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2025-11-01 13:44

【晩年のブッダ編#4】「自らを頼りとし、法を頼りとせよ」ブッダの最期の教えを読み解く

▼今週のトピック


法事後の会食「御斎」の意味/


ブッダの体調不良/


師は隠し事をしない/


自灯明法灯明の本当の意味/


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サマリー

ブッダはベールバ村でウワンゴに入りますが、重い病にかかり、死の苦痛を経験します。それでも心を落ち着け、弟子たちに自らを頼り、法を頼るよう教えを説き続けます。これは彼の教えの重要な一部であり、彼自身の実践を通じてその価値を示しています。ブッダの教えでは、貪欲と憂いを手放し、自らをよりどころとし、法に頼る生き方の重要性が説かれています。この考え方は、一喜一憂せずに平穏に生きることの大切さを強調しています。

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かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの僧侶、私、かんどう和尚がメタ的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
皆さん、こんにちは。前回はアンバーパーリーのところで食事を提供されたお話をしました。
こんな風にお坊さんに食事を振る舞うということ、これは現代の仏教でも当たり前にありまして、スリランカとかタイ、いわゆる南方の方の仏教国では、結婚式であったりとか、またお葬式の際に複数のお坊さんを招いて食事を振る舞うという習慣があります。
これはお坊さんに食事を振る舞うということが大変得の高い行いだと考えられて、それが自分たちの未来に良い影響を与えると信仰されているからです。
実は日本でもその習慣ってあるんですよ。
現代でも一周期とか三回期とか、ああいう法事の後にお勤めをしますね。
そしてその後に会食をするじゃないですか。
この会食のことをお時っていうふうに言います。
おっていうのは丁寧な言葉、お米とかのおですね。
そして時っていうのは、斎藤さんって苗字でありますよね。
ハンカチ王子の斎藤雄喜さんとかですね。
あの斎ですね。これでお時って言うんです。
この斎っていう字はですね、これ時間、時っていう意味なんですよ。
なんでこういうふうにお時って呼ぶのか、時間って呼ぶのかっていうと、
お坊さんはもともと食事をとっていいのは午前中までっていうふうにされてたんですね。
その時間内の食事、午前中以内の食事を時にかなった食事っていうことでお時って呼ぶんです。
つまりこの法事の後にお坊さんに食事を振る舞うからお時って言うんですね。
しかも古いお経であったりとか、現代の南方の仏教国の様子を見ると、
お坊さんに食事を振る舞うっていうことが法事のメインなんです。
お経を呼ぶっていうのは禅祭みたいな扱いなんですね。
現代では食事をね、法事の後の会食の時にお坊さん抜きでされるってご家庭も結構多いんじゃないかなと思うんですけど、
お坊さんに食事を振る舞わなかったらお時にならないんですね。
普段私こういうことね、段下さんとかでは言わないんです。
それを私が言ってしまうと食事を請求しているみたいなね、要求している感じになっちゃうので、
言いづらいことなので言わないんですけれども、
皆さんはぜひですね、ご自身が関係あるお坊さん、お寺さんと法事をするとか、
そういう機会がありましたらね、法事の後にはお坊さんに食事をちゃんと提供していただいて、
もし提供できない、一緒に食事できない時でもお弁当とかを届けると、
しっかりお時になって苦徳が詰めるんじゃないかなというふうに思います。
ウワンゴにおけるブッダの苦痛
さて、アンバパーリーンを後にしたブッダは、ベールバ村というところで、
ウワンゴという修行集中期間に入ります。
インドの仏教ではウキ、スコールの時期ですね、この3ヶ月間というのは草木が伸びるので、
そういうところを歩き回るということをしないんですね。
なんでしないかというと、草木が伸びるとその中に潜んでいる虫が見えませんよね。
だからそういう見えないから踏み潰してしまうという可能性が出てきます。
だからこのウキの3ヶ月間というのは、お坊さんは外を出歩かないですね、
一定の場所に留まって修行に専念するということをやるんです。
これをウワンゴというふうに言います。
ウワンゴという字に、安心するのは安心ですね。
そしてゴというのは居住空間とかの居をゴと読むんです。
これでウワンゴというふうに言います。
これ1年に1回あるんですけれども、
この時のブッダはこのベールバ村という場所でウワンゴに入られたんですね。
ただこのウワンゴの時期において、ブッダはすごく重い病にかかられてしまいます。
もうだいぶお年ですからね。
ブッダの教えと弟子への指示
そしてこれ死ぬんじゃないかなって、
死を意識するほどの激痛に苛まれたというふうに振り返られるんですね。
ご自身でもこれはちょっとやばいかもしれないと、
まずいかもしれないと思われたようなんですけれども、
でもブッダは心を落ち着けて悩まされることなく耐え忍ばれたというふうに言われています。
普通は体の調子が悪くなると心の調子も悪くなりますよね。
風邪ひいたりすると弱気になったりするじゃないですか。
体の調子に心が引っ張られるんです。
でもブッダは体は不調でも心はそれに引きずられることなく、
心は健やかに穏やかにいることができるということを身をもってここで示されているんですね。
こういうところはブッダがしばしばおっしゃられたところなんですけれども、
まさにここで体現をされていることになります。
そして弟子たちに対して何も告げずにこの世を去るのは良くないと思われて、
そして調子を取り戻したんだそうです。
この時に月人であったアナンダ尊者はブッダの死を覚悟したようなんですね。
そういうところがあったので、回復したブッダに対してこんなことを言うんです。
ブッダが亡くなるんじゃないかと思って目の前が真っ暗になりましたが、
ブッダが私たちに言い言もなく亡くなられるわけがないと信じておりましたと声をかけました。
するとブッダは今さら私に何を期待するんですか。
私はこれまでたくさん教えを説いてきたではありませんが、
死に悪権なし秘密の教えはないんだ。すべてを明示してきましたと。
こんなふうにアナンダ尊者を悟します。
そしてこう続けるんです。
私はサンガ、仏教の組織相談のことですね。
これを率いているとか、みんなが私に依存しているとか思ったことがありません。
私はもう老年に達し、ボロボロの車が補修の皮紐でかろうじて動いているようなものです。
これはですね、健全な指導者と横島な指導者の違い、別れ目になるなと思うんですね。
横島な指導者というのはみんな俺がないとダメだなと、
俺のおかげでこの組織が成り立っているんだみたいな、
やっぱりこういう傲慢さが出てくるじゃないですか。
でもブッダはこの時すでにかなりの指導者の立ち位置にいるんですけれども、
でも私はそんなことを思ったことがない。
私もみんなと同じ一後生員なんだと、こういうことをここで言われているんですね。
普通はね、名声があったりとか、また周囲からチヤホヤされると、
勘違いをするようになりますね。
この勘違いってすごく大きくて、私でもやっぱりそうなんですよ。
褒められるとすぐいい気になりますよ。
だからね、自分でね、いつもね、いかんいかん調子に乗っているなと思ってね、
自制するってことがあるんですけれども、
でもブッダほどの立場になられて名声があっても、
やっぱりそれをね、常にそういうふうにならないように意識されていたんだと思うんですね。
このあたりもね、ブッダの徳の高さが現れているなって私は思うんですけれども、
そしてね、ブッダは次の有名な言葉を残されるんです。
ああなんだよ、あなたたちは自らを島とし、自らをよりどころとし、
法を島とし、法をよりどころとしなさいって言うんですね。
自らを頼りにすることの重要性
この島っていうのはディーパっていう単語を翻訳したものになるんですけど、
これは三角図のことだって言われます。
洪水とかで人が流されていると三角図みたいな出っ張りがあったら、
そこから岸に上がってなお逃れることができるんだそうです。
そういうところからディーパっていう言葉は避難所とかよりどころっていう意味を持つんですね。
あと加えてディーパには島名明かりっていう意味もあるんです。
だから、漢字、中国にね、お経が伝わった時に翻訳をされるんですけれども、
この翻訳された経典だと、これは自島名、法島名っていう風に翻訳をされます。
どちらにしてもここで言われているのは、
自分というものをよりどころ、頼りにしなさいと。
法というものを頼りにしなさいって言われてるんですね。
じゃあこの自分を頼りにする、法を頼りにするっていうのはどういうことなのかっていうところ。
ブッダは次のように続けられるんですね。
体と感受作用と心と諸々の事象、これらを熱心に観察して、
ブッダの教えの核心
貪欲と憂いを取り除くこと、これこそが自分をよりどころとし、
法をよりどころとするということであると。
こう締めくくられます。
何言ってるかわからない方が大変じゃないかなと思うので、
ここちょっと説明を加えます。
仏教では体と感受作用と心と諸々の事象を観察をするという瞑想法、修行法があるんです。
これによっていくつかの煩悩が立たれると言われています。
体っていうのはこれ肉体のことですね。
感受作用っていうのがちょっとわかりづらいかなと思うんですけど、
外界の対象と目とか耳をはじめとする感覚器官、これが触れたときに生じる感受のことです。
例えば心地よい音楽を聞くと、心地よい音楽が流れると、
これを自分の耳が、感覚器官の耳が捉えますね。
その結果心地いいなっていう印象を受けますよね。
反対に黒板を爪で引っ掻くような音を聞いたら、
自分の耳が捉えたら不快だなっていう感覚を受けますよね。
この心地よさとか不快さとかこういう受け取り、これが感受という働きです。
そして心、心はそのままわかりますね。
最後諸々の事象っていうのはこれねちょっと翻訳するのが難しくて、
現象って言ったらわかりやすいですかね。
これらっていうのは自分の内側のものと外側のものなので、
つまり一切のもの、全てのものって言っていいかなと思うんですけど、
普段の私たちはそういう全てのものに対して
貪欲と憂いを抱きながら接しているんだということなんです。
貪欲というのは過度な欲求ですね。
憂いというのは憂鬱さということですね。
例えばですね、体というものに対してもそうですね。
もっと痩せたいとか、美しくありたいという欲求を抱きますよね。
その反対に華麗によって、かつての養殖が失われたりすることに憂鬱さを感じますよね。
手がシワシワになって嫌だなとかね。
あの時はシミもなかったのになとかですね。
こういう憂いってものを思いますよね。
ここではね、今私は体を例に出しましたけど、
要するに私たちの人生で起こるいろんな出来事に対して
一喜一憂することなくフラットに生きるということ。
これが自分をよりどころとし、法をよりどころとするということの意味なんですね。
アフタートークと寄付の重要性
こういうふうに徐々に死を意識した発言というのをぶっ飛ばされるようになるんですけど、
それが確定する出来事というのが起こるんですね。
その話を次回いたしたいと思います。
はい、それではここからはアフタートークとなります。
今日ですね、死に悪権なしという言葉を紹介しました。
ちょっとね、これ漢字でどう書くかというと、
死というのは師匠の死ですね。
師匠というものに悪権というのは握り拳と書きます。
つまり秘密にしていることはないんだということ。
全部を開示しているんだということ。
これが死に悪権なしという言葉です。
普通はこの秘密にするということで先生というのは収入を得ますよね。
習い事とかでもそうじゃないですか。
習い事も秘密にしていなかったら、みんなにもそのままね、
どこでもかしこでも教えていたら、
月謝を払うということはありませんよね。
でも秘密にするわけですよ、やっぱり普通はね。
秘密にすることでそれを教えてもらう対価として月謝を払うという、
これが習い事のシステムになっていますね。
教師というのは自分の持っている技術とか知識、
これはすごく努力して手に入れたものなので、
安々と人に教えるということは普通はしないんですよ。
でもそれ悪いことじゃないですよ。
技術を習得するって膨大なお金と時間がかかるものなので、
それを他の人に提供するのに対価をもらうというのは、
これは当たり前の話ですよね。
でもブッダはそれをしないと言われているんですね。
ここがね、やっぱりブッダの素晴らしいところ。
素晴らしい、よしよしで物を語ったらちょっとあれですね、微妙ですね。
これはブッダの一つの信念なんですね。
そこを私も見習わなきゃいけないなと思っているので、
ポッドキャストを有料化する、お金を取るということはやっぱりしたくないなと思ってしないんですね。
ただ応援してくださる方が増えると、
それだけ番組の充実にはつながりますので、
支援してくださる方がおられると、
それはもう大変ありがたいので喜んで受けてます。
これはブッダもやっぱりそういうふうに受けてました。
これが寄付、お伏せというものになりますね。
もし支援してくださる方がおられましたら、
概要欄にサポーターの申し込みリンクを貼っておりますので、
そちらからご支援いただければ大変ありがたいです。
それではまた次回お会いしましょう。
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