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直感は正しい?「嫌な感じ」と思い込みを身体から考える #53
2026-09-03 24:26

直感は正しい?「嫌な感じ」と思い込みを身体から考える #53

#53 | 身体の教養ラヂオ

初対面の人に、理由はわからないけれど嫌な感じがする。
胸の詰まりや呼吸の変化を感じた後で、その反応に意味をつけていることがあります。
直感を信じることと、直感に従うことの違いを、身体論の観点から考えてみます。

体が何かに応じ、それに気づき、思考が意味をつける。その過程には、過去の経験や今日の疲労、相手との距離や環境も関わっています。感じたことを消さずに、何に反応したのかを確かめる。収録では、日常の具体例から直感と理性の関係を話しています。

【目次】
直感を信じるとは、何を信じるのか
考える前に、体が何かに応じている
体の応答に気づき、意味がついていく
体が先だから正しいとは限らない
疲れや相手との距離で反応が変わる
直感を信じることと従うことは違う

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サマリー

このエピソードでは、直感の正体について身体論の観点から掘り下げています。直感は頭の中に突然現れるものではなく、まず身体が何かに応答し、その後に意識がそれに気づくというプロセスを経ると説明されています。身体の反応は過去の経験や疲労、相手との距離など多くの要因に影響されるため、それが必ずしも正しいとは限らないと指摘。直感を信じることとそれに従うことは異なり、身体の反応を無視せず、しかしすぐに物語に結びつけずに理性で確かめることの重要性を説いています。

直感とは何か?その曖昧さと身体論からのアプローチ
さあ、こんにちは。大沼竜也です。
新天の教養ラジオ、今日も始めていきたいと思います。
今日はですね、直感について話してみたいと思います。
直感。直感を信じろとかって言ったりしますよね。
その直感って何のことなんだろう?って。
直感を信じろとか。自分の感覚に従った方がいいとか。
よく言うけれど、何かを決める時に考えすぎるよりも最初に感じた方を選んだ方がいいとか言われたりするけど、
はて、じゃあその直感って一体何のこと言ってんだろうって思いませんか?
例えばね、初対面の人とか。
会った瞬間に、なんとなく話しやすそうだなーっていう風に感じたりとか。
反対に、まだ何もされたわけじゃないけど、ちょっと怖いかも。
なんかヤバそうだなとか。少し距離を取りたいと思うとかね。
仕事の話をもらった瞬間に、これはやってみたいぞって思ったり、
もしくは理由は説明できないけれども、
今日はなんかいつもと違う道あるって帰ってみちゃおうかなーみたいな。
こういうものを僕らまとめて直感っていう風に呼んでいたりします。
でも、その中にはいろいろなものが含まれていますよね。
例えば野生の感って言われるものかもしれないし、
これまでの経験をこさえてて、
それらを一瞬でこうまとめて整理して判断したのかもしれない。
一方で単に疲れていて、新しいものを避けたい、
もうちょっとめんどくさいし疲れてるからとか、
もしくは必要以上になんか悪いものなんじゃないかっていう風にね、
疲れてるからこそ思ったり、ちょっとトゲトゲしちゃったりとかもしますもんね。
そういう風になってる場合かも、こともあるかもしれない。
過去に嫌だった人とちょっとだけ似てる部分があって、
それが無意識に紐づかれてるかもしれない。
だからそう考えると、直感を信じるっていう言葉は結構大雑把なんですよね。
ああそうだよねってみんなで共通できる、共通感覚としてあるんだけれど、
これを理屈でいくとどういう風になるんだろう。
何を直感って僕らは呼んでいて、直感の何を信じるのか、
ここが割と説明される機会ってなかったんじゃないかなと思うんです。
それを今日はSOMATICS、身体論の観点から説明してみようと思います。
直感を信じるなっていう話ではないんですね。
むしろ反対で直感を大切にしたいなら、
その正体っていうものをもう少し細かく見た方がいいんじゃないか。
僕らはもう少し直感について知っておいた方が、
直感だけを信じて生きるとか、
直感を全く信じないんだとかっていう、
両極端なところに行かないっていうことができるんじゃないかなと思ったんです。
平たく言うと直感を哲学してみようみたいなことになるのかな。
身体の応答と意識の気づき:直感のメカニズム
結論を先に言うと、
直感っていうのは、
頭の中に突然現れる正解ではないんですよね。
身体が先に何かに応答して、反応して、
その後で僕らの認識、意識が
あれ、これって、みたいに気づいたものとして見ることができる。
どういうことかっていうと、
もう無意識に、身体的に、
僕らはいろんなものに対して反応しているわけなんです。
それを認識に昇ってくる頃には、
これ自分で判断したんだとかって思ったりとか、
もしくは、何かいつのまにかこっちを選んでたなっていうふうに気づいて、
人によっては、これは神からのお告げだわとか、
これってこういう理由があるからだな、
こうこうこうだから正しい、こういうふうな理屈、
合理性があってこういう選択をしたんだとかっていうふうに、
割と後付けで理由をつけて、
自分の直感を正当化しているみたいなことがあったりするのかもしれないという話なんですよね。
短く言うなら、直感というのは身体から届く、
身体の声、第一歩と言えるかもしれません。
私たちは考える前から何かに応じている。
例えばね、友人が目の前にいて、
大丈夫だよっていうふうに言ってくれているとします。
そういう場面ね。何か失敗でもしたのかな。
何かそういう時に言葉だけを受け取れば、
大丈夫なんだなって思いますよね。
目の前の友人が大丈夫って言っている。
そうだよね、大丈夫だって思うかもしれない。
でも、声がいつもより小さかったり、
表情が怖がっていたり、目線が合わない。
返事の間がいつもと違う。
大丈夫だよ、言葉に起こすと同じで、
もうどういう感じで言ったのかによって、
だいぶ意味は変わっていきますよね。
大丈夫だよって言われたら、
大丈夫かなって思えるかもしれないけど、
大丈夫だよみたいな感じで言われたら不安増すじゃないですか。
その時、声が何デシベル下がったとか、
瞬きが数回何回増えたとか、
頭で計算しているわけじゃないですよね。
それでも、こちらの体、僕らの無意識というのは、
相手の変化を受け取っています。
言葉では大丈夫って言っているけど、
何かが違うなって感じる。
子供だってこれが感じますよね。
何かおかしいなとか。
ドリフトとか、お笑いとかっていうのはこういうのがすごく、
子供も笑えるようなお笑いとかっていうのは、
まさにこういうところについている気がしますよね。
飛んできたものを避けるっていうのも同じです。
右からものが来たから、首を何度傾けて、
足へ何キロくらい力をかけようみたいには考えていません。
考えてからでは間に合わないですもんね。
もう先に体が応じます。
熟練した人の動きっていうのもそうです。
長く繰り返して、その作業をしてきた職人とか、
パソコンのキーボードとかもそうですよね。
だいたい、ブラインドタッチとかできる人もいれば、
だいたいなんとなくカタカタカタって打てるっていうこともあると思う。
歯磨きとか、お料理みたいなものも、
日常で体洗う、髪洗うみたいなのもその同じようなことが言えると思う。
毎回全てを言葉で確認しなくても、
その場に応じてなんとなくで動けていますよね。
じゃあこれを考えていないから、
知性がない、知性のない行いかっていうと、
全くそうではないと思うんです。
言葉を巧みに操ったりとか、理論を整然と並べ替えたり、
何か物事を体系化したりっていう、
そういう知的生産っていうことを今言われたりするけど、
じゃあ一方ですごく身体的、
目の前からボール、160キロのボールが飛んできて、
それを瞬時に打ち返して、変化球だったとしても、
それに対して瞬時に応答して打ち返すとか、
全速力で走りながら高速でパスが来たものに、
右足でスッと合わせてゴールにボールを入れるみたいなもの。
こういうものが知性ではないのかというと、
これは紛れもない知性ですよね。
でも、この2つはどこか違う。
僕自身以前このポッドキャストの中で、
野生の感とか虫の知らせについて、
体で何かを感じて、あれ?って思う。
それに対して思考で色々解釈を後付けするという話をしたことがありました。
直感を考えるとき、この順番がすごく大事かなと思うんです。
身体の応答に気づき、意味がついていくプロセス
最初から頭の中にこの人は危険だっていうような、
もう完成した文章として持ってきているわけではない。
体が先に何かへ応じていて、次にあれ?って気づく。
その後でこの人は危ないかもしれないな、
自分とは合わないかもしれないな、というような説明がついていく。
ただ、体の反応というのがそのまま直感になるわけではないんですね。
体で起きたことに気づいて、そこへ意味がついていく。
意味付けされていくまでには少し順番があるわけです。
すごい速いスピードでこれはなされるから、
自分で考えたことだよ、自分で決断したことだよって
多くの人は思うかもしれないんですけど、
決断をする、これで間違いないっていうような確信っていうのは、
多くの場合その直感に基づいて決断されているんですよね。
だって考えれば正解っていくらでもあるし、
信じるものって人によって変わってくるからね。
体の応答、気づき、意味付け、最初の段階では
まだ怖いとも好きとも呼んでいないかもしれません。
胸が少し詰まるとか、呼吸が止まるとか、
体が自然とそこに進んでいくとか、
目線が外せなくなるとか、背中が固まる、
声が小さくなる、あったかくなる、こういう変化が先に起きてくる。
次に、あれ、なんか気になるな、なんか違うな、
こっちへ行きたいなっていうような感じが立ち上がってくる。
まだ理由は説明できないけれど、何かを感じている段階です。
そしてその後にお待ちかねの思考が働いていきます。
この人は怖いなとか、これは運命だぞとか、
自分には向いていないなとか、きっと失敗するなとか、
絶対こっち選んだ方がいいっていう風に理由とか、
もしくは物語っていうのをつけていきます。
紐づけていく。
もちろん実際にはこの3つが綺麗に分かれてて、
順番に一個ずつ進むわけではないんですよ。
すごく早く重なって、何ならここね、
ちょっとループしながら起こっていることっていうのもあると思います。
僕らが直感として気づいた時には、
体で起きたこととその意味づけっていうものがもうすでに混ざり始めている。
ここで大切なのは、
意味付けの重要性と身体の反応の限界
思考が後から来るものだから悪いものなのかっていうと、
そういう話ではないんですね。
体で起きたことに対して意味をつけるっていうのは、
人間にとって普通の働きです。
むしろすごく人間的な、人間にとって特徴的な働きと言えると思います。
相手との関係とか過去の経験っていうものを思い出して、
何が起きているか理解しようとする。
そのために僕らはいっぱいいろんな知識をつけて、
こういう色の野菜は腐ってるらしいなとか、
ジャガイモのこの緑のところって食べると得らしいよみたいなのを知っていて、
それを避けることができますよね。
それがないと僕らはそのまま野生のまま世界に向かうことになるので、
いろんな失敗だったりとかっていうことを起こしていってしまう。
複雑な状況、複雑な世界っていうものを扱えないんですよね。
だからこそ僕ら人類っていうのがそういう知恵っていうものを進化の過程で得ることができて、
そうやって生きる世界っていうものを広げてきた、
そういう歴史があるわけです。
ただしこういう物語とか理由づけ、意味づけみたいなものの特性のせいで、
せいでっていうかそれの副作用みたいなもので、
後からつけた意味を最初から体が知っていた、体が反応した直感だと思ってしまうこともあるんですよね。
胸が少し詰まった、そこまではその時体で起きてたことですけど、
だからこの人は信用できないなっていう風になると、もうすでに解釈が入ってしまっています。
体の反応が嘘だっていうことではないんですよ。
反応が起きたこととその反応から出した結論っていうものは、
これは区分して捉える必要があるっていうことだ。
体が先だから正しいとは限らない。
身体の経験と過去の影響:直感の多様性
体の反応、直感っていうのは、じゃあ純粋なのかっていうと全くそうではないんですね。
体っていうのは白紙ではありません。
全ての人が赤ん坊で生まれた瞬間から何かしらいろんな経験をしてきています。
それはすごく人によってバラエティーに富んでいる。
どういう寄陵のところで生まれたかとか、どういう家庭のところに生まれたのかとか、
離乳食何食べてたかとか、着たものは何だったのか、かけられた言葉は、量はどうだったのか、
本当にバラエティーに富んでいますよね。
そして体っていうのはこれまで経験してきたことを覚えています。
上手くいったことも失敗したことも含まれます。
自分でこうしたいなあしたいなあやってみようっていう風にね。
子供っていうのはすごく野生的な存在だと思います。
目の前に何か面白いものがあればそれにぶわーっと向かっていってね、やってみて。
痛い思いしたりとか、もしくはそれで楽しい思いをしたりとか、
人と関わって安心した経験とか、傷ついた経験も含めて、
今の体の応じ方っていうのがずーっと子供の頃から、
少年少女青年期を経て、今までずーっと実続きでできているわけだ。
過去にある種のトラウマのように、
強く怒られた、失績された、否定されたっていう経験があれば、
似た場面で体は先に固まるっていうことがあります。
自分を守ろうとするんだよね、本能的に。
動物と一緒です。
動物だって何か怖い場面になれば体はギュッと緊張する。
人間はこういう緊張っていうものを、
記憶の中で覚えておいてしまうんですよね。
体にも残るし、記憶にも残っていく。
頭では目の前の人と以前の人は違うってわかってる。
状況が全く違うじゃないか。
だからそんなに怖がる必要ないっていう風に、
自分の認知を書き換えようと、自分の捉え方を変えようとすると。
それでも声をかけられた瞬間に、
呼吸は止まって、言葉が出なくなるっていうことがあるんですよね。
反対に、慣れているものを心地よく感じるっていう場合もあります。
いつもと同じ関係で、いつもと同じやり方で、
いつもと同じぐらいの緊張の具合であっても、
知っているから安心することができる。
でもこれが最大限のその方にとっての心地よいなのかっていうと、
そうではないかもしれませんよね。
これを僕は身体合理性とかっていう観点で話したりします。
お風呂に入ったら誰しもが気持ちいい。
まあでもお風呂嫌いっていう人もいるか。
ご飯を食べたらおいしい。
おいしいご飯を食べたら誰でもおいしいと思うし、
眠る時は気持ちよく眠れる。
その人なりの心地よさってあると思います。
だけど身体の状態っていうのがもっともっと良くなれば、
もっともっと気持ちよく心地よく感じることができるんですよね。
誰にとっても幸福っていう言葉は幸福です。
方向性は同じだけど、感じているもの、
その深さとか質っていうものは人によってもやっぱり違うんですよね。
例えば疲労とか睡眠の状態っていうのも関係します。
余裕がある日っていうのは面白そうに感じる話が、
疲れている日は面倒に感じるっていうこともある。
しょうもない冗談に対して、しょうもなくははって笑える時もあれば、
今それどういうつもりで言ったの?みたいに
突っかかってしまうっていう時もあると思います。
相手との距離とか声の大きさとか周りの音とか期限、
役割によっても身体の反応っていうのは変わってくるんですよね。
平社員の時は笑えた仕事のミスもちょっと役職が加わってくると、
責任が乗っかってくるから、
いろんな考えが自分の中で起きてきて、
身体の反応が実際に変わるっていうこともあるわけですよね。
つまり直感が身体から立ち上がるよっていう風に言っても、
その身体っていうのは自分の思考とかによっても左右されるし、
自分の内側だけにあるわけではないわけです。
人や環境との関わりとか、そういったものにも関わってくる。
過去の経験を持っていて、今日の疲労にも通じている。
そういう身体から立ち上がるのが直感なわけです。
直感の正体:野生の反応と身体の癖
以前にこれは純粋な野生的なその身体の反応なのか、
それともいろんな経験だったりとかによって作られた身体の癖なのか、
っていうようなことを考えたことがあります。
すぐに区分できるんだろうか。
僕の直感っていうのはどこからくるんだろうか。
その時、純粋な野生の反応だけっていうのを取り出して、
ここが本物の直感であって、
ここが後からこさえたその人特有の癖ですよっていうふうに分けることはできないっていうふうに整理したんです。
どちらに対してもこの癖、直感っていうものは影響するし、
理性の判断にもこれは癖は入ってきます。
だってその理性の判断っていうのも僕らの野生っていう身体的な反応から立ち上がっているものだから。
直感を信じることと従うことの違い:理性との協調
嫌な感じっていうのが起きたことは一つ事実です。
体が何かに応答したわけだ。
その情報自体は嘘でもなんでもないんですよ。
なかったことにしない方がいい。
だけどその感じだけで相手の本性とか未来っていうとこまでは確定できないわけだ。
直感は一つの情報だけれども絶対ではないんです。
未来の核薬ではない。
じゃあ直感だけを頼りにできないのであれば何を頼りにすればいいの俺たちはと。
そこで必要になるのが理性なわけです。
ここでは体を抑えるためではない理性ということを考えていきたいと思います。
直感を信じることと直感に従うということは違う。
直感を信じるという言葉は時々最初に感じた通り行動しなさいという意味で使われることもあります。
でも感じたことを大切にするということとその感じの命令だけに従うということは全く別なんです。
例えば初対面の人に嫌な感じがしたとします。
それは自分の体で実際に起きたことだからそれを消す必要はない。
でも嫌な感じがしたからこの人は悪い人だというふうに決める前にもう少し確かめることができるわけです。
体のどこでそれが起きたのか、相手の何に応じたのか、声なのか距離なのか言葉なのか、
自分が疲れていたのか、少し距離を変えたら同じ反応が出るのか、
時間を置いて会った時も同じなのか。
理性は体の反応を否定して、こういう場合はこうなんだって知識だけを使ってやったり、
世の中的にはこういうふうにすべきだ、こういうふうにやった方が出世できるぞとかっていう社会とか
そういった外側のやつを持ってくるわけでもなくて、それだけでもなくて、
自分の体の反応は一体何によって起きているのかっていうものを探していくためにもあると思うんですね。
つまりどういうことかというと、体の反応を否定するためだけじゃなくて、
その外側だけを頼りにするんでもなくて、
いろんな要因があるけど、じゃあ自分の体はどこに反応しているんだろうね、
そんなふうに考えていくことができると思うんですね。
体だけで生きればいいわけでもないし、理性だけで全部を決めればいいわけでもない。
体が先に応じて理性がその音を確かめると、
理性で選んだ行動がまた体と相手との関係を変えていく、
その循環の中で考えていくということができるわけです。
体から届いた反応を無視しない。
でもすぐ物語へ閉じない。
これが直感を雑に扱わないということなわけです。
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