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毎日が同じことの繰り返しでむなしい|岩を押し続けた男の話
2026-07-07 52:10

毎日が同じことの繰り返しでむなしい|岩を押し続けた男の話

毎日が同じことの繰り返しで、何のためにやってるのかわからなくなることがあります。
その「何のため?」が消えている時間が、身体にはあります。夢中でやっているときです。
岩を押し続けた男の話から、「希望」の意味を取り戻す回です。

アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』(清水徹訳・新潮文庫)から引用しています。

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サマリー

このエピソードでは、毎日同じことの繰り返しで虚しさを感じるというリスナーからの質問に対し、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』を引用しながら、希望の意味と虚しさの克服について考察します。カミュは、永遠に岩を山頂へ押し上げ、それが転がり落ちるという罰を受けたシーシュポスを、その運命に立ち向かう姿勢において幸福であると論じました。これは、将来の成果や希望に依存するのではなく、今この瞬間に没頭し、身体感覚を大切にすることの重要性を示唆しています。 現代社会では成果を求めるあまり、日々の活動そのものを楽しむ感覚が失われがちですが、子供がレゴに夢中になるように、あるいはスポーツ選手が競技そのものを楽しむように、私たちは「今ここ」に意識を向け、身体の声に耳を澄ませることで、虚しさから解放され、生きる手触りを取り戻すことができると語られます。最終的に、希望とは未来の成果ではなく、現在の自分の構えや在り方そのものに意識を向けることであると結論づけ、リスナーに日々の生活の中で心地よさや楽しさを見出すことを提案しています。

日常の虚しさとカミュのシーシュポス
無意味だと分かっていることを、それでも夢中で押していく。 それ自体を希望と呼んでもいいと思うんです。
こんにちは、大沼竜也です。 身体の教養ラジオを今日も始めていきたいと思います。
この番組は、神経質の大沼竜也が、心と体のつながり・身体論を軸に、Somatic Studioのサポーターの皆さんのご質問にお答えしていく番組です。
皆さんおかわりないですか? だんだん暑くなってきたね。夏になってきて、梅雨もなんか明けそうだけどね、もうまたなのかな。
体調気をつけながら、このラジオを聞いている間だけでもね、身体の方に目を向けて、穏やかな心の状態が少しでも保たれればなと思います。
今日は、サポーターの方からいただいた質問をね、やっていきたいと思います。
今日いただいた質問は、こんな感じです。 ちょっとね、長文でいただいたので、僕の方である程度解釈してお話をさせていただきます。
読み上げますね。
朝起きて、仕事、帰って、ご飯、でまた寝て、でまた朝と。
で、洗った正気また汚れるし、頑張って洗濯して畳んだけど、また洗濯して、また畳んでってことをしなきゃいけない。
こういう繰り返しの作業に、もう飽き飽きしてきてしまった。疲れてしまったと。
この先にどんな希望があるかも分からないのに、そんなことを考えても仕方がないのかもしれないし、自分の努力が足らないだけなのかもしれないけど、
なんかどうしようもないこの振動さに潰れそうなんですっていうようなお話をいただきました。
質問というかちょっともう愚痴みたいな感じだよね。ご本人も愚痴っていう言葉を中で使われてたんですけどね。
いいんですよ。もちろんそういうことを、回答に困るだろうなとかそういう風に書いていただいてたんですけど、そんなことも気にしないで、
きれいな質問とかしなくていいんですからね。むしろそういうところが大事だと思っていますので。
ということで、いろいろ日常の中で繰り返しの作業が多かったりとか、
その先に希望が見えないと、このままずっといったんで、大丈夫なんだろうかとか、そういう不安が湧いてきたりとか、
一種の退屈さとか苦しさっていうものに飲み込まれそうになってしまっているっていうことなのかなと思ったんですね。
例えばここの中でも、この方質問いただいた中でも、生活だけじゃなくて、仕事とかもそうだと、キャリアをこうやって築きたいなと思ってたけど、
家族ができて、子どもができて、子どもはもちろん可愛いけれど、ただその家庭のところだけに自分がいてしまって、
それを自分で選択してるっていうふうにおっしゃってるんですけどね。
仕事のほうもっと頑張って、そしたらこういろんな成果が出るはずだったのに、
そのためにいろいろ我慢してたのに、この日常の中に閉じ込められてる気がするような感じがするんですかね。
加えて、直そうとしている自分の嫌なところとか、そういうふうに考える自分すら嫌だっていうふうに思ってらっしゃるそうなんですね。
直そうとしている癖とか、その考え方っていうものも、またここで自分引っかかるのかぞ、またかみたいな感覚がすごくあるみたいなんですね。
で、ふとした瞬間にこれは何のためにやってるんだろうっていうふうになってしまうと。
これね、僕お話聞いたとき、このご質問をいただいたときに、すごいなんか自分のことを思い出したんですよ、自分の体験のところね。
もちろんクライアントの方とかも、こういう話を聞いたりもするんだけど、20代前半くらいかな、自分の体験とすごく似ている気がして、勝手にですけどね、僕が照らしてしまってました。
なんかね、目の前のことに夢中になっている間はいいんだけど、夢中になっていて、なんかのね、当時SNSがそんなに盛んじゃなかったけど、
そういうネットの情報を見たりとか、映画とかね、テレビとかを見たときに、こんなにすごい人いるんだとか、こんなに成功している人いるんだ。
自分も自分の分野でこういうふうにやってみたいな、頑張りたいなとかっていうふうに希望を見出していろいろやるんだけど、なかなかうまくいかなかったりとか、何なら挑戦することもできないみたいなね、臆病で自分が。
なんかそういうので、ずーっとうつうつうっくつとしている時期っていうのがあったんですよ。
で、その時はね、学校行って帰ってきて、もんもんとこういうふうにしよう、ああいうふうにしよう、でもできないなみたいなずっとぐるぐるぐるぐる回っているような生活っていうのが、しばらくあったんですよね。
で、20代だからさ、1日も長いじゃないですか。30、40、50とかに比べると多分20代の1日って長いですよね。
すごいなんかこう、終わりがない、抜けられないトンネルの中にずっといるような感じがしたんですよね。
で、まあそういうふうに自分のことを照らした時に、ちょうどこの間ね、何だっけかな、なんかの記事で拝見した本を、すごいなんか難しかったんですけど、
あの、ごちらちら見てたやつがあったんですね。で、それがちょっとよぎってきて、今回ちゃんと読んでみたら、このご質問いただいて読んでみたら、結構まとめたことが書いてあって、面白いなと思ったので、
ちょっとその本を引用しながらご紹介、解説をしてみたいと思います。何か一つヒントになればいいなと思っています。
すんごい難しい本だったからさ、すごい読みにくかったんですけど、逆にご質問いただいたことで、どういうふうにお伝えしようかな、どういうふうに理解したらいいんだろうなっていうふうに、
道筋になってくれました、このご質問が。本当にありがとうございます。
はい、ということで今日はね、3つテーマを出してこう、解説していこうと思います。
虚しさのもとは繰り返しじゃなくて、意味がない気がするっていうことの本なんだっていうこと。
そしてもう一つは、二つ目は、この本の中にね、岩を永遠に押させられた男っていうのが出てくるんです。
ちょっと口述するんですけど、その彼がどこに希望を持ったのか、そして最後実践の話をしていこうと思います。
今日テーマに出していく本は、あ、ごめんなさい、本の名前、どこ行っちゃったかな、すみません、持ってたんだけど忘れちゃった。
もう本の名前も忘れるくらいのあれでした。シーシュポスの神話。皆さんご存知ですかね。
僕は初めて聞きました、これ。ある神話の中に、ギリシャの神話があるんですよね。
この神話の中でシーシュポスっていう神様の話があるそうなんです。
このシーシュポスっていう神様は、なんかすごい悪いことをしちゃったそうなんですよね。
ちょっとここは割愛しますけど、神様に、偉い人に対して罰せられる、自分が悪いことをしたから罰せられたそうなんです。
その罰として、大きな岩を山頂へ、山の一番上のところまでずっと持って行きなさいと。
山頂に持って行ったら、いいよ、許してあげる、みたいなことを言われたそうなんですね。
ところが、なんか意地悪いなーっていうのは、ギリシャ神話ってなんか本当不思議だなーと思うんですけど、
岩を上まで持って行くで、山頂の付近になると、その岩っていうのは山頂まで登らないようにできてるらしいんですよ。
必ずあと少しっていうところで、その岩は転がり落ちるようになってるんだ、そうなんですね。
そうするとまた、麓のところからやり直して持って行くっていう。
だからつまり、この罰っていうのが永遠に繰り返されるっていうものらしいんです。
シーシュポスはこういう恐ろしい罰を与えられたっていうふうに言うんですね。
そういう伝えられ方が多いらしいです。
ここで、名前忘れちゃった。
カミュっていうフランスの作家さんがいたんですね。
哲学者っていうふうに紹介してもいいのかな。
で、このカミュっていう人がこのシーシュポスの神話を引き合いにして一冊の本にしました。
この本の中で、シーシュポスって恐ろしい罰があったからこうだよねとかっていう話、そこに焦点を当てるんじゃなくて、
シーシュポスってめっちゃ幸せなんじゃねっていうことを言い出すんですよ。
え、どういうこと?そんななんか、永遠に岩をずっと上に持ってくけど落とされるみたいな。
もう少しみたいなところで、あーダメだった、カクーンみたいな。
なんかそういう落胆をずっと経験させられる?苦痛と落胆を経験させられるってすごいしんどそうじゃないですか。
自分の仕事とか、このご質問いただいた方とかでもさ、
この選択終わったらとか、今日1日が終わったらとか、
これ、この仕事のこれが終わったらきっとこういう成果が得られる。
楽になれるみたいな、その希望を見出しながら生きている。
だからこそ、その希望が手に入らないところでずっと回り続けるってめちゃくちゃしんどそうじゃないですか。
でもそうじゃないんじゃないの?っていうふうに神は言うんですよ。
結構勝ち目にね、言うんです。
シーシュポスの神話と「希望」の再定義
で、例えばですよ。
多方ね、例えば分かりやすい例で言うと、
物を作るとか。
物をこう一個一個、例えばさ、僕は今子供たちがレゴをハマってるので、
レゴを組み立てたりするんですよね。
レゴをまずもう大きな箱にドシャーンって入ってるんで、
一個一個探すわけです。赤い。
3マスのやつ、あ、4マスのやつが欲しいな。ここにポコン。
同じ色で揃えたいな。
探すのめんどくさいし。
言ったらね。で、こうグーッと揃えて、こうやっていくわけです。
で、どこにあるかな。ずっとこの体勢でいるとしんどいなと思いながらも、
もうちょっとで完成するぞってやっていけば、いつかは完成するわけですよね。
だけどシーシュポスの岩は絶対に上まで行かない。
あれじゃあどこに楽しみを見出せばいいの?希望を見出せばいいの?ってなるわけです。
でもね、言い換えれば、
そのレゴをやってる時っていうのは、僕はですよ、
しんどいなと思ってこうやるけど、
子供たちはその組み立てる時間っていうのは、
あともうちょっとで完成だしんどいけど頑張るぞっては思ってないんですよね。
もう楽しくて夢中になって無我夢中でこうやっているわけです。
そう考えると、僕らの仕事とか家事みたいなのって、
よく丁寧な暮らしとかって言ったりするけど、
それ自体を楽しんでいるっていうパターンと、
この家事を終わらせたい、この仕事を済ませたい、
この仕事、なんだろうな、この、
そう、目の向こうにその成果が待ってるからっていうところが前提に、
なっているっていう生き方と、
2つに分けられることになるんですよね。
そこでこの神は、
無意味だと分かっているけど、
これは、きついのは、
これは何のためだろうっていうふうに言うわけなんです。
無意味だと自分で分かっている。
それがこの×の一番大事なところなんだっていうふうに言うわけです。
だからこの男は幸せなんだっていうわけです。
どういうこと?これをもう少し詳しく解説していきます。
なぜこの神、作家は、
この男シーシュポスを幸福だとまで言えたんでしょうか。
この神が、作家が見つめたのは、
押す場面ではなくて、
岩が落ちた後、降りていく時間だっていうんですよ。
引用すると、こうやって、
ふもとへと戻っていく間、
この急死の間のシーシュポスこそ、
僕の関心をそそるのだっていうわけです。
変態かっていう話なんですけど、
まあでも、神はシーシュポスが、
岩を上に持っていく間はきっと希望に満ちてるんだろうと、
しかも無が夢中だろうと、すごい重たいものを、
よいしょよいしょよいしょよいしょ、もうすぐだって持っていく。
神は、そのシーシュポスを自分の中で写し込んで、
おそらく夢中になっている間はそんなにつらくはないだろう。
ただそれが、ガラガラガラガラと凝っていった。
ああ、やれやれ。またもう一回やり直しだ。
次はこういう風にしてみたらいいのかな。
でもどうせまた落ちるんだろうな。
そう考えながら降りていくとき、
その時のシーシュポスのその考え方とかあり方っていうところが、
大事なんじゃないかっていう風に言うわけです。
下りっていうのはさ、もう手ぶらですよね。
岩を夢中で押してるわけでもなくて、手を余してるわけだ。
で、また同じことやるっていうのが全部見えてる。
ごまかしが効かない時間っていう風に言うんですよね、神は。
で、ここで僕らの立場の中でも、
いつかは報われるっていうことで、
今の苦しみから目をそらすわけです。
でもシーシュポスがその山を下っている間は、
その手は使えないんですよね。
どうせまた落ちるんだよなーって思いながら行くわけです。
ここで神はこういう言葉を残しています。
どんな瞬間においても、
彼は自分の運命よりも立ちまさっているっていう風に言うんです。
これすごくね、僕素敵な言葉だなと思う。ちょっと解説しましょう。
どんな瞬間においても、
彼は自分の運命より立ちまさっている。
つまり、運命がこのシーシュポスを
幸福であるかどうか、希望に満ちて生きているかどうかっていうものを決めるわけじゃないっていう風に言うんですよ。
どんなに苦しい運命だったろうと、報われない運命だろうと、評価されない人生だろうと、
彼の方が勝っているっていう風に言うんですね。
どういうことか。
頂上をめがける闘争、ただそれだけで人間の心を満たすのに十分足りるのだっていうわけです。
今やシーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬっていうんです。
つまり、頂上をめがけて登る、その強い意志、
それが僕らの心、そのシーシュポスの心を満たすのに十分なんだというわけです。
こう、成果が得られるとか、希望を見出すとかっていうところではなく、
ここに立ち向かっていくのだっていうその姿勢とか在り方、意思をそこに向けていくっていうことが生きることであり、
つまり幸福なのだっていう風に言うわけなんです。
彼が特徴的なのは、希望の全くの不在が幸福の条件であるっていう風に言うわけです。
希望の全くの不在。
なんか僕らがね、この希望がないのを受け入れようとかさ、
そういう言葉聞いたことある方もいるかな。
ちょっと極端にね、そういう言葉を使う方とかもいます。
希望を持つなと。
神もちょっと同じような言葉を使ってるんだけど、ちょっと意味は違うかなと僕は解釈してるんですね。
希望を持つなって言ってるわけじゃなくて、希望を違うところに持とうよって言ってるわけです。
僕らは無意識に普段の生活の中で、きっとこういう風になれるはずだと。
それを目指して頑張る。
つまり、その成果を希望っていう風に言っているんですよね。
いつか認められる。いつかお金持ちになれるとか。
いつかこういう技術が身につくんだ。
コスパタイパとかね。
特に現代っぽい言い方かもしれないけど、
成功、広い意味での抗議の成功みたいなものを希望として取り扱うということがあったりします。
だけど神が言っているこの希望を持つなっていうのは、僕は希望っていう言葉を使ってもいいと思うんですよ。
つまり彼が何を、どこを幸福って、どこを希望と言ってるかというと、
推していること。生きて動いていること。
意思をそこに向けていくこと。
未来に向けるんではなくて、
今の自分のその構えとか在り方のところを常に
強く持つこと。
それを希望っていう風に呼んでいるんですね。
夢中になることと身体感覚の重要性
なるほど。無が夢中に子供たちがレゴを組み立てるように
することができれば、
例えば仕事とかでもよく言いますよね。
夢中になれるようなことを仕事にしようとか
言ったりします。
それで成果を得られるとか得られないとかっていうのは、僕らの幸福にあんまり関係ないんじゃないの?
っていうことを言ってるわけです。
確かに考えてみれば、
皆さんの経験の中でも、
まあそういう部分もあるよねっていうところはあると思うんですよね。
ちっちゃい頃さ、
友達として遊んだ時、小学校とか幼稚園とか、なんだろう中学校とかでもいいかもしれない。
僕は、男の人はね、割と
親父になってもそういう時間って結構あるかなと思うんですけど、
これが、この遊びが鬼ごっこしてるから、
その先にどうなるみたいなことは全く考えてないんですよね。
鬼ごっこをこの人たちとすれば、この人たちと仲良くなれるから鬼ごっこしようとか、
鬼ごっこをいっぱいやることで足が速くなるから鬼ごっこを選択しようとか、
そんなこと思ってないですよね。
ただ、みんなと関わってて楽しいから夢中になってそれをやっているわけだ。
つまりそこに夢中になっている状態。
なおかつ、その夢中に対してより夢中になるように意識を向けていく状態。
これが幸福なんだっていうふうに言うわけです。
僕らの仕事とかもね、生活、日常っていうものも、
そうなれたらきっと確かに幸せだろうなっていうのはなんとなく皆さんもわかると思うんです。
お金の心配とかさ、生きていかなきゃいけない心配みたいなものもあると思うよ。
でも、お金が全く一切なくなったとしても、その夢中をずっと生きているっていう、
例えばこう、いわゆる発展途上国の人とかもいるわけですよね。
実際、幸福度のランキングとかってよく引き合いに出されたりしますけど、
経済的に豊かな方が、労働時間が多い少ないとかで幸福度合いが決まることはない、
そこに相関関係はないっていうことはデータでも実証されていたりします。
で、これ僕も実際自分の体験でね、
学生終わって社会人やり始めの頃とかってお金全然なかったけど、
本当なんか当時はね、まだ1000円以下でご飯食べてお酒飲んでっていうことができたりもしました。
なんならそれがもっとないときはね、家で友達で集まって、
今でも覚えてるな。鬼殺しっていう、皆さん知ってますかね、安い紙パックのお酒。
あれをね、たまたまその後にね、もうちょっと親父になってからですけど、
タクシーの運転手さんが、
「純米酒は甘くて飲まないんだ。本当の酒好きは鬼殺しなんだ。」っていう風に言ってる人がいて、
後でちょっと嬉しくなった話が、っていう記憶がありますけど、ちょっと話それちゃったごめんなさい。
そんな風に、
そのね、経済的な状況とかっていうところでは幸福は意外と決まらないっていうのは、
意外と自分の経験の中でも皆さんもあるんじゃないかなと思うんです。
でも、そう思えないですよね。なかなか。
僕もそうでした。やっぱり焦ってる時期っていうのは、もっと稼がなきゃとか。
子供も生まれる。妻とも、
結婚するときは妻と結婚したいけどお金がないとかさ。
子供が生まれる。あれこの給料で、
10年後、20年後、幸せな家って築けるんだろうかとか、すごく不安になった時期がありました。
で、そこでお金をちゃんと得られるようにっていうところに対して努力するけど、なかなかね、うまくいかなかったりとか、
っていう時期もあったりした。逆にうまくいったこともあったわけです。
いろいろこう僕も挑戦をしたので、そこの中でうまくいったっていう経験があった。
だけど、うまくいったんだけど、お金もある程度稼げて、
一発に子供たち養えるかもしれないな、そういう目処が立った時っていうのもあった。
けど、そこで不安っていうものが拭えるってことはなかったんですよ。
次の不安が出てきます。これを維持できるんだろうかとか、これをもっと伸ばせるんだろうか。
家にいる時間が増やせるかなぁと思ったけど、家にいる時間を増やすってことは余計に不安が増えてくるんですよね。
なんかそんな風に、やっぱこう、どこかしらで正解っていうものを常に追い求めてしまうっていうのは、ある種人間の本能的なものだとは思うんですね。
これは僕らの思考、理性の部分で大きくなっていってしまう傾向にあります。
よく僕はその本能の部分、無意識の部分を野性と言って、
こうなんじゃないか、ああなんじゃないかっていう風に自分で考えるっていうところ、意思が向く部分のことを理性っていう風に言ったりしますが、
本能的にその不安を感じるっていうのは生存的に合理的なんですよね。
もしこうなったらっていう風に思って悲観的に生きてた方が生き延びる確率が高いから、動物っていうのは臆病な方が生き延びやすいです。
人間も同じで、やっぱりこうなったらどうしようというところに意識が行くわけです。
ところが、動物と違う、人間が動物と違うのはこの理性がどんどんどんどん膨らんでいってしまうということなんですよ。
つまり、希望って聞くとすごくいい言葉のように聞こえるけど、希望が大きくなればなるほど、これがこの希望が得られなかったときどうなるんだ。
悲観的なその恐怖っていうものも同時に理性で大きくしちゃうんですよね。
だからこそ、この神はじゃあ希望なんか持つなと、その意思を強く持つっていうところに幸福を見出せっていうふうに言うわけなんです。
かなりこうちょっとね、なんだろうな、気合が入った自己啓発的な文言にね、ここだけ切り取ると聞こえちゃうかもしれないんだけど、
これをちょっと僕なりの身体論の観点から見ていきたいと思います。
この希望、つまり理性でいろいろ考えるんじゃなくて、目の前のことに向かっていきなさいよということを神は言ってるんですよ。
そう考えるとまあ確かになと思うけど、いやそうは言ってもこの不安どうやって取り除くのよっていうふうになるのがやっぱ僕ら人間だと思うんですよね。
でもこの何のためにをどう消すかっていうところは意外と多くのところで語られてなかったりします。
そう思いなさいっていうふうにで終わっちゃうんだよね。
ここで身体論的な考え方すると、そう思ってしまうっていうのは、そう思うのは理性の部分だよね。
その理性の土台に基盤になっているのは、野生つまり身体的なところなわけだ。
僕らの無意識っていうのは、体に刻まれた当たり前のところで決まっているわけ。
さっきも構造で話したように、希望というものが大きくなれば、頭でこうじゃないかじゃないかって考えれば考えるほど、
身体っていうのはそれに影響されるんだよね。
だからこうなったらすごい楽しそうだなーってなれば、身体はすごいワクワクするし、一方で
無知になった時はいいんだけど、ふとした瞬間に恐怖の方に触れたら、
身体の方は一気に怖ばって苦しくなっていってしまいます。
疲労もたたってくるよね。身体の方ってのは物理的なものだから。
そうやってこうしんどい状況というものが重なりに重なっていくと、
どうしてもその希望っていうのを持てるような、想起できるような身体の状態じゃなくなっていっちゃうんですよ。
だからといって、希望のところにいっぱい目を向けましょう。
こんなに素敵な未来があるじゃないですかっていうような自己啓発もあるじゃん。
そういう方向に行って、なんだろうな、こう、
ハッピーハッピー、なんだこんなに幸せに満ちてるじゃないかってめちゃくちゃポジティブにポジティブにポジティブに言ってやるけど、
その時はいいかもしれない。また日常に戻るし、身体の状態だって大きく変わってないわけだ。
日常の中で強張っていくっていう身体の、痩せの部分は変わってないから、また戻っていっちゃう。
なんならぶり返しもどんどん強くなっていくっていう、なんかひどいことになっていってしまうんですよね。
で、ここで鬼ごっこの例をちょっともう一回思い出してみましょう。
鬼ごっこで夢中になってるとき、ギリギリシュッてかわしたときって何のためとかって考えてないでしょ。
この成果を得るっていうふうには考えてないわけだ。
例えば僕あの、僕が子供の頃、学生の頃に北島浩介さんっていう水泳の選手がいたんですよ。
今の若い方はわかんないかもしれないけど。
で、その北島浩介さんが平泳ぎで優勝したときに、
すぐそのね優勝した後のインタビューでファってマイク向けられて、もう息切れてる最中だよ。
その時に、あー超気持ちいいっていう言葉を残したんですよ。
超気持ちいい。
なんかスポーツ選手って言うとさ、今もワールドカップやってますけど、
えーそうですねみたいなところから入るじゃないですか。
割とこう理性的にこう保って、こうですみたいに話すのがセオリーだった中、
あーもう超気持ちいいですみたいな言葉を残したわけだ。
砕けてるっていうところでも斬新だったし、
気持ちいいっていう、なんだろうなこう、
あーそうですかっていうような、あのこちらの受け取り方しかできない、
その北島浩介選手のその主観を伝えてくれたんですよね。
そうか気持ちよかったのかーって思うじゃないですか。
で、その気持ちよかったっていうのは、こんなに努力してきて優勝を勝ち取った気持ちいいっていうものも含まれてるのかもしれないけど、
その泳ぎ自体が、その平泳ぎの泳いでる瞬間自体が気持ちいいっていう言葉に現れたんじゃないかなって思うんですよ。
つまり夢中になってる間っていうのは、僕らは自分を評価するっていうことができないですよね。
そこに評価する私っていう自分が、自我が消えるわけです。
採点する評価する自分というものがいないから、
あ、これって無意味かもなっていう問いが立ちようがないですよね。
だからこそ意思をその夢中になるっていうところに向けていくことが、
スポーツだったら分かりやすいし、僕らの日常の中でももしかしたら僕らの幸福ってところにも必要なのかもしれない。
でもなかなかそう思えないっていうのは、この求めるっていうこと自体が人間だけのものじゃないからなんですよ。
こうなんじゃないか、あれができたらもっと幸せになれそうだな、もっと嬉しそうだなっていう風に想像するっていうのは、
これ生理学とかの中で言うと、ドーパミンっていうところで説明できたりします。
動物ってさ、動物もネズミのマウスとかのレベルでもドーパミンっていうものは借り立てられるんですよ。
このドーパミンっていうのは何かっていうと、目の前の食べ物を食べた時に、
あー美味しいなーって思うものとは違って、この美味しいなーをもっと欲しいって思った時にドーパミンがドバーっと出るんですよね。
お腹すいたなー、あーあれが食べられたらなー、あ、目の前に見えるところに遠いけど、危ないところにあるけど、
あそこに食べ物があるぞってなると、ドーパミンがブワーっと出てきて、疲れててエネルギーも全然枯渇してたけど、
それを横にどかしてリンゴを取ることに集中できるっていうことができたりするんです。
つまり夢中になるっていうのは、ドーパミンを駆動するっていうことと勘違いされやすかったりもする。
まあそれも一つなんだけれども、ちょっとここには落とし穴があるんですよ。
まあ結構そのなんだろうな、自己啓発的なところで、その夢中になるとか、結果を求めずにそこに打ち込むのだってなると、
よしじゃあ打ち込むぞーっていう風に自分をこう借り立てて借り立ててやる必要があるのかっていう風に思っちゃう方もいるんでね。
だけど、まあもちろんそれはもう一つの必要なことであり楽しいことでもある、否定すべきことではないんだけれども、
どこが落とし穴かっていうと、このドーパミンっていうものは体の状態とか一切関係なく、
今自分がどういう状態かっていうのは全く関係なく、そこに借り立てられてしまうということなんですよ。
めちゃくちゃ疲れてる状態がドーパミンでずっと駆動されていけば、体はやがて疲弊して壊れてしまいます。
体が壊れてしまえば、ついにはドーパミンも出ないようになってしまって、誤魔化しが効かなくなって、
その時に体が動かなくなるよね。体が動かなくなれば、どんどん思考のところにしか僕らの意識が向かえなくなってしまう。
いろんなものと関わることもできないし、体を感じることもできないから、
ああ、おいしいなあって思うこともできなくなってしまう、満足にはね。
そうなると、ああ、こんなに動かなくなってどうなっちゃうんだろう。昔はあんなこともできたのになあ。
早くもっとこういう風にやっておけばよかったなあ。
そんな風にどんどんどんどん理性の方が回っていってしまって、
思い描かれる、理性で繰り広げられる思考っていうのは、どんどんどんどん悲観的なものになっていってしまうんですよね。
これは恐ろしいことだ。
じゃあ僕らはどこに意識を向けるべきなのかというと、
そのドーパミン的な快楽、幸福ではなくて、
それを味わうっていうところなんじゃないかなと思うわけです。
つまり夢中になるっていうことです。
夢が夢中になっている状態っていうのは、
言い換えれば、理性がほぼ消失して、
変わる変わる変化していく外界に対して、
自分がもう無意識に、自分の体が無意識に応答している状態なわけなんですよ。
体が勝手に動くような、それに借り立てるような状態なわけです。
なおかつ、そこの中でも楽しみっていうものを感じられている状態だよね。
大人は夢中になるっていうのが難しくなってきます。
子供の頃に比べると格段にそうですよね。
これは誰しもに言えることだと思います。
で、これは集中力とかそういう問題じゃないですよね。
なんなら子供の方が集中力ないし、楽しもうって別に思わなくたってさ、
楽しもうって思わなくたってさ、勝手に楽しんじゃいますよね。
じゃあ僕ら何でかっていうと、
で、それは何に繋がるんだろうっていう風に考えちゃうからなんですよ。
で、これは時代的なものももちろんあるんです。
こういう風に考えよう。考えることが大人なのである。
考えることが必要なのであるっていうような、あえて言うと、
外からのそういう圧力によって僕らの考えっていうのは
なんとなくそっちに規定されてしまっているんじゃないかなと思うんです。
だからこそね、この質問者の方だけの話じゃないんですよ。
虚しさから抜け出し、心地よさを見出す
今の社会構造っていうものが、社会の雰囲気っていうものが
そういう成果を追うっていうところに動いているからね。
だから無意識にそっちに行っちゃうんだ。
だから日々のその楽しさとか幸せみたいなものを感じ取りにくいっていう状況があるっていうのは
まずね、知っててほしいんですね。
で、この夢中になろうと頑張るっていうのは
眠ろうと頑張るけど眠れないっていうのと同じなんですよ。
眠ろうとして頑張ると余計に眠れなくなっちゃうじゃないですか。
だからこそどうやったら眠くなるのかな。
どうやったら自分の体は寝てくれるのかなっていう風に
自分の意識っていうものをその成果の方に向けるんじゃなくて
どうやったら俺の野性は、無意識は動いてくれるのっていう風に
意識の焦点を向けてあげてほしいんです。
シーシュポスもおそらく同じようにやったんじゃないかなと思うんですね。
どうやったらこのループを楽しめるの。
どうやったらこれ登れるの。
どうやったらこれ降りれるの。
このループを繰り返せるの。
っていうところに意識を向けたんじゃないかなと思うんですね。
そうするとさ、例えば寝るとかであれば
部屋の明かりは暗くした方がいいらしいぞと思ったら
それを試してみればいいんだよね。
そしたら確かに明るいよりも暗い方がいいかもな。
そこで頼りにするのは
暗くするのが良いのであるっていう論文だったりとか
証明、いわゆるエビデンスみたいなものじゃなくて
これで自分の体どう反応してるのっていうところが
一番重要になってくるところなんだと思うんです。
電気を消してどうだろう自分の体はどういう風に感じてるんだろう。
ちょっと穏やかかな。
眠くなる時の感覚ってどんな感じだったっけかな。
そんな風に自分の内側で起きていること。
そこに目を向けている状態っていうのが
これ夢中になっていることと同じなんだと思うんです。
つまり質問者さんのところに返ってくるけれども
毎日が同じような繰り返しだっていうのは
もしかするとね、もしかすると
その先っていうところに目を向けて
日常がしんどいからこそ
目の前、向こう側に何かがあるんじゃないか。
この先に何かがあるって思わないと
自分のことを保てないっていうのもあるなと思うんです。
で、いつしかその生活っていうところにも
無意識にそっちへ向かっちゃっていって
日常生活っていうものが
何となくこなす荒っぽいものに変わっていて
余計にそれで怖ばっているっていう
もしかするとしんどいループに入っている可能性も
あるっていうことなんですよね。
じゃあどうするかっていうところに入っていきます。
ここは一言で言えば
そのループから抜け出すことなんですよ。
つまり体でその
楽しいな、気持ちいいなっていうものを
感じるっていうことです。
感じるっていうのは
もちろんね、普段僕が解説している
その瞑想的なものもすごくおすすめなんですよ。
スマーティックスタジオでもさ
お伝えしているその瞑想っていうものを
体のワークとしてお伝えしてますけど
こういう動きやってみましょう
この動きの中でこっちを探しましょうとかって
やったりする。
この質問者の方も
これやっている間はすごく気持ちいいんだよね
って言ってくださってる。
だとしたらその気持ちよさ、心地よさっていうものは
体を動かしてて感じられているものなんですよね。
つまり言い換えれば
洗濯物を畳む間も
初期洗っている間も仕事を向かっている間も
人と喋っている間も
これ全部体を動かしてますから
気持ちよさって感じられるはずなんですよ。
構造としてはね。
だから感じなさいって無理やりやるつもりはないですよ。
なのでそこの中でいかに
心地よさを探していくか
気持ちよさを探していくか
これが僕らが生きているその幸福感
生きる手触りっていうものを取り戻す上で
非常に重要になってくる視点だなと思っているんです。
もちろんそれは簡単なことではないかもしれない。
今の状況からすると
そんなのできるのか無理だよって思うかもしれないけど
幸い
この方はね
質問者の方は
身体胴体瞑想の中で
気持ちよさっていうものを見つけてくださっている
もっと言うと
今までの経験の中で
これ幸せだったな楽しかったなっていう記憶も
あるはずなんですよ。
その時の身体の状態っていうものをぜひ思い出してみて
その時の感覚を
ぜひ日常の中でもたくさん探してみてほしいんです。
探すだけじゃなくて
その感覚を日常の中で
より強く引き出していく。
なんなら別の種類の心地よさ気持ちよさ
その経験ポジティブな体験っていうものを
増やしていくっていう
その方向の努力っていうものを
してみるっていうのを一つ提案したいんです。
そのためにね
一人こもってこうやってやるのももちろん
おすすめなんですけど
そのためになんかいつもと違った
外に遊びに出かけるとか
友達とあれやりたいなと思ってたことを
パッとやるとかね
わかりやすいリフレッシュとかリラックスっていうものも
まず一番最初にそれをおすすめしたいかなと思うんです。
あー楽しいなー
って思うような
体験にまずは抜け出してみてほしいの。
そしてそのあー楽しいなーを
理性でキャッチしてみてほしいのね。
あー楽しいなー面白いなーっていうのは
まさに体が感じていることで
野生でそれを感じ取ってる。
そしたら理性で
あれこの体験この感覚ってどんな感じだ
っていう風に捕まえるんですよ。
体のどの部分がどんな感じになってるか
っていうところでキャッチするんです。
例えばね、わかりやすいところで言うと
胸のところがホワーンとした感じすんなーとか
あーもうなんか全身がこう
ワクワクみなぎるような感じだとか
もしくはね、もっとリラックスしたゆったりした方
チルな方に行くとすると
あーもう全身が砂浜に溶けるような感じだとか
雪山でこう
雪に乗っているあのふわふわした
感じで全身がもう揺れるような感じ
溶けるような感じだとか
いろんな表現の仕方があると思います。
言葉にできるともちろん理性としてはね
キャッチしやすいし思い出しやすくなるのでいいんですけど
それもすごくおすすめなんですけど
もちろん言葉で言えなくてもいいんです。
なんなら言葉で切り取れる部分ってほんの一握り
なのであくまでね
そのきっかけとしてその言葉を残すのはいいんだけれども
もっとその言葉に内包されている
経験というものは皆さん豊かなんです。
だからその体験というものを
ぜひ理性でキャッチしてみてほしいの。
こんな感じだったなーっていう風にね。
そうして非日常の中からでも
その心地よさ、体験というものをキャッチしてあげれば
あとは日常の中でいかにそれを
探していくかっていう
シーシュポスになれるわけです。
ここではね
このカミオが書いた本の中では
分かりやすく×っていう言葉が乗っかってるから
日常って×なのとか
っていう風に変なラベルが張っちゃう
可能性もあるんですけど
全くそんなことはないんですよ。
×じゃないよね。別に日常なんですよ。
ここで抽象的に
カミオが表現したかったのって
あれこれってシーシュポスの×もそうだし
俺らが生きてることってのもそういうことじゃないって
×っていう風に成果を求めれば
それは×になるし成果を求めなければ
それって夢中になってすごい幸福なことなんじゃない
っていうことをこのカミオは言いたかった
はずなんですよ。そういう風に僕は受け取ったんですね。
だからこそ冒頭で僕がお伝えした
シーシュポスっていうのは
幸福な男だったんだっていうことを
カミオは言ったわけなんです。
そんな風にね考え方っていうのをちょっと変えながら
でも考え方変えるだけでは
体は変わっていかないっていうのは皆さんも分かってると思う。
その土台の体っていうところを
今日お伝えしたように意識を向けて解いていく
っていうことをやってあげれば
朝起きてまた仕事して帰ってまたご飯作って
食べて皿洗ってでおうらいて
どの子のしてまた朝でっていう風に
その日常の体をしんどくさせていく
×だっていう風に認識するような
生き方っていうところから
僕らの理性で意思を持って
そこの中から幸福を見出していくことっていうのは
可能なんですよね。
むしろそれがフラットな状態なんじゃないか
っていうことをカミは言ってるし
僕も思うわけです。
よく言いますよね。考え方次第だとか。
もっと言えば身体論の観点から言えば
どういう構えを持つかっていうところなわけです。
幸せに生きるっていうことはね。
その構えっていうのは精神的なその構えじゃなくて
体の在り方です。
野生で言えば体の在り方。
そして僕らは理性がありますから
その理性を体がその構えを
保てるように使っていくこと
これが一つ
身体論から言える
幸せに生きること。
希望を持つ。
日常に希望を見出すっていうことなのかな
と思うわけなんです。
まとめとメッセージ
はい、ということで
何分くらい経ったかな、今日は。
今日も長い間聞いていただきありがとうございました。
今日はシーシュポスの神話という本からですね
カミュという方が書いた本を
取り上げさせていただきました。
アルベールカミュという方でしたね。
シーシュポスの神話という本から
引用してご質問に答えさせていただきました。
今日のお話の中から
何かちょっとでも
ヒントになるような、体が解けるような、希望になるようなものが
お伝えできたらいいなと思っています。
それでは新天の教養ラジオ
これで終わりにいたしましょう。
のんべんならりといきましょう。
ご静聴ありがとうございました。
52:10

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