00:04
むらた
さあ始まりました、なんでも倫理ラジオです。このポッドキャストは、動物と倫理と哲学のメディア、ASがお送りします。
進行は私、むらたです。よろしくお願いします。
はい、今日のメンバーは、こちらの皆さんです。
竹下
はい、竹下です。
竹下
コットンです。
仲間 礼
礼です。よろしくお願いします。
むらた
引き続きこちらの4人で進めてまいります。
前々回からですね、ヴィーガンになるべきかについて考えるシリーズをお送りしております。
まず最初に軽く前回までの内容をさらっておきたいと思うんですけど、
シリーズの1回目は、そのヴィーガンになる理由に関わるところで、工場畜産の現状についてコットンさんに紹介していただきました。
日本の採卵鶏、卵を取るための鳥を主な例にしていただいてお話いただきましたけど、
そのほとんどが一生を羽根を伸ばせないような、体の向きも変えられないような狭さ、
B5サイズの面積というのが出ましたけど、
そんな狭さで過ごすことだったりとか、
痛みを伴う処置をされること、劣悪な環境で病気や怪我の発生率が高いこと、
輸送中とか屠畜前の過程でも食事や水を与えられないで長時間放置されるとか、
屠畜の際もですね、約9割の処理場で意識を失わせる工程を省いて、鳥の首を切る処理をしていたり、
生きたまま熱湯に漬けられていたり、などなどといった現状を紹介していただきました。
その次、前回はですね、竹下さんにバトンタッチして、
この工場畜産の現状について倫理学の中心的な3つの理論からだとどういう評価ができるのかというところをお話しいただきました。
その3つの理論からどんな評価したのかというのを軽くさらっておくと、
一つ目の功利主義は一番幸福を増やすっていうことがいいとするので、
人口を上回るような、今畜産動物の数がいたり、
工場畜産が現状を生み出している苦痛の大きさだったりを考慮すると、
03:00
むらた
工場畜産は悪いと言えますねっていうことで、
2つ目の権利論、義務論とも呼ばれたりということですけど、
権利論からだと、ある存在の権利を侵害したかどうか、
人間だけでなく動物も含めた生の主体を尊重したか、
何かのための道具として扱わなかったかっていうところを大事にするので、
この権利論からも動物を食料生産の手段にしている工場畜産は悪いですねということになって、
最後3つ目の徳倫理は、
人間は徳のある行動をしたかどうか、
正義とか思いやりっていう徳が例に挙げられましたけど、
そういったところから考えると、
徳のある人だったら、人間に対してだったら
あり得ないような苦しみに満ちている工場畜産はやめるべきだと考えるだろうと、
徳倫理からも工場畜産は悪いと言えるでしょうということに、
そういうことを結論を導きました。
このようにどの理論からも工場畜産が悪いという結論が導かれたということが、
前回の内容でした。
この3つ目の徳倫理は曖昧に感じられるけど、
逆にいろんな文脈を放流できて、
今日これからする議論にも来てきますよなんて話もちらっと出たりしてましたが、
今回じゃあ何を議論するのかと言いますと、
このシリーズの本題ですね。
私たちはヴィーガンになるべきなのかについてついに話していきたいと思います。
前回まででひとまず工場畜産は悪いと言えたけれども、
じゃあ私たちのこの実生活に立ち戻ってみると、
動物性のものを実際に取り入れること、購入すること、消費することが悪いということになるのか、
ヴィーガンするべきだということになるのかどうかということが今日の話題です。
06:03
むらた
リスナーの皆さんも気になるかなと思うんですけど、
私もヴィーガンできるだけしている身としても、
ちょっと本当にこの実践に意義があるのか気になるところでありますので、話していきたいなと思います。
今回も竹下さんに倫理学的なところ、いろんな議論を紹介してもらいながら議論を進めていければと思います。
ということで竹下さんにバトンタッチしてよろしいでしょうか。
竹下
大丈夫です。
今日はその購入とか消費とかの部分の、まさにヴィーガンという実践そのものみたいなところについての議論を紹介していこうと思います。
今回の内容ですけど、基本的には前回話した功利主義、権利論、徳倫理で、
それぞれからその消費の倫理について何が言えるのかっていうのを順番に話していきます。
先にちょっと結論を、一応予定している結論を少し言っておくと、
功利主義と権利論からはヴィーガンになるべきだというのは少し難しいというふうに言います。
徳倫理についてもちょっと難しいんですけど、
徳倫理は功利主義とか権利論とは全くちょっと違うアプローチで議論することによって、
いくらかそういうヴィーガンを擁護することに成功するんじゃないかということを話そうと思っています。
ただここでそのコットンさんとかレイさんとか3人と話す中で、
もしかしたらそういう議論に批判がうまく成功して、
逆にヴィーガン擁護の方にいくかもしれませんし、
これはちょっと収録してみないとなんともというところなので、
実際に話していこうと思います。
むらた
そうなるといいですね。
竹下
ちなみに先に私自身の立場を述べておくと、
私自身はヴィーガンですし、
ヴィーガンという生活を功利主義から擁護できるというふうに思っていますけど、
その話をするにはすごく通学的にテクニカルな話になってしまいすぎるので、
今日はそこまでの話はせずに、
割とそんなに難しくない範囲で頑張ろうと思います。
ここから1個重要な仮定を置きます。
今回、まず前回生産、その工場畜産って悪いよねという話をしました。
それはもうどの理論からも言えるということを確認したので、
工場畜産は不正であると。
工場畜産を行っていること自体はもう道徳的に間違っている。
そしてそこから購入することが、
その工場畜産由来の何かを購入することが
09:02
竹下
道徳的に間違っているかどうかというのを今日は話していきます。
だから工場畜産が道徳的に間違っているんだったら、
それは購入だって悪いでしょって素朴には思うかもしれませんけど、
それはちゃんと主張しなきゃいけない、擁護しなきゃいけないことなので、
それをどうやったら擁護できるかということですね。
じゃあ、功利主義から考えていきましょう。
功利主義というのは何だったかというと、
最大多数の最大幸福とか言われますけど、
あなたがした行為によってその結果、その行為の結果、
幸福が最大化されることであればそれが道徳的に正しいし、
そうでないなら道徳的に間違っているというような理論でした。
だとするとですね、購入をすることによって、
それが道徳的に間違っているというふうに言うためには、
購入することが購入しないよりも、
結果、行為の結果の幸福を下げるみたいなことが言えればいいわけですね。
これは素朴には工場畜産を促進してしまう、
工場畜産の生産量を増やしてしまうっていうことにつながるということが言えるのであれば、
法律主義から購入消費っていうのは、
肉の消費っていうのは道徳的に間違っているということが言えるわけです。
でも、そう簡単には言えないというのが、ここから今から話すことです。
まずですね、ちょっとお店に行って、
肉とか卵とかを購入する場面をちょっと考えてほしいんですけど、
その1個の購入って、おそらくそれを購入する、
おそらくそれを購入する肉のパックがあってですね、
私はもう7,8年ぐらい買ってないですけど、
この肉のパックがあって、
これをあなた1人が今日買うか買わないかっていうのを、
どっちでもいいですよ、買っても買わなくても、
おそらくお店の仕入れ量っていうのは変化しないように思われるわけですね。
通常お店の仕入れ量の変化っていうのはもっと幅のある、
だから1人の購入によって、
仕入れ量が変化するような、そんなセンシティブな、
その敏感に反応する、
消費者がどれだけ購入したかっていうのに、
敏感に反応するようにはなってないと思われるわけです。
そうするとですね、あなたが購入してもしなくても、
お店の仕入れ量は変化しないと、
肉とか卵の仕入れ量は変化しないと。
お店の仕入れ量が変化しないとどうなるかというと、
生産量ももちろん変化しないわけですね。
だってお店の仕入れ量が一定なんだったら、
生産量もそのおのずと一定になっているはずなんで、
生産量が変わらないと。
先ほど私は功利主義から考えたときにはどうなるかって言ったら、
あなたが購入したことによって、
工場畜産を増やしてしまう、
工場畜産の生産量を増やしてしまうんだったら、
道徳的に間違っているって言えるけど、
でも今の話を元にすると、
あなたが1回この購入をやめるかやめないかっていう選択を変えただけでは、
仕入れ量は変化しない。
したがって生産量も変化しない。
となると、購入が道徳的に間違っているというのが、
12:01
竹下
功利主義から素朴には言えないように思われるわけです。
これがまず1個目の問題点ですね。
功利主義者はこれに対してどう反応するかっていうと、
いやいや、実際に変えるかどうかではなくて、
変える見込みがあるか、
変える確率が大事なんだっていうふうに言うわけです。
例えば、あなたが実際に購入するかしないかによって、
確かに毎回毎回そんな仕入れ量変化するようなところ、
購入者であるわけではないかもしれませんけど、
もしかしたら、購入を変化、
その仕入れ量を変化させる購入者である可能性は、
わずかにあると思われるわけですね。
そうすると、このわずかな確率を踏んでしまう。
わずかな確率に引っかかった場合には、
生産量を大きく、仕入れ量を変化させて、
したがって生産量も変化させるので、
道徳的に間違った帰結になってしまう恐れがあると。
功利主義者はここでは、
いわゆる期待値って言われるものを計算しますけど、
今回はそこまで詳しくは話しませんが、
その確率の見込みとその帰結の大きさ、
だから生産が増えたことによって増える苦痛の大きさを掛け算したものが、
功利主義者が考えるべき帰結の良さ、
結果の良さなんだというふうに言うわけです。
そうするとですね、
例えば1万人ぐらいの人が、
例えばそうですね、
じゃあ鶏肉の購入をやめたとしましょう。
そうすると、
例えばじゃあ生産量が、
そうですね、
じゃあ1万はそのまま変わるとしましょう。
ちょうど1人1羽ぐらい飼ってるみたいな、
それぐらいの対応関係にあるとしましょう。
1万人購入をやめれば1万羽減るのであれば、
あなたがこの1万人の中の1人である確率は、
1万分の1ぐらいなわけですね。
その仕入れ量を変化させるのが1万人必要なのであれば、
この1万人のどこかにあなたがいる確率が、
大体1万分の1と言えそうですね。
1万分の1の確率で、
あなたは1万羽の鶏を救うことができると考えましょう。
そうするとこれは期待値っていうのを計算すると、
この1万分の1かけ1万なので、
実質1なわけですね。
1羽の鶏を救うことができると。
この1羽の鶏が工場畜産で受けている苦痛というのは、
おそらくあなたがその鶏肉を食べることで、
得られる快楽の量よりは大きいはずなので、
1羽この救うこと、救う見込みがあるということが言えるのであれば、
あなたの購入はやはり道徳的に間違っているんじゃないか、
ということが言えそうです。
ちょっと今のは難しかったと思うので、
もう一度確認しておきます。
1万人の人がいたとします。
この人たちが鶏肉の購入をやめれば、全員やめれば、
1万羽の鶏が救われるとしましょう。
この仮定は大事で、
15:00
竹下
1人が購入をやめたところではおそらく仕入れ量は変化しないだろうし、
2人3人ぐらいが変わってもおそらく変化しないけど、
大勢の人が一気に購入をやめれば仕入れ量も絶対減らすはずなので減らすだろうと、
仕入れ量が減ったら生産量もそれに対してある程度減るだろうということが期待できる、
そういう見込みがあるわけですね。
なので1万人の人が鶏肉の購入をやめれば、
1万羽の鶏が救うと、救えると、
要するに1万羽分の鶏の生産量が減りますよというふうに仮定できそうです。
これは要するに1万羽分の苦しみを減らす、痛みを減らす、苦痛を減らすということになるわけですね。
ところで実際に1万人この鶏肉の購入をやめるかどうかっていうのは、
あなたの視点からはよくわかんないわけですね。
実際あなたは1万人を確認できるわけではないので、
だからあなたがお店に行って何か購入しようと鶏肉を購入するかどうかを考えているときには、
自分がその1万人の最後の一人かどうか、
つまり1万人やめれば1万羽救えるんだったら、
9999人までは仕入れ量の変化に全く違いをもたらさない。
9999人の行為は苦痛を減らすことにつながらないですけど、
1万人目であれば1万羽分の苦しみを減らす閾値を踏むことができると、
その購入仕入れ量を変える人になれるわけですね。
で、素朴にはこの1万人目である確率は1万分の1だと思われるわけですね。
1番目、購入者1番目である確率はおそらく1万分の1だし、
2番目である確率も1万分の1だし、
で、てんてんてんって全部1万分の1って言えそうです。
だから1万人目、その購入、閾値、仕入れ量、お店の仕入れ量を変化させる購入者である確率は1万分の1ぐらいだと思われる。
そうすると1万羽救えるわけなんで、1万羽と1万分の1をかけて1でなると。
つまり1羽分の鶏の苦痛をあなたは減らす見込みがあるっていうことが言えると。
むらた
すいません、この1万人が鶏肉の購入をやめれば、1万羽の鶏が救えるっていう仮定で、
この閾値を踏むっていうのは、
鶏肉を買うことで、生産量、仕入れ量を増やすっていう方のトリガーになってしまうっていう意味であってます?
竹下
そうですそうです。増やしたり減らしたりっていうトリガーになってしまう可能性があるわけなんで、
そのトリガーになるかどうかの確率が1万分の1だと考えれそうですねっていうことになると。
18:05
むらた
なるほど、なるほど、なるほど。
竹下
コットンさんどうぞ。
竹下
その閾値があるっていうのは、企業の調達担当者が、
この鶏の消費量が1万羽に足したら、さらにもう1万羽注文しようとかって考えるわけ。
その意味での閾値ですよね。
竹下
そうです、そうです。
お店はだってもっと儲けたいわけなんで、できる限り最適な閾値、仕入れ量を考えたいわけですね。
最適な仕入れ量を考えるにあたっては、
例えば今月どれぐらいの人が鶏肉を買ったかみたいなデータに基づいて考えると思われるんですね。
データが1人分しか違わないとか、2人分しか違わない時とかだったら、
そんな微細な変化で仕入れ量が変化するとあまり思えないわけですね。
なので、ここでは仮定として1万人ぐらいの変化によって、
仕入れ量も変化したと仮定しましょうというふうに考えているという感じです。
ちなみにこの1万は、そんなに1000とか100とかでもいいと思います。
それに対応する鶏の数も変わる。
例えば1万人であれば、1人1羽分ぐらい飼っていると考えるので、
1万だったら1万羽だし、1000人ぐらいの変化で仕入れ量が変化するんだったら、
それは1000羽分だし、100人だったら100羽分だし、
っていうふうに対応関係があるというふうに考えてもらったらいいと思います。
という単純な仮定を置いてます。
なので、この人数はそんなに重要じゃなくて、
とにかく大勢の人が変わったら、それに対応する分だけの鶏の苦痛を減らすことができそうだと。
この大勢の中の1人である、つまり仕入れ量をどんぴしゃ変化させる購入者である確率は、
その人数分の1だと思われるわけですね。
だから1万人だったら1万分の1だし、1000人だったら1000分の1だし。
これで期待値をごちゃっと計算すると、だいたい見込みが1羽分ぐらい救えるんじゃないですか、
っていうことが言えそうですと。
で、この鶏1羽分の苦しみの量というのは、
鶏1羽分から得られた肉によって得られる快楽よりはおそらく大きい。
苦しみの方が大きいので、購入した方が苦しみを増やす見込みがあると。
苦しみの方が大きいわけですからね。
だから購入は間違ってる。
だから鶏肉の購入は間違ってるねってことが言えるかもしれません。
コットンさんどうぞ。
竹下
逆に減らすことによって、自分が鶏の肉の購入をやめることによって、
担当者が1万羽の鶏の注文をキャンセルして、
鶏を救うことにもなるわけですよね。
21:01
竹下
逆方向にも考えられるってことですよね。
竹下
この閾値はどっちかに、増やす閾値と減らす閾値って事実上ほぼ一緒なわけなんで、
あなたが購入をやめて閾値を踏む場合と、
あなたが購入をして閾値を踏む場合、
どっちでも別に議論しても同じ結果になると思います。
竹下
だからやめることによって救われる鶏がいる期待、
救われることが期待もできるし、
やめることによって増やさないことも期待できるっていうことですね。
むらた
分かってきました。
竹下
功利主義が大変なのは、こういう計算を逐一しなきゃいけないというところで、
そしてそれこそが功利主義が不評のもとのある、
道徳なんていうのはこんな計算に基づかないよってみんな思いがちなので、
こういうところが功利主義が嫌われ要素なわけですけど、
それは置いといて、
とりあえず今みたいな単純な過程を置けば、
功利主義からヴィーガニズムを擁護できる、
つまりその鶏肉買ったらいけません、
買うことが道徳的に間違ってます、みたいなことが言えそうです。
むらた
言えそうですね。
竹下
ただ、どう考えても問題は、
こんな単純な過程を置けるんですか?っていうことなわけですね。
一番問題なのは、
例えば1万人の人によって、
100人でもいいんですけど、
100人とか1万人とかが購入をやめたり、
あるいは購入したりすることによって仕入れ量が変化するって時に、
あなたが仕入れ量を変化させるドンピシャの購入者である確率っていうのは、
そんな単純に人数分の1、
例えば1万人分の1とか、
1000人分の1みたいなふうにはならないだろうと。
なんでかっていうとですね、
例えば、まずお店に行けばですね、
肉がどんぐらい余っているかとか、
肉がどんぐらい売り切れてるかとか、
だいたい何となくはわかるわけですね。
逆に、それなりの数が置かれてたりすると、
自分は仕入れ量変化させる端っこの人じゃなくて、
仕入れ量変化までまだまだありそうな、
中間ぐらいの購入者である確率がありそうなわけですね。
お店に何回も行っていれば、
そういう商品の並び量とかから、
なんとなく仕入れ量の変化させる閾値あたりかどうかな、
みたいなのは察せることができるわけです。
もちろん確信は持てないと思いますけど、
それなりに、なんとなく自分はこの辺かな、
みたいな推測ができそうです。
さらに、通常そんな1万人ドンピシャで仕入れ量変化させるみたいなことは、
ちょっと考えにくいとも思われるわけですね。
なんとなくこの辺に幅を持たせてそうな感じがするわけですね。
例えば1万1000人から9千人ぐらいとか、
そういうちょっと幅を持たせて、
この辺りをさらに大きく超えたりしたら、
24:02
竹下
仕入れ量を大きく変化させるけど、
この幅ぐらいに収まってるんだったら、
仕入れ量変化させなくてもいいよねとか、
そういうちょっと緩衝材的な閾値、
そんなドンピシャの閾値じゃなくて、
緩衝材的な感じになっていそうです。
そうすると、こういった要因っていうのは、
あなたが仕入れ量を変化させるドンピシャの購入者である確率が、
1万分の1とか1000人分の1よりも、
さらにもっともっと小さいことが考えられそうです。
この確率が小さくなっていけばいくほど、
苦しみを増やす期待値、苦しみを増やす見込みが、
どんどんどんどん小さくなるわけですね。
その苦しみの量は変わらないですけど、
確率が小さくなっていくわけなんで、
確率とその苦痛の大きさを掛け算すると、
確率が小さければ小さいほど、
その見込みも小さくなっていくと。
おそらくあるところで、
鶏肉から得られる快楽の量の方が大きくなるところが、
多分出てくるはずです。
これはおそらく結構早めに出てきそうだと思われるわけですね。
もちろん、ヴィーガンやってもう十数年とか、
もう5、6年とかいうふうになってくると、
鶏肉を食べること自体に、
そもそも苦痛を覚えている人がいるかもしれないんですけど、
今、我々は今まだヴィーガンになっていない人が
ヴィーガンになるべきかどうかというのを考えているわけなんで、
そういう人たちが鶏肉から快楽を得られるっていうのは、
それなりにもっともらしいと思われるわけですね。
そうすると、この鶏肉とか肉とか卵とかから
得られる快楽の見込み、これは100パーですよね。
だって買って食べたら絶対快楽を得られるわけなんで、
これは確実な量と大きさとしてあると。
で、苦しみの見込み、
こっちは確率がどんどんどんどん小さくなっていくほど
苦しみの見込みは小さくなる。
そうすると、おそらく快楽のほうが大きくなる。
味覚の楽しみのほうが見込みとして大きくなるようなことになる可能性が
非常に高くなってきます。
そうすると、功利主義者は何というかというと、
むしろ肉買うべきですというふうに言わざるを得ないことになる可能性があります。
つまりこれはもう見込みの問題なので、
そしてこういう計算に基づく限りでは、
あなたがどんぴしゃのその仕入れ量を変化させる可能性がある
その確率はめちゃめちゃに小さいと思われる。
1万分の1よりももっと小さいと思われるので、
そうすると見込みとしては、つまり帰結、結果の良さとしては
購入したほうがむしろあなたにとっていい。
購入者にとって快楽が大きいわけなんで、
そっちのほうがいいだろうという風になる可能性があります。
なので功利主義からビーガニズムを擁護するっていうのは
そんな簡単な話ではないよというのがここまでの話です。
むらた
なるほど。
前回までの話だと工場畜産は数的にも明らかに悪で、
27:01
むらた
人間が得られる快楽だったり、
職につけるっていう意味での利益だったりっていうのに比べたら、
この工場畜産による動物の
苦しみのほうが明らかに大きいでしょっていう話だったのが、
一人の消費行動になると、
自分の快楽と、この肉片を購入した時に、
これに値する苦しみがどのくらいか、
だから一匹救う分の、一匹の一生の苦しみ分の
ほんの少し、対自分の快楽ってなって、
だいぶ話が変わってくるのかっていうので、
ちょっとびっくりですね。
竹下
本当に問題のポイントはまさにそこで、
功利主義者、功利主義理論はおそらくその制度とかに対しては結構、
実はこれはこれで本当は難しいんですけど、
制度って大きな影響を与えるんで、
それについては帰結のその良さを大きく変化させるように思われるわけですね。
だから功利主義を禁止するみたいなのは、
制度設計として望ましいように思われるわけです。
それは功利主義だから結構簡単に言えそうです。
でも、個人の消費行動っていうのは、
その結果を大きく変えるものではないし、
まさに我々のサプライチェーン、フードサプライチェーン、
つまりそのこの食品がどう運ばれてきて、
どういう風な生産と消費がつながっているかみたいなので、
一人の消費行動の変化では簡単に変わらないような設計になっていると思われるんですね。
それはまさに帰結、その結果に影響を与えない、
これは因果的無効化、無効力っていう風な専門用語で議論されているものですけど、
そういった形で功利主義からは個人消費の行動の倫理というのは結構言いにくい、
というのが出てきてしまうと。
むらた
なるほど。
竹下
コットンさんどうぞ。
竹下
逆に言うと制度という側というか、
竹下
例えば企業とか政府に関して言えば、
なるべく工場地域をなくしていくように行動すべきということは、
割と功利主義から出てきやすいということですかね。
むらた
はい、私はそう思っています。
竹下
ありがとうございます。
あと、個人の消費の期待行為を下げる、下がる理由として、
スーパーの店頭の様子から大体、
自分が一万人目かどうかだいたい見込みが分かるって話があったと思うんですけど、
それは例えば、卵だったり肉だったりがいっぱい店頭に余っている場合には、
30:02
竹下
自分が一万人目なる確率が見込みが高い、
逆に残り物が少なくて、
みんながそれを買っているようだって思うんだったら、
自分が一万人目になる確率は見込みが低いって、
そういう対応関係というか、
そういう風に考えればいいんですかね。
そうですね。どれだけ余っているかって結構難しくて、
だって通常店のバックヤードにおそらく保管されている量がいくらかあるはずで、
店頭に並んでいる量だけでは結構分かりにくいかもしれないわけですね。
それはもちろんお店の開店時間、閉店時間に並ぶかどうかとか、
そもそもお店の仕入れタイミングがどういう時期にあるかとか、
そういうのにも大きく関わってくるので、
これ自体は簡単に言えるものではないですけど、
そういった推測はなんとなくぐらいはできるだろうという感じですね。
なるほど。
今言ったように、
一つの店舗の様子だけからは、
なかなか見込みって出しにくいのかなと思ったりもするので、
それに一つの店舗の状態からっていうのは、
自分の見込み、期待行為に対する影響はそんなに大きくないのかなって、
今なんとなく思いました。
どうですかね。
でも実際のところ、
自分がお店に行った時に、
スペースが広がってるなとか、
狭くなってるなみたいなのって見ることあると思うんですけど、
棚の数増えてるなとか、
そういうのは結構いわゆる仕入れ量の変化とかが起きたケースになるわけですよね。
で、そういうのを我々は何度か経験していると思うんですよ。
で、それにはお店に何回か行ってれば、
それなんかいつも売れてるなって思ってたら、
あ、仕入れ量変化したわみたいな気づきがあると思うんですよね。
で、これはある意味でなんとなく我々はそういうのが推察できると。
で、さらにこれが大事なとこですけど、
一般にそんな仕入れ量の変化を目にすることってあんまりないと思うんですよね。
で、これは我々にとっては不都合な事実で、
仕入れ量変化することってそもそもそんな起こらない。
しかも私がそんな起こらないことの引き金を引く購入者である確率は、
おそらくさらにもっと小さそうってことになってしまうので、
先ほど言ったような人数分の1みたいな簡単な仮定よりは、
もっと確率が小さくなるだろうということが言えるかなと思います。
なるほど。ちょっとヴィーガンになるべきかどうかとちょっとずれますけど、
平飼い卵に関しては仕入れ量の変化って結構体感で感じるんですよね。
この数年で割と、例えば東京で言うとマイバスケットっていう、
どこにでもあるようなスーパーが平飼い卵を置き始めたりとかして、
それを感じてるってことは、自分がそれを買うことによって、
平飼い卵の調達量を増やす期待値っていう、
かなり高い期待値を持っているってことなのかなっていうふうに、
話を聞いて思ったのと、あと大豆ミートとかヴィーガン製の製品に関しても、
33:02
竹下
調達量の変化っていうのは体感で感じられるので、
そういったものの購入っていうのは、
自分が調達に影響を与えられる期待値っていうのは、
高く見込めたりするのかなって思ったりしました。
はいはいはい。その点は今日はあまり話さないでおこうと思ってましたけど、
関連した論点なんですけど、まず一つは、
この閾値の議論は経験的なその実証データに基づかないと、
基本的には議論できないことなので、
本当はもっとデータ取って考えなきゃいけないと。
こういうところが功利主義のめんどくさいところでもあるわけですけど、
ちゃんとデータ取って数値で考えましょうというのが、
功利主義の議論の大筋なので、
それをやるのは結構大変。
できないことはないだろうとは思ってますけどね。
もう一個は、
おっしゃってくれたように、おそらくそもそも需要が小さい、
それにして仕入れ量も小さい場合には、
閾値もおそらく低めに設定されていて、
仕入れ量がおそらくかなり変化しやすいタイプのものだと思うんですね。
そういう意味では、
おそらく多分まさに実感している通りになっている可能性は、
多分高そうだとは思います。
むらた
肉卵の閾値を踏むっていうのは、
なかなか確率が低そうですけど、
例えば別の方法で、
大豆ミートを置いてくれませんかみたいな要望を出すとか、
別の確率の高い期待効用が高い行動っていうのも、
別にあるのかもなって思ったりもしました。
もうおっしゃる通りで、
竹下
そもそも今は肉の購入の話しか今回は最初しなかったわけですよね。
それでその見込みは小さそうだからあんまり意味ないねっていう話をしたわけですけど、
ここから言えることは、もっと実は有効なことができるんじゃないか。
単に消費行動をやめる、肉買わない、卵買わないっていうふうにやめるだけじゃなくて、
お店に要望を出すとか、
あるいはそもそも一人でやるんじゃなくて、
もっといろんな人を誘って、
誘うという行為もね、
功利主義的に評価されなければならないわけですけど、
誘って人数を集めて変化を起こすみたいなことは、
その見込みをめちゃめちゃに高めることができるわけですね。
だから功利主義から言えるのって、
もちろん肉買うことって道徳的に間違ってないかも、
みたいな結論が出てきてしまうのはもちろんそうなんですけど、
同時に、もっと実は有効なことができるんじゃないんですかっていう指針を
功利主義はおそらく示している可能性が高いです。
で、その一つは、たとえばお店に要望を出す、
お店に要望を出す、
人を誘う友達に対してビーガニズムを説得することによって、
人数を増やしていくことで、
その閾値を踏む確率を高くするとか、
そういった実践が実は功利主義から求められる可能性が高いだろうと
36:03
竹下
いうふうに私は思っています。
レイさんどうぞ。
竹下
すみません、ちょっと話戻って、
竹下
また確認みたいになっちゃうんですけど、
竹下
功利主義とヴィーガニズムの違いというのは、
はい、すみません、ちょっと話戻って、
また確認みたいになっちゃうんですけど、
今回のテーマってヴィーガンになるべきなのかっていう
あれだと思うんですけど、
この質問をテーマをもうちょっと
なんていうの、細かくして、
あなた一人がこのタイミングで
肉を買うか、買わないか、ヴィーガンになるかっていう質問の場合と、
一般論として皆さんがヴィーガンになるべきかっていう質問だったら、
やっぱり功利主義から変わってくるってことになりますか?
今のまとめると。
一般論として、
例えばみんながそうしたらどうなるかっていう
ルールとかについて考えるんだったら、
その功利主義者は
一回一回の行為じゃなくて、
みんながこれに従えばって考えるなら、
皆さんヴィーガンになりましょうって言うけど、
一方で、
ある人と功利主義者が1対1で
アドバイスを受けているときに、
この肉買うのはあなたの行為を高めるからいいんじゃない?
みたいなイメージで聞いてたんですけど、
あってますかね。
竹下
これは、私は今、
竹下
今回の議論を行為功利主義と呼ばれるようなタイプの
功利主義に限定して議論をしています。
先ほどおっしゃってくれたような、
もしみんながしたらどうなるかみたいな
ルールを考えるって言ったときには、
2つの考え方があります。
1つ目は、まさに制度設計みたいな話を
行為功利主義として考える。
だから、企業とか政府の人たち、立法者とかが
どういう制度を設計するかっていう、
この人たちの行為の視点で
ルールとか制度設計を考えるっていうやり方が1つ。
これは行為功利主義にとどまった状態のままなわけですし、
前回、工場畜産の不正さについて話したときには、
大きくはそういう話を私はしていました、実は。
あまり明示化しなかったですけど。
もう1個、
功利主義には実はいろんなタイプがあって、
そのうちの1つには規則功利主義、
ルール功利主義と言われるようなものがあります。
これはみんながしたら、
実際の制度設計とは別に、
もしそういうルールがあるとして、
それにみんなが従ったんだったら、
みたいな過程を置いたときの
規決、結果の良さみたいなものを考えて、
例えばそういうルールに従ったほうが良くなるというような場合には、
我々はそのルールに従うべきだ、みたいなものが
規則功利主義っていう考え方になるんですけど、
そういった考え方をすると、
実はこういった個人の消費の問題を
集団のみんながどうしたらどうなるかっていう問題に置き換えることができるので、
まさにそうすると、
先ほど私がもし1万人の人が
鶏の肉を買うのやめれば、みたいな過程を話したわけですけど、
それをそのまま規則功利主義者たちは使うことができるので、
39:01
竹下
そっちのほうが言いやすいと思います。
なんで私はそっちの話をしなかったかというと、
私は規則功利主義が間違っていると思っているので、
その話はしなくて、
行為功利主義から、それからしかも一番デフォルトの功利主義のタイプなんで、
そこから話をしたというような感じになります。
仲間 礼
ありがとうございます。
ちょっと追加質問、ちょっと似てるかもしれないんですけど、
竹下
今は厳密に学問的な研究的な問いとして、
冷静な考えで、
ヴィーガンになるべきかどうかを話していらっしゃると思うんですけど、
例えば竹下さんが100人、100人とかの規模の講演会に呼ばれて、
同じテーマで話してくださいって言われた時には、
功利功利主義者としても、
規則功利主義だったらそう言えるかな、当然。
本当はそうは思っていないかもしれないけど、
皆さんに影響を与えられるっていう考えで、
ヴィーガンになるべきだっていうふうに功利主義者は考えますけど、
ちょっと僕だったら、そういう計算を働かせていった方が、
全体的な行為を高める、幸福を増やすって言えそうだなって思ったんですけど、
ありますかね。
竹下
そうですね。
竹下
そうすると思います。
難しいですね、これは。
今のとこ私はそんな大勢に影響を与えられるような人間にまだなれてない、
そういう地位にはまだいないので、
あまりそういうふうには考えずに、
私自身も研究者なので、
研究者としてやっているところが割と大きいですけど、
講演会とかで話す時には、
そもそもこんな複雑な話はしない可能性が一番高くて、
まさに前々回コットンさんが、
工場畜産の話をしてくれましたけど、
基本的にやっぱりそういう事実を知ったら、
みんな変わると思うんですよね。
こんな複雑な哲学的な議論なんかせずとも、
そんなひどいのかってなったら、
みんな購入をいくらか控えるようになると思うんですよ。
なので、実は功利主義とか権利論とかわざわざ言う必要はなくて、
その事実だけでヴィーガンになることが、
ヴィーガンじゃないにしても肉食を減らしたりすることが多分多くなるだろうとは思っているので、
その話でとどめておくぐらいがいいんじゃないかっていうのが一つと、
これは後で話しますが、
こういう話が徳倫理と関わってくるという形になっていくと思います。
仲間 礼
ありがとうございます。
むらた
本当にこういう細々した議論をぼにょぼにょやらないで、
こういう事実があるからっていうので、
一発で人々の行動が変われば最高だなっていう。
42:03
竹下
おっしゃる通りですね。
むらた
いや、ありがとうございます。
功利主義についてはこんなところでしょうか。
はい、そのようで、はい、ですね。
まあまあでも、もっと効果的な、効率的な影響の及ぼし方があるかもしれないっていうのは、
結構示唆的だなと思うので、そういう意味でも勉強になりました。
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