00:06
むらた
次、権利論の方、お願いできますでしょうか?
竹下
はい、では次、権利論について話していきます。
権利論の場合はですね、動物に権利があるというところまでは言えた
だから動物を適切に尊重に扱わなければならないんだということが言えたので、工場畜産不正ですとなったわけですね。
でも明らかにですね、購入するという行為は、別に殺された肉の大元になっている動物を尊重しないことになるかというと結構難しい。
なぜかというと、もうだって死んだ動物なわけですね、我々が購入するものって。
例えば卵でもいいです。卵を購入したからといって、まさにさっきのその功利主義の議論じゃないですけど、実際に生産量を増やしたりするわけでもない。
なんならあなた自身が、その購入者自身が動物と直接関わって何か殴ったり蹴ったりだとか尊重しないみたいな扱いをしているわけではないわけなので、
実際のところ、この購入という行為それ自体は権利侵害になっているとは結構言いにくいわけですね。
そこで権利論は別の要因を、別の説明をする必要があります。
トムレーガンとか、あるいは他の多くの権利論とか義務論的な考え方をする人たちは、ここで加担するというような説明を導入します。
これはつまり、そういった間違ったシステム、間違った慣行、工場畜産という制度、間違ったことに対して、
あなたがそこから生産されたものを買うことで、その不正な間違ったことに加担するんだというふうに言うわけです。
だからそういった間違ったことに加担するのは間違っているので、あなたは購入をやめましょうというのが基本的な議論の形式になります。
これだけだったらですね、確かにってなる人もいるかもしれませんけど、どう考えても加担するとは何かというのが問題になるわけですね。
例えば一つ目の解釈は、加担するっていうのはまさにその工場畜産を促進する、工場畜産を増やすってことなんだとか、
工場畜産を継続させる、実際に継続させることになったような行為をしたんだっていうのが加担するの一つの解釈だと思います。
でもこれはですね、先ほどの功利主義と同じ問題に引っかかっているわけですね。
つまり、功利主義の時に何を議論したかというと、あなたの一人分の行為でよって、その工場畜産という制度はおそらく変化しない。
仕入れ量は変化しないし、生産量も変化しないように思われるわけなんで、あなたが実際にその慣行に促進、その慣行を増やしたり減らしたりしたっていうことになってないのであれば、
その原因になっているとは言い難いわけなので、加担するってことにならないってことになってしまいます。
03:00
竹下
なので、権利論の人たちはそもそもそういった結果に訴えるのをやめたいわけなんで、因果関係、そういったあなたが不正な間違った慣行を継続させることの原因になったみたいな言い方を避けて加担するとは何なのかというのを説明する必要が出てきます。
2つ目の解釈に行きましょう。
2つ目の解釈は、実際にその慣行、その工場畜産というシステムを継続させるのにの原因になったかどうかはともかくとして、わずかでもそんな確率があるんだったらそれは加担してるって言えるだろうというのが2つ目の解釈です。
これだったらですね、先ほど私たちが考えたように、例えば1万分の1よりもめちゃめちゃ少ないかもしれないみたいな話を、確率としてですね、仕入れ量を変化させる購入者である確率がめちゃめちゃ小さいかもしれないという話をしましたけど、ゼロではないわけですね。
するなら、ちょっとでも確率があるんだったら、それはそういった間違ったことをしていることになる、つまり加担するっていうのが2つ目の解釈です。
なんですけど、これもどう考えてもいろいろな問題がありますね。私たちのいろんな行為はおそらくいろんな間違ったことにつながっている確率がわずかにでもおそらくある可能性があります。
例えば、今私たちがこうやってPodcastを撮っている中で、もしかしたらこのPodcastをSpotifyで我々を配信するわけですね。
そうするとSpotifyが一定程度更に広告を得たりとか、あるいはユーザーを獲得することによってSpotify自体の収益がちょっとでも上がる可能性はわずかにでもあると思われますね。
さらに、このSpotifyの従業員の多くはおそらくヴィーガンではないので、工場畜産由来の製品を買う可能性はわずかにでもあるように思われます。
そうすると、この人たちが購入することによって工場畜産を更に促進する可能性はわずかですけどあるように思われます。
そうすると、実はPodcastを配信することも工場畜産に加担するってことになってしまうと。
こんなことを言い始めたら、全ての行為がそうやって何でも間違ったことにつながっているみたいな話になってしまって、これは結構奇妙なことになっているわけですね。
なので、ちょっとでも確率があるみたいなものがダメそうだと。
ということで、次に3つ目の解釈に移ってみましょう。
今度はですね、いやそうじゃなくて、そんな最初めっちゃ微小な確率とかじゃなくて、
あなたが工場畜産由来の製品を買うことで、例えば肉を買うことで肉食べて利益を得たと。
快楽の味覚の楽しみを得たみたいな、そういう利益を得ているから、それは加担しているっていうことになるんだっていう説明がありは考えられます。
これの利点はですね、因果的な解釈に全然訴えてないわけですね。
06:02
竹下
実際に工場畜産を促進するかしないか、それの確率がわずかにでもあるかどうかっていうのに関わらず利益を得ているんであれば問題だっていう風にしているので、
工場畜産を促進するかしないかとは無関係、因果関係とは無関係に議論することができるようになっています。
これは帰結主義から結構距離を取った解釈、加担するっていうことの解釈になるので、
権利論の人たちは割とこういう風な議論の方が多分好きなんじゃないかなという風に思います。
まぁじゃあこれでいけそうかというと、おそらくそうではなさそうだと。
まず一つ目、これまた先ほどの因果連鎖の複雑性の問題にが絡んできてしまって、
まさに例えば私たちの、例えばこのSpotifyっていうようによって聞くことによって利益を得たと。
このSpotifyというシステムの従業員たちはまた肉を買うみたいなことにつながっているわけなんで、
利益を得ているシステム自体がそういった工場畜産につながっているみたいな話になると、
やっぱ不正義から利益を得るみたいな話になりそう。
つまり連鎖が続いているわけなんで、利益を得ているみたいな話になりそうなんで、ちょっと微妙そう。
さらに二つ目が、実際に肉を買ったり卵を買ったりすることで、必ずしも利益を得るわけではないかもしれません。
例えば肉を買ったとしましょう。
鶏肉を使って生で食べようとした愚か者がいたとしましょう。
この人は生で食べたことによって食中毒になってしまったみたいなケースを考えたとしましょう。
こうするとこの人は鶏肉を買ったことから利益を得ているどころか、むしろ不利益を被っているわけですね。
そうするとこの人がもし食中毒にかかったら、この肉を買ったことは間違ってないけど、
食中毒にかかってなかったら肉を買うことは間違っている、みたいなちょっとおかしな話になってしまうわけです。
さらに例えば自分への罰ゲームみたいな気持ちで肉を買ったり卵を買ったりする人も、
同じく自分への罰ゲームとして食べたくないものを食べるみたいなことをやってたら、
それもまた利益ではなくて不利益をフォームすることになるので、不正な慣行から利益を得ていることにはならないので、
加担したってことにはならないってなってしまいます。
これはヴィーガンとしては避けたいわけですね。
なぜかというと、どんな目的であれ、結果として不利益を被ったか利益を被ったかとは無関係に、
やっぱりそれは不正な慣行に加担するべきではない、購入をするべきではないというふうに言いたいはずなので、
たまたま不利益を被ったからといって、それで間違ったことになっていない、
みたいな話になるのはあまり望ましい結論ではないように思われます。
同じく今度は利益を実際に得たかどうかではなくて、利益を得ようとするかどうかっていう問題ではまた同じですね。
先ほど罰ゲームのために牛乳を買ったり卵を買ったり肉を買ったりするような人とかは、
09:04
竹下
利益を得ようとしていないけれども、でも不正な慣行にやっぱり加担しているように思われるわけなので、
この解釈はやっぱりうまくいかないと。
こういう形ですね。今のところ私は加担するの解釈をいろいろ検討しましたけど、
どれもうまくいきそうにないように思われます。
そうすると、加担するっていうのって適切に言えないんじゃないかっていう疑いが持たれてきますね。
これはすなわち権利論ベースで、肉の購入とか工場畜産由来の製品を買うっていうことが道徳的に間違っているっていうのを常に言うことが極めて難しい。
加担するの適切な解釈を出すっていうのはすごく難しいので、権利論からそういったビーガニズムを擁護するっていうのはちょっと難しいように思われます。
っていうのが権利論ベースから議論した場合の話です。
竹下
なるほど。
むらた
これ権利論はもともと加担っていう言葉の解釈について共通した立場みたいなのはないんですか?
竹下
ないですね。
むらた
そうなんですね。
難しい。
私もできるだけヴィーガンをやってるっていう生活を始めて、人に自分の選択を説明するときに、
こういう工場畜産がこうなってるっていうことを知って、もうこれに加担したくなくてやめたんだよね、みたいな言ってきたんですけど、
よく見てみると、加担ってよく分かってなかったんだっていうので、ちょっとやり返された気持ちで。
竹下
そうですね、直感的にはすごい分かる感じがしますよね、加担するって。
いろいろよく考えてみるとっていうところですよね。
コットンさんどうぞ。
コットン
この今の話ってヴィーガンだけじゃなくて、例えばイスラエル支援国家、支援企業に加担しないようにスタバを下げるとか、そういうこともやりますけど、
そういった話題にもヴィーガン以外の話題にも当てはまる話だなって思ったんですけど、
権利論がもう少し頑張って加担の概念をしっかり提示化するっていうこともまだできそうな余地あるかなって思ったりとかして、
どうですかね、ここですぐ思いつくわけではないですけど、
でもなんかこう、なんか違いはありそうですよね、我々がSpotifyを配信することとスーパーで肉を買うことの間になんか違いありそうで、そこは頑張る余地があるんじゃないかなって思って。
12:00
コットン
例えば、なんかまだぼんやりしてますけど、その制度に乗ってる感じがしますよね。
例えば罰ゲームで肉を買う場合も牛乳を買う場合も、なんていうかその制度が意図するところに乗っちゃってるっていう感じがあって、
それがなんかちょっと、加担しているんじゃないかなとかね、思ったりもしましたけど、
ちょっとぼんやりしてますけど、まあでもまだ頑張る余地あるんじゃないかっていう感想でした。
むらた
いや、わかりますね、その乗っちゃってる感じ。
なんか、さっきの功利主義的な意味で言うと、自分が日々生活してて、
例えば、もうすでに注文されて、机の上に並べられたま動物性の食品があるとして、
余っていて、私はお腹は減っている、他に食べる人はいないみたいな場合に、
功利主義的には何の影響も、私が食べても食べなくても影響はないと思うんですよね。
そういう時に、こう、もやっとするんですけど、でも、なんかそういう時、私はパフォーマンスとして考えてるなっていうか、
これをもし私が食べたら、この肉、そしてこの後ろにある工場畜産っていうものを、
私は肯定しているというのを周りに見せることになるんだ、それは嫌だみたいな感覚になるんですよね。
それは、加担する、加担しないとは別の話なのかもしれないんですけど、
なんか違う説明の仕方があるんじゃないかなって気はしますよね。
支持している姿勢を見せるかどうかとか。
竹下
例えばそういう場合って、じゃあ誰もいないところで肉を買ったりすることは、
パフォーマンスにならないってことになって、それを加担するってことにならないみたいな話になってしまう可能性はありそうですね。
あるいはもうちょっと言うと、本当にその場合って、肉を買わないっていうことだけで十分かどうかっていうのも微妙なところで、
実際のところ、スーパー行って肉買わないみたいなのって、
実際スーパーに行かないみたいな、あるいはその野菜コーナーの方にしか行かないみたいな話ですけど、
それをしたところで、私がヴィーガンコミットしてますみたいなことをスーパーで何か表しているわけではないと思うんですよね。
15:03
竹下
だから肉を、その積極的な行為じゃないですよね。肉を買わないって、消極的に何々を「しない」っていうことなので、
何々をしないっていうことによって何かを表すっていうふうに言えるかどうかっていうのは、もう一つちょっと難しいポイントかなって思います。
コットン
あとちょっと議論の焦点を定めておきたいんですけど、今の話はスーパーで買うかどうかで、
例えば誰かが買ったものを食べるかどうかはまた別の論点っていうことですかね。
竹下
そうですね。その可能性はありますね。
コットン
基本的に今話しているのは、自分が買うかどうかの話っていうふうに理解できますかね。
むらた
そうだ、加担の解釈の例で、これはどうかなって思った点が、一番最後4つ目で、利益を得ているじゃなくて、得ようとしたかっていうのがありましたけど、
そこで罰ゲームっていう例が出てきて、その罰ゲームをどう捉えるかっていうか、
確かに嫌な思いするっていうことだと思うんですけど、
竹下
罰ゲームを楽しむ、楽しもうとして買っている、罰ゲームで成り立っているゲームを楽しもうとしている、
むらた
そういう利益を得ようとしているみたいな捉え方もできるのかなみたいな思って。
竹下
まあ、解釈をどうこういろいろ頑張れば、なんかどっかに利益を見つけることができるだろうみたいなのは言えるかもしれないですけど、
そうするとどんな行為にも利益がありますねみたいな話になって、なんかちょっと議論としては微妙な感じになりますよね。
そのいろんな行為をニュアンスをちゃんと持った状態で区別できなくなってしまうので。
むらた
ダメか。
パフォーマンス説も、利益を実は得ようとしていたんじゃないか説も、ちょっとあっけなく。
どうですか、れいさんとかここまでの話聞いてて。
仲間 礼
僕が義務論とか権利論あんま詳しくないんですけど、
なんか尊重っていう概念が多分大事だと思ってて、
そこから何か言えるんじゃないかって今竹下さんのお話聞いてて考えてたんですけど、
むらた
例えば尊重してない行為、工場畜産に対する何だろう、
仲間 礼
を尊重しない義務みたいなのも考えてたんですけど、
そういうのを整合的に論じようとしたら、
徳倫理に結局近づくなって思って何も言えなかったっていう。
18:00
仲間 礼
整合的に行こうとしたらやっぱり態度の一貫性とか得みたいなところで説明するしかないのかなってなったんで、
竹下
竹下さんが得倫理だったらいけるんじゃないかっていうのに希望を託して聞いてました。
竹下
尊重してない行為、工場畜産を尊重しないみたいなのも、
やっぱ何でも言えてしまうのかなとか思って。
コットン
いいですか、ちょっと今思いついたんですけど、
我々人間同士相手を尊重するじゃないですか。
人間の死体もちゃんと丁寧に扱うじゃないですか。
竹下
それと同じように動物を尊重するんであれば、
コットン
動物の死体も尊重して扱って、
それを食べたりしてはいけないんじゃないかと出てこないかと。
誰かが言っているとしますけど。こう言う議論はありますか?
竹下
こういう議論あります。
あってですね、それはカントを研究しているミラーという人がいるんですが、
カンティアニズムフォーアニマルズという本を書いていてですね、
この本はカント主義をラディカルに変えて、
動物用語に使えるようにするぜっていうことをやっている本でですね、
その中でまさに死者への尊重的な態度というか、
そういうのはカント的に要求されるって言えるんだ、
みたいなことを議論しているんですね。
ただ私はあんまりこれはうまくいかないと思っていてですね、
例えば死者とか死体の尊重の扱い方って、
かなり文化相対的だと思われるんですね。
そうすると必ずしも肉を食べないっていうことが尊重しないことにならない。
肉を食べるってことが尊重しないことになるとは限らないわけです。
さらに日本の場合ですね、
みんな「いただきます」とか言って尊重してるとか言ってるわけですよね。
それは尊重してるってことになってしまうと、
「いただきます」って言えば肉を食べてもいいということになってしまいかねないわけなんで、
この路線もおそらく多分うまくいかない。
いただきますみたいなものが尊重になってないんだっていうのを議論するには、
もっとたくさんの議論が必要になってくると思います。
竹下
なるほど。
コットン
まあでも、もっとたくさんの議論が必要ではあるけれども、
「いただきます」っていうだけで尊重になるっていう感じはしないですね。
尊重の意味が違うような気がしますよね。
権利論者が言ってる尊重と、
そこで日本人が命を尊重してるって言ってる尊重の意味は違うかなって。
竹下
これはちょっと難しいとこですけど、
そもそも権利論のときに、
人の死体に対しての尊重っていうのはちゃんと言えるかどうかっていうのは難しいわけですね。
だってもう死体は権利を持ってないわけなんで、通常。
だとすると、我々が死体に対してどういうふうに扱うべきなのかっていうのを、
権利論からちゃんと言えるかどうかっていうのは結構難しいと思うんですね。
21:03
コットン
確かに。
竹下
実はそもそも権利論から、
竹下
人の死体食べちゃいけないみたいなことが出てくるかどうかも怪しいと思ってます。
コットン
そしてこれは加担の意味を明確にするっていう方針の別の戦略ってことですよね。
竹下
もちろんそうです。権利論に立ったときに、
私は今回加担するっていうフレームから考えていきましたけど、
竹下
加担するっていうこと以外のやり方で何とか頑張るっていう方針もあると思います。
コットン
今のところ竹下さんに対する反論は思いつかないですけど、
頑張る余地はあるかもしれないっていう感じでもあるかもしれない。
竹下
それはもちろんです。
むしろそれこそが今この消費の倫理で議論されていることの大きなトピックの一つなわけですね。
先ほどイスラエルの支援企業に対するボイコット運動とか、
あと気候変動とかもそういうタイプの議論ですけど、
まさに私たち1人、1人だけが変わったところであんま変わんないみたいなときに、
我々は何をすべきなのかっていう議論としてそういうトピックがあるので、
本当にもしリスナーの中に研究者がいたら、
ぜひ研究して何とか権利論から擁護するみたいなことをちょっと頑張ってほしいかなとは思ってます。
コットン
重要なトピックだと思います。
お願いします。
むらた
未来の研究の発展に希望を託したいと思います。
こんなところでしょうか。
竹下
じゃあちょっと最後に付け加えで注意点を少し言っておいてもいいですか。
むらた
はい。
竹下
ここまで功利主義とか権利論から、消費って別に悪くないかも、
ヴィーガンにならなくてもいいかもみたいな話をしてきました。
私自身ヴィーガンですし、おそらくヴィーガニズムもずっと続けていくと思いますけど、
そのこととはまた別の話としてですね、
この話は生産が間違ってないってことを含意しないです。
生産は間違っているのは前回散々話した通りで、
私が購入をやめるかやめないかとは全く別に種差別は間違っているし、
工場畜産という制度も生産も間違っています。
それはそうなの。それはそうだとして、
でも消費の倫理って別に議論できるよねっていうのが今回ずっとしていることなので、
ヴィーガンにならなくていいんだったら、
別に動物だって尊重しなくていいじゃんみたいな話にはならないというのは、
ちゃんと理解しておく必要があるかなと思います。
むらた
そうですね、確かに。
このヴィーガンになるべきかっていう話題を提示してますけど、
その中身は消費の話で、
ヴィーガニズムっていうのもその動物搾取に反対する立場っていう含意もあると思うので、
24:03
むらた
そういう意味では、種差別に反対する、動物搾取に反対するっていう意味では、
皆さんにヴィーガンになってほしいなっていう気持ちはありますね。
竹下
はい、なんとかそれが言えると嬉しいですね、本当に。
むらた
嬉しいです。伝わってくれれば嬉しいです。
コットン
あとヴィーガニズムではなくて、
何かもっとヴィーガニズムを広げたりとか、
あるいは動物製品の消費を控えるよう周りを促したりみたいなことは、
そういうことはすべきだってことは、
権利論から出てくるんですかね、
功利主義と同じように。
竹下
ごめんなさい、もう一回いいですか。
コットン
すいません、功利主義の方だと、
一人一人の個人消費を、動物製品の消費を減らすべきかどうかという点に関しても、
はっきりとした答えでなかったけれども、
周りに働きかけて、周りの人の動物商品を減らしてもらったりとか、
周りは店に要望を出したりとか、
そういったことはすべきだってことが功利主義から出てきましたね。
同じような結論っていうのは権利論から出てくるんですか。
竹下
どうなんですかね、結局権利論の話は私も最初に言いましたけど、
購入それ自体が権利侵害になっていないというのは結構ポイントなんですね。
あくまでも工場畜産の現場で起こっていることは権利侵害、
動物の権利を侵害していることですけど、
そこから隔たった我々の購入行為が権利侵害ではないから、
なんとかこのギャップを埋めるための説明を!加担するとか、
何かパフォーマンスをするってこととして入れていかなきゃいけないわけですね。
この間に何を説明として入れるのかによって、
他者を説得しなきゃいけないかどうかとか、
要望を出すべきかどうかみたいなものが変わってくる。
正直私は、私がどうして功利主義の方を推しているかっていうのにもあるんですけど、
権利論でそれを言うのってちょっと難しいと私は思っているんですね。
やっぱり購入行為それ自体が権利侵害ではないせいで、
権利論から直接的に言えないというのが、
この消費の倫理の難しいところだと思っているんですね。
でも功利主義の場合っていうのは、
基本的に全く同じタイプの議論をするわけですよ。
帰結をより良くするかどうかという観点で同じように議論するので、
いろんな行為に対して、功利主義からはいろんなことが言える。
要望を出すべきだとか、他者を説得すべきだみたいなことを言いやすいと思っているという感じです。
コットン
確かにな。
今の話聞いた後だと、なかなか権利論欲しいでしょって気にならないですね。
今の権利論からは、動物製品の消費を減らすべきだとか出てこない。
27:03
コットン
だからじゃあ動物製品の消費を減らさなくていいんだって思うよりも、
権利論に問題があるんじゃないかなっていうふうにも考えられる。
考えられる解でした。
竹下
ただ前回の話も思い出してほしいんですけど、
功利主義から工場畜産の悪さを言うときに、
ああだこうだいろいろ考えて計算っぽいことをしましたね。
それはとても大変な作業なわけですよ、本当は。
でも権利論だと工場畜産の悪さってめちゃめちゃ簡単に言いやすいですよね。
殺すっていうこと自体はもう生存権の侵害だということが言えるわけなので、
工場畜産どころか動物福祉的な畜産も全部含めて、
生産が悪いっていうのは権利論からめちゃめちゃ言いやすい。
逆に功利主義は生産が悪いっていうこともわざわざ何回も何回も計算しなきゃいけない。
消費の悪さについてはもう功利主義は同じぐらいの難しさを持っていますけど、
権利論は逆に生産が簡単だった分かわかんないですけど、
消費の方はめちゃめちゃ難しくなってしまうっていう、
こういう構造になっているのかなっていうふうに思っています。
そうですね。でも竹下さんも言ってたことですけど、
コットン
でも倫理的なそういう判断がそんな簡単にくだせるのは、
ちょっとそれもそれでおかしいと思うんですよ。(笑)
現実はすごい複雑で、現実に対してどう行動するか、
それは複雑な判断が必要なので、
それをちゃんと功利主義がちゃんと反映していって、
逆に簡単にその方で答えが出てしまう。
権利論っていうのは何か簡単に答えが出てしまうっていうのは何ていうか、
メリットなのかな、どうなのかなって思ったりします。
竹下さんが言ったことですけど。
竹下
これはやっぱり権利っていう単語の強さを、
我々はもうちょっと大事に考えていかなきゃいけないと思っているんですね。
やっぱり人権概念が開発されたことによって、
おそらく我々の世界はめちゃめちゃ良くなったように思われるんですね。
まあそれに対して、
やっぱり人権概念の強さというか、
人権の強さというか、
人権の強さというか、
おそらく我々の世界はめちゃめちゃ良くなったように思われるんですね。
まあそれなりに多くの時間がかかりましたけど、
やはり誰かが権利を持っているかどうかっていうのは、
現代の政治的なトピックにおいては、
極めて重要な問題だと思われるわけですね。
それはやっぱり人権というとか権利という言葉の持っている力が大きい。
それがどうして大きいかって言ったら、
まさに一定程度道徳的な考えとか、
道徳的なその難しい問題を少し簡単にすることができる。
権利っていうフレームを使うことで、
その問題を見通しをかなり良くしてくれる。
その上、ちゃんと間違っているっていうことを、
ちゃんと主張できる、強く主張できる。
これは国家とかそういった権力を持っている人たちに対して、
請求力を持っているわけですね、強く。
30:01
竹下
これが功利主義にのっとってたらどうなるかというとですね、
わざわざ市民はみんな計算しなきゃいけないわけですよ。(笑)
計算をして、こうだからこっちの制度の方がいいと思うみたいなことを言って、
いやでもそうじゃないじゃんみたいなエビデンスを出されて、
みたいなごちゃごちゃごちゃごちゃとして、
もしかしたら制度設計が遅々として進まないみたいなことになってしまうかもしれないですけど、
権利論はそういった請求力の強さ、訴えの強さっていうのをやはり持っているんじゃないか。
そここそが権利論の利点でもあるというふうに私は思っています。
実際これは動物倫理の大きで、
動物擁護活動家がどうして功利主義に乗っからずに、
動物の権利があるっていうふうに言うかともつながっていると思うんですよね。
むらた
なるほど、逆に権利論で何が言えるのかっていうのを考えていった結果、
逆にこの理論ってどうなんだとか、いいのか悪いのかみたいな話もできて、
面白かったです。
では、権利論はこんなところで、
功利主義に引き続きちょっと難しさも見えましたけど、
そうですね。
でも動物の権利は尊重していきたいとは思います。
なんでも倫理ラジオではお便りを募集しています。
感想、番組で取り上げてほしいテーマ、
これって倫理的にどうなんだと思ったエピソードなど、
どしどしお送りください。
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