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2025-03-03 45:04

#24-5 ヴィーガンになるべきか?:工場畜産を知ったわたしはどう生きていくべきなのか【消費の善悪を考える - 徳倫理編】

シリーズ「ヴィーガンになるべきか」の最終回! 徳倫理は肉の購入をどう評価するのか!


今回は動物性食品を購入することはよいのか、悪いのかを徳倫理の観点から考えます。


#24-2では倫理学の三大理論から工場畜産を評価し、どの理論からも「工場畜産は悪い」と言えることを学びました。

では工場畜産で作られた肉を購入することも悪いと言えるのか?

今回は徳倫理から考えます!  理想の人間像という、功利主義・権利論とは異なる観点からのアプローチ🧘‍♂️ みなさん一緒に自己吟味していきましょう!



※工場畜産について 👉 #24-1「その卵の生産過程を知っていますか?ー工場畜産の現状」

※徳倫理について 👉 #24-2「三大理論を学んで工場畜産を評価してみよう」


三大理論についてまとめたブログ記事を我々(AS - 動物と倫理と哲学のメディア)のサイトで後日公開予定です。

ご活用ください!

https://animotethics.com/blogs



参考ブログ:


参考文献:


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徳倫理に希望を託して / 功利主義・権利論にはなかった視点 =「わたしはどういう人間でありたいか」/ 結論は個人の描く理想の人間像次第? / 「ヴィーガンになるべき」を導くには何ステップか必要 / 肉を食べてしまうことはあるけど自分が残酷だとは思わない / 屠殺を他人に任せる悪徳・狩猟の徳? / 有徳な人物なら他人にも働きかけるか / 自己吟味といっても一定の制約がある / 複雑なものを複雑なまま説明するのが徳倫理 / ヴィーガンの自己説明に役立つ / 結局は「工場畜産の現実を知ったわたしはどう生きていくべきなのか」  / 「消費が悪くない」と言えるような議論をしていていいのか?

サマリー

今回のエピソードでは、工場畜産の残酷さを理解した上で、徳倫理に基づく消費者の行動や自己理解について考えています。特に、動物性食品をどのように見直すべきか、そしてヴィーガンになることの倫理的な側面について議論されています。このエピソードでは、工場畜産の現実を踏まえながら、ヴィーガンになるべきかどうかを自己反省しつつ考察しています。また、徳倫理の視点から有徳な人物の定義や狩猟に関する意見の対立も探求されています。工場畜産に対する理解を深める中で、ヴィーガニズムの推進や自己の倫理観の探求が主題となっています。特に、個人が現実の中で道徳的選択を如何に行うべきか、この問題について議論し、自己理解と他者への配慮がどのように結びつくのかが考察されています。工場畜産の影響を理解した上で、ヴィーガンになるべきかを検討し、反種差別的価値観の重要性が共有されています。

徳倫理の基礎
むらた
前々回で功利主義権利論から、工場畜産の生産物の消費、個人の消費について何が言えるのかっていうのを話してきましたが、今回は徳倫理ですね。
はい、先ほどの2つだと、なかなか欲しい結論がもらえなかったですけど、前回ちらっと礼さんも言ってましたけど、この徳倫理に希望を託して、こちらの話から3つ目、竹下さんにお願いできますでしょうか。
竹下
はい、じゃあ徳倫理からどう考えるかというのを話していきます。まず、徳倫理はどういう理論だったかというと、有徳な振る舞いをするべきですね、っていうような話でした。有徳さっていうのとして、例えば、典型的な勇敢さみたいなのがありますけど、思いやりとかそういった徳も考えられます。
工場畜産の不正さっていうのは、やっぱり工場畜産みたいなものはどう考えてもすごい残酷なシステムなので、それをある種、制度設計者の観点からは、そういった残酷な徳を身につけるべきではなく、動物に対して思いやりを持てば、工場畜産をなくすべきだと考えるでしょうというような形で、工場畜産が間違っているってことを言えました。
じゃあ、この個人の消費の倫理において、徳倫理が何を言えるかっていうのを考えていきます。
これは徳倫理もいろいろな議論の仕方がありますけど、ここで少し、今回、実はボブ・フィッシャーという人の動物倫理の教科書の記述に参考にしながら、実はこの話をずっと進めてますが、ここでも徳倫理の話をフィッシャーに基づきながら少し話していこうと思います。
徳倫理、どう考えるかですけど、ここまで、功利主義とか義務論っていうのは、工場畜産が不正だとして、例えばこの工場畜産を増やす、促進してしまうから道徳的に間違っているんだとか、あるいは工場畜産という制度に加担するから道徳的に間違っているんだ、みたいな議論が功利主義と権利論からは出てきたわけですけど、
これ自体は結構いろいろ論争的なところがありました。
じゃあ徳倫理、どう考えるか、ここでもやはり消費者がどういうところを持つべきかという観点から考えなきゃいけないということになります。
一つは、これも結構、権利論と割と近いような議論ですけど、ある意味そんな工場畜産というような残酷な制度に加担しているっていうふうにどうやって話しているって言えるかは、先ほど難しいというのが分かりましたけど、加担してそうではあるわけで、そんな間違った制度に加担するみたいなことをやっているのは思いやりがないでしょうっていうふうに言えると。
これが徳倫理の最初の単純な議論のやり方です。でもこれ、加担するということを使っちゃっていることからも明らかなように、権利論と同じ問題にはまっているわけですね。なので、この仕方だと徳倫理は権利論と同じような形になってしまうと。
でも、ここで徳倫理の大事なところは、そういった有徳な人になるべきだみたいなのは、もちろん徳倫理の大事な要点なんですけど、もっと徳倫理において大事なところは、私はどういう人間でありたいのか、あるべきなのかっていうのを自分自身を反省しましょうっていうところにあるんですね。
例えば、工場畜産の現実を知ったときには、いちいちそんな功利主義や権利論から考えて、加担するかどうかとか、工場畜産を増やすかどうかとか、そんなことを考えてヴィーガンになる人って実際はあんまりいないと思うんですよね。
私はそう考えてヴィーガンになったたちなんでちょっと特殊なんですけど、でも多くの人はやっぱりその理論とかじゃなくて、現にこの工場畜産の残酷さを見たんだったら、もうある種、例えば動物を食べ物としてはもう見れなくなったとか、動物を食べるっていうこと自体に、もう自分自身としてはもうそれに対してこう、なんていうんですかね、もう嫌悪感を持ってしまうようになったみたいな、
そういったことをよくヴィーガンの人たちから聞いたりしてることが周りでは結構あるんですね。
ここは結構徳倫理の大事なところだということをフィッシャーは指摘しています。
例えばフィッシャーが挙げているのは、グレイス・ボーイっていう人が動物性食品の摂取を避けることにした時の自分の説明、自分についての説明のエッセイを参照しながら徳倫理の議論を評価しようとしています。
例えばですね、このボーイって人は、もうその工場畜産とか、あるいは動物倫理の議論を知ってしまってからは、もう動物をですね、動物の肉とか卵とか置かれているようなお皿を見るたびに悲しくなってきたし、もう生産を知ってしまっているので、それを考えると、とてもじゃないけど、それを食べることに耐えられなくなったんだというふうに言っています。
で、そういったシステムから自分自身を切り離す、その中でその動物を食べるってことを自分の中に立つってことが、ある種自分の誠実さなんだ、それは自分の人生においてとても大事なことなんだっていうような議論をボーイはしています。
こういった考え方のプロセスはですね、功利主義とか権利論とか全然出てこなかったってことに注目してほしいんですね。
これはあくまでも私がどういう人間でありたいのかどうあるべきなのか、この工場畜産の実態を知った上で、自分自身はどうあるべきなのかっていうのを考えているわけです。
で、フィッシャーはこのボーイの思考プロセスについて、思考の過程について、いくつかの点を指摘しています。
まず一つ目は、このボーイ自身はこの工場畜産というものがどのようなものかを理解したわけですね。そして理解したからこそそういった考えになっていると。
で、さらにこの理解をなかったものにはしないようにしているわけですね。
あくまでもこの理解をちゃんと自分のものとして受け止めて、その自分の感情を無視したり否定しようとしたりせず、自己欺瞞にならずにどうやってこの理解に向き合うかっていうのを本気で気にしているわけです。
さらにボーイがこうやって工場畜産の現実を知ったことによって、自分自身の感情が変化した、お皿を見るために悲しくなったみたいなことを言っているわけですけど、同時にそれは自分自身がこの肉とかをどう見るのかっていうのの変化も伴っています。
自己理解と倫理の関係
竹下
例えばですね、いわゆる豚の肉とかを前はまさに肉として食べ物として見ていたわけですけど、もう今となってはそれを見るたびに悲しくなったっていうふうに言っているわけですね。
これは何かといえば、その肉を見ることによってその背景にある工場畜産というそのむごい現実、むごい歴史をそういった歴史を持ったものとして目の前の肉とか卵とかを見るようになっていると。
これは自分が感情変化することって、自分がこの目の前の肉とか目の前の卵をどう見るかが変わっているわけですね。
これは前回前々回とかでもちょっと触れましたけど、もう工場畜産とか動物類の議論を知った後には動物をもう食べ物としては見れなくなったっていうふうに思う人が一定数います。
まさにボーイもそういうことが起こっているわけです。
さらにボーイは工場畜産という現実を写した写真とか画像を携帯に保存しているらしいんですね。
それを見てちゃんと自分がこの現実から逃れないようにしています。
つまりこれはそのマジョリティ的な工場畜産を隠そうとするそういった視点に戻らずに自分がちゃんとこの現実に向き合うという手段をちゃんと講じている。
そしてこういったいろんな自分自身の視点の変化、感情の変化、現実を知ってしまったというこの理解を全部自分のものとしてちゃんと引き受けようとしようとしているっていうのがボーイがやっていることなわけです。
まさにもう目の前のものを肉を食べ物としてはもう見れなくなってしまっているってことをちゃんと自分のものとして引き受けていると。
もうこの肉っていうのは単なる食べ物ではもはやない。それは工場畜産の現実を秘めている、そこに示唆しているようなものとして見るようになっているわけです。
もしもうボーイがそれを食べてしまったんだとしたら、ボーイのこの自己理解、いろんなものと統合されている自己理解に明らかに不整合をきたすように思うわけですね。
それは工場畜産という現実の歴史を持ったものを食べることによって、もう工場畜産を認めたに等しいんだっていうふうな自分についての物語をボーイ自身は持つようになってしまっているように思われます。
これを先ほどの功利主義とか権利論とは明らかに違う考え方のプロセスだというのがよくわかると思うんですね。
先ほどの功利主義権利論はどちらも基本的には工場畜産を促進するかどうかみたいな話、実際に工場畜産とつながっているかどうか、そして私の行為によって工場畜産というのが促進されるかどうかとかそういったことに目を向けていたわけですけど、もはやそうではないわけですね。
この肉を、今目の前にある肉を、例えばもしかしたら捨てようが食べようが、結局工場畜産を促進することはおそらくないはずなんですけど、でもこれを食べることによって自分自身がどういう人間であるのかというのがガラッと変わってしまうように、もうそういうふうな感情、視点の持ち方になっているわけですね。
だからこそ目の前にある肉をもうもはや食べるものではない、食べるべきではないものとしてしか防衛は見れなくなっていると。そしてこここそに徳倫理、つまり徳、これを徳というかどうかはまた全く違う論点ですけど、どういう人間であるべきなのか、どういう人間でありたいのかというところが反映されているというところに注目してほしいんですね。
この時にはまさにそういった形で自分自身が適切な自己理解を持って道徳的によく振る舞うと、道徳的に良い、あるいはそもそもどういう人間であるべきかというのを考えたときに、そういった自己理解を持ちながら肉を食べるという行為をすることは、そういった人間であるべきという、そのあるべき人間像からもはや離れているんだというふうに徳倫理的な説明をすることができるように思われます。
なので徳倫理の観点から言うと、そういった自己理解を持っている人においては、そういった肉を食べるみたいなことをすることは、ある種自分の誠実さ、そういった徳に対して反していることになる。
自分を自分としてちゃんと構成できなくなってしまう可能性がある。もう無理やり自己欺瞞に陥ってしまう。そういった悪徳さを示すことになってしまうわけなんで、そういったことを避けるべきだ。つまり肉を食べるべきじゃないということが徳倫理から言えるんじゃないかというのが、徳倫理的な議論としてできるところかなと思います。
こういう形で議論ができるかなと思っています。
むらた
なるほど。ヴィーガンを志している自分の理解とすごい重なるなと思いました。
今回のテーマは、消費がどう言われるのか、ヴィーガンになるべきか、動物生食品の消費を控えるべきかっていう論点ですけど、
この徳倫理の場合は、その人のあるべき人間像に矛盾する場合は控えた方がいいっていうことになるんですかね。その人間像自体、次第。
竹下
そうですそうです。まさにそこがこの徳倫理の請求力の無さでもあるわけですけど、先ほどの功利主義とか権利論っていうのは、まだヴィーガンじゃない人、まだ工場畜産の実態を知って間もないとか、あるいはそもそも知らない人に対してもこうすべきだっていうことを言っていたわけですね。
なんですけれども、徳倫理の場合には工場畜産の実態を知りましたと、じゃああなたはどうするんですか。その時にあなたの自己理解、自己疑問とかどうなっているんですかっていうのを問うているわけですね。
なので、これ場合によっては別にそこで肉のままとしか見れないよって。もう自分は別に工場畜産の実態を知ったところで何か感情の変化は起きないし、視点の変化も起きない。もう肉は肉だよ、食べ物だよっていうふうに思っている人の場合は、それはそれで誠実さを反映しているわけですね。
別に自己疑問にも陥っていないように思うわけです。それはそれで残酷な人間でしょっていうことはできる可能性はありますけど、いずれにせよヴィーガンにすでになっている人がそのヴィーガンを続けるべきかどうかという時には徳倫理は強くそうだと言えると思うんですね。
ヴィーガンになるべきかの問い
竹下
でも、まだヴィーガンじゃない人がこれからヴィーガンになるべきかどうかって言った時に、あなたの自己理解をちょっと問うてみてください。自分自身はどうありたいですか。この工場畜産の現実を目の当たりにした自分はどう向き合うんですか。この肉に、この卵に、この工場畜産の由来の製品に対してどう向き合うつもりなんですか、っていうのを問うわけですけど、その時に何の問題もないかなっていうふうに思う人は徳倫理からなるべくヴィーガンになるべきだみたいなことを
強くは少なくとも言えないのではないか、っていうのはちょっとこう徳倫理の弱いところではあるかなとは思います。
むらた
なるほど。この徳倫理が考えるあるべき人間、あるべき有得な人っていうのは、これだっていうのは別に確立されてないということなんですかね。
竹下
もちろん先ほど私がちょっと言いましたけど、そもそもそんなふうに肉の現実を目の当たりにして、なお肉を平然と食べるやつは全然動物に対する思いやりがないとか、残酷だみたいなことはもちろん言えるし、だからこそそうじゃない、そういう悪徳さを持つべきじゃないよってことは多分言えると思うんですね。
さらにそういった持つべきじゃない徳を持たないようになれば、おそらくもう肉を肉として見れなくなってしまうような性格になっているってこととかは推測できるとは思うんですね。
なのでそういう意味では、まず一旦残酷さの徳とかそういった思いやりの無さみたいなものを克服すべきだ、そういった性格を修正していくべきだって言った後に、その後でもう一回自分自身を吟味してください、自己を反省、省みてくださいっていうふうに言って、その上でその人の誠実さなりなんなりを問うてみると。
で、その時にはおそらくそこではヴィーガンになるべきだってことが言えるようになっているって意味では、ちょっと何ステップか踏まなきゃいけないですけど、そういうステップで肉を食べるべきじゃないっていう、あるいはヴィーガンになるべきだっていうことが言える可能性はあるかなと思います。
むらた
なるほど、何ステップか踏めば、何とかその人の誠実性に訴えることができるかもしれないという、お二人どうでしょうか。
コットン
今、竹下さんがおっしゃったことですけど、まだそういうふうに肉を見れていない人にどう対抗できるのかっていうのが、やっぱり気になるところですよね。
じゃあ、そういうふうに肉を見れていない人に対して、にとっても、もしその人が徳倫理を受け入れるのであれば、その人は有徳な人物を振る舞うように振る舞うべきだっていうことは思うわけですよね。
じゃあ、だから問題は有徳な人物であり、畜産の現実を知った人が、確かに肉を食べないように振る舞う。食べないのかどうかっていうところが気になるところですよね。
で、目の前で動物がいるわけでもないし、その人自身が動物を殺したわけでもないのに、スーパーに並んでいる肉を購入すべきではない、有徳な人物だったら購入しないっていうことが何で言えるのかっていうところが気になるところですよね。
竹下
まさにその有徳な人物だったらどう考えるのかっていうところに、どうしても曖昧さが残るのは徳倫理のしょうがないところというか、徳倫理の特徴ではあると思うんですね。
加えて、功利主義とか権利論っていうのは、基本的には何をすべきかっていう行為、一つ一つのアクションに目を向けていたわけですけど、徳倫理は何度も言うように、私、どういう人間であるべきかっていう、もっと一般的な話をしているんですね。
そこから、じゃあそういう人だったらこういう行為をするでしょっていうふうに推論するわけですけど、徳倫理の中心は本当はこっち、人格の方にあるわけですね。人格なり主体なり行為者なり、どういうふうにあるべきかっていうのを問うているっていうところに焦点を当てるべきだと思っていて。
で、そうなった時には、本当にそのじゃあ工場畜産の現実を知った人が残酷かどうか、それの上で肉を食べるような人間であるべきかどうかっていうのを改めて問わなきゃいけないんだと。
で、その時には一つの事例としては、そのボーイっていう人を出しましたけど、この人とかは、そういう自己理解の変遷をたどっていった時には、もう肉を食べれない、肉を食べ物としては見れないって言っていて、そういうふうに自分の誠実さをちゃんと維持するためにはそうしなきゃいけないんだっていうことが言えるんじゃないかっていう感じですかね。
だから本当に人によっては、そもそも別に、人とか文化とかによっては、もしかしたら動物を食べるっていうこと自体、あるいは工場畜産の実態を知った上で、何かそのそれでも肉を食べ続けることができるような人間というのが残酷ではない可能性は大いにあるわけですね。
現に我々の社会の99%以上の人はおそらくヴィーガンではないはずで、その人たち全員が工場畜産の実態を知ってないわけではないと思うんですね。知ってる人も一定程度いると思うんですよ。でもそれでもまだ変わってない人がそれなりの数いるように思うわけですね。
じゃあそういった人たちがみんなみんな残酷なのかというと、おそらくそうではない可能性があるわけですね。それよりはその人自身の自己理解の中で工場畜産というような現実を考慮した上で、なお肉を食べ物として認識しているような人間であるのかどうかっていうのを自分自身で問うていくべきでしょうと。
狩猟と倫理の関係
竹下
自分自身はどうありたいのかっていうのをその人その人自身で考えていかなきゃいけないんじゃないんですか。その上でその誠実さって言ったところとか、誠実さは今私は実はインテグリティという単語に対応するものとして使っているんですけど、そういったものを考えたときにどうなるのかっていうのは、得倫理はどうしても幅を持っているような立場だと私は思っているので、そこは幅ができてくるんじゃないかなと思っています。
コットン
まあでも自分を振り返ってみると、自分は完全にヴィーガンではなくて、特に家の中だとパートナーとの関係もあって肉を食べちゃうんですけど、パートナーが長期で家を離れている間は自分は割とヴィーガン料理チャレンジして肉を食べない生活に入るんですけど、その期間。
その時は結構気が楽になる感じがあるんですよね、正直。逆にそれとの対比で普段は、やっぱり自分に対して嘘をついているというか、感じはありまして。
なんていうか、その誠実さっていうのは確かに分かる部分ではあります。
竹下
自分、残酷な人間だとは思っていないんですけど
自分の実感としては確かに、そこはそのせいで自分のインテグリティに欠けた部分があるなっていうのは、さっきは反論みたいなのを出しましたけど、結構なんとなく分かります。
あともう一点、これまでの議論の流れとは少しずれるかもしれないんですけど、
自分自身は動物を殺したりとか、ひどい状況で飼育はしてないけど、それを他人に任せている時点で、何かちょっと有特な人物をすべきことではないっていう感じがするんですよね。
その観点から言えることってないですか、竹下さん。
むらた
一個、独立倫理から、動物用語的には面白くないけど、狩猟をどう考えるかっていう議論があるんですね。
竹下
最近、私は時々ヴィーガンの話をする度に、狩猟はどうなんだとか、野生動物を狩ることはどうなんだみたいな時に、そういう人たちが何を言うかっていうと、自分が動物を狩る時には自分も死のリスクと引き受けて、迎え合ってやってるんだと。
それは、いろいろ議論の仕方があると思いますけど、この独立倫理が示す一つの方針、道筋だとは思うんですね。
工場畜産とか、他の動物福祉的な畜産であれ、他人に任せっきり、つまり命を扱うということに関して、他人に任せっきりで、自分は死のリスクを一切引き受けずに都市生活を過ごすことができる。
でも、それは全然、ある種有徳さに欠けた行為なんだと。
そうじゃなくて、自分自身もちゃんと死のリスクを引き受けた上で、動物と面と迎え合って殺しに行くか殺されるかみたいな、そういった形で食べるのであれば、それはある種一種の徳の発揮をしているんじゃないかみたいな議論を、わりと狩猟に肯定的な人たちは議論するし、
徳倫理の内部でも、そういうハンティング、狩猟に関しては、少し肯定的に書いているような論文もあれば、それを批判している徳倫理の議論もあればっていう形で、いくつかそういった議論はありますね。
でも、有徳な人物ってあれば、目の前に動物と対峙した時に、やっぱり残酷だから、残酷だし、全然命のやり取りになってなくて、銃とか使って殺すわけじゃないですか。
本当に素手で戦うっていうタイプもあるかもしれないですけども、基本的には銃でみんな自衛料理とかっていうのを狩ってるわけですよね。
全然対等な関係ではないし、一緒にやり取りって感じじゃないし、しかも一緒にやり取りだったとしては別に殺さなくてもいいわけで、やっぱり有徳な人物だったら、まず他人に任せれば自分で動物と対峙すべきだし、
で、動物と対峙したら有徳な人物だったら、動物殺さないじゃないかっていうところも出てくるんじゃないかと思ったりするんですけど、どう思います。
そこは結構有徳さとして何を考えるかだと思うんですよね。そういうハンティングとかっていうのはある種自然との調和みたいなところとかも、ある種徳の一つとして考えている可能性とかもあると思うんですよね。
それはまさにどういうのを徳と考えるのか、まさにこれも一個だからどういう人間でありたいかってことだと思うんですよ。
現にその工場畜産とか無関係に、そもそもこの資本主義に毒されているこのサプラインチェーンからに由来する食品とかをそもそも購入すべきじゃないんだ。
どんなものであれ、ヴィーガン認証もらっていいかなんだろうが、それはダメなんだ。
だけど自然の中で生きていて、お互い狩る狩られるみたいな関係である方が、むしろそういう人間であるべきだ、ありたいんだっていうふうに考えている人であれば、その人の自己吟味の中では、そういった生活がおそらく有徳な行為として認識される可能性はあるし、それこそ誠実さ、インテグリティに反してないってことになる可能性はあると思います。
コットン
今の話し方聞いていると、有徳な人物っていうのはそれぞれの心の中にあるって感じなんですかね。
竹下
これはいろいろ徳倫理の中でも議論の仕方はありますけど、さすがにそこまで自分それぞれにありますみたいな話ではないですね。
どっちかっていうと、例えばアリストテレス的な考えだったら、人格として反映していくフラワーレッシングって言ったりするんですけど、人格として完成していくっていう時にあたって、最終的に到達するのがフローネシス…なんて言うんですかね、知恵みたいなところがあるんですけど、そこにこそがまず到達すべき一つの有徳さみたいなものがあって、
そこからいろいろ分離して勇敢さとか正義とか思いやりとか出てくるみたいなそういうモデルを考えている人もいれば、あるいはもう得っていうのは多元的でいくつも複数もあって、それぞれはそれぞれの何か目的を持った得なんだと。
だからある意味でこの得を採用するけど別の得は採用しないみたいなあり方が許されるような考えの時もあると思うんですね。
その時には例えば、まさに例えば個人でそれぞれ別々相対っていう話ではなくて、得は多元的で、多元的な得の中のどういうものを選ぶかというか、どういう得を自分の中で採用していくかっていう話になってくるかなと思います。
コットン
完全に主観的なわけでもないけれども、完全に1個、1つの、完全に客観的に1つの有徳な人物像が決まってるわけでもないかもしれない
タイプの有徳な人物像っていうのがあり得るってことですよね。
竹下
あり得ると思います。
コットン
なるほどね。実感としてはどうなんですか、他の2人。
むらた
礼さんいかがですか。
仲間 礼
今話してたその狩猟の点についてちょっと僕の経験というか補足すると、
竹下さんのおっしゃってたように、僕がその農学系のところにいて、狩り部があったりとか狩猟してる方にインタビューしたこととかもあるんですけど、
やっぱりそこっていうのは、僕たちの考えとか、得とか分析した時にたどり着くような有徳さとか多分違って、
本当に真摯に心から自然とかの、自然との調和とか、そういう向き合ってる、対峙してる真剣勝負みたいなのを、
疑問ではなく本当に正しいやり方だとして考えてる人って多いなと思ってて。
こういうのは多分動物倫理やってる人とか僕もちょっと批判的な目では見てしまうんですけど、
倫理観の一致と矛盾
仲間 礼
現実問題としては自分の中では矛盾なくそれが正しいやり方というか、自分の自己理解と一致してる、有徳さと一致してるって人は多いんじゃないかなって思います。
っていうのと、この全体的なお話聞いて、徳倫理ってその曖昧な部分があるから、
理論の厳密さとかはちょっとないんですけど、その分僕たちの実際の生活とかを説明するのにはやっぱり向いてるなと聞いてた感じで、
さっきむらたさんがおっしゃってたように、余ってた肉をどうするか、
食べても本当は問題ないかもしれないけどみたいな矛盾も多分徳倫理で一応説明できると思いますし、
その行為が実際にどうなるかを置いておいて、自分の姿勢との一貫性、
自分はこういう考えをしてるからそういう一貫性を保つんだみたいなのは、やっぱりうまく説明できるよなと聞いてて感じました。
っていう感想です。
むらた
そうですね。
やっぱり自分が、
工場畜産は良くない、これを支持する姿勢を見せるのも、
自分のこの一貫性に反するっていう、そうなればいいんですけど、
でも多元的に得が捉えられる分、
私たちの視点からは導かれて欲しくない秘訣も、
出てきてしまうっていうのは難しいところだなと思いましたね。
でも、礼さんが言っていたように、
自分のこの姿勢を説明しやすい、一番何というか、
自分の考えとしてフィットするっていうのも確かにそうだなってなりましたね。
そんなところでしょうか。大丈夫ですか?コットンさん。
コットン
ヴィーガニズムだけじゃなくて、そのほかの活動すべきっていう主張は特例が出てくるんですかね。
そこは最後聞いてみたいです。
竹下
ありがとうございます。
たぶん、例えばさっきの、
肉を食べ物としては見れない、卵を食べ物としては見れないっていう風に、
自己理解に到達したような人たちって、
単に消費を避けるだけじゃないと思うんですね。
きっと、おそらくその自己理解と自分の誠実さ、一貫性を保とうとするんだったら、
皆さん分かると思いますけど、世の中歩いてたら、
そこら中に工場畜産や動物搾取的な広告などがバンバン置いてあるわけですよね。
その中で生き続けるっていうことで、
時に単に自分が何か消費行動をやめるだけで、
おそらく、自己疑問的にもなる可能性は何かありそうだなと思うんですね。
やっぱりそこには追加して、
じゃあどうやってこの現実を変えていこうかっていう風な考えになっていく人が、
おそらくそれなりの数いると思うんですよ。
ヴィーガンになっている人たちって、
まさにそういうモチベーションでやっている人も結構いると思うんですよね。
だから、そう考えるんだったら、やっぱりその時には、
何か他の、つまり単に肉を食べない、動物性を買わないっていうことだけではなくて、
他のいろんな行為にもつながっていくだろうし、
そういう人間でありたい、そういう人間であるべきだっていう風に、
考える方向性になっていくんだろうと思うんですね。
ただここでももちろん一定程度の幅があるとは思っていて、
例えばその他人を説得するみたいな時には、
場合によっては、
他人は他人だからっていう風に切り分けるべきだっていう風に思っている人もいるかもしれない。
それはそれで一つの自己理解の在り方ですよね。
そういう道徳感を持っているっていうのは。
他方で、やっぱりこの工場畜産っていう現実を変えるためには、
他人も変わっていくべきだ。
そうじゃないと自分でいられなくなるっていう風に思っている。
なったら、それはそれでまた他人を説得すべきだっていうことが出てくるかもしれない。
これはその徳のいろんな在り方、多様な在り方を認める中で、
その中でもでも何でもありということではなくて、
適切な在り方の制約は一定程度はあるけども、
幅はやっぱりどうしてもそこにはあるんじゃないかと。
そうすると人によっては、
なすべき行為、どういう人間であるべきかみたいなことも多少は変わってくる可能性はあるかなと思います。
個人の倫理的選択
竹下
社会活動への参加、例えばその街頭でも街頭活動、
あるいは動物福祉に関するNPOとかNGOで働くみたいな、
その社会活動に参加するってことは、
なんか有特な人物の肖像として含まれてるんですかね、
その中にどうなんだろう。
まあ、どうなんでしょうね。
結構私の直感はそうですけど、
そうですね、難しいですよね、そういうところもね。
やっぱ個人の倫理の問題だっていう風に考えてる人もいなくはないと思うんですよね。
そうなんですね。
例えば自分はヴィーガンするけど、
他人には、例えばその押し付けるべきじゃないみたいなものを内面化してるような人の場合だったら、
自分はするけど他人にはわざわざ言わないとか、
多分そういうことになるときもあると思うし、
実際のところ私たちだって、
そんな友達とかに対して強く言えるわけではないと思うんですよね。
それはある程度、
他人の選択の自立性も我々は尊重すべきだと思っている節もあると思うし、
自分にとって友人っていう存在が人間社会だと、
他人と一緒に生きていくことがどうしても要求されるわけなんで、
その中で自分がいろんな対立するような事実をどう自分の中で引き受けていくかっていったときに出てくる行為として、
あんまり他人に口出しをしないっていうのが、
有徳な在り方が一つとして出てくるっていうのは大いにあるんじゃないかなと思います。
コットン
プライベートな人間関係の中で、
他人の意思みたいなものを尊重して適切に振る舞うべきだということから、
他人にこたやかく言わないっていうのが出てくるかもしれないですけど、
例えば政府に働きかけたりとか、政治家に要望を出したりとか、
あるいはその企業にキャンペーンを張ったり、
あるいは企業の中でアニマル・エルフェアの策を始めたり、進めたりとか、
そういう行動に結びつく要素っていうのは、
特立の中でないのかなっていうところが気になる。
どうなんでしょう。
なんていうか、すごい自分の友達で、
特に全然社会関係に全然関心ないけど、
でも有徳っぽい人っていっぱいいる。
すごい性格がいいやつっていっぱいいるわけです。
どこに倫理的には、そういう人はそれでいいのか、
それともそうじゃないのかっていうところが気になる。
竹下
ここでもう一回ちゃんと戻ってほしいんですけど、
今その人自身の在り方として、
その人自身が自分をどう問いかけるか、
自己吟味をどうするかっていう問題として、
やっぱり考えていったほうがいいと思うんですよね。
そうするとやっぱり、
その有徳な人物像っていうのは、
個人個人の問題っていうことになるという気がするんですけど。
その時に一定程度の制約がかかるっていうのは、
私たちは別に何でもありの社会で生きているわけではないし、
例えば残酷さっていう時に、
人に対して親切にするのが残酷だみたいなのって、
どう考えても言葉の意味としてはおかしいわけじゃないですか。
だからそういう意味である程度の制約がかかっている。
何でもありなわけではないっていうのは、
注意しなきゃいけないかなと思います。
でもしょうがないと思います。
これは徳倫理の曖昧さのいいとこでもあり、
悪いとこでもあるというか、はっきりしないけど、
でもはっきりしないことこそが、
それこそ道徳って複雑な問題っていう話にも結びつきますけど、
複雑なものをある程度複雑なままで説明しているところもあると思うんですね。
加えて個々の行為ではなくて、個別の行為ではなくて、
どういう人間でありたいのかっていう存在そのものを問うているところも、
功利主義とか権利論とかとは全然違った特徴を持っている倫理観だと思うんですよね。
もちろん強く言おうと思えば、
言えるようなロジックを組み立てることもできるかもしれないですけど、
それをしちゃうと徳倫理の良さも失われる感じはちょっとありますよね。
悔しいな。
むらた
コットンさんは頭を抱えてしまって。
コットン
いや、そうですね。
これはだから結局誰に対して何が言えたり言えるんだろうっていうところも思うんですけど、
竹下
もう1つまた言うことがあります。
例えばそれはあれですよ、だから初回に工場畜産の実態を話しました。
コットン
はい。
竹下
で、その上であなたはどういう人間になりたいですかっていう風に問うべきなんじゃないですかね。
コットン
もし徳倫理に共感を覚えて、
これから何を自分がすべきかと考えた場合には有徳な人物を思い浮かべて、
何をするべきだってあなたが思うと。
そしてじゃあこの工場畜産の実態を知りました。
じゃああなたはどう振る舞いたいですかみたいな感じですかね。
竹下
必ずしもその有徳な人ってどういう人だろうって考えなくてもいいと思うんですね。
その工場畜産の実態を知った上で、
もう知ってしまった私はこの現実を自分の中にどう受け入れるべきなのか、
自己疑問に陥らずにどうこの現実を受け止めた上でこれから生きていくのかっていうのを
ぜひとも考えてほしいという風な指針になるんじゃないかと思います。
でもこれがじゃあだからその功利主義と権利論だったらそうはならないわけですよね。
功利主義だったらじゃああなたの行為が工場畜産を促進するかどうかを考えましょうってなるし、
権利論だったらそれが加担するかどうかみたいなものを考えましょうとか
加担するとは何だよみたいなことをああだこうだと細かく考えましょうみたいな話になっていくわけですけど、
でもそれってもうなんか行為の立て方がおかしな感じになっているようにもちょっと思うわけですよね。
だって工場畜産こんなにひどいのに
なんで消費が悪くないみたいなことになってしまうような議論してるんだよって。
そうじゃなくてこの工場畜産の実態を知った上で
それでもなおあなたは目の前のものを食べ物と認識しているような人間なんですか。
そういうような人間でいいんですかっていうようなところを通っていくってことになると思うんですよね。
そう言われるとすごい確かにって感じしますね。
コットン
面白いですね。
竹下
問いが全然変わってますよね。
だから徳倫理の良さというのはこういうとこにある私は思うし、
それはその多くのヴィーガンの自己理解にもかなったものだと思うんですよね。
むらた
そうですね。
なかなか強い要求は出せないっていうのでむずむずするところではありましたけど、
このすでにヴィーガンをやろうとしてる身としては一番ポジティブになれる理論だなというか、
迷わないで済むというか、
もっとこうするべきだ、もっと人に伝えていきたいとか、
自分の一貫性を持ちたいみたいな自分の中の有徳な人物像に向かって後押ししてくれるというか、
そうですね、ポジティブになれて、
自分の行動の生き方の柱にするにはしやすいなっていう、
そういう意味でいいなって思いました。
はい、こんな感じで徳倫理についても以上ということでいいでしょうかね。
竹下
はい、大丈夫です。
むらた
ありがとうございました、ここまで。
計どんくらいだろう、2時間、3時間弱ぐらいですかね。
はい、各理論からこの動物性食品、商品について何が言えるのかっていうのを議論して、議論を紹介していただきました。
はい、結構難しい点も出てきましたけど、
功利主義だったら例えばもっと効果的な行動があるんじゃないかとか、
権利論見てみたら、あれ加担ってどういうことなんだっけとか、
ヴィーガンと工場畜産の考察
むらた
徳倫理もそうですね、一貫性がどうとか自己疑問がどうとか、
いろんな議論の材料ももらえたなと思います。
すごく学びになりました。
はい、というわけで、そしてあれですね、前回も確認しましたけど、
こうやって商品についてスパッと言えないけれども、
種差別だったり工場畜産が悪いですよねっていうのは変わらないっていうのを、
皆さん念頭に置いていただけたらなというところですかね。
はい、と思います。
ぜひ、反種差別的価値観を皆さんと共有したいと思います。
というところで、計5回にわたってヴィーガンになるべきなのかについて、
お話ししてきました。
竹下さん、コットンさん、礼さん、ありがとうございました。
竹下
ありがとうございました。
むらた
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