「もらい疲れ」の正体と身体からの視点
表感できる人ほど、相手のことが見えなくなるということがあります。
人の話をちゃんと聞いている。 相手の気持ちを受け止めようとしている。
自分なりに寄り添おうとしている。
それなのに、気づいたら相手の話を聞いているようで、自分の過去を見ている。
相手の悲しい話を聞いているのに、自分の昔の悲しい思い出、体験というものが立ち上がってきたり、
相手が怒っているのに、自分が責められているような感じになってくる。
相手が困っているのに、自分の胸とか、みぞおちのあたりが先に苦しくなっちゃう。
で、後からぐったりする。
こういうことって日常的にあると思うんですね。
それで後からぐったりしちゃうみたいなね。
人の話を聞いていて,人の相談を受けていて,
なんならSNSとかを見ていてということもあるかもしれない。
これを共感疲労とか,もらい疲れというふうに呼ぶことがあります。
共感疲労,もらい疲れ。
もちろんね,これらの言葉に助けられるということはあると思うんですよ。
ああ,私共感疲労が強いんだな,とか,
ああ,すぐもらっちゃうんだな,みたいなね。
ただこれ,体の側から見ると,相手から何かをもらったというよりも,
自分の中で何かが膨らんでいっている,増幅しているということが多いんじゃないか。
今日はこういう話をしていこうと思います。
こんにちは,青山哲也です。
新体能教養ラジオ,今日ものんびんだらりとやっていきましょう。
今日のテーマは,
繊細だから疲れるのではない,という話をしていこうと思います。
コミュニケーションの話を,先々週と先々週と今週とで,
3週にわたってお届けをしていこうと思っています。コミュニケーションね。
なんでコミュニケーションなのっていうと,
僕らが生きていくことって,つまりはコミュニケーションなんだっていうことを話したかったんですよ。
僕は心給師で,
体の不調だったりとか,心理的な不調,悩み事みたいなところまで,
割と幅広くクライアントの方の状態を手助けするということをやっています。
こういうのを対人支援とかって言ったりするんですけど,
治療とかはわかりやすく,支援するというか,手助けをする,お手伝いをするっていうのがあるんですけど,
たぶんね,仕事とかってだいたい全部そうなんだと思うんです。
なんか困ってる人がいて,それに対してどういうふうに手助けをするか,
わかりやすく困ってるとかじゃなくても,もっと可愛くなりたいとか,もっとかっこよくなりたい,
こういうお洋服とかこういう髪型を提案とかさ,
もしくは歌が上手くなりたいとか,いろいろありますよね。
世の中のサービスってのはこう,人の痛みとか困りごとを手助けするものだとかって言ったりしますけど,
まさにこう,それってコミュニケーションに通ずる部分だと思っているんです。
もっと言うと,相手が人じゃなくても,ワンちゃん猫ちゃんだったとしても,
もっと言うと,海とかね,山とか,重力とか,空気,酸素みたいなこう,
外部の環境というものもすべて,それとこう,なんだろうな,
一緒にこう,生活をしている,生きているという意味では,
これもコミュニケーションだというふうに言えるんですよね。
なので,ちょっとこう,分かりやすい例というところから,
このコミュニケーションを見直していこうという回をやっていこうと思っています。
あ,そう,それでね,ちょうど僕の私塾という形でいろいろやっているので,
それにこう,なんだろう,通ずる部分というか,その募集を今やっているところで,
このコミュニケーションの話をしようと思っていました。
ということで,ちょっと長くなっちゃってごめんね。
今日3回目です。
1回目では,会話で大事なのは,何があったかという事実確認だけじゃなくて,
その人が何を体験したのか,その体験の方に目をやってみようよという話をしました。
2回目は,共感というのは,相手に集中することだけじゃないよ,
相手を分析することじゃなくて,これまた体験を共有することであって,
相手の体験を知ることであり,自分の体験を伝えることだよ。
そのためには自分の体の方に目を向けてあげると,
すごいクリティカルにいくよという話をしました。
今日3回目はさらにその先に行きたいと思います。
自分の体の変化とか反応とか,実感,体験というものを通るからこそ,
よく共感できる。
でも自分の体験,体を通るからこそ,
飲み込まれることもあるんですよね。
この両方を見ていきたいと思います。
夜,皆さんも想像してみて下さい。夜ね。
スマホに友達から長い相談のLINEが来たとします。
LINE...
なんだなんだ?どうしたんだと思ってパッと。
読む前は普通だったのに,パッと開いた瞬間,
ダーッと長文が並んでる。
もしですよ,例えばね。読み進めていく。
ああ,結構悩んでるなあ,こういう状況か,なるほど,これはしんどそうだ。
読み終わる頃には胸が重くなって,喉が詰まって,
肩が上がってるっていうことがあったりします。
LINEじゃなくてもさ,友達から相談とか口を聞いたり,
最近だとね,SNSとかもあるんで,
そういうなんだろう,僕らの感情をね,
刺激するような発信の仕方みたいなのってたくさんあるからさ,
余計にこうしんどくなることって結構あったりするんですよね。
それに対して,例えば友達からLINEが来たとしたら,
返事を書いてあげたいと思うじゃないですか,
そうするとなんか自分までつらくなってくる,
ああ,自分も今,今日お仕事で大変だったのに,
何かなあ,もやもやするなあ,しんどいけど,
まあこいつも困ってるしなあ,この人も困ってるし,
助けになってあげたいなあっていう風になって,
何とも言えないまま自分が苦しい状態になっていくっていうね,
この場面をスタートにしていこうと思います。
今日の問いは3つです。
1つ目,もらい疲れという言葉で何が見えにくくなるのか?
2つ目,共感できる人ほど,
なんで相手が見えなくなるということがあるのか?
3つ目,感受性を鈍らせずに,
人と関われる体に戻っていくには,
何をすればいいのか?
この3つを順番に話していって,
さっきのLINEの場面に戻りたいと思います。
まず1つ目の問いです。
もらい疲れという言葉で何が見えにくくなるのか?
さっきのLINEの場面を思い出してみてくださいね。
職場の人間関係がしんどい,
家族とのやりとりがきつい,
パートナーとうまくいっていない,
そういう相談が結構来たりとかします。
DMとかでもそうだし,
受精臨床とかでもそうですね。
僕のところに来るということは,
その友人だったり知人という方には,
もっとたくさん来ている可能性もある,
皆さんの身近にもそういう相談を受けた,
相談をもらったという人もいるかもしれないし,
自分がそうだという人もいるかもしれない。
1つ1つこう読みます.
で,ちゃんと返そうとする.
目の前にその人がいたら,
ちゃんと話を聞いて,
ちゃんと返そうとしたい.
軽く流したくないですよね.
相手がつらいのはわかるから.
でも読み終わった後に,
胸が重くなってしまう,
喉が詰まってしまう,
肩が上がっている.
返事を書こうとするのに,
自分まで苦しくなってしまいます.
こういう時に,
ああ,私って,
人の感情をもらいやすいんだ.
という風に言うことがあるんですよね.
人の感情をもらいやすい体質なんだ.
そういう性格なんだ.
この言葉というのは,
すごく助けになる場面があります.
自分が弱いわけじゃないんだ.
気にすすぎじゃないんだ.
人の影響を受けやすい性質なんだ.
そう思えることで,
少し体が楽になる,
気持ちが楽になるということがあります.
ただ,
一種,一つ危険性があって,
この言葉だけで止まってしまうと,
体で何が起きているか,
自分の体で何が起きているか,
少し見えにくくなっちゃうことがあるんですよ.
相手からもらったという風に,
言葉に置き換えると,
原因が外側に,
相手の側に固定されやすいというのが,
一つ怖いところなんです.
あの人が思い話をしたから,
あの人の感情が強かったから,
あの場にいたから,
あのニュースを見たから,
インスタグラムを開いたから,
YouTubeを開いたから,
自民党がこうだから,
トランプがこうだから,
いろんなところに派生します.
もちろんね,きっかけは外にあるんですけど,
相手の話,相手の表情,
声のトーン,文章,場所,
そういうものがいろんなもののきっかけになります.
でも,その疲れの全部,
自分のしんどいなぁの全部が
外から入ってきたわけではないんですよ.
体の中では,
相手の体験に触れたことで,
自分の体験が呼び起こされています.
いや,こういうことがあって,
本当にしんどかったんだよね.
っていう話を聞く.
ああ,昔,自分も同じようなことがあったな.
うまく言えなかったとか.
誰にも助けてもらえなかった.
責められた.
置いていかれた.
我慢した.
こういう記憶というものが,
はっきり思い出される場合もあるし,
なんとなく,もやーっと,
無意識に思い出されるということもあるんです.
無意識に思い出されるというのは,
認識に昇らないけど,
体がその時の体験というものを,
追体験するように,
その反応が立ち上がってくるということなんですね.
これ実はトラウマとかのメカニズムと,
そっくりというか,同じもの,
同じメカニズムで,
うーん,なんか悲しい話だなーって思った時,
ああ,苦しい.
それ,本当にしんどかったね.
っていうような話を聞いた時,
なんでしんどかったねって思えるかというと,
自分の過去に似た体験というものを,
ひも付けて,無意識にですよ.
その時の体験を自分の中で起こして,
実際に苦しくなるでしょう.
実際に悲しくなったりするでしょう.
人の話で.
映画を見て.
はっきり思い出されなくても,
体はその反応を,
もう一度追体験しているわけです.
胸が固くなったり,
喉がうーっと苦しくなったり,
胃のあたりがぎゅーっとなったり,
重くなったり,
肩がすくんだり,
手が冷たくなったり,
呼吸が浅くなったり,
いろんな体の反応が起きています.
相手の話が自分の体を操作したのではなく,
相手の話をきっかけに,
自分の中でその反応が増幅していくのですよね.
ここがすごく重要なところだと思っています.
もらったという言葉で止めると,
対処法というのが大体2つになってしまいます.
距離を取る,
もしくは境界線を引くというものです.
もちろんそれが必要な場面があると思うんですよ.
それぞれみんな自分の限界があるから,
過去に経験したしんどいことを
どれだけ消化できているかというのも
人によって違うからね.
もちろん大事なんだよ.
距離を取ったり,境界線を引くというのは.
だけど,
それだけじゃない.
会うたびに消耗する関係なら,
距離を取って.
今は距離を取って.
ということももちろん大事だし,
物理的に離れるということが,
自分を守ることにもつながる.
もちろんそうなんだけれども,
自分の中で増幅しているものを
感じて解いていくということが
すごく重要な観点だと思っているのです.
共感力の高さゆえの「相手が見えなくなる」現象
この人の話を聞いたことで,
自分の体に何かが起きている.
自分の感情が動いていると思ったら,
その時,自分の体でどういう反応が起きているか
というのをフォーカスを当ててみるのです.
こうすると,触れる場所というものが出てきます.
頭の中で,ああだからかな,こうだからかな
と考えると,
終わりがなくなってしまうのです.
なので,体のどこで何が起きているのか
というのを探していく.
ああ,しんどいなあ.
この人の話を聞いていたら,
この人もしんどかっただろうなとか
いろいろ考えると,
胸がぎゅーって苦しくなってきたり,
喉がぎゅーってなったり,
みぞ落ち,
肩,顔なのか腹なのか,
いろんな場所でいろんな反応が起きている.
これを感じ取って,
ああ,こうやってしんどくなっているのは
自分の息が浅くなるからだ.
じゃあ,この人の話を聞きながらも,
自分の呼吸をゆったりできるようになれば,
胸の苦しさというのがない状態になれば,
この人の話をもっと存分に聞いてあげることができる.
もっと助けることができる.
そういうふうに,
関わり方が変わってきます.
境界線を引いたり,
その人から離れる必要もないのですね.
むしろそれどころか,
その関係というものを
楽しめるようになってくる.
楽しめるというと,
なんかちょっと語弊があるなあ.
家族関係だったり,
友人関係だったり,
パートナーシップみたいなものっていうのって,
全部が全部楽しいものばっかりではないでしょう.
だけれど,
その相手がいなかったら,
それって何だろう,
それが相手がいなかったとしたら,
なんかちょっと重たい言葉になるかもしれないけど,
生きる意味みたいなものも,
同時に失ってしまいそうな気もしますよね.
その関係性を構築していく,
この関係性の中である自分というもの自体が,
僕らの,
生きるということでもあると思うんです.
生きる意味っていうとまたちょっと違うな.
生きるということ自体が,
そうやって,
人とのコミュニケーションであるんだと思うんですね.
で,ちょっと話それちゃったんですけど,
体が,
そういうふうに,
なんだろうな,
自分のその嫌な体験っていうのを,
わーってまたこう,
立ち上がらせてしまうっていうのは,
これは無意識の領域で起きていることなんですよ.
トラウマだからね.
勝手にもう自分の体が,
防御モードに入っているということなんです.
過去のいろんな体験.
一つ一つが小さいことかもしれない.
もしかしたら大きい体験をしたことがある人も,
人もいるかもしれない.
でもそれは無意識なので,
もっとこうしようとか思っても,
なかなかそういうふうに体は反応しないわけなんですよね.
だから,
体を解きたいと思っても,
そういう体の反応を沈めたいと思っても,
うまくいかない.
ああ,私ってだめなんだって,
そんなふうに思う必要はないんですよ.
ちょっとずつ体にアプローチしていけば,
変わっていくものです.
それを僕はお伝えしていますので,
ちょっとずつちょっとずつ変えていきましょう.
で,こういうふうに,
その話を聞いたりとかして,
自分の体の反応が起きるというのは,
すごくいいことなんだと思っています.
僕自身は.
いや,そんなこと言ったってしんどいんだよ.
こんなに反応が出て.
というふうに思う方もいるとは思うんですけど,
そうしないと,境界線というふうに,
自分でLINEを引いちゃったりとかして,
コミュニケーションというものをそもそもしない
という選択肢が出てきてしまう.
なんかそれも寂しいものだと思うので,
できれば,やっぱり存分にいろんな人と関わる
生きるということを,
人生の中で見出せていけたら,
楽しいんじゃないかなと思うんですね.
なので,まず一つ目は,
もらった,この人からこれをもらったから
しんどくなっただけではなくて,
増幅,自分の体でどんな反応が増えていっているのか
というところに目を向けるということになります.
そうすると体に触れられるでしょう.
体って,触れるし,感じられるし,動かせるものなので,
物理的な存在なので,
変えていく余地というものが出てくるわけなんです.
頭の中でこうこうするよりもね.
そして二つ目の問いに入っていきます.
共感できる人ほど,
なぜ相手が見えなくなることがあるのか?
これは前回のポッドキャストの話とつながります.
前回,共感というのは,
体験の共有だという話をしました.
相手の体験が自分の体の中にある,
似た体験を呼び起こしているんだということ.
悲しい話を聞いて,胸がキューッとなる,
嬉しい話を聞いて,こっちまで少し嬉しくなる,
怖い話を聞いて,体がこわばる.
この体の反応というもの,
自分の体に反応が起きるということが,
共感の土台にあると思っているんですね.
だからこそ,感受性が高い人というのは,
相手の体験を追体験しやすい人なんだと思います.
つまり,共感性が高いというのは,
感受性が高い,
身体性が豊かということなんですよ.
身体性が豊か.
体がよく反応するということなんですよね.
疲れやすいから悪い,
敏感だから困ったものだ,
鈍くなったほうがいいんじゃないか.
そういう話にしたくないんですよ.
感受性が高いということは,
本来,すごく豊かなこと,
いいことなんです.
すごくいいこと.
相手の言葉の奥にあるその体験を感じることができたり,
声の変化に気づくことができたり,
少しの表情の変化に気づいたり,
場の空気に体が反応するわけですよね.
これは,人と関わる仕事をしている人にとっても,
ものすごい才能だと思うし,
日常の人間関係においても,
大きな力だと思っています.
すごく魅力的な人間だと思っています.
これ,僕自身はね,
そこまで身体性が豊かではないなと,
比べるものでもないんだけどさ,
他の同業の人だったりとか,
それこそ自分の私塾に来てくださっている方の
お話を聞いていると,
やっぱり自分にはないような,
そういう感受性の高さ,
高い話だったりとか,
身体性の豊かさを,
話のしぶしから感じるんですよね.
これを,自分にはそれが足りないな,
だから身につけようというよりかは,
この体験を自分でも拾えるようになりたいな,
と思うところが一つのモチベーションになっているので,
これがそもそも,
備わっている,才能として持っているというのは,
大きなアドバンテージでもあると思っています.
もちろんそれがゆえの苦しみというのもあるんだろうけれどもね.
それがここで紹介する一つの問題です.
相手の体験をきっかけに,
自分の体験が立ち上がってきて,
ここまではいいんだけど,その後に,
相手の体験の方に戻れなくなる,
つまり,自分の体験に閉じ込められちゃうということなんですよ.
相手の話を聞いたきっかけなんだけど,
自分の中で立ち上がった悲しい感じ,
自分の中で立ち上がったあの怒りの感じ,
あの不安な感じ,
これが自分の体の中でバーっと体験が立ち上がってくる.
そこが強くなりすぎると,
相手の話を聞いているようで,
自分の体験だけを材料に,
話を受け取るようになってしまうということが起きてきたりします.
こうすると,2つの解決方法というのを,
大抵の人が試みます.
そんなの,こうすればいいじゃん.
気にしすぎだよ.
それくらい誰にでもあるよ.
というふうに冷たく返してしまう方法ですね.
これは一見,
共感が少ない人の反応に見えるかと思います.
でも,もしかすると,
体の側から見てみると,
自分の体験に触れたくないから,
さっと処理しちゃうという,
1つの防御反応という可能性もあるんですよ.
自分の中に似た痛みがある体験,
苦しい体験というのがあって,
そこに触れると苦しいから,
だから相手の体験を早く結論出しちゃって,
閉じるというものです.
これはね,
わりと真面目に勉強をされたりとか,
自分の悩みみたいなものを,
内省,真面目にしたりとかする方に,
意外と多かったりもします.
ああ,それって要するにこういうことね.
だからこうすればいいんじゃない.
みたいなふうに,
理論,理屈みたいなところで,
合理的に,
それを済ませちゃうみたいな感じ?
処理してしまおうというふうに,
1つの防御反応として出ることがある.
もう1つは,
過度に受け取ってしまうという方向です.
皆さんのおばあちゃんとか,
おばあちゃんとか,
お母さんとかを想像すると,
わかりやすいかもしれないな.
いや,って言ったら,
全国のおばあちゃんとお母さんに
申し訳ないんですけど,
僕はわりとこういう感じが,
おばあちゃんとか特に多い気がするな.
ああ,そんなにつらかったんだねとか,
ああ,それは大変すぎるとか,
私だったら耐えられないっていうような,
話したことの,
相当上をドカンと行くような感じですね.
一見とっても優しいんです,これって.
もちろんこれ一見というか,
優しさなんですよね.
優しさなんだけれども,
これが対人支援の現場だったりとか,
そういう関係性があまりないところでなると,
相手が実際に体験しているその大きさだったり,
種類というものとはまた別で,
その人の体験を増幅させて,
ああ,あんたはこういう体験をしたんだね,
というふうにコミュニケーション,
というふうに返されているので,
ここってコミュニケーションが実は破綻している
ということがあったりするんですね.
これは極端な例だけれども,
ただ自分は事実を話したかった,
というのはその体験を吐き出したかったんですよね.
解きたかったから.
それに付き合ってもらっていただけなんだけれども,
むしろ,なんだろうな,
それどころか体験というのを自分で言葉にも
まだ表せないくらいで,
話しながらそれを処理していっていた?
最中だったのかもしれないけど,
ものすごい大きなものだったり,
全く別の角度から,
ああ,大変だったね,
それは苦しかったね,もっと頑張らなきゃね,
というふうに返ってくるとなると,
あれなんかガクンというふうになったりする
ということもあると思うんですよね.
だからこの人には相談するのはやめよう,
自分で処理するのがやっぱり必要なんだ,
大人としてのたしなみなのだ,
というふうになっちゃったりすることもあるわけです.
聞く側の中で自分の体験が増幅してしまうと,
相手の体験というものを
ちゃんと聞いてあげられずに,
くっきりさせてあげられる前に,
他のラベリングをしてしまうということが
起きてきてしまうわけです.
冷たく返すこと,角に大きく受け取ること,
この2つは外から見ると正反対に見えるんですけど,
でも共通しているのは,
自分の体験を強く材料に
しているということなんですよね.
ここがすごく大事なところで,
共感というのは自分の体を取ります.
ああ,わかるよ.
でも自分の体だけで,
自分の体験だけで完結しちゃうと,
相手は見えにくくなってしまう.
相手の体験を自分の体で薄らついた経験をして,
色濃く体験をしてもいいんだ.
それが一番いいことなんだけどね.
体験したら,それを相手の体験と混同させずに,
ああ,今の話って,
この人はどの辺が特に辛かったんだろう,
話のどこの場面が,
それが体のどこにこういう,
どういう感性が出たんだろうなとか,
それって怒り,ぐつぐつ煮え替えるような怒りなのか,
それともプツンと来た感じなのか,
それとも悲しみのような感じに近いのか,
自分の体験で言ったらどれに近いんだろう,
言葉に左右されずに,
その体験の質感というところに目を向けて見たりする.
こういうふうに,直接的に聞かなくてもね,
聞いてもポカンだからさ,そんなの.
どうだったんだろうっていうのを,
話の節々から自分の体験に落とし込んでいくんですよ.
さらにそれを相手に伝えていく.
こうすることで初めてコミュニケーションというものが成立していきますよね.
ところが自分の体というものが
強く反応してそれに飲み込まれちゃうと,
その往復,キャッチボールというものが止まってしまう.
これが,
共感できる,感受性が高い,
共感性が高い,
もらいやすい,
そういう人が,相手が見えなくなってしまう
ということがある.
それの意味なんですね.
「ちゃんと聞かなきゃ」が防御になる理由と自己理解
ちゃんと聞かなきゃって思うと,
そう思えば思うほどに肩が少し上がったり,
体の方を怖ばっていきます.
呼吸も浅くなって前の目になったり.
この状態,体の状態だけでも,
相手の話を聞こうとすれば,怖ばっているんでね.
相手の微妙な体験というものを
自分の中で追体験できなくなっちゃうんですよ.
ちゃんとしようというふうに思ったりとか,
毅然と対応しようとか,
しっかりしなきゃって思うこと自体が,
実は防御反応になっている場合もあるわけです.
相手の話を大事にしたいし,
傷つけたくないし,
いい時間になってほしい.
その気持ち自体は素晴らしいことだと思うんですよ.
本当に素敵なことだと思う.
でも,体が怖ばってしまえば,
感じる力も,
相手に投げかける,動く力というものも
弱くなってしまう.
相手の微妙な揺れ,
体の変化というものに,
自分が合わせられなくなっちゃうんですよね.
だからこそ,
どういうふうに対応しようかな,
うまく言葉が出てこない,
どういうふうに話を聞いたらいいんだろうって,
悩めば悩むほど,
何て返そうかな,
この言い方で合ってるかな,
相手は傷つかないかな,
私は冷たいと思われないかな,
いろんなことが言葉として自分の中で
思考が忙しくなってしまって,
うまくコミュニケーションが取れない
ということが起きてきてしまったりもするんです.
こういう経験って結構,
大人支援者の方はあるあるなんじゃないかなと思います.
こういうふうに,
自分の中の思考が忙しくなっちゃうという時点で,
相手の体験にフォーカスを当てるというよりも,
自分のその不安をどう沈めるかというものが
主題になっていってしまっているということでもあるんですよね.
優しい返事を
書いているつもりで,
実は自分の不安を下げるための,
自分の不安を抑えるための
返事を書いているということもあったりするわけです.
相手のための共感だったはずのものが,
自分の不快感を下ろすための
下げるための作業にすり替わっている.
これは誰でも起きることなんですよ.
大人支援の仕事をしている人にも起きるし,
家族の中でも起きるし,友達の中でも起きるし,
SNSの中でも起きることだ.
だからこそこれで悪いことではない.
自然にそういうふうに体は反応しちゃうから,
つまり僕らの無意識はそういうふうに反応しちゃうから,
ああもうしょうがないなあ,
自分の体は,自分の野生は,
本能はしょうがないなあ,
というふうに目立て気味に
自分の体の反応を見てあげて,
その体のこわばりを解いてあげるというものが
必要になってくるかと思うんですよ.
これ,本能,自分の野生というところでも
今言いましたけど,
そういう反応をする人間があって,
これをあえて悪用と言いましょう.
昨今のこのSNSというものが
普及していった中で,
短くて強烈なコンテンツというものが
アルゴリズムで優先されるようになって,
パンチが効いたキーワードというものが
僕らを借り立てるんですよね.
悪い方向に.
ちゃんと共感しなさい.
相手に寄り添いなさい.
自分の特性を理解しなさい.
HCSPならこう対処しなさい.
感情を管理しなさい.
うまく人間関係を回しなさい.
もちろん,そうあれたらベストだと思うんですよ.
そうなれたらいいに決まってると思う.
ところが,そうならなきゃいけないかというと
そんなことはないですよ.
そうあれたらいいなと思いながら
努力すればいいだけで,
それこそが生きるということでもあると思うんですよね.
ところが,こういう言葉ばかり流れていると,
そうじゃないとダメなんだ.
大人としてそういう受け答えをしなければ,
上司として,先輩として,
対人支援者として,
いろいろ置き換えられて自分のプレッシャーになり,
それがまた自分を怖わらせて,
どんどんどんどんその柔軟性,
身体性というものを奪っていくということが起きて
いったりします.
ラベルで自分を管理して,成果に結びつけるという,
そういう社会の空気がどうしてもあるんですよね.
これは近代にすごく特殊なことです.
100年前に100年前だったら,
こういうことってなかったものなんですよ.
だから僕らはそういう野性,本能というものを
持って生まれてきている,
作られてきて生まれているわけだし,
なおさらそこの部分を
うまい具合に発掘されているわけなので,
そっちの方向に行くというのは
仕方ないことでもあるんですよ.
だけどそれを知っておけば,
どういうふうに生きようかということができるわけだ.
一歩目が踏み出せるわけですよね.
どういう方向に歩いていけばいいのかがわかれば,
そこまでつらいことではないんですよ.
むしろ一歩一歩歩み進めることがすごく楽しいことになって
きてくれると思います.
どこまで話したっけ...
その中で人の話を聞くということまでが
正解探しになっていっちゃうということが
怖いことなんですよね.
だから余計に体も固まるし,
思考で処理しようとするし,
余計に自分の体験でいっぱいになるという,
これは個人の弱さだけで起きている話ではないんだ
ということなんですよ.
僕自身は割と
この感受性ってさっきも話したけど,
高い方ではないと思うんですね.
いろんな人の話を聞いていたりとかすると.
もちろん全くないかと言われると
そうではないと思うんですけど,
こういう仕事をしているしさ,
いわゆる共感疲労だったりで,
生活が回れなくなるという感じは
そこまで強くないなと思っていたんですよ.
だからそういう相談を受けたりとかする時に,
感受性が高いというのも,
もちろんそれは大変なこともあるんだろうけど,
なんて素敵な人たちなんだろうなという風に思っていたんです.
羨ましくもあった.
ところがね,いろいろこう自分の
そういうなんだろうな,
自分って冷たいのかなという風に悩んだりとか,
した時期もあって,
だからこそ人に寄り添いたいみたいなところで,
こういう勉強をいろいろしたりとか,
というのがやっぱりあったんですよね.
そこでたまたまクライアントの方,
患者さんの方がね,
いつも腰痛で見ていた方が,
突然,
うつになっちゃった.
診療内科でうつという診断を受けて,
今は薬を飲んでいるんだという話を聞いて,
いろいろ調べたら針がいいって言うんだけど,
先生,そういうのを見てもらえるかというので,
連絡をいただいて,
僕実際その時経験なかったんですよね.
経験はなかったけど,
小立てといって,こういううつというのはこういう,
東洋医学の中でこういう起床で起きるから,
じゃあこういう治療法をやってみようという風に,
推測から,
精術の予測を立てて,
こうやっていくということはできたんですよね.
できたというか,できるんですよ,東洋医学では.
じゃあそれでやってみようということで,
実際に来ていただいて,いろいろ話を聞いていたら,
その小立てをさ,
無味完走としてこうやって,
行くんですよね.木下土梱水だからとかさ,
気球だからとか,気欠水とか,
いろいろ小立てでやっていくんだけど,
そこには現れてこない,その人の苦しい体験とか,
しんどい体験というものを,
カウンセリングの中で聞いていくんですよ.
これはしんどかっただろうな,
というのが自分の中で反応としてあったんでしょうね.
そういうのをきっかけにして,
直接話を聞いたり,
コミュニケーションを取りながら,
その中で自分はたまたま神経ができるから,
勉強させてもらったから神経できるから,
これを1つ武器にして,
取っ掛かりにして,切り口にして,
この人の手助けになることができたらな,
というのがやっぱり
発端として思ったんですよね.
そこからいろいろ聞いていって,
じゃあこういう風にやってみたらどうだとかって,
いわゆる精神科領域,
診療内科領域というところに,
もっともっとこういう患者さんのことを
たくさん見ていきたいなと思いながら,
そういう患者さんを取るようになったんですよね.
やっぱり聞いて,
自分で勉強していくとさ,
こういう聞くための手法があるんだとか,
こういう薬とかがあって,だからこそ神経だったら,
こういう成立法があるんだとかって,
知識がいっぱい増えていくとさ,
だんだんと目の前の人の体験というものが,
おろそかになるということがあったりするんですよね.
本当はあっちゃいけないことなのかもしれないけど,
僕自身は実際そういう風になっちゃってたことがあったと思います.
これがね,
そういう体験があって,
でもやっぱり体験のところを
コミュニケーションしていきながら支援していく方が,
結果も出るし,自分もやっぱり
やりがいというものを感じられるなと思ったんですよ.
目の前の人も喜んでくれるってね.
ちょっと話が長くなっちゃったんですけど,
そういうことがあって,
今こうやってポッドキャストで話したり,
インスタでやったり,本を開発していただいたり,
私塾でいろいろお伝えしていたりとかして,
自分の体の方も毎日見ていたりするんですね.
常にいろんなところを解きながら,
やっぱり10年前に20年前に比べると,
体の具合ってすごくいいんですよ.
どんどんどんどんちっちゃくだけど,
良くなったり悪くなったりしていきながら,
どんどんどんどん良い方向にいっているんですよね.
そうすると,昔は気づかなかった,
その時の体験というものが思い出されたりするんですよ.
その時に,自分ってすごい感受性が低いって思ってたけど,
あれ?これ?
自分のその体験に触れるのが嫌で,
なんかそれを知識で守ろうとしてたんじゃないか?
自分の体験になんとか触れないで,
その場を処理できるようにっていう風に,
その理論の方に寄って行っちゃってたんじゃないか?
っていうことに
気づき始めたんですよね.
無理やりその体験の自分の辛いところに向き合うわけじゃなくて,
体がほどけていく中で,
あ,そういえば,これってこうだったのかもっていう風に
いろんなことが思い出されてきたんです.
これって身体性記憶だっけ?
ちょっと詳しい名前忘れちゃったんですけど,
ある匂いとか,
嗅いだ時に小さい頃の記憶を思い出したりとか,
ある音楽を聞いた時に,
曲が流行ってたその当時の
あの時の空気感を思い出したりという経験は皆さんないですか?
何かの刺激をきっかけに
自分のその記憶が思い出されるということ.
こういうことが
身体をほどいていく中で起きてくるんですよね.
あ,これってああだったのかもしれないなっていう風に
自分の中で紐づいてきたりしたわけです.
つまりどうかわからないんです.
最初から.
感受性が自分が高いのか低いのか.
これを高いのだ,低いのだという風に
分析する意味というのは実はあまりなくて,
もしかしたらこうなのかもしれないなという風に
自分が緩めるように,
ほどける方向に納得できれば
いいんじゃないかなと思っています.
そうすることで
身体性が豊かなのか高いのか低いのか
みたいなところで
閉じなくて済むようになるからね.
じゃあどうするかっていうところができるようになってくる
のかなと思います.
感受性を鈍らせずに人と関わるための「戻り方」
ちょっとめちゃくちゃ話すとれちゃったんですけど,
最後3つ目の問いになります.
感受性を鈍らせずに
人と関わる体に戻っていくには
何をすればいいのか.
ここで一番大事なことが
感受性を消そうとしないこと
だと思います.
このポッドキャストを
聞いてくださっている方とか
僕のインスタの話とか
聞いてくださっている方って
特別ユニークな発信をしているわけでもないし
面白い話術があるわけでもないけど
これってどうなってるんだろうっていう風に
学びたくて聞いてくださっている方が多いんだと思うんですよ.
すごく真面目な方が多いんだと思うんですよね.
そういう方ほどね
こういう風に誰かの助けになるようなことを
ずっと続けていくためには
これじゃ体が持たないから
どこかで自分を
抑える.
蓋をする.
感受性を鈍らせるということが必要なんじゃないか
っていう風に考えてしまう方が
結構いたりするんですよ.
刺激を避けたり
何なら人とこれ以上関わらないようにしようとか
何も感じないことにしようみたいな.
短期的にはね
それが必要なタイミングというのももしかしたらあるかもしれません.
何なら無意識にそういう反応って起きるので
本能的なものだからね.
僕らの野生がそういう風に反応しているだけなので
しょうがないものなんだけど
ただ長い目で見ると
感受性そのものを鈍らせるという方向だけでは
もったいないという風に思うんですよ.
だってそんなに感受性が豊かで
才能にあふれている方なのに
体が豊かに反応するということは
本来人と関わる力があるということなんですね.
相手の表情を受け取ったり
声のちょっとした変化を感じ取ったり
言葉になっていないものを感じ取るということですよ.
こうすることで自分の中に似た体験が
立ち上がってくるという素晴らしい力.
必要なのは
この体の反応を
反応させないということではなくて
反応した体を感じて
解くという術を身につけることだと思うんですね.
解く術.
これは特別
この具体的な解く術というものを
僕は1つの瞑想としてお伝えしていますけど
割と具体的なもので
身体動態瞑想というのを伝えていますね.
これもちろんすごくお勧めなんだけど
それを使わなくても
好きな音楽を聴いたり
お風呂に入ったり散歩したり
おいしいものを食べたり
子供と遊んだり
自然に戻ったり
リフレッシュできる時間
リラックスできる時間
癒しの時間
こういう時間というのも
本質を見れば
身体が解ける方向に
行っているということなんだと思うんですね.
つまりこれも瞑想の一端なんですよ.
瞑想と同じことなんだ.
だから特別なことを最初からしなくてもいいので
自分の好きなこと.
これやるとすっごいすっきりする.
回復する.リフレッシュする.
どっぷりやってあげて欲しいです.
さらにちょっとだけ見方を変えて欲しいです.
音楽を聴くのが好きであれば
音楽を聴いて
自分がいい状態になれる.
音楽のおかげで自分がいい状態になれる.
音楽を聴くことで
自分の中の
音楽だけの力じゃないんですよ
同じ曲を聴いてもさ
すごい感動する人もいれば
なんかジャキジャキうるせえ音楽だなって
うちのばあちゃんとかが言ったりとかもね
しますけど
全然あのー
いろいろ物っていうのが人によって違かったりもするわけです
つまりこれも
その
人の
その人ならではの好きなもの
であり
その人ならではの反応が
起きてるはずなんですよね
そこで
見方を変えてほしいのが
音楽を聴いた
この好きなアーティストのこの曲を聴いた
その時
自分の胸が広がってんのか
背中が少し楽になってんのか
呼吸が深くなってんのか
顔の力が抜けてんのか
お風呂に入るであれば
どこに体のどこに
どんな気持ちいい感じが起きてるのか
っていうのを
眺めてみてほしいんです
美味しいものを食べるなら
その時の味を感じた時
その時の歯ごたえを感じた時
香りを感じた時
自分の体ではどんな反応が出てるのか
行為そのものよりも
刺激そのものよりも
それのおかげで
どういう反応が自分の中で起きてるのか
それを見ていって
あげてほしいんです
ここに僕が提唱してる
身体の教養が入ってくると
特に対人支援とかしてる方はね
一般の方だったら
全然その今くらいのレベルでいいんですけど
僕ら対人支援者が
じゃあどういう風に
この体験に
フォーカスしていくかっていうと
体のどこでどんな質感が
できてるかってことは
体の構造とか
仕組みっていうものを知ることで
もっとクリティカルに介入することが
できるっていうことなんです
胸のとこが
わーっと緩む感じだ
であれば
胸のところには
肋骨が12本が
左右で12本あって
それぞれ胸骨っていうところと関節をなしていて
中の方には胸膜
っていう膜で覆われている
肺とか
心臓とか空気が
入ってくるところがあるんだっていう風に
物理的にそれを
見ることができるわけです
呼吸がどこを動かしているか
っていうものを知っていったりとか
こうすると
じゃあこの方のリラックスするっていうのは
胸が解けるっていう印象が
強いんだなぁ
であれば物理的にその胸を解いてあげれば
いいのだっていうことで
じゃあ肋肝筋とか
肋骨 胸骨の
関節なしているところに
アプローチを当ててあげよう
ここに関連しているところであれば
背骨と肋骨の関節とか
腰の方のバランス
整えてあげると
背中の胸の方のバランスも
変わってくるぞ
何ならここの神経系って
こういう神経系できているから
首のところもやってあげようみたいな風に
よりこう物理構造の中で
その方の体験というものに
介入していくことができるんですよね
こうしてあげることで
解剖学的な
生理学的な
神経学的な
割と科学的な知見というものと
その方の
心理的な
つまり触れられるものじゃなかった
本来触れられないものだった
その体験というものに
より近づくことができる
わけです
人にそういうことが
施せるっていうことはさ
僕もそうですけど
そういう知識を持って
自分のその体験というものを
感じていくことができる
コワバリというものを解いていくことが
できるわけなんですよね
好きなことの中で
趣味の中で体が解ける経験というものを
持っていると
瞑想の中で自分の体
アプローチして
こういうふうに解くんだっていう
その経験を持っていると
人の話を聞いていて緊張して
体が固まったっていうときに
戻る場所がわかるんです
あ、今胸固まってるわ
って思えば
喉が詰まってるわって思えば
あ、ここの
ここって解き方こういうふうにするんだったな
いつもの状態って
こっちだなっていうふうに
戻すことができるんですよね
反応しても
いいんです
むしろいいことなんです
これをとっさに
無意識に解いていく
方向にできるようになれば
共感疲労というものに
飲み込まれなくていいんですね
存分に目の前の方と
関わることができます
後から後転的に
こういうのって鍛えていくことが
できるということなんですよ
共感疲労に飲み込まれる
という時
反応を止められないからではなくて
反応した後の戻り方が
わからないから疲れちゃうんですよ
戻り方がわからなければ
相手の話をきっかけに
自分の中でどんどんどんどん
それが増幅していって
どんどん苦しみが増えていって
自分の体に残って
そのまま生活に戻ります
寝る前まで考えて
翌朝も思い出して
別な人の話を聞いて
また重なって
だんだん人と会う前から
疲れてきますよね
もうSNS触りたくないなとか
もう人と会うの嫌だなとか
この仕事向いてないんじゃないか
という風になっていくんですよね
なのでここで必要なのが
壁を厚くするということではなくて
戻る
道
戻り方というものを
覚えること
身につけるということなんです
共感疲労に飲み込まれないための実践と学び
最初の場面に戻ると
夜ね
スマホに友達からLINEが来たら
どうするみたいな話しましたよね
それをちゃんと読んで
ちゃんと返したい
この人のためになるようなことを
してあげたい
でも
読み終わった後に苦しくなる
読みながらもうなんかもう
しんどくなってきてもうこれ対応するの
嫌だなーでも返してあげたいなー
そういう葛藤が起きる
またもらってしまうなー
私は繊細だから
こういう感情に引っ張られちゃうんだよなー
弱くて嫌だなーとか
人と関わるの向いてないかもなー
っていう風に
思っていたかもしれませんけど
今日の話を見てちょっと別の
見方ができていればなと思うんです
こういう反応が
出た
でもそれを解いてあげればいいんだ
そうしたらこの人に
満足に向き合うことができる
支えることができる
それが自分のひとつの引き換え
でもあるっていう風に思って
いただければいいなーと
思います
そのためにね
そういう自分
支援できる人のために
なれる自分になるために
それを楽しめる自分である
ためにね
好きなことを味わう時間
体をほどく時間
自分の反応を責めずに
俯瞰して
こういう反応起きてるじゃないか
じゃあこういう風にしてみよう
それがうまくいかない時もありますよ
もちろんね
だけど介入することはずっとできるんですよ
そして
ちょっとでもいい方向になっていくと
苦しくなく続けられるんですね
最初から
山のてっぺんを目指さなくても
山のてっぺんに登れなくたって
一歩一歩
歩っていく道のりが
一歩一歩の
歩みを進めること自体が
快感であれば
その山を登るっていう
こういう自体が
楽しいものになっていけると
思うんです
はいそんな感じで
なんかいろいろ台本書いてたんだけど
ちょっと結構
話がそれちゃったりもしたんで
ごちゃごちゃしてるかもしれないんですけどね
あの
こういう
あのなんだろう
思いが自分の中であって
今こう
対人支援者向けに
始塾っていうものをやっています
持てるそのね
僕の知識だったりとか
今まで集めた文献
それを整理したものっていうものを
僕自身だったり
同じくSomatic Studioに
いてくださる皆さんの
臨床の経験だったりとか
っていうものを交えながら
カリクラムに落とし込んで
いますので
私もこれからね
対人支援していきたいな
仕事にしたいなとか
仕事ではなくても
今の仕事に
活かしたいとか
仕事じゃなくても
友達とか家族に対して
もしくは自分に対して
そういう風に荒れるようになりたいとか
こういう風に
関係していきたいっていうものが
思ってくださった方はね
是非来ていただけたら
嬉しいなと思います
是非そういう方たちと一緒に
学んだりとかせさたくまで
来るっていうのが僕の中でも
やっぱ生き甲斐というかね
楽しみなんですよ
なので是非ちょっと気になった方は
見ていただければ
と思います
どこ見ればいいのという方は
インスタグラムの方から是非
DMください
コメントどこでもいいですからね
という感じで
今日はこの辺で終わらせておきましょうか
ちょっと長くなっちゃったからね
ということで
今日ものんべんならりと
いきましょうまた
是非遊びに来てください
大沼達也でした