方法を真似たところでマイナスKにしかならないんですよ。
これはどうしようもないことだというのが妥当だと思う。
だって僕ら外界には出られない。自分の内界に住んじゃっていますから。
私が心の中の話をすると、私の母親についての話をしてしまい、
しかもそれがずどずど変化していくという、
それを真実を捕まえようということで記録というものをするんですけれども、
それが捕まえることにはならないだろうということなんですよね。
心の中のあるタイミングの母親に対する正確な記述にはなるんじゃないですかって、
ならないんですよ。一秒ごとに変わるから。
だから絶対に何時何分書いたからといって、
真実を捕まえるなどということにはなるはずがないんですよ。
この量子力学みたいな世界なんですよ。
観察者がそこに立った瞬間に観察対象は影響を受けるみたいな話で、
まして観察対象が自分自身だということになってきた場合は、
どうにもなんないですよね。
常にものすごい速度で動いているエネルギー体みたいなものを
ピン止めしようと頑張っているみたいな話なんですよ。
土台無理だ。
大事なのはそこで話されたコンテンツの中身が正確かどうかじゃなくて、
そこでその人がどのように話すかであって、
しかもそれは次の瞬間にはもはや大事じゃなくなったりするようなものであって、
常にものすごい速く動いている流動的な何かなんだと思うんですね。
これを扱っているんだということを忘れちゃいけなくて、
やっぱり後でメモを見返してみて、
この人こう言ってたなみたいなのを思い出すってこと自体が何かに貢献してくれない。
むしろ邪魔をしてしまう。
邪魔が大事なのかもしれないけれども、
邪魔をされるべきなのか貢献されるべきなのかを後から先に事前に予測することは不可能だからダメなんですよね。
無理なことをしている感じがする。
メモってもいいけどそのメモは無駄になる気がしますね。
僕だからスクラップボックスはすべて廃棄しましたからね。
これは意味がなかったなというか、
これを読める状態にあるっていうこと自体がいけないなっていうか、
よくはないなっていう感じなんですよね。
それでも事実関係を私も佐々木さんにこう言いましたよねって言われることがあるわけですけど、
これを言われるのが嫌だから記録するってのがそもそもダメなんですよ。
これを言ってるってことはやっぱり何かあるんですよね。
そこで訴えてきているものが。
戦法にとって人間関係やら事実関係やらが大事なはずは実はないのでね。
だって話してる内容は結局は先送りとか仕事行く気しませんとか、
行く気はするんだけど行ってませんとかそういう話をされてるわけじゃないですか。
で、その人がお父さんの妹さんのご主人がとかいう話をされたとして、
そこ本当は大事じゃないわけですよ。
だけどもそこが大事に思えてるってことは大事なんですよ。
で、この話を私が真剣に聞いてるというのは大事なんだけど、
次の週にはもうそれはどうでもいいことになっている可能性が高いんですよね。
その話を僕がいちいち覚えておいて、
何かそれに影響されてそれに付随する話をしているっていうのは良くないんですよ。
でもだからと言ってその話をまるまる忘れてるっていうのも変なんですよ。
でもその話を大きく誤解してるってことはあり得ることなんですよ。
全てがこのあやふやな状況の中でなんとなく残った印象とか、
残らなかった印象とか、なぜか大事なのに忘れていたとか、
思い出せないといったことは全部重要で、
それの中のどれかが重要だという判断をメモるときってするじゃないですか。
それが余計だってことなんですね。
だからその方が全然違うことを母親はもう本当にひどい人でって言ったら、
次の週にお母さんがいなければ私生きてなかったですみたいなことを言うのは正しいんですよ。
で、どっちをメモっておくのかとか、
先週はこういう風に言ったのが事実だというのはそもそも事実じゃないんですよ。
そいつはマイナス系なんですよ。
これを全部含めて事実に迫っていこうっていうような話なんだと思うんですね。
だから…
なんて言えばいいのかな。
だからそれとGridはどういう風に成功するんだとか僕は悩んでしまうんですけどね。
Gridってそもそも存在がマイナス系っぽくない、そうなってくるという気はしなくはないんですけれども、
そういうところでBionを読む間はずっと悩んでいかなきゃならないんだろうなって感じがしますね。
要するに今の話はそうは聞こえなかったと思うんですけど、
コンテインドとコンテナーみたいな話なんですよ。
コンテナーというのはコンテナーで抱えることによってコンテインドですね。
コンテインドって言ってみれば嫌なんですよ。
気のままではね。扱いようがない。
赤ちゃんがうわーって鳴くっていうのが僕は昔も確かに電車の中でうるせーって思ってたんですよ。
今は全然思わなくなったんですよ。
実に面白い現象だって思うんですよね。
それに対してお母さんが怒ったり怪したり、すごい怒るっていうケース。
すごい怒るってことはつまり排出に対する排出だってこともあるんだけども、
でも抱っこしてるわけじゃないですか。
こういう時にミニコット流に言うとホールディングだって感じがするんですよね。
怒ってるんだけど話さないっていうこの態度は実に独特の矛盾感があるじゃないですか。
その矛盾というものは赤ちゃんの心にいずれインストールされていくじゃないですか。
それが生きていくのに役に立つじゃないですか。
なぜならば会社に行きたいけど行きたくないとか、
この仕事をしたくないけどこの仕事をするとか、
そういう感覚って絶対発生するから、
勉強もできなくなるって。
これ実にあまりにもわざとらしすぎて、いかにも梅塚造さんらしいんだけれども、
要は性欲っていうものはそういうものなわけじゃないですか。
一方では性欲はめちゃくちゃあるわけですよ。
高校生レベルですからね。
だから絶対に意識には入ってくるんだけれども、
他方では性欲というものを扱いかねるわけですよね。
どういうふうに扱えばいいかがわからないので、
結局性的欲求不満ってものがそこで、
実際には性欲は何らの形でも具体的には満たされない。
具体水準には満たされないわけですよ。
だけど象徴水準に持っていけてないから明らかに、
女子校生という、女子校の女子校生という具体物に翻弄されている気がする。
つまり外から押し付けられている感じがするわけですよね。
大体性欲ってそういうもんじゃないですか。
思春期の人にとって見ればね。
自分から上がっているのは確実なんだけど、
そういう感覚が湧いてこないわけですよね。
ここでさっき言った人間というのは不自然に生きる生き物となって、
17、8にもなっている男女がすぐ近くにいるのに、
お互い意識もせずに生きていこうというのは土台めちゃくちゃ不自然じゃないですか。
でもそれが当然だっていう顔をしなきゃならないわけですよ。
梅塚憎さんの時代だから、僕が高校生だった時よりまだ前ですからね。
もう非常にそこに無理に無理を重ねるような生き方。
だっていわゆる性献の犬、猫でもいいですけどが、
オスとメスで発情期になってお互いを意識もしない。
そんなことを期待するだけ無理じゃないですか。
人はそれを哺乳類なのに頑張ってやろうとしてるわけですよね。
何の根拠があってのことなのか、いろいろあるんですけれども、
とにかくそういうことを頑張ってやろう、頑張ってやろうってするわけですよ。
だからめちゃくちゃイライラする。
このイライラというものと、自分の性欲というものと、
その性欲に無自覚であるという状態を3つ立ち合わせると、
僕たちは清く正しく生きていくんだ、勉強だけをするんだ、
教科書から目を逸らしちゃいけないんだってところで、
女の子が横でパンティー振ってるっていう妄想になっていくわけですよね。
その女子高生は後で、あれは雑巾を振ってたんであってって言うんだけど、
そもそもなんで雑巾振るんだって梅塚憎にツッコミを入れたいんですけども、
まあでもこの作品は非常によくできていて、
女子高生側から見ても全く同じなんですよ。
私たちは清く正しく生きていかなきゃいけないのに、
バカ男子高生たちがパンツを振っているみたいなそういう話になっていて、
お互いがお互いの性欲に振り回されるんですけど、
この話のカラクリで一番やっぱり僕は素晴らしいなって、
やっぱ梅塚憎っていうのはギャグみたいな話を書いていてもすごいなって思うのが、
男子高生が夢を見るんですよね。
もうなんかあんたの夢にも出てきてやるからねって女子高生に言われるという妄想なんだと思うんだけれども、
そういうことを言われた男子高生がその女子高生に迫られる夢を見る。
そしてその男の子が起きて、あのバカ男だめ、人の夢にまで出てきやがってっていう、
これが精神病水準ってことですよね。
彼は精神病者じゃないんだけれども、
これはやっぱりさすが梅塚憎だなっていう感じを感じさせられたわけですよ、僕はね。
結局コンティニしきれないという事態はこういう事態、
自分で自分の結局のところ、うるさい鳴き声だろうと性欲だろうと、
どれほどそれが押し付けられたものに感じられても、
自分が知覚してしまったということである以上は間違いなく、
それは自分の脳みその中の出来事じゃないですか。
音はしてますよね。赤ちゃんは泣いている。
でも音というものは心の中に入ってきて初めて音になるわけですよ。
そうじゃなかったら音の波が外にあるだけであって、
音質とか音量とか、あるいは光景とかにはならないわけですよね。
光景とか音質とか音声とかに音声なんていうのは声なんで、
になった瞬間にもう鳴っているってことは心の中の出来事なわけですよね。
それが僕らにはわけわかんなくなっていく。
挙句の果てにはさっきまで夢を見ていたという認識があるくせに、
夢に入ってくるということがさもできるかのようなレベルに入るほど、
僕らは正気というものを見失うんですよ。
現実見当がおかしくなっていくわけですよね。
でもあれを読んでいくとですね、この子がこう思うのは確かに妥当だわって感じ。
あのバカ女、夢にまで入ってきやがったっていうこのセリフはですね、
狂気のセリフとしては実によくかけてるなって思うんですよね。
ギャグなのに。ギャグなんですけどね。
畳から見るとこれはギャグですよね。
だけど本人はすごくここに深刻になってしまうわけですよ。
めちゃくちゃ腹が立つわけ。
なぜならコンテンツにされてないからね。
自分の本能というものが押し付けられたものになってしまっていて、
被害者なんですよ、彼にしてみると。完全に自分は。
押し付けられて、どういうことをすることもできないものをどうにかしなきゃいけないという、
なぜそんなことを、つまりあいつらがパンティ振らなければ
自分は黙々と勉強していられるのに、
なぜ俺はそんなことをさせられているんだっていう気持ちになっちゃうわけですよね。
勝手に夢を見て勝手に性欲を高ぶらせてるんだけど、
自分の自覚を持つ動機がそこにないんだと思うんですよ。
非常にコンテインドだけがあって、コンテナがない感じがするんですよ。
これを助力、人に助けてもらって、一番簡単なのは恋愛とかすればいいんでしょうけど、
人に助けてもらってコンテナを自分で用意するっていうのが多分やっぱり、
理想を言えばそういうことになるわけですよ。理想を言えばね。
でもまあ僕らは理想通りにはならないんで、我慢とか不満とかになってしまう。
不満ってのは要するに満足がないってことだし、
我慢っていうのはちょっと独特のあれ、仏教用語なんですけどね、
困った言葉をあんまり安易に生み出さないようにするんだけど、しょうがないんですよね。
こういう話は全て宗教チックになっていきやすいんですよね。
でも途中僕も散々美音に習って、見法は見法は言ってるわけじゃないですか。
法話すると満足なんだけど、法話はしないんで、決して。
赤ちゃん泣き止まないですよね。何をやってあげても。
じゃあお母さんが間違ってるのかっていうと、そんなことはないですよね。
だから僕はここで、だからその社会の冷たい目がいけないっていう論は、
99%正しくても100%にはならないと思うんですよ。
というかつまり社会が温かくて優しくて、お母さんが安心しきってても、
赤ちゃんは多分泣くんですよ、泣くときは。
つまりあらゆる問題をこの観点から解決できないと思うんですよね。
コンテナーが理想的なら、万全だってことには絶対にならないですよ。
そこはエミリー・ゴッドが言った通りで、グッド・イナフなんですよ。
どこまで行ってもグッド・イナフ。パーフェクトは絶対望めないし、
パーフェクトっていうのはダメなんですよ。一種の病気なんですよね。
だからグッド・イナフである必要はあると思うんですよ。
そこで赤ちゃんを放り出しましたとか、うるさいから出ていけと
乗客が言いましたっていうのはダメだと思うんだけど、
それだって、エミリー・ゴッド流に言うと現実に起きたならグッド・イナフになっちゃうんだけど、
まあでもそれは、避けたい。
イナフだとしても避けたいって感じはありますけれども、
パーフェクトってことは到底望めない。
だから私の冒頭、途中で申し上げた、今日はこの辺にしますけれども、
要は、母と私が勝手に呼んでいるものは、母でもなんでもないんですね。
私の心の中ででっちゃげなもの。夢の中でまで、
あのバカ女出てきやがってって言うのと何も変わらないんですよ。
夢なの。所詮これは。
実体としての母と関係ない実体としての母は、私は永遠に知り得ない存在なんですね。
だからノーイングでしかないわけですね。
母についてノーすることはできない。
知るってことはあり得ない。
ラブとかヘイトとかで邪魔されるし、マイナス系もうようよあるし、
結局のところわからないままである。
何が起きたかもわからない。
たぶん1歳の頃こうあったんだろうとか言ったって、
そんなのは全くの妄想ですよ。
だって私は覚えてないんだから。
で、その、なんて言うんだろう。
私が知り得ないことっていうのは、つまり知り得なくていいんですってことなんです。
知らなくていいことなんですよ。
知らなくていいことってあるじゃないですか。世の中にはいっぱいね。