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皆さんこんにちは、あそびやさんのばばさくらです。 昨日、実は私は、寿司市が今進めている、小中学校をコミュニティスクールにするっていうのの準備の会議に、地域住民の一人として参加してきました。
寿司市には、公立の中学校は3つ、公立の小学校は5つあるんですけども、その8個の学校を3つのグループに分けて、今、準備をしているようでした。
西部地区というのと、東部地区、中部地区という3つに分かれているんですけども、それぞれ中学校を拠点としてやっていて、私の地区は西部地区というところに入るんですけども、
それは、潔中、潔小、小坪小の学の3つの学校が西部地区で、ちなみに中部というのは寿司中、寿司小、池子小、東部というのは沼中、沼小となっているんですけども、
その中の西部地区の会議に参加してきました。
行ってみたら、参加者99名って主催の先生がおっしゃってましたけども、去年始まったばっかりなのかな、これが。
去年は、わが子がまだ潔中にいましたけど、この会議の存在にすら気づいてなかったなと思っていて、今年初めて、こういうのがあるんだったら面白そう、行ってみようと思って参加しました。
行ってみたら、その99人の参加者がありましたけども、小学生、中学生、卒業生、保護者、そして各学校の校長先生、教頭先生、先生方、有識者の方とか、
そういう方たちが本当に肩書きを越えて集まって話していて、行ってみたら、小学校でお世話になった先生方がいらっしゃったり、中学でお世話になった先生がいらっしゃったり、
たくさんの嬉しい懐かしい再会がいっぱいいっぱいあって、私は本当に嬉しかったし楽しかったなっていう気持ちで帰ってきました。
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内容としては、前半はこれからの図紙をどういうふうにしていきたいかっていうアイデアだし、そして休憩挟んで後半は出たテーマのジャンルごとに分かれて話す、アイデアをまた出すっていうような時間でした。
場所は中学校の1年生のフロア3階になるのかな、そこにA組からE組まで5つ教室があるんですけども、この99人が5つの教室に分かれて、それをオンラインでつなぎながらやってたんですけども、
その1つの教室に20人くらいいたのかな、その教室の中はどうなっているかっていうと、さらに4,5人の班に分かれていて、各班にファシリテーターの方がいらっしゃって、それは多分みんな学校の先生だったんだと思うんですけども、そういう形でやってました。
今日お話ししたいのは、会の内容がどういう内容だったかっていうのもそうなんですけども、それよりお話ししたいのは個人的なことで、よかったなって思ったことがあったのでお話ししてみたいと思います。
先ほどお話しした通り、本当に今まで子どもたちが小学校、中学校でお世話になった先生方がたくさんいらっしゃって、嬉しい再会がたくさんあったんですけども、後半の時間になったときに、私は5つのジャンルの中から暮らしっていう部屋に入ったんですよね。
みんなどの部屋に入ってもよくて、観光とか福祉、なんか忘れちゃったけど、5つのジャンルに分かれていて、私はその中から暮らし、教育なんかを含む暮らしについて話す部屋に行ってみようと思って入りました。
そうしたら、息子が6年生のときにお世話になった担任だった先生がいらっしゃって、すごい久しぶりにお会いしたんですけども、こんにちはって声をかけながら、隣に座らせてもらったんですよね。
息子にとって6年生がどういう年だったかっていうと、低学年の頃から学校に対しての難しさっていうのは持ってたんですけども、6年生になったときには、クラス全体がわりとイライラを募らせていた状況もあったりして、
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一般的にはいじめと言われるような状況が息子にも起こっていて、例えば休み時間、教室に帰ったら机が逆さまにひっくり返されてて、机の中身が散らばってて踏まれてるみたいな、そういうもう本当に明らかに目に見える大変な状況っていうのが起きていた年で、
本当につらかったろうなって、つらかった年でした、息子にとって。それでも当時のことをちょっとお話しすると、息子はクラス全体が今、苛立っていて、ターゲットは誰でもよかったんだって、自分じゃなくてもよかった、たまたま自分に向いただけでターゲットは誰でもよかったっていうことを言っていて、
私はとっても胸が痛みながらも、そう言われれば少しは落ち着きを取り戻したり、複雑な気持ちだったんですけども、そんな1年間で。
こういう状況って一般的にはいじめだみたいに、レッテルを貼るというか、ラベルを貼るというか、そういうことがすごく起きがちだと思うんですけども、
当時の私は、もうちょっと細かく見ようという気持ちはあって、どんな出来事もその前後がある。一発誰かが誰かを殴ったとしても、その殴った前後にいろんなことがあったはず。そこに至るまでにいろんな事情があって、
別にそれを正当化したりとか、それを許すとか、良いとか悪くないとかそういう話じゃなくて、なぜそういうふうにそれが起きたのかということは、ちゃんと見ていたいなって思っていたんですよね。
だから、自分の胸の内がつらい中でも、丁寧に状況を見ようとはしていたと思う。
でもやっぱり、嫌な気持ちになったし、理解できないこともあったし、理不尽だなって思うこともあったし、腹が立つ、息子が傷つく姿を見るのはつらいから腹が立つこともあった。
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あったんだけど、そこから不登校の時期に突入し、息子が中学に上がって不登校に突入し、その中でいろんなことを考える中で、
多分その辺がすごく、もっともっとその状況を細かく見ることができるようになった。最初は本当に見れなかった。細かく状況を観察することができなかった。
あの頃の自分に比べれば、その後の息子の3年間の不登校の中でだいぶだいぶ掘り下げができるようになったと思うんですよね。
息子は不登校とかそういうところから抜けたけど、その後自分の中にある、物事を見た時に自分の胸が痛むのは、自分の中にも同じ闇があるから、そこに共鳴している部分もあるっていうことにすごく気づいて、
もちろん子どもが傷ついているのを見るのがつらいっていうのもそうなんだけども、そうじゃなくても、例えば息子が明らかに傷ついているような状況じゃなくても、
何か耳に入った言葉でキュンと胸が痛んだりとか、そういうことって時々あると思うんですけども、そういうのって相手がかわいそうとかいう以前に、自分の中にあるまだ癒えていない傷みたいなものに触れられた時に自分が痛むっていうか、そういうことだなって思うようになって、
そうすると、何が言いたいかっていうと、会議の時に、当時の6年生の先生に会った時に、前だったら、すごく当時のことを思い出して自分の胸が痛んだけれども、今回は全く痛まなかった。
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その先生と話をしていても、何も痛みがなかった、自分の中に。むしろ、先生も大変な中で今も頑張っているんだろうなってすごく心の中から思えたし、先生頑張ってねっていう気持ちになったし、
という意味で、私の中の傷が癒えたんだなっていう話なんですけども、
それが、息子の中の傷が癒えていったからそうなったっていうのもあるだろうし、でもやっぱり結局は自分の中にある傷が癒えることで、
当時関わった人たちに会っても全然自分の胸が痛まなくなる、つらいっていうことが消えていくっていうことを改めて経験したなって思いました。
じゃあどうやったら傷が癒えたのかっていうと、やっぱり物音をよく観察することがとても大事だと思っていて、よく観察すると、例えばいじめと言われる状況でも、やった方やられた方みたいになっちゃうけども、
やった方にもいろんな事情があって、よくよく聞けば、何かを守りたかった、何か別のものを守りたかった、例えば自分が大事にしている人のことをバカにされた、それをやめてほしかったとか、大事なものを取られそうになったからそれを守りたかったとか、
そういう事情があって、その手段は間違っているかもしれないけども、例えば殴るとかそういうことでは、自分の欲しいものがちゃんと得られないかもしれない。
伝え方は明らかに間違っているみたいなことはよくあって、何かを守りたかったということに関しては理解できたりとか、そういうことを深めていくと、結局はみんな愛情しかない。
その突き詰めていくと、全部愛情からスタートしている、発信している、伝え方がひどい、めちゃくちゃで間違っている、決してそれでは伝わらない方法でやっているだけで、
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そこにあるリクエスト、願い、ニーズ、みたいなものは間違ってないっていうか、
って思うと、どんなものも、そんな伝え方じゃ伝わらないってみたいな、そういう苛立ちみたいのは私の中にもあるけど、でもその願い自体は、ああそうだったのね、分かる私もそういうことあるわっていうところにたどり着くって本当に思っていて、
だから、例えばその当時、学校に対してもうちょっとこういう対応してくれればとか、何かいろいろ不満に思ったりしたけど、で、嫌な思い、嫌な気持ちになったりとかしたけども、
でもそれを一つ一つ掘り下げていくと、先生にはこういう思いがあったとか、っていうことが見えてくると、それがそのやり方はどうかと思うけども、何を守りたいかは分かったよみたいな、
気持ち、私にもそれが分からないことはない、とかね、そういうところにたどり着くなって思って、なので、どんなこともね、そこの奥に何があるかっていうことを見るっていうことはね、本当に大事だなって思います。
だから、今はね、もうそうやって傷になってから後で癒すんじゃなくて、もうその場その場で傷にならないっていうことができたらいいなって思いながら今はいて、でもこれね、だいぶ前に比べたらだいぶいいんじゃないかなって思っていて、
そうすると、世の中の見え方がちょっと変わってくるというか、そんなふうに思います。
なのでね、本当、何か起きたときに、いじめだ!みたいに一括りにしちゃうと、もう見方が雑すぎて、何が起こってるか分からない?
本当にラベル張るだけで何の解決にもならない。あと、ジャッジ?どっちがいいとか悪いとか、そんなの本来、もう本当にないから、その表現の仕方がそれじゃ伝わらないよとか、その表現は何も生まないよっていうことはめちゃくちゃあるけども、
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だけど、その人の子供であっても大人であっても、その人のリクエスト、ニーズ、欲しかったもの、お願いというか、それ自体には、いいも悪いもない、正しいも間違ってるもなくて、それはみんなお互い様っていうか、だと思う。
それを別に相手のニーズを叶えてあげなきゃいけないっていう話でも全然ないし、そうじゃなくて、その伝え方っていう部分、だからね、その伝え方っていうのを私たちはもっともっと研究しなきゃいけない。
大人も大人がまず研究しなきゃいけない。そして子供に伝えていかなきゃいけないってすごく思うんですよね。これからの時代はもうそこ、それしかない。大事なところはそれしかないんじゃないかなって、それくらいに私は思っているところです。
だから子供の喧嘩とかでも、どっちが先に叩いたのとかそういうことじゃなくて、お互いに何が欲しかったのっていう、何がしたかったの、何が欲しかったの、何が守りたかったのっていうところを通訳するだけで解決する。
それをいじめとかレッテル貼って、問題なんてもともと存在しないのに問題にしてしまう。いじめっていうものも、そういうものは存在しないのに、存在しないっていうのは、何て言うんだろう、そんなものじゃない。
細かく見ていけば、そこには全部ストーリーがあって、通訳があれば解決できるものがほとんどなはずなのに、それを通訳もしないで、お互いそれが起こったことが何だったのかもわからないままレッテルだけ貼って、
いじめでしたとか、それじゃ何も前に進まない。逆に掘り下げて、何だったんだろう今の、何がしたかったんだろうっていうことしか前に進む手段はないっていうのかなって思っていて、
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だから本当にジャッジ、どっちがいいとか悪いとか、そういうのって意味がないなって思います。
例えば、子ども同士で無視をしたり、これは個人同士でも、集団と個人なんかでもそうだと思うんですけども、無視をする、仲間外れにする。そこには何があるんだろうって。
無視はいけませんとか、仲間外れはいけませんっていう前に、どうしてそうなっているのか、どうしてそうしなきゃならないのかっていうのをやっている方に説明させてあげる機会があるといいなと思っていて、
それを説明するチャンスももらえない子どもたち、もちろん無視するのも仲間外れもいいわけなくてよくないんだけども、だけどそれにルールだったりとかダメとか禁止とかそんなことでは何も解決しないから、
どうしてそれをしなきゃならなかったのっていうことを聞いてあげることで解決が生まれる。理解が生まれる。お互いに理解が生まれる。禁止したり起こっても何の理解にもつながらない。そんなの本当に意味がなくて。
じゃなくてお互いが説明する場を作ってあげるっていうのは本当に何でも大事だな。それは大人もそうかもしれないけども、例えばうちの娘が小学校3年生の時にある男の子が後ろをずっとついて回ってくる。
それは男の子にとっては遊びのひとつで何の意味もなくとにかく後ろをただただついてくるっていうことがあって、うちの娘にとってはもうそれは耐えがたい嫌なこと。
で、その時に担任の先生はその子に対してやっちゃいけませんとかそういうことを言わなかったんですよね。それで2人を休み時間に別の部屋に2人を呼んでくれて、ただただ2人は向き合って座った。
で、そしたら先生は何も言わなかった。とにかくとりあえず見守ってくれてたんだと思うんですけども。
そしたら娘は今までその男の子にやめてやめてってずいぶん言ってきたけども、全然聞く耳を持たず右から左っていう感じだったんだけども、改めて向かい合って座っただけでその子がすごく怯えた目をしてたって何も言ってないのに怯えた目をして
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本当に嫌だったんだって伝わったって思ったらしいんですよね、娘はその男の子を見た時に。
で、そこに言葉は特になくて、その後もうそれがなくなった?その目と目をしっかり見ただけで通じたって娘が言っていて言葉はいらなかった?
で、それから一緒に帰ってくるぐらい、学校から一緒に帰るぐらい仲良しっていうか特別な仲良しになったわけじゃないけども、全然大丈夫になって。
本当そういうことを先生が追っかけちゃいけませんとか、そういうことじゃ伝わらない。相手が嫌なんだっていうことが伝わらない。
で、お互いが見つめ合っただけで伝わるそういう感覚的な部分とか、そういうそれってすごいなーって先生すごいなーって私は思ったんですけど、
そういう感じ?相手のリクエストを知るっていうことがやっぱり大事なんだろうなーって思うんですよね。
大人は子供たちのトラブルを見たときに、どっちがやったのとかそんなこう雑な入り方をするんだったらもう入らないほうがマシだなと思って。
で、今一つ思い出したのは、中学校にボランティアに行ってたときに、ある男の子がもう一人の男の子をすごいからかったんですよね。面白がってからかって。で、からかわれた方はすっごいムカついたんだけど、体の大きな男の子で多分まともに殴ったら大変なことになるっていうのは多分本人わかってたんじゃないかなと思うんだけど、
で、その男の子は廊下を歩いてたときだったんだけど、壁に向かって自分の手が折れるほど壁にパンチした。壁を殴ったんですよね。で、私はよくぞ本人に向けなかったなって相当腹立っただろうなと思ったけど、彼はその人に対して殴らなかった。
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で、私はもうブラボーって思ったんだけど、そこだけ壁を殴った一瞬だけを見ていた先生が、おいおいおいおい、暴力はダメだぞって言って職員室行為みたいになって。
で、その時の彼の表情っていうか、もう本当にわかってくれないんだなみたいな彼の表情が私のまぶたに焼き付いているんだけども、そういうのは何の役にも立たない。壁を殴ってはいけませんって怒るみたいな。
本当に何の足しにもならない説教っていうか、ああいうのは本当に嫌だなと思って。
本当にどんな場面においても、こっちがトラブルのイライラを自分ももらっちゃうんじゃなくて、あくまでもどうしたのってお互いに、どっち側に対しても同じように何がしたかったの、何が伝えたかったのっていうことを
通訳として間に入れることが大事だなって思って。こっちがその怒りをもらって、怒りで間に入っていくと、もうそれは収集がつかない。
怒りに火がついて、そのトラブっている子たちもジャッジされるぞみたいな感じで身構えるし、もう収まらない。
けども、もちろん、なんていうのかな、事柄によっては収まらないことだってあるかもしれないけども、でもほとんどのものがその火がついた瞬間に通訳が入れば収まる。
場合によっては、そのことが起きる前よりももっといい状態になる。お互いのリクエストが伝わって理解ができたときには、前よりさらにいい状態になるっていうこともある。
だからそういう意味では、その場にいる大人の声がけっていうのはものすごく大事だなって思うんですよね。
どんな子も、例えば殴った子も、いじわるというか無視したような子も、やっぱり自分の守りたいものがあってやっていることだから、
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それに対してダメだとか、怒ったりとか、ジャッジされたりとかすると傷つく。
もちろん無視したりっていうのは良いことじゃない悪いことなんだけども、だけどその傷に傷を重ねるようなことをする必要はなくて、
やっぱりそこはどんな場面でも理解につながるように、理解の方向に行けるように間に入れる自分でありたいなと思うし、みんながそうなったら子どもたちも楽になるんだろうな。
それを見守る大人の方も絶対その方が楽。だからそれは不登校も一緒で、不登校もなんで格好いかないのっていうんじゃなくて、
何が起きているのかな、その奥にあるリクエスト、困りごとだったりとか、何を必要としているのかなっていうところから入っていくっていうのが大事だなと思っていて、
そうすると、何かが起きて傷ついてそれを癒していくっていうんじゃなくて、もうその場で傷つかないっていうことができるんじゃないかなって思いました。
今日はコミュニティスクールの話からだいぶ脱線しましたけども、自分の傷は癒えるっていう話かな。
今日も取り留めなかったですけども、最後まで聞いてくださってありがとうございました。
じゃあね、バイバイ。