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会話で大事なのは、何があったかじゃない
2026-06-16 39:44

会話で大事なのは、何があったかじゃない

「ちゃんと話を聞いたつもりなのに、なぜか相手とのあいだに距離ができてしまう」。

会話で大事なのは、何があったかという事実ではなく、どう感じたかという体験のほうなのだと思います。そしてその体験は、頭ではなく身体に起きています。

対人支援を仕事にしている方も、そうでない方も。あなたと、目の前の誰かとのあいだに毎日起きていることの話です。

この夏の私塾募集にあわせた、コミュニケーションをめぐる三回シリーズの第一回。「ちゃんと聞かなきゃ」と力むと身体が固まって、かえって相手の体験を追体験できなくなる。受け止めたものを自分の中で閉じ込めず、自分の体験も返しながら、相手の体験を掘り下げて聞いていく。その身体的な土台についてお話ししました。

― チャプター ―
対人支援は、つきつめればコミュニケーション
コミュニケーションは、生きることそのもの
「ちゃんと聞かなきゃ」と力むと、相手が遠くなる
受け止めるのはいい。でも飲み込まれると共感疲労
「悲しい」を「辛い」で塗り替えない
事実だけ追うと、古い傷を開く ── トラウマの正体
体験を、掘り下げて聞く
足を持って揺らす ── これは、あなたの話

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https://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma-blog/what-matters-isnt-what-happened

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サマリー

このエピソードでは、会話において「何があったか」という事実よりも「どう感じたか」という体験が重要であることを強調しています。対人支援に限らず、私たちは日々多くの時間を他者とのやり取りに費やしており、コミュニケーションは生きることそのものであると述べられています。相手の話を「ちゃんと聞かなきゃ」と力むと体が固まり、相手の体験を追体験できなくなるため、まずはリラックスすることが大切です。また、相手の体験を受け止めても、それに飲み込まれて共感疲労を起こさないよう、自分の体験も返しながら対話を進めることの重要性が語られています。事実だけを追うと、古い傷を開いてしまうトラウマの正体にも触れ、体験を掘り下げて聞くこと、そして自分の体験を共有することの価値を説いています。最終的には、相手の体験に寄り添い、共に体を揺らすようにコミュニケーションをとることで、より深い繋がりが生まれると結論づけています。

対人支援の本質とコミュニケーションの重要性
会話で大事なのは、何があったかじゃない、です。 対人支援は、突き詰めればコミュニケーションだ。
こんにちは、大沼竜也です。 身体の教養ラジオ、今日も始めていきたいと思います。
えっとね、今日6月16日なんですけど、6月の末から夏に向けてですね、
大沼竜也の私塾の新しい募集が始まります。 対人支援者のための1年間かけた学びの場として用意をさせていただいています。
これまでね、集まってくださった皆さんの顔ぶれを思い浮かべていくと、職業本当にいろんな方が集まってくださったなぁと思って眺めてたんですね。
リラクゼーションのセラピストの方とか、ヨガとかピラティスのインストラクターの方とか、エステティシャンだとか、
新旧生体の施術者、作業療法師、理学療法師、臨床心理師、公認心理師、ケアマネージャーとか、
あと、小児科のドクターとかお医者様、看護関係、介護の現場にいる方、脱支援、コーチ、学校の先生、本当にたくさんのね、いろんな職種の方が
集まってくださったなぁと思いながら、
思っています。一見バラバラに見えるかもしれないなと思うんですよね。
結局何するとこなの?みたいな。でも、一つだけはっきり共通しているところがあって、
みんな誰かの体とか心っていうところに手を伸ばして、その人が良くなっていくのを支える仕事をしているっていう、そこは同じなんだと思うんですね。
まあそんなこと言ったらね、ほとんどの職業は多分そうなんだとは思うんですけど、
あの僕がこの主軸やるっていう風にやった時は、僕も神経をお伝えするとか、施術をお伝えするっていうのだと、なんかこう包括しきれない部分があるなぁっていう風に思ってたんですよ。
だからこう対人支援の場だっていう風に、対人支援を一緒に学びましょうっていう風にお伝えされたんですけど、
これ突き詰めれば、コミュニケーションなんだから、
だと思ってるんですね。
例えばね、脈を取ったりとか、話をお伺いしたりとか、背中に手を当てたり、筋肉をほぐしたり、合図打ちを打つとか、
時には黙って待ったり、質問を問い返してみたりとかね、
施術とかカウンセリングっていうのも、ヨガとかピラティスの指導っていうものも、ここの中心にあるのは目の前の人とのやり取りそのものなんだと思うんですよ。
誰かと通じ合おうとするっていうこと。
まあ職業の看板が違ってもそこは同じなんだと思うんですね。
それぞれどういう切り口で、どういう専門性で、いろんな方と通じ合おうとするか、いろんな方の支援をできるか、仲良くなれるかっていうところなんだと思うんです。
そう考えるとコミュニケーションっていうのは何も仕事をしている人、対人支援を仕事にしている人だけのものではないんですよね。
例えば友達の口を聞くとか、家族の相談を受けるとかね、相談じゃなくてもへこんでるように見えるみたいなものでもそうだと思う。
子供が学校で会ったことを早口で話してくるとかさ、パートナーとどうでもいいことでちょっとすれ違っちゃったりとか、
高齢になった弱った親とかからお電話がかかってきて、いろいろあったりとか、
自分の中のモヤモヤと自分で話をつけようとする。
僕らっていうのは1日のうち驚くほど長い時間を誰かと、もしくは自分とやり取りすることに使っているんですよね。
だからこそコミュニケーションっていうのは職業に関係なく僕らみんなにとってとっても大事なものなんだと思うんですよ。
これからコミュニケーションについてのホットキャストの話っていうのをちょっと3回にわたってやっていこうかなと思います。
支援職の人のための専門的な話っていうところだけじゃなく、
もちろんそこも私塾に向けていろいろご紹介したいなと思ってたんですけど、
コミュニケーションっていうのは僕らが生きることそのものでもあるなっていうのが僕の思想の中でもあるので、
せっかくホットキャストで話すんでね、そういう専門職の方だけでなくて、
自分ごととして多くの方が聞けるような内容にしていければと思っています。
聞いてくださってるあなたと目の前の誰かとの間の毎日起きていることの話をしていこうと思います。
そこで今日はね、一番根っこにある感じがいいって言っていいのかな、
それの話をしていきたいと思います。
会話で大事なのは何があったかではないっていうことなんですね。
会話で大事なのは何があったかだけではないんだよっていうことを話していこうと思います。
「ちゃんと聞かなきゃ」が相手を遠ざける理由
ちゃんと聞かなきゃとりきむと相手を感じられない。
誰かがね、深刻な顔で相談してきたとします。
あのーって言って、実はさーとか言って、僕らはつい背筋を伸ばしますよね。
ん?どうしたどうした?
ちゃんと聞かなきゃ。真剣に。
一つも漏らさずに受け止めよう。
そういう風に身構えます。
その気持ちっていうのはすごく温かくて優しいものだと思うんですね。
あーはいはいって聞いてしまったりすることもあるでしょ、疲れてれば。
でも多分このね、ポッドキャストを聞いてくださっている方とか、
対人支援職ついている方っていうのは、
当たり前に多分もう無意識に、よしちゃんと聞こう。
この人のためになろうっていう風な構えを取ってしまう人たちだなと思うんですよ。
ただね、人の話が分かる。
人の話を理解するっていうのは、
仕事はこの人何をしててとか、
どんな人とどんな問題があって、今どんな症状があってとか、
何も状況が整理できるっていうことだけではないんだと思っているんですね。
もちろん大事なんだよ、それも。
僕らはいろんな状況を聞いて、
自分のあの体験に似たこんな感じだろうかっていう風に、
無意識によ、想像力を働かせて、
相手の体験っていうのを自分の体で追体験しようとしているんですよね。
これは誰しもに起こっていることです。
悲しい話を聞いてて、
例えば自分の胸あたりが、喉あたりがキューとなる、
楽しそうな話につられて、自分まで顔がほころむとか、
あの勝手に起きてくる体の反応、
これが相手の体験を受け取るっていうことなんだと思っているんです。
ところが、
ちゃんと聞かなきゃっていう風に聞くと、体は怖がります。
どれどれ、ああそうだったろうかってね。
肩が上がって、息が浅くなって固くなって、
固まった体っていうのは感じないし動かないですよね。
だからこそ、相手の体験っていうものを追体験できなくなってしまうんですよ。
一生懸命なのに、かえって相手が遠くなるっていう、
こういう矛盾というか皮肉が起きてくるんですよね。
それどころか、ちゃんとしなきゃっていう怖がりそのものが、
自分の防御反応になっていることもあります。
身構えるっていうのは、もともと身を守る姿勢でもあるんですよね。
相手を受け止めているつもりで、自分の体の方はギュッと閉じてしまっている。
だからこそ、まずは力を抜くことです。
利き手の体が緩んでくること、緩んでいること、解けていくこと。
それが相手の体験を受け取るための一番の土台になるんですよね。
なんなら、ちょっとふざけるくらいでちょうどいいっていう人もいるかもしれません。
怖がることがちゃんとする。
怖がることが真面目にするっていうふうに染み付いちゃってる人だったら、
そのくらいの方がもしかしたらいいかもしれない。
だから僕らはちょっと気楽に行こうよとか、
そんな重く受け止めずに行こうぜっていうような声掛けをしたりすることもありますよね。
そして受け止めるのはいいこと。
閉じ込まなければという話をしましょう。
共感疲労を防ぎ、体験を共有する
とはいえね、そういうふうに相手の体験を受け取ることで、
話を聞くことで、
感受性が高すぎて困ってるんだっていう人もよく聞きます。
とはいえ、感受性が高すぎて困っているっていう人もよくいらっしゃいます。
こういう悩みを持っている人の多くに起きているのは、
実はコミュニケーションが途中で破綻してしまってるっていう場合も多いんですよ。
相手の話を聞いて体験を受け取る。
あーこんな感じかなーっていうふうに、これ無意識ですよ。
無意識に自分の体験っていうものが呼び起こされます。
それがしんどいことであれば、
自分のしんどかった体験っていうものが呼び起こされていく。
体験っていうのは、あのぎゅーっと苦しくなる感じのことです。
息が詰まって心臓がバクバクして、
はかはかーって焦って苦しくなるようなあの感じのことですね。
つまり、自分の体の小暴りっていうものが呼び起こされるんですよ。
感受性が高いっていうような認識がある人っていうのは、
こうした体の変化にも敏感なことが多いです。
この不快っていうものが、不快な感じっていうのが
自分の中で意識されて増幅されます。
これに飲み込まれてしまうんですよね。
相手の体験そのものよりも、
自分の体験に意識が向いてしまうっていうのも当然のことなわけです。
いい体験に関してなら大歓迎なんだけどね。
しんどい方ばっかりだと、
共感疲労って言われるものが起きてきます。
自分で解ける術っていうものを身につけられると、
これは解決できます。
とはいえ、受け止めるっていうこと自体はいいことなはずなんですよね。
大事なのは、受け止めたものを自分の体験の中で閉じ込めないこと。
相手の話を受け取って、自分の体験で想起して、
それをそのままで閉じ込めていかないということ。
じゃないとせっかくのやり取り、コミュニケーションというものが片道で終わっちゃうんですよね。
一歩遂行で終わってしまう。
だからそれを聞いたら、受け止めたら、
今度はこちらの体験を返してみるっていうのもいいと思います。
カウンセリングの世界では、こういったものをアイメッセージという風に呼んだりします。
ああ、それは悔しかったね。
っていう風に、相手を評定する、ラベルを張るようなことではなくて、
それを聞いて、私もなんだか胸がギューッとなった、
自分に起きたことを差し出す。
実は私も昔こんなことがあって。
そんな風により鮮明な体験というものを共有するのもいいと思います。
もちろん相手の顔を見ながらね。
不思議なもので、こっちが自分の体験を返すことで、
相手の輪郭というものが立ち上がってきます。
自分一人が宙に浮いていたのが、向かい側に誰かがいると感じられるようになってくる。
話している側は、相手の反応という鏡があって、
初めて自分の形を確かめられるようなものなんですよね。
同じような体験だけれど、同じ悲しいっていう体験なんだけれど、明らかに違う。
お互いがお互いに触れ合うことで、会話を通して触れ合うことで、自然と自分がくっきりしてくるんですよ。
だから潰す必要はないんです、その共感をね。
否定する必要もない。
飲み込まれないようにっていう風に、深く入り込まないみたいに意識する必要もない。
受け取った上で、自分に起きたものを解いて、解きながらそっと打ち返したりする。
それだけで、上面ではない、心の通ったコミュニケーションというものが立ち上がってくるんだと思うんです。
事実中心の会話の落とし穴とトラウマ
大事なのは何があったかではない。
僕らの会話っていうのは、放っておくと事実を確認する作業になりやすいんですよね。
専門職で色々学んでいれば余計にそうだったりもするんですよ。
僕もそんな時ありました。
で、結局どうなったの?とか、それいつ?とか、相手は何て言ったの?
その出来事を時系列に沿って正確になぞろうとすると。
これが悪いってわけじゃないんですよ。事実の確認っていうのは。
日常会話でももちろんだし、特に医療だったりとか、対人支援の現場っていうところではとっても大事なことです。
だけど、そこだけを追いかけてしまうと、一番肝心なものを取りこぼしてしまう気がするんですね。
その人がその時何を感じていたのか、つまり体験の方です。
例えば、失恋した友達がいると。
で、悲しいんだーって話してくれたとします。色々ね。
で、私たちってのは良かれと思って、すぐにそれに対して、あ、辛かったねーって声をかけたりすることがある。
でも本人は、辛いとは言ってないわけです。
悲しいって言ったんですよね。何なら悲しいとも言ってないかもしれない。こんなことがあってーってだけ言ってるかもしれない。
でも、この違いっていうのはね、結構僕は大事だと思っているんですよ。
悲しいって言ったのに、辛いねって言ってしまうことで、体験的に起きていたその悲しいで包括しきれない体験っていうのを
悲しいっていう風に言われた、その言葉のラベルによって変換されて、余計にごちゃごちゃになっちゃう
っていうことが起きてくるんですよね。聞いた人が、私だったら辛いだろうなーって思っただけじゃないですか、これは。
だけどやっぱそういう風になっちゃったりもするんですよね。
これって両方とも、その人に頼っている人間らしい人がいる。それに対してこの人に応えてあげたいって思う人間らしい人がいる。
両方とも善の気持ちで動いているのに、ずれが生じてしまうっていうことが起きてきたりするんですよね。
本人の中に確かにあったその悲しいっていう体験の上に、こっちが渡した辛いって言葉がかぶさってしまう。
そうすると元々の感じっていうのがわかんなくなってきてしまったりするんです。
経験したことある方もいらっしゃると思うんですよ。
ジャーナリングとかさ、自分を内省するみたいなので言葉に起こしていくみたいな。
いろいろ整理していったり、いろいろネットで調べたり、情報を見ててさ、
私ってこういう症状だからこの病名がつくのかもとか、いわゆるHSPとかっていう風に言うのかって。
で、このHSPっていうのはこういう特徴がある。
あった障害ってこういうものがあるみたいに、多動性障害とかこういうのがあるんだ。
自分の体験をその情報で塗り替えてしまうっていうことが起きてきてしまったりするんですよ。
いつの間にか私はこういう人間だっていうのが、体験ベースじゃないところからも思い込みで出来上がってきてしまったりする。
もっと気をつけたいことがあって、事実だけをなぞっていくと、
相手の傷を、自分の傷をただ開くだけになりかねないっていうことなんですよ。
何があったかっていうのを順番に話していきますよね。
で、その体験に対しては意識が向いてない?直接は触れていかない?
でも、その体験は呼び起こされるわけです。
つまり自分の傷っていうのがどんどん閉まっておいたはずの古い痛みっていうものを引っ張り出して、
ほどく手当てもせずに放り出すような格好になっちゃうんですよね。
僕も恥ずかしながら今までこういう経験って何度もありました。
嫌な体験を思い出させて、セッションが終わった後はその嫌な体験っていうものが引きずられたまま日常に戻るわけです。
そしたらさ、もう全てが嫌なものに見えるでしょう。
もう体を守るモードに入ってるからね。
嫌だなーってあの体験が浮き彫りになった状態で、いろんなものを見たり触れたりするわけだから、
トラウマのトリガーっていうのは容易に引かれてしまうわけなんです。
トラウマっていうのはもともと体に残った防御反応のこと。
怖い思いをした瞬間に体の内側の方でね、ぎゅーっと固まるんでしょう。
その固まりが自分の中の方に残っているんですよね。
体っていうのはそれを覚えています。
そこに後からいろんな思考がくっついてだんだん大きくなっていく。
だから体験に触れないまま事実だけをなぞっていくと、
その内側のトラウマティックな体の防御反応っていうのをただ刺激することになりかねないんですよね。
聞いているこちらはちゃんと話を聞いたっていうつもりなのに、
相手はかえってざらついた気持ちで帰っていってしまう。
どうして僕らの会話っていうのはこんな事実中心になってしまったのか。
それはね、僕はその人が冷たいからだっていう風に思わないんですよ。
僕自身もそんな冷たい気持ちでそういう風に接してたつもりなかったし、
僕自身もそういうセッションを受けたことがあるからです。
セッションだったりとか、家族とか友達から話を聞いてもらったりした時にね、
間違いなくいい人たちなんですよ。
僕のことを思ってやってくれてた。
だけど、それがきっかけになってね、トリガーになってしまって、
結果的にだんだんいろんな思考がそれでくっついてきて、
だんだん大きくなっていってしまう。
これ聞いてくださっている、
私もそういうことあったかもしれないなっていう方もね、
ちゃんと話を聞こうと思って聞いたっていう風につもりなのに、
相手はかえってざらついた気持ちで帰っていくっていうことがあったかもしれませんよね。
どうして…
あ、ごめんなさい。台本がごちゃごちゃになっちゃった。
なんでそうなるかっていうと、
僕らは結論を急ぐ社会っていうところに生きているからなんだと思うんです。
すごく時代的なものなのかなって思うんですね。
早く要件を、早く解決を。
タイパヨク、コスパヨク。
LINEっていうのは要件だけで終わって、
会議は結論から話せって言われます。
効率を求める。
僕もそうだけども、対人支援のこれを職業にしている時点で、
あくまでそこでお金をいただいたりとか、
ビジネスっていう風になってしまうんですよね、形式上。
人間関係の中だけだったらいいんだけどさ、
だから家族とか友達っていうところは、
非常に結果を急がない関係性っていうところで特別なんだと思うんです。
今の時代は特に。
でもさ、ビジネスだから、
予約時間がこんくらい決まってるからっていうところで、
そこを全部ね、排除してしまうってなると、
あれ?そもそも僕らってなんで対人支援の仕事をしたかったんだっけ?
っていうところに行き当たるんだと思うんです。
僕もそうでした。
だからこそ、なんだろうな、
ここのビジネスの中で、資本主義の中で
生きることをやめるかっていうとそうではなくね、
いいところもたくさんあるからさ。
その制限がある中でも、
じゃあどうやったら、
その体験のところを拾っていけるかっていうところを、
探していく努力っていうのはできるんじゃないかなと思ってるんですよ。
効率求められるけど、
その中であなたはどう感じた?っていう風に言われても困るでしょ?
だけども、大事なとこじゃないですか。
答えが出ない問いっていうものは、いつの間にか後回しになっていっちゃうんですよね。
だからこそ、その努力を
していきたいっていう風に思うわけなんです。
きっと多分これを聞いてくださってる皆さんも、
そういう構えを、姿勢を持っているんじゃないかなと思うんです。
ではどうすればいいかっていうことですね。
体験を掘り下げて聞く技術
難しいことはないです、全く。
まあ難しい、難しいんだけどさ、
ロジックとしては簡単だ。
やることは難しいかもしれないけどね。
それは僕も感じていることです。
一つは、さっきの自分の体験を伝えるっていうことです。
もう一つは、相手の体験を掘り下げて聞くこと。
この二つです。今日お伝えしたいことは。
掘り下げるっていうのは、尋問することじゃないんですよ。
事実を増やすことでもない。
整理して、これがこうで、こうで、こうだったから。
そういうことでもない。
例えば、子供が学校から帰ってきました。
今日どうだった?って聞くと、
大抵普通とかで終わりますよね。
これは事実を聞いているわけです。
例えばね、その中で、
今日一番どんな気持ちになった?とかって聞いてみる。
何が楽しかった?って聞いてみる。
体験の方へ入り口を開けるっていうのが、
一つの僕の提案なんです。
施術の現場ではね、もう少し細かく聞いていきます。
相手が、何かスッとした?って言ったとします。
会話の中で、施術の中で。
そのスッとした感じってのは、
例えばどのあたりで感じたんだろうな?って掘り下げていくんですよ。
胸の方なのか?お腹の方なのか?
それとも、スッとした感じの中にフワッとした感じも含まれるのか?
ギュッとした感じなのか?
暖かいのか?涼しいのか?
それが一瞬だったのか?続いているのか?
場所とか、質感とか、
その形とか、動きとか、
そういう、いくつかの窓から、
その人の体験の解像度というものを一緒に上げていきます。
これは、想像して確認するというやり取りでもあるんですよね。
こちらが、相手の体験というものを、
自分の内側で一旦想像してみるんです。
スッとした?っていう表現を聞いたときに、
スッとするって、自分で言うこの感じかな?
それってこういう感じですか?そういう風に確認をします。
決めつけずに、相手に返して擦り合わせていくんですよ。
ああ、こういう感じね。じゃあこうしよう。ではなく、
こういう感じか?っていう風にコミュニケーションを取っていく。
擦り合わせていく。
これは対人支援の現場だけじゃなくて、
家でも職場でもそのまま応用できるというか、使えるし、
自然とやってると思うんですよ、皆さん。
大変だったねーって片付ける代わりに、
それ、体のどの辺に来る感じなのかなーっていうのを
伺ってみる。直接ね、
それ、体のどの辺に起きてる?って聞くのは結構
変な人だなーって思われちゃうかもしれないので、
あの、やんわりとお伺いできるといいんですよね。
こうすると相手は自分でも気づかなかった感じっていうのに
ふと触れることができるんですよ。
ひとつコツがあって、絶対に引き出してやろう
っていう風に生きむとうまくいかないことが多いです。
僕自身ね、支援の現場で、
普段こういう発信をしているし、
誠実の中でもそういうところを打ち出しながらやってるので、
割と分脈ができてるのでね、
それ体のどの辺に
そのふわーっとした感じ感じますか?っていう風に聞くことが多いです。
そうすると、自分でも気づいていたかった感じ
っていうのが出てきやすいんだけど、
この感覚っていうのが体のどっかにあるはずだっていう風に
尋問みたいになってしまうこととかもあったりするんですよね。
まあそういうことがあったっていう風に話したほうがいいか。
なんだろう、その体のどの辺に出るの?
いやー分かんないなーって言われる。
認識、体では起きてるかもしれないけど、
認識できるかどうかっていうのはまた違ってきますよね。
普段それに意識を向けてるかどうかっていうところで変わってくるから。
なんだけれど、そこをね、聞いていってしまう。
そうすると、どっかにあるはずあるはずあるはずっていう
自分の思い込みに問わされた状態で
相手の体験を掘り下げようとするんで、
相手の微妙な変化っていうのが見えてこなくなる。
感じ取れなくなってくる。
もしかしたら声色も変わってるかもしれないし、
僕の視界の端っこの方で手がぎゅーっと握られてるかもしれませんよね、その方の。
で、その自分の、僕の声張りっていうものをクライアントは受け取って、
なんでこんなに色々聞いてくんの?っていう風に怖まってしまうんですよ、相手もね。
お互いにお互いが見えなくなるっていうことが起きてきてしまう。
きっかけは違かったはずなのにね。
だからこそ、その中でリズムよくとかね、思ったような返答が来なかったとしても、
それってむしろチャンスというか面白い、いいことなんですよ。
問い返すけど、これってどこにそんな感じがある?っていう風に聞くけど、
相手は黙ってるとか、うーんって悩んでる。
どんな感じだろう?っていう風にね。
それを慌てて埋めない。
黙っている時間も、その方が今まさにその体験を思い返している、
体の方に意識を向けている時間であって、必要な時間なんですよ。
それを一緒に待ちます。
ただそれが、怖がる方向にいっていないか、ほどける方向にいっているのかっていうのを見つめながら一緒にできると、
それは素敵なコミュニケーションの時間になるんじゃないかなと思っています。
体験っていうのは、頭じゃなく体に起きていると。
じゃあ体験ってどこにあるんでしょうね。
頭の中の記憶のことなんでしょうか。
僕はそれだとちょっとね、言葉が足りないかなと思ってるんですよ。
体験っていうのは体に起きている。
悲しい時っていうのは、胸のあたりが重くなったりします。
これはもちろん人によって違うけどね。
嬉しい時っていうのは、体がふっと軽くなって、息が深くなっているかもしれない。
緊張すると肩が耳の方へ持ち上がって、呼吸が浅く早くなっていく。
僕らが感じるっていうふうに呼んでいるものは、
大抵体のどこかで起きている出来事なんですよね。
だとすると、相手の体験に触れるっていうのは、
つまり相手の体に触れていくことと同じ価値観だと思っているんです。
言葉の奥にあるのは体。
つまり体の方へ近づいていくということ。
セッションとか施術の中ではこれを文字通りやっていきます。
例えば僕だったらね、相手の足を持ってゆっくり全身を揺らしたりとか、
足の方を揺らしながら全身の揺れっていうものを感じてもらいます。
頭の方までその揺れが、波が伝わるように揺すってあげる。
さらにクライアントの方にも、
この揺れを頭の方で感じてみてっていうふうに問いかけたりするんですね。
そうすると緊張している方ほどギッコギッコっていうふうにぎこちなく揺れます。
何なら揺れてるのが分かんないっていう方もいます。
目視では完全に揺れてるんだけど、
えーどんな感じっていうふうに分かんないっていう方もいらっしゃるんですよ。
忘れちゃってるだけなんですけどね。
今力んでるの分かりますかっていうふうに聞くと、
あ、ほんとだ。確かになんでこんな加わってんだろうって揺れるように力を抜けられる人もいるし、
いや抜けてるつもりなんだけどっていう人もいます。
でもどっちでもいいんですよ、これは。
揺らされて初めて自分が今どこにいるかが感じられるようになってきます。
ちょっと右に傾いてたなーとか、上半身だけ硬かったなーとか、
動きが出てようやく僕らの感覚っていうのは分かるようになってくるんですね。
揺らすっていうのはこうした固まった防御反応っていうものを少しずつ解いていくのにすごく便利な方法だと思っています。
固まっていた体が解けていくと感じられるようになってくる。
動けるようになる。
こうすると自分の体験にも相手の体験にももう一度開いていけるんですよね。
心もこれと同じ構造で動いていると思っています。
相手の話をいろんな角度からそっと突っついてみるような感じ、揺らしてみるようなイメージです。
それってこういうことか。この時どんな感じだったのかな。
決めつけずに、潰さずに、押さえつけずに、それでも投げかけていく、コミュニケーションをとっていく。
揺れたところにその人の体験というものがポロリと立ち上がってきます。
ああ、そういえばこうだったかもしれないな。
自分でも知らなかった、もう忘れてた気持ちというものに本人が触れる瞬間が出てくるんですね。
聞くっていうのは、相手をじっと観察して勝手に想像することではなくて、
一緒に体を揺らしていく、一緒に緩んでいく、解いていくということとも言えるかもしれません。
だからこそ、これっていうのは支援職の人だけの専門的な話ではないんですね。
体で感じ、体験を共有するコミュニケーション
皆さんが、あなたが子供の話を聞く時、パートナーと向き合う時、
落ち込んだ友達の隣にいる時、いつも起きていることです。
事実をなぞるのと、事実をなぞるっていうのだけではなくて、
何があったかではなくて、どう感じたかの方へ、
その体験の方へ入り口を開けてみるような。
で、自分の体験も一つ返してみる。
それだけでね、ずいぶん会話、コミュニケーションっていうのは変わってくると思います。
受け止めるけれど、閉じ込めない、閉じ込まない。
渡し合うっていうのは、出来事の情報ではなくて体験の方なんですよね。
私塾では、これを知識としてだけではなくて、体から学んでいきます。
もちろん体験的に、体験として自分の中に落とし込んで、できるようにしていく。
自分の体が解けていきます。
自分の体験を感じられるようになって、
不思議と人の体験も受け取れるようになってきます。
セラピストもヨガの先生もピラティスの先生も看護師も、
ドクターもお医者さんもコーチも、職業はみんな違うけれど、
その土台っていうところは皆さんと同じなんですね。
そこを一年かけて一緒に学んでいく、練習していく場所。
来週も、来週になるから今回できるだけ早くお伝えしたいなと思ってるんですけど、
同じようにこのコミュニケーションを題材にした話を続けていこうと思います。
今度はね、共感についてです。
共感っていうと、相手の気持ちに寄り添うこと、相手に集中することっていうようなイメージがあると思うんですね。
でも、もうちょっと違う認識っていうところに構えを持っていけると、
より人と関わるっていうことがこんなにも楽しいことなのかっていう風に感じられるようになっていくと思っているんです。
共感っていうのは体験の共有なんだっていう話を次、より掘り下げて解説していこうと思っています。
今聞いてくださってるあなた。
今日、あなたが誰かと交わした会話っていうのを一つ思い出してみてください。
そこでコミュニケーションをしていた、そこで確かめ合っていたのは何があったかっていう事実だけだったのか、
それともどう感じたかっていう体験の方もそこに含まれていたのか。
ぜひ振り返りながら、今日だけじゃなくても過去の、今回は良かったな、こういう風に一緒に時間を過ごした時すごく良い時間だったなと思うものをぜひ滞在にして思い返してみてください。
良い記憶、良い体験、良い記憶には良い体験が含まれています。
良い体験というのはつまり体が解けていっている方向です。
それを思い出すこともね。
で、自分の体が解けているなっていうのを感じるっていうのも立派な瞑想法なんですよ。
ぜひなんかそんな時間をこのラジオを聞いた後にね、やってみていただけたらなと思います。
ということで、Shintenの教養ラジオ、今日はこれで終わりにしましょう。
じゃあ皆さん、今週ものんびりといきましょう。
大沼達也でした。
39:44

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