むらた
確かに大興奮したその余韻が残っている感じで聞いてました。
めっちゃ良かったです。
タヤさんはもともと障害学は勉強されていたでしたっけ?
タヤ
そうですね。専門で勉強しているわけじゃないんですけど、
私が20歳ぐらいの時にADHDとASDの診断を受けて、
だからこう、うにょ、うにょ、うにょじゃないな。
頑張って生きていこうとする中で、
障害学の障害の社会モデルっていう考え方に出会って、
それが障害学の一つの、なんていうんだろうね、こういうの。
なんか考え方?
出会ってそれで救われた部分があったんですけど、
障害学についてそこでしか知らなかったから、
この本で改めて出会い直したって感じです。
むらた
さっき一瞬言葉が出てきた、限界事例の話。
限界事例って、動物倫理の話をするときに出てくる、
試行実験みたいな感じで、
え、なんて言ったらいいんだ。
なんて言ったらいいんだ。
タヤ
テキストの126ページと127ページぐらいに、
知的障害者とか幼児とか、
昏睡状態にある人とか、認知症の老人など、
すなわちこれらを限界事例に置かれていた人々と呼んだとして、
こういう人たちに道徳的地位が認められるなら、
この人々と似た能力を有する人間以外の動物たちにも、
道徳的な地位は付与されない理由はないっていう議論らしい。
むらた
ありがとうございます。
そういう限界事例に置かれた人々と動物を比較して、
限界と呼ばれるような状況にある人たちが配慮されるのに、
動物が配慮されないのはおかしいみたいな、
そういう比較で動物の擁護を論じるみたいな、
結構いろんなところで聞いてきましたけど、
私はタヤさんはうって思うタイミングだったって言ってましたけど、
私は結構飲み込んじゃってて、
本当に見つめ直す機会になったなと思いましたね。
タヤ
あの、そうなんですよね、
そういうのとか、あと似てるようで似てないのかわからないんですけど、
何の本だったか、具体的に出したほうがいいのか出さないほうがいいのかもわからないんですけど、
畜産動物、特に工場式畜産として育われている動物たちに置かれている状況の
凄まじさを知っている人たちが、
これならこの生き物たちはまだ死んだほうがマシなんじゃないかっていう言葉をかける、
そういうふうに記述することがあるんですけど、
それもキュキュってなるんですよね。
その感覚はわかる。だってとてつもない苦しみだから。
だけど、まずは苦しみを起こしている構造に目を向けて、
そのものの性質、生きる死ぬを死ぬの方に傾ける思考、
殺すの方に傾ける思考にならないようにしたほうがいいかもって思うんです。
ちょっと表現が難しいけど、
そういうのも動物倫理の話をするときにもやポイントでした。
むらた
動物倫理でされるいろんな議論のもやポイント、
タヤさん気づけてたのすごいなとか思いましたね。
たね
でも本当にこの本を読んでいかに自分が健常者中心主義を内面化してたかっていうのは、
さっきも村田さんが言ってたんですけど、
自覚するチャンスだったなと思ったし、
人間の比喩に動物を使ってしまうとかって結構よくある。
日常的にもよくある。
この本はだいぶ前に読んだんですけど、そこからエッセンスだけは覚えてたので、
がっつり読んだのは今回初めてで、そこからはやめようと思ってたんですけど、
ヴィーガンとか動物倫理についてある程度存在を知ってたり、
動物の擁護者であったとしても、
あの人は人間じゃないとかってすごくひどい行いをするとか、
動物虐待をした人とかに対して、あの人は人間じゃないとか、
なんだろうな。どういう表現をしてたか忘れちゃったんだけど。
とりあえず非人間化をして、その人を貶めるっていうことって行われてることを見たことがある?
くろ
SNS上とかですけど。
たね
すごく、なんだろうな。
動物擁護者であってもそこは内面化してて、
なんかそれが染み込んでるっていうところはすごく思いましたね。
犬笛とか、猿とか、そういう動物を侮蔑的な文脈で使うってことをやってしまうって言っていたし、
やってしまうことをスルーしちゃう。
なんかそこにもちょっと自覚的でありたいなと思ったし、
別に必ずしも他の動物を持ち出してくる必要ってないんだよなっていうのは、
この本にも書かれてたなと思っていて、
そういうところは何か気づきました。
タヤ
確かに。
障害者に対する差別と、動物に対する、人間以外の生き物に対する差別の共通点の一つとして、
本の中に言葉に出てくる差別っていうのが取り上げられてましたもんね。
あげられてても経済がびっこになったっていう表現とか。
比喩なんだけど、比喩じゃん。ただの。
とはならないですもんね。
それが物の原型みたいなのを強化することになるよねって。
確かにそうだなって思いました。
あのね、一個ね。
ちょっと余談かもしれないんですけど、いいのを持っていたんです。
むらた
一石二鳥ってよく使うじゃないですか。
タヤ
一つの石で二羽の鳥を打ち落とす。
それで一つのことで二つの目的を果たす。
めっちゃ結構使われるんですけど、これ鳥じゃなくてもいいだろうっていうので。
前、私、囲碁をね、ちょろっと出来たら囲碁をやりたいなって思って、
勉強した時に、石なんですよ囲碁って。
石を置くことで、先に言うと一石二当に言い換えができると思う。
当、
当っていうのが当たる。
当選とか。
その当たりっていうのが囲碁のゲームの中では、
囲碁って石を取り合うゲームみたいに言えるんですけど、
むらた
石を取れる状態を作ることを当たりって言うんですよね。
タヤ
だから一つの石で二つの石を取れる状態を作れたみたいな。
たね
考えたの?それ。
タヤ
考えた。
たね
すごいですね。めっちゃいい。
タヤ
一石二鳥と五感も近いし。
たね
それ今度から使っていきたいなって思います。
「ヴィーガンなんで」とか言ってって(笑)
ヴィーガンとは言えないけど、
むらた
鳥取らないんで。
たね
鳥取らないんでって言って。
一石二当で。
むらた
そうなんですよね。いろんなところで、
障害を持ってるっていうのは良くないこととか、
人間以外の動物は価値が低い、無能だみたいなことが反映された言葉ってたくさんありますよね。
健常者中心主義的にも、人間中心主義的にも、
動物が貶められて、障害者も貶められて、
また障害者も貶められた動物になぞらえて貶められてみたいな。
すごい嫌な感じですけど、
でもそれを内面化してた部分が多分にあるなっていうことに気づきましたね。
たね
結構難しいなと思ったのが、この本でももちろん語られてるんですけど、
自分が動物であることを自覚しながら、
自覚しながらっていうか、それを認めながら、
自分の動物性を認めながら、
動物的な非人間化に抗うという難しさは、すごいどうすればいいんだろうって思っていて、
自分が動物になぞらえられる文脈ってあまり良くないことが多いんですけど、
表現が難しい。
人間も動物であるっていう自明の事実なのに、
それが無別的な表現として響くっていう社会において、
私もそれは動物だよっていうことの効果とか、
本当に非人間化によって暴力を振るわれているような人が世界にいる中で、
どうやって向き合っていけばいいのかな、そういう表現とっていう。
非人間化は想定できないけど、でも私は動物だって言いたいっていう思いもあって。
この発想が結構難しかったです。
むらた
まさにテイラーもそこで頑張っている感じというか、
自身が障害を持って、他の健常者と呼ばれる人とは違う仕方で、
口を使って物を取ったりとか、歩き方がちょっと他のクラスメイトと違ったりとかっていうことがあって、
それを他の動物になぞらえて、
他のクラスメイトとかは嫌な意味で、
例えばあなたは猿みたいとかそういうふうに言われていて、
それは明らかに侮辱しているというか、
テイラーを侮辱しているかつ、動物もそういう価値の低い存在としてみなしているけど、
でも言われているテイラーは、それはわかっているけど、
自分の動物らしさみたいなところに誇りを持ってて美しいとも思っているっていう、
何なら犬みたいに吠えてた時期もあったみたいな話してましたけど、犬になりたいと思ってたみたいな。
明らかに周りの人は嫌なように動物を使っているんだけど、
でも動物らしい自分いいじゃんっていうこともあるっていう。
たね
狭間にいる感じがすごくしました。
むらた
しましたね。
くろ
この本はいつ読んだかな。
結構前に読んで、翻訳版が出たのが2021年ぐらいかな。
2020年9月。意外と前だな。
これ出た当初すぐ買って、すぐバーっと読んで、すごい面白いなと思いながら読んだんだけど、
くろ
それまで読んでた、僕が読んでた、例えばピーターシンガーの動物の解放とか、
フランシオンの動物の権利とかとは明らかに違う雰囲気を持っている本だなと思って、
この本自体の構成が、最初から確かなもの、確かな正しい答え、
こうすればいいんだ、こうするべきっていう答えを用意してから始められている本ではなく、
著者自身もそういう自分の経験、他人との関わり、あるいは他の動物との関わりとかを通じて変化していく。
その変化っていうのは必ずしも労働的なものじゃなくて、
影響を受け、時には苦しみ、時には迷い、みたいな、
そういうこの本の構造自体がそうなっているのが面白いなと思って、
すぐ本を読んで、こういう本だったって言えるような類の本ではないっていうのが、この本の良さになっているっていう。
そうだね、面白かった、すごく。
むらた
本当ですね、いろんなところでこのシンプルに短絡的に結論を導くのを控えていたり、
だしその複雑さ、答えることの難しさ、まだ答えが出ないことに、
なんならそこに魅力を感じて、ヘイダーは語っていたりするし、
結構そんなこと言ってるところたくさんありますよね。
タヤ
私の心に響いたところが、引用すると何ページか忘れたんですけど、
私がこの本を通して動物について論じるとき、何をそして誰のことを意味しているのかという一見して単純な問いすらも、
私にとっては答えるのが不可能な問題だ。
そんな用語上の問題がすっきりと片付けられるふりをするより、私は動物に関する定義を開いたままにしておこう。
私たちの環境と仲間の存在者たち、ヘロビーングがそんな閉じられた定義を拒むからだって書いてあって、
この本の中でいっぱいハテナが最後についている疑問符がついている文章、
問いがいっぱい並んだりするところが何箇所もあって、
それに一個ずつ回答するわけでも結論みたいな感じで出てくるわけでもなくて、
くろ
それを、ただ問いをバーって出すっていう、その視点にすごい勇気づけられますね。
たね
なんかその、やっぱりディーガンとか動物倫理とかやってると、
むらた
常にそのどこで閉じるかを求められるっていうか、
くろ
どこで定義を引くかをこちら側が明確に持ってなきゃいけないみたいなプレッシャーがある。
むらた
なんかそこを一旦開いたままにしとこうっていう姿勢。
すごいなんか、ありがとうっていう。
表現もすごく素敵だなと思って、開いたままにしとこうっていう。
たね
ちょっと今合ってたかわかんないけど、勇気づけられましたね。
タヤ
なんかこう、人と話してる時になるべく動物を食べないようにしてる。
動物から作られたものを食べないようにしてるっていうと、
じゃあこれは?これは?じゃあこういう時どうするの?って聞かれて、
聞かれるのが嬉しい時が結構あるんですけど、私は興味持ってくれてるから。
でも難しい時があって、歌えるのに、それを自分も迷っててっていう時の、
むらた
タネさんも言ってたけど、迷ってるとも、まあいいやんみたいな感じの仕様をしてくれてるのは良かったな本当に。
いや本当に、なんか哲学倫理学の議論をする時も、
複雑、ちょっとこう、過程を置く時点で状況をシンプルに捉えちゃうことになるから、
いろんな複雑な部分、その障害を持ってる場合とか持った人がいて、
効率的に、その人の利益だったり社会の利益を計算するみたいなことが出てきて、
そういう時に、やっぱりどういう障害があって、どういうことに困難があって、周りにどういう人がいて、
ペイラーも言ってる通り、障害者って言っても、本当に千差万別、それぞれの状況があるのに、
そういう過程をする時、哲学で考える時、公理の計算をするみたいな時に、
やっぱりシンプルにいろいろいろいろ削ぎ落としちゃって、
それによって何かしらのシンプルな結論を出してるところあるなと思って、
理論化するってなったら、理論化するとか、自分たちが持ってる、自分たちが生活の中で案にやってる判断の大元、
こういう基準に沿ってるんだね、私たちっていうのを見つけるにはもしかしたら、
そういう過程でいろいろ削ぎ落とすのって便利かもしれないけれども、
やっぱり見えなくなっちゃう部分とか、結論を一回出しちゃうことで隠しちゃうことってありますよねっていう、
すごい思いましたね。
タヤ
そうですね。本当に生き物、動物もそうだし、障害者もそうだけど、
障害を持った動物についてもそうなんですけど、その時すごく苦しそうに見えたりとか、
言葉を喋る場合、もう生きていたくないって言ったとしても、それが結論ではない。
ずっと苦痛を感じて生きているかっていうと、そうじゃなくて、難しいんですけど、
むらた
障害者は障害だけを生きているわけではないっていう言葉があるんですけど、
タヤ
それ以外の、その場合の障害、この言葉の場合の障害っていうのは苦しみになるのかなって思うんですけど、
苦しみとかできないみたいになるかなと思うんですけど、
本当にその通りで、その痛みとか苦しみだけを見て、性の輸出が低いって判断してほしくないようにしたいなって思いました。
くろ
今いい言葉が出てきたと思ってて、できない。
できないこと、あるいはできることの荷項対立。
できることに価値が置かれていて、できないことに価値が低い、より低い価値しか与えられていないのが今の社会、人間社会だと思っていて、
それにどう表っていくかっていうのがこの本のテーマの一つだと思うんですけど、
僕自身もそう、みんなと話しながら思い出したのが、
ヴィーガンに最初になった時に、すごいマイノリティだから周りにほとんどいなかったし、
すごい理論武装をしようとした。強くなろうとした。
それは攻撃されることが多くなるから、ヴィーガンであるって言って、倫理的に動物を食べる。
肉を食べるって良くないと感じるから、考えるから、
肉を食べない、ミルクを飲まない、卵を食べない、なんて言うと、
むらた
いやいやいやいや、植物はどうなのとか、ライオンもシマウマを食べてますよとか、
くろ
いろいろ攻撃的な、攻撃的でない時ももちろんあるんだけれど、
そういった自分を脆弱な立場に置くっていうのがヴィーガンになるっていうことで、
ヴィーガンになっても、自分自身を倫理的に、ロジカルに、
一貫性を持った存在として保とうと思って、
むちゃその辺の質問をどう返すかとかを勉強した記憶があるんだけど、
この本を読んだあたりで、それをすること自体も一種の、
動物倫理、動物に対する連帯みたいなものから遠ざかるような方向に
生かされてたのかもしれないなっていうのを思って、
やっぱり今の社会の権利だったり自由だったりって、
かっこいい人、できる人、何かができる人、お金を稼げてる人とか、
カメラを向けられても自信満々で堂々と話せる人とか、
そういった人に権利なり尊敬なりが集められる、自由なりが認められるっていうことがあると思うんだけど、
これをやり続けていたら多分、いわゆる障害者がマージラルなところに置かれ続けるっていう時代は変わらんだろうし、
歴史的にも女性が、これは有名なナポレオン法典というフランスの19世紀にできたナポレオンが編纂した法典の中で、
特に結婚した女性は法的に無能力者であると言って、
自分で裁判を起こしたり、自分で財産を管理したりする権利がないものとされたわけなんだけど、
これが明治民法とかに引き継がれていて、現代まである程度影響を残してしまっていて、
そういったように女性の欲立てにも使われてきたし、ということとかを考えると、
ヴィーガンになるっていう、ヴィーガンとして生きるっていうことで、
かえって生じてしまうできる主義みたいなものからの距離を置きたいみたいなのが、
僕が得られたこの本からの一番の教訓かもしれない。
むらた
シビックな。
そうですね、私も理論武装しないとって思ったし、
本当に最初やっぱり、ヴィーガン始めてとか言ったらどんどんいろいろ聞かれるから、
自分を固めないとって思って。
でも、確かにそうですよね。
できるなら、私ヴィーガン始めたんだって言って、いろいろ聞かれて、
でもわからないことがあっても、それはまだわからないけど、
例えば、今私がこういうふうに思ってるからこうしてるんだとか、
ちょっと一緒に考えようとか、
そのほうが平和っていうか居心地、みんなが居心地いいのかなっていう。
常に自己完結して、自分の中で常にちゃんと結論を持ってないといけない、
みたいなのができる主義かなって思うんですけど、
それって逆に、対話から遠ざかっちゃうことでもありそうで、
こうこうこうだからヴィーガンやるんだ、肉食はダメなんだ、みたいなカッコたるものを、
自分でも作らなきゃと思いながら作って、
人に攻撃されそうになったら、それをガーって停止して、守って、みたいな感じに、
できるできないに対立、自分で常に結論を、論理的な結論を持ってないと、
っていう世界だとそうなっちゃうなって思うと。
たね
価値観を相手に合わせるというか、変えたい対象を壊していくには、
そこまで自分が行かないといけないというか、
相手の価値観に合わせたりとか、そこに一回言語をしないといけないようなところがあるのかなって、
ちょっと私は思っていて、日常生活で、つまり何を言っているかというと、
できる主義がすごい一般的な世の中で、
ヴィーガンっていうものをアピールしていったり、広めていこうってすると、
どうしても強くなきゃとか、強いプレッシャーに、
こちらもやっぱり強い形で戦えなきゃいけないみたいなところがあるなって思ってて、
だから、そこに対して難しさをいつも感じている。
ヴィーガンって何もできないでしょ、体が弱くなるんでしょ、みたいな社会的な圧がある中で、
むらた
いや、そうじゃないよって言わなきゃいけないみたいなプレッシャーがある。
っていうのがあるかなって、黒服くんとか村人さんが言ってたみたいな。
最近もまた言われた。ヴィーガンだよって言ったら、え?肉食べないで大丈夫なの?って言われた。
くろ
さやさんの言葉を借りるなら、ヴィーガンっていうのはほとんどの人にとって性の質を落とす選択というか、
落とすアイデンティティだというふうに理解されていて、
そこにもヴィーガンになることによってもそれを内面化しているし、
ヴィーガンに対して向けられる眼差しにも多分それが内面化されているっていう、
ちょっと複雑な状況を経験することになる。
ベジタリアンにしてもそうだと思う。
タヤ
さっきのさやさんがウロ覚えで言ってた。
たね
ごめんなさい。
ウロ覚えの引用で書いた。
またウロ覚えになっちゃった。
荷重ウロ覚えで。
むらた
荷重ウロ覚え。
タヤ
それで一回言ってください。何でしたっけ?
たね
肉を食べれる人に打ち勝つには、
こっちも肉を食べれる人じゃなきゃ社会的にはいけないっていう構造になってる。
社会構造になってるみたいな。
タヤ
それ聞いて、ちょっと違うようで同じなんかわかんないんですけど、
むらた
ことを思って、動物の置かれている状況について話すときに、
タヤ
安全にみんなにやられてるって人もものすごく少ないと思うんですけど、
特に動物の置かれている状況にすごい嫌だな、どうにかしたいって思ってたとしても、
例えば家族と暮らす選択肢しかなくて、
家族に食事を用意してもらわなきゃいけない。
家族に話すことができない自分、それをやめたい、動物を食べたくないとか、
話すことができなくて、
端的に言うとヴィーガンを実践できない、ベジタリアンを実践できない状況に置かれてる人が、
動物について語るっていうのを難しくさせてるな、させてるよ、今っていうのを表してる。
むらた
言葉としても呼び取れるなって思ったんです。
ちょっと終わった?
自分が、自分の食事を自分で用意するとかが難しくて、そういう場合に。
タヤ
ヴィーガンやれてないのに、ヴィーガン的な思想、搾取したくないっていうのを言うのは、
できてないのにそんなこと言っちゃダメなのかな。
むらた
ヴィーガンになれる主義みたいなのがある気がするね。
そうですね。
めっちゃヴィーガンに限らず、
そういう自分の立場を表明するときって、
かっこたる自分がこうやって貫いてますっていう事実、
これを勉強して実践して徹底してますっていうことがないと言っちゃダメみたいな雰囲気。
趣味とかでも、
このアーティスト好きって、この曲しか知らないのに言えないとか、
そこまで来ると、本当に趣味の話ですけど、
でも本当に、できてないと言っちゃダメ、知ってないと話題に出しちゃダメ、
みたいなことってありますよね。窮屈。
たね
そうですね。
ヴィーガン、でも定義を守りたいっていう気持ちもわかる。
すごい違和感を感じた、
表現、ヴィーガンっていう単語の使われ方を見たこともあって、
企業名だったらあれですけど、自然系というかオーガ荷ック三直系みたいな、
オンラインのスーパーみたいなやつで、
ゆるヴィーガンやりませんかみたいな、
でもその内容が本当に、少し減らすだけで環境が良くなりますみたいな、
むらた
少し減らすだけでみたいな前提にしてるのに、
たね
しかも永続的な理由をめちゃめちゃ前提としてたんですよ、その文章の中で。
これ絶対ヴィーガン使う文脈じゃないやろっていうところで使われてて、
むらた
そういうのに違和感を感じるって気持ちはすごくわかる。
たね
タヤすくんの言ってることもすごいわかるし、難しいな。
くろ
それもさっきの、相手を説得するために相手の動向に乗らないといけないっていうのと似てる気がしていて、
確かに今の状況を変えるっていうところに行くと、
そういった企業がそういうヴィーガンの使い方をしてるっていうのばかりだと変わらないっていうのがあって、
ヴィーガ荷ズム、さっきのヴィーガン能力主義みたいなのを批判してしまったんだけど、
それはそのやっぱり一貫性を持っていることとか、
論理的であることとか、合理的かつ十分に実践可能であることを証明できることとかっていうので、
今の社会、今の企業の論理だったり、政府の法律の論理だったりが動いているから、
そこを改めようとするとやっぱりそこに一回は乗らんといかんっていうのがあって、
そうすると多分、期待として自分たちの企業とか政府とかと対峙する。
その辺の行動、アクション、政府とか企業のアクションを評価するときに、そういうふうな厳しくなると思う。
相手の土俵に乗った論理でいつの間にか自分も企業とか政府を評価するときに、
できる主義の基準が働いて、それは全然良いんじゃないかなと思っていて、
自分の身近なところであんまり強くない人たちに対して、
ビーガ荷ズムの厳格なあれを求めるっていうのはちょっとしんどい感じになると思うんだけど、
強いところに対して強い判断基準を今一旦は設けていくっていうのは全然僕は問題があることだとは思わない。
多分それによってしか法の改正とかはできない気がしている。
たね
少なくとも自分はそれ以外のルートをまだ示せていないので。
むらた
上辺だけの言葉とかで判断するのって難しいですね。
くろ
あるいはヴィーガンって言ったときに、ヴィーガンじゃなくても動物倫理をやってますっていう動物に対する荒いですみたいな表明でもいいんだけど、
個人の力を過信しすぎているかもしれない。個人の力と個人が発する言葉を。
これもやっぱりできる主義の一つだと思ってて。
言葉を明確に明石に話せること語れることって歴史的にはまさに人間に人間特有の人間が他の動物に対して優位にあるっていうことを最も明るくするものとして言われてきたっていうのがあるし、
子としての強さ。個人としてどれだけのことができるか。いろんなことができて、人にも気づかれて、お金もそこそこ稼いでてみたいな。
っていうのじゃなくても、こんだけの多くの人がいるんだから、個人でそんな多くのことができなくても本当はいいんだけど、それを過剰に評価する社会っていうアンバランスな構造があって、
そこに個人として頑張りすぎて周りが見えなくなって、個人としてヴィーガンになることに期待しすぎている嫌いがある気がするから、僕はなんか最初はやっぱりゆるべじみたいなのはどうなのかなと思ったんだけど、
今のところなんかそれぐらいじゃないと集団の力っていうのを使うためにゆるべじみたいなものをやっていった方が長期的にはいいような気はしていて、
たね
自分の中でもこれは大きく変わったあれなんだけど、自分もかつてすごい個人主義と能力主義にとられていた人間ですよね。
くろ
マジでそう、マジでそう。
むらた
なるほど。
くろ
こうやって脱力して話せているけれど。
タヤ
確かに。
めちゃくちゃ今の私、ハッピーになっちゃった。
知りたくなっちゃった。
マジでそうだよ。
ごめん。
むらた
いや、お願いします。
タヤ
そうなんですよね。個人が、個人の力をすごい信じたくて、やっぱり自分がピュッとする選択ってこう、世界で違って見える。
実際こう影響力がすごいあるんだけれども、一人一人の力で変わるんだっていう、そういうのって、
それでね、くるさんが言う通り、一人一人もっとやれよみたいな感じになっちゃうから、すごい息苦しくなるときもあるから。
うまいよな。
全体で生きることがあるわ。
嬉しい。
むらた
ほんとそうですよね。
たね
もう一個ちょっとそれに思っちゃうのが、やっぱ私たちって連帯の仕方ってわかんなくないですか?とか、
繋がり方ってすごい難しいなって思ってて。
本当にこの市場経済って個人性みたいに日々働いてたり戦ってるみたいな意識の人がいる中で、
なんかこう、どうやって繋がればいいんだろうって、なんかその集団とか連帯?この本でも。
なんかあれ?連帯みたいな。そう、連帯って言葉結構出てくるんですけど。
くろ
なんか、連帯、むずい!みたいな。
たね
っていうのもちょっと思ったりして。
確かに子に期待しすぎだし、自分でもなんか結構子としてやっちゃうっていうか、
むらた
孤立させられてる気がするから。
たね
孤立させられてる中で繋がるっていうのも、一個なんか能力的な要素がある難しさがあるなーって。
くろ
それはそう。でもそれは構造の問題としてあって。
集団を集めて一つの目的に共通の目的を共有して、
ありがたいことにエースではそれができている。少しできていると思えてるんだけど。
っていうのにはすごいやっぱ時間とエネルギーを使うし、
それをやるぐらいなら自分でなんかやった方が早い。ある程度早いっていう部分もある。
そういう世の中になってる。それはでも、それがそういう世の中だから、そういう社会だから。
けどこの社会だけではないから、それはすごいこの社会を特殊だと捉えた方がいいのかもしれない。
歴史的にはこんだけ個人にプレッシャーをかけるような社会って、ほんのこの100年、もっと最近かもしれない。
この数十年に集中している気がしているから、
あんまりそこで何かがんじがらめにならなくていいような気がする。
むらた
連帯しなきゃっていう、そのしなきゃも覗いていい気がする。
くろ
人間はそんなになんか簡単にバラバラにされない。
すごい今、特殊な状況が生じていて、たまたまバラバラにされて、
むらた
バラバラにする側の力が強く働いているだけで、そんな簡単にバラバラにされないんじゃないかと思って。
くろ
特に根拠はない。根拠はないです。
たね
でもなんか素敵な考え。
むらた
いや、ほんとなんか、連帯とかつながりに希望を持ちたいっていうか、
人との関わりって、どこでつながるかもわからないし、どうやって続いていくかもわからないし、
先が読めなくて、そういう意味で自分でやっていくぞってやる方が未来が見えて、
できそうな気がしたり、やらなきゃって思ったりするんですけど、
絶対こう、人とやることによって、こんなところまで来れたっていうのがあって、
いやほんと、ちょっとしたこともそうですね。
ポッドキャストもこれも、なんだろう、
できるできないの話も絡めていうと、
ほんとリスナーの皆さんお察しの通りちょっと、
私そんなに喋るの得意じゃない気がするんですけど、
全然まとまらないな言葉って思うことばっかりで、
そういう意味で理想的な、理性的人間をこう、
なんだろう、据えちゃってる部分はあると思うんですけど、
それはさておき、個人で喋ろうとか、
個人でこんなこと喋りたいなみたいなのを準備してそれだけを出すより、
こうやってね、4人集まってみたらなんか、
そんな論点もあったってなるし、
それで私のこんな考えが触発されたっていうことがあって、
収録する前はどんな結論、結論というかどんな話をすることになるかわからないし、
うまくできるかもわからないんだけど、
でもそこに希望を持ちたいっていうのがすごい、
今もさっきも感じているところです。
自分のできなさも受け入れてできなきゃっていうのも手放ってみたいな、
はい、思いました。
たね
今日もヴィーガン手巻き寿司とかを一緒に作って食べれるくらいには、
むらた
本当につながれてるなっていう感じなんです。
ヴィーガン手巻き寿司パーティー5です、今。
うなたとたねは、東京メンバー。
くろ
それがなんかすごい大事だと思ってて、
食べることのつながりって動物的なつながりだと思う。
この本の中でも一つのテーマが自分の動物的な部分、動物性を受け入れるっていうことだと思うんだけど、
たぶん頑張っちゃうと言葉とか理性とか論理的思考とか学問的影響性とか、
ハードルの高いところでつながろうとするんだけど、
食べるとか一緒に、僕がシェアハウスに住んでるのはそういうのに惹かれてると思うんだけど、
近くで寝るとか、無理に近づこうとしなくても、
シェアハウスぐらいの距離感で生活するとか、
それぐらいのつながりで十分つながりと呼べるものだと思っていて、
動物的なつながりみたいなのが、この本の大事なテーマの一つとして、
読んで受け取れた気がしています。
むらた
健常者中心主義だったり、理性修行主義みたいなのだと見落としがちですけど、
本当になんかこう、フィーリングでつながれる感じ、大事ですよね。
つながるかわかんないですけど、
私、手話話者の友達がいて、
会社の同期なんですけど、
同期何人かで集まって喋るときって、
上手くいく場合と、ちょっと上手くいかないなっていう時があって、
上手くいかない方は、
手話話者じゃない方に会わせてもらおうとしちゃうとき、
そこのマジョリティの方のペースでどんどん会話進んじゃうときは、
ちょっとなんかこれ良くないなって感じるときなんですけど、
逆にすごい今いい感じっていうのは、
なんだろう、その手話話者の子に合わせて、
同じようなこのコミュ荷ケーションの仕方で、