宮崎駿の予言と現代の「知ったかぶり」
この間ね、ある雑誌を読んで、結構痛いところをつかれてショックを受けたっていう経験を久しぶりにしました。
スタジオジブリが出しているNEPっていうフリーペーパーがあります。
そのね、2010年の7月号っていうのがiPadの特集だったんですよ。
タイトルが、「僕には鉛筆と紙があればいい。」っていう、なんとも宮崎駿節が聞いたような素っ気ないタイトルですよね。
そこに宮崎駿監督のインタビューが載っているんですよ。
しかもこれ、編集の方が聞き取ったやつ?インタビューで聞き取ったやつを、宮崎さん本人が質問ごとに全部書き直したテキストらしいんですね。
質問ごとに書き直すっていうのはなかなかですよね。
正確に自分の言いたいことを、そこにまた宮崎監督のこだわりが載っているような気がしました。
で、その中で宮崎さんが目の前のインタビュアーが持っているiPadを見て、こう言うんですよ。
あなたが手にしているその消え向きのようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は奇色悪いだけで、僕には何の関心も感動もありません。
嫌悪感ならあります。
そのうちに、電車の中で、その妙な手つきで、爺行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。
爺行為ってなかなか言いますよね。さすが。
言いたいことは、文章を読んでいくうちに分かっていくんです。
これが15年前の雑誌なんですよ。
15年前の取材の話。
今どうなっているかというと、まあ見事にその通りになっているんですよね。
電車に乗ったらほぼ全員、画面を指で撫でていると。
もちろん私もです。がっつりその一人です。
正直言うと電車の中だけじゃなく、夜布団に入ってからとかもそうだし、仕事の合間とかもそうだし、
何なら子供たちと一緒にいるときとかもやっぱり触っちゃったりします。
ニュースを指で探して、仕事でも論文探したり、記事見たり、自分の文章を書いたり、
誰かのいい感じの映画の考察とか、読みたいなと思っている本のレビューとかね、考察みたいなものを読んで、
ああ今日もいろいろ学んだなとか、なるほどとか、結構満足している自分がいるんですよね。
で宮崎さんのこの言葉っていうものを読み返した後に、自分のことを読みながら自分のことが、
自分を叱られているような、自分を軽蔑されているような感じがしたんですよ。
ああこれ俺じゃん、俺のこと言ってるじゃんって。
ただ別にね、自分の生活自体全部がダメなことだとも思ってないです、それと同時に。
ちゃんと体に向き合えている時間とかも作ってたり、思い返してみれば無意識でもあるんですけど、
ちょっと気を抜くと、スルーッとこのiPadを指でなぞる自費行為の方に、
引っ張られていってしまう自分っていうのをやっぱり感じるんですよね。
しかもそのスルーッといく感じだったり、
無意識にそっちに引っ張られてるからね。
で、それを自分はやっぱりよく知ってるんで、
だからこそその宮崎駿監督の言葉を聞いた時にショックを受けたんです。
ああ気をつけなくちゃなーっていうね。
で、今日はその話を深盛りしていきたいと思います。
知ったかぶりな私。
宮崎さんの言う自費行為みたいな手つき。
あれ僕自身も結構長いです。
「わかる」の二つの種類:ライブ体験と情報消費
スマホとか出てきて、高校生の時はスマホなかったか。
でも高校出たくらいの時、高校の時からiPhoneとか使ってる人もいたのかな。
僕今35なんで、15年以上はスマートフォンだったり、
インターネットっていうものはもっと前から触れていたりするんですよ。
その中でいろんな情報が入るじゃないですか。
だからいろんなこと知ってたりするんですよ。
僕も漫画好きだったりとか、
それこそ結構ネットでいろんな調べ物したり飛んでったり文字読むのが嫌いじゃないので、
いろんなこと知ってたりするんですよ。
言葉を。言葉を知ってるっていうのかな。
だから今の仕事になってね、
医学系の本読んだりとか、治療系だったりとか、
心理系のエッセイとか、哲学書とかいろいろ読んでいく。
そういうのを取り寄せて分かった気でね、自分の中で整理して、
それから今YouTubeとかだと誰かの講演の動画とか、
分かりやすく説明してくれたりしますよね。
あ、なるほどそういう風になってんだーとかっていう風にうなずくんだけど、
それをね、なんとなく分かった気になって、
クライアントの方とか妻とかにそういう話をするんですよ。
これってこうこうこうなってるらしいよって。面白いよねーとかね。
面白いよねーとかっていうのもなんか立ち悪い言い方だなって思うんですけど、
あの、さっき知ったばっかのことを、
さもなんか自分の体験談みたいに、
もしくはなんだろう、エビデンスがあるんだよとか、
カントが言ってたんだよとか、アドラーが言ってたんだ、
なんかすごい人が言ってたんだよっていうように話しちゃう。
これを知ったかぶりって言わずになんて言うんですかね。
もう完全に知ったかぶりですよね。
なんでかっていうと、その本に書いてあったことっていうのを、
なんとなく今理解、理解というか分かってる?
うーん、あ、なるほどねっては思うんだけれども、
その全てを体験してるわけではないじゃないですか。
例えばその本をね、書いた人がいるとする。
何年もかけて、その方の人生まるっとかけて、
いろんな経験の中で人と向き合って、
データとって、ああでもないな、こうでもないなって、
積み上げていったものです。
苦労したからとかではないんですよ。
そこの中には嫌な感じ、嫌な経験だったりとか、
嬉しい感覚っていうのももちろんあると思う。
その時間だったりとか、実際に体を動かして実感してきたっていう体験が、
まるっと飛ばされた状態で、
僕はその綺麗に並べられたAイコールBであるっていうようなものを、
指でツッとつまんで、
あ、なるほど、ご馳走様です。分かりました。
っていう風にしていたんじゃないかなって思ったんです。
しているところがあったんじゃないかなって思ったんですよ。
これが宮崎監督が言う、
指でパッパッパッって触る慈悲行為っていう表現されたものなのかなと思ったんですよね。
だからすごい答えたんですよ。
叱られているような感じで。
で、この分かったっていうのが、
全部が全部ただの思い込みなのかっていうと、
僕自身はそうとも言い切れない部分があるんじゃないかなと思うんです。
多分このインタビューの中でもさ、
もしかしたらその質問、雑誌に載っている質問のところの以前に、
なんかバチバチした空気があったのかもしれないし、
そもそも宮崎監督はインタビューとかもあんま答えないとかって自分で言ってたりもしてるんで、
ああ、めんどくせえなあ、
こんなとこで話したって何も汲み取ってもらえないのになあみたいな、
そういうイラつきみたいなのもあったのかもしれないですけどね。
分かったっていうのは全部が全部思い込みだけではないと思うわけなんです。
分かったって僕らが思うとき、
分かったっていう感じが多分立ち上がっているはずなんですよね。
問題はその何かにどうやら2種類あるらしいっていうことなんじゃないかなと思うわけです。
ここで分かるっていうものを2つの意味に、
分かりやすくね、分けていってみたいと思います。
一番分かりやすいかなあって、僕の体験の中で、
ああ、これだなあって思うのは、
コンサートとかライブです。音楽のライブ。
なんかCDとかで何となく聞いたことあった曲とか、
もしくはもうしこたま聞いてた。
毎日のようにずーっと何回もリピートして聞いてたっていうような曲。
僕だったら音楽、ギターとかやってみんなでバンドとか遊びでやってたんですよね、学生の頃。
何回もコピーしてギターと向かいながらこうじゃないなとかやってた。
なんだけど、実際のライブに行くともうまるで別物なんですよ。
同じ曲だし、同じメロディーラインだし、同じギターのコードとかね、だったりするんだけど、
違うんですよね。音の圧もすごいし、照明があったり、
オーディエンスお客さんのわーっていうような湧いてる感じ。
もうキーザインがドカーンってあったりとか、
スモークのあのライブ会場独特の匂いとかもありますよね。
それからなんだ、メロディーラインとかでも微妙なこう、そのねギタリストの癖だったりとか、
ボーカルの方のCDとは違う発声の感じとかさ、
お前らーみたいな声掛けとかっていうのもライブ特有だったりするでしょ。
あれがいっぺんに押し寄せてくるわけです。
うわ、すごいなーって。
僕初めてライブ行った時、いや初めてのライブもそうだったけど、
今でも思い出すんですけど、東京事変が大好き。
椎名林檎さんが大好きで、東京事変が仙台に来るってなった時、
ひしこいてライブのチケットを手に入れることができて、
一人で行ったんですよ。一緒に誰か連れて行けるほどチケットも取れなくてね。
もう一人で行ってくるわーって言って行ったんですけど、
もう一曲目登場の曲の瞬間にブワーって涙が出てきちゃって、
悲しいわけじゃないんですよ。
感動すぎると涙が出るってこういうことなんだっていうような体験を思い出すんですよね。
でもそれくらいいつも何回も聴いてる曲、東京事変のこの曲何回も聴いてるんだけど、
まるで違うなっていうのは体験として、実感として分かるわけなんです。
これなんですよね。本来の分かるっていうのは。
東京事変っていいよねっていうのを、
東京事変ってこれだけ売れてるらしいとか、
これだけテクニカルな人たちが集まってるらしいとか、
実力がある人たちが揃ってる椎名林檎をやってるらしいみたいな、
そういう意味で東京事変を分かるっていうのか、
バンドを分かるっていうのか、
あれを体験したことで分かるっていうふうに言うのかでは、
まるで自傷というか、切り抜き方、受け止め方というのが違いますよね。
僕は実際のライブの体験というのもして、
それでも他にも東京事変のすごさみたいなのがあるんだろうなっていうふうに思うようになったんですね、それで。
CDとかメロディとかそういう他のところだけじゃない。
ライブで体験したからこそ、ライブで体験したっていうのも含めて、
プライベートではこうなのかな、そういう素敵なところがあるんだろうなとか、
業界の人たちと一緒に関わるときのすごさみたいなのもあるんだろうなとか、
おそらく全部は分かってないんだろうけど、
あれは分かるぞっていうのが自分の体感ベースで感じられるし、
想像もできるようになった気がしたんですね。
分からないことを分かるようになったというか。
なんですけど、それのことでも自分の中の世界がもう変わっちゃうわけですよね、その体験をしたことで。
うわ、こういう世界もあったんだっていうような分かるところがです。
僕らが普段使っている分かる、分かった、なるほど、みたいなのにはもう一つあって、
宮崎監督がウェーイってなってた方の分かるの方です。
これはもう知っているっていうのとほとんど一緒なんですよ。
完全にデタラメってわけじゃないんだけど、
ただ分かった気がするっていうところで止まっている。
分かっているはずだっていうのも違いかもね。
何が起きているかというと、
自分のこれまでの体験の中から似ているやつを探してきているんですよ。
ああ、これあれに似ているな。
多分あれの仲間だろうなっていうふうに。
引き出しから近そうなのを引っ張り出してきて、
ベタッとそれをはめて、
はい、終わりました。
なるほど、これですね。
っていうふうに言っている。
例えば、
皆さん転んだことあります?
膝をすりむいた経験とか、
思い出せますかね、子供の頃とか。
大人になってもよく転ぶ人とかもいますもんね。
タンスの角に小指ぶつけたとかでもいいや。
なんか不意に痛ってなることを、
ちょっと思い出してみてほしいんです。
その痛みがあることで、
ニュースとかでね、
事故で大怪我したとかっていうニュースが出たときに、
その人の痛みみたいなのって何となく想像つくと思うんですよ。
うわー大変だったなーとかさ。
気がするじゃないですか。
ああ、痛そうだな。
痛いっていう地続きの感覚があるから、
無意識に僕らは、
ドラマとかで痛そうにしている人を見たら、
うわー痛そうってなるのは、
自分の痛みを知っているからですよね。
その痛みを、そこから想像を積み上げて、
こんな感じなんだろうな、
こんな感じなんだろうなっていうふうに想像するわけだ。
でも実際に大怪我した、その本に
体験した人が感じる痛みと比べたら、
その近さはもうまるで違いますよね。
似てるんだけどね。
同じ痛みっていうラベルが貼られるのかもしれないけど、
その中身っていうのは全く別じゃないですか。
そこにはさ、だって、
膝の骨の痛みとかさ、
うわーなんかちょっと話すのも悪だな。
これから仕事どうしようとかっていう不安も、
もしかしたら混じるかもしれないよね。
あー怖かったーとかさ、怖いーとか、
もう膝も大変なことになっちゃってるしーとかさ、
人がいっぱい集まってきたーとか、
あーやっちまったーって考えちゃったら、
そういうのもあるかもしれない。
いろんな感覚、体験っていうものが包括されてるってことを、
思い出すことができなくなっちゃってるわけです。
ニュース見て、
事故った高齢者がこうだった、みたいになった時に、
なんだこんな年になっても運転なんてしてんだが、
そりゃそうだろう、とか言っちゃったりするんですよね。
思っちゃったりする人もいるわけだ。
僕も思ったことあります、やっぱり。
でも、自分のばあちゃんが運転してて、
そういう事故にあったってなったら、
やっぱり、
ニュースで見る高齢者の事故とは、
音極の音では、
自分の受け止め方っていうのは大きく変わります。
で、宮崎さんが、
宮崎監督がやめてくれって思ったのは、
多分こっちの分かるっていうことなんだと思うんですよね。
過去の引き出しの中身だけで、
世界全部が分かった気になってしまって、
部屋のドア全部閉めて、
その分かった感じっていうものを、
画面の上でずっと延々とさすっている。
そういう手つき。
あ、なるほど、なるほどって。
自分の世界、自分の部屋の中に閉じこもって、
分かった気になっているっていうものを、
慈悲行為っていう風に言ったのかなって思ったんです。
まさにっていう感じですよね。
パワーワード。
この宮崎監督の話には続きがあります。
「あなたには調べられません」:関心と共感の重要性
あなたには調べられませんっていう風に、
インタビュアーの方にはっきり言うんですよ。
強烈ですね。
痛快。
自分が言われたらと思うとゾッとするんですけどね。
インタビュアーの方も、なかなかこう、
強者というか、ちょっと喧嘩越しじゃないですけど、
ガッガッってこう行くんですよ。
宮崎監督にボロカスって言われても引かないんです。
iPadっていうのは、
宮崎さんはiPadのことを否定されますけど、
いや調べ物にはめちゃくちゃ便利ですよって。
アニメ作りになって役に立ってるはずでしょって。
役に立ちますよって。
悔いさんがあるんですよ。
そしたら宮崎監督はこう言います。
じゃあお前のそれ、iPadで、
安宅型噴泉の漕ぎ手と、
給水方法と食事の方法並びに、
えっと、これ何て読むんだ。
何とかがぶつかったら何が起こったのか。
銭湯になっても漕ぎ手に外は全く見えないけど、
その時の心理状態はどうなったのか。
それが調べられるのかっていう風に言ったんです。
あなたには調べられません。
なぜなら、
安宅型噴泉の漕ぎ座の雰囲気とか、
そこで汗まみれに噴を押し続ける男たちへの
関心も共感も、
あなたには無縁だからです。
っていう風に言ったんですよ。
ごめんなさい、漢字が読めないなって。
ここがね、面白い。
これ、お前のスマホには情報が足りないって話してないんですよ。
情報がたくさん含まれているかどうかって話をしてないんですね、実は。
仮に世界中の文献とか、
あらゆる情報がデジタル化されて、言葉に起こされたとしても、
AIが全部要約してくれる時代が来たとしても、
今それに近づいてますよね、かなり。
宮崎監督の一言っていうのは、
たぶんビクともしないんですね。
問題は外側の道具じゃないんです。
こっち側の体験というか体なんですよね。
心って言ってもいいのかもしれない。
船を漕いでいる男の人たちに
関心も共感もないだろうって。
この人たちがどういう空間で
どういう体験をしてたかっていうのに
意識が向かなければ調べることできないだろう。
情報がどんだけあったって
こっち側にその男たちの方へ出かけていくような
その心がなければ
体感がなかったら
そうじゃないと絵は描けないんだ。
キャラクターが立ち上がってこないんだっていう風に
言ったんですよね。
僕が普段ちょっと調べとくわーって言ってやってること
特に僕は対人支援の仕事なので
実際に痛みを抱えているクライアントが
目の前に来るわけですよ。
これがね、例えば学校の中だったりとか
自分の中で文書組み立てて調べるみたいになると
パニック障害かーとか
これってこういうメカニズムで医学では言われてんだなー
なるほど、そういう疾患だから
こういう治療がいいかなーとかっていう風に
当人が感じているその生々しい体験
っていうものにはなかなか目が
いきにくくなっちゃうんですよね。不思議だよね。
でも目の前にクライアントが
出てきてくれることで
それが借り立てられる。
自然とその体験の方に目が
いきやすくなるんですね。不思議だね。
もっと言うと
たぶんその情報を触れたとしても
意識的にその人、ここに書かれている人
ここに書いてある人、書いた人の
体験ってどんな感じだったんだろうっていうものが
できていれば
もしかしたらその宮崎監督が批判したもの
っていうのは最小限に抑えられるのかもしれない。
かもしれないんだけど、でもやっぱり
埋められない溝もある気がするんですよね。僕には。
わかんない。それは僕の体験の中だけ
だから何とも言えないんですけど
やっぱり目の前でうーって
しんどくなっている方が来て
僕に対して向き合ってくれているっていうものがあるのは
そこから借り立てられる
引き出されるものっていうものはやっぱり本から借り立てられる
ものとは全く異質のものな気がします。
まあ調べた
知っているっていうふうに言っちゃうのは
なんかさすがに足りないよなっていうふうに思うんですよね。
まあでもとはいえですよ
あのiPadを持って粘ったインタビュア
ちょっと待ってくださいよってね
あの人の気持ちをめちゃくちゃわかります。
だって私もそう思います。これだけね
パソコンだったりとかSNSとかもそうじゃないですか
あの
この収録して発信しているみたいな僕もそうだし
これを聞いている皆さんもやっぱりスマートフォンとか
インターネット普通に触れてますよね。便利なもの
便利に使って何が悪いのかなって
その現場に
宮崎監督にそんな風に言われたら自分もカットなるかもしれない。
哲学の本を電子で買って
論文をPDFで取り寄せて
予約サービスでパパッと概念つかんで
資料があると。検索もすればいろんな情報が出てくる。
それをまた予約してくれる。
これだけ便利な時代に
わざわざ何百年も前の汗まみれの
おじさんたちのとこまで想像力で手掛けていく必要って
本当にあるのかなって思う方もいるんだと思います。
でも宮崎さんはここであなたには調べられませんよ
っていう風に言うんですよ。
「受け売り」と宮崎駿の「記憶で描く」調査法
インタビュアーの便利なものを便利に使って
何が悪いんだっていうのと
宮崎監督のお前の体はどこにも出かけていってないだろう
体験、実感に目指してないだろう
どっちが正しいという話ではなくて
両方とも
僕自身の中にはいるなって思ったんですよ。
普通にインターネット使うし
パソコン使うし、スマホ使うし
要約みたいなのも使ったりします。
これ止まらないんですよね。
便利だから。
ただ、宮崎さんの
この言ってることっていうのを
大事にしたいなって思う自分もいる。
これだけAIそれなりに発達してきて
自分の生活に目指してくると
言葉を選ばないで言うと
イライラしてくる時があるんです。
そこじゃないんだよなとか
こっちに行くの?みたいなものですね。
やっぱり
LLM、AIっていうものも構造上
記号を操作することに長けているだけなので
言葉に現れてないところって
なかなか想像がしにくいんだと思うんですよ。
改善されてくるのかもしれないけど
でも人間同士だとさ
共通の言葉がなくても
実感っていうものがそこにあればさ
共有できるんですよね。
スイーツ好きなんだよねーみたいな話になったら
そのスイーツ食べた時の
あの幸せな体のあの感じっていうものを
共有できるわけです。
だから好きなものの話するのとか楽しいじゃないですか。
嫌な話とかもそうだと思う。
過去のしんどかった話とかって共有するのも
あれ言葉を交換しているわけじゃなくて
お互いのこの体感を共有しているんですよね。
だからこそ
人と関わるっていうこと
AIといろいろこう
お諮問動したりとか調べ物したり壁打ちするみたいなのと
人と話すっていうのは
全く異質なものだなっていう風に思うんです。
で幸い僕には仕事の中で
お話しできる仲間
同業もいるし
クライアントの方もいらっしゃいます。
目の前に生身の体を持った人間が
僕の方を向いてきてくれる。
こうすると自ずと
この人は困ってそうだからこうしたいなとか
考える間もなく応答している自分がいるんですよ。
つまり体丸ごとですよね。
この時僕頑張ってないんですよ別に。
もうすごい退屈な人間なので
もうチャンスがあればナローンってしてたいし
もう映画見てたいし
はーってやってたいんですけど
やっぱり目の前にそういう方が来てくれれば
すぐにやっぱり反応
してしまうんですよね。
あえてしてしまうという表現はするけど
もちろんそれはしたいことでもあるんだだから
でやればそのコミュニケーションだから
とても楽しい楽しいっていう言葉だけじゃ
表せない気もするけど
生きてるなーっていうことに繋がっていくんですよね。
自然と借り立てられる。
僕自身が動いているっていうのは
こうやってPodcastを聞いている皆さんもそうだけど
皆さんのおかげでもあるし目の前に来てくれる
クライアントの方のおかげでもあるんですよ。
ちょっと話それちゃったんですけど
上前を跳ねるっていう言葉があるんですよね。
上前を跳ねる。
誰かがピンハネみたいなことなんですよ。
つまりは誰かが
時間と汗かけて稼いできたとか
積み上げてきたもの
その一番おいしいとこだけを横からひょいっと持っていく。
こういうのを
上前を跳ねるっていう風に言うんだそうなんですね。
宮崎さんが批判してた
軽蔑してた嫌悪感を持っているって言ったのは
まさにこのことなんだと思うんです。
世界に対して自分から出かけていって
想像力を注ぎ込むことをしないで
上前だけを跳ねる道具として
アイナンとか
iPadを握りしめてさすっているだけだから
いう風に言ったんです。
強烈だ。これも僕ぐさっときました。
これ人によってはさ
僕もそういう時ありましたよ。横から持っていくだけじゃなくて
その人の汗とか血症みたいなものを
さも自分が自力で掴んだみたいな顔して
人にしゃべっちゃうみたいなね。
これってこうなんですよねみたいにさ
受け売りそのものですよね。
私が学んだって思っているものの
ほとんどってやっぱ先人たちが
今までのみんなが積み上げてきた
研究だったりとか実感経験
っていうものの一番最後の上積みなわけなんですよ。
研究者が味わった挫折とか行き詰まりとか
現場のあの感じとか
なんかそういうところに
果たして僕らは本とか情報に触れた時に
体がそこに出かけていってるのか
そう言われると
どうだろうなってやっぱ
考えちゃう。立ち止まっちゃうっていう人が
多いんじゃないかなと思うんです。
僕は思いました。めちゃくちゃ
要約だったりとか図解とか結論だったりとか
はなはなしいとさ
なんか言ってること分かりにくいなとか
何言ってるか分かりませんみたいな感じでさ
コミュニケーション自体がもう
コミュニケーション自体する気がないみたいなことも
起きてきちゃったりするでしょ。
そうやってその受け売りっていうものには
なんか変な全能感がくっついてくるんですよね。
スマホ1個あれば何でも調べられる。何でも知れる。
あーなるほどね。それ知ってるよとか
あー分かる分かる
それ前に考えたことあるわとか
あー私もなんかそれ
同じことになったことあるよとかさ
でもその知ってる分かるみたいなものが
自分の体験を引き伸ばして
想像したものであるっていうことを
自分の実感ベースから
分かってないと
本当の意味でのここで宮崎監督が言っている
想像力っていうものには繋がって
いかないんだなって思ったんですよ。
大抵の場合ね
ちょっと話ごっちゃになっちゃうからあれだけど
スマートフォンとか
インターネットとかってさ
本当特殊でさ
本とかでもそうか
体ほとんど動かさないじゃないですか
その時の体験とか空気感みたいなのって
そこから読み取ろうとしたってさ
なかなか描写されてなかったりもするんですよ。
今のネットの記事とかそういうの多いですよね。
メディアだからさ
情報どういう状況だったのかっていうのを正確に伝える
みたいな意味もあるんだろうけど
その時の体験とか空間みたいなのを
表現するのってなるとやっぱり
文学的な表現になったりとかすると思うんですね。
だから僕らは小説で感動できるじゃないですか。
ニュースよりもね。
もっと言うと小説よりも映画とかさ
ショートムービーみたいなのもそうかな
自分の中のその体験っていうのを
立ち上がらせてくれやすいものっていうのは
自分の実感とひも付けやすいんですよね。
でも本来そうじゃないはずだ。
僕らが文章を書く時とか
文字を見た時にその体験っていうところまで
含めて想像できるっていうところが
ある種の優しさでもあるのかなと思ったわけなんです。
宮崎監督はおそらくそれを言ってるのかなと思ったんですね。
かなり辛辣な言葉だなって思ったけど
じゃあそんなに辛辣な表現で
グサグサ言う宮崎監督はどう調べてるんですか
ってなりますよね。
宮崎監督はロケ版って言って下見に行く時
スタッフにこういう風に言うんでそうなんですよ。
カメラを持ってくな。
写真を見て書くな。
記憶で書けっていう風に言うんだそうなんです。
なんでかっていうと写真撮っちゃうと
人ってその写真を見て書いちゃうそうなんですね。
写真に写った色をそのまま塗っちゃうとか。
そうじゃなくて
現地で自分の体丸ごとで
その風景を浴びて
その時の空気とかいろんなものを浴びて
その記憶を焼き付けて書いてこいと。
で、書く時は
その記憶を想像力で持って
もう一回組み立て直して絵にしろっていう風に言ったらそうなんです。
つまり
宮崎監督にとっての絵を書くっていうのは
整理ではないんですよね。ロケ版に行って
ここの地方のこれを整理して再現し直すってわけじゃない。
想像なんですよね。
体に焼き付けたもの、その時に実感したものを
想像力でもう一回立ち上げて直す。
生み出す。
それだから生み出すっていう表現をしているんです。
宮崎監督のインタビューに出ていた
その軍船にしても同じですよね。
実物の模型を見に行って
記録を読み込んで
その生々しさっていうものを少しでも自分の体で実感しながら
体に焼き付けて
自分の体をぐーっと体で
体験しに行くと
これは画面の表面を指でなぞるだけとは
やっぱりちょっと違うんですよね。
宮崎監督が批判したものとはやっぱり
一線隠しているわけだ。
つまり同じ調べるっていうものに対しても2種類あるわけだ。
宮崎監督の調べ方っていうのは
自分から世界に出かけていく
想像力を注ぎ込んで自分自身の体を通したものを喋ってる。
こういう風に痛むのか。
じゃああの事故で
痛んだ人っていうのはどれだけの痛みだったんだろう。
そういう自分の体を通した
想像っていうものが入ってる。
でも僕がぐさっときた
僕の嫌だな嫌だなと思ったその調べ方っていうのは
画面の上で拾ったものを論理的に組み合わせるだけです。
この病気はこういうメカニズム
だからこういう薬がいいのか
だからこういう治療をしようみたいなね。
だから大体受け入れになるわけです。
宮崎監督のものは
受け売りとは言わないですよね。
自分で新しく体験しに行こうとしているし
リスペクトがあるわけなんですよ。
同一化してないというか。
でもこれって道具のせいだけでもないんじゃないかなって思うわけです。
iPadだからダメで
鉛筆だったらいいのか
って言うとそうじゃないですよね。
自分自身の体が世界の方へ出かけていっているのかどうか
自分の体験と紐付けて想像できているのかどうか
この違いだけなのかなと思うわけなんです。
この違いだけなのかなと思うわけなんです。
「学んでも変わらない」身体と感覚の回復
でも諸事あるとかね。
対人支援の現場でもしょっちゅうよくあることです。
手術を勧めていて
クライアントの方がね
すごい真面目な方で
自己肯定感を高める本とか
眉相のアプリとか
HSPの診断とか
本も何冊も読んで色んなのを受けた。
変わらない,思い通りにいかない ということがあったりする.
まさに,良くなった時の体の状態 というのがなかなか想像できない,
自分の実感として思い出せない というところにポイントがあるんじゃないかなと
そこは僕は思っているんですよね.
でもこれってさ,構造的にもうどうしようもないというか,
個人の中だけではどうしようもない部分もすごく多くて,
体ってやっぱり怖ばっちゃってるんで,
感覚というものが立ち上がってこない状態になってるんですよ.
そういう構造なんですよね,体って.
疲れてくれば,嫌な,疲れとして感覚が上ってきます.
でもそういうのばっかり上ってくると脳はしんどくなっちゃうので,
ちょっと一旦,ほっといて,うるさいから.
というふうに聞いちゃうんですよ.
そうすると体の状態はわからないので,
あ,いけんじゃない?というふうに他の活動のほうに意識がいっちゃう.
でも体の疲労はどんどんどんどん溜まっていくもんで,
溜まっていけば溜まっていくほど,
またそのノイズの遮断する強度というのも上がっていくでしょう.
より聞けなくなってくる,体の感情がわからなくなってくる.
で,いよいよやばいぞというふうになった時に,
無意識化で脳のほうが焦り始めるんですよね.
防衛本能,生存本能みたいなものが働いて,
とにかく落ち着かない,とにかく不安だということが起きてくる.
なんで不安なのかというと,体のほうが大変な状態になっているからなんですよ.
皆さんも経験ないですかね?
ご飯食べたら,あ,お腹空いてたんだ私とか,
おしっこに行ったら,あ,おしっこ我慢してたからこんなセカセカしてたんだ,
ふーみたいな体験.
あのレベル,あれと同じようなことが体の中でも,
もう全然違うレベルだけどね,おそらく起きている.
自立神経を整える,みたいなのもそうですね.
自立神経が整うというのは,
睡眠8時間とるとか,朝昼晩3食野菜中心の食べ物を食べるとか,
私質に気をつけて30分のウォーキングをするということじゃないんですよ.
これはあくまってきっかけにすぎないんですよね.
それをすることで,
心地いいなあ,いい感じだなあ,不快感がないなあ,
不快感があったとしてもそれに気付くっていうような,
その体感にこそこの自立神経が整うという言葉がひも付くべきなんだけど,
どうもやっぱり違う方向に行ったりもするわけだ.
でもこれ,感覚がわからなくなっちゃうというのは,
誰が悪いわけでもないんですよ.
本人にそれなんでわからないのって言ったって,
わかりようがないんですよね.体から立ち上がってこないからね.
だからこそ,知識っていうものを集めたくなります,僕らは.
不安で実感に目指していないから.
だからいろんな勉強をして,
言葉が豊かになっていって,理路整然と話せる.
これが原因でこうこうこういう風になってるんじゃないかなと思う.
この間読んだ本とか,僕が持っている知識では,
おそらくこうだからこうなんだろうみたいな.
クライアントの方でもそういう方いらっしゃいますよ,やっぱり.
熱心に今ね,それこそ情報がたくさんある時代だから,
おそらくこうなんじゃないかなと思うんですよって来る.
じゃあどういう実感があるんだろうと思って,
それってどの部分にどんな感じで感じるのか,
教えてもらえますかっていう風に聞いて,
聞いた途端に,なかなかそれが答えられないっていうことがあるんですよ.
すごい,なんだろうな,
自己肯定感が低くてみたいな相談を受けて,
どんな風に,その低い時ってのはどんな風に感じるんですかってお伺いすると,
いや,人に何か言われた時にすぐ傷ついちゃうんですよねみたいな.
傷つくっていうのはどんな感じなんだろうっていう風にそっちの方を聞くんだけど,
傷つくっていうのが自分の実感でどうなるかみたいなのを表現する,
機械みたいなのも極端に少ないからね,今は.
そこを認識もなかなかできないみたいなこともあるんですよ.
息苦しくなるんだよとか,
もうなんかギューっていう感じでうわーなんだよねみたいな表現でも全然いいんですよ.
むしろそういう言葉に起こす前の言語,
こういうのを一次言語って言ったりもしますけど,
オノマトペとかの領域がそれに近いですかね.
言葉になる前の感情として立ち上がってくる前の感覚のことです.
これを浄土とかっていう風に言ったりもするんだけど,
またこれ浄土とか感情っていうのの最近の使い方と混同しちゃうのもなんか嫌だなと思って,
僕はあえて言葉になる前の感覚っていう風に言ってるんですけどね.
その感覚っていうものが立ち上がるにはやっぱり体を癒していく必要があるわけなんです.
気持ちになる感覚を広げていく必要があるってことです.
そうすれば実感立ち上がってきます.
体の構造としてはそうなっている.
そうして初めてこの世界で生きてるなーとかっていうことをわかることができるんだと思うんですよ.
宮崎監督のあの言葉をね,冒頭で言った言葉を聞いて,
僕自身もすごいグググってなりました.
目の前で言われたら多分反応したくなっていると思う.
でもね,ちょっとこう冷静に,それこそカットなるような体の反応というものを沈めながら,
解きながら冷静に考えてみれば,
ああ,もう全く自分のことだよな,自分にそういう部分間違いなくあるなと思ったので,
今回のボットキャストで話そうと思ったんです.
知ったかぶりだったなーというふうに認めるというものも,
たぶんこれすらも入り口にしかならないと思います.
たぶん自分で気づいていないような,
そういうおごりとか,知った気になっているみたいなものってたぶんいっぱいあるんだと思うんですよね,まだ.
だからこそ,これからどういうふうに生きていくのか,
どういう構えでいろんなものに接していくのかっていうところは,
生きていく中で必要な構えというか,
楽しく生きていくにはそういうのがあった方がいいんだろうなって思ったんですね.
皆さんもぜひ,僕のボットキャストもそうですけど,
できるだけそうならないようにというふうには書いているつもりなんですけどね.
あくまで僕個人の,ただの一人の,
なんかおっさんが一人でしゃべっていることの中だけなので,
ああ,私の体験だったらどうかなっていうふうに,
一度自分の体に戻すっていうものを,
一緒にやってみませんかっていう話でした.
身体感覚を取り戻すための問いかけ
ドキドキでいいからね.
僕も皆さんにそういうことをこれからも問いかけていけるようにやっていきたいと思います.
逆に突っ込んでくれたりもできいただけるとうれしいなと思います.
そういうのが言えるのが友達だったりもすると思いますからね.
はい,ということで,
今日の身体の教養ラジオ,
これで終わりにしたいと思います.
またぜひ遊びに来てくださいね.
あ,そうだ,今月末くらい,今6月5日ですけど,
6月の末くらいにまた,
また私大沼達也の私塾の応募が始まりますので,
ぜひ気になる方はチェックしてみてください.
メールの方に登録いただくとその情報とかも全部来るようになってますので,
ぜひ気になる方は,
僕と一緒に学びたいと思っていただける方は一緒に勉強しましょう.
一緒にセッションを練習したりしながら,
こういうことを共有できればと思います.
はい,ということで,
今日ものんべんだらりといきましょう.
また会いましょう.