ブッダの教えの概要
かんどう和尚のはじめての仏教。
この番組は、仏教を学んでみたいという方に向けて、
インスタグラムでフォロワーする2万人超えの僧侶、私、かんどう和尚が
一から仏教を解説していくプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。
ブッダの前期であるニダアナカタに基づいて、
ブッダの生涯をじっくりお話ししております。
前回のエピソードでは、ついに修行中のブッダ、
菩薩というふうに呼びますけれども、
この菩薩が悟りを開いて、
ブッダになられたところまでお話ししました。
これからは呼び方をブッダというふうに統一して
話を進めていきたいと思います。
前回、悟りに至るために何が必要だったのか、
苦しみの原因の探求
そして悟りの瞬間にブッダが語った言葉について
ご紹介しました。
私たちの苦しみの根本的な原因というのは、
淡泊なんだと。
これ覚えておられます?
淡泊というのは盲修、または割愛という風にも
漢字では、中国語では翻訳をされますけれども、
これを断ち切ることによって悟りに至って
輪廻を終えて二度と生まれ変わらなくなる。
このような仏教の核心部分について触れていきました。
でも、みなさん、こんな疑問をお持ちじゃないかな
と思うんです。
結局、何で悟れたの?
実はこれ、はっきりと分かっていないんですよ。
はっきり分かっていないというか、大きく分けて
二つの説が仏教の中でも伝統的に言われているのです。
一つ目の説は、苦しみが発生するメカニズム、
これを解明したことによって悟りに至れたというもの。
そしてもう一つが、四つの真理を見極めたことで
悟りに至れたというものです。
今日はですね、この禅舎の方をご紹介したいなと思います。
この苦しみが発生するメカニズムのことを
十二支縁義と言います。
漢字はですね、十二っていうのは
江戸の十二支ってありますよね。
この十二支っていう字を書きます。
そして縁義っていうのは縁義が良いとか縁義が悪いとかいう
あの縁義の字ですね。
この詩はですね、スリランカとかミャンマーとかタイとか
インドの南の方に伝わった仏教国ではすごく重視されていて
ブッダがこの十二支縁義を洞察したことによって
悟りに至ったというふうに言われます。
ちょっと言葉の意味から考えていきたいんですけれども
この十二支縁義っていうのはですね
十二の要素、パートっていうのは十二支っていう意味です。
そして縁義っていう言葉
これは日本語ではですね、現代だいぶ違った意味
ちょっとね、ずれた意味で使われているんですけれども
本来縁義っていうのは原因と結果の法則性のことを言うんです。
ブッダはですね、世界というものが神様のおぼしめしとか
十二支縁義の詳細
偶然によって動いているんじゃないって考えたんです。
原因があれば結果が生じるっていうような
原因と結果の法則性によって動いているって考えたんです。
これすごく当時のインドでは革新的だったんですね。
当時のブッダが生まれた時のインドっていうのは
この世の中っていうのは神様によって決まってくるみたいな
だから神様にいかに気に入られるか
これがすごく大事なんだっていう風な
これ非常にね、ざっくりとした言い方してるんですけれども
大まかに言うとそういう風な世界観が数世を占めてたんですね。
そういう中でブッダはいや違うよって言ったんです。
この世界は神のおぼしめしじゃなくて
原因と結果の関係性で動いてるんだよと。
だから何か結果が生じてるんだったら
それには必ず原因があるんだと。
この原因を叩くことによって
結果が変わってくるんだっていう風に説かれたんです。
すごく現代的な発想ですけれども
もう2500年前のインドにおいて
ブッダはそういう発想思想を持ってたんです。
だから仏教は新しかったんですね。
他と違ったんです。
もしも他と同じようなことを言ってたら
仏教は新しくもなんともない形になってしまうんですけれども
でもこの縁起こそが仏教のオリジナリティがあるとか
そういうところになっています。
では苦しみっていうのがどういう風にして生まれるのか
ブッダはそのプロセスを12の要素に分けて説明したんですね。
これが十二支縁起です。
その順番は無明行識明識六書即十哀愁無性老死
一気に聞いてもわからないですよね。
これ覚えるんですよ。
我々僧侶はですね。
十二支縁起って言った時に
テストとかにも学生時代とか出るんですよ。
暗記するようにこうやってパンパンパンパンって覚えていくことをやるんですけれども
皆さんこんな風に覚える必要は全くないので
まず一つずつゆっくり丁寧に説明をしていきますね。
最初無明って私言いました。
無明っていうのはないという字に明かりと書いて無明ですね。
これは人間の根本的な愚かさのことです。
だから知識がないってことで無知という風にも言います。
これが私たちの苦しみの出発点にあたるんですね。
そしてその次に来るのが
行くと書いて行くと書いて行と言います。
これは無明に基づいて起こる意思の働き。
意思っていうのはああしてやろうこうしてやろうっていうそういう意思ですね。
これが行動の原動力になります。
その結果として生まれるのが識と言います。
識っていうのは認識、何か物事を認識するのを識ですね。
この認識っていうのはそういう風に間違ったものに基づいて生じてきた心の在り方ということですね。
その次に来るのが藐識。
これは藐っていうのは名前の名ですね。
これを藐と読みます。
そして識っていうのは色形の色です。
これが藐識。
これはですね、そういう風な間違った心でもって世界を私たちは作り上げていくと。
これどういうことかというと
例えば車ってありますよね。
1台の車を見た時に私たちはまとまったものとして認識をしますけど
仏教的にはですね、それは世間的にはそうでいいかもしれないけど
真実の見方からすると間違ってるって言うんです。
本当は車っていうのはタイヤとか窓とか車体とか
そういう風な部品があるだけなんです。
それを車という一つのまとまりとして見るのは
私たちがそれを見た時に心で作り上げて概念化しているんだって考えるんですね。
心で作り上げてしまってるんです。
本当はただバラバラな部品があるだけなのに
私たちはそれを一つのものと車として見てしまうんだと。
そういう風にして世界を何でもそうですね。
椅子とかでもそうですよね。
机とかでもそうですね。
いろんなパーツがより集まってできてる。
ただ本当はパーツだけがあるだけなのに
私たちはそれを椅子とか机とかそういう風にして見てますよと。
こういう風に世界が作られていくのが明識ということ。
そしてその次が六書って言って
これは6つ、6ですね。
関数字の6。
そして書っていうのは応急処置とかの書です。
ところっていう字。
これは感覚機関のことです。
仏教では感覚機関は目、耳、鼻、舌、そして体、で、心。
心が感覚機関というのは最初わかりにくいかなと思うんですけれども
この6つが感覚機関としてあるんです。
その感覚機関が外の世界のものと接触をする。
これが足と言います。
触ると書いて足と言います。
そうやって感覚機関と外界の世界が接触をすると
それによって感覚が生じますよね。
暑いとか冷たいとかですね。
その時に寒い時期にあったかいものに触ったら心地良さがありますよね。
その反対に暑い時に暑いものに触ってしまったら不快ですよね。
こういう心地良さとか不快とか、あとはどちらでもない中性なものもありますね。
この3つの感受作用があるとこれを受という風に言います。受けると書いて受ですね。
そしてそういう風な受が生じることによって次は
心地良いものであったらそれをもっともっと味わっていたいという風に欲求が生じるんですね。
これを愛と言います。
人を愛するとかの愛ですね。
仏教で愛という字は出てくるとこれネガティブな意味なんです。
人を愛するとかそういう愛じゃなくて
これは欲求のことを愛という風に呼ぶんですね。
その次に出てくるのがそういう欲求があるとですね、次はしがみつくんですね。
この執着するんですね。
この執着することを主という風に言います。
これは取ると書いて主と言います。
その次に来るのがそうやって
執着することによって形作られる存在の在り方。
いわばその人の生き方のことですね。
苦しみの流れ
そういう風に生き方が規定されていくということ。
これをあると書いて有という風に言います。
そしてそういう生き方があることによって
次は執着に染まった人生が生まれてくるんだと。
これが生まれると書いて生という。
そして最後は生まれると必ず老い、病い、死が待っている。
だから老死が待っていると。
こういう苦しみにつながっていくんだということです。
今話し聞いてですね、なんとなくわかったような気がします。
なんかわかるようなわからんようなっていう
なんとも言えない気持ちが皆さんされてると思うんですけど
そのお気持ちっていうのは正解です。
みんなそうなんですこれ。
経典にもですね、この十二支縁義って繰り返し出てくるんですけど
各要素の細かい説明っていうのは仏陀はされてないんです。
一応されるんですけど非常にざっくりした説明しかされてないんですね。
だからこの後世の人たちはですね
これどういう意味って。こうなのかな。
いや違う、ああなんじゃないかっていう議論がずっと重ねられてきているので
今私は説明しましたけど
おそらく別の本とか別の方の説明は
全く違う説明をされる方もおられるんです。
実際にそういういろんな説明は私自身も知ってます。
じゃあどれが説明としてあっているのかというとやっぱりわからないんですね。
どれもね正直ちょっとこう
首尾をかしげたくなるような
話、説明になってしまうんですね。
今私が話したのはそういういろんな説がある中の一つの説なんですね。
だからこれが絶対ではないです。
絶対はね誰も物体から知らないですね。
そういうものなんですね。
しかも十二支援儀って言ってますけど
経典にはですね、もっと短い十二じゃなくて
五とか七とか簡略版もあるんですよ。
実はどっちの方が先にできてて
後から十二に膨らんだんじゃないかっていう説とかも
考え方もあるんですね。
もうすごく難しいんですね。ほんとややこしいですね。
さらに他の箇所では
悟りに至るのは短波を絶つことって
これさっきも前回の話でもそういう風に説明しましたよね。
短波を絶つことで悟りに至ったっていう風にね
家屋の話の時にしましたけれども
ここではね短波じゃなくて無明なんですよ一番最初が。
じゃあ短波どこ行ったのかっていうと愛の部分。
言いましたね私愛ってね。
あの愛が短波なんですよ。
途中に出てきてですね。
それはねもうなんか矛盾があるような感じでね
わからないんですよ。なんでこんなことになっているのか。
学者さんも誰もわからない。
でもそんなね十二支援儀ね
そういう風にわからないから価値がないのかっていうと
そんなことはやっぱりなくて
この十二支援儀の大原則というかですね
十二支援儀の演技っていうこと
これ自体が仏教の根本的なOSになるんですね。大原則です。
全てのものには原因があるっていう
因果の法則が仏教の核心なので
その中でそれを用いて苦しみのメカニズムを説明していく
苦しみが発生するメカニズムですね。
説明していくということ。これ自体はね
やっぱりすごく大事なことなんですよね。これこそが仏教なんですね。
そしてもう一つ大事なのが
この苦しみの原因である無明を打ち消すと
あとはドミノ倒しで全部の苦しみが消えていくという風に解説
これはねどの説でも一貫している。これはもう一貫しているんです。
こうやって説いているというところにも非常に大きな意義があるわけですね。
ちょっと無理やりまとめた感じもありますけれども
次回はですね、もう一つの悟りの伝承である
師匠体というものについてお話ししたいと思います。
どうぞお楽しみに。
アフタートーク
ここからはアフタートークです。
今回の十二支援儀どうでしたか?
途中で皆さん離脱されてないですか?
難しかったでしょう。難しいんですよ。私もいまいち分かりませんから。
だからあんまりね、こういう話したくないんですよね。
あまりにもいろんな解釈がありすぎて並立していて
どれもピンとこない。
どこかでどれかを話すとね、これいいなって思う節でも
どこかで絶対矛盾が出るんですよ。
だから説明するときもですね、どうすればこれ伝わるかなって
今回はね、もう頭の中でごちゃごちゃ考えながら
お話しさせていただきました。
でも今日ね、難しかったと思うんですけど
ここまでややこしい話っていうのは基本的にはもう出てこない
私が話す中ではですね。
だからちょっとね、今日でね、嫌だなって気持ちになった方も
思われるかもしれないですけど、難しいなって。
これ以上難しいのはもう出てきませんので
今回で懲りずにですね、ぜひ次回もね
聞いていただきたいなというふうに思います。
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