主人公は真琴という女性で、彼女は病気になった母親と家事ができない父親の世話をするために、2年ぐらい両親の世話をしてたんですけど、ひと段落して40歳で再びファミレスで働く、バイトをすることになるんですね。
そうすると、そのお店にワイルカスハラと呼ばれるような無茶苦茶なイチャモをつけてくるお客さんとか、血行したりとかするお客さんがいるわけですよ。
周りのバイトの子はみんな大学生とか若くて、その子たちはそれに対してすごく穏やかに、うそくさくもなく丁寧に対応してるんです。
それを見て、こんなに理不尽なことをお客さんから言われて、なんでムカつかないんだということを思うわけですね。私も読みながら思いましたけれども、そのバイトのなんとか君に、よくムッとしないね、さっきの人によくムッとしなかったね、とか言ったら、ムッとするって何ですか、みたいなリアクションを取られるんですね。
ムッとするという感情がピンときてないみたいなんですよ、どうやら。別の場面で別のバイトの女の子がまた、おじさんのお客さんに気がきかねえな、みたいなことを言われて、それを見てまた、よくカッとならないねって言ったら、カッとなる、カッとなるはて、みたいな感じで、
なんか昔、本とか教科書で読んだことあります、みたいなリアクション、返しをされるんですよ。だから、ムッとなるとかカットするって言葉が、今の若い子たちは、言葉としては知ってるけど、感情としてはピンときてない、どういう状態ですか、みたいな感じなの。
そんな設定だけですごいな、天才的な小説だなと思ったんですけれども、っていうのは、あの、若い頃に、この誠さんはファミレスでバイトしてたことがあったらしいんですね。でも、この誠さんみたいな介護をするとか、仕事してない時期があって、40代でまた、あの、若い頃にバイトしてたのと同じようなジャンルで、
働くってあり得ることだと思うんですよ。やることはあんまり変わってない、変わり映えはしないけど、周りのバイトの若い世代の子たちと話が合わなかったり、世代ギャップを感じたりするっていうこともあり得ると思うんですよ。
【森】息が漏れるという感じでしょうか。なので、愛子さんもぜひ、ちょっと読む場所には気をつけてくださいね。で、その誠さんは、その続きなんですけれども、誠さんは、あのムカムカする気持ちが、かすはらお客さんに絡まれてムカムカする気持ちが、全然、バイト仲間の若者と共有できなくて通じないから、さらに夫にもわかってもらえなくて、
夫も、なんか最近、俺、怒ってないな、みたいな感じで、怒るってなんだっけ、みたいになってるんですよ。だから同級生にその話をしたら、その同級生の女子が、
それは誠ちゃん、うちのパブリック・ネクスト・スピリット・プライオリティ・ホームパーティーに一度参加してみない?っていう謎の誘いを受けるんですね。パブリック・ネクスト・スピリット・プライオリティ・ホームパーティーってなんだよと思って、またちょっとニヤニヤしちゃって笑ってしまったんですけれども、
パブリック・ネクスト・スピリット・プライオリティ・ホームパーティーに行けば、今や時代遅れとなった古い感情を手放せるよ、みたいなプレゼンテーションを受けて、会費がなんと6万円ぐらいするそうなんですけど、パブリック・ネクスト・スピリット・プライオリティ・ホームパーティーに今行ってみようかな、行ってみたほうがいいかもしれないな、という気持ちになるわけです。
なるかな、どうだろう、私だったらと思ったんですけど、私は多分行っちゃうかもしれないな、1回は6万円の会員になる前に、1回は行ってみたいなと、パブリック・ネクスト・スピリット・プライオリティ・ホームパーティーなんとか、経験してみたいなと思うタイプかもしれません。
マコトさんはどうなるのかっていうのはちょっとね、せっかくなんで、短いから全部話しちゃいかねないから言わないでおきたいと思います。話がちょっとぶっ飛んではいるんですけれども、
今別の本で韓国語の翻訳家のカン・バンファさんの言葉の波までっていうエッセイを読んでるんですね。
で、その中で笑いっていうのは一番難しいという言葉が話が出てきまして、
原文の笑える文章を笑える訳で訳出するっていうのはすごく難しいことなんだって書かれていて、確かにそうなんだろうなと思いました。
そもそも文章で笑わせるって難しいことですよね。
こういう映像とかポッドキャストみたいな発話であれば、まで笑わせるとか、2人複数にいれば、掛け合いのスピード感とかまで笑わせるっていうことができますけれども、文章を読むっていうのはその人次第ですから、テンポとか口調とか間の取り方、語気の強さなんかも。
だから小説で笑わせるってすごいことだなと思って、村田沙耶香さんの小説は全部が全部じゃないかもしれないんですけど、時々こういうちょっとクスッとしちゃう、息を吐いちゃうようなところがあって、それがすごく楽しいですね。
さて、今日はこの変容という短編の中から紙フレーズを読みたいと思います。
なんかすごくなもむなぁ。高岡くんがつぶやいた。わかる。なもむよね。彼女を見ていると。あんなに怒る人、久しぶりに見たもんなぁ。すごくなもんできたよ。私もすごいなもむ。
と書かれていて、なもむって何なんだよってなるんですけど、なもむってどういう意味っていうのはちょっと言わないでおきますね。私はこの小説を読んで、私なりの解釈でなもむってこういうことかなと思ったんですけど、それが合ってるかわかんないし、読まれた方は読まれた方の数だけなもむの解釈があるかもしれないなぁと思いました。
村田さんの小説は、全体的になもむなぁ、なもむのが多いかもしれない、なんか使ってみたいなという気持ちにさせられる言葉ですね。
少しまた話が飛ぶんですけれども、真面目な話をしますと、名前がついて初めてその感情が認識されて共有されるっていうことってあると思うんですね。
なもむが何かわかんない中で今共有をしていますけれども、名前がついて初めて流行ったり、みんなが使うようになって、こういう感情のことをこう言うんだってなっていく。最初は定義が曖昧だったのが、だんだん凝縮されてピントが合っていくみたいなことはあるなぁと思ってて、最近だと何かなぁ。
私もそんなについていけてないですけど、メロイとか、ちょっとこの意味を私自身正しく認識できているかわかんないんですけれども、さっき超メロついてなかったとか、〇〇さんはメロイよねとか、いやメロくないでしょみたいな議論を若い子がしているのを聞くのは楽しいですね。
ああそうか、あれはメロくてこれはメロくないんだとか、あの人はメロくてこの人はメロくないんだ、単純にかっこいいとかイケメンとかってこととも違うのかとかね、まあそういうこと自体は結構楽しいことですね。
この小説に出てくるバイト君がイラッとするって何すかみたいに、言葉が流行語として消費されて、今は使われない言葉になっているみたいなことになると、今使われている言葉も20年後とかだったら、
YouTubeとかいう懐かしいもので、私1回聞いたことありますみたいな言葉になるのかもしれないですよね、そのメロイとかも、まあそういうふうにこう言葉自体が今は使われないものになって、何かで読んだことあるとか、昔の〇〇で聞いたことあるみたいになって言葉が消えると、同時にその感情、感覚自体も無きものになるっていうのはあり得ることですよね。
あるいは、私は韓国ドラマもすごい好きですし、タイのドラマも最近はハマっててすごい見てるんですけど、韓国にはあって日本語にはない感情を表す言葉とか、タイ語にはあって、タイにはあって日本語にはない感情を表す言葉とかもあるわけですよね。
それが訳されているので何となくは理解できますけれども、本当にその国の方が使っている感覚ではないかもしれないっていう、さっきご紹介した言葉の波間でというふうに出てくるんですが、韓国語には塩なだという言葉があって、涼しいっていう意味で、冷房が効いてて涼しいとかって感覚に使うそうなんですけれども、
一方で暑いお風呂に入る時とか、辛いものを食べた時も塩なだっていうそうなんです。
あとさらになんかずっと不満に思ってた、もやもやしてたことをぶちまけた後も塩なだっていうらしいんですよ。
日本語の感覚だと全然一緒じゃないじゃんみたいな感じがするんですけれども、すっきりしたとか、清々したとか、爽やかだみたいな感覚なんですかね。
なんとなくわからんでもない、冷房が効いてて爽やかだな、涼しいなっていう感じと、辛いものを食べた時と、それかもやもやしてたことをはっきり言ってやったみたいな時は、同じ塩なだという感覚なのか、同じ言い方をするっていうこと自体面白いですよね。
言葉を知ると、ずっともやもやしてたことが解決したとか、ずっともやもやしてたあの人に言い返してやったとかっていう時に、これが塩なだかってなるかもしれないじゃないですか。
で、ああ塩なだしたんだよっていうのを誰かに共有できるってことですよね。
それはなんか、言葉で感情を定義する、感覚を定義するって面白いなと思ったんです。
何が言いたかったかというと、むっとしたとかイラっとしたとかってネガティブな感情なんで、良くないことではあるけど、共有することですごく連帯が生まれる言葉ですよね。
むっとしたよねとか、さっきイラっとしたでしょとか、ほんとイラっとするわーみたいなのって、誰かと悪口で連帯するのと同じで、ネガティブな感情ってその独特な言い回しで共有するってすごく結束を強める、分断も生む一方で結束も強めるものですよね。
怒る、怒るという感情があることを知っているから、怒らせないっていう気遣いも生まれたりするわけで、
というふうに考えると、村田さん流に言うならば清潔な世界じゃないけど、世の中からどんどんネガティブな感情や言葉を排除していこうってすればするほど、世の中は悪くなっていくんじゃないか、人と人の仲は悪くなっていくんじゃないか、なんてことをこの小説を読みながら考えたのでした。