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自己愛が歪むと、人は差別したくなる?|陰謀論者と他責思考は藁をも掴む
2026-05-13 52:13

自己愛が歪むと、人は差別したくなる?|陰謀論者と他責思考は藁をも掴む

「あの人のせいだ」「中国人のせいだ」「あの世代のせいだ」── SNSを開けば一日中、誰かが誰かを糾弾している。気づくと自分も巻き上げられて、傷ついて、なんだか疲れている。

なぜ、人は誰かを悪者にしたくなるのか。



最近、こんな言葉を聞きました。「絶望を知らないからクズになる。だから誰かのせいにしたくなる」と。

確かに一理あります。けれど、深く考えてみると、見えてくるものがありました。

絶望って、「想像」でもあります。

想像は、これまでの経験や体験を基盤にして初めてできるもの。自分の身体で絶望を感じたことがなければ、世界の絶望や他者の苦しみを想像できるわけがない。だから、差別の向こうで誰がどんな痛みを感じるかも想像できない。


かといって、その痛みを思い出すこともできない。

代わりに、「あいつのせいだ」「陰謀だ」という記号を、藁にもすがる思いで掴む。── 自己愛が歪んだ時、人はこの「藁」を本気で握りしめます。


自信満々だった人も、人生の疲弊の中で自己愛が歪むと、「〇〇のせい」が止まらなくなる。



このエピソードでは:

・なぜ「絶望を知らない人」が藁にすがるのか
・身体的な絶望体験(父との対峙、雪山、波)が想像の基盤になる仕組み
・「絶望が足りない」を生む2つの社会構造(危険を排除する社会/効率化を強いる社会)
・ブッダの「苦は遍く知られるべし」が、なぜ身体に降りる話なのか
・健全な希望は、絶望を知った身体に立ち上がる

を、丁寧に語ります。

「あの人のせい」と言いたくなった時、身体は何を伝えているのか。一緒に考えてみませんか。


参考文献:『初転法輪経(相応部 SN 56.11)』、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、養老孟司『唯脳論』、ハン・ビョンチョル『疲労社会』、増谷文雄/梅原猛『仏教の思想10 絶望と歓喜〈親鸞〉』

感想

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サマリー

このエピソードでは、SNSなどで誰かを悪者にしたり、他人のせいにしたりする心理について掘り下げています。その根源には「絶望を知らない」ことがあり、身体的な絶望体験の欠如が、他者への想像力や共感力を低下させ、陰謀論や他責思考に陥りやすくさせると解説されています。絶望体験は、個人的な身体感覚に根差したものであり、それが想像力の基盤となります。現代社会では、危険を排除する社会や効率化を強いる社会構造により、こうした身体的な絶望体験を得る機会が失われがちです。仏教の教えにも触れながら、苦しみを知ることは、概念ではなく身体レベルで感じることの重要性を説いています。最終的に、他者を責めるのではなく、自身の身体感覚に意識を向け、他者の「藁にもすがる思い」を理解することが、より健全な関係性を築く鍵となると結論づけています。

なぜ人は誰かを悪者にしたくなるのか
なんかね、最近、SNSをこう見てて、思うことがあったんですよね。
毎日誰かが誰かを強断している、女が悪いんだとか、男が悪いんだとか、
いや中国人が、あの世代が、あの政党が悪い、きっと陰謀があるで違いない、みたいな。
なんかそういうね、何かを悪者に立てる。
そういった悪者に立てたような言葉が流れてきて、一緒になってそれにこうさ巻き上げられて、吊るし上げる側に回ったりとか。
そうしているうちにさ、その人も気づけば、傷ついてしまって、自滅的にめいってしまっている、みたいなことがあったりする気がするんですよね。
なんでこんな風に人っていうのは何かを悪者にしたくなるんだろうなと思ったんです。
なんかふと振り返った時もさ、自分も子供の頃とかに叱られた時にさ、
いやだってーとか、これがあーだったからーみたいなことを、ちゃんとした反論じゃないんだよね。
もう明らかにヘリクツだって自分でも言いながらわかってたことがあったりもしました。
そういうことがあるとさ、やっぱ親にヘリクツ言うなとか、言い訳するなとかってよく怒られてたけど、
なんでかわかんないけどヘリクツ出てくるよね。子供の頃、大人になればそういうのがダメだっていうのがわかってくるから。
もちろん人を気づけてしまったりとか、まともに話し合いができなくなっちゃうからさ。
そりゃヘリクツ言われると困っちゃうなーっていうのはわかるんだけども、なんでかわかんないけどそういう自己保身的なことをとってしまう。
なんでこんなふうに誰かを、何かを、僕ら悪者に従うんだろうと思ったんですよ。
「絶望を知らない」ことが他責思考を生むメカニズム
それでね、いろいろこう調べていたときに、この尊敬する方が、
誰かのせいにしたくなるっていうのは、絶望を知らないからなんだっていうふうに言っていたんです。絶望を知らないから。
それを聞いたときに、確かに一理あるかもしれないと思って、いろいろ調べてみました。
僕なりのちょっと言葉に変えて、今日はそれを皆さんに共有したいと思います。
この絶望を知らないから誰かのせいにしたくなるっていうのは、
要はさ、これを僕が尊敬する方が言ってたのは、誰かのせいにするような行為っていうのはクズだっていうふうに言ってたんですよ。
結構強めの言葉で批判をしていたんですよね。
ただ、そのクズっていうのは、ちょっと言葉を変えれば、
なさけないとか、しゃばいっていう言葉が僕すごいピンとくるんですけど、
あんまりイケてないじゃないですか、人としてね。
だけど、そういうクズな行いをするっていうのは、あくまでクズな考えとかクズな行為であって、
人っていうのはさ、常に移り変わっていくものだから、ずっとクズなやつっていうのはそうそういないはずなんですよね。
たまたま周りの環境とは変わんないで固定化されてて、その人がクズなそういう振る舞いをしてしまうというだけで、
いかようにもやっぱ環境だったりとか、心が変わったり体が変わったりということで、いくらでも変わるんですよ人って。
だから、ここで言うね、そのクズみたいに言ってるものは、固定化された属性ではないと。
ちょっと強く言っておきたいと思います。
ある状況に置かれたときに、その人の中で一時的に立ち上がってしまっている状態、人格なんですよね。
だから、誰かをそのクズの人を、クズな行為をする人のことを批判したいわけじゃなくて、攻撃したいわけじゃなくて、
なんで僕らって、なんでそれが立ち上がってしまうのか、っていうことを今回話したいんですよ。
思えばさ、だから最初に話したように、僕の中にもそういうクズのくすぶっている火っていうのがあるわけなんだよね。
で、きっとそれって誰しもにあると思うんです。
誰しもにあるものがあるものだからこそ、それがなぜ立ち上がってくるのか、
そのクズの小さな炎っていうのが何で立ち上がってくるのかっていうのを構造としてちょっと考えていきたいんです。
絶望体験の二つの層:個人的体験と想像の絶望
で、この人は言っていた、絶望を知らないからそういうクズな行為をするんだっていう、絶望っていうことについてまずちょっと考えてみたんですね。
絶望って、一つは想像なんですよ。
意味としてはさ、絶望ってなんとなく雰囲気としてはね、暗くて、重たくて、もうそれを避けたいんですよね、できれば、そういうイメージがあると思います。
だけどよく考えてみると、絶望っていうのは何かを想像する行為なんですよ。
これはもうどうにもならないぞとか、ここから先はもう望めないぞとか、あの未来はもうないんだっていうな、そういう想像をすることも一つの絶望、絶望の一つですよね。
じゃあその想像っていうのはどこから来るのかというと、その人自身が、僕ら一人一人がこれまでの経験とか体験というものを基盤にして初めてできるものなんですよ。
色を見たことがない人に色は想像できないし、痛みを知らない人に痛みは想像できないわけです。
パクチー食べたことない人にさ、パクチーの100倍くらいの香りだったよって言っても全然ピンとこないじゃないですか。
それと同じなんだと思うんですよね。つまり、絶望っていうのは二つの層があるんだと思うんです。
一つは自分自身の体に直接起きた、個人的な絶望の体験です。
例えばこれ僕の体験で言うと、子供の頃に親父と遊んでた時ですね。
別に怒られたりとか暴力を挙げられたことは一切ないんだけど、
普通に例えば親父の腕にぶら下がったりとかしてた、そういう遊びをしてくれてたんですよね。
親父の手にぶら下がると、体験したことないスピードで上にギューンって上がるっていうようなことが起きるわけです。
最初は面白いからキャッキャッキャッキャッってやってるんだけど、だんだん怖くなってきて、
親父もだんだん楽しくなってくるのかな、わからないけど、グワンとかって急に上げられるんだよね。
そうすると、もうどうしようもない。
その時はね、本当多分3歳とか5歳、もっとちっちゃいよねきっと、
その頃だからさ、死ぬとかそんなこと想像できるわけないんですよ。
こうなったら頭打って死んじゃうとかは考えてないですよね。
だからもう言語以前の、言葉になる前のその恐怖、絶望的な体験だったのかなと思うんですよ。
あっ、やばい、みたいなね。
その時の感覚っていうのも一つ絶望だし、
あとは僕、若い時にスノーボードとかを友達とかと一緒にしてたんですけど、
すっごい吹雪の日とかにさ、もうしこたま滑り倒して、
午後ご飯食べた後とかに上行って、頂上の一番高いところとかに行くとさ、
空気も違くて、めちゃめちゃ寒かったり、めちゃくちゃ吹雪てたりとかするわけです。
クタクタの体で、もう疲労困憊の体で、
体も寒いし、雪も吹雪てて前も見えない。
で、上の方に行くとさ、上級者向けコースとかあるじゃないですか。
デコボコで、たぶんスキヤーとかが滑るためのコースなんだろうけど、
面白半分でね、友達とかと一緒に行くんですよね。
こうするともう、体も動かない、寒い、
あ、もうこのまま下まで戻れない、戻りたくない、
っていう、身体的なそれこそまた絶望が底にもあるわけです。
で、同じように僕サーフィンもね、ほんと3回くらいかな、だけ行ったことあるんですよ。
友達に誘われて一緒に行って、やってみようかなーって言って行ったんですけど、
最初はさ、まあ難しいなーくらいでやってるんだけど、
波に襲われたとき、何ミリ飲まれたとき、
もう体が全く自由に効かないというか、上か下かも分かんなくなっちゃうんですよね。
で、分かんないまま波にドーンって飲み込まれてブクブクブクブクって、
水の中でブクブクしか聞こえない状態で、
波の中で振り回されて、
あの、砂底、海底の方に頭ゴチンってぶつけてるような体験。
で、慌ててブワーって出てきて、
ああ、死ぬかと思った、みたいな体験。
波に飲まれたときってもうほんと絶望的なんですよね。
どうしようもなくなるっていう。
なんかこういった個人的な、
自分の体を通して感じた、そういう絶望の体験。
これってこういう状況で、状況でこういうんだったから、
こんなんだったんだよ、とかって説明いくらしても、
そのときの体験っていうのは人になかなか伝わらないと思うんです。
同じような体験をしている人がいれば、
ああ、あんな感じかっていうふうに想像できるけどさ。
これが一つの絶望の層ですよね。
身体的な、個人的な経験、体験。
で、もう一つは、そこからそれを基盤にした、
それを想像で広げた、想像の絶望です。
大きな絶望。
例えば、世界が大変なことになっちゃうとか、
他人が、他者が苦しんでいる、家族が、友達が、
もしくは未来の絶望。
未来はこうなっていっちゃうかもしれない。
ご飯が食べれなくなっちゃうかも。
どんどん暑くなっていっちゃうかも。
どんどん寒くなっていっちゃうかも。
それから社会全体が抱える絶望とかね。
10年後はどうなっているかわかんない。
仕事も、今の仕事がもうなくなっちゃっているかも。
これだって、直接は体験できないんですよね。
温暖化で海底が変わった、食べ物が食べられなくなって、
飢餓に見舞われた、みたいなのって想像はできるけど、
本当にその状態を体験できるわけではないじゃないですか。
つまりこれ、何に対して僕らは、
それを絶望かを感じているかというと、恐怖心を感じているかというと、
個人的な今までに経験してきた身体経験というのを基盤にして、
想像で広げることなんですよね。
こうすることで初めてこの絶望に触れることができるようになる。
つまり、個人的な身体、体を通して感じた、
個人的な絶望の経験というものが基盤になければ、
想像で広げたその大きな絶望というものは、おかしなことになっちゃうんですよ。
こういうのを言語学とかの中で記号設置論といったりするんですけど、
ちょっとこの話は長くなっちゃうから、
おかしなことになるというのは何となくわかるかなと思うんです。
身体感覚の重要性:記憶と共感の基盤
体に、実際体を通して感じたその体験に、
実際に降りていかない状態だけだと、
ずっとそれがナラティブ思考の方で回っていっちゃうんですよ。
AIとかLLFみたいなものですよね。
これってこうなの?ああなの?って聞いていったら、
もう一生終わりがないわけなんですよ。
どこに帰着させるかというのは、
僕らの身体、身体経験のところに根差さなければ、
永遠に記号の操作で終わっちゃうからなんですよね。
だから、世界はこうだ、みんなが間違ってるっていう風に、
頭の中で物語が組み上がるんだけど、
自分の体はその絶望というものを思い出せない状態にあると、
あることないこと、いろんなものが湧き出てくる。
湧き出てきてしまう。
そして同じように、敵に回っている、
仮想的に回っている側の人の感覚っていうのを
同じように思い出せないので、
どんどんどんどんこういった、
他者を敵にするようなスタイルっていうのは、
続いていってしまうのかなと思ったんですよね。
僕がさっき話した、
父親との圧倒的な力っていうものを感じた経験とか、
雪山スノーボス行ったときに感じたものとか、
サーフィンして波に飲まれたときの怖さとか、
こういったものっていうのは客観的な状況だけでなくて、
体験そのものの絶望とか恐怖心なわけなんですよ。
親父の力が怖かったとか、
親父の力がすごかったっていう話ではなくて、
あの絶望を感じたときに、
体がもう怖ばって固まっちゃった感じとか、
あるいはもう全く無力になってしまった、
力が全く入らない状態になっちゃった。
それは生き生きとした脱力した状態ではなくて、
もう絶望による体の脱力感ですよね。
虚無感って言ってもいいかな。
同じようにスノーボスしたときとかはそうかもしれないな。
もうほぼ遭難しちゃうんじゃないか。
まあしないんだろうけどさ、ちゃんとしたコースだから。
だけどそういう状態。
遭難しかけた、客観的に言えばね、
しかけたとか、寒いところにいたからとかっていう、
そういう客観的な出来事っていうよりも、
あの時のその虚無感というか絶望感なんですよね。
事実や記憶というものじゃなくて、
感覚そのもの、物理的なその体験そのものなわけです。
これが体に沈殿してる、残ってるから、
あの時の感覚っていうのは体が覚えてるから、
覚えていれば世界が大変なことになっていくよとか、
人の話を聞いた時にこういう風に辛かったみたいなのを聞いた時に、
言葉でそれを整理するだけじゃなくて、
感覚的にそれを想像できているんじゃないかなっていう風に思うわけなんです。
きっと感受性が高いとか、
例えば涙もろいとかね、
そういう一般的な感受性が高い方みたいなのは、
多分その自分の感覚っていうのを引き出しやすい状態にあるんだと思うんですよね。
ありありと、
自分のその悲しい体験というものを、相手の悲しい話を聞いた時に、
体で思い出してる、だから涙が出てきたりとかすると。
もちろんここまで絶望感とか悲しい、ネガティブなものを取り上げたけど、
逆ももちろんありきだと思いますよ。
幸せエピソードを聞いたらさ、
自分のそれを共感するには、
自分の幸せの時の感覚っていうのがありありと思い出されないと、
ああ、いいよねとか、
素敵だね、ゆれましいな、
みたいなのって出てこないと思うんですよね。
やっぱそういった記憶体験というものが体に沈殿してるから、
記憶として残ってるから、
いろんなものを想像することができる。
仏教における「苦を知る」ことの意味
これ実は仏教の中にも、
同じようなことを言ってるものがあったんです。
仏教の中に、これはね、漢字が読めないなこれ。
四体、四経という教えがあるそうなんですよね。
苦しい、集める、滅、満ち。
これを四つの真理だというふうに言ってます。
ちょっとこの辺僕はあんまりちゃんと調べてないので、
ちょっと割愛するんですけど、
ここの中で苦というものは、
よく知られるべしというふうに書いてあるんですよ。
苦しみ、その苦というものは、
一切皆空とかって言ったりしますよね、人生。
生きるというのが苦しいものなんだよというふうに仏陀は言う。
仏陀はずっと最初から一貫して言ってるわけだけど、
現代風にこれを解釈したものって、
人生というのは苦しいんだから、苦しい前提で生きてた方が楽だよ、
みたいな解釈をしたりとかするんですよね。
でも今まで僕が話した、
今日の回で話した内容からすると、
何かちょっと違うんじゃないかというのが出てきたりもするんですよ。
それがね、この苦しいというのを、
感覚のレベルまで落とし込んでいく、
言語以前の状態まで戻して考えていくと、
また違った見え方がするんですよね。
苦を知るべし。
苦しみを知りなさいって言ってるんです、仏陀は。
だけど、ここで言う知るというのは、
人生というのは苦しいんだなという心構えを考えするわけでもなくて、
苦の苦しいの本体にある、
主観的に体験されるその苦しいというものそのものだと思うんですね。
頭の中の概念じゃなくて、体によって感じられるものだから。
肩がこわばる感じとか、胸が詰まる感じとか、
息が浅くハカハカなる感じ、お腹が冷たくなるという感じ。
苦しいというもの、苦というものは、
まずもってこういう体の反応として人間に現れている。
これを、この苦というものを体験レベルで知るというのが、
体の反応を一つずつ感じきりなさいということだと思うんです。
体でその苦しいというものを知りなさい。
じゃあなんでこういうふうにブッダが、
苦を身体レベルでよく知りなさいと言っていたのか、
というところが大事ですよね。
現代社会における「絶望体験の欠如」の構造的要因
絶望が足りないというのは、
その人が経験不足だからという個人の責任では全くないんですよ。
絶望が足りないというのは二つの層で起きている。
一つはそもそもその絶望の体験を得られなかった。
そういう機会に恵まれなかった。
子供が木に登れないとか、木登っててさ、
うわー高い、やばい怖い、みたいなのを経験した方も多いと思うんですよ。
川で泳ぐみたいなものね。
それこそ僕も波で飲まれたように泳いだら、
あ、やばいこれ戻れないかも。
足滑らせてドボンってなっちゃって、
一瞬溺れそうになるみたいなあの怖い感じ。
それから火を焚かなかったり、本気の退治が許されない、
喧嘩っていうものも早めに止められちゃったりとか、
そもそも喧嘩みたいなのダメよって言われちゃったりとかね。
危険を社会が許容しないんですよね。
リスク管理だ、何が起きるか分かんないから。
っていう名の下にこういった絶望を感じる体験そのものっていうのが
構造的に排除されているっていうのが
一つ背景としてあるんじゃないかなと思うんです。
これはすごく難しい問題だと思うんですよ。
自分、我が子がそういう危険な川で遊びに行ってくるなんて言ったら
すっごい心配ですよやっぱり。
心配だけれども、
それを自分が経験してきた
あの体験っていうものをしないままごとになったら
この子たちはどうなるんだろうとか
っていうのもやっぱり考えたりしますよね。
ちょっと話すのちょっとごめんなさい。
そしてもう一つです。
体験はあった、同じようにそういう恐怖を感じた経験はあったけれども、
それが身体不合理として固まるものになってしまった。
どういうことかというと、経験というのは常に沈殿していきます。
体に沈殿していくっていう考え方をします。
だけどその体に沈殿する仕方っていうのが二通りあって、
一つは身体合理性を保ったものを染み込んでいく。
要はね、経験はしたけれども
怖い思いした、川で怖い思いしたけど
家に帰って普通に風呂入ってご飯食べて
わちゃわちゃやってたら
体もだんだんほぐれてきますよね、リラックスして。
そうした時に体もちゃんとほぐれてくれれば
あの川で感じた恐怖的なその体の小暴りみたいなものは
だんだん溶けていくんですよ。
だから思い出せるんだよね、その時の恐怖に飲み込まれずに。
なんだけどもう一通りの方が
その体の小暴りっていうのがなかなか取れない。
その小暴りのまま、防御した体の状態のまま
また日常が続いていくっていうことなんです。
そうすると、その川で得た怖い体験で小暴った体、
その小暴った体でいろんなものを新しく経験していくわけだ。
なんかいろんなものが怖く感じると思いません?
いろんなものに対してさらに防御しちゃうと思いませんか?
こんなふうに体に残ってしまったりすると。
さらにこれを引き起こすのが
身体性っていうそういった体の感覚みたいなものを
効率化の名の下に排除するっていう社会の共通現象です。
成果が優先とか最適化が必要である、効率化もそうだ。
それから常に努力し続けなさい。高みを目指しなさい。
高みってどこやねんっていう話なんだけどね。
でも当たり前にやっぱそうあるべきなんだよなっていうのが
やっぱすり込まれている気もするんです、僕らに。
だからこういった価値観の中では
自分をほどかせるタイミングっていうのが
なかなか社会に用意されてないんですよね。
これを用意していこうっていうのが
多分昨今のウェルネスのある種のブームというか
そういう時代の巻き戻し感みたいなものもあるんだとは思うんですけどね。
ここまでの話をまとめると
絶望が足りないからクズになっちゃう。
人のせいにしちゃうんだ、多色化しちゃうんだ、みたいなのは
一つはそういう経験を絶望っていう
身体的な絶望という経験を得る機会がなかった。
もしくは経験したんだけど
それをきっかけに身体が壊れてしまって
そのまま残り続けているっていうような状態。
しかもどちらも社会構造に深く関わっている話でもあるわけなんです。
あなたが絶望を知らないからだっていう一見で
冒頭何言ってんだこいつって思った方もいるかもしれない。
ある種、それを聞いた人に責任を押し付けるような
言葉に聞こえたものが全く違く聞こえてくると思うんです。
しょうがないんだよっていうことなんですよね。
現状としてこうなっているっていうだけなんだと。
じゃあなぜ僕たちっていうのは外代わり悪者を立てるのかっていう話に入っていきましょう。
身体感覚の欠如が「藁にもすがる」思考を生む理由
身体でその絶望感っていうものを思い出せない人っていうのは
感じたことがないっていう人は
そういう方にとっても苦しみっていうのは確かにあるわけです。
絶望感っていうのはあるわけだ。
だけどその怖い感じ苦しみ絶望感っていうのを
身体で認識することができない。
感じ切ることができないんですよね。
身体性が薄まっていると
言語以前のレベルで
これなんだ、これがしんどいんだ、怖いんだ、絶望だっていう
そういった情動っていうものを確信することができない。
体がこう感じているっていうある種の確信みたいなもの
記号設置論でいうその設置している場所がわからないんですよね。
これでちょっと話がまたそれちゃうんですけど
ちょっと具体的なものがなさすぎてうろうぶな話で申し訳ないんだけど
脳のね、そういった自分の身体感覚を司っている領域があるんですよ。
その身体感覚の領域だけを
事故で欠損してしまったっていう患者がいたっていう経験があるんですね。
体の感覚っていうものが欠損している。
感じられないわけ、体を。動かせるけど。
だけど、普段は僕らに意識しないような
心臓がどれだけ迫動しているぞとか
ああ、ほっとするみたいな
そういうない需要感覚に含まれるものっていうのが感じられない。
でも計算とか普通にできるんですって、その方は。
だから脳の領域でいうと全然違うところらしいんだけど
計算問題出されれば完璧に解けると。
与えられたものはこなせるんだけれど
じゃああなたはどれを選びますかって言われた時に
選べないんですって。決められない。
つまりこうしたいっていうある種の
自分の欲求みたいなものが分からないから
そうなると決められないんだそうなんですよね。
で、何の話したんだっけ。
そうそう、そういう風にこう
自分の体に根差していない
絶望が足りないっていうのは経験が得られなかったか
もしくはその経験によって体が固まってしまったがゆえに
感じられないからだ。
ちょっと話戻りすぎちゃった。ごめんなさい。なんか今日
なんか調子来るな。調子悪いな。ごめんなさい。聞きづらくて。
体に絶望が降りていないっていう人にとっては苦しみは確かにあると。
だけどその苦しみを体で感じることができないんですよね。
体をこうだっていう風に感じられなければ
僕らは確信っていうのが得られないっていうメカニズムに
どうやらなっているようなんですよ。
確信できないものっていうのは
頭で分かった気になるしかないんですよね。
だから記号が欲しくなるんですよ。
記号っていうのはあいつのせいだとか
あの世代がきっと原因だとか
これは陰謀に違いないみたいな
こういった記号っていうのは体験ではないんですよ。
記号で踊っているだけなんですよね。
分からない苦しみっていうものに名前を与えてくれるわけです。
こういう風にすることで。
一瞬分かった気になれるんですよね。
少しだけ息ができる。
つまりこれって
こういった人たち、当人にとっては本人にとっては
この記号は藁みたいなもんなんです。
藁にもすがる思いでその記号を掴んでいるんですよね。
他に思い当たる理由がない。感じられるもの。
ここに答えがあるのに感じられないから
外ばっかりを探していってしまうわけだ。
体っていうのを感じられない。
それを知らないか忘れているってことですよね。
つまりこういったクズな考え方とか行為とか行いっていうのは
愚かさっていうふうにもちろん言えるのかもしれないけど
言い換えれば必死さなんですよね。
必死なんです。
藁にもすがるその手っていうのは
だからこそ責められないものなのかなと思うんですよ。
よくあるじゃないですか。
何か事故を起こしちゃった。
何か事件を起こしちゃった。
何々中毒になってしまって
逮捕されたみたいなね。
もちろん一概に全部それが
責めるべきではないって言わないんですけど
多くの場合やっぱりそういう原因があるわけですよね。
その原因を作ってるっていうのは
この同じ社会を構成している僕ら一人一人にも
原因があるって言えばあるのかなって思えるわけなんです。
最近もありましたよね。あのバスの事件とかさ。
あれでもすごい叩かれたりするじゃん。
いやでも自分の子供がやっぱりああいう事件で
もし亡くなったりなんかしてしまったらね。
そりゃもう怒りも湧くだろうし
絶望感もあるだろうし悲しみもあるだろうし
もうごちゃごちゃだと思うんです。
なんだけどそれはそれだし
っていう風に2つだよなって思うんですよね。
だけどこれをさ、歪症化して
運転手が悪いのだ。
責任を作らなきゃいけないからさ、今の社会の構造の中でもね。
誰かが責任を取るっていうものが
資本主義の中心なのかな、それが。
資本を持つっていうのは責任を持つことでもあるのかもしれないね。
だから構造上そうなるものだとは思うんですけど
その法的なものとその構造的なものっていうのと
一方じゃあ人としてみたいなところは分けて考える必要があるのか。
そしてまた構造っていうものも
少しずつ変えていかなければいけないんだろうなっていう風に思ったりするわけなんです。
ちょっと話し広がっちゃったけど。
他者への攻撃と自己否定のループ
このね、藁を掴む動き。
きっとこれが悪いんだ、みたいになる。
必死な顔に見えてきませんか、皆さんも。
そういうクズな行為をしてしまうっていう人のその手を。
意地悪な顔してやってるわけじゃないんだよね。
ああ、ああ、って必死にそれを掴むわけだ。
この行為っていうのは
一人でに止まらない構造の中に組み込まれているんですよ。
体が身体不合理になって固まってしまった体っていうのは
そこから抜け出しにくいループに入っていきます。
体が感じられないから自分の感覚を頼りには判断ができない。
そうすると外側の建設、最近だとやっぱりSNSとかニュースとかね、
人によっては新聞だったりとか
週刊新聴とか、週刊文集が好きな人とかもいるかもしれないね。
ある特定のメディアをすごい信頼してるって人もいるかもしれない。
そういうものを参照するわけです。
外側のそういった建設っていうのは
やっぱり煽るように作られてるわけです。ビジネスだからね。
やっぱりいろんな人に目を止めてもらわなきゃいけないから
強みに煽る方に行くわけです、不安をね。
そうするとそれに巻き上げられる、感情が煽られる。
煽られた感情っていうのは誰かを吊るし上げる方向に
そのメディアが指し示した方向に向かっていってしまうわけです。
吊るし上げる側に回る時もあれば、そうじゃない時もあるよね。
反対側の時もあるかもしれない。
体を感じられないので記号レベルの効益っていうものが
直接自己存在感っていうものを脅かすわけです。
その防御としてもっと強く主張する。
いいえ、こうなんですとか。
論理破綻してるみたいなことも結構強みであったりとかあるじゃないですか。
もっと正しく言うとかね、もしくは論理で完全に武装するみたいな。
いやいや、あなたの言ってることわかるけど、
人としてそれはどうなの?みたいなのもやっぱりあったりするでしょ。
そういう記号レベルの応戦、戦争みたいになってくるんですよ。
どっちが正しいか。
どっちが最もらしいか。
どっちが論破できるか。
だけどさ、これまでも話したように
体の実感に根差してなければ、まともな交流っていうのは難しいわけだ。
疲労するよね、疲れる。
そして疲弊したその果てには、外向きに強弾していたエネルギー。
元気なうちはいいよね。やってるけど、だんだんとふーんって入っていく。
そしたら外は相手にできないから、何も残んなくなっちゃうんだよね。
感じられる自分っていうものもないし、
外と関わるようなパワーもないし、外を攻撃するパワーもないから
結果的に自分が傷ついていく、しんどくなっていく、処分をしていく。
そうやって人によっては、いろんなことを考え込んでしまったり
しかも自分の中だけでね、自分の頭の中だけで
体験から切り離された自分の頭の中でいろんなものを考えていってしまって
自己否定に転じてしまう。
これが自滅的な鬱化です。
自分で勝手に鬱になっていってしまうわけだ。
この鬱っていうのはあれだよ。
医学的な鬱病の規定とはちょっと違うかもしれないけど
鬱々とした気持ちになっていってしまいますよね。
そうやって鬱化した精神、体っていうのは
精神が鬱化しているってことは体も鬱化しているわけだ。
体が固まっているよね。
さらに感覚を遮断していくわけです。
どんどんまた感じなくなっていく。
身体性がどんどんどんどん失われていく。
こんなふうにループが回っていくんです。
このスパイラルの中にいる方、そういった方が
そんなことを責められるかっていうとやっぱり責められないですよね、なかなかね。
外向きには藁を掴んで誰かを拒断している、誰かを批判しているけど
内向きにはナラティブとして絶望を反するしている。
だけど体はどっちの場面でも
絶望、個人的なその絶望の体験
絶望だけじゃなくてもね、他のこう
ものすべて
体に根差したその体験として通ってない。
これが
体が不合理な状態にいっている、身体不合理のスパイラルの中にいる
人の典型的な姿なんじゃないかなと
思うわけなんです。
「絶望を知らないからクズ」という言葉の再解釈と身体への着地
だからこそ冒頭で言った、僕が尊敬する人が
こういうふうに言ってたよって
もっと絶望すべきだ、絶望してないから
クズになるんだっていう言葉は
ちょっと違うように聞こえると思います。
だからもっと絶望しろっていうことじゃないんですよね。
むしろそれは
体感じられてないのにどんどんどんどん自分を攻めていく
ただこう体を固めていくプロセスになっていてしまうから
つまり絶望することではなくて
もしくは
幸福に浸りきることでもない
ポジティブかネガティブかっていう
そういった二言論の問題ではなくて
もっと本質的な問いに入ってくる
つまり体に降りることなんですよ。
例えばね、今日すごい疲れてるんだ、何してもしっくりこないなとか
布団入っても眠れないなとか
朝起きても重たいな
そういう日常のちょっとしたこと
こういった違和感のうちに
体は何か言ってるわけです。
だるいなと思ったら
あ、じゃあ体のどこがだるいんだろうな
特に怖がってるんだろうなって感じてみてください。
あ、肩です肩です。いつもそうですから。じゃなくて。
もちろんそれもいいんだけどね。
肩の具体的にどの辺なんだろうとか
本当にそれって肩だけかなとか
そのちょっとしたね、体の声っていうものを
やっぱね、今近代、現代に生きてる僕らっていうのは
わざわざ意識を使ってそこに向けていってあげないと
どんどん僕らの意識のフォーカスって
他のとこに反らされるようにやっぱ構造
社会構造としてやっぱなっちゃってるから
意図的にやっぱそれを向けていく必要があるんじゃないかなと
思うんですよね。
これはちょっとまた次回にも話したいなと思ったんですけど
やっぱお風呂に入ったり
好きな音楽聴いて踊ったり歌ったり
おいしいご飯食べて
友達とお酒飲んで笑ったりすれば体ほぐれるんですよ
好きな運動すれば
体を動かして楽しいなーってやってれば体ほぐれるんですよ
なんだけども
それって余興とされるじゃん
リラック…リラック…リラックゼーションになっちゃうじゃん
なんでかというとやっぱ
世間がそうだからなんですよね
社会がそうだから
今はね
だから意図的に僕らは
そういう余興を楽しみつつ
その余興で体がいかにいい方向に行ってるのかっていうのを
理性でもって感じる
で、それを社会の中でもそれが立ち上がってくるように
この社会っていうものを考えていかないといけないのかなと思うんです
いけないっていうかね
そうした方が楽しいのかなと思うんですよ
仕事って疲れるもんだからとかさ
人付き合いってしんどいもんじゃんみたいなのって
そうじゃないと思うんですよね
そうじゃない方がいいなって思うんですよ
人と話すのって本当に疲れるのかっていうと
そうじゃない人もいるわけだ
何が違うかっていうと
話しながらほぐれてるか
話しながら自分でこわばってるかっていう違いがあったりするんですよね
体レベルで見ればね
パソコンの仕事をすると体がこわばるっていうのはさ
あーめんどくせーなーと思いながらこうやってせかせかやってたら
余計に疲れちゃうよね
もちろんずっと座ってれば体が動かなくなるから固くなるんだけどさ
物理的に
でもやっぱりその中でいかに
楽しくしていくか
つまり体がほぐれていくようにしていくかっていうのはすごく
これからを生きる僕らにとっては大事なことになってくるんじゃないかなと思うわけなんです
まとめるとですね
あそう最後にこう
今ずっとネガティブな話してたんで
希望も同じようなことなんですよ
絶望と同じ
さっきも話したか
嫌だなーっていうネガティブなこともポジティブなことも
同じように理想構造してます
個人的な身体的なその体験っていうもの
誰かと触れ合った時のあったかさとか
日の光に当たった時
ぽかぽかーとかね
ふーって一息ついた時のその深呼吸した感じとか
あれって幸せって言ってもいいですよね
あれって幸福って言ってもいいよね
安心って言ってもいいしね
つまり幸福ってのはお金持ちだからとか
仕事に恵まれてるからとか
優しい旦那さんがいるから
とかでは規定されないんですよ
体がほどけていれば
体で心地よさを感じていれば
それって幸せだったり幸福なわけです
そういう身体的な体験っていうものがまず幸福の一つ
で優しい旦那さんがいるみたいなのは
その上に乗っかってくるものなんだよね
優しい旦那さんがいても体がこわばってたら
全然幸福じゃないですからねきっと
それって幸福って言い聞かせたいけど
体がこわばっちゃってるみたいなことに
多分なってると思うから
つまりごめんなさい
いろいろそれって着地点が
今見失ってるんですけど
最後にもう一つまとめると
他者への関わり方と子供への対応
絶望を知らないから
クズな振る舞いをしてしまうっていうのは
確かに一理あると思うんです
でもそれは絶望を知らないからだっていうふうに
他人に向けて使っちゃうとね
それもまた誰かを責める言葉になってしまうのかな
と思ったんです
あえてこの方はそういう強めの言葉を
使ってるんだと思うんですね
そういう方だから
なんだけど
僕がもし言うとしたらね
大臣支援の場とかで使う
今この発信の環境で使うとすれば
この言葉は自分自身に向けて
ふと立ち止まるときに使ってあげるのが
いいのかなと思うんですね
今誰かのせいにしようとしてる
自分が痛んだとしたら
そのクズの灯火
小さな炎っていうのを
ってことは今
自分の体って余裕がないのかもしれないなとか
体今何考えてるんだろうな
そういうふうに振り返る
もしくは他社でそういう人がいる
何々が悪いんだとか
何々のせいだみたいな
ことを言っている人がいたら
罠に結がる思いなんだろうな
っていうふうに
可哀想だなって思いなさいとかじゃないよ
そういう見下すようなものではなくて
フランクトに
その身体的な体験というのが
薄れちゃってるんだなって思えば
関わり方も変わると思うんですよね
これを伝えるときに
実際に大人にこれをやるわけじゃないけどさ
子供が転んだとする
転んだよりも
転んだがいいかな
転んだとする
自転車で派手に転んだ
うちの子が自転車で派手に転んだ
ずっと泣いている
幸い怪我はなくて
擦り傷もなくて
痛かったねとか言いながらやるわけだ
そのときに
痛みが収まったとしても
だんだん落ち着いてきたとしても
ずっと泣いているんですよね
でもそれに対してさ
こういう運転手だから転ぶんだよ
分かったか
泣くのは泣き止むわけないし
このくらいの傷だったらすぐ治るよとか
こういう風にすれば次は転ばないよとか
言っても泣き止むわけないじゃないですか
だって子供は怖いっていう
怖い痛いっていう
その身体的な体験を
泣くっていう形で
表しているわけだから
だからしばらく抱っこしてあげて
痛かったなーってこう
その感覚を解いていってあげる
嫌な感覚を解いていってあげるような
むながしをすれば
だんだんと落ち着いてくるんだと
思っているんですよ僕は
大人も同じだと思うんですね
イライラしている人
余裕がない人がいても
その方の体っていうものが変わってくれれば
きっと関係性は変わってくる
その人が違った人に見えてくる
同時に関わる自分の状態も変わってくる
ということが起きると思っています
大人自身においては
身体感覚を取り戻すことの楽しさと重要性
そういう姿勢ってすごく大事だし
なんかそれって頑張ってね
自分がそういう風にやってるわけじゃなくて
えーとなんだろうな
楽しいからなんですよねそうすると
意外とこの人ってこういう一面もあるんだ
知れてよかった楽しい
っていう体験がたくさんありますからね
大人自身の場合は
そんな風に今回の話を
参考になったらなと思います
参考になったらなっていうのもな
別にレクチャーしてるわけじゃない
レクチャーなのかな
いろいろご好き勝手にいろいろ話しちゃってるんですけど
もし積極作になってたら
ごめんなさいね言ってくださいねそれは
ただね今回そんな風に思って
いろいろ調べたことを
今日はずらずらーっと
お話しさせていただきました
ちょっと途中まとまりもなくて
つっかかりながらもしてしまってすいません
こういう話を
途中途中で気づいたものとかを
週1回Somatic Studioっていうところで
配信してたりもするので
もし気になる方はそこに
ぜひ来てみてください
あの
そうだねちょっと殴らないうちにここでやめよう
ということでまた
次回お待ちしておりますので
ぜひ遊びに聞きに来てください
それでは大沼達也でした
今日ものんべんならりといきましょう
忘れてた
52:13

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