で、この人は言っていた、絶望を知らないからそういうクズな行為をするんだっていう、絶望っていうことについてまずちょっと考えてみたんですね。
絶望って、一つは想像なんですよ。
意味としてはさ、絶望ってなんとなく雰囲気としてはね、暗くて、重たくて、もうそれを避けたいんですよね、できれば、そういうイメージがあると思います。
だけどよく考えてみると、絶望っていうのは何かを想像する行為なんですよ。
これはもうどうにもならないぞとか、ここから先はもう望めないぞとか、あの未来はもうないんだっていうな、そういう想像をすることも一つの絶望、絶望の一つですよね。
じゃあその想像っていうのはどこから来るのかというと、その人自身が、僕ら一人一人がこれまでの経験とか体験というものを基盤にして初めてできるものなんですよ。
色を見たことがない人に色は想像できないし、痛みを知らない人に痛みは想像できないわけです。
パクチー食べたことない人にさ、パクチーの100倍くらいの香りだったよって言っても全然ピンとこないじゃないですか。
それと同じなんだと思うんですよね。つまり、絶望っていうのは二つの層があるんだと思うんです。
一つは自分自身の体に直接起きた、個人的な絶望の体験です。
例えばこれ僕の体験で言うと、子供の頃に親父と遊んでた時ですね。
別に怒られたりとか暴力を挙げられたことは一切ないんだけど、
普通に例えば親父の腕にぶら下がったりとかしてた、そういう遊びをしてくれてたんですよね。
親父の手にぶら下がると、体験したことないスピードで上にギューンって上がるっていうようなことが起きるわけです。
最初は面白いからキャッキャッキャッキャッってやってるんだけど、だんだん怖くなってきて、
親父もだんだん楽しくなってくるのかな、わからないけど、グワンとかって急に上げられるんだよね。
そうすると、もうどうしようもない。
その時はね、本当多分3歳とか5歳、もっとちっちゃいよねきっと、
その頃だからさ、死ぬとかそんなこと想像できるわけないんですよ。
こうなったら頭打って死んじゃうとかは考えてないですよね。
だからもう言語以前の、言葉になる前のその恐怖、絶望的な体験だったのかなと思うんですよ。
あっ、やばい、みたいなね。
その時の感覚っていうのも一つ絶望だし、
あとは僕、若い時にスノーボードとかを友達とかと一緒にしてたんですけど、
すっごい吹雪の日とかにさ、もうしこたま滑り倒して、
午後ご飯食べた後とかに上行って、頂上の一番高いところとかに行くとさ、
空気も違くて、めちゃめちゃ寒かったり、めちゃくちゃ吹雪てたりとかするわけです。
クタクタの体で、もう疲労困憊の体で、
体も寒いし、雪も吹雪てて前も見えない。
で、上の方に行くとさ、上級者向けコースとかあるじゃないですか。
デコボコで、たぶんスキヤーとかが滑るためのコースなんだろうけど、
面白半分でね、友達とかと一緒に行くんですよね。
こうするともう、体も動かない、寒い、
あ、もうこのまま下まで戻れない、戻りたくない、
っていう、身体的なそれこそまた絶望が底にもあるわけです。
で、同じように僕サーフィンもね、ほんと3回くらいかな、だけ行ったことあるんですよ。
友達に誘われて一緒に行って、やってみようかなーって言って行ったんですけど、
最初はさ、まあ難しいなーくらいでやってるんだけど、
波に襲われたとき、何ミリ飲まれたとき、
もう体が全く自由に効かないというか、上か下かも分かんなくなっちゃうんですよね。
で、分かんないまま波にドーンって飲み込まれてブクブクブクブクって、
水の中でブクブクしか聞こえない状態で、
波の中で振り回されて、
あの、砂底、海底の方に頭ゴチンってぶつけてるような体験。
で、慌ててブワーって出てきて、
ああ、死ぬかと思った、みたいな体験。
波に飲まれたときってもうほんと絶望的なんですよね。
どうしようもなくなるっていう。
なんかこういった個人的な、
自分の体を通して感じた、そういう絶望の体験。
これってこういう状況で、状況でこういうんだったから、
こんなんだったんだよ、とかって説明いくらしても、
そのときの体験っていうのは人になかなか伝わらないと思うんです。
同じような体験をしている人がいれば、
ああ、あんな感じかっていうふうに想像できるけどさ。
これが一つの絶望の層ですよね。
身体的な、個人的な経験、体験。
で、もう一つは、そこからそれを基盤にした、
それを想像で広げた、想像の絶望です。
大きな絶望。
例えば、世界が大変なことになっちゃうとか、
他人が、他者が苦しんでいる、家族が、友達が、
もしくは未来の絶望。
未来はこうなっていっちゃうかもしれない。
ご飯が食べれなくなっちゃうかも。
どんどん暑くなっていっちゃうかも。
どんどん寒くなっていっちゃうかも。
それから社会全体が抱える絶望とかね。
10年後はどうなっているかわかんない。
仕事も、今の仕事がもうなくなっちゃっているかも。
これだって、直接は体験できないんですよね。
温暖化で海底が変わった、食べ物が食べられなくなって、
飢餓に見舞われた、みたいなのって想像はできるけど、
本当にその状態を体験できるわけではないじゃないですか。
つまりこれ、何に対して僕らは、
それを絶望かを感じているかというと、恐怖心を感じているかというと、
個人的な今までに経験してきた身体経験というのを基盤にして、
想像で広げることなんですよね。
こうすることで初めてこの絶望に触れることができるようになる。
つまり、個人的な身体、体を通して感じた、
個人的な絶望の経験というものが基盤になければ、
想像で広げたその大きな絶望というものは、おかしなことになっちゃうんですよ。
こういうのを言語学とかの中で記号設置論といったりするんですけど、
ちょっとこの話は長くなっちゃうから、
おかしなことになるというのは何となくわかるかなと思うんです。
絶望が足りないというのは、
その人が経験不足だからという個人の責任では全くないんですよ。
絶望が足りないというのは二つの層で起きている。
一つはそもそもその絶望の体験を得られなかった。
そういう機会に恵まれなかった。
子供が木に登れないとか、木登っててさ、
うわー高い、やばい怖い、みたいなのを経験した方も多いと思うんですよ。
川で泳ぐみたいなものね。
それこそ僕も波で飲まれたように泳いだら、
あ、やばいこれ戻れないかも。
足滑らせてドボンってなっちゃって、
一瞬溺れそうになるみたいなあの怖い感じ。
それから火を焚かなかったり、本気の退治が許されない、
喧嘩っていうものも早めに止められちゃったりとか、
そもそも喧嘩みたいなのダメよって言われちゃったりとかね。
危険を社会が許容しないんですよね。
リスク管理だ、何が起きるか分かんないから。
っていう名の下にこういった絶望を感じる体験そのものっていうのが
構造的に排除されているっていうのが
一つ背景としてあるんじゃないかなと思うんです。
これはすごく難しい問題だと思うんですよ。
自分、我が子がそういう危険な川で遊びに行ってくるなんて言ったら
すっごい心配ですよやっぱり。
心配だけれども、
それを自分が経験してきた
あの体験っていうものをしないままごとになったら
この子たちはどうなるんだろうとか
っていうのもやっぱり考えたりしますよね。
ちょっと話すのちょっとごめんなさい。
そしてもう一つです。
体験はあった、同じようにそういう恐怖を感じた経験はあったけれども、
それが身体不合理として固まるものになってしまった。
どういうことかというと、経験というのは常に沈殿していきます。
体に沈殿していくっていう考え方をします。
だけどその体に沈殿する仕方っていうのが二通りあって、
一つは身体合理性を保ったものを染み込んでいく。
要はね、経験はしたけれども
怖い思いした、川で怖い思いしたけど
家に帰って普通に風呂入ってご飯食べて
わちゃわちゃやってたら
体もだんだんほぐれてきますよね、リラックスして。
そうした時に体もちゃんとほぐれてくれれば
あの川で感じた恐怖的なその体の小暴りみたいなものは
だんだん溶けていくんですよ。
だから思い出せるんだよね、その時の恐怖に飲み込まれずに。
なんだけどもう一通りの方が
その体の小暴りっていうのがなかなか取れない。
その小暴りのまま、防御した体の状態のまま
また日常が続いていくっていうことなんです。
そうすると、その川で得た怖い体験で小暴った体、
その小暴った体でいろんなものを新しく経験していくわけだ。
なんかいろんなものが怖く感じると思いません?
いろんなものに対してさらに防御しちゃうと思いませんか?
こんなふうに体に残ってしまったりすると。
さらにこれを引き起こすのが
身体性っていうそういった体の感覚みたいなものを
効率化の名の下に排除するっていう社会の共通現象です。
成果が優先とか最適化が必要である、効率化もそうだ。
それから常に努力し続けなさい。高みを目指しなさい。
高みってどこやねんっていう話なんだけどね。
でも当たり前にやっぱそうあるべきなんだよなっていうのが
やっぱすり込まれている気もするんです、僕らに。
だからこういった価値観の中では
自分をほどかせるタイミングっていうのが
なかなか社会に用意されてないんですよね。
これを用意していこうっていうのが
多分昨今のウェルネスのある種のブームというか
そういう時代の巻き戻し感みたいなものもあるんだとは思うんですけどね。
ここまでの話をまとめると
絶望が足りないからクズになっちゃう。
人のせいにしちゃうんだ、多色化しちゃうんだ、みたいなのは
一つはそういう経験を絶望っていう
身体的な絶望という経験を得る機会がなかった。
もしくは経験したんだけど
それをきっかけに身体が壊れてしまって
そのまま残り続けているっていうような状態。
しかもどちらも社会構造に深く関わっている話でもあるわけなんです。
あなたが絶望を知らないからだっていう一見で
冒頭何言ってんだこいつって思った方もいるかもしれない。
ある種、それを聞いた人に責任を押し付けるような
言葉に聞こえたものが全く違く聞こえてくると思うんです。
しょうがないんだよっていうことなんですよね。
現状としてこうなっているっていうだけなんだと。
じゃあなぜ僕たちっていうのは外代わり悪者を立てるのかっていう話に入っていきましょう。
身体でその絶望感っていうものを思い出せない人っていうのは
感じたことがないっていう人は
そういう方にとっても苦しみっていうのは確かにあるわけです。
絶望感っていうのはあるわけだ。
だけどその怖い感じ苦しみ絶望感っていうのを
身体で認識することができない。
感じ切ることができないんですよね。
身体性が薄まっていると
言語以前のレベルで
これなんだ、これがしんどいんだ、怖いんだ、絶望だっていう
そういった情動っていうものを確信することができない。
体がこう感じているっていうある種の確信みたいなもの
記号設置論でいうその設置している場所がわからないんですよね。
これでちょっと話がまたそれちゃうんですけど
ちょっと具体的なものがなさすぎてうろうぶな話で申し訳ないんだけど
脳のね、そういった自分の身体感覚を司っている領域があるんですよ。
その身体感覚の領域だけを
事故で欠損してしまったっていう患者がいたっていう経験があるんですね。
体の感覚っていうものが欠損している。
感じられないわけ、体を。動かせるけど。
だけど、普段は僕らに意識しないような
心臓がどれだけ迫動しているぞとか
ああ、ほっとするみたいな
そういうない需要感覚に含まれるものっていうのが感じられない。
でも計算とか普通にできるんですって、その方は。
だから脳の領域でいうと全然違うところらしいんだけど
計算問題出されれば完璧に解けると。
与えられたものはこなせるんだけれど
じゃああなたはどれを選びますかって言われた時に
選べないんですって。決められない。
つまりこうしたいっていうある種の
自分の欲求みたいなものが分からないから
そうなると決められないんだそうなんですよね。
で、何の話したんだっけ。
そうそう、そういう風にこう
自分の体に根差していない
絶望が足りないっていうのは経験が得られなかったか
もしくはその経験によって体が固まってしまったがゆえに
感じられないからだ。
ちょっと話戻りすぎちゃった。ごめんなさい。なんか今日
なんか調子来るな。調子悪いな。ごめんなさい。聞きづらくて。
体に絶望が降りていないっていう人にとっては苦しみは確かにあると。
だけどその苦しみを体で感じることができないんですよね。
体をこうだっていう風に感じられなければ
僕らは確信っていうのが得られないっていうメカニズムに
どうやらなっているようなんですよ。
確信できないものっていうのは
頭で分かった気になるしかないんですよね。
だから記号が欲しくなるんですよ。
記号っていうのはあいつのせいだとか
あの世代がきっと原因だとか
これは陰謀に違いないみたいな
こういった記号っていうのは体験ではないんですよ。
記号で踊っているだけなんですよね。
分からない苦しみっていうものに名前を与えてくれるわけです。
こういう風にすることで。
一瞬分かった気になれるんですよね。
少しだけ息ができる。
つまりこれって
こういった人たち、当人にとっては本人にとっては
この記号は藁みたいなもんなんです。
藁にもすがる思いでその記号を掴んでいるんですよね。
他に思い当たる理由がない。感じられるもの。
ここに答えがあるのに感じられないから
外ばっかりを探していってしまうわけだ。
体っていうのを感じられない。
それを知らないか忘れているってことですよね。
つまりこういったクズな考え方とか行為とか行いっていうのは
愚かさっていうふうにもちろん言えるのかもしれないけど
言い換えれば必死さなんですよね。
必死なんです。
藁にもすがるその手っていうのは
だからこそ責められないものなのかなと思うんですよ。
よくあるじゃないですか。
何か事故を起こしちゃった。
何か事件を起こしちゃった。
何々中毒になってしまって
逮捕されたみたいなね。
もちろん一概に全部それが
責めるべきではないって言わないんですけど
多くの場合やっぱりそういう原因があるわけですよね。
その原因を作ってるっていうのは
この同じ社会を構成している僕ら一人一人にも
原因があるって言えばあるのかなって思えるわけなんです。
最近もありましたよね。あのバスの事件とかさ。
あれでもすごい叩かれたりするじゃん。
いやでも自分の子供がやっぱりああいう事件で
もし亡くなったりなんかしてしまったらね。
そりゃもう怒りも湧くだろうし
絶望感もあるだろうし悲しみもあるだろうし
もうごちゃごちゃだと思うんです。
なんだけどそれはそれだし
っていう風に2つだよなって思うんですよね。
だけどこれをさ、歪症化して
運転手が悪いのだ。
責任を作らなきゃいけないからさ、今の社会の構造の中でもね。
誰かが責任を取るっていうものが
資本主義の中心なのかな、それが。
資本を持つっていうのは責任を持つことでもあるのかもしれないね。
だから構造上そうなるものだとは思うんですけど
その法的なものとその構造的なものっていうのと
一方じゃあ人としてみたいなところは分けて考える必要があるのか。
そしてまた構造っていうものも
少しずつ変えていかなければいけないんだろうなっていう風に思ったりするわけなんです。
ちょっと話し広がっちゃったけど。
このね、藁を掴む動き。
きっとこれが悪いんだ、みたいになる。
必死な顔に見えてきませんか、皆さんも。
そういうクズな行為をしてしまうっていう人のその手を。
意地悪な顔してやってるわけじゃないんだよね。
ああ、ああ、って必死にそれを掴むわけだ。
この行為っていうのは
一人でに止まらない構造の中に組み込まれているんですよ。
体が身体不合理になって固まってしまった体っていうのは
そこから抜け出しにくいループに入っていきます。
体が感じられないから自分の感覚を頼りには判断ができない。
そうすると外側の建設、最近だとやっぱりSNSとかニュースとかね、
人によっては新聞だったりとか
週刊新聴とか、週刊文集が好きな人とかもいるかもしれないね。
ある特定のメディアをすごい信頼してるって人もいるかもしれない。
そういうものを参照するわけです。
外側のそういった建設っていうのは
やっぱり煽るように作られてるわけです。ビジネスだからね。
やっぱりいろんな人に目を止めてもらわなきゃいけないから
強みに煽る方に行くわけです、不安をね。
そうするとそれに巻き上げられる、感情が煽られる。
煽られた感情っていうのは誰かを吊るし上げる方向に
そのメディアが指し示した方向に向かっていってしまうわけです。
吊るし上げる側に回る時もあれば、そうじゃない時もあるよね。
反対側の時もあるかもしれない。
体を感じられないので記号レベルの効益っていうものが
直接自己存在感っていうものを脅かすわけです。
その防御としてもっと強く主張する。
いいえ、こうなんですとか。
論理破綻してるみたいなことも結構強みであったりとかあるじゃないですか。
もっと正しく言うとかね、もしくは論理で完全に武装するみたいな。
いやいや、あなたの言ってることわかるけど、
人としてそれはどうなの?みたいなのもやっぱりあったりするでしょ。
そういう記号レベルの応戦、戦争みたいになってくるんですよ。
どっちが正しいか。
どっちが最もらしいか。
どっちが論破できるか。
だけどさ、これまでも話したように
体の実感に根差してなければ、まともな交流っていうのは難しいわけだ。
疲労するよね、疲れる。
そして疲弊したその果てには、外向きに強弾していたエネルギー。
元気なうちはいいよね。やってるけど、だんだんとふーんって入っていく。
そしたら外は相手にできないから、何も残んなくなっちゃうんだよね。
感じられる自分っていうものもないし、
外と関わるようなパワーもないし、外を攻撃するパワーもないから
結果的に自分が傷ついていく、しんどくなっていく、処分をしていく。
そうやって人によっては、いろんなことを考え込んでしまったり
しかも自分の中だけでね、自分の頭の中だけで
体験から切り離された自分の頭の中でいろんなものを考えていってしまって
自己否定に転じてしまう。
これが自滅的な鬱化です。
自分で勝手に鬱になっていってしまうわけだ。
この鬱っていうのはあれだよ。
医学的な鬱病の規定とはちょっと違うかもしれないけど
鬱々とした気持ちになっていってしまいますよね。
そうやって鬱化した精神、体っていうのは
精神が鬱化しているってことは体も鬱化しているわけだ。
体が固まっているよね。
さらに感覚を遮断していくわけです。
どんどんまた感じなくなっていく。
身体性がどんどんどんどん失われていく。
こんなふうにループが回っていくんです。
このスパイラルの中にいる方、そういった方が
そんなことを責められるかっていうとやっぱり責められないですよね、なかなかね。
外向きには藁を掴んで誰かを拒断している、誰かを批判しているけど
内向きにはナラティブとして絶望を反するしている。
だけど体はどっちの場面でも
絶望、個人的なその絶望の体験
絶望だけじゃなくてもね、他のこう
ものすべて
体に根差したその体験として通ってない。
これが
体が不合理な状態にいっている、身体不合理のスパイラルの中にいる
人の典型的な姿なんじゃないかなと
思うわけなんです。