房総文明ラジオ
この番組は、「房総半島に新しい文明を作ろう!」を合言葉に、千葉県は房総半島にまつわる様々な情報を発信するポッドキャス番組です。
ナビゲーターは、房総文明ミュージアムよりYossyがお送りいたします。
はい、今回で第29回目の収録となります。
8月の夏休みに入ってですね、もうすぐお盆が来るっていうタイミングなんですけども、
房総半島では今、至る所で祭りが開催されていまして、
房総半島の人たちは本当にお祭り好きな人たちが多いので、
お祭り、いろんな所で本当に盛んでですね、それがすごい良いなと思ってたりします。
花火大会も結構いろんな所で開催されていて、
房総半島って結構ずっと平ったいんで、かなり遠くの花火大会とかも見ることができるんですよね。
今日はあそこで花火大会やってるんだろうなっていうのが光ってる様で見えたりとかしてですね、
なかなかそれもまた風流だったりします。
祭りの話なんかも、これもまたテーマとして切り取って話をしたいと思ってるんですけども、
みこしが出て、それをみんなで担ぐっていうのは、
もちろんのこと、祭り林、おはやしって言われるものがですね、
結構地域の伝統として残ってる地域が多くて、
それを子供たちが練習して、お祭りの時に本番披露する。
笛だとか太鼓だとかっていうのを披露するっていうのが、またちゃんと残ってたりするんですよね。
なんかこういうのも本当に大切にしていきたいなと思ってたりします。
また一方で、このボクソファンともごたぶに漏れず少子化っていう問題があるので、
お祭りっていうのがどんどんなくなってきてしまっていて、
僕が住んでる地域なんかもお祭りがなくなってしまった地域ではあるので、
こういったずっと続いてきたお祭りっていうのが、
あるタイミングでなくなるっていうこの問題に関しても、
本当はいろいろ考えなくちゃいけないなと思ってたりします。
あともうちょっとするとお盆ですけど、
ボクソファン等でお盆の時期に活躍するものとして、
この時期に打鍵にお目にかかるものがあるんですけど、
それが盆送り長陳って呼ばれるものなんですよね。
いろんな人がお墓参り、お盆の時期に先祖を迎えるっていうことをするんですけど、
その際に持っていく長陳っていうのが結構あってですね、
その長陳を皆さん大切にされていて、
その長陳がちょっと面白いですよね、カラフルな長陳になってまして。
あと家に据え付けとくタイプのアンドンっていうのもありまして、
それも昔の長陳、アンドンと今の科学を結合させたようなカラフルに光る長陳だったりして、
結構面白いなと思ってたりします。
第29話 あなたも一緒に文明学やりませんか?
ということで今回はこの暴走文明ラジオという番組タイトルにも付けられている
文明という概念について考えてみる回にしたいと思っています。
この暴走文明ラジオでは番組の冒頭に
暴走半島に新しい文明を作ろうというキャッチコピーで
番組をやらせてもらっていますけども、
これは何も思いつきでやったわけではなくて、
僕がある意味修正のテーマというか、
自分でずっと研究していることの一つに
この文明という言葉があって、言葉というか概念があって、
それを深く広く考えるために
この番組をやっているというところが実はあったりするので、
なんとかそれをうまく皆さんにお伝えできたらなと思うとともに、
この文明学を一緒に学んでくれるというか、
探究してくれる人を増やしていきたいなという思いで、
今日はこの回を撮っていきたいと思っています。
それでは本編の方に行ってみましょう。
ここからが本編となります。
先ほど申し上げた通り、
今日は文明について考える回ということなんですけども、
話の導入として、
まずは僕が大学時代に学んでいた政治学という学問について、
簡単にご説明できたらなと思っています。
政治学という学問、
聞きなじみない方が大半だと思うんですけども、
特に政治という言葉がついているので、
例えば政治家であったり、
あるいは今の自民党の政治みたいな使い方で、
現行の政治がどうなのかっていうのを、
あれこれいう学問というふうにとらわれがちなんですが、
もちろんそういったことを研究するというジャンルも
中には存在するんですけども、
実はこの政治学っていったときには、
もうちょっと広い学問の
間口を持ったものになっております。
それをちょっと今日簡単に説明できたらなと思うんですけども、
まずこの政治学という学問の名前、
これは実は英語の方がわかりやすくて、
英語ではこの政治学をポリティカルサイエンスという言葉で言い荒らします。
サイエンスという言葉がついているところがポイントで、
サイエンス科学ですよね。
なのでポリティカルは政治的なって意味なので、
政治的な科学っていう意味を持った学問ジャンルということなんですよね。
で、これどういうことかっていうと、
ここからちょっと僕の理解というか、
僕が定義するような政治学になってくるので、
いわゆる政治学の教科書に載っているようなこととはちょっと離れてくるんですけど、
ちょっとわかりやすいように説明したいと思っているので、
細かいところは捨ててですね、ちょっと説明していきたいと思っています。
まず、この学問ジャンル、政治学という学問が出てきた背景みたいなのを理解するのが大事かなと思っていまして、
サイエンスって先ほどついてるって申し上げましたけども、
例えばサイエンスというときに思い浮かべる学問として、
数学だとか物理学だとか、あるいは化学、ケミストリーですよね、
というような学問ジャンルっていうのが思い浮かぶ方多いと思います。
例えばその中の物理学っていうのでいうと、有名な学者にニュートンという人がいますね。
バイオ引力の法則を提唱したニュートンですけども、力学の祖と言われる人ですね。
この人の功績によって、例えば重力が数式として表されたり、
あるいは天体の動きだとか、いろんな物体の移動の仕方だとかが、
数式によって求められるようになった。
こういうことが力学の始まりとして、
個性要素として成立していったという背景があったと思います。
こういう化学的な考え方を人間関係にも当てはめられるんじゃないかっていう風に考え始めたのが、
政治学の始まりだろうと僕は考えています。
もちろんギリシャ哲学だとかギリシャの時代だとかから、
政治学と呼ばれるような言い方のジャンルはあって、
これは古典的な政治のあるいは歴史的な捉え方っていうのがあったんですけども、
近現代的な政治学っていうのは、
この化学的な物の見方に立脚して人間関係を見ていくっていう学問なので、
そういう視点が入ってるんだということをまず念頭において聞いてほしいんですね。
この政治学の中ではパワーという単語がよく出てきます。
パワーっていうのは先ほどの物理学で言ったら力のことですよね。
ただ政治学の分野ではこのパワーっていう言葉を権力という風に言い荒らします。
なのでこの権力っていうのが人間関係に働いていて、
その権力によってどんなことが起きていくのかっていうのを見ていく学問ジャンルっていう風に言うことができると思うんですよね。
これちょっともっとわかりやすいように具体的に例え話で話をしていくんですけど、
例えばAさんがBさんにこれをやれって言ったとき、
Bさんがその言葉に従ったとしたら、
AさんはBさんを従わせる権力があるっていう風にみなすことができるわけですよね。
そうしたときになぜAさんはそんな権力があるのか、持ってるのかっていうのをまず考えることができます。
さらにはAさんはどれぐらいの権力を持ってるのかっていうこの定量分析みたいなこともできるようになるということなんですよね。
科学的にそれを測ることができるのかっていうのを、いろんな人がいろんな視点から考えた学問っていうのが政治学だと思っています。
なので政治学はある一つの単体的な学問ではなくて、いろんな学問ジャンルとくっついて考えられるような学問なんですよね。
例えば、こんな事例をいろいろ出してみなさんに考えていただきたいんですけども、
AさんがBさんに5000円を渡して、Cさんを例えば殺してこいと命じたとしましょう。
ちょっと極端な例ですけども。
それでBさんが剣を、ナイフを持ってCさんのところに行ったと。
ただ、そうしたらCさんが命声をしてきて、1万円あるから自分を助けてくれって言って、
BさんがCさんの依頼に従ったと考えたとき、この権力構造で考えると、
Aさんは5000円の権力を持っている。Cさんは1万円の権力を持っている。
それで、Cさんの1万円の権力の方が勝ったっていう風に見ることができる。
例えばですよ。そういう視点があると。
そうすると、お金をより多く持っている人の方が権力があるっていう風に、例えばの話が考えられるわけですよね。
こういった視点からずっといろんなものを考えていくと、経済学っていう学問ジャンルと政治学っていうのが密接に繋がってくるわけです。
なので、例えば政治経済学っていう風に、経済学と政治学をくっつけて考えるっていうものの見方も存在します。
これは例えば、就職活動の時に500万円もらえる会社と1000万円もらえる会社だったら、1000万円もらえる会社の方に行こうって考える人が多い。
例えばこういう動作ですね。人間をある方向性に従わせるっていう権力。権力は本当にいろんなものの見方があって、
例えばこういうのも権力っていう風に見なして、人の流れを捉えていくっていうのが政治学になります。
今おかねで例えば話をしましたけど、次に例えばAさんはある組織のボスで、Bさんはその顧問だったと考えましょう。
そしてBさんにCさんを殺してこいと命令するわけです。
それでBさんは行って、Cさんが先ほどの通り1万円で命声をします。
ところが、今回はBさんはそのCさんからの依頼を断って、Cさんを殺してしまうとする。
そうすると、ここにAさんとBさんっていうのが社会的な上下関係があって、
その経済的な1万円というよりも重い権力、大きい権力をAさんが持っていて、Bさんはそれに従ったっていう風に考えられるわけですね。
これが社会学的な、いろんな社会学の構造、社会の構造ですね。
そういうのを解きほごしていくことによって、この権力を明らかにするって考えられるわけです。
他にも例えば親の命令だとか、いろんなパターンが考えられると思うんですけども、
社会の構造でこういう人を動かすっていうことができるんじゃないかって考える一派もあります。
そうすると政治学は社会学とも密接に関係していくわけです。
他にも、Bさんは誰にも命令されてなくて、ただ自分の信じる宗教の神に、神だとか聖典ですね、聖典に従ってある行動を起こしたという風に考えると、
今度はBさんに対して宗教だとかが権力を持っているっていう風に考えられるわけですね。
逆に考えるとBさんは宗教によって動かされた。
そうなると今度は宗教学っていう学問じゃあると政治学は関係していくと。
こんな感じでいろんなものが政治学と関係していきます。
他にも最近は、例えばインスタグラマーに影響されて自分が行動を取るって考えた時に、心理学的な要素を加味して考えるっていうムーブメントの動きも起きてまして、
心理学だとか、あとはもう一番広いジャンルで言うと哲学ですね。哲学と結びついて、この政治学、権力を捉えていく学問ジャンルと結びついていくということが起きたりしています。
まとめると、政治学っていうのは権力、人間関係における権力を考える学問である。
人間はいろんな権力に突き動かされて動いていく。
その権力の大きさっていうのは、例えば経済であったり、あるいは社会的な背景であったり、あるいは心理学的な背景であったりっていうのが効いてきて、
それによっていろんな人々が動いていくっていう動作を観察していくっていう学問ジャンルが政治学なんだということです。
僕は大学時代にこの政治学を勉強していたんですが、ちょうど僕が大学の時にはグローバリゼーションっていう言葉がもてはやされていたというか、めっちゃ流行っていて、
このグローバリゼーションの文脈で国際政治学っていう世界の国だとか人々がどういうふうに突き動かされているのかっていうのを考えるっていうことが流行していたんですね。
なので僕も、いわゆる国際的な人々の動きに対して権力がどういうふうに作用しているのかっていうのを考えていたりしました。
そんな政治学と今日のテーマである文明っていうのがどう関わってくんねんっていう話なんですけども、
僕はですね、大学時代にある本と出会って、その本っていうのがある意味僕の問題意識の方向性を決めてしまった原点となったっていう本になっています。
本の名前は文明の衝突という本になります。
この本はサミュエル・ハンチントンというアメリカの政治学者が書いた本になっていまして、
国際政治学の分野では大抵の人が知っている著作なんですね。
この文明の衝突っていう本を読んだことによって、僕はその文明っていうのを考えることになりまして、
ずっとそこからいろいろ考え続けているっていうそういう感じなんですよね。
ちょっとこのサミュエル・ハンチントンの文明の衝突っていう本、あるいはそのサミュエル・ハンチントン自体を紹介しようと思うんですけども、
この本は1996年に書かれた本で、日本では1998年に出版されています。
鈴木力さんという方が役して、衆営者から出版された本になっています。結構バツイ本で、読むの大変なんですけども。
で、その文明の衝突っていう本の中では、結構この本って革命的な本って言われてまして、
何かっていうと、今までは国際政治っていうのは、例えば国と国だとか、
イデオロギーって言って、主義って言うんですけど、例えば共産主義だとか社会主義って思い浮かべてもらったり、
自由主義っていうのを思い浮かべてもらえばいいんですけど、この主義っていうことはですね、こういったイデオロギー対立だとか、
国家対立っていうのが国際政治の現場を決めているっていうふうに考えられてたんですけども、
ここにサミュエル・ハンチントンは文明という概念を持ち出してきて、その様々な国際的な運動を説明するっていうことを試みるんですね。
この文明っていうのは、いろんな文化的な要素を持った複合体っていうふうに考えられていて、
それでその文明の行動理念、あるいは行動の基盤となるようなところに突き動かされて、
いろんな人は国際政治に見られるような行動に出ているというふうにサミュエル・ハンチントンは説明をしました。
特にサミュエル・ハンチントンの文明の衝突で、その当時からしかも現代に至るまでなんですけども、
よく聞き合いに出されるのが文明の衝突の中で出てくる言葉で、フォルトラインっていう言葉があって、
これは断層っていうふうに日本では訳すんですけども、地震とかで、今も熊本大地震が発生したときに断層って言葉がよく出てますけども、
あの断層っていうのがこのフォルトラインです。ある大陸と大陸が衝突して、そこに断層っていうのが生まれて、そこで歪みが発生する。
このモデルを国際政治にも持ち込んだんですね。文明と文明が接しているようなところにこの断層、フォルトラインができて、
そこでいろんなドンパチが生じるよっていうふうな説明の仕方をサメル・ハンチュントンはしました。
この文明の衝突的な見方をとると、例えば今国際的なニュースで話題になっているイスラエルとアラビアのイランダとかとの衝突っていうのが理解できたり、
アメリカとイスラム共和国家のイスラム的な原理主義との戦いが理解できたりっていう、説明するモデルとしてものすごい大きな力を持ちました。
なのでサメル・ハンチュントンは現在でも結構多くの人に読まれている、文明の衝突は多くの人に読まれている本だと思っています。
ちなみにこのハンチュントンっていう人は1927年の生まれで、
勉強した後に23歳の若さでハーバード大学で教鞭を取ったというすごいキャリアの持ち主になっていて、
そのハーバード大学の時にジョン・オリン戦略研究所っていうのの所長でもあり、
さらには米国の国際安全保障の担当した経歴を持つ人になっています。
ある意味ゴリゴリの国際安全保障の現場も知っているっていう人で、
一種のリアリズムを持って国際政治を見ていたっていう人の一派になるんですけども。
まあそれでこの文明の衝突っていうのを読んだ時に、
いろんな人が衝撃を受けましたし、僕もかなり衝撃を持ってこの本を読んだっていう記憶があったりします。
ちょっとこのサミュランチュントンの文明の衝突については、
またものすごく大きなテーマでもあるので、
どっかの段階で切り出して、一つのトピックとして話をしてみたいと思っているんですが、
ちょっとここで、あるものの見方としてこの文明の衝突、面白い見方を提示してくれているので、
それだけ今回は紹介したいと思っています。
何かっていうと、まずサミュランチュントンは価値っていうのにすごい注目をした人です。
人間の価値観っていうのが人間の行動に大きく作用している。
この文明がある意味その価値を定義しているものになっていて、
例えばの話、イスラム教の世界では、聖典に基づくコーランですね。
コーランに基づく生活規範っていうのに従うことが価値を生み出す。
その価値に従って人々が行動するっていうようなことを観察し、それを説明していくっていうようなことをしていったわけですね。
その価値っていう言葉、実は学問の中では本当に、社会学系の学問の中ではめっちゃよく出てくるんですけど、
このサミュランチュントンの文明的な意味での価値っていう考え方。
これが結構面白くて、その後の学問にもかなり大きな影響を与えたんじゃないかなと思っています。
まずこの価値が一つですね。
もう一つ、文明の衝突を研究している研究書ってすごいたくさんあるんですけども、
ただ、その中では実はあんまり触れられないことなんですが、僕はすごいこれに注目していて、
サミュランチュントンは、文明っていうのは相対的なものだっていうふうに考えていたんですよね。
この相対的なものっていうのはどういうことかっていうと、世界にはたくさんの文明が存在しているっていうふうに考える見方なんです。
これはアメリカ人がこれを考えるっていうのは結構面白いなと僕は思っていて、
っていうのは、例えばの話で、戦後の国際体制を考えると、アメリカっていうのはアメリカリズムみたいなのを世界に復旧する。
例えば自由主義であったり、市民の平等であったりっていう、こういうアメリカ的な考え方を世界に発球させていく。
つまりは、そういった、よくこれを西洋的価値観って言いますけども、西洋的な価値観を世界に普及させていく。
自分たちはその普及のエンジンであるっていうふうに考えていく。
これは一つのものの見方では、単一的な文明的な発想に陥っているというふうになすことができるわけなんですけども、
ハンチントンはここをちょっと視点をずらして、世界にはたくさんの文明が並列的にパラレルにですね、世界に存在していて、
それぞれがそれぞれでいろんな価値観を持って人々を突き動かしているっていうふうに考えたんですよね。
これ相対的な文明のあり方として言葉としてまとめることができるんですけども、
これ本当に面白いなと思っています。
何が僕の中で近世に触れたかっていうと、サミュル・ハンチントンがそんな形で世界をいくつかの文明に地図で色分けして分類するんですよ。
この分類の仕方についてはものすごい大激論を巻き起こして、この分類の仕方おかしいだろうみたいな話があるんですけども、
ちょっとそれを置いとくとして、何が面白いかというと、サミュル・ハンチントンがですね、この文明を分けた時に、
例えばアメリカはイギリスだとかヨーロッパ大陸と同じ文明圏に属するっていうふうな、いわゆる西洋っていう言い方ですよね。
同じ文明圏に属するっていうふうに色分けしていったわけなんですけども、
なんとですね、日本だけ、本当これ日本だけなんですけど、日本だけ日本文明っていう文明に分けて分類してるんですよ。
例えば、よくあるヨーロッパから見た日本っていうのは東洋、いわゆる中国だとか韓国だとかと同じような文明圏に属するっていう見方多いと思うんですけども、
なぜかサミュル・ハンチントンは日本は日本文明だっていうふうに捉えて、地図もそういうふうにマッピングしてるんですよね。
これにも僕はすごい面白いなと思わされて、なぜ日本文明っていうのを独自に考えられるのかっていうのを考えるきっかけになったんですよね。
これは僕の中ではすごい今でもずっと考察してることなんですけど、これに関していろんな人がいろんなことを言ってるっていうことも実はあったりします。
そのあたりもね、紹介できれば面白いんですけども、今日はちょっとそこは割愛して、次回以降に回したいと思ってるんですけども。
とにかく、ハンチントンは相対的な文明の見方っていうのを提示し、なおかつその相対的な文明の見方っていうのに立脚して、世界をいろんな文明に分類してったと。
で、その分類の中になぜか日本文明っていう文明があったっていうのを僕が見て面白いなと思った、こういう図式なわけです。
日本文明っていったときに、何がその日本文明を構成してるんだろうっていうのを考えるきっかけになったっていうことなんですよね。
そんなサミュロ・ハンチントンの文明の衝突を読んで以来、僕は文明についてあれこれ調べておりまして、
実はそのハンチントンだけではなくて、いろんな学者だとかいろんな人が文明について本を出版したり考え方を述べたりしてるんですけども、
そういった人たちの考え方を今日は大きく3つに分けて紹介してみたいと思っています。
他にもいろいろな見方だとかあると思うんですけど、今日は分かりやすく3つに分けてちょっと説明をしてみたいと思うんですが、
1つ目が歴史的文明論です。
2つ目が近代的文明論。
そして3つ目が現代的文明論になります。
歴史的に見ても、この3つの分類に属する形でいろんな人がいろんなことを言っているっていうのが見て取れるので、
分かりやすく今日は3つに絞って話をしてみようと思っています。
まず1つ目が歴史的文明論です。
これは分かりやすくって、皆さんも中学生の時に社会の授業で世界4大文明っていうのを習った記憶があるんじゃないかなと思います。
エジプト、メソポタミア、コウガ文明、インダス文明。
こういった形で世界同時にいろんなところでいろんな文明が発生したみたいな理解の仕方をしたと思うんですけども、
実はちなみにこの世界4大文明なんていう言い方はもう今の主流的な考え方ではなくて、
実は言ってるのも多分日本ぐらいのものだったと思うんですけども、
ちょっとそれは置いておくとして、こういった歴史的な文明の見方をするっていうのが1つ目のジャンルです。
歴史学的なものの見方で、この文明っていうのを考察していく。
例えば、コウガ文明はどういう風に発生してきて、どういう風に滅んだのかっていう、
この一連の経緯をこと細かに研究していくっていうのがこの考え方になってきます。
そこから得られる教訓は何かだとか、文明っていうのはどういう風に起こっていって、
どういう風に衰退していくのかっていうのを考えていくっていうのが、この歴史的な文明論になってきます。
これは一番わかりやすい文明論ですね。
続いて2番目、近代的文明論です。
これが一番重要なところになってくると思ってまして、
何かっていうと、この近代的文明論っていうのは、
私たち、特に日本人の考え方を大きく規定しているものとなっていると僕は見ているからなんですね。
例えば、日本は江戸時代が終わって明治時代になった時に、
いろんな人が文明開化という言葉を使いました。
ここにも文明って言葉出てきてるんですよね。
この文明開化のロジックっていうのは、まさにこの近代的文明論に立脚したものであるということができます。
何かっていうと、文明化している国と文明化していない国っていう風に、
実際に世界の中で、歴史の中でこういう分け方をした時代があって、
文明化した国っていうのは進んでいて、文明化していない国っていうのは遅れているっていう、
こういう二項対立的な考え方を取った時代があって、
その価値観は実は今でも続いているっていうことなんですよね。
で、その文明化しているっていうのはどういったことが言えるのかっていうのは、
今日これを触れていくともう終わりになくなってしまうので、
さらっと済ませてしまうと思うんですけど、
とにかくこういう遅れている、進んでいるっていう、
そういう考え方のもとに文明化しなくてはいけないっていうロジックを引き出す。
その大きなロジックがこの近代的文明論っていうものなんだという風に考えてもらえばいいかなと思っています。
で、日本は江戸幕府が倒れて明治時代を迎える時に、
西洋に追いつかなくてはいけない、文明化しなくてはいけない、文明化しなくてはいけないっていう風に考えたわけですね。
で、これがある意味国勢、国の正義となって人々を突き動かしていく。
で、制度を変えて法律を整えて、
社会的ないろんなものの見方ですら全部変えてしまって、
西洋の制度を取り入れていくっていうようなことをしていって、
自分たちは文明化していったんだという風に考えていきました。
で、何にもこれは日本で進んだことではなくて、世界中で見られた現象になっていて、
で、こういった世界中でこの近代的な文明論っていうのが進んだ背景には、
主に哲学的な考え方、特に進歩主義っていう考え方と、
もう一つ、社会進化論っていう考え方が大きく作用していました。
進歩主義というのは、先ほど言ったように進んでいる、
社会がどんどんどんどんある方向に進んでいっていて、
で、それを進めている国と、それにまだまだ進めきれてない国っていう風に分かれていくっていうこういう考え方になります。
あと社会進化論っていうのは、ダーウィンの進化論に影響を受けて、
社会はある方向に進化していくっていう、そういう見方ですね。
で、進化してった国と遅れてる国、そうではない国っていう風に考えていく。
こういうようなものが両輪として回っていくっていうような世界観になっています。
で、実はこの近代的な文明論っていうのは、今でも根強く様々なところに残っていて、
当然ながら日本もこの考え方にめちゃくちゃ拘束されてるって考えることができるかなと思っています。
ここら辺りもまたどっかの段階で深く掘り下げて話ができたらなと思ってるんですけども、
今日はちょっとそんな近代的文明論っていうのがあるんだっていうことだけ押さえてもらえばOKです。
で、3番目、現代的文明論です。
で、これはちょっと近代的文明論と似てるんですが、全く異なるっていうところもあって、
何かっていうと、文明っていうのをもっともっと広いマクロ的な視点で見る。
で、そんなエジプト文明だとかインドス文明だとかっていうふうな個別の文明ではなくて、
人類文明っていう、人類っていう括りで見てしまうっていうそういう考え方になります。
で、これは成立してた背景っていうのが、特に第一次世界大戦と第二次世界大戦の以降になってくる考え方です。
人類っていう、人類だっていう大きな括り、あるいは人類社会っていう大きな括りでものを見る。
で、今後の背景には核戦争っていうのと、あと環境破壊、世界的な事象としてこの2つがあったというふうに考えることができるかなと思います。
そして、もしかするとこの核戦争っていうのと環境破壊によって、人類が滅びてしまうんじゃないかっていう共同的な幻想って言ったら言葉悪いんですけども、
そういうSF的な世界観っていうのが広がっていった。
で、それに対して何とかしなくちゃいけないっていうふうに考えた人たちがいろんなことを言い始めたっていうのが、この現代的な文明論になってきてるかなと思っています。
で、それをさらに新しくタイトしてきたグローバリゼーションっていう世界的な動きっていうのが、ある意味加速させていく。
世界は一つになっていくっていうような捉え方を人々に逆に植え付けていくっていうことになってきたのかなと思っています。
先ほど説明した通り、近代的な文明論っていうのがベースにありつつも、この現代的な文明論っていうのがそれに浮っかぶせするように、
いろんなところでいろんなガチャガチャしたことを起こしていくっていう、そういうような状況が続いているっていう感じですね。
このそれぞれの見方において、文明のことを論じている人々がいる、そんな感じになっています。
話を複雑にしてしまって申し訳ないんですけども、ここでもう一冊本を紹介させてください。
その本の名前が「銃、表現菌、鉄」という本になります。
この本は1997年にジャレッド・ダイヤモンドっていう人が書いた本になってまして、日本では創始者っていうところから翻訳された本が出版されているものになっています。
サミュラ・ハンチントンの文明の衝突から、僕がいろんな文明の本を読んできて、3つの分類を紹介しましたが、
この本はその文明という考え方、あるいは文明化しているっていう考え方に対して、
なぜそれが起こるのかっていう論点について、非常に画期的な視点で説明を試みた本になっています。
というのは、このサミュラ・ハンチントンの文明の衝突もどこかで深く掘り下げたいなって申し上げましたが、
この10秒元金鉄もどこかで、すごい分厚い本なんですけどもね。
どこかでちゃんと掘り下げることができたらなと思ってるんですけども、
そのエッセンスの上積みの上積みみたいなのを誤解を恐れずに申し上げると、
この本は人間のいろんな行動だとか、あるいは先ほど一番最初に申し上げた政治的な権力っていうもの。
人間の技術だとか、技術から発生してできた科学的な考え方っていうのが、
環境要因によってかなりの部分、規定されているっていうのを説明した本になっています。
歴史的な経緯っていうのもきちんと説明をしようとしている本になっていまして、
従来的な、近代的な文明論の時に説明しましたが、
進歩主義的な考え方、あるいは社会進化論的な考え方とは一線を隠した形で、
文明化っていうのがなぜ起きるのかっていうのを、ジャル・ダイヤモンドはこの本の中で試みたんですね。
それこそが環境要因であると。
環境要因っていうのは人間がどうこうするものではなくて、
それがたまたまその場所にあったからそうなったっていう論じ方をするんですよね。
なので、人間が意図してそういうふうにしていったのではなくて、
環境要因の必然としてこういう社会が出現したっていうような、
従来とは全く異なる説明の仕方を、
ジャル・ダイヤモンドは十秒銀筒の中で試みたわけです。
この考え方はある意味それはそれですごい衝撃的で、
僕もこの本を読んで、
環境っていうのがもたらすインパクトっていうのを、
もう一度考え直さなくちゃいけないなと思わされたんですね。
先ほど歴史的な文明論、近代的文明論、現代的文明論っていうふうに申し上げましたが、
近代的な文明論っていうのがそのジャル・ダイヤモンドの考え方に基づくと、
環境要因によってもたらされていて、
さらにはその成功だとか失敗も環境によって規定されている。
そうしたら、どういうことが言えるんだろうかっていうのを考えるようになりました。
さて、ここでちょっと広がりすぎてしまった話を一回まとめていこうと思っているんですが、
僕が文明っていうのを考え始めたきっかけは、
サミル・ハンチントンの文明の衝突っていう本を読んだからで、
それ以降いろんな本を読んできていて、文明を論じた本で様々なものがあると知って、
代別すると例外はあるものの3つの大きな型があって、
それぞれごとにいろんな型がいろんなことを世論じているっていうのを紹介してきました。
さらにジャル・ダイヤモンドの十秒間近鉄っていう本を通して、
環境要因っていうのが逆に社会を規定しているっていうものの見方っていうのを提示してきました。
僕はサミル・ハンチントンの文明の衝突の中で、
日本文明っていうのが分類として規定されているっていうことに面白みを覚えて、
日本文明がもしあるとしたらどんなもんだろうか。
実はこの日本文明を論じている本はすごいたくさんあって、
そういうのをいろいろ読んできていくうちに、
おぼろげながら日本文明ってきっとこんな感じのことなんだろうなと、
コンセンサス的な意味でそういうのがあるなっていうのがだんだん見えてきたわけなんですけども、
一方でその日本文明自体が持続可能なのかっていう視点も疑問に思ってきたわけなんですよね。
この日本文明的なものっていうのが、
その大部分が近代的な文明論の立場に立っていろんな人が論じていて、
多くはどうしても西洋的な文明との比較で日本文明を論じてしまう。
ただ、それが何か違うんではないかっていう違和感も一方で僕にはどうしてもあって。
その違和感の正体っていうのが、先ほど三つあるって言った中の、
現代的な文明論っていうのの文脈の中で論じられていることと、
近代的な文明論の中で論じられている日本文明っていうのとの間で、
相互を期待しているっていうふうに思ったからなんですね。
この辺りのその相互だとかなんだとかっていうのは、
もうちょっと深くいろんな事例を見て考察しなくてはならなくて、
それはそれでまた別のトピックで紹介したいなと思っています。
まとめると、日本文明っていうのがもしあったとしたら、
今どういう状況なのかっていうのを考えるようになって、
さらにその日本文明が持続可能なのか、今どんな状況にあるのかっていうのを考えたときに、
近代的な文明論と現代的な文明論の間で、
日本の文明っていうのがかなり終末期的な状況にあるんじゃないかなって僕は考えています。
終末っていうのはつまり終わりにかかってるっていうことなんですけども、
それがどうしてそうなのかっていうのは今日ちょっと説明しきれないので、
ここではちょっとそういうふうに僕は考えてるっていうことなんですよね。
そういったのを考えていくうちに、では逆に新しい文明っていうのは作れるんだろうかっていうのを考えるようになったんですけども、
何も古い文明っていうのがあって、それが滅びるに任せていくっていうだけではなくて、
新しい文明っていうのをいろんな地域、いろんな国、いろんな場所、いろんなエリアで作っていく。
新しく生み出されていくっていうふうになれば、それはそれで面白い社会ができるんじゃないかなっていうふうに逆転の発想で考えるようになったんですよね。
それはジャレル・ダイヤモンドの言う環境要因っていうのが異なる世界の中では、その環境要因に従った文明っていうのが想起されるわけで、
そういったことをいろいろ考えていくっていうのも面白いんじゃないかなと、僕は今考えています。
そういったのを考えていくと、暴走文明っていうのも、暴走半島っていう地域を舞台にした文明っていうのも考え出し得るんじゃないかなって僕は思っていて、
それをどうして考えるのかっていうのは今日ちょっと説明しきれないんですけども、歴史的に見ていって、そういうものがあるんじゃないかっていうのを言えるようになる。
あるいは、近代的な文明論を見ていっても、近代的な文明論を乗り越える形で、新しい文明っていうのがこの暴走半島にできるんじゃないかっていうのも言えるんじゃないかと思ってたりします。
今日はそんなところに留めておくんですけども、それを考えていくっていうのが、この暴走文明ラジオの大きなテーマになっていて、僕自身それをずっと考えていきたいなと思っていたりします。
考える元になるのは、一番最初に申し上げた通り、文明っていうのがどういうものなのかっていうのを考える。
文明学っていう学問ジャンルがあるとしたら、その学問ジャンルの中で、今私たちの状況がどんなところにあるのかっていうのを考えてみる。
さらには、じゃあどういう風な未来、新しい文明っていうのを私たちが作り上げていけるのだろうか、もしくは作り上げることが不可能なんだろうかっていうのを考える必要があるのかなーなんて思っているんですよね。
本当にどんどん話が広がっていってしまうようなことでもあるんですけども、考えていくことが必要だと思いますし、一緒に考えてくれる人がいたらいいなと思いながらこんな話をしてみたりします。
おぼろしきを広げていることはもちろん自認していて、取り留めもない、まとまりのない話をしているっていうこともわかってはいるんですけども、一方でやっぱりこう、今私たちが置かれている状況っていうのが、結構どん詰まり感があるんじゃないかなと。
そのどん詰まり感を感じている人も多いんではないかなと僕は思っていて、それがどん詰まり感が何から生じているのかっていうのはもちろん考えていくことが大事ですし、そしてそのどん詰まり感を打開するためにはどうするべきなのかっていうのも同様に考えていく必要があると思うんですよね。
で、それがこの文明っていう一つのキーワードを通していろんな新しい視点っていうのを持つことができるんじゃないかなと思って、今日こんな話をしてみました。
本当に僕自身まだまだ全然探求を続けている途中なんですけども、こういうことに興味を持ってくれる人がもしかしたらいるんじゃないかなっていう思いで、今日こんなテーマでトピックを取ってみました。
またこれについても深く掘り下げて、どっかのタイミングで話をできればいいなと思っていたりします。