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苦しみ人にブッダが施した心のケア
2026-09-19 11:35

苦しみ人にブッダが施した心のケア

我が子を失った母親がブッダの導きで気づいた「苦しみを和らげるヒント」とは? 自分だけに目が向きがちな苦痛の渦中、他者との比較を通じて「苦しみを相対化」し、客観的に捉えることで心を軽くする知恵を解説します。


【目次】

病院の待合室は良い場所

キサーゴータミー物語

子を失ってしまった母

ブッダから息子を生き返らせる方法を教えてもらう

身内を失った経験がない人はいない

ダンマパダ287偈

不幸のはじまり

日野原重明さんの話


【出典】

『ダンマパダ・アッタカター』及川真介訳

『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳

『生きかた上手』日野原重明


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【大忍貫道プロフィール】

1987年福岡県生まれ。花園大学文学部卒業。臨済宗妙心寺派僧侶。

尾張妙興寺僧堂にて修行。

2011年より九州地方の臨済宗妙心寺派寺院にて住職を務める。

SNSでも仏教の情報発信を行い、Instagram フォロワーは4万人を超え、Podcastフォロワーは3千人を超える。

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サマリー

病院の待合室で他の患者を見たことで「自分だけが辛いわけではない」と感じ、気持ちが楽になった体験から、苦しみを相対化する知恵を語る。子を失ったキサー・ゴータミーは、ブッダに「死人を出したことのない家」の白からしを求められ、村中どの家にも死別経験があると知る。ブッダは、苦しみの中では自分だけが不幸だと思いがちだが、周囲へ目を向けることで苦しみを客観視し、軽くできると説いた。日野原重明の患者への対応も紹介し、他者との比較は自分の苦しみを評価し直すきっかけになるとまとめる。

病院の待合室で苦しみを相対化する
私、この病院の待合室っていい場所だなと思うんです。
もちろん、この病院の待合室にいるっていうのは、どこかしら不具合を抱えているということなので、できることなら行きたくない場所なんですけれども、
最近ちょっと私、ケガする機会が何回かありまして、久しぶりに病院に行くと、そこで待合室で大勢の患者さんがいらっしゃって、それを目の当たりにしたとき、
あ、自分だけが辛いわけじゃないんだなと思えたんですね。
一人で部屋の中で痛みに耐えている時よりも、はるかに気持ちが楽になったんです。
これは、あることが自分の中で起こってて、それはブッダがしばしば苦しんでいる方に処方されたやり方なんですね。
キサー・ゴータミーと白からしの物語
今回は、キサー・ゴータミーという我が子を失った母親の物語から、苦しみを和らげるヒントについてお話ししたいと思います。
今回の物語の主人公は、キサー・ゴータミーという女性です。
彼女はもともと貧しい家の生まれでしたが、ひょんなことからお金持ちの息子と結婚をしまして、かわいい男の子を出産します。
ここまではシンデレラストーリーのような良い人生だったんですけれども、突然の不幸が彼女を襲います。
かわいい我が子がよちよち歩きをするようになった頃、突然亡くなってしまいます。
よちよち歩きをする頃なので、1歳前後かなと思うんですけれども、本当にかわいい盛りですね、の我が子を失ってしまったんです。
彼女はそれまで、人の死というものについてまともに出会ったことがなかったそうなんです。
そのため、人が死ぬことへの耐性がついてなかった。
この人が死ぬということに耐性があるのかと思われるかもしれませんけれども、私が見ている限りはこれはあると思います。
悲しくないとかそういうことでは全くなくて、身近な人が亡くなると必ずみんな動揺します。
頭が働かないようになって、普段にはないような効率の悪い動きをしてしまったり、大事なことをすっぽりと失念してしまったりする。
よくお葬式とかで結構な確率で手落ちというか不幸届きみたいなものが出るんですけれども、これはもう仕方がないんですね。
本人ではどうしようもないようなダメージというものがそういう形で表に出てくるんですね。
でもそういう中でご高齢の方の方が割といつもと変わらないようないつもに近い動き方をされるんですね。
これは人の死に対する耐性がついているんだと思うんです。
長く生きるとそれだけ多くの方を見送ることになりますね。
なので喪失、人がいなくなるということ、これが人生にはつきものなんだ、織り込み済みなんだってなっていくんだと思うんです。
お坊さんもやっぱりそういう傾向が強いなと思うんですけれども、これは決して悲しんでいないとかそういうことじゃないんですね。
上手い表現が何かないかなって私もいろいろ考えたんですけれども、ちょっとこれは耐性がついている以外ちょっと私には表現できないんです。
ただキサー・ゴータミーはそれがなくて、死への耐性が全くない中で我が子が亡くなってしまうんですね。
この我が子の死を受け入れられないキサー・ゴータミーは子供を仮想場に連れて行くということを拒否します。
そして亡き殻を抱いたまま近所の家々を訪ね回って我が子を生き返らせる薬を求めます。
そんな彼女を近所の人たちは見て、気が狂ってしまったんだって冷ややかな反応をするような人もいたんですけれども、
一人親切な人がおりまして、この人がブッダを紹介してくれます。
キサー・ゴータミーは本当に一理の望みですね、かけてブッダの元を訪ねまして、息子を生き返らせる薬について質問をします。
するとブッダは、一つまみの白からしを手に入れなさいと指示されます。
このように指示を受けたキサー・ゴータミーは、それはどこで手に入れたらいいでしょうかって質問をしますと、
ブッダは、今まで一度も死人を出したことがない家からもらいなさいと、こう言われます。
キサー・ゴータミーは早速村に入りまして、最初の家を訪ねます。
息子の薬のために白からしをいただきたいのですがと、こうお願いしますと、
家主は心よく受け負ってくれまして、家の中から白からしを持ってきてくれました。
彼女はそれを受け取るタイミングで、今までこの家で亡くなった方はおられませんかと、
訪ねますと、家主の表情が曇る。
あなたは何をおっしゃってるんですか。
生きている人より亡くなった人の方がはるかに多いんですよと返されてしまいます。
つまり、家族を亡くした経験があるということですね。
これではブッダの言われた条件には当てはまりませんので、
キサー・ゴータミーは、ああでは結構ですと次の家に向かいます。
ところが、村中の家を朝から晩まで訪ね歩いたにもかかわらず、
家族を亡くした経験のない人、家、こういうものは一件もありませんでした。
苦しみが自分だけに向く仕組み
これを受けて彼女は思います。
これまで私の子供だけが死んだと思っていた。
でもそうではなかった。
そんな当たり前のことわかってなかったのかって思われるかもしれないんですけども、
苦しみに直面した人の心理、多くの場合はこうあります。
自分だけが苦しんでいるように思えてしまうんです。
ブッダが教えた苦しみの相対化
それに対してブッダは気づきを与えているんですね。
こうしたブッダの導きによって息子の死を受け入れたキサー・ゴータミーは、
亡骸を埋葬してブッダのもとに向かいます。
ブッダから、白からしは手に入ったかねと尋ねられたキサー・ゴータミーは後悔します。
手に入りませんでした。
生きている人より亡くなった人の方がずっと多いからです。
このキサー・ゴータミーの言葉を受けてブッダは、
我が子を失った時、私の子だけが死んだ。
人はみんなこう思う。しかしそうではない。
このように言われて次の死を唱えられました。
子供や家畜のことに気を奪われて、心がそれに執着している人を
死はさらっていく。
眠っている村を大洪水が押し流すように。
この死を聞いた瞬間、キサー・ゴータミーは悟りの最初の段階に至りまして、
出家をこいました。
この物語というのは、仏教では最も有名なものの一つなんですけれども、
ここでブッダがキサー・ゴータミーになされたことというのは、
苦しみを相対化させるということです。
不幸の始まりというのは、周囲に目が向かないところにあります。
つらいこととか悲しいことが起きると、
それで一杯一杯になってしまって、
目は自分にばかり向きます。
なんで自分がこんな目にあうのか。
なんで自分ばかりがと。
よく、恋は人を盲目にさせるって言いますけれども、
苦しみもそうなんですね。
周囲が見えなくなって、まるで自分だけが不幸かのように感じてしまう。
苦しみが絶対化されるんです。
でも実際には、
自分と同じような苦しみを味わっている人もやっぱりおられるし、
自分より苦しい経験をされている方もいらっしゃったりする。
ブッダはそこに目を向けさせるんです。
強制的に自分に向いている目を外に向けさせる。
そうすることで苦しみが相対化されて、
客観的に自分が経験している苦しみを眺める、
評価することができるようになる。
この相対化っていうことで、
苦しみというものは軽くなるんです。
ブッダはしばしばこの手法をとられてまして、
キサーゴータミー以外の人にも同様のことをされています。
あるときは、我が子を失ったお母さんが仮想場で、
ジーバーという娘の名前を叫んでいるときに、
ブッダはこう言うんですね。
ここではジーバーという名前の娘が数えきれないほどダビにふされた。
あなたはどのジーバーの名を呼ばれるのかとお母さんに語りかけられた。
インドにおいてジーバーっていうのはよくある名前なんだそうで、
加えて古代インドでは子供のうちに亡くなってしまうっていうことが大変多かったんだろうと思います。
そういう背景の中で悲しんでいるお母さんの目を
自分の外に向けさせて苦しみを相対化させるということをしたんですね。
日野原重明の患者への言葉
これに関して、
聖露華国際病院の院長であられた檜原茂明さんも同様のことをおっしゃってまして、
診察すると患者さんから身の上話をされるということが多かったそうなんですけれども、
患者さんは大抵私ほどの不幸者はいないと話を結ばれるんだそうです。
その時に檜原さんはあなたの苦しみはどん底の苦しみの十分の一くらいでしょうと、
そうやってこれまで出会った中で大変つらい人生を歩まれた方の話をされるんだそうです。
檜原さんが続けておっしゃられているのが、
人と比較して自分の方がマシだと思うのは寂しいことのようですが、
それでも悩みの果宙にいる当日には気持ちを切り替えるきっかけになります。
自分の苦しみを評価する力
人は絵でして自分の不幸には過敏なものです。
小さな時が刺さったくらいのことであっても、
自分の不幸となるとその10倍20倍にも痛みを覚えます。
不幸を実感するのは絶やすいのですと。
この人と比較して自分の方がマシと思うことを、
人を出しに使っていると、こういうふうに捉えられる方もいらっしゃるかもしれないんですけれども、
そうではないんですね。
自分の苦しみの本当の評価をするということなんです。
評価するというのがここでの目的なんです。
自分だけしか知らないと評価できませんからね。
で、これを他人からしてもらうんじゃなくて、
自分自身でできるようになってくると、
苦しみというものに対しての一つの武器を持つことになる。
そういうふうに私は思っています。
今回もご視聴いただきありがとうございました。
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