#041 火野葦平のもうひとつの代表作/『花と龍』/本語り
2026-08-23 22:04

#041 火野葦平のもうひとつの代表作/『花と龍』/本語り

「本語り」39回で紹介した中村哲の評伝『炎と水』。その中村哲の母の兄が火野葦平であり、火野葦平の父にあたるのが、沖仲仕の親方として知られた玉井金五郎です。火野葦平『花と龍』には、玉井金五郎と妻マンの生き様が描かれており、とりわけ「顔」にこだわらない姿勢に感銘を受けました。

【言及した本】

・火野葦平『花と龍 上下』(岩波現代文庫、2006)

・山岡淳一郎『炎と水:中村哲と名もなき人たちの旅』(集英社、2026)

・『糞尿譚・河童曼陀羅(抄)』(講談社文芸文庫、2007)

・火野葦平『麦と兵隊・土と兵隊』(角川文庫、2021)

・村上龍『五分後の世界』(幻冬舎文庫、1997)

・曲亭馬琴『三七全伝南柯夢』

・本居宣長『紫文要領』(岩波文庫、2010)

感想

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サマリー

このエピソードでは、火野葦平の代表作『花と龍』が取り上げられています。この小説は、火野葦平の父である玉井金五郎と母マンの生き様を描いたもので、特に「顔」にこだわらない金五郎の姿勢が感銘を与えます。荒々しい世界で仕事師としてのプライドを持ちながらも、暴力に訴えず、人間ドラマを深く描いた作品の魅力が語られます。また、この作品が中村哲の価値観にも影響を与えていることが示唆されています。

火野葦平と中村哲の関係、そして『花と龍』への導入
本語り41回目です。 本語りの39回目で、『炎と水』という本を紹介しました。
こちらは中村哲の伝記でしたけれども、そこでいろいろと明らかになったことの一つとして、中村哲のお母さんのお兄さんが菱葦平。
すなわち、菱葦平と中村哲は、おじ・お威の関係にあるということ、そして中村哲のおじいさん、そして菱葦平のお父さんにあたるのが玉井勤五郎という沖中市という職業で、玉井組というものの組長と言っていいんでしょうか、その勤五郎という人がいたということがありました。
そこで気になっていましたので、菱葦平の著作に手を伸ばしてみました。
そもそも菱葦平の本については、高川賞で「糞尿炭」というのがありますけれども、そちらを大昔に読んだことがあったんですが、印象的なシーン、小枝豪から運んだその糞尿を混じったものですか、それをなんかばらまくみたいなシーンだけが妙に覚えておりますけれども、
あとはどんな話かさっぱり忘れてしまいましたが、そういうのがあって、ほう、と思ったというのがあります。
一番有名と言っていいかもしれませんけど、麦と兵隊、これは今だと、土と兵隊と一緒に軍庫化されているものがありますけれども、これもあの昔読んだことがあったわけなんですが、開業のほとんどない文章で、会話なんかもかぎかっこではなく、当店で食い寮な形で、ぎっしり詰まった字面なんですよね。
従軍しながら書いたものを元にしているものですから、紙不足とかそういった意味もあって、ああいった表記になったのかななんて一方で思ったりしましたけれども、フィクションの部分ももちろんあるんでしょうが、しかしやはりこの記述の制約ですよね、あるいはその後でカットされたりとかいうことも含めてなんですけれども、かなり現実の戦いの従軍記という印象が強く、かつそこから軍部にとって都合の悪いものは書けないというふうな、
相当制約された書きぶりのものではありましたが、その中でもね、タイトルの無銀が一面に広がるシーンなんていうものは、目にもね、見えてくるような書きぶりだったなぁなんて思います。また戦闘シーンなんかもありますけれどもね、実らの面から言ったら村上隆の5分後の世界なんかもね、ああいった表記の仕方をしていたなぁと思い出したりするわけなんですけれども、
しかしやはり一方で村上隆なんかは、想像力を駆使してね、自由自在に書けるところがありますから、その点で戦闘描写という点ではね、書きぶりとしては似てくるところがあるけど、やっぱり根本的に違うものがあるなというのは思ったりしたこともあります。
『花と龍』の概要と登場人物
そして今回、もう一つの代表作と言えるものらしいんですけれども、取り上げたいのがこの本です。
すなわち、日野足平、花と竜、岩並現代文庫です。
こちらはもともと読売新聞に連載された後に、新庁舎で刊行されたものらしいんですが、今では岩並現代文庫で読むことができます。
これは、日野足平のお父さんである玉井勤五郎、そしてその妻である万ですね、この二人が実名で登場する小説となっておりまして、この二人以外の名前も、それこそ日野足平自身も玉井勝則というのが本名なんですけれども、その本名のままね、自分も登場してくるような形で、ほとんどの人物が実名なんですね。
ですので、自伝的と言いますか、親の玉井勤五郎と万の様子というもの、この二人が主人公と言えると思いますし、タイトルの花と竜というのも、花は万のこと、竜は竜の入れ墨を彫っている玉井勤五郎というね、この二人のことをよく表しているタイトルでもあるわけなんですね。
ちなみに中村哲のお父さんの中村勤というのも実名で出てきて、そんなに作品の中では活躍するわけではないんですけれども、そういうものが出てくるものなんです。
沖中氏という仕事がどういうものかというものが、分かったような分からないような感じではあったわけなんですが、これまで、この本を読むとよく分かります。石炭の積み込みということを受けよう仕事なんですね。
沖中氏が何にプライドを持っているのかというね、迅速に仕事をして他の組に負けないというね、そういう仕事士というところにプライドを持って働いているというところもよく分かってくるわけで、そこで当格を表してくるのがこの玉井勤五郎なわけなんです。
しかしやっぱり荒っぽい世界ではありますので、切った葉っぱの世界なんですね。それは当然描かれてくるし、いわゆる人狂者と言われるものになりそうなところ、あるいはその様子を描いているんだけど、このだけどの先がちょっと感心したとこなんですけれども、人狂者と言い切れなさがあって、そこに僕は感心してしまいました。
そもそもこの玉井勤五郎とマンの生き様というのがものすごくドラマチックなものですので、それだけでも小説の素材としては十分なところがあるんですけれども、そうではなくて、実際にあった事件というのも大いにあるわけなんだけど、そこの先の意味付けと言いますかね、そここそが日野橋平の作家としての腕の見せ所と言いますか、思っていれば描きたかったところだと思いますし、私もそこに感心したところがありますので、そんなところをちょっと今日は伝えていければと思います。
まず、マンというのは広島の山の中に老いたちがあるわけですね。勤五郎は愛媛県出身なんですけれども、その二人がそれぞれ出身地を離れて、身一つで九州の最北端の文字というところにやってくるわけです。
その文字で二人は出会って、二人とも沖中市ですね、石炭を船に積み込んでいくというね、そういった仕事に従事していくわけなんですけれどもね、いろいろあって下関の彦島に行き、最終的には今だと北九州市になっておりますけれども、当時としては若松市というところですね、その若松というところにやってくるわけなんです。
発端のところなんですけれども、まず勤五郎がまだ愛媛にいる頃ですね、道後温泉のあるところ、そこで温泉に浸かっていたら、全身入れ墨の男から話しかけられるというシーンがあってね、白い肌で立派なタイプなので、これは入れ墨が似合うぞみたいな形でね、声をかけられるわけなんですね。
勤五郎は、私もね、狂覚が好きなんだって話をして、清水の授業長とか国沙田中士とかね、講談とかをよく聞いてるからそういうのが好きなんだみたいな話をして、憧れるみたいなことを言ったら、そしたらね、その入れ墨の男は、いやあんなのは狂覚のクズだみたいなことを言うんですね。喧嘩を売り物にする奴はダメなんだと言ってね、本当に良い親分っていうのは喧嘩をしないもんだっていうことを言うわけなんですよ。
この部分っていうのは、この全身入れ墨の男っていうのは、後々ね、関係してくる反野の五郎というもの、またその反野の五郎との縁で出会ったお経というね、女性がいるわけなんですけども、この女性もね、全体を通じて非常に重要な人物なんですけど、おそらくなんですが、まああるいはモデルがあるかもしれませんけど、この反野の五郎とお経というのは、日野瀬があえてフィクションとして設けた人物だと思うわけなんですね。
ということは、このシーン自体が日野瀬平がどうしても伝えたい思いというものが載っているところだと言えるわけなんですね。
すなわちこの喧嘩を売り物にする奴はダメなんだというところですね。こここそがこの作品の通想提案として流れているところなわけなんですね。
玉井金五郎の生き様と「顔」へのこだわり
最初はそんな出会いがあったわけなんですけども、そこで文字に出て、彦島に行き、若松に行きという形で、最終的に若松でみんなから慕われて、玉井組というものをね、立ち上げることになるわけなんですけれども、この人の生きざまというものが、そこに至るまでもそうなんですけど、喧嘩をね、避けるわけなんですね。
なるべくしたくないという形の生きざまをしていくというところがポイントなわけで。だけど最終的な人物として、吉田磯吉という人が出てくるわけなんですが、これはね、大親分なんですね。
ヤクザですけれどもね、これは奴隷の広い強格という形で描かれているわけなんですけどもね、ただ魅力的な人物なんだけど、言うほど出てこないと言いますか、もっと活躍していいように思うけど、言うほど出てこないわけなんですね。
逆に直接的な敵として出てくるのが、この吉田磯吉の古文にあたる人物なんですけど、そこらの言わば暴力団関係の人物というものは、非常につまらない、暴力に訴えかける悪い奴らという描かれ方をしているわけなんですね。
だからみんながみんなじゃなくて、大親分の中にはさすがに奴隷の広いものがいるけれども、基本的に他は暴力に訴えかける良くない連中だというふうな描かれ方をしているわけなんですよ。
一方でこの金五郎というのは、仕事ができる仕事師という自覚と自負があるわけなんですけども、喧嘩なんかはしない。
やむを得ず振りかかってきてどうしようもない状況になったら、するということになるけども、勝ったりということもあるわけなんですけど、それを誇らないというところが強く描かれているのが印象的なものです。
若松というところが御賀川の河口にあたるところなんですけども、いわゆる川筋門といわれるもの、川筋肩木というものがあるわけですね。
御賀川というのが福岡県の田川から能型を経て、そして若松に至るという形なんですけど、ここら辺、丹溝が田川能型あたりにありますので、そこから石炭を船で積み下ろしていって、
そしてこの若松港でまた大きな船に乗り換える。そこで沖中市というものが大活躍していくわけなんですね。石炭の煮出しなわけなんですね。
その段取りをやってという形をするものなんですが、荒くれ者の世界、義理人情の世界で仕事の奪い合いというものですか、その中でやっぱり喧嘩も発生してくるわけなんですね。
そのシーンってやっぱり特に新聞連載の小説ですから、そういった切った貼ったがないと持たないと言いますか、面白みを出すためにはそういうのをもちろん用いていくわけなんですけれどもね、
エンターテインメントに振ってしまって、ただの痛快な話だけにするならば、行ってみればそこで親分としてこの玉井勤吾郎が義理人情に熱い、強くてみんなから慕われていて、
切った貼ったで勝っていくというものばっかりを描けばいいと思うんです。で、実際それはね、描いてはいるわけなんですけれどもね、
そこの後の勤吾郎の意識と言いますか、振る舞いと言いますか、そこがね、やっぱ気の足やるなというふうに思ったとこなんですよ。
ただのエンタメで終わらせてないなと思うわけなんですね。その象徴的なシーンというのはまた差し挟んでいるわけなんですけれども、
結局ね、顔というもの、玉井勤吾郎と暴力団の連中と何が違うんだろう、
片屋は仕事を誇りにして喧嘩をしないと言っている、片屋は暴力に訴えかけていくという違いはもちろんあるんだけど、
しかしいざというところになったらしょうがないから戦うというシーンもあるわけなんですよね。
本当にこの根本的な思想的なと言いますか、根っこの部分で何が違うのかなと思ったときに、
なるほど、そうかと思わされたのが、この火の足兵が描いてみせるのが、顔というものへの対応なんですね。
すなわち顔が立つとか顔に免じるとか顔を潰すとか言って、免つと言ってもいいと思いますけれどもね、
結局、暴力団というのは、あるいは他の親分方というのは、顔が命で生きているわけなんですね。
その顔のせいで顔が立たないとかね、顔に免じるとか顔を潰すということによって、その行動原理で生きているということがあるわけなんですよ。
だけどキンゴロウというのは顔なんかもう全然気にしないと言いますか、そんなもののせいで暴力団になっていくんだという形でね、
自分の顔を立てようとかね、俺の顔に免じて何とかしてくれとかね、俺の顔を潰し上がってみたいなことには全くこだわらないというか、
逆にそういったことをしないようにしないようにしているわけなんですね。
だからそこが根本的な違いなんだということを思って、なるほど顔かと思いましたね。
だから私なんかももともと顔が効かない人ですけれどもね、何か年をとってきたらどうでもいいことで顔が効くようになってくるかもしれないけれども、
より一層この顔というものにこだわってはいけないなということを思いましたね。
こんなことにこだわるからダメなんだっていうのは本当に学ぶべきものがあったなと思いますので、顔、面痛ですよね。
そこに命をかけていくということ、顔を効かして生きていくということが実は気持ちいいことのように見えて、
実は本当につまらない、そのせいで世の中を逆に狭くしているトラブルを引きつけているんだなということを思わされたので、
顔にこだわらないという生き方ですよね。
そういう玉井金吾朗の生き方を描いたというのは、ちょっとこれは見事だったなというふうに思います。
まさにこれこそが普通の人形小説、そういう普通の人形小説、読んだことないんですけれども、
そうじゃないところにしている見事な作品だなというふうに思いました。
「花と龍」の象徴性と中村哲への影響
そうなってくると金吾朗は竜の入れ墨を片腕だけ入れているわけなんですけど、
入れ墨を入れたことと学問がないことを一生後悔しているというふうな形になるんですね。
で、マンも同じなんですね。
マンはもともと夫が入れ墨を入れたことも大嫌いで、かつ自分が学問がないことというのもやっぱり悔いているので、
子どもたちには学問をさせようというふうな思いがあるわけなんですね。
もちろん長男が日野足平こと勝則ですので、勉強させると。
勝則、実際の日野足平は早稲田に行って、そこを辞めて玉井組を継ぐということがあったわけなんですけれども、そういうことですね。
ちなみになんですけれども、これはまたさっきの炎と水で知ったわけなんですけれども、
日野足平の弟の子ですね。
その人が玉井諭人という人なんですけれども、中村哲哉にとってもいとこにあたる人になりますけれどもね、
この人というのが同じく早稲田に行って、西日本新聞に入り、論説委員まで勤めたそうなんですね。
そしてその後にサッカーのギラバンツ北九州というものの社長をやって、かつその後は会長になったということがあるそうなんですね。
これも元を正せば、金五郎と満というものの教え、学問をさせようという教えが効いているのかなともありもあって、というのを感じてしまうところではありました。
個人的に面白かったのが、まあフィクションかもしれませんけど、金五郎は何かといったら素人上塗りを唸るわけなんですね。
それは派手姿女舞衣具という三活半筆というね、江戸時代のね、有名な二人の恋愛物がありますけれども、
芸妓と商人の男の恋なわけなんですね。
それをやたらとここぞという時に唸るということを出してくるわけなんですけれども、なんかちょっと面白かったです。
すなわち金五郎と絡んでくるのがお経というね、芸妓ではないけれども芸に長けた女性なわけなんですね。
かつ、新橋平にあたる勝則も芸妓のような人と関係するということで、まあ二代に渡って関係してくるので、
ちょっとそれを暗示するような形で出しているようにも思えているわけなんですね。そこら辺面白かったです。
ちなみに派手姿女舞衣具というのは、和琴が三七前伝なんかの夢という読み本があるわけなんですけど、
これは八犬伝と弓張月と並んで三大記書と言われるほど当時もてはやされた作品で非常に面白いものなんですけどもね、
こちらも三括半筆を元にしてますのでね、そういったことまでちょっと思ったりしました。
さあそれはそれとして上下二貫なわけなんですけどもね、いわゆる男気を見せるシーンっていうのはね、しっかりやっぱり描かれるわけなんですよね。
さっきも言いましたように、新聞小説ですので起伏のあるストーリーっていうのはポイントですので、
そこでちゃんと小説の面白さを担保しながらも、しかし描いているんだけどその後によくやったで終わらなくって肯定しないんですね。
金五郎としてはね、こんなことを全くしたくないっていうポーズを崩さないし、やった後もね後悔するわけなんですよ。
これ印象的なのが終盤あたりにあるところで一つシーンをあげるならば、金五郎を結構大勢の人数が取り囲むわけなんですね。
そしてみんなが相口を抜いて迫ってくる。しかし金五郎はそこに殺気がないのを見てとって、これはどうせ俺を殺す気がないんだってことを見てとるわけなんですね。
そこで地面に寝そべって、まあやれるもんならやってみろよな、どうせやらないんだろうって形で見くびってやったら、そしたらやっぱり襲ってこないので男気を見せているシーンではあるわけなんですよね。
で、そこで襲ってこないのでパッと立ち上がってみたら相手方の狩猟といいますか、そういった人物を見てたら今までなかったのに急に殺気がものすごくあるような感じに見えたわけなんですね。
これはということで気がついていった時に話をしてみると相手方を率いている男はね、実は自分の親分を殺した経験があるんだけれどもね、
それは向こうがどうせ殺せないんだろうってことを見くびっているのでついきってしまったんだ。
お前も同じような形で俺をどうせ殺せないんだろうと思って寝そべっているのを見てね、本当は脅しだけと思ったけれどもね、そこで殺そうと思ったみたいなことを聞いてね。
それを聞いてギンゴローは思い上がった自分のキザの英雄的なポーズっていうものにヘドが出る思いがしたっていうふうなことを付け加えていくわけなんです。
その場は何とか何を逃れたんだけど、そんな英雄的な男らしいように思える振る舞いというものをちゃんとね、描きながらそれじゃダメだっていうことまでセットで絶対描くんですね。
言いませんけれどもこのラストに関わってくる終盤の大いなる山場のところでも人狂の話の中ではね、暴力に対して暴力で抵抗するというシーンが描かれていくわけなんですけどもね、
シーンとしての面白さは見事にね、こっち読んでる方はしてやったりという形で読むんだけど、その行為自体をギンゴローが肯定しないんですね。
自分がつまらないことをしたって、なんであんなことをしてしまったんだって形になってしまうということ。
これなんかまさに入れ墨を彫ったもの、それをずっと後悔して回るということと裏表、象徴的なんですよね。
そういった意味でこの竜の入れ墨を彫っていますので、その竜というものの象徴するものですね。
入れ墨というものを全工程では全くなくて、それによってその場をしのぐことはあるんだけど、それを肯定してないというこの絶妙のバランス感覚といいますか、そこが本当に素晴らしい作品だったなというふうに思います。
そしてこの作品というのが中村哲が小さい頃からずっとね、おじさんの作品ということで読んでたものなんですよね。
こういう価値観が中村哲には地肉となっているんだなということを思いますよね。
かつ万というのが直接的に中村哲はずっと接していて、万を慕っていたということもありますので、例の万の教えとしてはね、弱者は率先してかわうべき、職業に毀せんはない、どんな小さな生き物の命もたっとうべきというね、こういったことをずっと聞いているわけなんですよね。
これがやっぱりここにあるんですね。
だから中村哲も若松出身ですよね。
その後日本での家というのが大村にあるんですよね。
大村っていうのは私は例の有明高専のあるところですのでよくわかるわけなんですけども、元三井三池炭鉱で栄、鉄炭の積み出し鉱なわけですね。
荒っぽい、若松と同じといってはあれですけれどもね、そういうところなんですよね。
この若松、大村、そしてアフガニスタンというね、こういう非常に危ないところですけれどもね、そういった中でこそね、大切にきらめくものっていうものがあるんだなということです。
もとおりのりながの言い方で印象的なんですけれどもね、物の哀れを知るということをのりながは訴えるわけなんですけれども、
想定問答としてある人が、源氏物語っていうものは男女の色恋沙汰ばっかりを描いていて、けしからんじゃないかみたいなことを言ってくる人を想定しているわけなんですね。
それに対してのりなががいうことには、あれはね、男女の色恋沙汰というものをめでて源氏物語を読んでいるんじゃなくて、そこに現れる物の哀れというものをめでているんだっていうような物言いをするわけなんですよ。
で、その例えとして言うのが絶妙なんですけれども、蓮の花っていうのがある。蓮の花っていうのは泥水の中にしか咲かない。
だから蓮の花を咲かせるためには泥水を用意しておかないといけない。だけど自分がめでているのは蓮の花なんだ。
泥水の中に咲く蓮の花っていうものを大事にしているわけであって、泥水を大事にしているわけじゃない。
同じように源氏物語っていうのも、色恋沙汰、そういった陰謀な振る舞いっていうものを私は愛しているんじゃなくて、そこの中にある人間の心の動きと言いますか、その物流れというものを知るためにやっているんだっていうこと、そういった例えをしているわけなんですね。
アフガニスタンとか若松とか大村とかの荒っぽい人と人が争うような、そういったものを、要するに治安の悪さというものを、ことさらに中村哲也は好んでいるわけじゃないと思うんですよ。
ただ、そこに出てくるむき出しの人間の姿っていうもの、それこそを求めて、結果的に泥の水と言ったらあれなんですけれどもね、そういった環境というものに身を置いたのかななんてことまで思ったりしたわけなんですね。
いろいろと中村哲也の伝記からたどり着いた花と龍ですけれども、今読んでも非常に得るものが大きい、面白く素晴らしい作品だったんじゃないかなというふうに思います。
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