実家に帰ると疲れる理由:身体の「構え」とは
実家に帰るとなぜ疲れるのか?
こんにちは。大沼竜也です。
身体の教養ラジオを今日も始めていきたいと思います。
のんべんならりといきましょう。
この番組は、神経質の大沼竜也が、心と体のつながり、身体のロジックに
SOMATIC STUDIO のサポーターの皆さんのご質問にお答えしていく番組です。
今日はですね、サポーターの方から、
実家に帰ると疲れるんだよね、というお話、相談をいただきました。
これね、結構臨床の中でも、クライアントの方からも結構聞いたりします。
直接それが原因で体調を崩すっていう方は、幸い僕のところにはあんまりいないんだけど、
いろんな不調がたたって、僕のところに来てくださって、
いろいろ話をお伺いしていると、
ご両親になったりとか、ご家族との仲がかんばしくなかったりとかね、
ということも結構あったりするんですよね。
今特に、4月22日に収録してますけど、間もなくお盆じゃないですか。
お子さんいる方たちとかは、結構幼稚園とか保育園とか小学校とか、夏休み入ってきますよね。
そうすると夏休み、大人はね、普通に仕事があって、
ただこう、夏のお盆のお休みとかがあると、
お盆に実家顔を出すみたいな機会もあると思うんです。
親族が集まるみたいな地域もまだあると思うんでね。
実家に帰る。
いいんだけど、なんか疲れちゃうんだよな。
夫の実家もそうだし、
なんなら自分の実家っていうところにいるのも、帰るのも、
なんか引っかかる部分が、なんかしんどい部分があるんだよねっていう話をいただくことも結構あったりするんですね。
例えば、お母さん。母といると、なんかしんどいんですよねーと。
一言ではなかなか言い表せない。
親の顔色をうかがってしまう。
いろいろこう自分なりに内省して、
いい子にしてないと認められない気がしてんのかなーとか。
自分が子供を持って、やっぱり自分が受けたその子育てっていうものが、
自分が置かれてたその子供の時の環境っていうのが、
違和感が浮き彫りになってきて、親を許せない。
親との距離感がわからない。
こんな風なことまで語られることが割と多いかなと思います。僕のところではね。
今日はそれについてお話をしていこうと思います。
今日は4つかな。
1つ目が、実家に帰るとなぜ疲れるのか。
2つ目が、怒らない親でも構えはできるっていう話。
3つ目が、許すかどうかを決める前にできること。
4つ目が、親の側の体の話。
この4つでお話をしていこうと思います。
じゃあ1つ目。
実家に帰ると疲れるっていう方結構いらっしゃいますね。
僕のところに来る方だと、あのね、帰るたびに何か言われるんだよねーとか、
いう話は結構多いかなと思います。
なんかこう、もう子供じゃないのに、
あれ大丈夫なの?これ大丈夫なの?とか、
あれやったのか?みたいなことをチクチク、チクイチク言われるっていうね。
まあ客観的にさ、あのー、
自分だって言われたらそりゃうんって、やっぱりね自分の親ですから、
すごく近い距離にいる人たちだから、
もう俺だって大人なんだよっていう気持ちも湧いてきてイラッとしたりすることもあると思う。
でも客観的に見てみればさ、
あのー、まあ親も心配なんだろうなっていう見方もできるとは思うんですよね。
でもまあ、そうは言っても、
そう思えませんよね。
あなたのためを思ってとか、
まだそんなことやってんの?とか、結婚はどうなの?とか、仕事はどうなの?
子供はどうなの?みたいな。
なんかわかりやすいひどい言葉じゃなくても、
その度にチクッとくるっていうことがどうしてもあったりします。
これがね、
そのクライアントの方によっても変わってくるけれども、
どういう子供時代を過ごしたか、どういう親とのコミュニケーションを積んできたのかっていう、
その積み重なってきた分だけ重くなったりもするわけです。
私もちょっと実家とか苦手なんだよな、
親とかちょっと距離最近置いてるな、
距離置かないように仲良くしたいと思って、
いろいろ言ってるけどなかなかうまくいかないこともあるんだよなっていう方がいらしたら、
ちょっと思い出してみてほしいんですよ。
実家に帰る前の日とか、
駅に着いたあたりで、
体ってどんな感じになっていますか?
直接ね。
暴力を振るわれるわけでもない。
命を取られるわけでもない。
なのに肩のあたりがすごく重かったりとか、
陰のところがギューってなったりとか、
息苦しくなったりとか、
もう玄関に入る前から、
もうため息が出てるっていう方もいらっしゃると思うんです。
でもここではまだ何にも言われてないですよね。
何にも言われてないのに、
こういうことが起きてくる。
これ頭で、よし身構えるぞ、
息苦しくなるぞ、息を浅くするぞっていう風に思ってるわけじゃないじゃないですか。
気づいたらもうそうなってるわけだよね。
できればそんなの避けたいですもんね。
だけどそうなっちゃう。
命を大事にっていう話を、
僕よくしてます。
これは危機だ。
これは危ないぞ、やばいぞっていう風に、
僕らの無意識、野生の部分、つまり身体の部分が
自動的に判断します。
その瞬間に体が守りに入ると。
動物っていうのは基本的に危ないな、危険だな、怖いなっていう時は
攻める、攻撃するよりも守るし、進むよりも固まるし、
感じるよりも閉じるっていう方向に向かっていきます。
これを僕は命を大事にの構えになってるよっていう風に言ったりするんですね。
この構えっていうのが多分ここでも起きていると言えるんだと思います。
相手を目の前にしなくてもだよ。
もうその前からあそこに行くぞと思った途端にその反応が出てしまう。
頭でこうしようっていう風に意図するよりも先に体が反応しているわけです。
だからこそ、いくらもう大人だしとか、
もう関係ないしっていう風に思っていても、
体の方はもう会う前から身構えていて、
会ってる間ずっと守っているわけだ、自分のことをね。
そりゃ疲れますよね。
こうなるんじゃないか、ああなるんじゃないかって、
思考、言葉として頭の中に思い浮かんでくる人もいるかもしれない。
人によってはね、いやそんなの親に思うなんてダメダメだ。
こういう風に親らって私のことを思いやってくれてるんだから、
それが素直に出てないだけなんだから受け止めなきゃ。
受け止めたい。そう思うけどできない。
なんで私ってそういう風になれないんだろう。
そんな風に自分を責めちゃうこともあります。
これ疲れますよね、こんなことをやってたらね。
でもそうなってしまう。ずっとエネルギー使ってるわけなんで、
そりゃしんどくなってきちゃうわけだ。
ここで一つ、親子の話に特有だなって思うことがあります。
トラウマのきっかけになった場面っていうのは、
大抵もう過ぎ去っているものなんですよね。
僕らトラウマっていう言葉よく使うかなと思うんです。
あーもうトラウマだわ、怖いわーとか。
あの時のそのトラウマになった原因の職場はもう辞めてる。
あのトラウマに感じた恐怖のビデオみたいなものはもう手元にはない。
持つ部屋に返しちゃった。
あの時の環境はもうないわけです。
そのきっかけっていうのはもう終わっていて、
それが過ぎ去ってるんだけど、
いろんな何かしらのいろんなものがトリガーになって、
またあの怖い感じが立ち上がってくるんですよね。
これがトラウマ。
つまり体にだけ構えが残ってしまっていて、
これがいろんな場面で発火しているっていう風に考えることができます。
だから終わったことなのになぜっていう話になるんですよね。
もう済んだことなんだから気にしない気にしないって
いくら頭で考えたとしても、
体がそのトラウマ、つまり命を大事にの構えが濃厚に残ってるから
思っても変わらない、思っても変えられないということが起きてきてしまうわけです。
ところがこの親子、親子関係っていうのはなかなか
切れるものではありません。
切りたいとも思わないっていう人も多いかなと思うんですけどね。
もちろんどういう経験をしてきたかにもよると思うけど、
なかなか自然に流れていくっていう関係性では
なかったりもするのが親子ですよね。
仕事だったらちょこちょここう変わったりとかさ、
つっても全然珍しいことではないですよね。
怖い恐怖体験、お化けの体験みたいなことがあったとしても
食べ物とか匂いでちょっとトラウマっぽくなったとかってなっても
これが分かりやすく戦争でとか交通事故でとかってなったとしても
その場は過ぎ去っていきますよね。
だけど親子っていうのはなかなか切れなくて
年に何度か会うし、何なら電話もかかってくるとかさ
なんか用事があるとコミュニケーションしなきゃいけない場面とか
もしくは晩々と正月があって
いつ帰ってくるの?っていうような声明けをもらったりとか。
しかも相手も年を取っていきます。
自分も年を取っていくので
関係っていうのは更新され続けていきます。
しんどいなーって思う状態でまた帰って
またしんどい思いをそこで更新していく。
自分の命を大事にの構えがどんどん強化されていく。
でまた帰って。
でまた正月になった。
じゃあ行くかーってなると
また更新されたあのトラウマ的な反応が
命を大事にの体の構えが
より強くなっていくわけですよね。
つまりこれって体からすると
過ぎた話にはなりきらないんですよ。
なかなか。
どんなにリフレッシュをしたとしても
なかなかこの構えっていうのは
その親を目の前にした時の構えってなかなか消えるものじゃありません。
これって体も賢いので
これはやばいぞっていうことは
脳とか神経系にも強く刻まれてしまうんですよね。
お風呂に入ってあって
ちょっと音楽フェスに行ってわーってこうはしゃいだとしたって
ある程度その時体の構え解けてくれると思う。
だけれどもやっぱり相手を目の前にした時にまた
同じ方向性の体の構えってものが
命を大事にの構えが立ち上がってきてしまうんですよね。
構えを立ち上げるきっかけ
親っていうきっかけそのものが実在してて
定期的に目の前に現れるっていう
これが特にこう厄介なところでもあるわけです。
他のトラウマっていうもので言われるようなものと
親子の問題。
これがね言葉を変えて
愛着障害とか
アダルトチルドレンとか
なんかそういった言葉でよく言われることってあると思います。
でも構造としては
このトラウマっていうところで
身体的なトラウマっていうところで
説明がつくんじゃないかなっていう風に僕は思っています。
臨床でよくあるのがこういう順番です。
最初は親の話じゃないんですよ。
目上の人と話すと
圧を感じるとか
上司の前だと固まってしまうとか
そういう話をいただくことがあったりします。
先日も私塾の中でセッション練習をしているときに
私塾生の方からもこういう話をいただきましたね。
自分より立場の上の人と話すぞっていう場になると
すごく萎縮してしまうんだっていう。
そこでその時の身体の感じっていうのを聞いていきます。
臨床とかでは。
どこがどうなっているのか。
嫌な感じなのか。
いい感じなのか。
これが溝落ちなのか。
喉なのか。
肩なのか。
そうやってこう部位とかどこの場所で
どんな感じで?っていうことを細かく細かく聞いていきます。
もちろん問い詰めるような形で聞かれても
気持ちいいものではないのでね。
思い出していく過程で
その時の嫌な体験というものが
ぶわーっと立ち上がってきちゃうリスクもあるので
もちろんゆっくりゆっくり行くことが大前提ですよ。
これ聞いてくださっている方も
私のトラウマってこういう感じだわって
今もしかしたら思い出しているかもしれない。
是非にそれに飲み込まれないように
してあげてください。
ちょっとなんとなくこんな感じかと思ったら
普段お伝えしている体を解く方法というのを
やってあげてくださいね。
解きながらそれを深もっていく。
それが安心して
自分を内省するきっかけになってくれると思います。
ちょっと話それちゃったけど
体の反応がこんな感じだなって出てくる。
それから
それってどういう時に感じます?
という風に聞いていきます。
もしくはいつ頃からですか?という風に
事実ベースのところから
広げてお伺いをしていく。
こうすると
上司に対しての
胸の突っかえる感じ
上司と話している時の
圧迫感を感じている時の
喉とか胸のグーという感じ
これ親と話している時の
感覚にすごい似ているかも
という風に家庭の中の
上下関係みたいなところに
行き合ったりするんですね。
もちろん全員がそうじゃないと思いますよ。
何かしらこの感覚って
どこでこの構えって
どこで培われたものなんだろう
みたいなものが出てきたり
繋がってきたりするんです。
こういう風に繋がったら
お母さんとの
関係に
上下関係というような
感覚ってご自身の中でありますか?
というようなことを聞いたりします。
もしくはお母さんとの上下関係
お母さんとの関係性というのに似た関係って
他でどういうのがありますか?というような
聞き方をしていきます。
こうすることでその人の中で
上下関係という言葉が
どういう体験と繋がっているのかというのを
探っていくんですね。
同じ上下関係という言葉でも
人によって中身が全然変わってきます。
上下関係といったら先輩というのは
甘えるものだし頼るものだし
何ならちょっといじって突っ込んで
可愛がってもらえるものだという感覚の人も
いたりしますよね。もしくは
逆に上司というのは迷惑をかけない
可愛がってもらえるようにそつなくこなすんだ
突っ込まれてはいけない
迷惑をかけてはいけないというような
自分を固めるような緊張感を持つものだ
そういう感覚の人もいます。
この上下関係というようなキーワードが出てきた時は
あー上下関係ねって
ほとんどの方が自分の感覚に
回収してしまうんですよ。どうしても。
悪いことじゃないんだけどどうしてもそうなっちゃうからね。
だけど対人支援の場においては
この人が言っている上下関係というのは
どういうことを指しているんだろう
そこに焦点を当てて聞いていくことが非常に
重要になってきます。
どっちか聞いてみないとわからないからね。
だから安易に
親との関係が悪かったからこうなった
っていうような説明にしてしまうと
大事なその体験
その人の中で体がどういう体験としてそれを覚えているのか
っていうところが抜け落ちちゃうんですよ。
上司との問題、同僚との問題
妻との問題、夫との問題、子供との問題
イコール親との問題だっていうような
何でもね
その記号同士をイコールで結びつけてしまう
っていうのは結構現代特有の
あえて言うけど良くないところだと僕は思っているんですね。
確かに繋がる部分もあるんだけれど
何が繋がっているかというと
おそらくこの体の構えとして
それが体験されたものが
似ている、繋がっている
そこが非常に重要なところなのかなと思うわけです。
聞いてくださっている方の中でも
この感じかなっていう体の体験を
なんとなく今思い出せる方もいるかもしれませんね。
それから2番
怒らない親でも構えはできるっていうところです。
怒らない親でも構えはできる:身体的な体験の重要性
これ僕自身の話なんですけど
例えばね
子供の頃、僕の長野って割と
怖いんですよって言われるんですけど
父親として
力も強いし
単価を切るのが上手というか
荒っぽい人ではあるんですよね。
だけど表面的には荒っぽいんだけれども
非常に子供のこととか
周りのこととかをすごく見ているような
割と現代的な
面倒には不一致に社会性の高い人なんですよね。
僕の父親って。
それもあって
すっごい怒られたりとか
分かりやすい暴力みたいなのを受けたことって
ほとんどないんですね。
覚えてないんですよ。覚えてないんだけど
やっぱり怖いよね。
これなんでなんだろうなって
ある種僕も父親になって
子供ができて
分かりやすく手を挙げることって
なかなかできませんよね。
大事な子供だしさ。触れたら壊れちゃいそうな子供が
目の前にいるわけで
割と
話してもやっぱり通じないものじゃないですか。
子供って。
自分自身の
身体的な構えってところを見せること
なのかなと思うんです。
つまり体験として
これは良くないことなんだぞとか
これはお父さんもお母さんも
パパもママも嫌なことなんだよとか
これは素晴らしいことだよ
パパもママも嫌なことなんだよとか
パパもママも嬉しいよっていうのを
彼女とか彼
子供たちにその体験としていかに伝えられるか
っていうところが非常に重要なのかなって思ってるんです。
新米の父親ですけどね。
まだまだ。
これ僕の中では
分かりやすく親父の力に触れた
身体的な接触みたいなところで言うと
親父の腕にぶら下がったりとか
そのまま上にポヨーンって
上げたりとかっていう遊びをさせてくれてたんですよ。
高い高いしてくれたりとか。
お父さんお父さんとかってキャッキャーって
行くとさ、もう体験したことないスピードで
上にスポーンって上げられたりとか
するわけだ。
最初は面白いからキャキャキャってやってるんだけど
親父も面白くて
こうやるわけでしょ。でもそうすると
だんだんだんだん急に怖くなってくるんですよね。
でも親父は楽しいから
どんどんどんどん速くなってくる。グワンとかってまたさらに
急になってきたりする。
こうやって
グワって強く上げられる、早く動きをつけられる
ってなると暴力振るわれてるわけじゃないよ。
全然楽しいんだからね。
2人ともに笑顔でこうやってるわけで
笑いながら。だけどそういう風にグワーって
やられた時に初めて
思い出せる範囲でだけどね、どうしようもない
っていうような感覚が
その時に初めて生じたわけです。
多分3歳とか5歳とか
もっと小っちゃかったかもしれないよ。
小さい頃の記憶だからほとんどが本当に曖昧だけれども
死ぬとか
そういうことも思えるわけないんです。
まず死ぬっていう言葉もたぶん知らないと思うから
死ぬっていうのがどういうことかっていうのも分からないから
こうなったら頭打って死んじゃうみたいなことは考えてないけれども
死ぬとか
やばいっていう時の感覚を
この時にたぶん感じてたんですよね。
言語以前の言葉になる前の
恐怖とか絶望的な体験
っていうのをあの時にしたと思うんです。
これって大人になってから
すごく感じるんだけど
例えばサーフィンをした時とか
僕サーフィンをやってないですよ。
全然やれないんだけど
ちょっと友達がやってるタイミングがあって
それをやってみようぜみたいな
俺もやってみたいから一回行ってみたいって言って
一緒に何回か行ったことあるんですよ。
そうするとさ、やったことある方は分かると思うんですけど
波ってすごいじゃないですか。
すごいって分かりやすく大きい波とかじゃなくても
平然と飲み込まれるし
そのまま平然と海の中に
潜らされて
頭をね、僕は海底にバコーって
ぶつけたりとかもしました。
もういい歳なのにだよ。
そのくらいもうどうしようもないなって
圧倒的な自然の力みたいなのを見せつけられた
その時の感覚にすごく似てたんです。
父親の悪意とかではない。
自然だったら悪意は持ってないよね。
だけれど
自分にはコントロールできない
ものがあるんだっていうことを
その波とか自然だったりとか
父親っていうのは僕に
身体的に教えてくれたんだと思っているんです。
怒られたわけでもないし
殴られたわけでもないし
愛情のある遊びなんだけど
その中であの時体は絶望してたんですよね。
だけど別に父親のことが
怖いっていうか
すごく身構えちゃうとか
あんまり二人になりたくないとか
一緒にいたくないかと言われると
全くそんなことはないわけです。
ある種尊敬だったりとか
親父を立てたいっていう気持ち
というものが湧いてきたりもする。
だから自分にとって嫌なことを
されたから構えができるということとは
限らないということなんですよね。
悪意があってもなくても残るときは残るし
残らないときは残らないわけだ。
これを踏まえて言うけど
親子の話になると多くの方が
悪い親を探す方に向かっていきます。
例えば実家に帰るとどうも疲れるんだ。
その理由が知りたいから子供の頃のことを
振り返すんだ。今いっぱいありますからね。
子供時代を振り返っていろいろ
チャーナリングするみたいな。
あの時ああ言われたなあ、こう言われたなあ
ネットで毒親の特徴みたいなのを調べてね
うちの親も当てはまるかなあって
照らし合わせたりする。
散々そういう風に言われてきたという方だったりとか
大抵その毒親の
ポイントみたいなのってのは
あれもやっぱり構造的にどうしてもね
あの、読者を引きつけるための文言にも
なっていたりしますからね。
確かになあって思うところも結構出てきたりするわけです。
僕は両親のこと大好きですけど
毒親の条件みたいなの見たら
当てはまる部分だって結構あったりしますよ。
でもまあそれは人間だしなって思ったりするし
機嫌いい時と悪い時でも変わったりするような
って思う部分ももちろんあったりする。
まあもちろん
完全にその毒親だっていうような
人間的に未成熟な親御さん
っていうパターンももちろんあるんだけれどね。
でもそこまでじゃなくても
そこまでひどくなくてもね
確定させにいく。やっぱりうちは
毒親だったんだ、だから私はこうなんだ
っていう方向に
向かっていってしまうやすいってこともあるんですよ。
逆にそこまでひどくはなかったけど
むしろ大事にされてた方だっていう
分かったとしても
あ、じゃあ私が勝手にこういう風になっちゃっただけなんだ
っていう風に変に落ち込んじゃったりとかね。
どっちもしんどいんですよ。
じゃあどうすればいいのって感じじゃないですか、これだと。
毒親っていう言葉で救われる人は
たくさんいるのかもしれない。
この言葉が出てきたことでね。
名前が付くことで
自分だけがこういう思いをしてるわけじゃないんだな。
同じような状態の人もいるんだな
っていう風に分かることで
ちょっと落ち着くっていうことも
実際あるんだと思う。
でも親がどれだけ悪かったか
どういう親だったかっていうことを確定させる
っていうか知るっていうことは
その命を大事にの体の構え
防御の構えっていうものをほどくことには
そんなにつながらないんです、実は。
小さい子の体って大人が思ってるよりもずっと敏感なんですね。
まだ言葉になる前の年齢
言葉を話せる前の年齢でも
体はいろんなことを受け取っています。
さっきの僕の話も
頭では何も理解してない年齢ですよ。
だけど体はその絶望感を感じてた。
やばい、怖い。
その時に親父が悪意があったかどうかとか
どれだけひどかったかとかね。
客観的に見れば言えるかもしれない
そんな子供が怖い思いをさせるくらいのスピードで
肩車するとか回すなんて
どういうことだみたいな風に
今だったらもしかしたら炎上しちゃうかもしれないよね。
でも
僕にはそんなことないですよね。
それなりに気をつけながら
僕が笑ってる状態で声を上げてくれたわけだからね。
だからそうやって
悪意があったかどれだけひどかったかというところを
掘り当てなくても構えはできるわけです。
これ前もお話ししましたけど
嫌な感覚というところばっかり拾うと
その状態を想起させてしまいます。
だから僕は原因の悪い出来事
というものは
あまり深振りしないようにということを
お伝えしたりもします。
と言いながら最初にこのポッドキャストでも
しちゃってますけどね。
このポッドキャストを聞いてくださっている皆さんは
基本的に体を解くことを
インスタとかでも見てくださっていると思うので
そっちを大前提にしながら深掘りをしていってください。
先ほども言っていたけど
体を解きながらですよ。
ここで僕が提案したいのが
探すのではなくて今どうなっているか
自分の体どうなっているかという風に
そっちを見ていくということです。
つまりこれ最近の流行りの言葉で言うと
今ここに焦点を当てるということです。
今ここで起きていることというのは
思考の中にはないんですね。
許すかどうかを決める前に:身体からのアプローチ
僕らが考えているというのは常に
過去のことを材料にして話しています。
過去のことを材料にして
未来のことを考えたり
過去のことを材料にして過去のことを考えたり
時間軸というのがどうしても過去が現在の方に寄ります。
じゃあ今ここで起きているものというのは
何なのかというと
感覚なわけです。
身体的な
つまりその感覚を感じるというものは
身体ですよね。身体がなかったら僕らに感覚はありません。
身体ですよね。身体がなかったら僕らに感覚はありません。
脳を刺激したってそれ脳という身体を刺激しているからね。
もしくは何かに触ったりとか
何かに触られたり
マッサージされたりストレスされたりもそうだし
自然の中に出て風を浴びるみたいなものも
身体で受け止めている体験ですよね。
人と笑い合って一緒に
笑っている時の身体の高揚感とか
絶妙な心地よいほどけ感
ああいうのも全部
身体で受けている体験です。
この体験というものがまさに今ここで起きていることなんですよね。
この体験というものがまさに今ここで起きていることなんですよね。
今笑った。何が面白かったんだろうって考え始めた途端に
これは過去か未来の方に連れていきます。
もちろんそれも悪いことではないのですが
大前提として今ここの感覚というものが
基盤にあるということなんですよね。
そして3番。許すかどうかは決めなくていいということです。
そして3番。許すかどうかは決めなくていいということです。
こうやって親子のことで相談に来る方は
だいたい
あることを聞いてくださったりもします。
親を許すべきなのか
それとも許さなくてもいいのか
もう連絡を取らなくてもいいのか
取らない方がいいのか
それでも取るべきなのか向き合うべきなのか
この人とこの家族と
どう折り合いをつけたらいいんだろうっていうところで
迷ってしまうという方もいらっしゃったりします。
迷ってしまうという方もいらっしゃったりします。
本当にわかるんですよ。
実際に距離を取った方がいいという状況の方も
やっぱりいらっしゃいます。
客観的に見てて、これは危険だぞ
病院を紹介したりとか
いったんその問題からちょっと離れてみよう
ということを提案する方もいらっしゃいます。
ただ、僕が臨床とかセッションの中でやっているのは
その問いに対して答えを出すことではないんですよ。
正解を探すことではない。
言ってしまうと
許すかどうかっていうのは
決めることじゃないと思っています。
よく目標を決めるんだとか
やるかどうかっていうのを決めてこういう風にしようみたいに
言うことがあったりしますよね。
そういう言葉があったり
こういう考えがいいことだとされていたりもする。
なんだけれど、人間というのは常に
動いていて揺れ動いています。
何ならこういう風に迷っている場合というのは
こっちがいいなっていうような
その無意識、つまり体が
ついてきていないわけなんですよ。
どっちともつかずで固まってしまっているわけなんですよね。
言い換えれば
許すというのは心の仕事なわけです。
気持ちの整理がついて
初めてそういう風になっているんですよね。
気づいたら許しているということなんですよ。
そしてこの気持ちの整理とか許すというのは
頭で決めてできるものではないじゃないですか。
何でそうなるかというと
体がほどけて
それを許せる状態になるから
言葉として許したという言葉が出てくる
というのはその頭で考えるとか
っていう手前で動いているものだからです。
許してなくても
やっぱり許せないなと思っても
親の前で肩がこんな風にならない
体にしようということは
いくらかできると思うんです。
親のことを考えながら
体が困っているとしたら
親のことを考えている間
体が心地よい状態であって
その状態で親のことを考えてみようとかね。
もしくは日常的にそういう息苦しい状態
体が怖がっている状態
つまり命を大事にの構えの状態になっているのであれば
親のことを考える
実家に帰る時には
体がほどけた状態で行こうと
つまり許せる状態
許せる体の状態で
その人に向き合っていくということが
非常に重要なところなのかなと思っています。
あともう一つ
これ自分でも聞いてくださっている方は
確かめてみてほしいんです。
親の前だと何だか機嫌を伺っちゃうんだよな
明るくしてなきゃ、ちゃんとしてなきゃ
気を張っちゃうんだよなという方も
いらっしゃると思います。
そういう皆さんって
誰の前でもそんな感じがしますか?
例えば気のおけない友達がいる
どうでもいい話をしてダラダラしている時
あるいは家でパートナーとくつろいでいる時
大好きな愛犬、愛猫と一緒に過ごしている時
同じように気を張っていますかね?
多分張ってないですよね。
同じ自分なのに相手によって
何だか変わるということは
これは僕らが生まれつきの性格というよりも
その相手との間で立ち上がっているものだ
ということの裏返しなわけです。
私、カッコつきの私というのは
自分だけで成り立てるものじゃないんですよ。
世界のあらゆるものと関わっていなければ
作られているのが立ち上がってくるのが
私なわけなんですよね。
私って人の顔色をうかがう性格なんです
って昔からなんですっていう話をよく聞いたりします。
でもうかがわなくてもいい相手であれば
ちゃんとうかがわないわけですよね。
犬の前でもうかがうかって言ったら
うーんそんなこともないかもなって思うと思います。
だとしたら直さなきゃいけない性格みたいなのを
そもそもないのかもしれません。
こう考えるとね
見方が変わってくると思うんです。
自分を直そうとしなくてもいいんですよ、つまりは。
うかがわなくていい時の自分の体は
どんな感じだったか
それを思い出して再現する方向に行けばいいんです。
信頼できる人の前にいる時の
あの肩の感じとか
息の深さとか
あれを体の方で覚えておくんですね。
もしくは僕がお伝えしている
身体動態瞑想、身体ワークみたいなものも
まさにその体の正体を作っていく
より精度を上げていくための
ツールでもあります。
その状態で
親の前に立つとか
今のことを考えるとか
こんな風にやってみて欲しいんですよね。
ちなみに信頼というのは
未来を拡約するものではないと思っています。
この人は絶対に裏切らないということではなくて
信頼するから関わり続ける。
欠陥がどうあったって信頼そのものとは関係がない
という言葉があったりするんですよ。
つまりこれというのは
その相手の前で身体が解けていれば
それは信頼に値するということなんですよね。
僕らは頭でいろいろ考えて
こうだからこいつを信用するぞとか
って言ったりするけど
実はそういう言葉とか思考以前のところで
友人だったりとかパートナーシップだったりとか
もしくはこれが親子だったりとかね
そういう関係性というのが
出来上がっているんじゃないかとも思うわけです。
親の側の体です。
最後に少し違う角度からお話します。
親の身体と子供への影響、そして不登校問題
この番組を聞いてくださっている方の中には
親に対する子供であると同時に
子供に対する親でもあるという方が
結構いらっしゃると思います。
親でありこの子の親であり
親の子供でもある。
両方ね。
臨床でこういうことがあったりするんですよ。
よく。
肩が楽になったら子供に優しくなれた。
これ皆さんも実感の中であると思うんですよ。
なんかアドバイスしたわけじゃないし
子育ての話をしたわけでもないんだけど
ただ肩こりがほどけただけで
自分の中で肩が心地いい感じって
思い出せただけで
その体の状態が再現できただけで
自分の守りのモードが解除されます。
命を大事にする構えが解除されて
そうすると目の前の子供に対しても
余裕を持って接することができるんですよね。
余裕を持ってって言うとまたちょっと語弊があるかな。
あえて言うと
自分が防御モードに入っていれば
本能的に
本能的に僕らは無意識的に
嫌なところを探しちゃうんですよ。
何でかって言うと自分の生存の合理性を高めるためにね。
嫌なもの、怖いもの
嫌いなものというところに目が行きます。
それに対してカッカッカって交換神経を
ガーッと立ち上がらせて
公益的な態度を取らせてしまうんですよね。
だけど体が解けていって
僕の言葉で言う開かれの状態になっていけば
僕の言葉で言う開かれの状態になっていけば
目の前の子供の笑顔だったりとか
たわいもない会話というものが耳に入ってくるようになります。
そこでコミュニケーションというのを楽しめるようになって
いくんですよね。
お腹が空いていればイライラするし
おしっこ我慢していればせかせかするしというのはよく言ってますけど
当たり前のことのようなんだけど
じゃあなんでそれがなっているのかというところで
体がそうなっているからという考え方をする。
体がそうなっているからという考え方をする。
これって意外と現代的な心理療法的なところでは
抜け落ちやすいところだと思っているんです。
イライラを我慢するぞと決めたわけでもないし
優しくするぞと決意したわけでもない。
覚悟を持ったわけでもありません。
だけど体が変われば
関わり方の方が勝手に良くなったわけですよね。
逆に言うと
守りに入っている体を持ちながら
そのまんまで
私は親として頑張るんだ。
この子にいい思いをさせてあげたら優しくするんだ。
って言ったって
なかなかしんどいわけです。
自分の中で矛盾が起きているからね。
自分の心であるその体の部分では
もうガチガチにトゲトゲしているのに
思考の方では柔らかくしよう
みたいに思っているわけですから
その矛盾というのはやっぱりなかなか続かないですよね。
うまくいくのは難しい。
親が体を固めてしまっている時というのは
子どもの表情がちゃんと見えなくなります。
ちゃんとというのは
その嫌なことばかりが目に入るようになっちゃうんですよね。
見ようとしていないわけじゃないんですよ。
いい親でありたいと思っているのは本当なんだ。
なんだけどそれが見えなくなっちゃう。
親に対しても自分の親に対しても
そうは言ってもこの親に沿わせてもらって
いい思いもさせてもらった。
この親が大好きだけどイライラしちゃう。
考えていることと体のことというのは
別のことが起きているからこういうことが起きてくるわけです。
そして子どもは
これを両方受け取ってしまうんですね。
これ
僕が普段お伝えしている
その対人支援の中での結構核の
考え方にもつながるんですけど
例えば子どもが自転車で派手に転んだとします。
けがはなかった。すり傷もなかった。
でもずっと泣いている。
その時にパッと駆け寄って
こういう運転だから転んだ。
わかった?次はどうすればいいか?こうすればいいね。
そうに言ったって
泣き止まないですよね、子ども。
このくらいだったら傷はすぐ治るよ。
こうすれば次は転ばないよということをいくら
例えばAIを駆使して
めちゃくちゃ詳しく論理的にお伝えしたとしたって
子どもに伝えたとしたって
まず子どもは理解もできません。
こんなの関係なく泣き続けると思います。
何でかというと子どもは
怖い、痛いというその身体的な体験を
泣くという形で消化しようとしているからです。
消化していると同時に
これは表出している、表しているわけです。
本能的なものだけれども
この泣くことによって
周りの人たちも
その子の体験というものを
追体験することができるんですよね。
だからそれをしばらく抱っこしてあげて
痛かったなーとか言葉は何でもいいんだと思うんですよ。
書ける言葉は。
子どもに実際に触れながら
その感覚を解いていってあげる
嫌な感覚を解いていくような
促しというものができればだんだん落ち着いて
くるのかなと思います。
例えば僕だったらもうすぐ抱き上げちゃったりとかします。
抱き上げて
よくやりますよね。みんなもやると思う。
上下にポンポンポンポンってこう
上下に揺らしたりとかポンポンポンポンって
なんかちょっと強めで叩いたりとかさ
もしくはなんだろうな
僕だったらコチョコチョとかもするかな。
他のところに意識を持っていったりとか
変な顔して見せたりとか
大きい声で笑って見せたりとかっていうことをするおじいちゃんおばあちゃんも
いたりしますよね。ハッハッハッハッハーとか言って
あれ怖いですけどね。子どもはギョッとするんで
痛い怖いっていう体験に飲まれながら
泣いているところから外に出してくれる
わけですよね。そういう話ってのは。
これって大人も同じだと思うんですよ。
今、不登校
不登校の小中学生ってものが
小中学生の子ってのが日本でも
35万人を超えているそうなんです。
これ文科省の令和6年度の調査ですね。
35万3970人
これ12年連続で
増えているらしくて過去最多らしいです。
これ1000人あたり38.6人
っていう計算になるので
だいたいクラスに1人はいる。1人以上
いるっていう計算になるそうなんですよ。
その調査の中で本人、その不登校
になった子にアンケートを取ったそうなんですね。
その挙げた理由の上位3つが
僕の中ではすごく気になったところだったんです。
学校生活に対して
やる気が出ないというのが30.1%
生活リズムの不調というのが
25%で,不安,欲打つ
の症状を訴えたのが24%だったそうなんです。
これね,全部
体の状態を表しているんじゃないかな
と思うわけです。
やる気が出ない。
やる気が出ないっていう時の体の状態はどんな感じですか?
なんとなく思い出せますよね。
生活リズムが崩れる,不安,
どれも自分の体験したあの感じだなって
思い出せるんじゃないかなと思うんです。
多くの方は。
でも支援の入り口ってのは結構考え方を整理するとか
環境を変えるということの方にどうしても
向かいやすくなってしまいます。
実際,不登校の子を抱えた
親御さんというのもどういう風に環境を
整えたらいいかな,どうやったら学校の重要性が
伝わるかなというところで考えて
しまって,自分が追い込まれて
しんどくなっていくということも結構多かったりするんですよね。
この不登校の子を抱える親御さんは親御さんで
その身体的なしんどさ,精神的なしんどさ
というものを抱えている方がやっぱりほとんど
だったりします。だからしんどいんですよね。
2人とも一生懸命なのに,
親御さんも子供も一生懸命なのに
2人でこうしんどくなっていってしまう。
でもこれを体の問題,体で起きていること
なんじゃないか,体の側から
取り直せる余地があるんじゃないか
そう思うと
希望がありますよね。こういったものを
今後のSOMATIC STUDIOの中でも考えながら
やっていきたいなと思っています。
もしお子さんの不登校の子さんとか
もしくは学校生活している子どもさんの
支援とかしている方がいらっしゃったら
ぜひコメントとか,もしくは
オンラマのインスタのDMとかでももちろん構いません。
連絡いただけたら嬉しいです。
ぜひお話を伺わせていただけたら助かります。
はい。
ということで最後にここまでの話を
まとめてみたいと思います。
意思の構え:野生と理性の調和
いい時の自分の体を思い出してみて,
親の前でその体の状態で
向き合ってみましょうという話をしましたね。
よく考えると,
結構とんちんか不思議なことをやっているな
って思うかもしれません。
体は勝手に構えます。
親を前にすると,こっちが望んでなくても
何を考えていようが肩は上がってくる。
これは止められないんですよね。
ガーッときますよね。
僕はこの体の自動的な反応というものを
野生というふうに呼んでいます。
本能でそういうふうに動いてしまうんですよね。
こっちの言うことをなかなか聞かない部分です。
でもそこに
いや,この親っていうのは
ゆるんでいい相手なんだよ
っていうふうに体に促すことはできるんですよ。
いい時の感じに
意識で寄せていけるわけです。
この考えて意識を向けるっていう方を
理性っていうふうに言ったりしています。
構えっていうのはこの野生の方に
体の方に
僕らの組み込まれた
自動的な反応として現れるものなんですよね。
防御だったりとか
これを閉ざされっていうふうにも言ったりします。
もしくはオープンになって
余裕を持って豊かなコミュニケーションができる
開かれっていう状態があったり
頭で決めるよりも先にもう体に出ているんですよね。
体が反応している。
この野生の構えに理性で
意思を持って開かれの方へ
持っていく,関わっていく。
僕はこれを意思の構えっていうふうに言っています。
考えてあれこれっていうふうにしたいほうの理性と
そうは言っても勝手に動いてしまう野生っていうところ
これをうまく,この2つがうまく
手を取り合っている状態
これっていうのがすごく人間的な営みだと思うんですね。
野生の部分だけで
生きることが
それだけでは
まっかり通らない部分があったからこそ
進化の過程で僕らには理性が生まれたんだと思うんです。
だとしたらこの理性っていうのは
この野生をさらに伸ばしていけるような
そこで得られる喜びっていうものとかを
広げていくために存在しているんじゃないか
っていうふうに思うわけなんですよね。
親の前で体が
嫌な防御の構えを出すっていうのは
野生の仕事です。だから攻めてもしょうがないんですよ。
自分の無意識,野生,体の部分をね。
だけどそこに意思で
介入していくことができます。
動物は本能のままかもしれないけど
でも人間は自分の体の構えに意思で関わることができるんですよ。
つまり
親子の連鎖っていうのは
断ち切るとか乗り越えるとか
そういう言い方をされることが多いんだけど
僕はここに手を入れられるんじゃないかな
というふうに思っています。
親を変えるんでもなくて
自分の体の構えに自分の意思で
顔を変わると。
これが結果的に自分の子供に向ける顔
っていうものも変えていくのかなと思うわけです。
というわけで今日の話を一つに束ねると
こうなるかなと思います。
親の前で出てしまうあの感じっていうのは
性格でも過去の傷そのものでもなくて
その相手を前にすると立ち上がってきてしまう
体の構えなんだ。
だとしたら許すかどうかっていうのを決める前に
体の方を解いていきましょうよ
ということなんですよね。
こういうことをやっていくとどうなるかというと
コア割りが解けていけば
記憶の方も別に忘れようとしなくたって
コア割りがない状態で
フラッとに思い出せるようになるんですよ。
こうした時に初めて、こうした体の状態ができた時に
初めて
いやー、あの時は大変だったなー。
あれも一つの経験だったなーっていう風に
客観心ができるようになるんですよね。
それに飲み込まれなくなるから。
あの時の体験に飲み込まれなくなるからです。
許すのとは違うかもしれません。
忘れるっていうのとも違うと思います。
飲み込まれなくなるんですよ。
僕はそこを目指していくべきなのかなと思うんです。
この人の前だと
自分の体が緩んでるなーっていう
相手を一人思い浮かべてみてほしいんですね。
その人といる時の
肩の感じとか、息の深さとか
それを思い出すだけでいいと思います。
直そうとしなくてもいいです、最初は。
誰かに会いに行かなくてもいいと思います。
それがあなたの体で本来できる状態です。
親の前でそうなれるかどうかっていうのは
別の話でいいので、その次の段階でいいから。
まず、自分の心地いい体の状態
開かれている状態っていうのは
どういう時に起きるかなー、どんな感じかなー
っていうものをとことん味わい尽くしてほしいんです。
そうするとね、気づいた時に
いつの間にか、あれ、なんか
今日は大丈夫かもっていう風にね、気づくタイミングが
出てくると思うんですね。
こんな風に、頭の片隅に入れておいていただけたら
嬉しいなと思います。
はい、ということで、今日の身体の教養ラジオは
この辺で終わりにしましょう。
今日、暑いのでね、無理せずに過ごしてください。
僕も今から治療院に行くんですけど
34℃つったかな、仙台も。
結構暑いと思うんで。
一緒に水分補給しながらね、のんべんならりと
今週も行きましょう。大沼達也でした。
ありがとうございました。またお会いしましょう。