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うすだ
うすだです。
kai3
カイです。先日、朝日新聞ポッドキャストのですね、MEDIA TALKというコーナーを聞いてまして、
こちらですね、我々の番組の準レギュラーでもある伊藤大地さんが出演されている番組なんですけど、
先日の回で伊藤大地さんが持ち込んだネタがちょっと興味深くて、ちょっとうちの番組でものっかりネタにしようと思ってるんですけど、
ごん狐についてなんですけど、ごん狐ご存知ですか?なんだか。
うすだ
ごん狐、あれだよね、小学校の教科書とかに載ってた物語。
kai3
そうですね、童話、子供向けのお話。
で、ごん狐のテーマに入る前に、そもそもごん狐がどんなお話かっていうのを改めて一応説明しとくと、
うすだ
お願いします。
kai3
ネットミーム的にごんお前だったのかっていうのが有名な童話ではあるんですけど、
このごん狐自体は、ごんっていう名前の狐が登場人物なんですよね。
結構いたずら好きの狐で、いつも人間に対していたずらばっかりしていて、
ある時、兵十という人間が取ってきたウナギをいたずらで盗んじゃう。
で、その後ある時兵十を見たら、家が葬式をあげていて、
取ってきたウナギが病気のお母さんのために取ってきた、栄養をつけてねという意味で取ってきたウナギで、
それをごんが取り上げてしまったことで、すごい後悔したんですよね。
病気のお母さんのために取ってきたウナギなのに、なんで俺は悪いことをしちゃったんだろうってごんが反省し、
そこからごんは山で取れてきたものを勝手にお供えするようになったんですよね、兵十の家に。
でも兵十はそんなの知らないから、勝手に栗とか松茸とかをお供えしてくれてる人がいるって思ってた時に、
ある日、家の近くにごんが来てるのを見つけてしまって、
あのウナギを盗んだごん狐だと思って、手元の火縄銃で撃ってしまうと。
で、撃って近づいていくと、ちょうどごんが栗とか松茸を持ってきてるところを目にし、
あ、あの持ってきてくれてたのはこのごんだったんだっていう気づくと。
で、その最後が、「「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。
青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。」で終わるんですけど、
ここまでがね、まずごん狐のお話なんですけど、
kai3
これに対して伊藤大地さんの持ってきた議題がですね、
この話でごん狐が死んでるのか死んでいないのか問題っていう。
どう思います?うすださん。
うすだ
死んだって話ですよね。死んだというか、撃たれてしまったというお話ですよね。
いいことをしてたはずなのに撃たれてしまった。
ああ、俺は誤ったことをしたみたいなことを感じるという余韻を持って終わったという感じですよね。
kai3
のお話ですよね。
なんですが、この伊藤大地さんによると最近、ごん死んでない説っていうのがあるらしいんですよ。
で、その根拠というのが、ごんが死んだとはどこにも書いてないからという。
いやー、来たなーと思いましたね、これ。
これめちゃくちゃ興味深い話だなと思って。
うすだ
いいテーマだよね。
kai3
これ、どう思いました?うすださん。
このごんは死んでない、なぜなら死んだとはどこにも書いていないからという説。
うすだ
なんだろうな。これ説明しなきゃいけないのかっていうのが、
確かにこういう、こういうなんつーの、死んだってどこにも書いてないじゃないか的なやり取りというのを、
最近、見るようになった、多く見るようになったような気はしてて、言われてみると。
で、それがまず、このごん狐の例で示されると、
あ、こういうことも人によっては、ごん、撃たれて死んじゃったよね、まで言わないと伝わらないんだっていうケースは、
確かに増えてきたような気がしています。
で、これでも小学生に教える、小学生何年生かわかんないけど、あの、童話なので、
そのレベルのお話を大人とか、ある程度、こう、長く生きてきた方に言わないといけないっていうのは、
ちょっと何なんだろうなっていう気はするんですよね。
kai3
これね、もう結構ね、論点いっぱいあるなと思ってて、
一回その論点のためだけにちょっと別の話を持ち出すんですけど、
ちょうど時を同じくして盛り上がっていた話題として、
ニュースキャスターがよく使う表現の「無言の帰宅」。
わかりますか?
無言の帰宅っていうのを聞いて、何のことを言ってるかわからない人がいると。
要はニュースキャスターの言い口として、
人が死んだ時に死んだっていうのがあまりに直接的な表現だから、
無言の帰宅という表現をして、
これは死んでるってことなんですよっていうのが。
うすだ
直接的に言わずに、亡くなったことを伝えるみたいな感じの遠距離的な表現ですよね。
kai3
そうそう。
これ、似てるようだけど違うなと思ってて、
あえてこの話を出してきたんですけど、
無言の帰宅は知識で知ってるか知らないかじゃないですか。
知らなきゃ、もちろん推測できなくはないけど、話の文脈から。
基本的には無言の帰宅っていう表現があるんですよっていうのを知ってるか知らないからと思うんですよ。
kai3
一方、ごん狐は知ってる知らないじゃなくて、文から読み取らなきゃいけないじゃないですか。
物語として。
だから、正直その無言の帰宅は知らなかったらしょうがないなと思って。
漢字の読み方だって、小学校で習った漢字と全然違う読み方する地名だったりとか、
漢用表現ってあるじゃないですか。
僕はそれはしょうがないと思ってて、知らないことは。
だけど、ごん狐は文脈から読み取らなきゃいけないっていうものに対して、
そこの説明が必要なのは、これはなかなか厄介だなと思いましたね。
うすだ
厄介ですよ。
kai3
どうしたもんか。
うすだ
ちょっとこれ見て厄介だなと思う反面、
もしかして、僕らが小学校、30数年前とか40年とか前から、
これは死んだってわかってない人がずっといて、
なんとなく常識とされてたけど、
これを理解しないまま年を重ねている人がいっぱいいるのか、
それとも、何でしょうね、
いや、死んだって書いてないじゃんっていう表現というか、
物言い的なものが市民権を得たから、
それを言ってもいいというような社会になったのか、
どっちなんだろうなみたいなこともちょっと思いましたね。
kai3
それね、僕も全く同じことを考えたんですよ。
要は、インターネットの時代で言いやすくなっちゃったから、
こういうことを言う人が可視化されたけど、
昔から一定数いたんじゃないと思って。
ごん死んだとは思ってない人たちは。
それこそ別の話題で、ケーキを切れない子供たちみたいな話があったじゃないですか。
ああいうのも、昔からそういう子たちはいたんだけど、
本になって話題になって可視化されたことで注目を浴びたのであって、
昔から一定数いたので言うと、
ごん狐を理解できた人たちは僕も昔からいたんじゃないかなという気もしている。
一方で、SNSという拡散措置のおかげで、
言いやすくなったポロッと言った一言が、
ちょっと話題的に面白いから拡散されて、
本当に一人二人が言ったことが、
まるで大勢が言ってるかのように表現されてしまって、
そう思ってしまっているというところもあるかなと思っていますね。
はい。
うすだ
なんかさ、書いてないから何とでも言えるみたいなところ。
だって書いてないじゃないかとか、
それはあなたの感想ですよね、的な表現。
結局ごん狐ってなぜ死んだか、
これが死んだと理解されるかっていうのは、
ある意味童話で教科書にもなっているってことで、
その学校教育では死んだよねっていうことを教えてるんですよね。
つまり正解が示されているはずなんですよ。
kai3
うんうん。
うすだ
で、ある種の教育不信じゃないですけども、
学校で言ったことはこんなに間違いしたじゃないですか、
陰謀論みたいになっちゃうんですけども、
なんか学校とか学んできたことへの不信を言ってもいい空気というか、
そういうものを受けての反動というか、
運動みたいなものにもちょっと感じましたね。
kai3
そう、僕もそれもね、またちょっと同じ意見ばっかりあるんですけど、
これ、学校では多分小学生たちは分かってない子も結構いて、
そういう子供たちにこういうストーリーだったら死んでるって解釈するんだよねって教えるのが、
国語の文章の読み方としての教育だから。
うすだ
こういう読み方っていうのを日本語を学んでいく上では、
たくさん文学的な表現とか、直接的な比喩的な表現だとか、
そういったものを学ぶ代表的なケースだと思うんですよね、これって。
kai3
そうそう。だから、みんな読めてないんだと思うんですよ、最初の時点では。
これを糧に、そういう読み方を学ぶ題材なので、
逆に読めなくていい気もしてるんですよね、その前提がなければ。
今までの文学的知識とか、本を読んできたことがなければそう取ってしまうのは当然で、
うすだ
こういう議論というか状況証拠を積み上げて、
亡くなったんだなっていうことを否定するのであれば、
答えっていうのは全てにおいて見つからない気がするんですよね。
なんで、これはどういうことなんだろうなっていうのはちょっと思うというか。
kai3
これをさ、難しいのが、
死んだ死んでない論で戦った時に、
死んだ論の方が弱くないです。
死んでない論の方が強いは強いじゃないですか。
だって死んだって書いてないじゃんって言われちゃうと。
うすだ
そうだね、でもそういったら、
書いてあることだけが全てなのか、
みたいな話にはなるんじゃないかなって気がしますけどね。
だから否定はできないけど、
でも逆に言うと、
人類が積み上げてきた歴史とか文化みたいなものに対して、
自分の主観で目を背けるんだったら、
それはそれでどうぞみたいな話になるじゃないですかね。
kai3
なんと、読解力レベルだからこんな話になるんですけど、
世界に出た時に、
普通にビジネスとか人間関係で話す時に、
こういうこと起きてるなと思って。
大前提、いろんな世の中の動向とか、
今までの歴史を学んだ上で、
こうですよねっていうのと、
いや、そんなんどこにも書いてないでしょっていう戦いって、
そこら中に最近落ちてるなと思って。
うすだ
結構あると思う。
でも結局、裁判とかだと、
判例ベースで判断されるじゃないですか。
そうすると、判例でそうなってますよが伝わらないみたいなのがあるんだけど、
実際の社会でどうなってるかっていうと、
その判例を参照して動いてるみたいな部分もあるので、
だから、勝った負けたで言うと、
そういうふうに事実を積み上げていって、
こうだよねっていうことには一定の理解というか、
正しさみたいなのは担保されるようになってる気がするので、
口喧嘩みたいなところ、
結局何かで燃えた時も、
大きな声でバカって言ってる方が勝つみたいなところってあるじゃないですか。
kai3
そうそうそうそう。
それに近い心配ですね、僕の心配は。
うすだ
だから、そうそうそうそう。
だから多分そういうことなんだろうなとは思うんですよね。
kai3
基本的な仕組みはちゃんとできてるんだけど、
ちょっと一部のこういう前提とかをぶっちぎって、
死んだって書いてないじゃんって突っ走ったやつがたまに
影響が大きくなってきて困っちゃうみたいなことが
最近起きてません?世の中に。
うすだ
そうですね。
kai3
そこの怖さがちょっとね、思った。
うすだ
ありますね。
だから、法を軽く飛び越えてくる人たちに
何やっても無駄だから近寄らないみたいなところがあって、
だから、こういう積み上げを否定していくと
近寄らないとか触らないみたいなことが
常識になっていくというか、
コミュニケーション、ある意味拒否してるような気がするんですよね。
だからそれって良いことなのかというとあんまり良くないんだけど、
なんかネットだけじゃないですけど、
いろんな治安が悪くなって話が通じないっていう時には、
本当に分かってない人にはこうこうこうだがこうなってますよね。
それで分かんなかったらいいんだけど、
確信犯的に死んでないっていうコミュニケーションを取ってくる人、
手段として取ってくる人っていると思うんですよ。
kai3
いますね。それもひとつまた新しい議題ですね。
うすだ
そう。
それが、この人それやってんだなってなるともういいやってなりません?
ちょっとそのスタイルが増えてきてるかなって気がして、
それはちょっと怖いなって。
kai3
それなるんですけど、ほっといてよかったらいいんですけど、
ほっといたら先に進めないときにすげー困るなって思うんですね。
そのコミュニケーションスタイルの人を何とかしないと、
先に仕事が前に進まないとか、そういう時にこれは困ったぞとは思いますね。