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サマリー
茨城県水戸におけるこんにゃく産業の起源と発展について探ります。寒冷な気候の中でこんにゃく栽培がどのように広がったか、また中島東恵文の貢献についても触れます。茨城県水戸の財政難に関して、歴史的背景と地元経済の発展が語られます。特に和紙の製造が地域の重要な産業として成長し、江戸でのブランド化が進展しています。また、茨城県水戸の財政難の背後にあるビジネスの動きを探ります。江戸商人と地元農家との関係や、その経済的影響についても述べられています。このエピソードでは、茨城県水戸における財政難とそのビジネス背景、特にこんにゃく産業の発展について詳しく説明されています。中島東恵文のこんにゃく粉の革新と水戸藩の経済構造との関連性についても言及されています。
こんにゃくイノベーションの背景
はい、では前回からの続きです。今回は、 茎脈イノベーション。
茎脈イノベーション。
茎脈が粉になるっていう話です。
その前にちょっとですね、前回までのおさらいをさらっとしておきましょうか。
前回のお話では、中国で、茎脈がこんな風に作られてましたよという記録を見ましたね。
もう3世紀頃の話。
3世紀頃。
覚えてます?前回の話ですよ。
前回の話。
食と農夫というところに書かれてました。
これは三国志の時代ですね。義、語、食の食。
義、語、食ね。
劉備玄徳とかね、諸葛孝明とかで有名な食ですよ。
そこから日本に渡ってきて、気がついたらなぜかいろんな人たちが、
茎脈を楽しんでいると、そういう風になってましたという話でしたね。
あのですね、この茎脈のシリーズを取り上げた、
一番最初のモチベーションの一つにですね、
なんでこんなものを食べてるんだろうという謎があったわけですよ。
確かに。
わかんねえ。
結局わかんなかった。
わかんないけど、なんか広がってた。
ちょっと僕の推測なんですけど、
簡単だったんじゃないですか?
簡単だったっていうのは、どこからのことを簡単だというの?
えっとね、芋から食べるところまで加工するのはちょっと手間がかかるわけじゃないですか。
ただその作り方自体は、もう中国で確立されたものが日本に入ってきてますよね。
やろうと思えばできますと。
で、問題は栽培なんですよ。
栽培。
このシリーズの始めのところで、結構秋になったら収穫して、冬に寝かせて、
もう一回春に植え直すみたいなことをご紹介しましたけど、
これは結構後の時代に発明された、産業化するためのテクニックみたいなんですよ。
これは産業化のためのテクニック?
はい。結構もう時代は新しい、近世末期、江戸時代の後半とか、明治期になって確立されていった農業技術らしくて。
元はね、暖かいとこだったらほっとっていいらしい。
え、そうなの?
植えっぱなしでほっとけば勝手になる。
そうか、冬場は枯れないもんね、暖かいとこね。
だからね、植えたというか、自然所とか、たけのことか、あんな感じで山行ったら生えてるから取ってくるみたいな感じっぽい。
そっちなんだ。
で、なんか勝手にできてるから取ってきて食べるっていう感じなので、現代人からすると、
とろろ芋を山行って掘ってくるとか、自然に生えてるたけのこを掘ってくるとか、そんな感じで普及してったのかなっていうふうに僕は想像しました。
3歳扱いだね。
ほんとだね。3歳それがいいね、その例えがわかりやすいと思う。
そんな感じで広がってきましたよということなんですね。
水戸藩のビジネスと歴史
これで言葉通り人口に感謝するわけなんですが、これをですね、一大産業として革命的なイノベーションを起こす。
革命的なイノベーション一緒やな。
二重だね。
産業化するっていうステップに入るんですよ。
産業化する。
食品を産業化するっていうのは実は難しいんです。
難しい。
難しいんですよ。
例えばお米とか米とかっていうのは比較的容易です。
本当に超古代から産業化してるからね。
これはなぜそれができたかというと、保存が簡単。
保存が簡単。
収量が多くて一定期間以上保存することができる。
だって米って小米になろうが何だろうが、ネズミや虫に食われない限りまた食べられるじゃないですか。
この保存ができるから農耕文明というのが発達したわけですね。
これはジャガイモではできないって言われてたけど、ジャガイモもできちゃったんだねっていうちょっと意外な話をジャガイモのシリーズにしましたけど、
あれは特例であって、なかなか他の食品ではできない。
キャベツを産業化するとか、あれは外来の食品ですけど、ああいったものってなかなか難しいんですね。
刃物は特にそうかもね。
遠方に届けるって大変じゃないですか。
確かにキャベツの輸入って聞いたことないもんね。
なかなかしんどいはずなんですけど、やっぱり芋も難しくて。
長期保存ができるタイプの芋もあるけど、それもなかなかものによっては厳しいわけですよね。
変化しちゃうもんね結構。
冬に摂ったジャガイモを冬に食べるってなかなかしんどいわけですよ。
難しいね。
冷蔵庫もない時代にね。
そんなことできるわけないじゃないですか。
目が出ちゃう。
目が出ちゃう。
それを何とかすることがまず一つの課題になるわけですよ。
もう一つはね、産業化するためには売らなきゃいけませんよね。
売らなきゃいけない。
売るってことは田舎で作って田舎で消費してても大きな産業に育ちませんから、大きい消費地に届けなきゃいけない。
届ける。
重い。
普通に重たい。
まあ確かに重たいね。
重い上に劣化が早い。
だからこんにゃく芋ってのはなかなか産業として発展しづらい環境だったんですよ。
確かに。
それでもねちょっと頑張ってる。
例えば江戸を一大中心地としたら、その周辺では頑張ってこんにゃく芋を栽培して、その芋そのものを江戸に運んで売るっていうことは江戸時代中期くらいからぼちぼち始めてるんですね。
ただ大きく育てていく、産業として伸びていくには難しい。
これを一気に解決したのが中島東絵門。
中島東絵門。
富士絵門って書いて東絵門ですね。
中島さんですよ。
この人はね、超有名人ですよこんにゃく界隈では。
超有名人。こんにゃくに超有名人いたんだね。
こんにゃく界隈ってなんだねって。
こんにゃくパークとか行ったら偉人扱いされてるはずです。
行ったことにわからないですけど。
今こんにゃくパークの話しましたけど、どこにありますか。何県ですか。
群馬県。
群馬県ですよね。中島東絵門さんは水戸藩出身です。
水戸。
茨城県。
群馬ではないんですね。
つまり群馬県ではなくて、このシリーズも何度か言ってますけど、
一番最初にこんにゃく産業が勃興したのは群馬県ではなく茨城県でした。
そうなのか。
ここで技術が確立して産業も完全にフォーマットが決まって、
一大産業になった後に移植されるんですよ。
それは次の次ぐらいのところでお話しますけど、
今回はなぜ水戸という北の地でこんにゃく産業が勃興したか。
水戸の人口と資源の制約
こなしをしていこうと思っています。
よく考えてください。水戸寒いっすよ。
水戸って寒いの。
北関東ですからね。
そうなんだ。
茨城のその北側は何県ですか。
茨城の北側?
茨城の北側。
いや、木じゃなくて木ね。
茨城か。
茨城ね。怒られちゃうよ。怒られちゃう、それ。
夜更かしでよくありますよね。
北側ね。
チリにも弱いか。
茨城の上って何だっけ。
福島県。
福島か。
北関東と東北の境目辺りなんですよ。
思い出していただきたいんですけども、
こんにゃくの発祥の地っていうのは東アジアでしたよね。
東南アジアと東アジアの中間点くらいっていう予測でしたよね。
割と暖かいとこだったね。
もともとは亜熱帯気候のものだったりするわけなんで、
それがもう洛陽紅葉樹林帯の中に入っちゃってるんですから。
だから寒くなってるわけですよね。
ここで勃興するんですよね。
ということでこの水戸藩の背景からお伝えしていこうと思います。
水戸藩の話。
もうここからはビジネスの話。
ここからビジネスなの。
ちょっとしばらくこんにゃくいなくなるわ。
水戸公文ではない。
知ってるじゃん水戸公文。
有名だと思ってるけど。
超有名人ですよ。
それはそうだよね。
水戸藩藩主。三代目だったかな。
確か。
水戸藩の藩主なんですよ。お殿様。
そうなんだ。
ひかえおろう。ここにおわすは佐紀の副将軍、水戸三国公にあらせられるぞ。
助さん、角さんね。
佐紀の副将軍。
意味がわかってないけど、佐紀の副将軍の意味が。
佐紀のっていうのは先代のって意味ですね。
そういうこと?
五印鏡になって、藩主の座を息子に譲っちゃったので、先代の副将軍でありますよということを言ってるわけですよ。
そういう意味なんだ。
副将軍っていう役職はないんだけどね。
ないの?
ないの。あれはね、みんなが通称でそう呼んでるだけ。
そうすると、御三家からちょっと説明しましょうかね。
徳川幕府の体制の中では、御三家という三つの重大な徳川家が設けられてます。
いわゆる親戚ですね。
尾張家。尾張藩徳川家ですね。
紀藩徳川家。
水戸藩徳川家。いわゆる親戚です。
ここ親戚なの?
家康の息子たち。
二代目将軍秀太田の弟にあたる人たちですよね。
彼らが初代藩主となって、藩体制を築いていくっていうのがこの三つですね。
尾張、紀、水戸。
尾張、紀、水戸。
なぜか水戸だけが丈夫大名って言って、参勤交代しないんです。
そうなの?
ずっと殿様は江戸にいる。
参勤交代って1年江戸にいて、1年地元にいてって繰り返すじゃないですか。
水戸藩だけずっと江戸にいるんですね。
水戸三津君にだって、引退するまでご隠居になるまでなかなか地元に帰れなかったらしい。
ちなみに尾張はどこにあるの?
尾張、今の愛知県。名古屋ですよ。
やっぱあそこの辺なんだ。
名古屋城ね。尾張藩は。
紀ってあれでしょ。三重だっけ?
和歌山。
和歌山か。紀藩と。
紀藩。尾張と紀と水戸の3つですね。
親戚ずいぶん遠いところ住んでんだね。
これは重要な拠点を親戚で押さえておくっていう意図があったと言われてますね。
その向こう側に戸様大名がいたりとか、貿易の重要なところだったりとか、ここ押さえとかないかんっていうのを兄弟親族で押さえといて、
徳川宗家ですね。将軍家の方で後継が絶えた場合には基本的にはこの三家の中から養子を取って徳川家を存続させると。そういう仕組みになってましたね。
そういうことね。
この話で一番重要なのはですね、穀高。
穀高。
生産量ですよね。
いわゆるパワーゲージみたいな。
どれだけお米取れますかっていうやつね。
終わり62万穀。
62万穀。
大大名ですよ。
そうなんだ。
かか100万穀とか言われてますけど、あれが異常にでかいだけで、徳川本家は400万穀とかもっとでかいんですけど。
すごい数字が大きくなりすぎてちっちゃく見えちゃった。
ちなみに掛川藩5万穀ですね。
掛川5万穀なの?
そうなんです。
そんなもんだったんだ。
田沼、沖津ぐあたりだと1万5千穀とか最終2万穀くらいじゃないですか。
老中になった時点でやっとこそ2万穀で大名を書く。
そうなんだ。
そんな感じなんですよ。
そういう感じのサイズなのね。
そう考えると62万穀相当大きいですよねやっぱり。
大きいね。
農民平和の終わりですから。
そして次が紀伊藩島の紀伊ね、紀伊藩。
55万穀。
55万穀。
バッチリ大大名ですよ。
確かに。
水戸藩、佐古山家。
28万穀。
あれ急に減ったね。
急に減るんですよ。
これは米本位制というか、この穀高性の不具合というふうに言われるんだけど、
もう北のほうなんですよね、場所が。
もともとお米っていうのは北国に向いている植物じゃないわけです。
確かに。
お米のシリーズでちょっと触れましたよね。
もともと南国の植物をだんだん人選抜によって北のほうでも育てられるようになりましたよというものなんです。
その過渡期。
そうなんだ。
特に水戸藩の北のほうとか山勝ちだしね。
山勝ちってことは標高も上がるわけだしね。
当然緯度も上がってるんで寒いわけですよ。
寒いね。
ここはもともと雑穀とか麦文化圏なんです。
もうここは麦なんだ。
お米ももちろん採れるんだけど、そんなに馬鹿すか採れるような平野もなければ気候的にも適してるとは言い難い。
そんなところで黒鷹生って言ってメインは米だぜってなっちゃったから、麦じゃ黒鷹にカウントされないわけですよ。
確かに。
なんですごい苦労するわけですね。
お金なくなっちゃうね。
なんでかわかんないんだけど、さっき出てきた水戸公文様、水戸邦子がね、うちはもうちょっと頑張って開発をしたので、もうちょっとここだけありますよっていうのを幕府に申請するんだよ。
うちは36万石あるんで、36万石ということにしてくださいって言って。
水戸藩の財政状況
わかった。水戸藩は36万石じゃない。よし、それで登録しようみたいな。
そんな自由なの?
わかんないけど。これはあれですよね、土佐派もやってるよね二太のこと。
そんなに黒鷹ないのに三重派ってちょっとでかく見せちゃうみたいな。
高知県土佐。
なんかね、権威を象徴したいっていうか表明したいっていうのもあるんですよねやっぱり一つには。だって62、55、28みたいになっちゃうから。
だいぶ差がね、あるよね。
もうちょっとあるぜって言いたいのもあるんでしょうね。もしかしたらこの黒鷹が藩対藩の輸出入、当然国対国ですから言ってみればね。
なんでその藩と藩の輸出入の時の政治交渉とかでもその数字っていうのは響いたのかもわかりません。
この辺はね調べたんだけど僕にはよくわからなかった。
そうなんだ。
そんなこんなでね、36万石として扱われるようになっていくわけです。
でも実質はそんなにないと。
でね、問題はね米の生産力が低いだけじゃなくてね。
この丈夫大名っていうさっき言ったの副将軍的なねずっと江戸にいるやつ。
これがやばいんです。
これがやばい?
金かかるの。
おーそっか。
要はですね、今でも首都圏と地方では物価の格差ってありますよね。賃金格差みたいなのとか言われますけどね。
あれがねあるんだわ。
やっぱあるんだ。
地域差がないことの方がスーパーレアだから。
時代の長い歴史の中で。
ないないないって。だってそんなに流通が発達してないんだから。
オンラインで無形のものを売買するみたいなこともできるわけじゃないじゃないですか。
だからローカルビジネスなんです全部が。
でローカルビジネスで地産地消でぐるぐるぐるぐる回って時々輸出をしていくみたいな感じ。
でうまく大消費地に物を運べたら税金がガッポリ稼げますっていう程度なんだよね。
だからこの水戸藩の中で回ってる経済圏と江戸で回ってる経済圏は規模が違うので生活コスト死ぬほど高いんですよ。
田舎だったら200万から300万で生きていけるけど江戸だったら500万でも結構厳しいみたいな年収で言ったらね。
まあ例えばですけどそんなような格差をイメージしてください。
まあ今と似たようなものね。
しかも御三家じゃん。
御三家。
水戸藩のお殿様じゃん。
もうね仕事あるしで接待交際費もやばいわけ。
いろんな人に会わなきゃいけないし来るし。
将軍来たらさおもてなししなきゃいけないじゃん。
しないとだね。
これあの日本料理の編成とかでも出てきましたけどああいうことやるわけですよ。
全部実費で。
実費なんだ。
まあそれそうか。
それは大変なわけですね。
大変だね。
こういうことがあって何が言いたいかっていうと水戸藩はその水戸藩が成立した直後からずっと幕末まで財政難のまま。
和紙産業の発展
苦労してんだね水戸藩って。
そうなんだよ。
だからもう一生懸命神殿開発するんだけどさちいっともいかないの。
これはねさっきも言いましたけど国高制の害悪って言いましたけどちょっと細かく言いますね。
国高制がなんで厳しいかっていうとそれまでは人頭税って言って人に対して税を取るとか土地に対して税を取るとかいろいろまちまちだったんですよね。
対抗堅持って言って秀吉が土地を中心にしようと。
このぐらいの面積だったらこのぐらいの量の米が取れるはずだっていうのを定数で決めちゃうんですよ一回。
怖いですよね数学的に言うと定数ですから。
本当は変数なのに定数にしちゃうんですよ。
定数なんだろう。
この一旦あったらこのぐらい取れるはずだから税金はこのくらいって見込み立てるんですよ。
それを生徒して税金かけてるわけですね。
だから不作になると困るわけですよ変数だから本当は。
その変数要素が大きいのが寒い地域とか山間部。
まあまあ出来不出来がすごい差が激しいんだ。
でねこの戦国時代くらいまでは土地特に農耕地っていうのは固定地じゃないんです。
まあ違うんだ。
取れなくなっていわゆる自力が弱くなってきたら引っ越すの。
急耕地になるわけじゃん。
それが駄目だったら別のとこ行くっていうヨーロッパでいう二歩式とか三歩式みたいな感じでぐるぐる動いていくわけ。
そうすることで自力を養いながら一定の収益を得るということが生産体制としてあったわけですよ。
ところがこの国高制で土地に対してお金を取りますよってことになったじゃない。
ってことは急耕地を含めてもこれって例えば三歩式だったら三つ田んぼ持ってますでしょ。
この三つに税金かかっちゃうんだよ。
使ってないとこにも。
そんなことある。
あれ一個の田んぼで三つ分払うとかって無理じゃん。
だからしょうがないから三つ稼働させるしかないわけ。
そうなるね。
自力の開封ができないでしょ。できないからそこに肥料入れるわけ。
今の肥料っていうのは作物をよく育てましょうというゼロからプラスにする肥料が多いですよね。
じゃあこの時のはマイナスになった自力を頑張ってゼロに近づけるための肥料。
というのが江戸時代にだんだんと出てくる。
当然ですけども生産量を上げるためには陸と畑で育てる田んぼでは回っていかないので水田にして。
水で運ばれてくる栄養をうまく使ってやっていく。そのための灌漑システムを作って。
ここで藩の金がまたガボンって出てくるわけ。
水田化するために神殿開発しなきゃいけないじゃん。
誰がお金出すのって話になるんだよ。
そういうこと?
神殿開発をするのはもちろん農民とか開発領主とかですけどもちろん彼らも負担をします。
しますが全くゼロの状態で開発してられたら生産量ゼロですから。
だから彼らの食い口を誰かが出してお米を提供しなきゃいけないわけですね。
そういうのを犯罪性でやっていくわけですね。
なんだけど土地がない山ん中。もう渓谷ですよ。
そんなに深いの?
そうそういうところが特に藩の北部ですね。
今で言ったら茨城県の北部の福島県の境に近い辺り。
あの辺りがかなり厳しかったそうです。
山ん中で育てるの向いてないからねお米がね。
ここ別にこんにゃくの栽培に適してもないんだけどね。
そうなの?
作れるんだよ。できちゃうから。できちゃうんだけど産業開発するほどのものじゃない。
なので初期の段階では商品経済頑張るわけですけどもお米じゃなくてね。
これどっかのシリーズやったかな商品経済の話。
商品経済。
お米と別に売ってお金にできる作物を育てて売るってことをするわけね。
こういったことを始めていくわけですね。
監禁作物なんていうのも言い方しますけどね。
例えば藁を藁地にして売るとかですよ。
そういったことをやるんですがもうそもそもお米が難しいので
水戸藩は和紙製造を頑張ります。
和紙?
紙です紙。
紙をここで作るの?
どうぼやら調べてみたところですがこの辺りは昔から和紙の産地だったらしい。
和紙の産地ってあるんだねやっぱりね。
あるある。だって和紙の原料が取れなきゃいけないから。
書いてあったのは奈良時代から記録があるね。
奈良時代?結構前にあるんだね。
平安時代の一個前だね。
平城京の時代の記録にもうこの辺り水戸藩北部というのはちょうど和紙の産地になっていたと。
感じらしいですね。良質な鉱蔵とか三股っていうのが取れる。
鉱蔵とか三股ってわかります?
鉱蔵聞いたことはありますか?
植物ですけど和紙の原料です。繊維が長くてね。
それを紙をすくと、紙のような鉱蔵の繊維をすいて固めると紙になるわけですよ。
だから原料となる鉱蔵とか三股っていう植物がちゃんと取れて、しかもいいやつが取れて。
しかも紙を作るときに映像で見たことあるかもしれないですけど水にガシャガシャガシャガシャやるわけですよね。
豊かな清流っていうのが必要なわけです。
きれいな水がね。
それがたまたまこの三貫部、北部の三貫部にはあったと。
久寿川とか中川っていうきれいな大きい川があったためにそれができたので、これで頑張りましょうということだったわけですね。
三藤藩、二代目藩主ですね。徳川三藤公文が、よっしゃ和紙いこう。頑張ろう。ということで小礼作を打ち出していきます。
みんな頑張って和紙作るぞーって言ったら、よっしゃよっしゃ公文様が言うならやりましょうと。
公文様とは呼んでないと思うけど、音の騒がれたらやりましょうと。
和紙を作り始めるのね。
三藤藩は紙漱きを行う農家の免税も決めてます。
税金取らないよってことですね。
だからもうどれだけ力を入れてたかっていうのがよくわかりますね。
この紙を漱くという作業自体は別に農作物を育ててやってるわけじゃないので、言ってみれば林業の延長みたいなのがありますよね。
だから別にいつ作ってもいいんですよ究極。なんなら乾燥してる時期の方がいいかもしれない。すぐ乾いてくれて。
ということで農寒期に都合がいいんだわ。
稲借りとって干して寒いなっていう時にちょうどいい。
スクフォーはたまたまじゃないけど寒くて。
これが彼らの収入源にもなるわけですし、免税までしてくれてるので頑張る。豊かに少しなっていく。
西の内市のブランド化
そうすると三藤藩、領地、北部の全体が和紙の産地としてだんだん拡大していく。
これは三藤製の和紙っていうのはこれはいいねっていうことになって、どんどん評判を呼んで江戸でも一大ブランドになっていくんですね。
産業として成長していくんですよ。
ブランド化はすごいね。
ブランド化していく。この九字川とか中川って川のほとり九字川かなの中流域に西の内村っていうところがあるんですけど。
西の内村。
この村のあたりで作られた紙がとってもいいよということで西の内市というブランド名で江戸で大評判を呼びます。
へえ西の内市っていうんだ。
紙これが他の地域でももちろん作ってるんですよ日本全国いろんなところで紙を作ってるんですが特にこの西の内市は厚手で繊維がとても丈夫だと。
繊維が丈夫っていうのは構図の質がいいみたいですね。これ何がいいかというとまず虫がつきにくい。
虫がつきにくい。
紙っていうのは虫に食われますからね。
確かに食べられるね。
今の価格性のノリと違って全部食べられるのでミルクの甲斐で出てきましたけど和紙は羊が食べられるんでヤギも食べられるんでそういったものなんで虫も食べますよ。
でも厚手で丈夫なので虫が食べにくいのであんまりつかないと。あと濡れても丈夫。
濡れてもいいの。
これねほんまかいなと思って調べてみたんですけど昔大福町ってあったでしょ。
大福町顧客大町みたいなやつね。
そう顧客大町でそこに売り上げなんかを書き込んでて。当時つけっていうのが普通なんでね商売が。江戸の商人っていうのは。
で売り書き券をしておいて年末になるとそこにお金を徴収しに歩き回ってその大福町にもらったよっていうのを書き込みをしていくわけですよ。
だから書き入れ時っていうんだけどね。
書き入れ時。
書き入れ時みんな書き込むみたいなイメージで言ってるけどふところにギュッと水を書き込むみたいなイメージ。ご飯を書き込むみたいなイメージの人いるらしいけど普通に町名に書き込むって意味ねこれね。
大福町に書き込んでいくから書き込むっていう。
でこの大福町っていうのは要は貸付帳簿でもあるわけですよ。これなくなったら一大事。
まあ証明書みたいなもんだからね。
で顧客代帳でもあるから要は何かトラブルがあってもこの大福町さえ生きていれば資金調達もできるし顧客へ新しい商売やりましたよっていうのでPRをして立ち上げることもできると。超重要品なんですよ。
まあ重要だね。
なんかさ1600年代1700年代の江戸っていうのはね火事が多いんですよ大変なんですよ。
火事が多い。
火事と喧嘩は江戸の花つってね。
火事はダメでしょ。
困るじゃない。で何よりもその商人たちが大事にしてたのは建物はもうしょうがないので大福町だけは守りたいわけ。
コバンは燃えてもなんとかなるから最悪ね溶けるだけだから。だからね大福町を持って逃げたいんだけど持っていけない場合があるじゃない。大変だから。
本当に井戸に放り込んで逃げるんだよね。
井戸に放り込む。
そうこれができちゃう。
できるの。
普通の紙でやったらボロボロです。当然今のコピーをしなかったら全部ダメですね。絶対読むことはできません。
できない。
水戸の財政背景
で安い和紙なんかでもやっぱりボロボロにならなかったとしてもページがめくれない。くっついちゃってね。
はいはいはい。
ありますよねそういうのね。
あるね。
なるんだけどなんとこの西の内市で作られた大福町は乾けば文字も読めるしめくれるの。
めくれるのはなんかやってみないとわかんないけどさ文字が読めるってすごいよね。
ね。それだけね丈夫で繊維の性質的に墨がにじみにくいっていうのがあったらしい。
へえだって水の中に入れるんだよ墨を。普通に考えたらにじむよねもっとね。ドロドロになって。
しっかり墨が定着するんでしょうね。
へえすご。
すごいよね。
すごいよ。
だからこれだけね保存性が高いから高級ブランド品として重宝されるわけです。
うんうん。
例えば大福町の他だったら御用紙って言ってね。
御用紙。
御用紙っていうのは大名家御用足しの紙って意味ね。
ああその略。
御用っていうのは御用機器の御用だよ。だから偉い人のところで用を足しているための紙だから。そこに収めてるわけですね。
で藩の記録ですから5万石とか10万石とか果ては60万石とかの藩の重宝なくなったら困るわけですよね。
困るね。
虫に食われたとか言ってもね。
確かに。
記録ができたものがこれが長期保存できないといけない。だから西野内氏がちょうどいいわけですね。
ああそういうことね。
でこの西野内氏の高級ブランドはそういうところにも使われていくしちょっと下のグレード中級グレードとかでもかなり質が高いのでこれが障子紙に使われたりとかね。
障子紙ね。
傘に使われたりとかね。
傘はよく聞くね。
ねちょうどいいですよね。
はいはい。
丈夫だから。で長寺院にも使われたりとか。
ああ長寺院ね。
長寺院ね。
こういった紙文化が発展していくに従ってこの未登刊で参集された和紙っていうのがどんどんどんどん人気になっていくんですよ。
めちゃくちゃ盛り上がっていく。で売れる商品は取り扱いたい人がいるわけですよね。
まあそりゃそうだ。
小売店からするとうちにも置いてくれって話になりますよね。
うん。
なならうち紀伊藩出入りしてるんだけどうちで取り扱いさせてもらえないかいとかそういう話になってくるわけ。
ほう。
その江戸の商人からすると。
はいはいはい。
うちまだあそこのところ取引ねえんだけどここで紙取り扱ったら西野内氏持ってたら商売なるなとか。
うんうん。
そんなふうにして商人がビジネス拡大をするためのツールとしてこの西野内氏とか美都藩の紙っていうのを取り扱いたいというふうになっていくわけですね。
うんうん。
江戸商人の介入
でその交渉をするためにだんだんこう盛り上がってくるんで商人自ら美都に行くんですよ。
ああ直接ね。
で農家さんに行って直接買い付けをし始める。
はいはい。
直接買い付けにしに行くと基本的にほら美都の北部の農家だからそんな金あるわけないんですよ。
そもそも身分社会だしね。
うんうん。
で米もたくさん取れるわけじゃないからね。
うんうん。
税にはそんなないわけですよ。
はい。
だからお金欲しいわけだ。
うん。
なんだろうなお金に意地汚いとかそういうんじゃなくてもう生活がアップアップなんでしょうがないですよね。
うんうん。
目の前に税にほいってくれたらはいってなっちゃうよね。
まあそれそうだね。
だから江戸の商人はどうするかっていうと金貸したのか。
うん?
お金貸すよ。
ほう。
うん。この資金でもってお金貸すから紙作ってよ。
ありがてありがてこんなにいただけるんだったらやります。
うんうん。
できたらできた分全部買い取るから安心してって。
へえ。
いいことのように思うでしょ。
うん。
で全量買いするわけですよ冬場になったら出来上がるんでね。
はい。
でちゃんと利子を差し引いて安く買い取るわけですね。
利子つきなんだ。
利子つきなんだ。ただの前菓子なんだよこれは。
へえ。
強制的に借金をさせておいてですね。
はい。
で全量買ってくれるから嬉しいような気がするんですけど
うん。
よく考えたらですよ冷静に考えたら相場よりもだいぶ安く買われたことになるわけですね。
まあ確かに。
でこれ1回このサイクルにはまって1年目2年目くらいまで来るともうね生活サイクル戻せなくなる。
ああ前借りなりしちゃうの。
そう。でもう前借りしちゃってるから返さなきゃいけない。売らなきゃいけない。
でそれで生活しちゃってるからもっと次借りないと生活ができないみたいになってくるわけ。
で間にちょっとした基金とか基金まで行かなくても不作の年が来たらもうこのお金なしで生きていけないような環境に段々なっていってしまって
で農家さんっていうのは実質的にはもう従属支配されてるような感覚になっていくんですよね。
金銭的に支配されるみたいな感じになる。
でもそうするともう苦しくなるわけじゃないですか。
ここで出ましたさっきの副将軍水戸三国皇帝ですよ。
ここで水戸公文出てくるの?
ここで水戸公文出てくるんだよ。待て待て待て待てーと。
これでは藩がぐちゃぐちゃになってしまうわけではないかと。
まあ貸し付けし放題だからねこんなんじゃ。
販売の力関係
危ないぞと。現代風に言うと経済合理性の波の中に巻き取られて地方経済が食い尽くされるみたいな感じですね。
なんとなくどっかで聞いたことありそうな文言ですけど。
最近もよく聞くね。
そういったことがあるので藩主である水戸三国はストップかけるわけです。
神先輩司法という藩内の法律を作るんです。
神先輩司法?
神の先輩は全部藩がやります。
ここに藩が全面的に出てくる。
元禄元年。うちが全部取り仕切る。江戸商人はうちにおいで。うちでやってあげる。
だから変に買い叩くなよって話。
農家さんへの生産支援は藩であるし。全量買いするし。
売り捌くのもどっかに地元農民とか藩に不利益のないようにコントロールしますよみたいなことを藩がやるんですね。
偉いよね。
すごいな。
こういうことを考えて江戸資本から引き離しをして、就貨と販売を行うわけですね。
その販売手数料を貝みたいなところを作ってるのでそこにポンポン入れてそれを運営式にしてぐるぐる回す。
莫大な利益を上げるというほどではないんだけど一応販売手数料みたいなのが入るという体制を作るんですね。
正しい方法だねどっちかっていうと。
素晴らしいよね。
前足はクレジットカードと一緒だからね。最初に借りちゃうと一瞬楽しいけどその後の地獄がずっと続くっていう感じだしね。
正しいのは藩がやったほうだよね。
これで一旦軌道に乗ったかに見えたんですけど1707年わずか9年後ですよ。廃止。
これが廃止されるの?
やーめたって。
なんでなんでなんで。
まず一つの要因はですね紙先輩司法が発布された1688年ですね。この3年後に三国港がなくなっちゃいます。
そういうこと?
強烈な旗振り役がいなくなってしまいます。
でね紙だけじゃどうやら財政は良化しなかったらしくて財政の悪化はどんどんどんどん悪い方向に進んでってるわけですよ。
そしたらね商売をやるには元手が必要なわけじゃないですか。
これでいくと紙を全量買い上げる資金が必要ですよね。
これがどうだろうな今で言ったら年間予算評価なんかを眺めてですね。
ここにこんだけの予算あるんだったらちょっと他回せないかねっていうね話になっちゃうわけですよ。
だからそもそもなんですけど名門の徳川家御三家ですよしかも。
松平ではなくて御三家が自ら商売をやるというのはどうもかっこ悪いと。
これ江戸時代をずっと260年間通してなんですけどあらゆる藩が見栄で苦しむのよ。
見栄なの。
だって当時は資能交渉っていう4つの身分制度がありましたね。
はいはい習ったね。
実質は商人が一番力を持っていくことになるんですよ。
お金集まるもんね。
で工業をやってる人も農業やってる人よりもやっぱ商人の方が強いは強いんです。
だけど当時の概念では商人は最下層なわけ。
だから資能交渉なわけ。
そういう並びなのあれ。
これはね儒教が元になってるのかわかんないですけどそのお金を取り扱ってる人たち商人っていうのは下船っていうような扱いをされたというかそういう概念があった。
観念っていうのかなそういうことがあったらしいですよ。
だから支配階級である武士その中でもトップクラスである徳川家が商売に手を出すとはね。
ミトハンさんやっちゃったねみたいなのを恐れた。
下心の人たちが。
そうなんだ。
で辞めようぜってなってで免税策も当然なくなっちゃうので。
普通に紙好きをやってるからって言って免税しないよ普通に税金取るよみたいなことになるわけね。
本当に短い間だったね。
その代わり商人からお金取りましょうみたいなことになるわけ。
そんなような収入の付け替えみたいなことをまあ机上のクロントまではいかないけどジャカジャカジャカジャカやるわけですよ。
そしたらねえれいこと起きちゃうの。
えれいこと。
江戸の指定商人みたいな人がいたわけねもともと紙先輩司法やるときにここに売りますよでその中間の藩がやりますよっていうのは藩自体が自分で手足を動かすわけではなくて。
任命された問屋が6件あってここに任せますと委託契約をしてたわけですよ。
6件しかないのでこの問屋さんが特権化してっちゃうんだよね。
それを藩の紙先輩司法で三国公がいるときはこううまく力をかけたり圧力かけたりしてコントロールしたわけ。
上の重し取っちゃったでしょ。
誰が力をつけるかというとこの問屋が力つけてっちゃうんだよね。
おさえつけがいなくなったらね。
この問屋が力をつけていこうとするところを上から追っかぶさってきて支配してくるのが商人なわけ。
江戸とか京都とか大きいところの大都会の商人。
この都会の商人が特権の問屋に先払いでお金を払います。
ここで仲介手数料を差し引いてこれを紙をすいてるスキ子に先払いします。
紙を問屋に納めます。
この問屋を商人に渡します。
結局ね間に一人噛んだだけで元の体制と同じような感じになっちゃうよね。
そのうちに商人っていうのは現場見たいから品質管理とかこういうふうにして欲しい。
間に挟まってるのめんどくさいから水戸に来るの。
でもスキ子って言われてる和紙製造の農家さんと直接話はダメなわけじゃん。
一応ねスタイルとしてはダメになったよね。
間に問屋さん入ったから。
だから問屋さんのところに泊まりに行くわけ。
もううちはちょっと水戸行ってくれって言ったら。
そしたら必ずこの問屋さんに泊まるみたいな常夜渡化していくわけ。
そこにスキ子を呼んできてさ。
二人並んで村の商屋的な力のある農家さん呼んできて。
今年はこれこれこんな感じでどうだね。
結局直接やってんのかいみたいな。
権力側が2位に対してスキ子が1位みたいな。
そんな感じになって力関係がどんどんどんどん売り返しする方にシフトしてっちゃう。
そうこうしてるうちに今度問屋さんと農家さんの間に立ってた仲介人がね。
この野郎って言ってぼっこしていくんだよ。
村の中でまとめ役が必要なわけ。
農家さん一軒一軒を全員問屋に呼んでくるわけにいかないじゃん。
何百個も家があんだからそんな6軒ばかりじゃ全部集約できないからね。
仲介人みたいな仲介者っていうのがいて。
その人また仲介定数料で細々と生きてる人なんだけど。
だんだんこれ問屋さんに卸してるのバカバカしくねって話をし始めてですね。
この仲介人が江戸とか京都とか大正筆地の商人と直接結びつき始めるの。
まあそうなるよね。
問屋対仲介人みたいなバトル体制ができてくるわけ。
仲介人が成長して後に小競り人とかっていってね。
一大振興勢力になっていくわけ。
小競り人?
これ小さく増える言葉の有っていう字に人って書いて小競り人って読むんだけど。
これ何で小競り人って読むのか知らないんだけど。
なんか不思議な並びだね漢字が。
よくわかんないんだけどさ。
まあまあこういう人がぼっこしてくるわけ。
これがまた立ちが悪い。
立ちが悪い。
どう立ちが悪いかっていうと。
この人村に直接行って好きこと面識があるわけ。
水戸藩の財政難
なんだろうなうちらみたいな田舎だとさ町内会とかさお祭りで一緒に屋台引っ張ってる仲間とかいるわけじゃん。
でそん中のちょっと上の人。
大郎とかのおっちゃん。
おいダグどうなってる今年。
ああどうもこんにちわーっつった。
おお元気かお前つったよ。
今年頼むねって言ってくるわけよ。
超密着型。
で特権問屋の場合は例えば掛川だったらずっと遠くの方のお町の人だけ。
これはもう県単位だから静岡市の人が来てるみたいな感じ。
ああそうなんだ。
どうもーっつってああそうっすかはいっつって。
よくわかんないけど一応繋がってんすねみたいな感じになるよね取引先としては。
だけどこのこせり人中のさ地元の名人だから町内会長みたいなもんだからさ。
ガキの頃から知ってるおっちゃんがやってたらもう頭上がんないわけじゃん。
ああそれはそうだよね。
この人が前貸しして作らせて利子をさっぴーって買い取るってことで始まるわけ。
なんか戻ってないか。
戻っちゃったよね。
戻ったね。
戻っちゃったところにシステム上が戻っているのに地元に密着して心理的に逃げられない感じになってるからより強固になってね。
もうね金と遅延と両方でがんちからべになるのよ。
だいぶ立ち悪いね。
だいぶ立ち悪いでしょ。
こういう状況下にどんどんどんどん水戸藩っていうのはなっていくんですよね。
そうなんだ特権動員がまだ暴走してたときのほうがマシ?
まだマシ。前のほうがまだマシっていう状態がずっと起きてますこれ。
一瞬神先輩司法で藩が強制権力でもって中に入ってったんだけどすぐ消えてしまったんでより抑制が効かなくなって悪化していくっていうのが起きるんですね。
こんにゃくの発展
政治の補助金みたいなもんだね。入ったけどやっぱりあんまり良くないからやっぱ引き上げますって感じだもんね。
じゃあぐちゃぐちゃの状態だけが残るみたいな。これはね現代でもあるよ。いろんなとこであるよ。
あるね。
全くこの通りだとは思わないしそんなに悪いことやってるとは言わないけど構造的には似たようなことが現代社会にも大小いろいろあると思います。
ちょっと周り見て皆さんも探してほしいんですけど。
この図はあるよね。似てるのはいっぱいあるなと思ってはいる。
ここでね逆にうまく街のためにやってる人もいるわけですよ。
今回のこの水戸藩の和紙製造業においては悪い方に出ちゃったよね。
っていうのがこの時代、1700年代前半くらいの話ね。
1700年代前半。
冒頭に紹介したこんにゃくを粉にするっていう技法を編み出して確立させた中島東絵文というのは1745年に生まれます。
この後なんだ。
つまり彼が生まれたのはこういう社会の中しかも水戸藩北部の室沢村って言ってまさに西の内村の隣なんですね。
近所。
すっごい田舎なわけ現代人の感覚から見ても当時の人から見ても田舎なわけ。
たぶん遊びに行ったら平和だないいなって思うような場所なんだけど経済の中身はとんでもないことになってるわけ。
ここに生まれるの。
そんなところに風景は綺麗だけどさ中身ドロドロだね本当に。
まさかこんなゆったりした心地よい田舎の牧歌的な風景でこんなことが起こってるとはつゆも知らずですよ。
そんな中に中島東絵文が生まれたというのが一つの前提ですよ。これが背景。
そしてもう一つはこの時代に実はこんにゃく芋が頑張って売れるようにしようとするんだよね。
ここでこんにゃく池谷に入っていくんだね。
和紙を今ピックアップしてそれはね水戸藩の初期の商品経済のメインだから一番大きい産業に発達したものだから今和紙を取り上げたんですね。
それが実はシステム上今紹介した通りこの先50年100年先まで響いていくわけ。
だからこの構造をご紹介したんだけど一方で同時に例えばタバコ産業だったりとか農作物も米だったりとか麦だったりとか
あとは炭だったりとかなんかいろんなことやってはいるんですよチャレンジはしてる。
こんにゃく芋も同じように農作物として頑張ってやってる。
なんせほら西の内市紙が運ばれていくわけですよね江戸まで。
ってことは運ぶ流通経路がここでできていくわけですよ。
川があるし。
くじ川ずーっと下っていったらそのまま江戸のほうまですぐ着きますんでね。
何つったらいいんだろうな。川下ればいいんで。
まあ川下ればいい。
川下って海に一瞬出るけどまた川に入るみたいな感じなのね立地的に。
ひがき海水みたいに海の上をずーっと長く行って大半が海ってのとわけ違うわけですよね。
そういうことね。
比較的江戸に流通網的には近いと言える。
ので紙がどんどん運ばれていきますよね。
だったらついでに他のも乗っけりゃいいじゃん。
タバコの葉っぱを乗っけたりとか。
いろんなもの乗っけられるんでその中にこんにゃく芋っていうのも乗っけられて。
でちょっとずつ江戸に向かってこんにゃく芋が出荷されていきます。
1700年代中頃ですね。
これ中島透明門の少し年下なんですけど木村賢治っていう人が出てきてですね。
記録によるとこの人がシミこんにゃく。
前回は氷こんにゃくとかって言いましたけどいわゆるこんにゃく凍らせたやつね。
これの製法を使えばこんにゃくも産業化できるんじゃないかっていうチャレンジをしてるんですよ。
この人は当時水戸藩にはその製法がなかったので
はるばると丹波の国ね。
兵庫県?丹波の黒豆のところだよね。
あそこまで行ってシミこんにゃくの製法を学びに行ったりとかしてる。
そんな遠くまで行ったんだ。
この木村賢治っていう人は農民の出身なんだけど
いろいろと勉強家で授学とか医学とか薬学とかにも精通していて
なんか知んないけど藩の命令を受けて
欧州の調査。
欧州調査とか江戸調査ね。
江戸まで行ってんの?
商業と市場の構造
幕府の江戸探検隊に同行してたりする。
江戸って北海道?
北海道。農民の身分だとまずいので名前を変えてね
武士っぽくして武士ってことにして潜り込んだりとか
もちろん工事の独断でやったわけじゃないですけどね。
藩の命令を受けてこそっとやったりとかする。
探検家なんです。
もう頭いいんだね。
頭いいんです。
農学にも精通してるんでね。
そういうところで交流した方々から
こんにゃく凍らせると保存ができて食べられるってことを学んだんでしょうね。
できるんじゃねえかなっていうので
その産地で有名なところはどこだろうったら
じゃあ丹波だろうつって丹波までわざわざ製法を学びに行くとか
そのようなこともやってます。
これを前提にしたのかどうかわかりませんが
そこから数年後とですね
1760年頃から中島東恵文さんが
これなんとかこんにゃく粉にできねえかなってことを思いついてね
研究始めるんだよ。
ここからなんだ粉末化。
別にね言われても大したことないんだよ。
輪切りにして外に干しとく。
で梅雨がつかないようにより取り込んでもう一回干す。
何日か繰り返して最後に粉末にする。
ただこれだけの工程なんだけど
産業的に安定させたりとか
百発百中できれいにできるっていうのを確立させるのがやっぱ大変だったみたい。
ただ干しただけで粉にならないもんね。
1760年頃スタートしたって書いてあったんだけど
これが60年ジャスタートすると中島東恵も15歳よ。
15歳?
そのくらいの時に思いついてやろうって。
すごいね。
で完成するのが76年だから。
76年?16年はかかってんの?
ずっとかかってる。
かなり時間かけて何とかかんとか粉末化の研究をしている。
倉庫をしている間に
要は東恵もんが粉末化の研究をしている間に
江戸にこんにゃく玉解処ができる。
こんにゃく玉解処。
解処っていうのは販売所みたいなもん。
そういうこと?
アンテナショップではないのかな?
支店ですよ要は。
こんにゃくだけを扱う支店。
こんにゃく玉っていうのはこんにゃく芋のことです。
こんにゃく芋を水戸藩から江戸に運んで
こんにゃく玉解処に運び込んで
そこで捌くというようなことをやってたりもします。
これ藩が主導でやってますね。
解処ってそういう意味あんのね。
そうそうそういうことなんですよ。
商法解処みたいな。
商法解処って渋沢栄一が作ったのありますよね。
お茶のシリーズで出てきましたけど。
あの解処です。
そういうことね。
そうです。販売所っていう。
会社と思ってもいいかな。
商社ではないけど販売会社と思ってもいいと思います。
そういったものを江戸に作るようになってくる。
だから和紙を中心とした産業のシステムができていって
なんかグズグズになってよくわからんことになってる裏では
こんにゃくも何とか商品化しようと思って
産業化しようと思って頑張ってる人もいるんですよ。
っていうのが両輪で動いてる感じね。
その玉解処ができた後も
西野内村の次三郎っていう人が
田んばにやっぱり留学で送り込まれて
染みこんにゃくの製法をもう一回一から学び直すとか
そんなこともやってるとか
こんな感じでだんだんとじわじわと
この時はサブでもないなぁ産業としては。
水戸藩を支える監禁作物経済のメインが和紙だとすると
それに肩を並べるのはタバコ産業があって
それの3,4,5,6,7番目とか8番目くらいにこんにゃく産業があるみたいな
そういうのはスモールなところなんですよ。
そんな感じなんだ。
これが一気にドコーンってひっくり返るくらいの勢いで
こんにゃくが水戸藩を代表する産業の一つになっていくんですよ。
ひっくり返るの?
これのきっかけを作ったのが中島東絵文のこの粉こんにゃくね。
こんにゃく粉、どっちもいいや。こんにゃくの粉ね。粉末が。
という発明であり、実はこの中島東絵文のすごいところは
粉にしたという発明をしただけじゃないんですね。
この後和紙で作られたこの仕組みを全部何とかしようとして
死ぬまで奮闘し続けるの。
死ぬまで。
ギリギリまで、どんどんどんどん派に働きかけて
このコセリンリンみたいな制度とか特権どんやみたいなところで
お金がぐずぐずになったり、いわゆる商人による支配構造が起きないように
ずっと頑張り続ける、仕組みを作り続けるっていうのが次回の話ですかね。
本当に時代背景まず入ろうみたいな感じなんだね、今回は。
だからこんにゃくイノベーション1が今日だったので、次回は2です。
次はね。
そうです。
そっか、水戸って全然イメージが俺の中に何もないからさ。
和紙なんだね。
和紙ですね。
水戸納豆とかまだ後なんだね。
水戸納豆はあるけど、今みたいに超有名になるのもちょっと後の話ですね。
そっか、だいぶ食い物にされてるね、金の入土。
ということであんまりこんにゃく出てきませんでしたけど。
途中から俺は何の話を聞いてるかなってちょっと思いつつ、そういうことね。
はい。
はい、わかりました。
はい、じゃあ最後のお知らせです。
2025年の2月23日、静岡県でいうと富士山の日ですね。
こちらに静岡県掛川市にある当店の家庭料理無糖にて掛川ガストロノミーシンポジウムというものを主催で開催します。
詳細は概要欄にも貼ってありますので、ぜひよろしければご覧ください。
はい。
はい、ということで今回はこの辺で終わりたいと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
こんにちは。
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はい、大丈夫です。
はい。
はい、すげー酔っ払ったテンションで適当に喋りましたけど。
あーいい感じでした、いい感じ。
あーすいません。
すいません。
めちゃくちゃ。
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