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努力したいとか、成功したいとか、僕らってこういった成功というものを、ほとんど疑いもなく考えたりしますよね。
成功者の話聞きたいし、子供には成功してほしいし。
これ、僕もそうだったんですよね。それどころか、人一倍そうでした。
僕の青春時代っていうのは、この成功という言葉に惹かれっぱなしだったんですよね。
当時、音楽、バンドとかを覚えてやってたので、ロックスターみたいなものに憧れたし、
それから経営者とか、発明家とか、俳優さんとか、作家さんとか、アーティストとかね。
なんかかっこいいですよね。それぞれの分野で成功しているっていうふうに言われるような人。
そのどれもが、そのどの分野の人でも、やっぱり人柄っていうものに魅力を感じて、
これが成功者なんだ、これが成功なのかっていうふうに自分の中で変換して、
これになりたいっていうふうに渇望をしていました。
僕自身特に裕福な家庭でもないし、継ぐ家業ももらえる資産もないっていうところで、
だから普通に就職して家庭を持って、それから独立して今に至っています。
働いてきてました。
おかげで今は当初の暮らしよりは心配ない、経済的に心配もなくなってきて、
日頃のちょっとした出費っていうものもストレスなくできるようになってきた。
昔はね、缶ジュース一本買うのもストレス感じていたんですけど、
今でもちょっとやかましいかなとかなるけどね、
末は僕好きなんですけど、やっぱりちょっとでも安いシンプルなメニューにしようみたいにね、
思うんですけどね。
悪いことだとは思ってないけども、
それくらいお金の使い方にうるさかったんですね。
お金がなかったから、単純に。
こういう小銭を無頓着にある程度使えるようになった、
いまだにだいぶケチだって周りにも言われるし、自分でもそうだと思うんですけど、
経済的なある程度の安定っていうものを減られたっていうのは、
自分の中では大きな変化だったんです。
それでも、そこそこの収入っていうのを減られるようになった時に、
当時はね、むしろお金がない状態で頑張って、
お金いっぱい得て成功するぞっていうふうに漠然と思ってたけど、
今に至ってみて、何か思ってたのと違うぞ。
何か欲しかったものが手に入るようになった。
その成功っていうものがある程度近づいてきてるような。
何ならそういうふうに言えるのかもしれないなと思いつつも、
何かちょっと違う思ってたものと。
03:02
っていうような感じがしていたんです。
もちろんこうね、当時に描いていた
大きな俗に言う有名とは、
規模が大きく全然かけ離れてますけど、
全然ロックスターじゃないし、超有名で、
超お金持ちってわけでもないけどね。
ほとんどゼロからある程度まで積み上げてきているから、
この延長線上だとこんな感じなのかなみたいなのは、
なんとなく想像がつくのかなと思うんです。
むしろ今行っている授業が2倍とか10倍になったら変わるのかって言われれば、
もちろん体験したことがない世界線だけど、
何かあんまり想像ができない気がしたんですよね。
僕よりもはるかに大きな組織をまとめていて、
僕よりずっと稼いでいる人、本を何冊も書いている人、
いわゆる成功しているっていう人たち。
それがあるからその人たちが幸せかっていうと、
何かそれも違う気がする。
実際に身の回りにいる方だったりとか、
著名人という方と話させていただいたりとかしても、
そういう話になったりします。
楽しいこと、しんどいこと含めて、
やっていること自体が楽しかったんじゃないかっていう風に、
僕の中では思えてしまうんですよね。
僕自身も振り返ってそう思うし、
こういう風に話している方もいる。
口ではね、
みんな、僕も含めて、
カッコつけて立派な目的っていうのを掲げたりとか、
したりするかもしれません。
クライアントのためだから、利益最優先だから、
金メダルのためにとか、上場するためにとか。
でも行動とかその人がやってきた行いみたいなもの、
そのところを見てみると、
どれだけ成功しても、
仕事が楽しいから現場離れたくないっていうような、
創業者のおじいちゃんみたいな方もいらっしゃるわけです。
掲げている目的と、
その人を実際に動かしているものが、
どの別にあるんじゃないかと。
そこで成功って何なんだろうなっていう中身を、
改めて考えてみました。
考えていったら、
これはむしろ今の時代に限っては、
成功という言葉は、
軽蔑するべき言葉なんじゃないかっていうところに、
至ったんですよね。
今日はその考えた道筋というものを、
順番のままに一緒に巡っていただきたいと思います。
タイトルの、
成功という言葉を軽蔑してみよう。
これを何で皆さんにお勧めするのかっていうのが、
分かるように順を追って解説をしていこうと思います。
06:05
まず出発点は、
真面目に成功というものを定義してみるところです。
これだけ好かれている言葉ですからね。
中身もさぞ立派なはずでしょうということで。
じゃあ成功って何なのか。
辞書を引いてみるとまずね、
物事を目的通りに成し遂げることっていうような説明が出てきます。
ああまあなるほど。
まあそれはそうだね。
達成するみたいな意味合いだよね。
じゃあ何を成し遂げたら、
人は、あの人は成功した、
っていう風に言うのか。
思いつくまま並べてみます。
例えば年収が上がったとか、
会社を大きくしたとか、
試験に受かった、
本が売れたとか、
フォロワーが増えた、
痩せた、
家を買った、
肩書きがついた、
資格を取った。
こうやっていろんな成功に付随するようなもの。
これを並べてみると、
全部結果なんですよね。
それも数字や肩書きのような、
言葉にできるような形の結果です。
まあ他人と比べられて、
去年の自分とも比べられるっていうのが、
一つ特徴的なものなのかなと思うんです。
逆に、
こういうものは成功のリストに入ってきません。
今朝の味噌汁がうまかったとか、
風呂で肩がほどけた、
力が抜けたとか、
夕方の空を見て足が止まってすごく感動したとか、
眠りが深かった。
どれもその人の一日を実際よくしているものなんだけど、
私は成功した、
あの人は成功したっていう中身には数えられません。
まあそりゃそうだけどね。
これが最初の発見です。
成功の中身を言おうとすると、
記号しか出てこないんですよ。
結果しか出てこない。
数字とか順位とか、
級、何級とかね、肩書き。
比べられる形のものだけが、
ここに並べられていて、
比べられない実感とか体験っていうのは、
どれだけいいものでもここに含まれないんですよ。
成功っていう言葉は、
実感の言葉を受け付けない作りになっているんですよね。
なんでこういう作りになっているのか。
成功っていうのは答え合わせだからです。
成し遂げたっていうふうに認めるには、
目標と今の自分っていうのを付き合わせてみて、
届いたか届いてないかっていうのを
確かめる必要があるんですよね。
こういうふうに変わったぞ。
こういうふうに良くなってるぞ。
テストの答え合わせと同じ作業ですね。
この答え合わせっていうのは、
頭の仕事です。
09:02
頭が付き合わせられるものは、
記号にしてとっておけるものだけです。
記憶とか記録とか、
数字、言葉、
味噌汁の美味しかったっていうものは、
記号にした瞬間に、
味噌汁が美味かったとか、
味噌何グラムで、
だし何グラムで、
豆腐何切りで、
煮込み何分っていうような、
文字列になってしまいます。
美味さ自体はこぼれ落ちるんですよね。
美味さっていうのは、
美味いっていう体験なわけだ。
美味しさっていうのは、
科学式とは違うんですよね。
味噌汁こういうメニュー、
こういうレシピで、
科学式で表せるかもしれないけど、
それを僕らは体験しているわけだ。
飲む側の自分が変わってしまえば、
その美味しさっていうのも変わるんですよね。
その味を体験している側がいて、
初めて美味しさになっていると。
だから答え合わせの材料にすごくなりにくい、
なれないわけだ。
実感っていうのは、
今この瞬間にしかありません。
座っているお尻の感じとか、
息の深さとか、
肩のあたりの重さとか、
比べなくてもそこにあるんですよね。
昨日より楽だじゃなくて、
毎日お風呂に入ってさ、
昨日よりも気持ちいいぞ、
お風呂最高って思うかって言ったらさ、
そこじゃないじゃないですか。
確かにそう、
いつもの調子と比べたりっていうのは、
普段の調子と比べる、
ある種自分を測るバロメーターとしては機能するけど、
お風呂入ったら気持ちいいし、
お風呂嫌いな人でもね、
ご飯食べれば美味しいし、
音楽を聴けば心が踊ったり、
ゆったりした気持ちになる。
それは何かと比較して、
ああ、こうだな、いいなって思うわけではないですよね。
比較なしに、
この体験はとってもいいものだなっていうのを、
非言語的に感じているはずだ。
実感っていうのは今この瞬間にしかないんですよね。
一方で成功したっていうのは、
今ここにはないものであって、
目標とか過去とか他人と比べて初めて出てきます。
この2つっていうのは置いてある場所が違うわけだ。
ここで同じ作業を幸福という言葉でやってみます。
あの聞いてくださっている皆さんもね、
これまで自分が幸福だなって思った瞬間を、
いつか思い出してみてほしいんですよ。
幸せだなって感じた瞬間。
例えばこういうものが僕なら出てきます。
12:03
お風呂好きだからさ。
お風呂入って、うわー気持ちいいなーって、
お湯が自分の体に染みていくような、
ほどけていくような感じ。
思わず声が出ちゃいます。
あーってね。
もしくは笑いすぎてもう涙が出てきてしまうくらい、
腹がよじれるくらい、
もうお腹痛いっていうくらい笑った飲み会とか。
夢中で手を動かしてて、
気づいたらもうなんか日が昇ってきちゃってたみたいな、
そういう作業をしてる、仕事の作業をしてる日とかね。
旅先で、
年一回くらいディズニーランドに家族で行くんですけど、
夜中に、夜中の1時2時頃に家を出てくんですよ。
ちょっとだけ髪にとって、夜出てて、
夜通し運転して、ディズニーランドとかまで行くんですけど、
あの時のね、
夜中3時、朝3時4時くらいに、
関東、北関東くらいのパーキングエリアとかで、
コーヒー飲みながらタバコ吸う時間がすごく好きなんですよね。
あの時のなんとも言えない感覚ですね。
それからね、なんかもういっぱい出てきちゃうけど、
ポッドキャストとか聞いてくださってる方のリアクションをいただいたりとか、
それきっかけで僕のこと知ってくださって、
実際会いに来てくださって、
仲良くしていただけた時とか、
その時の感覚っていうのがありありと自分の中で思い出されます。
ロックスターに憧れてた頃の僕っていうのは、
当時仲間と楽器を合わせて、
うまくないですよ、全然。
だけど歌ったりとか楽器を弾いてみんなで演奏を合わせてたんですよね。
音程怪しいし、演奏だってすごく未熟で揃いきりません。
それでもバラバラだった音っていうのが、
ふっと一つに合う瞬間があったわけなんですよね。
あの感覚っていうのは、いつでも思い出せるものです。
自分の体の体験として残ってる、体験が記憶に残ってる。
チケットがたくさん売れたわけでもないし、
取材を受けたわけでもないし、
世界が選ぶアーティスト100とかに選ばれたわけでもないです。
だけど、あの時間っていうのはすごく幸福だったんですよね。
つまりここで何が言えるかというと、
幸福のリストっていうのは全部体験なんだと思うんです。
数字や肩書きでは、この幸福っていう内側、中身っていうものは出てこない。
優勝したとか、資格を取ったとか、男の学校出たとか、収入が上がったとかね。
そうした記号の、いわゆる成功のラベルが貼られるところの内側には、
15:05
こうした体験っていうものがあるんじゃないかなと思うわけです。
偶然その体験のところばっかりが今出てきているのかっていうと、
そうではないんですよね。
確かめる方法があります。
体験の側と記号の側を片方ずつ抜いてみるっていう試行実験です。
まず体験だけを抜いてみます。
例えば、今皆さんが眠らされたまま講座の残高が増えていくとします。
これはこれで嬉しそうだけどね。
考えたらちょっとワクワクしちゃうけど。
合格通知が届きます。寝てる間に。
寝てる間に肩書きが増えていきます。
寝てる間にフォロワーがどんどんどんどん増えていきます。
目が覚めて知らされるより、
寝てる間のあなたっていうのは幸福だったでしょうか。
もちろん目が覚めたらね、そこに体験が生じるよね。
うわ、お金めっちゃ増えてるとか。
めっちゃ肩書き増えてる。
めっちゃフォロワー増えてる。
その時はワーッと嬉しい気持ち、嬉しい感覚、体験というものが出るだろうけど、
寝てる間はその体験がないからね。
何も感じないですよね。
もう結果は揃ってるけど、幸福って呼べる中身がどこにもないわけだ。
今度は記号の側を抜いてみます。
順位とか資格とか残高とか、どれ一つ増えてないのに、
体はあの時の体験っていうものが出てくる。
さっき言ったものですよね。
僕が今さっき挙げた幸福の記憶っていうのは、
どれもいわゆる結果が伴った成功とは違う。
だけど、その体験というものがあったにもかかわらず、
それは幸福ではないよっていうのはちょっと無理があると思います。
つまり体験を抜くと幸福は消えます。
記号を抜いても幸福は残ります。
幸福っていうのは体験に宿っている。
記号には宿っていないんですよね。
結果には宿っていない。
幸福のリストに体験しか並ばなかったっていうのは、
偶然ではなかったわけです。
ここからもう一歩進めてみたいと思います。
一見成功って呼ばれるものも、
裏側を覗くとそこには体験が入っているんです。
例えば、ロックスターの武道館公演。
外から見えるのは、どれだけの観客を動員したかとかっていう動員数とか、
チャートの順位とか、どれだけ売り上げたかみたいなものね。
18:00
例えばよ。
でも本人の中で起きているのは、
全然そんなに動員してない、
全然チャートも取ってない、
僕が仲間と味わった音が合う瞬間の、
あの感覚のめちゃくちゃ大きい版なんじゃないかなと思うんですよね。
合格っていう成功の中身には、
問題が解けた瞬間の手応えとか、
ちょっとずつ知識が増えていくとか、
こうかなーかなーって考えてた、
あの手応え、体験っていうものがあると思います。
本を出したっていう成功の中には、
書いている瞬間とか、
あーでもない、こうでもないとか、
試行錯誤しながら、
体を持って関わっている、
それから編集者の方とのやりとりとか、
読者の、これを読んでくださるような方との関わりとかっていう、
その感覚があるんだと思うんですね。
僕らが成功っていうのに感じている、
その値打ちの正体っていうのは、
結構な部分、裏側に貼り付いた体験の方なんじゃないかと思うわけです。
合格通知の紙をね、
なめたって味はしません。
その上で、この体験のリストには、
記号のリストと正反対の性質があります。
順番に見てみましょう。
まず、この体験っていうのは比べられません。
僕のお風呂入った時の、
あー気持ちいい、っていう感じと、
皆さんのお風呂に入った時の、
あーっていう感じ。
これどっちが上かみたいなのは決めようがないですよね。
次に保存できません。
これは保存できない。
会員とか合格とか資格みたいなのは一度取れば、
リレックションにかけたりとか、
プロフィールにかけたりとかするけど、
お風呂に入った時の、
あー気持ちいいっていう感覚っていうのは、
その時間にしかありません。
思い出は残る、
その体験の記憶ってのは残るけど、
思い出した時に幸福なのは、
実はその思い出している今の体なんですよね。
すんごい体痛くて、
すんごい嫌な状態になっている時に、
いい時の体験ってなかなか思い出しづらいんですよ。
そして代理が効きません。
書類の上の結果であれば、
代筆とか裏口っていうのもあり得るけども、
誰かに代わりに風呂に入ってもらって、
気持ちよくなってもらうっていうのは、
原理的にできないですよね。
ちょっとおしっこしたいから代わりに行ってきて、
みたいなのはできないわけだ。
21:00
あーすっきりしたっていう感覚は、
自分で取りに行かないと感じられませんよね。
まとめるとこうなります。
成功っていうのは表にかける、
言葉にかけるけれども、
体験しなくてもできるものかもしれない。
幸福ってのは体験するしかないけれど、
表にかけない。
きれいに逆の作りをしているわけです。
それなのにね、
僕らってのはこの2つをごっちゃにしてしまうんですよね。
成功すれば幸せになれるっていう文が、
このロジックが疑われもせずに流通してしまっている。
なんでこんな性質が違うものが混ざっているのか、
これもいろいろ考えて、
理由は2つあるかなと思います。
大きく見ると。
1つ目の理由は、
答え合わせの瞬間にも、
本物の嬉しさっていうものが立ち上がるから。
例えば、合格発表の日を思い出してみてください。
合格発表。
自動車とかでもいいし、
高校とか大学でもいいですよ。
掲示板とか画面でもいいです。
自分の番号を見つけた瞬間の、
あのよっしゃっていう感覚。
あれは本物ですよね。
発表待つ間、
自分の体が怖がって息は浅くなっている。
大丈夫かな、大丈夫かな。
全然余裕でしょっていう方もいるかもしれないけどさ。
番号を見つけた瞬間に、
その構えが一気に解けます。
肩が下りて、
息が深く戻って、
体のシステムが働ける状態へ戻っていく。
これ僕の言葉で言うと、
身体合理性。
体のシステムがその持てる機能を、
十分に発揮できている状態。
これが一気に高まっていきます。
あの嬉しさっていうのは、
ここから立ち上がっているわけなんですよね。
ああよかったっていう風に、
防御の構え、不安の構えっていうものが、
解けた、解けた瞬間の、
体験、感覚なわけだ。
合格通知が嬉しさを配っているわけではありません。
それはきっかけであって、
それがきっかけで体が変わって、
その体から嬉しさが立ち上がっているわけなんですよね。
だからこれも本物です。体験だから。
自分の体で感じているものだ。
この仕組みっていうのは合格に限りません。
風呂で、はーっていう風になったものも、
仲間とバンドして音があった瞬間、
気持ちいいってなった瞬間も起きていることは同じです。
体がよく働ける状態が変わる。
つまり身体合理性が高まる。
24:01
防御の反応、不安の構えってものが解けていく。
その体から嬉しさとか気持ちよさが立ち上がってくる。
幸福って言われる体験は全部こんな形をしていました。
違うのはきっかけだけですね。
お風呂であればそのお湯が、
音楽であれば仲間だったり仲間の音が、
合格であればその通知、知らせが、
僕らの体を変えるきっかけになっているわけだ。
合格が特別なのは、きっかけが派手なことだけで立ち上がってくる中身は、
お風呂に入った時ってのと同じ仲間なわけだ。
ただ思い出してほしいのは、その後です。
布団に入る頃には、
よっしゃ合格したあの感覚ってのはだんだんと薄くなっていきます。
そういえば浮かったんだよなっていう感覚、ある程度は浸れると思うよ。
でもずっと浸っているようにも、
次の答え合わせがどんどんどんどん舞い込んでくるんですよね。
入学してからの成績だったり、次の試験だったり、就職だったり、今度は年収とかになるかも。
一つその成功ラベルっていうものをゲットすると、
次の目標が現れるようになっているんですよね。
成功っていうののリストには、これで終わりっていうものがない。
これ理由は単純で、数字には最大値がないからです。
年収1000万の人の上には2000万の人がいて、
フォロワー1万人の上には10万人の人がいます。
10万人の上には100万人、1000万人という。
承認要求とかっていう風に言ったりするけど、
比べられる数字で目標を作る限り、上はいくらでも作れてしまうから、
だから達成すれば満たされるっていう作戦は、
仕組みとしてもこれはちょっと破綻してしまっているわけだ。
ここまでは一度整理したいと思います。
受かった瞬間、本物の嬉しさが立ち上がった。
その嬉しさっていうのは、だんだんと静かになっていく。
そして次の目標が現れた。
悪いことなわけではないんだけどね。
この時僕らの中では2つの別の働きが動いています。
1つがあの瞬間に体へ立ち上がったその嬉しさ。
体から立ち上がってきたこの嬉しさ。
これは本物の出来事でもう終わっています。
もう1つはもう一度あれが欲しいっていう気持ちです。
もう一度欲しい。
これは頭が先回りして追いかける働きなんですね。
27:03
嬉しさそのものとは違うものなんです。
嬉しさっていうのは体に立ち上がるものであって、
欲しいっていうのは頭が描くものなんですよ。
この2つは実は生物学的神経学的によっては全く別物なんです。
このよっしゃーっていうものを幸福の見本として
これが幸福なんだっていう風に覚えてしまうと
欲しいが走り出しちゃうんですよね。
そして幸福を増やしているつもりで
合格とか数字の方を集め始める。
結果っていうものを集め始める。
幸福っていう体験を増やしているつもりが評価される。
結果っていうものをどんどんどんどん増やそうとしていってしまってる。
これが取り違いの1つ目になるわけなんです。
2つ目の理由っていうのは実はこっちの方が根深かったりします。
成功っていうラベルが幸せを体験できる機会っていうのを実際に増やすんですよね。
合格すれば選べる進路が増えるし、
年収が上がれば行ける場所も帰る時間も増えます。
肩書が付けば会ってもらえる人も増えるし、
ラベルは幸せそのものではないけど、
幸せに出会う機会の引き換え権としては働くんですよね。
冒頭の僕が缶ジュース買えるようになったよって話したじゃないですか。
まさにこれも引き換え権が働いた例だと思います。
収入のおかげで僕は小銭のストレスから本当に解放されました。
だから怖いんですね。
偽物ならいつか目が覚めます。
だけどこの引き換え権っていうのは機会を増やす道具としては本当に働くからこそ、
集めるのをやめる理由が見つからないんですよ。
でも人間はこれを自分では止められません。
さっき言った通りに、集める枚数にこれで最後がないから、
引き換え権を集めることが暮らしの真ん中に、生きることの真ん中に座っていってしまう。
嬉しいっていうのと欲しいっていうのは違う回路で動いてるよっていう話をしました。
これまた前のポッドキャストでも話したことあるかな。
ライキングとウォンテッドっていう、
ウォンティングっていう言葉で説明したりします。
僕らが嬉しいなーとか幸せだなーとかっていうのは、
主にオピオイド系だったりとかオキシト神経って言われるもので、
満たされるような感覚だって言われるんですよね。
一方で欲しいっていうのはウォンティング、
30:01
ドーパミン由来の感覚なわけです。
欲しくて欲しくてたまらない。
これがもちろん必要なものなんだけど、僕らの生存とかね、生きる中には必要で、
これが持ってきてくれる幸せっていうのももちろんあるんだけれども、
非常に強くて暴走してしまうようなリスクっていうのははらんでいるものなんです。
だからこそ僕らの生きる、暮らしっていうものの、
中心になってしまいかねないような強さを持っている。
引き換え犬を使って体験するはずだった時間の方が、
どんどんどんどん後回しに幸福、幸せ、嬉しいっていう感覚の方が
どんどん後回しになっていってしまうっていうような構造を持っているんです。
でもこの引き換え犬っていうのは、実際のところどこまで幸福に効くのか、
これは世界中で何十年も実は計測されてきています。
数字の話を3つちょっと引き合いに出してみましょう。
1つ目はお金は足りない段階でははっきり効くっていう風に言われています。
いろんな国で研究されて、いろんな国を引き合いに出して研究している例があるんですけど、
豊かな国の方が平均の幸福度は高い、これは経済的に豊かってことね。
貧しい国とか中位の国では経済が伸びると幸福度も一緒に上がるっていうような傾向が出ています。
これ柑橘の話と同じですよね。
だからお金で幸福は買えないっていう風に雑にまとめるのは、
データに対しても実際に今貧しくてしんどいっていう方に対しても不誠実だと思っています。
やっぱりある程度お金というもので機会がある、
成功というもので機会が増えることで幸福度っていうのは上がっていくようだと。
2つ目、聞き方っていうのは倍々でしか聞かない。
これ国際比較の研究では収入が2倍になると、
0から10で答える人生の満足度っていうものがおよそ0.3点上がるっていう関係が繰り返し出てきています。
どういうことかっていうと、年収300万円が年収600万円になった時のその幸福度の上がり幅っていうのは、
600万円が1200万円になった時の危機とだいたい同じらしいんです。
上に行くほど、これ1円あたりの危機は薄くなっていってますよね。
しかもすでに豊かな国では、国全体がさらに豊かになったとしても平均の幸福度はほとんど上がらないっていうのが、
33:04
実は50年前から報告されているそうなんです。
これイースタリンの逆説って呼ばれているもので、
高所得国、お金持ちがたくさんいる国、
ここで2009年から2019年について経済成長と幸福度の伸びに相関が見られなかったっていう分析があるそうです。
もともとお金持ちの国に住んでいる方は、経済成長しても幸福度別に伸びなかったようだっていうような分析があるんですね。
そして3つ目が今日の話の核心と重なってきます。
この幸福度の測り方っていうものを、体験と採点っていうものに分けた研究があるんですよね。
いわゆる成功っていうようなそのラベルの部分と、
じゃあその中でどういう体験してたかっていうのは別に測った方がいいんじゃないのっていうふうに、
同じように考えた方がもう実はすでにいました。
世界のいわゆる幸福度調査って言われるもので広く使われている質問っていうのは、
一番下を最悪の人生、一番上を最もいい人生とすると、
あなたは今どの辺にいますか。
それがはしごだとすると今何段目にいますか。
階段だとすると今何段目にいますかっていうような質問をしているそうなんです。
これは体験を測っていないんですよね。
自分の人生に点数をつけさせるような聞き方をしているわけだ。
ともすればこれはその方の知識レベル、レベルっていう言い方があるか、
どれだけ最悪の人生を知っているか、どれだけいい人生を知っているかっていうものに、
すごく影響されるわけなんですよね。
今日の話の中で言えば答え合わせの側の結果の側の測定なわけだ。
心理学者のカーネマンと経済学者のディートンっていう人はね、
2010年にアメリカの45万人分の調査でこの2つを分けて測りました。
2010年だって。
人生の祭典と昨日どんな気分で過ごしたかっていう、
その2つの体験の側、その2つ。
すると祭典の側っていうのは収入とともにどこまでも上がり続けたそうです。
人生の祭典っていうのはこれだけ収入あるからこのくらいの祭典だなみたいに上がり続けたそうだ。
でも体験の側は年収およそ7万5千ドルで頭打ちに見えたっていうことが分かったそうなんです。
36:06
お金で買える幸せには限度があるっていうようなよく聞くあの話の出どころが実はこれなんですね。
カーネマンとディートンの研究でした。
これ当時7万5千ドルっていうと円高でもあったんで、
大体600万とかっていうふうに言われてたかと思います。
600万700万くらいだったかな。
そのくらいで幸福度は頭打ちになるぞっていうことがこの研究引き合いによく言われたりするんですよね。
この結果には続きがあります。
2010年の調べ方っていうのは後から思い出して答えてもらう形でした。
キリングスワースっていう研究者は2021年に調べ方を変えて再チャレンジしてます。
参加者のスマホを1日に何度か鳴らして鳴ったその瞬間に今どんな気分ですかっていうふうに答えてもらう。
思い出ではなくてその場の体験をそのまま集める方法としてこれをやったそうなんです。
すごく面白いアイデアですね。
これを170万件集めました。
こうすると今度は体験の側も収入とともに上がり続けていたそうなんです。
おっと、2010年の結果と真っ向から食い違いました。
食い違った2人っていうのは2023年に一緒に元のデータを検証し直して降着してます。
すごいですね。
多くの人では体験の幸福も収入とともに上がり続ける。
ただし辛さを抱えた一部の人たちでは年収およそ10万ドルから先お金では上がらなくなっていく。
お金で軽くできる種類の辛さはそこまでで、
その先の辛さはお金以外のものでしか動かないというようなことがこの研究から出ているわけだ。
どういうことかというと、つまりざっくり言えば、
お金で幸せになれるその幅というのは限られているよということなんですよね。
この行ったり来たりからどういうことが言えるかというと、
お金が一番素直に持ち上げてくれるのは人生の採点の側です。
体験の側というのはそれとは別の動き方をするわけだ。
採点と体験というのはデータの世界でも別々に動いているんです。
この2つをごっちゃにできないよねということがこの3つの研究とか数字からも出ているんですね。
お金で幸せになれるというのも確かにそうなんだけれども、
それだけじゃないんだよなということが言えるわけだ。
39:00
これと一緒に合わせて覚えてほしいな、聞いてほしいなというものが、
世界の幸福度ランキングの多くが測っているものが体験そのものではなかったということです。
人生を何段目と採点するか、成績表が成績表を測っている。
僕が冒頭で言った思ってたのと違うぞというのも冒頭の知り合いの方たちの話も
このデータの形とそのまま重なると思います。
確かに裕福になると幸せを感じる機会というのはたくさん増えた。
僕も確かにあったけれども、柑橘のストレスが消えたあたりまでだったのかもしれない。
その先はどれだけそれを足していったとしても探していたものは出てこないかもしれない。
さあ、ここまでちょっと長かったですけど、道具立てが揃いました。
成功というのは答え合わせであって記号でできている。
幸福というのは体験で記号にはならない。
作りが逆なのに答え合わせの瞬間に立ち上がる本物の嬉しさというのと
機械研の本物の働きが2つを混ぜてくるわけだ。
そして答え合わせには終わりがないとするとどういうことが起きるか。
成功ということまで毎日埋めていくと、生きているそのものの世界ではなくて記号の中で生きることになってしまうんですよね。
味噌汁の旨さも肩がほどけたあの心地いいな気持ちいいなという感じも幸せだなという感じも
言葉にしづらいから
なかったこと側に積まれていってしまう。
表に書き込める数字だけがあったことになってしまうんです。
1日の中で実際に起きている良いことの大半というのは実感の側にあるはずなのに
採点の対象というのは記号の側だけなんですよね。
これではどれだけ良い1日を過ごしたとしても
点数の上では採点の上ではゼロ点の日が続いていってしまったりするわけだ。
よく言いますよね。
今日俺は何したんだ。
今日君は何したんだ。
何もできてないなみたいに焦るみたいなのは結構若い頃はね
誰しもがあったりするんじゃないかなと思うんです。
念のためこれをね伝えておくと
これは僕含めてそういう風に焦ってしまう
皆さんが愚かだから起きるわけじゃないと思うんですよ。
世の中が点数を出せっていう風に言ってくるから
42:00
ビフォーアフターだったりとか
3ヶ月で変わるとかっていう約束だったり
SNSに並ぶ数字とか
仕事では成果を数字で報告しなさいと言われてて
僕らはその練習を何十年もさせられてきているんですよね。
大切なのは結果じゃないよとか
その中に至るまでの道のりだよとかって
言うこと言われたりするけどさ
大人になればなるほどそこを見てくれる関係性ってどんどんやっぱ少なくなっていってしまう。
社会の中にその仕組みっていうものがすごく乏しかったりもするわけだ。
記号で採点するその目線とか腕前ってものがみんな余裕が上がっていっちゃうんですよね。
ついでに言うとこの言葉の来歴っていうもの
成り立ちっていうものもそれを裏付けています。
日本で言う成功っていう言葉は
身を立てるとか稼ぐとか
上がるっていう今の意味で流通し始めたのは実は明治かららしいんですね。
アメリカで当時人気だった成功哲学の雑誌
これを手本に明治30年代の日本でも成功という名前の雑誌が出ていたんです。
教育社会学では立新出生主義っていう名前で研究されている流れなんですよね。
立新出生主義。立新出生って聞いたことありますよね言葉としては。
僕らが疑いもなく使っているこの成功っていう言葉は
近代的な学校と産業の仕組みっていうものと一緒に広まった割と新しい概念なんです。
今の時代に限ってはこの成功っていうのを軽蔑してみようよって言ったのはこのためなんですよね。
もっと言えば概念というかこれ道具として広まっているんじゃないのとも言えるわけです。
だから人生を点数で眺めて生きてきた人が弱いわけでも間違っているわけでもない。
国中が貧しかった時代っていうのはみんなで点数を上げれば暮らしも実際に良くなりました。
学校でも会社でも僕らはずっとその生き方を教わってきた。
そうなったのは理由があったんですよね。
実際飯が食えなくて腹減った着るものがない。
そういう時代から稼ぐことがご飯を食べるとかお酒を飲めるとか
そういった身体的な喜びというものに直結していたんですよね。
だからこそその成功というものが僕らの幸福という体験に直接紐付けられていたけど
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今は違う。
暮らしが一通り揃った後も同じ成功という概念だけが配られ続けているわけだ。
人生の点数で苦しんでいるならあなたの感じ方がおかしいわけではないんです。
それは教わった生き方というものが今の僕らにあなたに合わなくなってきているんですよね。
だからそれを責める必要はない。
でも目を覚ますことはできる。目を覚ましてもいいんです。
最後に冒頭の知り合いの方たちのことをもう一度考えてみましょう。
楽しそうに生きている成功者。たくさんいますよね。
ただ近くで僕も見ていて思うことがあります。
あの方たちというのは成功を追いかけて幸せになったというよりも
挑戦したり夢中になったりすること自体が幸せな人たちなんじゃないかなということなんです。
夢中の時間が先にあって成功というラベルは後から外側から貼られたと。
幸せの中身はラベルの方ではなくて
夢中の時間の方に入ってたんじゃないかということです。
どれだけ成功しても現場から離れたくないという創業者のおじいちゃんみたいな方は
その意気承認だと思うんですね。まさに。
思えば青春時代に僕が憧れていたのもそうだったんだと思います。
ロックスターとか発明家のその数字とか評価というものに惹かれちゃって
貼られたわけではなくて、その人柄だったりとか
そんな方たちが語るその体験に魅せられていた
僕はそこの体験というものを想像して
そこに成功というラベルを貼り間違えていたんじゃないかなって思うわけなんです。
微妙な差だけどさ、この因果というものを逆に読んでしまうと
ラベルだけを追いかけることになりかねないんですよね。
夢中になれるものがないまま、引き換え権だけを集めていく。
成功すれば何でもいいということに知らぬ間になっていってしまうわけです。
成功したらこの苦しさから解放される。
その言葉が自分にとって何を意味するのか
体験のレベル、実感のレベルまで立ち戻って確かめていく。
そこを飛ばしたまま追いかけて壊れていってしまうという方を
僕は臨床でもこれまで何人も見てきました。
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これは僕の周りだけの話でもないと思うんです。
心理学者のカッサーとライアンという方が1993年に出した研究があります。
人生の目標の中で金銭的な成功を自分の成長とか
親しい関係より中心に置いている人ほど
心の健康の数値が低いという結果です。
成功というレベルに踊らされた先で何が起きるかというのは
この研究とか数字の中でも明らかになっているんですよね。
さあそろそろタイトルの回収をしたいと思います。
成功を軽蔑してみようという風に言ったのは
これ成功を目指す人のことを軽蔑しろって言ってるわけじゃないんですよ。
頑張ることを軽蔑しろって言ってるわけでもない。
目標を持つことをやめろとか軽蔑しろって言ってるわけじゃない。
それどころか目標とか点数とかというのは
夢中を助けることもあるということがこれまで解説してきました。
ゲームに夢中になれるのは点数と面があるからです。
金メダルという目標が毎朝の練習を支えている選手もいます。
現実に実際にこれがきっかけになっている。
目標とか点数というのは道具としては優秀なんだけど
おかしくなるのはこの道具が主人になった時
軽蔑してみるのは比べられる記号だけを使って
実感を入り口で止めてしまうあの仕組みです。
あの仕組みは僕らの味噌汁のうまさを一生再転しません。
幸せだな、楽しいな、しんどいけどもうちょっとやるぞとか
という体験ではないんですよね。
成功は持っていようが捨てていようが幸福を決めません。
目標を立てようが立てまいが覚悟を決めようが決めまいが
幸福に関わりはします。
引き換え権として機会を増やしたり減らしたりはする。
でも幸福を決めはしません。
幸福を決めるのは体験の側です。
眠ったまま結果だけ増えても幸福じゃないって話しましたよね。
何も増えてなくても気持ちいいな、お風呂最高だなとか
もうちょっとやってみようかな
あの体験っていうのは幸福っていう風に言えるわけなんです。
だとするとどう生きるかっていうのは
おそらく体験をどうするかっていうことと同じことなのかなと思います。
じゃあ具体的にどうすればいいのかっていうか
どこまであれば足りるかっていうのを
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先に自分で決めておくことです。
金額ではなくて暮らしの場面で決めます。
体で見分けるっていうことなんですね。
この成功のラベル、結果っていうところに飲まれ始めると
先に毎日の気持ち良さが消えていきます。
飯の味がしないとか、眠りが浅いとか
風呂に入っても何も感じない、仕事してても何も感じない
こうなってきたらもう追い過ぎのサインですね。
頭ではもっとやれる、もっとやらなきゃ
どうすんだここでやんなくてっていう風に言ってきます。
そうやって自分を借り立ててくるんですね、ラベルっていうのは。
自分の体とか体験、幸福を感じる体験っていうものは
無視されていってしまう。だから当てにならないんです。
どんどんどんどん
道具に借り立てられていって、巻き込まれていってしまいます。
つまり楽しい、気持ちいい、嬉しい、もっとやりたい
その体験についてくる目標だけを追っていくことが
非常に重要なのかなと思うんです。
常にこれをもっと続けていきたい、これをもっとやりたいっていう風に
感じられる、体験できるものの先にある目標
この目標を追っていると、その体験っていうものが立ち上がってくるんだよな
っていうところを一つ目安にするのがいいかなと思うんです。
楽しくもないのに数字だけ追い始めたら
それはもう非常に危ない入り口だと思ってみてください。
こういった意味で成功っていう言葉を一旦軽蔑して
試みをしてみようということなんですね。
体験の方に浸りきってみてほしいんです。
僕は実際今そうやって暮らしています。
仕事もそうですね。
治療っていう仕事は多分お金をもらえなくてもやると思います。
もらえなくても喜んでくれている人がいる限り
人との関わりの形として多分僕はこの仕事を辞めないと思うんですね。
もちろん生活のために経済的なものっていうのは必要だと思います。
僕もそうだからね。
ただその必要というのも大きくはありません。
飯が食えて、友人たちが住んでいるこの生活系の中で
流行っている食べ物とか服とか音楽
みんなが体験しているものを僕もやっぱり体験したいからさ。
その中にいられる環境というものがあれば足りると思っています。
極端に言ったら僕が資産数十億とか数百億とかあったら
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多分施術料とかもらわなくても
この仕事というかなりわえて多分すると思うんですね。
そこまでじゃないからちゃんとお金いただいて今の仕事やってますけど
多分続けると思います。
実際昔からの友達には治療してほしい肩凝ってきたとか
こういうのやってとかって言われた時はいいよって
その他に飯を持ってっていう風に言ったりします。
お金もらうっていうのが自分の中ですごく
友人っていう関係性の中ではすごく抵抗があって
よくプロなんだからちゃんとお金はいただかなきゃいけないよ
みたいに言うじゃないですか。
プロって何なんだろうなみたいな。
プロである前に僕一人の人間であって
そいつの友達なわけなんですよね。
だからこうある種経済的な価値の交換の関係っていうものに
友達を落とし込みたくないんですよね。
友人は友人でありたいなと思うからこそ。
思えば治療科として駆け出しの頃に
実験台になってくれたのは友達だったし
あの時僕は友人に体を貸してもらってました。
友達も恐怖や痛みっていうのを我慢しながら
僕に答えてくれていたわけで
あれってどう考えても
僕が友達にお金を払ったわけじゃないし
その関係の続きなのかなって思うんですね。
すごく子供同士の関係性に似ているのかなと思うわけです。
実はソマティックスタジオの活動だったり
このポッドキャストだったりっていうのも
僕の中では同じ場所にあります。
クライアントを持ってたり
体のことを学びたかったりっていうような人たちと
専門的でマニアックな話の文脈を揃えて交流すると。
真ん中にあるのはこういった
お金の交換とか引き換え権の交換ではなくて
この交流そのものですよね。
だから点数で見れば地味な毎日かもしれません。
でもそれでも楽しいんですよね。
体験としては満たされた毎日っていうものを過ごせている。
ロックスターにはなれなかったけど
憧れたあの人たちが体験してたその体験っていうものより
毎日触れている気がするんです。
夢中になって音があっているとか
夢中になっていろんな方とコミュニケーションを取っている
それでも頭で考えると
もっとちゃんと成功したいっていうものが出てきたりするんですよね。
もちろん悪いことばっかりじゃないよそれは。
またいろんな体験の幅を広げてくれるきっかけではあるんだろうが
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その度に体験の方へしっかり戻ります。
このタイトルっていうのは自分に向けても書いているんですね。
じゃないとその目標とか
成功っていうラベルの方に引っ張られて
自分の体験が消えていってしまうっていうようなことを
自分でも感じているからなんですよ。
実はこれっていうのは今若い人たちにも届いてほしい話なんですね。
僕はもう今年35になったので
ちょうどねサポーターの方だったり
私塾の方たちの中にも激盛んな若い方っていらっしゃいます。
クライアントの方でもいたりする。
僕よりも下の世代の方っていうのは
僕らの頃よりもずっと数字に囲まれて育っていると思うんです。
テストの点とか偏差値とかフォロワー
SNSがあるからさ
フォロワー数とかいいね
再生数っていうのがさ
もう生まれた時とか物心ついた時からあるじゃないですか。
点数だらけの世界ですよね。
夢中になれるものが見つからないっていう風に言う若い方が多いっていうのは
本人のせいじゃなくて
夢中になれるかどうかっていうその体験よりも先に
点数っていうものが可視化されてきてしまっているからかもしれないなって思うわけなんですよ。
何がしたいかっていうのはリストを眺めても出てこないんですよね。
これが、この職がいいかもな。
こういう収入を得られるのか。
こういう生活ができるのか。
休み結構多いなみたいな。
でもね、体験じゃないですか。
仕事をする、生きることっていうのは
応募要項には載ってこない
その体験っていうのはそれぞれの仕事の中にあるはずで
この体験のところを意図的にやっぱりこう
今の若い方は特に感じていく、体験していく
そこに意図的に意識を向けていくっていう必要があるんじゃないかなって思うわけです。
転職するとか自分のキャリア見直すみたいな僕ら世代
もっと上の世代の方たちも同じことが言えると思うんですね。
いろんな話をちょっと今日の中でしていきましたけど
自分が何がしたいかっていうのは
リストを眺めても出てこないわけです。
成功っていうものを追ってもなかなか出てこないんですよね。
体験の中から立ち上がってくる。
だから皆さんが今日今まで感じていた、思っていた
その成功っていうものの中には
どんな体験が隠れているのか
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ここを指標に常々感じながら、感じようとしながら
この成功を追っていく必要があるんじゃないかなと思ったわけなんです。
だからこそ俗に言う成功みたいなラベルを
一旦軽蔑してみようよっていうことをお伝えしたかったんですね。
成功っていうラベルを張り間違えたまま
いろいろ苦しい思いをしたので
これが必要なものなのかもしれないけれども
もっとね、こんな遠回りしなくても
もっと楽しいな嬉しいなの体験の中で生きていくこと
多分できると思うんでね。
こういう話が誰かに届いてくれたら嬉しいなと思いながら
今日のお話を終わりにしたいと思います。
ということで、身体の教養ラジオ、今日ものんべんだらりといきましょう。
聞いていただければ幸いです。