房総文明ラジオ
この番組は、「房総半島に新しい文明を作ろう!」を合言葉に、千葉県は房総半島にまつわる様々な情報を発信するポッドキャス番組です。
ナビゲーターは房総文明ミュージアムよりYossyがお送りいたします。 今回で第28回目の収録となります。
まずは、7月28日に発生した熊本県を中心とする大地震で被災された方々に、ここよりお見舞い申し上げたいと思います。
本当に、熊本はまたかという思いが非常に強いと思いますし、せっかく復興してきたというところに、
またこの度の大きな地震ということで、熊本城なんかも石垣が崩れてしまいましたし、非常に落胆するところ、甚大だと思うんですけども、
日本に住んでいる以上、地震もそうですし、いろんな自然災害というのに何回も襲われて、心打ち砕かれるということが本当に多いと思うんですけども、
その度に何とかしてきたという歴史を日本は持っているということを再認識して、ため息つきながら再出発するしかないのかなと思っていたりします。
東日本大震災もあって、千葉県ももちろん被害ありましたし、あの時の恐怖というのは、体感した人たちは皆さん覚えていると思うんですけども、
地震には勝てないというのはあると思うんですけども、負けないようにするということもまた心の持ちようでできることなんじゃないかなと思うんですよね。
地震じゃないですけども、先日ですね、6月27日のことか、台風7号と8号というのがですね、1日に2回も台風が日本を襲来するということがあったんですけども、
ちょうど進路的に僕らが住んでいる磯見というところは、ものすごい大雨が降りまして、今から令和元年の暴走台風という大きな台風がですね、それも何回も北半島を襲来したことがあったんですけども、
その時にも大きな被害が出たんですけども、今回もかなりヒヤッとするような台風でした。特に今回は雨がひどくてですね、ちょっと雨の降り方が尋常じゃなくて、ちょっと各所に被害だとかも出てしまったので、それに対処するのに追われてたっていうのが実はあったんですけども、
もうやっぱり台風を防ぐということはできないと思うんですよね。ただ、台風被害が起きたときにそれからいかにリカバリしていくか、それから被害をいかに最小限にしていくかということは人間にできるわけで、やっぱりそれをひたすら頑張っていくしかないんだろうなっていうのが思うことです。
本当に今の過酷な状況で熊本の人たちにそれを言うのは酷なことだっていうのは常々承知してるんですけども、日常を自分たちの力で取り戻すっていうことがやっぱり重要なんだろうなと思ったりします。
もちろんね、周りの自分も含めてなんですけども、できることを支援するっていうのは大事だと思うんですけども、結局やっぱり自分たちで何とかするっていうことが本当に災害だとかで大事なことがあったりするので、何とか心が折れないように支援をし続けるっていうことが私たちにできることじゃないかなと思ったりします。
こういう大地震だとか起きたたびにいつも思うんですけども、日本っていろんな地域でいろんな災害が起きてますけども、なんていうか、必ず復活してるんですよね。
それはもちろん災害もそうですけども、例えば戦争に対しての被害だったりもそうですし、大空襲があったり、原爆が落とされたりだとかして、紫外線が起きたりだとかして、っていうので街がやけの原になったとしても、今はしっかりと復興してるっていうのを見ると、
諦めなかった人たちの凄さっていうのが逆にわかるかなと思うんですよね。そういうメンタリティこそ自分たちの拠り所だなって思うと変わってくるんじゃないかなって思ったりします。
本当に明日は我が身ということで、地震にもいろんな災害にも私たちも備えていきたいなといった思いで生きていこうと思っています。
はい、ここからが本編となります。
今、僕の手元にはある冊子がありまして、その冊子の名前っていうのが、平成25年度特別展、
阿波の星家っていうタイトルの冊子になっています。
阿波っていうのは、今の千葉県の南暴走部分にあたる国の名前になってまして、千葉っていうのは昔3つの国で呼ばれておりまして、
上から下尾差、真ん中が梶差、そして南が阿波っていう国だったんですけど、
この阿波っていうところの星家。星家っていうのはちょっと特別な読み方をする漢字なんですけど、星といわしです。
要するに星といわしのことを星家って言うんだっていうので、それの特別冊子を手に取りながら話をしています。
この冊子は、立山市立博物館が平成25年度特別展に合わせて作られたものになっておりまして、
サブタイトルがついてるんですよね。いわしと暮らす、いわしで繋がるっていうサブタイトルがついてるんですけど、
この冊子、阿波の星家とはついてるんですけども、実は千葉県全体の星家、あとから補述するしめかすの説明。
非常に簡略にかつ、よくまとめられているものになっていまして、
今日はこの冊子に合わせて話をしてみようと思っています。
立山市立博物館っていうのは、立山市にもちろんあるんですけども、
本館の方は立山のお城のところに建っているものになっていまして、
ちょっと今日皆さんに紹介したいのは、その文館なんですよね。
立山市には、渚の博物館っていう博物館がありまして、
こちらの方が立山市立博物館の文館っていう位置づけで、いろんなものが展示されているんですけども、
立山の博物館にはですね、海の民のものがいろいろ陳列されているんですね。
それこそ船も実は中に陳列されているんですけども、
太古の時代から今に至るまでの海の民の人たちのいろんなアイテムを展示するっていうことがなされている博物館になってまして、
結構これがね、面白いんですよ。
千葉県の海の民、千葉県に限らずなんですけども、
海と共に生きてた人々の生活だとか民族、歴史っていうものは、
実はまだまだ広く人々に知れ渡っているわけでもないし、
それから研究がまだまだ進めないというところもあったりして、
ここのですね、歴史民族が本当に面白いし、
僕はこれを見直さなくてはいけないと思っているので、
そういったことを取り上げていきたいなと思っているんですよね。
で、主には漁業してたりだとかする人々なんですけども、
実はこの漁業してた人々の中から歴史を変えるような海軍だとか、
それから海運ですよねっていうのをやり始める人たちも出てきたりして、
いろんな面白い歴史があるんですけども、
今日はその歴史の中のホシカっていうテーマに絞って話をしていこうと思っています。
ホシカっていうキーワードを出しましたけども、
このホシカは干したイワシです。
お聞きの皆さんはこの干したイワシ、
イワシっていう魚ですけども、
何に使ってたかっていう風なのが結構重要で、
どう思われますでしょうか、干したイワシ。
きっと網に置いて焼いて食べるんだろうなみたいな想像が、
まあまあ普通に考えればそうなると思うんですけども、
もちろん食べ物としても流通していました。
で、ただ今回特に皆さんにご紹介したいのは、
このホシカっていうのが日本の農業を変えたっていう歴史なんですね。
で、後から出てくるんですね。
ホシカとシメカスっていうそのものをどう使ってたかっていうと、
畑にまいてたですね、農家の方々が。
江戸時代とか明治時代の農業資材になるんですけども、
これを海でわざわざ取ってきて、
さらに天日で干して、タワラに詰めて、
それを船で運んで、で、わざわざ畑に、
しかも結構平地ももちろんあるんですけど、山の方まで運んでて、
畑にまくっていうこともたくさんされてたんですね。
そんなこと何でしてたのかっていうのをまず抑えておくことが大事かなと思っています。
江戸時代に起きた、ある意味農業革命とも言ってもいい事象なんですけども、
それがどうして起こっていったのかっていうのを見ていくことが大事かなと思っています。
畑にイワシ残したものをまくようになったのかっていう、
この流れを説明してみたいと思っています。
まずは戦国時代の話です。
戦国時代っていうのは日本中でいろんな戦乱が起きていて、
皆さんも大河ドラマだとか、いろんな歴史物で見れば分かる通り、
いろんな英雄が日本全国を走り回って活躍してた時代っていうふうに思う。
これもある一面なんですけども、
もう一方で、この戦国時代っていうのは、
日本が大混乱に陥り、さらには地域力、地域の力っていうのが、
ものすごい荒廃した時代だっていうふうに考えることもできるんですね。
具体的に言うと、例えば戦国時代は戦乱が続いていて、
いろんなものを農家から収奪していきますし、
あるいは働き手としても奪っていくっていうものになるので、
田畑がどんどん荒れてってしまったんですよ。
さらには略奪なんかもあって、
農家の方としても農民の方としても、
長期的な目線に立って農業経営するっていうのが、
なかなかしづらい時代だったんですよね。
明日の命がわからないのに、
十何年後の未来まで心配して農業経営するっていうのが、
なかなかできない時代だったわけですから、
必然的に食糧生産に関しても、
そこまで長期的な視野に立ってすることができなかったと。
一方で大名、いろんな戦国大名っていうのは、
自分の国の生産能力を高めるっていうことが、
引いては戦力に繋がっていくので、
頑張ってやろうとしたんですけども、
この大名対農民の戦いっていうんですかね、
結構面白くて、
逃げ出す農民もいれば追いかける大名もいるみたいなことがあったんですけど、
ちょっとそれは置いといて、戦国時代はそういう後輩の時代だったんですね。
徳川家康がこの戦国時代を最終的に終わらせるというか、
フィックスさせることになります。
関原の戦いだとか、
豊臣政権が続いた後の大阪夏の陣を冬の陣っていうので、
冬の陣、夏の陣か。
っていうので、豊臣氏を滅亡に追いやっていくっていうことで、
天下大平の両を作るということになってったわけなんですよね。
徳川家康は、今後戦国時代が起きないようにするっていうのに、
全勢力を傾けて行政を行っていったので、
ある意味、農民のほうも、あるいは大名のほうも、
長期的な視野に立って農業経営をするっていうことができるようになってたっていう流れがありました。
まずは、お米だとか麦だとかっていう、
主要作物の生産能力増強っていうのが図られていくんですよね。
新田開発だとか、あるいは荒廃してしまった田畑を開墾していくっていうようなことが行われていきます。
江戸時代が平和になった時には、生産能力っていうのがどんどんどんどん上がっていって、
経済学でいうところの生産能力が需給を追い越すところまでは、
ずっと生産能力が上がり続けるというような状況が出現したんですよ。
そうなると、いつかどこかでどうなるかっていうと、
新田開発をすることによってお米が増える。お米の供給が増える。
そうすると市場ですね、市場というか市場というか、マーケットにお米がたくさん出て回ってくる。
それをたくさん買いたいと思う人たちがいる間は、ずっとお米の生産能力が上がっていくっていう、こういう関係にあるんですけども、
これっていつか必ず頭打ちが来るんですよね。
そうするとどうなるかっていうと、市場のメカニズム的に言うと、値段が下がってくる。
値段が下がってくるとどうなるかっていうと、お米の生産能力っていうのが余剰になってしまう状況になるので、
お米を作るのをやめるか、あるいは別の作物を作るか、みたいな選択を生産者の方がすることになるっていう、こういう図式になっていくんですよね。
例えば大阪の道島田とかで行われたお米の市場メカニズムっていうのがあるんですけども、
そのあたりがいろんな日本の農業経営にリンクしていくっていうのが面白くて。
とにかく、一時、お米ガーッと作ってた時代から、
もうお米すごい沢山作り続けても、あんまりお金にならないぞっていう時が来て。
一方で江戸時代で平和になっているので、商業っていうのがものすごい発展していったわけなんですよ。
商業が発展すると何が起こるかっていうと、貨幣経済が進展していく。
それまでの日本は、貨幣経済プラスアルファな部分っていうのがすごいあったんですけど、
江戸時代っていうのは、これがものすごい貨幣経済が発展していくっていう時代でもあったんですよね。
貨幣経済が発展していくとどうなるかっていうと、
要するにはいろんなものをお金を通してやり取りするっていうようなことになっていくっていう、そういう社会だったんですよ。
よく戦国時代って、何穀っていう言い方聞いたことあると思うんですよね。
例えば、貨が100万穀っていう言い方があったりしますけども、これ穀っていうのはお米の量になってまして、
お米でもってサラリーを、お給料を物資だったら払うっていう社会だったんですけど、
これどんどん監禁社会、お米をお金に変えて、そのお金で生活していくっていう社会にどんどん変わっていくんですよね。
その江戸時代になっていく。
そうなると、今度お金を持ってる人が偉いっていうふうに、だんだん価値観が転換していくわけなんですよ。
お米の生産能力っていうところから、お金っていうところにどんどん移っていく。
必然的に、お米を作るだけではダメだと。
お米は基本なんですよ。基本単位としてお米があるんですけども、
お米を作ってるだけだと、さっき言ったように市場のメカニズムでお米の値段っていうのがどんどん下がってきてるんで、
ちょっとこれだとお金、貨幣経済で自分たちが弱くなってしまうぞっていうことで、
お米以外の、それでもお金に代えられる作物っていうのを作っていかなくちゃいけないっていうふうに、
農民も大名の方も、あるいはそれを仕入れる商人の方も考えていくっていうこういう流れが出来上がるんですよね。
そこでいろんな監禁作物、監禁、金に代えると書いて監禁ですけども、監禁する作物っていうのが推奨されるんですけども、
そのうちの一つとして、ものすごい価値というか経済を回す動力となった作物がありました。
それが綿です。綿と言ってもいいですね。
この綿花っていうのの栽培が爆発的に江戸時代に広まっていく。
で、なんでかっていうと、この綿っていうのは洋服だとか、あと布団ですね。
布団の綿っていうのに使われていって、
ちょっとこう贅沢になっていく時代なので、綿入りの布団で寝たいだとか、
綿入りの洋服、洋服じゃない、服ですね。和服の綿入りの服っていうのが温かくて気のせいがすごい優れているので、
そういった服が受けていくっていうような装置があって、そのための原材料っていうのが非常に高く売れるっていうこういう構図ですね。
で、農家の方もこれを作りたいっていうふうになっていったという、こういうことになりました。
で、ただ一点気をつけなくちゃいけないのが、この綿花っていうのは育てると土がどんどん痩せていく作物なんですよね。
土が痩せていくっていうのは、つまり栄養が取られていっちゃうっていうことなんですけども、
非常に綿花っていうのは育てるのに土にたくさんの栄養分が必要になっていて、それを吸い上げてしまう。
で、綿花として取っていって外部に行っちゃうので、栄養が土に戻っていかないんですよね。
そうすると何年も何年もやってると、次第に綿花の生産量っていうのはどんどん少なくなっていって、
さらに土が痩せてしまうので、できなくなってしまったりだとか、ものすごく不作になってしまったりっていうこともあるんですよね。
安定的に、なので綿花を作るためには、土に栄養を補給してあげる必要があると。
これね、面白いのが、江戸時代の農学者っていう、農業を研究する学者さんっていうのが実はたくさんいて、
いろんな本が出されてるんですよ。いつかそういう農学なんかの話も研究して、ここで話せたらなと思ってるんですけど、
本当に江戸時代ってすごくて、作物の育つ方なんかも、結構ですね、今読んでもすごいなと思うぐらい熱心に皆さん研究されてるんですよ。
綿花なんかもそういう研究の対象にはなっていて、土に何を入れたらどんなふうに育つのかっていうのを、結構いろんな人が発表してるんですね。
で、そんな中で強化されたものっていうのが、干し花だったんです。あとはしめかすっていうのもあったんですけど、これ要するにイワシを干したものが、土にいいぞと。
なんか面白いと思うんですよね。土にどんなものを入れたらいいんだろうって。
例えばそのあたりにある葉っぱだとか、混ぜてみるとか。あとは肥料になりそうなものっていうと、人間が食べて出すうんちだとかおしっこですよね。
そういったものを肥料として混ぜるっていうのは発想しやすいと思うんですけど、魚を干したやつを土に入れたらいいって発想。
これってなかなかぶっ飛んだ発想だと思うんですよ。でもそれを誰かが発見して、巻き方だとかも工夫して。
これそのまま混ぜるんじゃなくて、巻き方もあるんですけども、干し花を活用するってやり方を誰かが言い出して、それを推奨する本が出て、農家の人たちもそれを読んで、干し花を買っていくっていうことになるんですよね。
これ面白いのが、最終的に農家の人たちはこの干し花を買うっていうことが出てきます。
買うっていうのはつまりお金を払って買うってことですから、これ仕入れになるんですよね。
農業経営もどんどんお金を使って肥料を買って、作物を育てて、それを売ってお金に変えるっていう流れになっていくっていうのが、江戸時代の大きな流れになっていくわけです。
もちろん年古として収めなくてはいけないお米を作っているっていう前提の話にはなるんですけども、こういうことがどんどん進展していったっていうのが江戸時代の面白いところなんですよね。
今繰り返しになりますけども、言ったように、その面家を連続的に安定的に育てるためには干し花がいる。
干し花をどっかから買いたい。
じゃあ、その干し花を作ってくれるところを探さなくちゃいけない。
干し花を作った人たちのものを運ばなくちゃいけない。
こういうような構図になっていくんですよね。
それが江戸時代に見事にはまったっていうのが、この暴走の地だったっていうのが本当に面白いところになってまして、この後ではそれを紹介してみようと思います。
まず、この干し花を作るにあたってなんですけども、誰かがその干し花の原材料であるイワシを取らなきゃいけない。
ここが面白いところなんですけども、暴走半島では大量のイワシを採ってくるっていうスキルを持った人たちがいなかった。
もしかしたらちょっとはいたかもしれないですけど、ほとんどいなかったんですね。
じゃあ、どっからそんなイワシを大量に採ってくる人を連れてきたかっていうと、
実はこれ、関西地方、特に今の和歌山県、昔は紀伊の国って呼ばれてたんですけど、紀州ですよね。
紀州からこの海の民がやってきたっていうのがあるんです。
ここが本当に面白くて、暴走半島と紀伊半島の繋がりですね。
エピソードの第5話で話した、暴走の海の文化っていうところなんですけども、ここで黒潮の話をしました。
黒潮が和歌山県の辺りを通って、ちょうど外海に離れていくっていうようなことが現象としてあるんですけども、大蛇行って呼ばれるんですが。
和歌山県の紀州の方から海流に乗っていくと、たどり着く場所っていうのが、実は千葉県なんですよね。
この海洋航路を、紀州の海の民っていうのは、本当に昔から知っていたっていうことがあると思っています。
江戸時代に、大量に和歌山の漁師たちが来るわけなんですけども、それ以前にも全然来てた証拠がたくさんあって。
この海洋航路は知られていて、江戸時代にホシカっていうのの生産人数がすごい高まったので、それを目当たりに紀州の漁師たちが大量に暴走に移り住んだ。
もしくは、出張みたいな形で来て帰っていったっていうことがあったと考えられています。
この辺りは、先ほど紹介した阿波のホシカっていう縦山史実博物館が作られたパンフレットにも載っていて、その確かめ方が面白くてですね。
鴨川の話になるんですけども、鴨川で、その当時、お寺に保存されていた修文改め町ですね。
この修文改め町っていうのは江戸時代の独特な制度なんですけど、要するに隠れキリシタンだとかを見つけるために、お寺にそれぞれどの宗派に属している人がいるのかっていうのを記録させたんですよね。
もちろん隠れキリシタンだけじゃなくて、いろんな意図があるんですけども。
要するに、お寺と人をリンクさせる人別の帳簿みたいなのを付けさせたってことなんですけど、これにバッチリ、国の漁師の人たちの名前っていうのが載ってるんですよね。
その当時、鴨川にいた人々の調査っていうのをお寺がやって、そのいた人たちの名前っていうのを書き写してる。
で、それがことごとくキーの漁師さんだったっていうのが、今の記録として残ってるっていうのが本当に面白いなと思っています。
こんな形で、キーの方から漁師さんたちがやってきて、その中の何割かが暴走半島に土着してった。
つまり住み着いて、それ以降ずっと暴走の漁師として活躍してたっていうことがあるということなんですよね。
そういった形で確かめられるっていうのがあるんですけども、もう一つ。
これはまたどっかのエピソードで触れたいなと思っていて、僕が調べてることの一つでもあるんですけども。
暴走半島とキー半島をつなげるリンクとして神社の存在っていうのがあると思っています。
暴走半島、キーの半島の神社といえば、世界遺産にもなっている熊野神社という存在です。
この熊野信仰っていうのは、ちょっと話し始めると本当に長くなってしまうんで、
今日、もうめっちゃくちゃ発症って簡単に言いますけども、要するに山の信仰だと思ってください。
山を神と見立てて信仰する。
この山岳信仰の文化っていうのを、海の民の人たちっていうのはものすごく強く色濃く信仰してた。
それは実は、もちろん宗教上の信仰心としての敬っていたっていうのもあると思うんですけども、
もう一つ、利便性っていう意味でも実用的でもあったっていうことなんですよね。
何かっていうと、その当時、まだ海洋のコンパスだとか海図っていう地図がなかった時代なので、
漁師さんたちは何を頼りに漁業だとか船の捜査をやってたかっていうと、
山を目印にしてこの漁をやってたんですよね。
つまり、山の存在こそが自分たちの漁業を助け、命を助ける存在でもあったと。
こういう関係性ができていたわけなんですよね。
なので、山を神と見立てて、それを信仰した。
その信仰っていうのが、熊野信仰っていうのに結びついていくわけなんですけども、
面白いのが、和歌山県で始まったこの熊野神社信仰。
和歌山県なんかよりも遥かに多い熊野神社が存在する県っていうのが千葉県なんですよ。
千葉県は本当にたくさんの熊野神社がある県になっています。
他にも福島県とかも多いみたいなんですけども、千葉も相当多い。
それはなぜかというと、先ほど言ったこの紀伊の国から来た漁師たちの存在っていうのが、
和歌山の熊野信仰っていうのを坊主に持ち込んで、坊主の目印になる山っていうのを見つけては、
そういった信仰と結びつけていったっていうことがあるんだろうなと考えています。
そういった神社の存在っていうのが漁業文化と結びついている。
山と海っていうのがこうやって結びついているっていうのが本当に面白くて、
この辺りの歴史はどんどんどんどん掘っていきたいななんて思っているところです。
磯見にも熊野神社実はたくさんあったりします。
神社っていう存在が、その時その時の時代の人々にとってどういう存在だったのかっていうのが、
本当に調べていくと結構面白くて。
ここはね、結構興奮するポイントであったりするんですけども。
ちょっと今日は熊野信仰には踏み込まずに、そういったところからも裏付けられることとして、
和歌山県の漁師たちがたくさん千葉に船を漕いできてですね、
で住み着いたりして、そこで漁を行ったっていうことがあるということなんですよね。
さあいよいよイワシを捕る漁師さんが揃ったということで、
磯見浴び漁に入っていきたいと思っています。
この磯見浴び漁を理解する上で、まず一つイワシの生態を知っておくことが大事で。
イワシっていうのは海流性の魚になっていまして、
群れでですね、海をダーッと移動する魚になっているんですよね。
このイワシがあるタイミングで沖合から浅瀬の方に移動してくるっていうタイミングがあるんですよ、群れで。
そのタイミングを見計らって網で捕る、こういう漁業の仕方が磯見浴び漁になっています。
例えばタイだとか思い浮かべてもらうとそうなんですけども、
タイっていうのはある裏に住み着いてずっと生きてるっていうタイプの魚なんですけども、
イワシは海流性なので、海のいろんなところを移動していって、
潮の流れだとかと並行しながらいろんなところを移動していって成長していって、
あるタイミングで岸に近づいてくるっていう生態がある。
それを利用した漁っていうのが、磯見浴び漁っていうことなんですよね。
なので、まずはそのイワシの生態を理解して、群れがやってくるっていうタイミングを抑えるっていうことがめちゃくちゃ大事になってくる。
そのタイミングで、バーッと船を出していって、網を引っ掛けて、その網を引っ張ってくるっていう、こういう漁の仕方が磯見浴び漁になっています。
磯見浴び漁の具体的な説明なんですけども、どういう漁かっていうと、
まず、この磯見浴び漁は、ものすごいでかい網を作ります。
すんごい、何百メートル、一番大きな網とかだと500メートルくらいあったらしいんですけども、
そのぐらいの網を2本用意して、
2本っていうか、なんていうかな、
1つの大きな網を用意するんですけども、
この網っていうのをまず陸地に1個、
1つの両端、端っこと端っこがあるんですけども、
その1つの端を丘に固定するというか、丘につけます。
それで急いで、船で沖合まで出てって、
で、網を群れに追い込むような形で設置していく。
この網を設置するっていうのは、すごい高度な技術がいたみたいなんですけども、
その岸上から来た漁師さんたちが掛け声をかけて魚を追いやって、
で、網を設置する。
その陸地に設置してないもう1つの端っこの網を、
船で沖合の方から今度は浜の方にガーッと寄せてって、
そうすることによって、沖合から浜に向かってUの字、
Uの字で網が張られていくんですよね。
で、船が浜に戻ってきた時には、村人たちが総手で待ってる。
で、何するかっていうと、このUの字に囲われた網の両端をですね、
村人総手で引っ張り上げる。
こういうことをやるんですね。
で、そうすると、だんだんそのUの字で囲われた網が浜に向かって近寄ってくるんですよね。
わかりますかね。囲われたUの字の網がだんだんだんだん浜に近寄ってくる。
これ、でも人力でやってたっていうのが信じられないことなんですけども、
漁師はだんだんだんだん浜の方に引きずられていって、網に押される形ですよね。
網に押される形で引きずられていって、
しまいには浜に打ち上げられてしまう。
で、両端から引っ張ってた人たちは、えいやえいやとって引っ張ってって、
浜が来るとこまでこれを引っ張り上げなくちゃいけない。
この村人総手で網を引っ張る様子っていうのは、
いろんな絵に描かれていたり、あるいは文章で記録されていたりします。
かなりの壮観だった漁です。
もう本当に想像するだけですごいですよね。
人力で要するに綱引きみたいなイメージですよね。
で、船で巨大な網を張り巡らせて、
で、船が戻ってきたらみんなでその網を引き上げる。
引き上げるとどうなるかっていうと、海に大量にいたイワシ。
イワシは銀色に光ってますから、
結構光り輝く存在っていうのがババババババッと海に打ち上げられて、
浜一体が銀色に輝いてしまうっていう描写が残ってるんですけども、
それぐらいすごい大量のイワシが浜に打ち上げられるっていう、
こういう風にしてイワシを捕っていたっていうことなんですよね。
本当にすごい創生技術もいる量になってまして、
なんとなくこの網を仕掛けたら、
あとは力作業なんだっていう風に思ってしまうかもしれないんですけども、
さっき言ったようにイワシの群れの移動を経験で知って、
このタイミングだったらいけるぞっていうタイミングで
素早く網を仕掛けるっていうところにまずすごい創生技術がいますし、
過去っていう船を漕ぐ人たちがいるんですけども、
あとは網を仕掛ける人たちですね。
この人たちを操るっていうのがめちゃくちゃ大事になってくる。
この操る人を指揮官を置き合いって言うんですけども、
その置き合いを束ねる扇動ですね。
その人たちの息がぴったり合ってないとできない協協の仕方になっています。
このあたりの記録は本当に読んだりだとか、
あるいは結構伝書も残っているので、
人の話を聞いたりするのが面白いんですけども、
この地引き網料、地引き網に限らず、
他にもいろんな網料があるんですけども、
いろんな話っていうのが実際今でも残っているので、
そのあたりはもっと深く掘っていきたいなと思っています。
とにかく奇襲から来た漁師たちが、
この地引き網料っていう両方を暴走に伝えて、
それでもって大量のイワシを取ってくるっていうことが実現していった。
暴走に限らず、日本全国でこの地引き網料はやられてたんですけども、
ある地域がこの地引き網料がめちゃくちゃバッチリはまってしまう。
ものすごい大量のイワシを浜に打ち上げて、
それをみんなで加工するっていうのを文化として根づかせた地域がありました。
それが九十九里浜になります。
この九十九里浜は、行かれた方は皆さんわかると思うんですけども、
ものすごい庁大な見渡す限り浜っていう、
日本で一番長いビーチになってまして、
遠浅の海なんですよ。
なので沖合の方からイワシを引っ張ってくると、
その打ち上げられるイワシにちょうどいい形でビーチが存在してるんですよね。
なので、地引き網っていうのは引き上げてくるタイミングで浜に寄せなくてはいけないので、
どうしてもその浜っていうのがまずある前提で漁をしなくてはいけないんですよね。
この浜が庁大に続いている。
つまり、ある程度網をうまく仕掛ければどこにでも引っ張ってこれるっていうところが九十九里浜になってますので。
この九十九里浜で地引き網量を使ったイワシを取ってくるっていう量がめちゃくちゃ盛んになったんですよね。
で、せっかくな統計があるわけではないんですけども、
その日本のイワシ、ホシカですね。
ホシカの生産量は断トツ第一が千葉県。
まあおそらくはこの九十九里浜でたくさん取られていたっていうことになってきたっていうことなんですよ。
さらにちょっとホシカとシメカスについてもざくっと説明しておきたくて、
この浜に打ち上げられたイワシっていうのをどうするのかっていうのが、めちゃくちゃ重要なんですよね。
ホシカっていうのは、干したイワシって書く文字通り、このイワシを干さなくちゃいけない。
この干すっていうのをどうするかっていうのがめちゃくちゃ大事なんですね。
それでさっきの九十九里浜とか浜がまた活躍するわけなんですけども、
どうするかっていうと、雨にかかってきたイワシが大量に打ち上げられる。
で、銀の山ができるっていうふうな表現が書かれてたんですけども、
キラキラ光り輝くイワシが山のように積み重なるっていう、そういう映像ですよね。
ここで活躍するのが村の女性たちです。
女性たちがそのイワシを入れる専用の樽みたいなのにガーッと入れてって、干し葉って呼ばれるところに持ってきます。
干し葉で、そこのゴザとかが敷き詰められたと思うんですけども、そのイワシを並べていくっていう作業をやっていくんですよね。
太陽に当てて、このイワシを急いで干していく。
もしこれ急がないとどうなるかっていうと腐ってっちゃうんですよね。
腹綿がどんどん外に出てって腐ってしまうっていうことがあるんで、急いで干さなくちゃいけない。
この仕事が女子供の仕事だったっていう感じだったようで。
主に綱を引くのを男性がやって、浜に打ち上げられたイワシを急いで女性人が集めて干し葉に持っていく。
こういうようなのが行われてたようです。
天日干しされたイワシ。
カラッカラに乾いたイワシをさらには俵に詰めて、これが干し葉として日本全国に流通してたっていうこういう流れになっていたようなんですよね。
面白いのが、九十九里浜はそうやって大量にイワシが採れたので干し葉を作ったんですけども、
一点ちょっと問題があって、この九十九里浜で作られた干し葉は結構な頻度でどうも砂が入り混じってしまったようなんですよね。
これは量と質の関係だと思うんですけども、大量に打ち上げられるもので、どうしても拾っていくときに砂がついてしまって、
それで砂がついていくので、芽方とかもその砂のせいで重くなっちゃうので、
どうしても質はあんまり良くないというふうに見られてしまった。
一方でイスミとかアワで作られた干し葉っていうのは干すときに気をつけて干したので、砂があんまり混じってなくて、
幾分イスミとアワの干し葉っていうのは常質とされたというふうに記録が残っていたりします。
この干し葉は大量に採れたので、どうしても領収からは税金の対象にされてしまって、
この干し葉の採れた量に従って税金を課されるみたいなこともあったようです。
まずこれが干し葉ですね。田原に詰めていろんなところに運ばれていったという、そういうものになります。