竹下
実際に工場畜産を促進するかしないか、それの確率がわずかにでもあるかどうかっていうのに関わらず利益を得ているんであれば問題だっていう風にしているので、
工場畜産を促進するかしないかとは無関係、因果関係とは無関係に議論することができるようになっています。
これは帰結主義から結構距離を取った解釈、加担するっていうことの解釈になるので、
権利論の人たちは割とこういう風な議論の方が多分好きなんじゃないかなという風に思います。
まぁじゃあこれでいけそうかというと、おそらくそうではなさそうだと。
まず一つ目、これまた先ほどの因果連鎖の複雑性の問題にが絡んできてしまって、
まさに例えば私たちの、例えばこのSpotifyっていうようによって聞くことによって利益を得たと。
このSpotifyというシステムの従業員たちはまた肉を買うみたいなことにつながっているわけなんで、
利益を得ているシステム自体がそういった工場畜産につながっているみたいな話になると、
やっぱ不正義から利益を得るみたいな話になりそう。
つまり連鎖が続いているわけなんで、利益を得ているみたいな話になりそうなんで、ちょっと微妙そう。
さらに二つ目が、実際に肉を買ったり卵を買ったりすることで、必ずしも利益を得るわけではないかもしれません。
例えば肉を買ったとしましょう。
鶏肉を使って生で食べようとした愚か者がいたとしましょう。
この人は生で食べたことによって食中毒になってしまったみたいなケースを考えたとしましょう。
こうするとこの人は鶏肉を買ったことから利益を得ているどころか、むしろ不利益を被っているわけですね。
そうするとこの人がもし食中毒にかかったら、この肉を買ったことは間違ってないけど、
食中毒にかかってなかったら肉を買うことは間違っている、みたいなちょっとおかしな話になってしまうわけです。
さらに例えば自分への罰ゲームみたいな気持ちで肉を買ったり卵を買ったりする人も、
同じく自分への罰ゲームとして食べたくないものを食べるみたいなことをやってたら、
それもまた利益ではなくて不利益をフォームすることになるので、不正な慣行から利益を得ていることにはならないので、
加担したってことにはならないってなってしまいます。
これはヴィーガンとしては避けたいわけですね。
なぜかというと、どんな目的であれ、結果として不利益を被ったか利益を被ったかとは無関係に、
やっぱりそれは不正な慣行に加担するべきではない、購入をするべきではないというふうに言いたいはずなので、
たまたま不利益を被ったからといって、それで間違ったことになっていない、
みたいな話になるのはあまり望ましい結論ではないように思われます。
同じく今度は利益を実際に得たかどうかではなくて、利益を得ようとするかどうかっていう問題ではまた同じですね。
先ほど罰ゲームのために牛乳を買ったり卵を買ったり肉を買ったりするような人とかは、
仲間 礼
整合的に行こうとしたらやっぱり態度の一貫性とか得みたいなところで説明するしかないのかなってなったんで、
竹下
竹下さんが得倫理だったらいけるんじゃないかっていうのに希望を託して聞いてました。
竹下
尊重してない行為、工場畜産を尊重しないみたいなのも、
やっぱ何でも言えてしまうのかなとか思って。
コットン
いいですか、ちょっと今思いついたんですけど、
我々人間同士相手を尊重するじゃないですか。
人間の死体もちゃんと丁寧に扱うじゃないですか。
竹下
それと同じように動物を尊重するんであれば、
コットン
動物の死体も尊重して扱って、
それを食べたりしてはいけないんじゃないかと出てこないかと。
誰かが言っているとしますけど。こう言う議論はありますか?
竹下
こういう議論あります。
あってですね、それはカントを研究しているミラーという人がいるんですが、
カンティアニズムフォーアニマルズという本を書いていてですね、
この本はカント主義をラディカルに変えて、
動物用語に使えるようにするぜっていうことをやっている本でですね、
その中でまさに死者への尊重的な態度というか、
そういうのはカント的に要求されるって言えるんだ、
みたいなことを議論しているんですね。
ただ私はあんまりこれはうまくいかないと思っていてですね、
例えば死者とか死体の尊重の扱い方って、
かなり文化相対的だと思われるんですね。
そうすると必ずしも肉を食べないっていうことが尊重しないことにならない。
肉を食べるってことが尊重しないことになるとは限らないわけです。
さらに日本の場合ですね、
みんな「いただきます」とか言って尊重してるとか言ってるわけですよね。
それは尊重してるってことになってしまうと、
「いただきます」って言えば肉を食べてもいいということになってしまいかねないわけなんで、
この路線もおそらく多分うまくいかない。
いただきますみたいなものが尊重になってないんだっていうのを議論するには、
もっとたくさんの議論が必要になってくると思います。
竹下
なるほど。
コットン
まあでも、もっとたくさんの議論が必要ではあるけれども、
「いただきます」っていうだけで尊重になるっていう感じはしないですね。
尊重の意味が違うような気がしますよね。
権利論者が言ってる尊重と、
そこで日本人が命を尊重してるって言ってる尊重の意味は違うかなって。
竹下
これはちょっと難しいとこですけど、
そもそも権利論のときに、
人の死体に対しての尊重っていうのはちゃんと言えるかどうかっていうのは難しいわけですね。
だってもう死体は権利を持ってないわけなんで、通常。
だとすると、我々が死体に対してどういうふうに扱うべきなのかっていうのを、
権利論からちゃんと言えるかどうかっていうのは結構難しいと思うんですね。
むらた
そういう意味では、種差別に反対する、動物搾取に反対するっていう意味では、
皆さんにヴィーガンになってほしいなっていう気持ちはありますね。
竹下
はい、なんとかそれが言えると嬉しいですね、本当に。
むらた
嬉しいです。伝わってくれれば嬉しいです。
コットン
あとヴィーガニズムではなくて、
何かもっとヴィーガニズムを広げたりとか、
あるいは動物製品の消費を控えるよう周りを促したりみたいなことは、
そういうことはすべきだってことは、
権利論から出てくるんですかね、
功利主義と同じように。
竹下
ごめんなさい、もう一回いいですか。
コットン
すいません、功利主義の方だと、
一人一人の個人消費を、動物製品の消費を減らすべきかどうかという点に関しても、
はっきりとした答えでなかったけれども、
周りに働きかけて、周りの人の動物商品を減らしてもらったりとか、
周りは店に要望を出したりとか、
そういったことはすべきだってことが功利主義から出てきましたね。
同じような結論っていうのは権利論から出てくるんですか。
竹下
どうなんですかね、結局権利論の話は私も最初に言いましたけど、
購入それ自体が権利侵害になっていないというのは結構ポイントなんですね。
あくまでも工場畜産の現場で起こっていることは権利侵害、
動物の権利を侵害していることですけど、
そこから隔たった我々の購入行為が権利侵害ではないから、
なんとかこのギャップを埋めるための説明を!加担するとか、
何かパフォーマンスをするってこととして入れていかなきゃいけないわけですね。
この間に何を説明として入れるのかによって、
他者を説得しなきゃいけないかどうかとか、
要望を出すべきかどうかみたいなものが変わってくる。
正直私は、私がどうして功利主義の方を推しているかっていうのにもあるんですけど、
権利論でそれを言うのってちょっと難しいと私は思っているんですね。
やっぱり購入行為それ自体が権利侵害ではないせいで、
権利論から直接的に言えないというのが、
この消費の倫理の難しいところだと思っているんですね。
でも功利主義の場合っていうのは、
基本的に全く同じタイプの議論をするわけですよ。
帰結をより良くするかどうかという観点で同じように議論するので、
いろんな行為に対して、功利主義からはいろんなことが言える。
要望を出すべきだとか、他者を説得すべきだみたいなことを言いやすいと思っているという感じです。
コットン
確かにな。
今の話聞いた後だと、なかなか権利論欲しいでしょって気にならないですね。
今の権利論からは、動物製品の消費を減らすべきだとか出てこない。
コットン
だからじゃあ動物製品の消費を減らさなくていいんだって思うよりも、
権利論に問題があるんじゃないかなっていうふうにも考えられる。
考えられる解でした。
竹下
ただ前回の話も思い出してほしいんですけど、
功利主義から工場畜産の悪さを言うときに、
ああだこうだいろいろ考えて計算っぽいことをしましたね。
それはとても大変な作業なわけですよ、本当は。
でも権利論だと工場畜産の悪さってめちゃめちゃ簡単に言いやすいですよね。
殺すっていうこと自体はもう生存権の侵害だということが言えるわけなので、
工場畜産どころか動物福祉的な畜産も全部含めて、
生産が悪いっていうのは権利論からめちゃめちゃ言いやすい。
逆に功利主義は生産が悪いっていうこともわざわざ何回も何回も計算しなきゃいけない。
消費の悪さについてはもう功利主義は同じぐらいの難しさを持っていますけど、
権利論は逆に生産が簡単だった分かわかんないですけど、
消費の方はめちゃめちゃ難しくなってしまうっていう、
こういう構造になっているのかなっていうふうに思っています。
そうですね。でも竹下さんも言ってたことですけど、
コットン
でも倫理的なそういう判断がそんな簡単にくだせるのは、
ちょっとそれもそれでおかしいと思うんですよ。(笑)
現実はすごい複雑で、現実に対してどう行動するか、
それは複雑な判断が必要なので、
それをちゃんと功利主義がちゃんと反映していって、
逆に簡単にその方で答えが出てしまう。
権利論っていうのは何か簡単に答えが出てしまうっていうのは何ていうか、
メリットなのかな、どうなのかなって思ったりします。
竹下さんが言ったことですけど。
竹下
これはやっぱり権利っていう単語の強さを、
我々はもうちょっと大事に考えていかなきゃいけないと思っているんですね。
やっぱり人権概念が開発されたことによって、
おそらく我々の世界はめちゃめちゃ良くなったように思われるんですね。
まあそれに対して、
やっぱり人権概念の強さというか、
人権の強さというか、
人権の強さというか、
おそらく我々の世界はめちゃめちゃ良くなったように思われるんですね。
まあそれなりに多くの時間がかかりましたけど、
やはり誰かが権利を持っているかどうかっていうのは、
現代の政治的なトピックにおいては、
極めて重要な問題だと思われるわけですね。
それはやっぱり人権というとか権利という言葉の持っている力が大きい。
それがどうして大きいかって言ったら、
まさに一定程度道徳的な考えとか、
道徳的なその難しい問題を少し簡単にすることができる。
権利っていうフレームを使うことで、
その問題を見通しをかなり良くしてくれる。
その上、ちゃんと間違っているっていうことを、
ちゃんと主張できる、強く主張できる。
これは国家とかそういった権力を持っている人たちに対して、
請求力を持っているわけですね、強く。