのかもしれない。
でも私の考えではですね。
好かせるようにわかったって答えがわかったことにはならないと思うんですよ。
だってこいつはキスしてほしいってことが100%確実である。
好かせるようにわかるとしたって、
すれば幸せになるかどうかわかんないじゃないですか。
だから正解がそこにあるはずがないと思うんですよ、原理的に言って。
人間関係は全部そうだと思うんですよね。
そしていわゆる最近よく話題になっているHSPであろうと、
HSSであろうと、ASDであろうと、ADDであろうと、ADHDであろうと、
何であろうと、そこで悩んでるんですよ。
で、そこで悩んじゃうという話をされているわけですよ。
そこで悩むのはみんな同じですよ。
そこで悩まなくなることは不可能だと思うんですよね。
迷うしかないと思うんですよ。
迷えるかどうかの問題であって、
迷いがなくなるかどうかの問題ではないはずだと思うんですよね。
しかも僕らは、だから迷うんだけど、
投影するわけですよ。
だから恋愛などというのはキスしようとしないと、セックスしようとしないと、
一人よがりの世界になるんです。
お互いにですね。
投影同一化の相対に投影同一化をやり合う世界なんですよ。
投影同一化の盛大バージョン。
でもそれが極小バージョンだって、
投影同一化をやっていることに違いはない。
私、あなたが好きですって言うってことは、
好きだと言われたいってことじゃないですか。
で、相手がその通り好きだと言うってことは、
投影同一化じゃないですか。
私は好きな人をそこに投影しました。
相手はそれを言ってくれました。
とてもハッピーです。
実現しました。
つまり自分が投影した現実がそこに実現しているだけじゃないですか。
それって一人の世界じゃないですか。
ある意味では。
この量が膨大になりまくり、
究極的なところまでいくと、
なんか頂き女子みたいな世界になってしまうわけですよね。
42:01
私は本当に好きだと思ってたけど、
相手は1ミリも好きじゃなかった。
でも果たして本当にそうだろうかって、
僕はここでも思うんですよ。
0.01%も相手は好意を持っていないと、
言い切れるだろうかと思うんですよ。
詐欺なら言い切れるかもしれないんですけど、
私はそこもわかんないなって思うんですよ。
好きになる瞬間もあるのかも。
でもトータルでは詐欺なのかも。
みたいなそういうことって、
ありえなくはないんじゃないかって思うんですよね。
わからないと思うんですよ。
そんなことは。
変異性恋愛っていうのは、
そういうことを言ってるんじゃないかなと、
僕は思うんですけど。
でも好きだと言って、
じゃあ一緒にホテルに行ってエッチもしました。
相手はそこで心変わりするかもしれないじゃないですか。
で、その時に、
いや最初から私の体目的だったんだ、
裏切られたって言うかもしれないけど、
それもわかんないじゃないですか。
もしかすると、
本当に好きなのって言った瞬間に、
相手が冷めたのかもしれないじゃないですか。
これも東映同一化かもしれないんですよ。
というか東映同一化なんだと思うんですよ。
本当に好き、相手は自分を好きなんだろうかと疑うということが、
相手の心に、
自分はこの人本当に好きだったんだろうかという疑いを、
植え付けることになると思うんですよね。
これはつまり自分の中の分裂が、
しょっちゅうここで話していることですよ。
自分の中に分裂があるわけ。
自分はセックスをしたいと思った。
しかししたくないと思っている。
絶対そうだと思う。
僕は全ての人がそうだと思う。
100%ってことはないと思います。
だって100%だったらおかしなことになるから。
食事をする時もそうなんですよ。
食べたいという気持ちと食べたくないという気持ちが、
ちゃんと探せば絶対見つかる。
じゃないと人は永遠に食べ続けることになっちゃう。
あるいは、永遠に食べられないことになってしまう。
これは脳の神経科学で出てくる話ですけど、
ブレーキかけられるからアクセル踏めるって話なんですよ。
セックスしたい、絶対したい、100%なんだって言うかもしれない。
100%この人好きなんだって言うかもしれないけど、
それは嘘だと思う。
99.9対0.1だとしても、
0.1が残ってないと人間はその行動をやめることができなくなるので、
そうなったら困るじゃないですか。
ずっとセックスしてられないですから。
ずっと食事はしてられない。
お腹張りちぎれますからね。
だから止まらなきゃいけない。
そういう病気あるんですよ。止めることができなくなる病気。
つまり、分裂してないと困るんですよ。
でも分裂するということは、
したいという気持ちとしたくないという気持ちが、
昨日の話と同じ、逆行するってことになります。
逆行すると、私は本当はこの人としたくなかったのかもしれないってことになります。
そうすると、この気持ちは絶対相手に投影されるはずです。
この人は私と本当はしたくないのかもしれない。
あるいは、この人は私を本当は好きじゃないのかもしれない。
この疑問は自分の心の中にあるはずなんですよ。
45:00
相手の心の裏側に、あるいは相手の腹黒さにあるんじゃなくて、
でも僕らはこれを投影するから、
必ず相手がそう思っている。
私を騙しているのかもしれないと思っている。
私に対して怒っているのかもしれないと思っている。
こういうことになるはずなんです。
自分の心に分裂があり、その分裂を投影するから。
そして分裂は絶対あるから。
だからこの投影が止むことはないはずなんです。
つまりこの投影があるということは、
どんなに仲のいい人でもこの人に見捨てられるかもしれない。
この人が怒り出すかもしれないという不安から逃れることは、
本質的に、原理的に絶対不可能だということを意味していると思うんですよね。
これは迷いを生むじゃないですか。
心にモヤモヤを残すじゃないですか。絶対に。
というわけで、私は物思いにふけちゃうと思うんですよ。
私は朝が起きられないんですって言われると、
ううううってなると思うんですよ。
そこで答えが、例えば朝すっきりする薬を出すとか、
それが答えですよね。
毎朝起きる習慣をつけるとか、
好きな人におはようと言ってもらうとか、
認知的に、行動療法的に、ライフハック的に答えはあるんだけど、
そのどれも、この問題を根本的には決して解決できないということを、
みんな知ってるはずなんだと。
ライフハックいう人だって、認知行動療法いう人だって、
薬出す人だって知ってるんですよ。
それは本当の意味での答えではないってことを知っている。
本当の意味の答えではないっていうことそのものと付き合い続けるのが、
精神分析なんだと思うんですね。
で、私はそれの間違いものをやるってことです。
似て異なることをしたい。
それはつまり、お互いが迷うよねっていう状態を共有した上で、
この迷うっていう状態を手放すずに扱うというのを、
自分がやるとどうなるかということ。
そうした方が答えはわかりやすいんですよ。
そこで、それはきつまってたんだよって簡単に他人は言える。
これが一人でやらない方がいい理由なんだけど、
一人でやるしかないことはいっぱいあって、結局一人でやるんですよ。
僕の言っていることがしばしば逆転していることに気づいてほしいんですよね。
たぶんここで聞いている人の中で、
いやお前一人でやるなって言ってなかったっけってことを
絶対思う人はこの中にいると思う。
それは僕が迷ってるってことですよ。
こういう迷いがなくなるはずはないと思うんですよ。
答えがあるんだったら、
私だったら答えがある世界で頑張ります。
ライフハックやります。
発達障害グレーゾーンの人のための先送りと、
48:02
先送りがなくなって約束を守れるようになる仕事術100って書きます。
だってその方が気持ち楽だし、
正式がうんたらかんたらとか野良がどうたらこうたらとか、
藤山さんの本読むとかしなくて済むし、
たぶん売れますし、楽に生きられますもん。
でも私はそれも同じだと思ってるんです、今は。
迷いのカチューで書くに決まってるんで、
迷いのカチューで書くんだったら、
迷いをなくすということをやらないほうが違う。
そうじゃない、こうだ。
それは迷いをなくしましょうと言いながら、迷ってる人の考え方だと思うんですよ。
さっきも言いますが、これは批判じゃないんですよ。
僕が自分に言ってることなんです。
自分自身がやってきたことだし、いいんですよ、それで。
そういうのもアリなんです。
今までそういうのはどうなんだろうと思ってたんだけど、
アリだなって思うようになったんです。
どうせ正解じゃないってことはみんな知ってるはずだから。
鵜呑みにしちゃうってこともいいんですよ。
鵜呑みにしたくなることもあるから。
何でもいいんですよ、要するに。
ただ、迷いはなくならないってことです。