さて、今日はですね、昨日、 怪談っていうね、僕、ポッドキャストを聞いてるんですけども、そこで話があった
ゴンギツネ問題についてお話しようと思います。 怪談って、
うすたさんとカイさん、男性2人がやってて、 カイさんがね、このテーマを持ってきて、その理由がね、
朝日新聞ポッドキャストのメディアトークで、その話をしてたらしいんですね。 それを聞いて、
カイさんも自分のポッドキャストで話す。 で、僕もそれを聞いて、自分のポッドキャストで話そうと思った次第です。
これね、
どんな話かというと、 ゴンギツネのゴンは
死んでないっていう話なんですね。 もしくはまあ、もうちょっと僕もね、
あまり調べてないんで、不安という話になるんですが、
死んだとは断定できませんよねっていうスタンスの人たちがどうも、
ゴンギツネ死んでない界隈って言うと、 ちょっとおちょくりすぎかな。
なんですね。 絶対死んだとは言い切れませんよね。みたいな話なのか、
そういう話が、
今というか、話題になっているらしいんですけどね。
で、まあメディアトークでも、
会談の方でも、 いろんな考察がなされていました。
で、
僕も調べてないから何とも言えないんですが、 いくつかのその論って、
グループ化するとしたら、一つは純粋に子供が、 ゴンギツネを呼んで、
ゴンギツネは死んでないっていうふうに感じる子、 思う子っていうのは、
いる可能性はあるなっていう、
一つの層ですね。
もう一つは、大人で、
まあそういう、
論が好きな人、
これって、
死んだとは書いてないから、 生きてるっていう解釈も可能ですよね、っていう、
スタンスの人たち。
もう一つは、純粋に書いてないから、
そう読み取れない。子供と近いのかもしれないけど、 大人にもその、
グループがいるような気がして、
仮にそんな感じに大雑把に、 分けようかなと思います。
僕が聞いたポッドキャストでは、 既にいろんな話が出ているんで、
一応リンクを概要欄に貼っておきますので、 興味ある方は是非、
その2番組、聞いていただきたいんですが、 僕がちょっと思ったことをお話しすると、
特に子供の場合に、そこを読み取る、
読み取れないっていう言い方が正しいかどうか、 これはさておきですね。
作者の意図と違う読み方をするっていうことに対して、
いくつか考え方があると思うんですが、
すごい変な話しちゃって、ぶっこんじゃって、 申し訳ないんですけど、
最近ラノベアアニメで異世界転生者って、 めちゃくちゃ多いと思うんですね。
僕もアニメが好きで、毎シーズンごとに結構トライはして、 面白いのだけ見てるっていう状況なんですが、
やっぱり異世界転生者、アニメでも当然多いし、
僕は全く知らないけど、ラノベから来てると思うので、
ラノベで人気なものがアニメ化されるっていう流れで考えると、 非常に多いと思うんですが、
例えば現実世界で、40代とかのおじさんの公務員が、
交通事故で死んで、気がついたら異世界に転生して、
悪役励上になっていた、みたいなのがありましたね。
そうやって、人の死がそこで終わるんじゃなくて、
新たな物語の幕開けになるっていう話っていうのが、 もうなんていうか、蔓延してるなって僕は思ってるんですね。
それは、主に青少年層に向けてのターゲットに対して供給されていると思うんだけども、
現実世界の行き詰まりとか閉塞感みたいなものを異世界に行けば、
自分はすごく強くなれる、みたいな夢を抱かせる装置として一番便利な、
しかも、もちろん努力する主人公もいますけど、
なんだかそっちに行ったらモテてモテて困っちゃう、みたいな夢みたいなものをポンって供給できる。
だから、現実世界が惨めであっても、異世界では無敵、みたいな物語なんですけどね。
そういう物語に慣れていると、死っていうものがそのまま終わりじゃない、みたいな感覚があるんじゃないかなって。
僕の勝手な仮説なんですけどね。そういう影響もあるのかなと思ったりしています。
あと、続編を作るっていうのも割と多くて、
一応メインの物語、本来の映画とか物語で、この人は亡くなった、死んだように見えるんだけど、
実際はそこが含みを持たせていて、続編では生きていました、みたいな話もまあまああるような気がしてるんですね。
それも、死っていうものをはっきり描かないと生きている可能性があるっていうふうに、
今のコンテンツを消費している人たちは、思う可能性は十分あるなと思ったりしています。
実際、例えば直近で僕が何度も言及している、あの花の作家で君とまた出会いたい、
小説なんかは割とふわっと、でも上手に、はっきり死を描かないで、これ続編を書くつもりなんだよなっていうのは、
でもそれは文章としてちゃんとそこが書いてあるんで、作者の意図だと思う。
おはようございます。思うんですけどもね。
だからまあ、それは意図だからいいと思うんですけどもね。
まあどちらかというと、今回の別の可能性を探るっていうのは、作者の意図とは違う方向へ行こうとしているっていうのは興味深いというか、
ちょっと大人がやる場合は立ちが悪いなっていう気もしています。
で、まあ僕はですね、ここで国語、子供たちの読解力の低下が投げかわしいとか、そういう話をするつもりはないんですけども、
一応なんだろう、割とこのゴンギツネ、小学校4年生の国語の教科書でほぼほぼどの出版社でも採用されているらしいんですね。
まあ今がどうかわかりませんが、ちょっと僕が聞いたポッドキャストではそんな話が出ていました。
そのぐらい人気のあるコンテンツでもあるわけですよね。
で、それを教材にしながら読解力をつけていくみたいなことで、当然子供は学ぶためにそれをやっているので、
当初はわからないとしても、授業を受ける中でそういったことを理解して、その文章を読み取っていく力を養っていくっていうふうに考えればいいんですよね。
だからできなくて当然、それが学びによってわかるようになっていくっていうのは教育なのかなとは思うんですけどね。
で、問題の語音が死んだとは描かれていないっていう部分についてなんですけども、これがですね、最後の文章を読んでみるとですね、
これ話したっけか、あらすじちょっと端折りますけど、最後ですね、いや端折っちゃいけないな。
これもともと伝聞として書かれているんですけども、作者の新見南吉が村の誰々さんから聞いたお話ですっていうところで始まっていきます。
そこの地域にゴンっていう名の狐がいて、わりといたずらばかりしていた、そんなゴンが登場人物として出てくるんですね。
雨がすごく何日か降った後、ようやく晴れて出かけたゴンは川で標樹っていう村の男の人を見かけます。何してるんだろうと思ってこっそり近寄ってみてみると、
網にかかった魚を捕まえてビクに入れてるとこだったんですね。
で、ははーんなるほど、標樹は魚を網で捕まえてたんだっていうふうに気づき、標樹はその場を離れた隙にですね、ビクに入れた、せっかく捕まえた魚を逃がしちゃうんだよね。
まあこれがいたずら者の二人ゆえんなんですけども、しかもその網が多分川を横切るように網が仕掛けてあって、そこで魚を集めてるんだけど、
そのわざわざその網から川下の方に魚をひょいと投げて逃がしちゃうから、もうその魚は戻ってこないというかもう捕まえられない、そんな悪事へも働く狐なんだよね。
そこに標樹が戻ってきて、ゴムも逃げようとしたところにウナギが首に絡まってきて、仕方ないものでそのまま逃げ去って、標樹が追っかけてこないのを確かめたら、
安心してウナギの頭の部分をガブリと噛んで、ウナギがギュッと締めるのがクタッとなってから、ウナギを首から外して、という流れになります。
その後、標樹の家にお葬式があったんですね。ゴムが見に行くと、どうも標樹の母親が亡くなったらしいということがわかります。
これはゴムが自分で考えたことなんですけれども、あのウナギは病気のオッカーに食べさせてやるために捕まえたウナギだったんじゃないだろうか、それを自分が盗んでしまった、結果的にね、ばかりにオッカーに食べさせてやれなかった。
それで生をつけさせることができなくって死んでしまったんじゃないかって、ゴムは考えるんですね。
申し訳ない気持ちになって、ゴムは最初、いわし売りをしている魚屋が他の家でいわしを売って、
そこの桶みたいなものを運んでいる桶から離れた隙を見て、いわしを何尾か買っ払っちゃうんだよね。
買っ払ったいわしを標樹の家に投げ込んで、罪滅ぼしのような気持ちなんでしょう。
それで、罪滅ぼししたという気持ちになったんですが、その後見に行くと、標樹の顔が傷だらけになっていて、
標樹が一人ごとで、誰のせいかわかんないけど、いわしが投げ込まれたせいで、魚屋?いわし屋なのかな?に
盗んだって疑われて、ボロクソにやられたみたいなことを言っているんですね。
それを聞いて、ゴンが、「しまった!余計なことしちゃったな!」っていうふうに思って、
次の日かな、その後は自分が山で拾ってきた栗とか、あるいは松茸なんかを拾って集めては、
標樹の勝手口というか土間に置いていくっていう、そういう罪滅ぼしを始めるんですね。
しばらくして、標樹が村の誰かと一緒に歩いて、お念仏に行くんだね、誰かのお家の法事へ行くところを見かけて、
また後ろをこっそり歩きながら、二人の会話を聞くんだよね。
標樹が村の友達に、「最近不思議なことがあって、これこれこういう感じで栗とかが置いてあるんだよ。」って言うんだ。
その友達、知り合いが、「それはお前がね、お母が亡くなって、一人ぼっちになったから、それはきっと神様の仕業だよ。」って言うわけ。
それをゴンは聞いていて、「ちょ、つまんないな。」みたいな感じに思うわけ。
自分がやったって気づいてほしいのかもしれないんだけど、気づいてもらえなくて、神様に手柄を横取りされたような感じなんだよね。
で、なんかちょっと馬鹿らしいなぁみたいな感じに思う。そんなシーンも描かれています。
そしてその後、最後のシーンになっていくんですけども、
標樹が自分の家にいる時ですね。ここちょっとせっかくだから読んでみようかな。
そのあくる日もゴンは栗を持って標樹の家へ出かけました。標樹は物置で縄を鳴っていました。
それでゴンは家の裏口からこっそり中へ入りました。
その時標樹はふと顔を上げました。
「と、狐が家の中へ入ったではありませんか。
こないだウナギを盗みやがったあのゴン狐めが、またいたずらをしに来たな。
おかしいですか、俺の考え。そこから先を空想に委ねるっていうのはかなり無責任な途中で放棄しちゃってる感じはするんですよね。
だからそのゴンが生きているとしたら、そこに物語の必然性があって、そこを書きたいと思うんですよ。
だから僕は今言ったように、もし生きているっていう物語であるなら、そこを描くはずだと思うんですね。
逆に、あの終わり方でなぜ標準が火縄銃をバタリと落としたのかって、そのショックと、実は自分を思いやってくれていたゴンを撃ってしまったっていう、取り返しのつかないことをしてしまったっていう、
それは後悔なのか、自責の念もあって、自分がそのゴンを撃ち殺してしまった銃を落としてしまったっていうふうに考えるのが、僕は自然だなとは思うんですね。
そこから手当たりをするとか、そういったことも描写もないわけですね。
そこの要因、物語の最後の要因っていうのは、その標準がそこに立ち尽くすだけだった。そんなシーンが僕は目に浮かぶんですね。
で、この物語、ゴンも悪いやつなんだけど、いたずらなんだよね。一人で山の中に住んでて、人間の里に来ちゃいたずらして、遊んでるっていうやつがたまたま標準の魚を逃して、
うなぎに関して言うと、俺は首に巻きつかれちゃって、そこに標準が帰ってきて、逃げたわけだけどさ、逃げるのは仕方ないと思うし。でもうなぎがくっついてきちゃったんだよな。
その後、ゴンは自分で、俺のせいで標準のおっ母が死んだんだっていうふうに思う。それは本当にそうだったかどうかはわかんないんだけど、ゴンはそこまで考えた。
自分のせいなんじゃないかというふうに思うっていうのは、かなり優しいというか、非常に標準に寄り添った感じがしますよね。
だから、そもそもうなぎがおっ母のところに行って食べられたとしても、おっ母の病状っていうのはそんなに簡単に治らなかったのかもしれないし、もしそうやって考えるなら、ゴンはちょっと考えすぎで、そこまで考えなくてもいいんじゃないかっていう気もする。
一方、標準はさ、おっ母に食べさせたかったうなぎを取られちゃって、もしかしたら本当に死ぬ間際だけども、うなぎを食べさせてやりたかった。それは治る治らないっていうのは別でね。好きなものを食べさせてやりたかったっていう気持ちだったのかもしれないなと思うんですよね。
だから、それができなかったことに対してゴンを恨むのは仕方ないなと思うんですよね。だからまあ、鉄砲でも撃った。普段からいたずらをしてるからね。
ただ、栗を運んでくれていたっていうことに、もともとゴンがやってるとは知らずに神様がやってるなんていう話も知り合いから聞いて、そうかもなーって思ってたらゴンだった。
それはやっぱり、もしかしたらその償いのためにやってくれたんだなって標準も悟ったのかもしれないなと思うと、標準も後悔と自責が襲ってくるだろうなと思うんですよね。
で、じゃあゴンは死にましたって書くのが正解だったのかどうかっていうのが次の問題になるんですけど、ここ、話長くなっちゃってもあれなんで、ただそこまで書いてしまうと標準に対してのなんか、
標準を今度は悪く書いてる感じになっちゃうっていうのかな。標準の責任みたいなものが今度、なんか描かれて、くっきり書かれてしまいすぎるっていう部分もあったんじゃないかなって。
これはね、三見南吉さんがどう考えたのかはわかりませんけども、ゴンが死んだと書くってことは標準は殺したっていうことで、そこの部分をはっきり書くと、それをまた描写していかなきゃいけなくなるので、
ちょっとなんか物語として、ちょっとドロドロっとしてくるのかなっていう気もするので、ああいう感じでさらっと終わるっていうのは良かったんじゃないかなと僕は作者の書き方っていうのはいいなとは思うんですね。
そんな感じですね。だからそれまでの物語の流れっていうのもあるんだけど、そこで終わらせたっていうことの作者の意図ですよね。
そういうのを考えると、やっぱりそこはゴンは死んでしまった、償えない罪の意識なのか、後悔が標準を襲うという。
だからこういう救いのない結末だからこそ伝わるものがあるんじゃないかなと、そう思ってこういう結末にしたんじゃないかなと僕は思います。
というところで今日はおしまいです。最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。ではまたね。チュース。